ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

草々コミュの「眠りの中で全てが。」(小説)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加



 もしもそこに明確な徴があるのだとすればきっと夢の終わりなのだろう。
 そうだ、我々は常に何かを終えることでしか何かを始めることが出来ない。




 一発の銃声から全てが始まったわけでも無ければ、一発の銃声によって全てが終わるわけでもない。だからこそライヘンフェルスの戦いは極めて無惨な結果に終わってしまったと言うのが、恐らく敗軍のノシェ・スヴァルチカにせよ勝軍のコスタリサロにしても変わらぬ認識だろう。野戦病院の眼下に見渡す惨状は焦げた土や金属そして人肉の匂いを混じらせながら、今もなお戦闘は終わっていないと無言でしかし声高に主張している。それは恐らく間違っていないのだろう。誰も何の保証も与えることは出来ない。これが実は一時の間隙に過ぎなくて再びあの苛烈な衝迫が再開されないとは誰も言うことが出来ないのだ。たとえ今この空間を構成する全ての人物たちがもはや立ち上がることにすら疲れてしまっていたのだとしても。

 実際それだからこそこの病院はまるで今も銃撃が鳴り響いていてそれを掻き消すために声を上げていると言われても反論できないような騒がしさの只中にいるのに違いない。傷病兵は無数に軒を連ねており、十分な包帯が備蓄されていないことはいちいちの装着している人間の包帯のほとんどが赤みを帯びていることからも伺える。もっとも欠乏しているのは医療道具ばかりではなく施術を行う医師看護人はもちろんのこと五体満足でいるものも同様に多くはなかった。足を失ったものは一人では歩けずしかし彼らをわざわざ護送するには病院は人材に乏しすぎた。患者にとってこの環境が前線と言う地獄に比べればまだマシだと言うことが吝かでなかったとしても、彼ら医療関係者にとってはそこがまさしく前線だった。彼らは兵士の絶望を後追いで体験していたのだ。間近に迫った死の匂いにどうやっても抗うことが出来ずさしずめ出来たとしてもそれが一時凌ぎのことに過ぎないと言う自覚が彼らにはあった。

 今、目の前の薄汚れた清潔からは程遠いシーツを敷いたベッドの上には一人の男が横たわっているが、彼のむき出しになった上半身には都合四つの銃創があり、それはそれぞれ右肩を擦過、左肩僧房筋を貫通、右脇腹横隔膜の直下を貫通、そして腹部中央小腸内部に残弾しており、放置は感染症の勃発から間断なく即死する可能性を十分に秘めており、摘出は極めて急を要していた。麻酔が圧倒的に枯渇したそのオペレーションは医者の口に含んだウィスキーの霧吹きで無理に代替せねばならぬくらいで、もとよりその程度で収まる痛みでもなかったものの、無いよりマシであることになれていた兵士は戦線に比べればとその施術中の激痛に歯を食いしばって耐えることを選んだ。いい演技をしているなと医者が笑いもせずに口走ると、兵士は親指を立てて応じ、看護婦は、でもトニー賞は無理ね、だって痛がりの演技しか無いのだもの、と代わりに笑った。だがもしもそれが演技だったとすればどんな演劇賞でもきっと総なめにすることが出来ただろう。もしそれが仮に経験の浅い看護婦の目の前の出来事であったとすれば彼女には直視することがとても不可能な現実がそこには紛れも無く展開されていたのだ。だがしかしその事実さえも病棟においては既にありふれたものでしかなく、この屈強な男が我慢できずに漏らしてしまった悲鳴が止んだ後、施術が行われていない傷病者の入れ替えの僅かな時間の沈黙ですら、そっともし耳を済ますことが可能ならば、そこにある静寂のようなものが全くの聞き間違いであり、それは木造建築の隅々にまで染み渡るようにして反響する一つの怨嗟としての重低音が支配する領域であることがきっと認識できただろう。これが何か別のコントラバスのような楽器によって起こされている代物であり、即ち今まさにある種の演劇が始まろうとしているその序奏であったとしたならばどれほど救いがあったことか。もしもこれが演劇ならば、ここには極上の娯楽として人びとの奇異の目を焚きつける悲惨なファッションがそこかしこに溢れていて、観客たちの貪欲な要望に全て答えて魅せたのに違いない。だが、誰がこの腐った壇上に好んで上がりたいと思うのか。

 ステージの上がある種の戦場であるのだとすればそこで踊る演技者もまた一人の戦士に他なるまい。そこで彼女に要求されるのは全てのことを予定調和に収めることだ。どのような人物の悲哀も苦轟も歓喜も全ては最初から予定されていたものなのだ。その冷徹な認識があってこそこの演劇は成立するし、だからこそこの百戦錬磨の看護婦が相貌に称える無慈悲な優しさが一つの美意識を体現しているのも納得が行くことだろう。無論のこと彼女のその能面はそれ自体がある葛藤による産物であったが、医師にとって異なっていたのは看護婦の行いがある一つのルーティン・ワークに身を浸すことによってエポケーにあるのに対してこちらは不断の評価を行い続けねばならぬと言う一点にあったのだ。看護婦もまたもちろんのことその場に応じた適宜の判断により行為をすることはあるだろうが、医師における行為のデザイニングとその意味合いが本質的にそれと異なっているのは、看護婦がいかにしてある任ぜられたタスクに対して正確に答えるかと言う仕事を行うのに対し、医師には所与の命令など何一つ無いと言うことであった。彼は紛れも無く自分が兵士の一人であることをこの瞬間にも痛感する。目の前の人間を生かせと言うのは目の前の人間を殺せと言うのと同等程度には暴力的である、と言うのもその言明は、彼らにとって何をか言っているのかと言われれば何をも言っていないからに他ならない。生きると言うことは日々の行動の総体であるが、生かすと言うことは、そして殺すと言うことは、全く我々の現実から遊離した一個の概念でしかなかった。看護婦はメスを医師に手渡すためにメスを医師に手渡すと言うこと以外のことをする必要には駆られないが、医師は目の前の患者を救うために目の前の患者を救うと言うこと以外のことを判断し行為しなければならないのだ。医師はここが戦場であることを痛感する。戦場では人間はある一個の概念のためにある直接的な判断を自分で任ずることによってそこにおける行為の全てを自分と言う一個の存在の責任に帰さねばならなくなるのだ。だから失敗する。

 医者は一人の殺人者であると言い換えることが出来るかもしれないとふと考えて自嘲するのは、彼の手によるものではないあるmortalな事物がその手に任されるとき、彼はもはやある生活を普通に送った瞬間、即ち、道端に立って線路を走る路面電車を黙って眺めて見送るような、あるいは、蒲公英の綿毛が空を舞いその支髄が剥き出しになるまでを見つめ続けるような場面がこの瞬間においてはそれ自体が罪科であると言う倒錯が生じるゆえのことである。捨て猫や捨て子を拾わぬで覚える罪悪感が人間にとって内在的な一つの勘違いに過ぎないかもしれないと言えるのは、責任が誰に帰されるかについてそれとは無関係にしかし確固として記述したある法が存在しているからである。にも関らず医者は苦悩せざるを得ないのが目の前の現実の不条理の内実のことである。彼は必ずしもそのような振る舞いをする必要はない。彼が助けなかったからと言ってそれが兵士の生死の主たる理由になるのかならぬのかと言えば、傍証的理由にはなれど本質的理由にはならぬことを彼は雄弁に論ずることさえ許されている。治すべき傷病がそもそも存在しなければよかったのだし、その傷病を存在せしめた戦争が無ければよかったのだし、その戦争に狩り出されることになる人間が存在しなければよかったのであって、最終的に傷病は生まれてきてしまった人間にとって言わば仕方のない、必要条件的な代物であると言うことに彼は気づく。全て人間は死ぬ運命にあるのだから、仮にここで死ななかったとしてもいずれは死ぬのであり大したことではない。そうであれば人はなぜ生まれてくるのであろうかと思うと胸が痛むのは、彼もやはり信じていたのだろうからに違いない。それでもなおこのようなところでこのように死んでいく為に生まれたわけではきっと無いのに違いないと。だから彼は糸を紡いで運命と切り結ぶ。縫合終了と彼は言った。医師と看護婦は息を吐く。兵士も同様に息を吐く。

 だが人間が一人で立ち向かうには大きすぎる壁がそこにあったことを否定することが出来るような道具を彼は持っていなかったし、そのことをもし誰からか指摘されたとしたら唇を噛んで俯くしかなかっただろう。それは彼ひとりの問題に収斂するのみならず彼を通じたいわば医療を行う全ての担い手たちがそれぞれ負わねばならぬ一つのカルマであったのだ。だから看護婦たちはみな表情を隠して目の前に積み重なっていく死と遺体と言う現実をやり過ごそうと試みるのだし、医師もまた我々が取り扱う範囲からそれらは既に逸脱していると言うことを背中で声高に語っている。それが不貞な所業であるといったい世界の誰に宣言できるであろうか、さもなければ彼によって救われたそしてこれから救われるかもしれない生命たちはどのような表情をしてこの現実に向き合えばいいのか。しかしそれはどうやっても逃げられる代物ではないと、疲労困憊の果てに僅かな休息を宛がわれた看護婦が病棟からほど近くにある既に崩壊した街のある井戸にて水を汲み上げ手と顔と髪を洗おうと試みたときに否定できるはずもない腐った肉と血の香りによって今この瞬間に再び教え諭されることとなる。もちろん彼女は屈強な看護婦なのであるのだからそのようなあるいは一時の気の迷いとも思われかねぬ感傷におめおめと心を折られるなどと言うことはないにせよ、しかし試みに洗剤がないことを恨みつつ、手や腕、そして髪の毛をわしわしと擦りつけ磨り潰すように洗ったことは事実である。その程度で洗い流せるカルマならば最初から背負ってなどいないことを一通り洗い終えた井戸端で噛み締めて振り返ると背後にはそのような言い訳に返事をくれる何者も存在していないと彼女は気づく。館は朽ち果て石垣は崩れ、石くれと貸した門とその周辺にはまるで何事もなかったかのような綺麗で平らな地面が広がっているが、時折吹く風に巻き起こされた砂を被って、幾星霜をも経過した、さながら歴史の証人であることを誇示して怯まない一個の彫像がまるで今、突然あらわれたかのようにそこに鎮座していた。彼女はその彫像がなぜそこにあるのか意味を全く解することのないまま視線をそちらへ集中させ、そして今この瞬間の状況が一種の倒錯であることを、それを知りつつもなお抜け出せないと言う自身の体験において把握する。彫像はトルソーだった。それは明らかに本当は完全だったはずの兵士の像でありながら、しかし、もしかしたら振り上げていたのかもしれない右腕と、戦陣へ向けて一心に向けていたかもしれない視線を、顔ごといっぺんに失っていた。残されているものは腰に折り曲げて添えられた左手とぴったりと踵をくっつけて直立している姿勢の良い足から肩までのラインであるが、彼女を惹きつけてやまなかったのはそのようなものではない。彼女の目は今そこには存在しないものを追って休むことがなかったのだった。しかしそれゆえにその運動は無限の目標を志向しこれからもどこかに満足することなく継続するしかないのだ。彼女は像にある感情を覚えていた。欠落は彼女の欲望をさながらブラックホールのように吸収し続け止まらなかった。洗剤を用いずに最低限の部位を洗っただけの彼女の衣服は砂塵にまみれあちらこちらと外側から汚されていたが、彼女にはそんなことを気にする余裕がなかった。既に演劇は始まっていたのだ。だから目を逸らすことが出来たはずがない。辺りには他に観客がおらず、顔を持たない彫像はいま何を見ているのかを決して明かさないが、明確にある演技を行っている。彼女は既にあることを確信してその場から動くことが出来ない。即ちこの像はいま私のことを見初めていると。彼女は恍惚に自らの膀胱が緩み暖かい液体が漏れ出ていることに気づいていなかったが、しかし、スカートを伝うことなく垂れ流される感触の思わぬさらりとした淡白さを尻目に、大きく見開いた目と赤く上気した頬とを共にしてだらしなくあいた口腔とそこから溢れ出る生暖かい吐息が、他の何者にも換えがたい気持ちよさに身を震わせていると言うことの、この上なく雄弁な表現として外示されていた。

 そのとき劈いた轟音が一発の銃弾の手によるものだということを把握できなかった人間はその場に一人としてありえなかったとしても、その現実に際して、何か行動を取ることが出来た人間について同様であったかと言えばそんなことは在り得なかった。ほとんどの傷病兵にとっては反射であっても動くほうが酷であることが明らかなのだからまして手を貸してもらうなどとまず望むべくもない出来事であったに違いない。もちろん必ずしも動けないこともない人間たちもいないことはなかったのだが、彼らはすぐに手を離すわけにはいかなかった。と言うのも今まさに取り扱っている患者が、もう何人目になるか分からない、生と死の狭間を漂っているような傷病者だったからだ。だがその漂泊の旅ももう目前に終わりが見えてきているらしい。そのような彼の諦念がありがちな思い込みでない根拠を容易に彼は周囲に求めることが出来た。地を這うようであった呻き声が自分の耳にはさっきから段々と高鳴るように聞こえてきているし、医者の振るうメスや看護婦の巻く包帯の衣擦れよりもよほど彼ら彼女らの方の過剰な息遣いの方が目に入る。私自身の脈動や心音、息遣いはどうにどこかに消えてしまっていて、耳たぶを塞いだときに頭の中に満ち満ちるあの母胎の血流の懐かしい感触ばかりがどうしても心を安らがせてしまって、とても苦痛の生に立ち返ろうと言う荒々しい闘志を湧かせてくれないようである。こうなれば目の前でしかも私を材料に展開されているはずのでこの物語の映像がまるで無関係なフィルムの中の出来事のように感じられてくるもので、ならばこの視界からいつしか色が喪われてモノトーンあるいはセピアで出来たあの情緒ある平坦さが展開されているのはむしろ当たり前のことなのだろう。ならばせめて配役は煌びやかな人選を行って欲しいものだ。カラーに関係なく魅力のある俳優と言うものはスクリーン上で輝くものだ。だがどうもこの場には無粋で汗臭い大人たちばかりしかいなくてどうにも欠け落ちたものがある。そうだそれは子供の存在だ。花畑で踊る妖精のような純粋さをたたえた子供たちこそが、この映画の幕切れには必要だ。だがそんな役者はこの世に存在するのだろうか。せねばならぬ。そうでなければカーテンコールが始まらないのだから、是が非でもここに連れてこねばならぬ。私は手紙を書かなければならないだろう。そう、私はそのことをあらかじめ既に知っていた。だから既に手紙は書かれていたのだ。だが惜しむらくはその手紙をついぞ投函することが出来なかったということだ。出されぬ手紙は届くはずがない。だから私の最後の仕事はこの手紙を届けてくれる誰かに差し渡すことに他ならない。だから私は言ったのだ。この手紙を、娘に届けてやってくれ、と。……もしも、仮にその手紙が届いたとしても、それだけでは幕切れには足らぬだろう。なぜならばそれはまだ「依頼」の段階に過ぎぬ代物だからだ。一つの映画を作り上げるためにはそこから交渉をし出演の約束を取り付けそうしてキャメラを回して役者を撮影せねばならぬ。だからこの幕切れは一旦中座してその終わりの始まりが来るまでの間、ずっと停滞することとなる。

 ある傷病者が死んだときそこは既に廃墟となっていた。中間地帯である医療区をも巻き込んだ掃討戦は悲劇以外の何も生まなかったが、不幸にも生き延びてしまった医師はそれが一つのカルマゆえのものであることを確信していた。手紙を渡さねばならぬ。そうしなければこれ以上生きていることなどできぬ。背後に築かれた屍の山が既に現実と地獄の境目などないことをこれみよがしに示しており、助かったものも助かりつつあったものも死に行くものも死んだものも全て等しく灰色になってしまった。いったい彼は何のためにここにいたのだろうか。あの濃密すぎた執刀時間の合計は恐らく50時間はくだらなかったはずだろうし、ほとんど不眠不休の作業で僅かにとれた休憩は一日一回の食事と排泄のせいぜいが数十分にも満たないものだった。その出来事が今あっと言う間にどこかへと消えてしまった気がする。娘の名前はアリスと言うらしいが、ライヘンフェルスより南方の田園の町がその手紙の宛先としてメモされていた。封もなければ切手もない、誰にも運ばれることを期待しておらぬようにしか見えぬ手紙だが、運び手は既に決まっているのだから、なんとしても手紙は届かなければならぬ。彼はそのまま歩き出した。不幸なことに負傷はなく、体は頭も肩も腕も肘も、腹も足も全てが煤で汚れていたけれども満足に歩くことは出来た。彼には今のところ歩くことをやめる理由がなかった。だが、その姿を見て彼が何者であったかを一瞥できるものは恐らくどこにもいないだろう。だがすぐに限界は来る。飢えは凌げても乾きは凌げない。彼は歩き続ける間に目的を見失い水の匂いを求めていつしかどことも知れぬ森に入り込んでいた。匂いはせぬ。だがそもそもそんなものを嗅ぎ分けられるような優秀な鼻を彼は持っていたか。もしも自分が犬であったなら。そうだ犬であればよかったのだ。犬でも手紙は運べるだろう。むしろ犬のほうがより速く確実に手紙を運べたのではないか。だが悲しいことに彼は犬ではない。せめて雨が降ればよい。そうすれば多少なりとも潤うだろう。雨は降らなかった。

 気づくと女を犯している。おかしい。さっきまでの記憶がない。ここはどこだ。彼は周りを見渡すと横には井戸がある。水の匂いがする。違う。それはその映像を見たからだ。俺にそのような匂いを嗅ぎ分ける能力はない。だが確かに水の匂いがする。息を吐く。女は既に死んでいる。死んでからまだいくつも経っていないが、肉体は温かくない。俺が殺したのか。そうかもしれない。だが、息を吐く、どうもそうではないらしい。なぜならば女の死因はどうも弾痕にあるようだ。息を吐く。そういえば見覚えのある顔だ。息を吐く。確かあの急仕立ての兵舎で、息を吐く、傷病者を診ていたうちの一人で、息を吐く、確かに眺め、息を吐く、て見るとその息を吐く格好はかつて白衣息を吐くのようだった。だが死人の装備を息を吐く論うのには意息を吐く味がないしそもそも息を吐く助けるべき負傷者も息を吐くもういないのだ息を吐く。もう駄目だ。俺は射精する。あらゆる関節がガクガク震え急に力が抜けてしまい俺は倒れてしまった。これでは立ち上がれる気がしない。別に立ち上がる意味も無いのだが、なぜか立ち上がらなければならないような気もするのだ。井戸、そうだ水を。雨の匂いはまだしない。これから降ってくるかは分からない。ずりずりと砂地を這いずって井戸に顔をうずめると、中に水が無いことが判明した。だがもしかしたら前にはあったのかもしれぬ。水の残り香らしきものがする。よく見ると底に輝きがある。何かと思って目を凝らすのだがとんとはっきりしてこない。諦めきれずに首を伸ばしていたら不意に足を滑らせた。誰かに押されたのか?押すような人物などここにはいたか?いずれにせよ俺は落ちる。首が折れたのが分かる。猛烈に痛い。吐き気がこみ上げてくる。剥き出しだった下半身が井戸の壁に擂り当たって血だらけになったが、もうとても眠いのでどうでもいいと思った。輝いているのは何だったか。白骨が落ちているのを見てああ先客がいたんだなと思う。だが最後の力を振り絞って眼球を動かすと輝きの正体が何であったか分かった。それはペンダントだった。金縁のペンダントで中には子供の写真が入っていたのだった。子供かよ、と彼は思った。そんな未練があるんなら、前線なんかに来るんじゃねえ。

 かつて看護婦だった女は既にいない。何故ならば井戸はリサロの進行口の最も前線にあったので彼女はすぐにその矢面に立つころになったからだ。だが彼女の不幸はそこでボロボロに兵士に犯され尽くすその直前に精神を壊していたことだ。そう彼女は迂闊にもその陵辱に耐えてしまったのだった。彼女はそのままキャンプへと持ち帰られると従軍慰安の娼婦詰所へ入れられた。彼女は五体満足だった。それもまた不幸だった。彼女は唖さながらの状態になってはいたが、耳に入る娼婦たちの雑談はしっかりと耳に入っていた。かわいそうな人が来たわね。見ると白衣らしきものを着ているけれど、もうすっかり汚れてしまって原型がないわ。ああいやだ。軍人はもしかしたら医療団をも襲ったのかしら。ぞろぞろ大勢で帰ってきた足音が確かにさっきしてたけれども。そりゃそうよ。そんな連中でなければあたしらみたいな人間は必要にはならないわ。ああ戦の後はいいわね男たちが疲れていてここに来るなんてやろうがいなくて。でもあたしたちだけじゃ飽き足らずにどんな外でひどいことをしてるかなんて想像するまでもないことでしょう? 男なんてみんな去勢されてしまえばいいのに。そんなことはないわ。性欲は人間の本能一つなんだから、無理やり我慢させておくほうが不自然なのよ。あんただって突然ムラムラしだすことなんてあるんじゃないの。はっ、こんなところに閉じ込められておいて随分しあわせな台詞が吐けること。ああやすっかり枯れちまったのね。私は案外楽しいわよこの仕事。あんたには聞いてないわよこの淫乱。それはあんたも同じでしょ。ふん。でも仕事だからって不快なばかりとは限らないんじゃないの?紳士な男だっているわ。そんな人たちも時折は血走った目で乱暴になっていくことがあってとても悲しいけれど……。はっ、それはあんたはめんこいからっていい男ばかり相手にしているからいいでしょうよ。その話はどの男の話だい? 曹長のウィルフェン坊やのことかいね?誰のことだっていいでしょう。ああでもあれはあんたがオキニだったかしら?あああたしもたまにはゴルプスみたいじゃない男に抱かれてみたいわね。……面食いの男は一杯いるけれど選べる女はここにはそういない。あら選ばない男だって充分に多いでしょう。それに一人や二人だったまだしももうそんなことはどうだっていい数の相手をさせられてるじゃないのあなたも私も彼女もその子も。職業ってのはそういうもんだ。そりゃああたしたちは割り切っているからいいけれど、そうじゃないのはどうなるんだい。そうね。この子はかわいそう。唖の女はじっと見ていた。それ以外の女もじっと見ていた。テントの奥ですやすやと眠るどこか場違いな雰囲気を持ったまま灰を被った小さい少女を。

 その報せを受け取って将校は不幸な事故だったと短い返答を遣した。何を寝言を言っているんだと戦隊長は憤慨したが既に送ることが出来る援軍も物資もなくそれどころかそもそもにして撤退が決定していたことなのだから、後はいかに被害を少なくするかだけに意識が集中されるべきだったのにも関らずこれだ。今回はいわば拡張領土争いだったからそれもまだよい。だがこれが侵略戦争であったならどうするつもりなのか。本部のあまりの無能さに戦隊長は既に怒りどころか絶望の兆しすら覚えていたが、同様に自分の無能に対してもひどく肩を落としていた。リサロの悪逆ぶりを弾劾することに意味などないのだから、正義をなす自覚があるのであれば断固としてあの野戦病院は守らなければならないのだった。しかしそれすらも出来なかった今、自分に残されたまだ成し遂げなければならない仕事は何なのか。彼は簡易机の前に座して両手を組みながら頭を悩ましている。するとそこに伝令員がやってきて野戦病院が崩壊する前に通達された最後の管理票であると述べていった。戦隊長はそれを受け取るとそこから目を離すことが数時間できなくなった。アルフレド死亡、アルタイス死亡、ボルフェス重体、ブランカ意識不明、カーチス死亡、カクトス死亡、デイヴィッド死亡、デイヴィス死亡、エントシュタイン死亡……死亡死亡死亡死亡死亡……。そして仮に死亡でなかったとしても身動きが取れなかったものはみなそのまま死んでいったのだ。報告書はそのまま死亡報告書であり墓標代わりでしかなかった。優秀な部下たちだった。親交も厚かった。ほとんど友人と変わらないような連中もいた。そのような人間たちをみすみす死地へ向かわせて、それだけならば責務として納得の行くものの、負傷し倒れ果ててからそれを助けることすら適わなかったこの苦渋、これをどうやって彼らに償えばよいのかなど答えが出せるはずもない。そうやって舐めるように名前を刻んでいった後もう一人よく見知った名前に到達した。モーリス・ブラウン。ああ、と思う。田舎育ちの朴訥とした喋り方が気に入っていた。彼はとても社交的で、そして文化的だった。端的に趣味があった。あいつはギターがとても上手く、私はティンパニを嗜んでいて、妙な取り合わせだと笑いながら、それでもよくセッションしたものだった。あいつの家に一度招待されたことがあり、南ライヘンフェルスの独特な郷土料理を振舞ってもらったことがある。取れたての芋と小麦をふんだんに使った野草の料理だったが驚くほど口にあったので何度もおかわりをした記憶はまだ新しい。あの暖かい家庭を私はそのままぶち壊してしまったのか。そう思うと心が痛む。物腰が柔らかで優雅であった細君と、その彼女と彼の性格を凝縮して具現化したような美しい娘が確かそこにはいたはずだった。家族を残して逝くことの苦痛を何よりも知っていたのはきっと彼だったのに違いないはずだ。……南ライヘンフェルス?私は嫌な予感がした。そのとき本国からの伝令がもう一通やってきた。内容は極秘の通達だった。それは戦線状況図だった。私は目を皿のようにしてそれを見た。ありえないことが書いてあった。戦線展開の導線上にあった南東ライヘンフェルス地区は既に壊滅していたのだった。私は拳で机を殴った。バカな。だがそれは既に過去でしかなかった。その戦線の侵略は既に一週間も前に終わっていたのだ。なぜこのようなことに気づかなかったのか。そうだ、確かにその頃はまだ敵軍との抗争が拮抗していたのだとしても―――。

 かつて医者だった男は今、荒野を見ていた。そこはまるで戦争小説の挿絵のような惨状になっていた。そのような状況は既にもう嫌となるほど知っている。彼は自分が実は先に進んでいたのではなくて同じところへと舞い戻ってきたのではないかと言う錯覚すら覚えた。状況は似通っていた。元は穏やかだったのだろう田園地帯は隈なく火を放たれ燃え尽き、辺りは灰で海になっていた。家と思わしきものの姿はほとんどが無く、萱葺きで出来た屋根はどれもこれもが焼き尽きて、辛うじて砕かれずに残っている煉瓦の壁だけがそこに建物があったということを偲ばせる。戯れに床に手を伸ばし黒墨のようなものを取り上げてみると肩口まで持ってくる間に崩れ去って形が無くなり風に吹き消されてしまった。人の姿は無かった。人の形をした炭も見るところにはなかった。それがここで被害が生じなかったと言う安直な推測には繋がらない。もしかしたら今立っているこの床のすぐ下に埋もれているのかもしれないのだ。まして生きている人間がいるとすれば……だが今の自分には力がない。さっきまで杖にしていた長い木ぎれの方がまだ自分よりも頼りがいを感じる。どの道医療道具もないのだ。ここで掘り出すことが出来たとしても、応急処置すら上手くいかないのだろう。ならばまた一つ余分な死に立ち会うだけだ。それならば何もしない方がいい。……私は既に医者ではない。それならば私は何者なのか。ポケットの中に薄っぺらい感触がする。メモ、違う、手紙だ。そうだ私は郵便屋だ。私はこの手紙のためだけの郵便屋なのだ。だから手紙を届けねばならぬ。届け手はいるのだから、例えそれが死体であったとしても届けねばならぬ。確かに場所はここなのだ。ここで確かなはずなのだ。だがここは往診に数度来たか来ないか程度の場所であるから、家の正確な場所までは判じ得ない。私は追いはぎの気分でかつて家だったものの敷地に押し入り、何か手がかりは無いかと探す。無い。ほとんどのものは壊れ砕け燃えている。そもそも歩くことすら難しいような瓦礫の山だ。このような身では満足な探索は行えまい。疲れに負けて頭を垂れると足元に写真が落ちている。私はそれを拾い上げるのだが、ほとんどが焼けていて無残なものだった。私が顔のところまで持ち上げると、それも、やはり風に灰を散らしてしまった。何が死体に届けるだ。そんなのは受け取り手であるとは言えぬ。私は確かに受け取ったと言う意志を見ねばならんのだ。だからどんなに儚くとも縋らねばならぬ。住人たちはなんとか避難できていて、いつかきっとここに帰ってくるだろうと。ならば私の仕事は決まったようだ。ここで受け取り手を待ち続ける。そして手紙を渡すのだ。私は、急に肩から力が抜けて、久しぶりの睡魔が襲ってきたのを感じる。

 夢。
 私は夢を見る。
 そこは私の夢が適う場所、銀幕に映る幻想の劇場。
 私はそこに立つために田舎から都市の演劇スクールへと入学し、大好きだったパパとママと離れる寂しさに耐えながら、同じような夢と決意を抱えてやってきた仲間たちと、つらく、けれども充実した毎日を送る。修行は一流の先生のもとで最新の映画や演劇を間近にしながら受けるのだ。だから内容も多種多彩。朝は早くから起きてそしてまず宿舎のお掃除をする。その後服装を整えてからみんな一緒に朝食をとる。続いて午前中は座学。シェイクスピアをみんなで回し読みしながら、このときこの人物はどんな感情を持っていたかを話し合いながら、想像力を高めあう。もしも私がそんな場所にいたら。そう、もしも私が戦争に引き裂かれる恋愛の只中にいたのなら。なんて音読に熱を入れすぎてつい先々まで読んじゃって、私は先生に叱られる。同級生にも笑われて、私は恥ずかしくなって机の下まで隠れてしまう。
 そうしたら次はステップの練習。本を頭にのせたまま落とさないように歩いていくの。落としたら最初からやり直しで、先生がとても厳しいの。ほんの少しでもぐらぐらしてたならビシビシと厳しい言葉が飛んでくる。だからみんなちょっとこの時間は嫌い。バレエの時間が午後からだけど、そっちのほうが人気なの。だって私も好きだもの。それにこの時間は午前の最後。その次はお昼ご飯なんだけど、これが終わらないと食べられないわ。お腹が空いて気が散っちゃって、私は今日も落としました。
 お昼休みは至福の時間。晴れた日はさらに素敵。私は友達と一緒に中庭の大きな木の木陰に隠れてみんなでビスケットをつつきあうの。ティーカップは持ち込み、だけど本当は駄目なのね。だからこのことは秘密。でも風が涼しくてとっても気持ちいいの。そんな日はおしゃべりも弾んじゃって、たいてい恋愛の話題ばかりになる。ねえ、彼とはその後どうなったの。ううん、結局告白してないの。ええ!まだそんなことしてたの?早くしないと誰かに先を越されるかもよ。でも、きっと駄目なのに違いないから。あら、そんなことはないわよ。あなたはとっても魅力的。きっと彼とはお似合いだわ。貴族で軍人の息子なんだから、競争率も激しいよお。ちょっとあなた、またそうやって煽り立てるんだから。いい、あなたはあなたなんだから、他の人と比較することはないわ。あなたは充分魅力的。私が言うんだから間違いないでしょう? ううん、そうは言われても……。そういうわけで、私は今日も踏み出せません。でも、いつか言えたらいいなと思う。
 夕方、カリキュラムが全部終わって部屋に戻ると同居人の人はもう寝てて、頭の上には『マクベス』が被さっているから、ああ途中で力尽きたのね、なんて思って私は笑う。部屋には今日についた手紙が届けられていて、そこには私宛の手紙もあって、ああ、父様母様だわ、と私は故郷に思いを馳せる。
 もう、故郷を離れてどれくらい経ったのかしら。まだ数日しか経っていないようにも感じるし、既に数年を経ているような気もする。時間の感覚がぜんぜん分からなくなってしまったわ。私を遠くから見守ってくれている父様母様、いつも感謝しています。私は、いつか立派な女優になって、そして父様母様をあっと驚かせるような素敵なレディになって、そして帰ります。そうだ、早くお返事を書かなくっちゃ。私は机に座ると羽ペンとインクを取り出してペン先を濡らし、……そこで便箋を切らしていることに気づいた。そういえばインクものこりが少ないし、なんだかいろんなものが足りなくなっている気がする。同居人はもう寝てるから、勝手に借りるわけにもいかないし、それに、なんだか私も、少し眠たくなってきた。ごめんあそばせ父様母様、アリスはまだまだ未熟です。
 インクで汚れるのはいやだから羽ペンだけはなんとかしまって、そのまま机に突っ伏して、うつらうつらと佇んでいると、なんだか昨日の夢を思い出す。そう、昨日は私は娼婦の役。大人のひとたちに混じってたった一人でいる子ども。ルイスが描き出したような、純粋無垢なアリスがいるの。
 そのアリスはとっても可憐。どんな服を着ていてもどんな場所に押し込められても、彼女の魅力にはふたなんてできないわ。だから男も女もみんな彼女に夢中になる。あはは、そうね。みんな本当は子どもなの。だからいつまで経ってもお人形あそびが大好き。でもそれも仕方がないことね。なにせいちばん素敵なお人形がそこには置いてあるんだから。
 でもね、大切に扱って。
 アリスはたった一人なの。
 たくさんいる大人たちのみんなと遊んであげたいけれど、アリスはたった一人なの。
 だから乱暴にあつかっちゃだめ。そんな風にしたら壊れちゃう。壊れたらアリスはいなくなるの。アリスを演じる子がいなくなるの。

 アリスはとっても素敵な子。
 アリスは私の理想の子。
 だから私も演じるの。
 夢の中でアリスを演じるの。
 だってアリスの魅力は、どんなに汚されたって変わらないから。
 私はそれを演じるために、一生懸命練習するの。
 アリスを演じることは苦しい。
 私の心がアリスじゃないから。
 私の演技がまだ未熟だから。
 だから私は心からアリスになる。
 そうすれば完璧な演技が出来る。
 そうしたらきっとこれが夢じゃなくなって。
 そうして夢が現実になって。
 そして私は現実に耐えられるようになるの。
 ねえ、そうでしょお父さん。



 だけど、あと少しだけ休ませて。
 もうすぐ夢の劇場で、アリスの映画が始まるの。
 気づくと既に始まってるの。
 終わりはいつも決まってる。
 だから今日だけは見逃さない。



 だから少しだけ休ませて。
 もうすぐ夢の劇場で、私の映画が始まるの。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

草々 更新情報

草々のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング