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邪馬台国コミュの古代航海路

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辺津宮、中津宮、沖津宮を通って半島へ。
この海路が紀元前後からあったならば、邪馬台国の時代に、壱岐から近いという理由で唐津湾に上陸するだろうか?
そもそもこの海路は邪馬台国と関係がるのだろうか?
九州から壱岐は見える。
壱岐から対馬も見える。
対馬から半島も見える。
だから見える範囲で航海しているという前提があるような気がするが、
中津宮から沖ノ島は見えない。でも、潮流や星や太陽や、半島の九州や対馬の陸影から場所を把握していたのだろう。古代海人の航海能力から、ぼくは壱岐からあとは九州のどこにでも上陸できたと思う。
一番、便利な場所に上陸するのではないか。
志賀島に上陸すれば博多湾まで小舟で一時間。
松浦に上陸したら博多湾まで徒歩2日くらい。
どうしても唐津湾に上陸して糸島を歩いてくるというのが、不思議な気がする。
それにしても沖ノ島は聖地であるし、あの海路と邪馬台国海路を並べると、邪馬台国と近畿は別物のような気がする。

コメント(46)

>>[4] なるほど。奥行の深い考え方ですね、なるほど。ただ、現在に至る沖ノ島の破格の聖地扱いは、もう少しシンプルな機能があったか、シンプルなエピソードがあったかしたのではないか。目視できない位置にある小さな島の、草木一本持ち出してはならず、自由な立ち入りもしてはならず、ですよね。現在においても。
出雲が新羅側の半島との間に海路を持っていたという説がありますが、この図のように存在していたならば、はりはりさんのご意見で考えると、出雲勢力と対馬海峡の勢力の海上の国境のような気もしてきます
http://blog.goo.ne.jp/bxm06065/e/23deb4c76ec1b4389f7f99f40d9e0333

私は宗像大社には行ったことがないのですが、中津宮(筑前大島)からは高い場所であれば沖ノ島も見えるようで、こちらのブログによれば遥拝所が設けられているそうです。
ただし、海面からは視力の優れた古代人でも見えなかったのではないかと思います。
夜間にかがり火を焚いたりしていたのであればわかりませんが…。

沖津宮では朝鮮の文物とともに出雲の遺物も出土しているそうですね。
沖ノ島では山口県の日本海側からも最短で50kmほどなので、日本海側から直行する航路もあったのではないかと想像してしまいます。エーベルさんの地図に付け加えるなら、見島経由ではなく長門角島あたりから北九州を経由せずに沖ノ島を経由して対馬にいたる航路です。
ただ、はりはりさんの説明によれば海流が早く、難しいのでしょうけれども。
私の考えでは古代の遠洋航海は主として季節風に頼るものだったので、夏は西北方向、冬は東南方向以外の航路は取りにくかったのではないかと思います。
>>[8] なるほど。海流ですね。
それにしても教えていただいたブログをみると、3つの宮って要は灯台のような役割ですね。
そうするとなんだか、この海路をやはり使っていたような気がしてきます。日本海の海流。
その海流を巧に利用しながら航行する技術をもっていたからこそ、逆に海神族として、普通の陸の民にくらべ、半島との常用の連絡網がもててたわけですね。
しかし、あるいはこの3つの宮にかがり火をかざせば、対馬経由で半島まで、火による合図を送れていたのかも。夜であれば当然目視できるわけですから。
などと想像が膨らむ写真でした。
ところで。こんなふうにご指摘いただくことを調べてると1年もすると結構知識が身に付きそうな気がしてきま
>>[8]

長門角島の存在やこの地域の季節風に関しては今まで詳しく調べたことがなく、
uさんの書き込みを読ませていただいてじっくり考える機会になりました。

よく考えてみれば、今まで北九州中心にしか物事を考えていませんでしたが、出雲
などの日本海側と半島との連絡路なら、当然、北九州を経由しないルートを取る
はずで、uさんの言われる通り、長門角島〜沖ノ島というコースを考えるべきでしょう。

調べてみたところ、8世紀ごろの渤海という国からの使者、渤海使のルートに渤海路
というものがあり、リマン海流に乗って半島東岸を南下し、釜山あたりから対馬沖を
通過し北九州へ、というルートを季節風を利用して渡っていたらしいという記事を
見つけました。これは、実は半島西岸を進むルートよりさらに古く、大陸と日本を
結ぶ最も古い航路だそうです。

気になったのは、渤海使に対しては、日本の外交の窓口は大宰府であるから、
海峡を渡ったらまず大宰府に立ち寄るようにと念を押していたにも関わらず、
最初のうちは海流に流されてうまくいかず、九州に上陸できずに日本海沿岸を
北上し、能登の方まで直接行ってしまった例が少なくなかったという記事です。

3世紀当時にはもちろんまだ大宰府がないですから、北九州に立ち寄る必要もない
わけで、海流に乗るだけで対馬沖〜沖ノ島〜長門角島のルートのあたりを通れたの
ではないかと思います。このルートがそれほど古いものだとすれば、利用していた
日本側の相手国は出雲や越でしょう。

一方、大陸側は3世紀当時は渤海という国はまだないので、この半島東岸ルートを
利用した国と言えば、北から順に沃沮・東濊・弁辰あたりでしょうから、それらの
国と出雲や越との間に交流があったのかもしれません。

考えて見れば、出雲が漢や魏に朝貢した記録はないし、かといって全く他国と交流
しなかったとも考えにくい。とすれば沃沮・弁辰・東濊、そして東濊を通じて高句麗
と通じていた事は充分考えられます。いわば環日本海地域協定のようなものです。

実際、弁辰・東濊の風俗を見ると、鐸舞があったり虎を祀ったり、常に十月に
集まって祭りをしたりと、何となく出雲の風習を思わせるところがありますし、
魏志の沃沮の項には、現地の古老の話として、東の海に島があり、言葉が通じず、
不思議な風習を持つ民族が住んでいるという話が出てきます。

その日本海勢力と、漢や魏を盟主とする半島西岸と倭の勢力。その境界線があの
ラインではなかったかと考えます。宗像はこうした2つの勢力のはざまでバランス外交
をしていたのではないでしょうか。

ところで魏志によれば、正始8年に郡は韓に対し、辰韓の八国を帯方郡から楽浪郡に
再編入すると伝えましたが、行き違いがあって帯方・楽浪の二郡と韓との全面戦争に
なってしまい、帯方太守弓遵は戦死し、韓は滅亡したとあります。そもそもなぜ南の
はずれの辰韓八国を帯方より北の楽浪に編入しなければならなかったのかが分かり
ませんでしたが、例の海上ラインがそのまま半島の陸地まで続き、半島を縦に東西に
分断していたとすれば、辰韓・東濊はちょうどそのラインの東側にあり、半島東岸の
交易ルートを利用していた国々であって、歴史的にも政治的にも高句麗に近いわけです。
事実、東濊は高句麗に従属していたとして、高句麗討伐後、帯方・楽浪から真っ先に
攻撃されています。

ようやく北方へ追い払ったばかりの高句麗への戦後対応を楽浪郡が担当していたとすれば、
これらの地域を一括して処理したいのは当然で、半島を縦に2つに割って、東側を楽浪郡、
西側を帯方郡に分割して担当するのが本来の目的だったのではないかと思うのです。
そうでないと、北方対策も南方対策も、いちいち楽浪・帯方二郡の太守が集まって会議を
しなければならなくなります。この時期、倭が帯方郡を取り次ぎ役として魏と通じていた
ように、辰韓八国の担当取次部署を帯方から楽浪に変更、というだけの意味のはずが、
韓諸国はそれを領土接収と言う意味に取ってしまって怒りのあまり帯方郡を攻撃し、戦争
が起こってしまったという事ではないでしょうか。おそらく辰韓八国とは、辰韓諸国のうち、
半島東岸に位置する8か国だったのでしょう。

魏の当初の思惑としては、こうして2つの郡で半島を分割して統治し、権力集中ができない
状態にしておけば、以前、後漢の遼東太守だった公孫氏がここで力を付けて独立しようと
したような事態も未然に防げる、つまり第二の公孫氏を作らせないという意味もあったの
ではないかと思うのです。
>>[10] この間、古田武彦さんの記事で馬韓滅亡とその目的について氏の解釈を見ました。
それによると、鉄の確保ということです。以下、抜粋。
「韓伝を見ますと、

辰韓の王様のことは書かれている・・・・・・そして、弁韓にも十二の国にまた王がいるというふうに書かれています・・・・・・
 ところが不思議なことに、馬韓については王がない。・・・・・・これは一体なぜだろうと。よく読むとその理由ははっきり書いてあります。と言いますのは、本来ここに当然、馬韓の王はいたわけです。ところが楽浪・帯方郡、つまり当時の中国側が、辰韓の一部どの辺からとは書いてありませんが、これを割譲してしまった。つまり辰韓の方から取り上げて、自分に直属させてしまった。その理由は、元々、辰韓は楽浪郡に属していたからである、こういう理由で取り上げた。


 さてこの韓伝には、馬韓が辰韓を統轄していたように書いてある。そこで韓王(馬韓の王)は非常に怒って、これに対して軍をもって楽浪・帯方を攻撃した。帯方郡の太守はそのために戦死した。ですから、当時は馬韓が韓国代表で、韓王の軍が非常に優勢だったわけです。ところが、恐らく中国本国から援軍が来たのでしょう。形勢が逆転しまして、ついに韓王は敗退した。そして、ついに「中国側は韓を滅した」こう書かれております。「韓を滅した」ということは、中国がこの馬韓の地を直接統治の下に置いたということ。これは大変な大事件です。

東アジアを震憾させた馬韓の滅亡

このあと、例の倭国の卑弥呼が使いを送るわけです。・・・・・・そういうことで、難升米等が彼の地を通って帯方郡に行く話は倭人伝であまりにも有名ですが、それは実は滅亡韓国の地を通って行ったわけです。

ということは、われわれが倭人伝だけを見ている限り、気がつかなかった。これは非常に重大な問題なんですが。

 さて、それでは中国はなぜそんな無茶をやったのか。それはもともと楽浪郡に属していたからか。漢の大帝国がありましたから、その時代は漢の四郡というものを朝鮮半島から北方にかけて敷いておりましたから、元々この辺が、楽浪郡に属していたというのはその通りです。しかし、そんな理由でいまこれを取り立てて直轄地に編入するのだったら、どこでも全部直轄地に編入できるわけですね。要するに、それは単なる口実に過ぎないわけです。辰韓の鉄の産地がほしかった。しかもそれを“直接に手に入れたかった”ということが原因なのです。
 では、なぜかというと、その理由が実は韓伝に書いてある。

それは辰韓の項目に書いてある。「山に鉄を出す」と。そして「韓・歳*(わい)・倭、従いて之を取る」と。



ということはつまり、中国が前漢の武帝の四郡以来、朝鮮半島を支配した目的は、・・・・・・鉄を押える。

・・・・・・

その中国が鉄の問題を抜きにして韓の四郡というものを考えるとは思えない。

中国側にとって、この朝鮮半島を支配する最大の目的の一つは、鉄の支配にあった。



そうするとやはり、その向うの倭国と手を握ることは、この「滅亡韓国」を支配する上で非常に重要な布石であったろうと思います。

倭国が中国へ行ったのは、倭国は大国中国の財宝、宝物、鏡などが欲しくて行ったという形で従来は理解していたのですが、そんなことだけではなくて、倭国も中国と接触する必要があった。

韓国の鉄山の鉄を貰いたければ・・・。


「倭人伝を理解するのには、韓伝を背景にしなければならない」と。これが根本のルールです。それなのに韓伝をカットして「倭人伝だけで理屈を考えた」のが、従来の手法ではなかっただろうか。こう思います。」



以上、です。

ちなみに 福岡の太宰府で1600年前の製鉄炉跡が発掘されています。


古田氏のお話の中の、鉄の確保をめぐる外交の約100年後に作られている格好です。この流れだと、大宰府に国内最初期の製鉄施設ができるのは必然ですね。ある日突然製鉄を始めるわけはないので、この前からも大宰府地域は製鉄地域だった、とすれば・・・・・

ぼくは大宰府が 伊都国だと思っています。少なくとも筑紫平野の国にとって特別の地域と思っています。わずか1000戸数で他国を睥睨し、代々行政と軍の代行をしていた。上記内容でいけば、伊都国は女王国内の製鉄集団だということになりますね。だからわずか1000戸数でも重要だった。




>>[010]

沿海州から朝鮮半島東岸を南下するリマン海流のルートで思い出したのは後世に女真が日本で海賊行為を働いたという刀伊の乱ですが、かなり昔からあるルートなのですね。

玄界灘には西南から東北方向へ一定して対馬海流が流れており、簡単に出雲や敦賀など日本海側に流れて行ってしまうようなので、リマン海流と対馬海流が日本海側に文化をもたらしたのだと思いました。
半島からこちらに来るにはまずはリマン海流で今の釜山あたりから南下して対馬に至り、対馬海流に流されないように注意しながら壱岐や北九州、さらに海流に乗って角島や出雲を目指したのでしょう。
海流で東へ流されることを考えると博多湾=マツラ国の一部説もかなり説得力が出てくるのではないでしょうか。
逆に倭国から半島へ行くときは壱岐あたりから対馬海流になるべく逆らわずに進んだのではないかと思います。

出雲には新羅から国を移したという国引き神話も有りますし、素戔嗚尊やスクナビコナ、さらにツヌガアラシトなどがこの海流に乗って渡来したのだと思います。
海流に逆らって出雲から玄界灘や半島に行くのは恐らく難しく、半島から日本海側への文化流入がかなり一方通行的なのも分かる気がします。

とはいえ伝承は伝わっていた可能性はあり、半島の東にあったという謎の国は鬱陵島だと思っていたのですが、出雲あたりを指すのかも知れません。
他に新羅脱解王は倭の東北千里の多婆那国の生まれとされ、丹波を指すという説が根強いですがこれは多分方位を違えたもので、耽羅(済州)のことだと思います。

楽浪郡に辰韓国が編入されそうになり反乱が起きた件は深く考えてなかったのですが、日本海側ルートを抑えて半島を東西分割するためという説明で納得いきました。

結果、楽浪郡は新興国高句麗への対応に忙殺され、帯方郡が対南方の窓口業務を分担するようになったのでしょう。そして互いに連携して業務に当たっていたのだとすれば、二つの郡治の位置は意外と近かったのかも知れません。
帯方郡は後世に編まれた日本と朝鮮の史書には痕跡すらほとんど現れないため謎に満ちてますが、末期には次の七県を所領としていたようです。

帯方・列口・南新・長岑、提奚、含資、海冥(『晋書地理志』より)。

列口は列水(大同江)の河口でしょうから、帯方県もこのあたりにあったのではないかと思います。
>>[11]

武田先生の本は黒歯国がエクアドルであるなどとっぴな説が見られ、私は正直苦手できちんと読んだことがないのですが、韓伝の記述も参考にすべし、という意見には大いに賛成です。
製鉄技術が新羅による後世の統一にも大きな力を与えたでしょうし、そもそもヒッタイトで生まれたという製鉄技術が東へ東へと伝わって各地に大帝国が生じるきっかけをもたらし、倭の統一にも寄与したのだろうと思います。

漢文の解釈の違いですが、魏志馬韓伝にある「二郡遂滅韓」は、全滅させたというよりも「反乱を鎮圧した」と言う程度の意味だと思います。
そもそも魏志の馬韓伝は実際は三韓全体のことを述べており文章量もとびぬけて多く、その後に付け足し程度に辰韓伝、弁韓伝が書かれています。従って、私は「辰韓の領有をめぐって馬韓を滅ぼした」とは読みません。ここで反乱を鎮圧されたのは辰韓であるとも読めるし、実際に鎮圧に当たって死んだのは帯方郡の弓遵です。

武田先生の説では難升米は「升」を朝鮮語の訓読(doe)で読んで「なしとめ」と読み、物部氏の系譜にある梨迹目命に当てたりしていますが、原文を見る限り「升」の右下に点があり、これは日本書紀などでも見られる「叔」の異体字です。私も便宜上「難升米」と書いていますが、恐らくこれは「難叔米」が正しいでしょう。

それはさておいて、私はこれまで季節風のことを主に考えて海流のことをきちんと考えていなかったのですが、海流を考慮して進むとなれば、今の釜山あたりよりも巨済島のあたりから出発したほうが確実に対馬に至るのではないかと思うようになりました。
別トピで巨済島は弁韓の古資彌凍国ではないかということを書いたのですが、三国史記をきちんと読むと古資郡が固城郡になったと書かれていました。ただし固城郡は巨済島の対岸にあり、固城郡と巨済島を含めた地域が古資彌凍国だったとも考えられます。

巨済島から出発して朝鮮海峡(西水道)を真南に進むと対馬海流で押し流されて東南の対馬に至ります。そのまま真南に対馬海峡(東水道)を進めばまた流されて東南の壱岐に至ります。もしくは東の沖ノ島や角島のあたりにたどり着く船もあったでしょう。壱岐から壱岐水道を渡る際に、沿岸流で東に流されればエーベルさんのおっしゃるように博多湾へ至ることになります。
今の東松浦半島の当たりが古くからマツラと呼ばれていたことは確かなのですが、博多湾あたりまでも含んだ名称だったのかも知れません。

逆に倭から半島へ向かう際には対馬海流を真横から受けながら進まなければならないので、航海はかなり困難だったろうと思います。それこそ、平戸や五島(値嘉嶋)のあたりから対馬や朝鮮を直接目指したほうが安全な航路だったのではないでしょうか。ニニギが薩摩の笠沙の浜で「この地は韓に通じている」というのも、海流を考慮すれば意味が分かる気がします。潮目の代わりやすい九州の東回り航路よりも西回り航路の方が安全だったろうと思うからです。

帯方郡から狗邪韓国まで向かう航路も、朝鮮半島西岸の沿岸流に乗って南下し、そこから対馬海流で東へ進んだのだと考えれば辻褄が合います。倭から帯方郡へ向かった使者はこの海流に逆らって進むことを避けて陸を進んだのだろうと思います。
>>[11]

韓の滅亡に関する件ですが、これは正始8年の事なのですが、
その前年の正始7年にこういう記事があります。

「韓那奚等数十国、おのおの種を率いて落降す。」

那奚という国は馬韓にはなく、辰韓に冉奚という国があることから、
これはおそらく辰韓の国であり、現在の釜山のすぐ上、北隣のウルサン
あたりに比定されています。しかし、辰韓は12国しかないので、
ここで言う数十国とは辰韓だけでなく弁韓もしくは馬韓の一部をも
含むという事になります。

つまり、この時点でおそらく辰韓八国はすでに魏の手に落ちていた
わけであり、もし鉄が欲しいならもうすでに自由にできるわけです。
従ってその翌年の話し合いで改めて怒る理由がないという事になります。

そして、肝心の翌年の事件の原文は以下の通りです。

部従事 呉林 楽浪 本 韓国を統ずるを以て辰韓の八国を分割して以て
楽浪に与う。
吏訳、転じて異同有り。
臣智は激し、韓は怒りて帯方郡の崎離営を攻む。
時に、帯方太守弓遵・楽浪太守劉茂、兵を興して之を伐つ。
遵、戦死す。二郡遂に韓を滅す。

臣智というのは指導者の名称で、その臣智が怒る前に、
「吏訳、転じて異同有り」と書かれています。これは通常、
「通訳に間違いがあった」と言う意味に解釈されています。
つまり、臣智が怒った原因は、翻訳の間違いであって、楽浪から派遣
された部従事の呉林は、怒らせるつもりはなかったと思われるわけです。

また、中国というのは昔から鉄鉱石が豊富な土地柄で、現在でも
世界全体の年間鉄鉱石生産量の約35%を中国が生産しています。
中国本土への輸送が非常に大変な遠い朝鮮半島の鉄鉱山のために、
わざわざ辺境の地で戦争を起こすというのはちょっと考えられないのです。

従って、「国、鉄を出だし、韓濊倭、皆、従って之を取る。」という一文
のみをもって、魏が鉄確保のために韓を滅ぼしたとするのは無理があると
思います。

しかもこの文のすぐ次には、「諸々の市では、中国で銭を用いるが如く
皆、鉄を用いる。また、楽浪 帯方の二郡に以て供給す。」とあって、
鉄があり余っていて二郡にも供給していたことが書かれています。
つまり、無理して強奪する必要はないという事になります。

古田武彦さんのような人に異を唱えるのは、なかなか勇気のいる事ですが、
こうして考えると、ちょっと同意できないなと思うわけです。
>>[12]

> 帯方郡は後世に編まれた日本と朝鮮の史書には痕跡すらほとんど現れないため謎に満ちてますが、

 本当にそうですね。逆に中国の史書では書によってずれがあり、振り回されているような気がします。
 おそらくはその時の政治状況によって、各郡の領域が常に変化していたせいだと思うのですが。
 しかもその後消滅しているので、正確な記録が残っていないのかもしれません。
エーベルさんの示された図で渤海使の漂着場所のあまりの計画性の無さにちょっと感動しました。大陸の民なのでリマン海流で南下したあとまでは余り考えてなかったのかも知れません。
彼らの帰路についてはよくわかっていないようですが、日本側からも返使があったようで、それを担当したのは渡嶋津軽津司という見慣れない官職だそうです。
想像ですが一度蝦夷地の辺りまで北上してからリマン海流に乗り、日本海を逆時計周りに一周して帰ったのではないかと思います。
一見遠回りですが日本海の対岸はもう既に渤海国の領地なので、敵国の新羅の沿岸を通るよりはずっとましだったのでしょう。
宗像の3つの宮と邪馬台国がどう関係するのか?なんの関係もないのか?というのがあります。Uさんにお教えていただいた辺津宮からみる沖津宮の風景。これだとやはり明確にこの島々に意味がありますね。
感動する写真でした。でもこのあたりは邪馬台国の行程とは無関係の様だし。

海流と言えば、長江のあたりからジャポニカ米がきたことは間違いないようですから、明らかに、長江から九州、日本海へやってきた人たちがいるわけですね。この海路も簡単だったのですね。きっと。
BC496年に越が滅びて逃亡者が九州に来たという話がありますが、以外と簡単にこれたのかと。

それから有明海沿岸の佐賀平野と筑紫平野に邪馬台国があったと仮定したら、有明海から朝鮮半島に行くのはものすごく簡単だったのかと思いました。海流に乗れるのはもちろん、それで流されながら、済州島、五島、対馬などが途中で視界に入るでしょうし、なにより半島は巨大な陸地に見える。流されながら巨斉島あたりに到着したのではないかと。すると、半島からは対馬から壱岐へそしてまつろ国へとなりますが、邪馬台国からは、有明海から半島へ直接向かうのではないかと。その海路もあったかと。
>>[018]

私は東シナ海の海流図を見るまでは、呉越から倭に直接の移住があったという説ははっきり言って眉唾だと思っていましたが、うまく台湾→対馬海流に乗れば不可能では無さそうですね。
ただし逆に長江河口から南下する沿岸流で反対方向のベトナムに流される危険もあります。鑑真が来日に失敗したように。

mixiニュースで台湾に逃亡していたスキミング犯がゴムボートで与那国に漂着して空港にいた所を逮捕されたそうです。

指名手配容疑者、ゴムボートで漂流 与那国島で逮捕 (朝日新聞デジタル - 11/28 05:37) http://mixi.at/aic7Umq

110キロの海を海流のみで渡ったことが事実なら、犯罪者ながら天晴れというべきかも知れません。
>>[019]

私は以前、九州南部から西部の十五夜相撲、十五夜綱引きは、稲とともに中国から来たのではないかと思っていました。

私は海流のことはよくわからないんですが、もし合うなら面白いですね。

十五夜ではないみたいですが「ヘトマト」とか、済州島の十五夜綱引き辺りもあわせて考えると面白いかもしれませんよね。
>>[020]

稲の流入ルートは最近南方説も出ていると思うのですが、九州などの相撲は倭寇が持ち帰った可能性はないでしょうか。
倭寇がそもそも漢人や韓人など雑多な民族の荒くれの寄せ集めで、各地から女をさらって妻にしたとも言われますし、そうでなくても鎖国前の九州では大陸との通商が盛んだったので、比較的新しい時代に入った風習の可能性があると思います。
ヘトマトについては知らなかったのですが、巨大草履を船に見立てると、その上に女を乗せて担ぎ回るのは何となく倭寇の伝統が根底にありそうです。
>>[21] 東に向かうときは海流にのり、西に行くときは季節風だったのでしょうか。もしかしたら。そうすると、対馬や半島から出雲や若狭に行くときは、帰りを季節風の時に想定して出発すればいいから、割と航海の計画はシンプルだったかもしれませんね。
しかもそうするととりあえずいつでも出発しょうと思えば出発できる対馬は半島のほうが、季節風に左右される越から出雲などより、優位にたちそうです。
海流と季節風という二つのエンジンを計画的に組み合わせれば、古代日本海航路は高速道路といってもいい海路ですね。
>>[023]

江戸時代の北前船の運航がまさにそんな感じだったようです。春先に上方の品を積んで各地で商いながら蝦夷地まで北上し、北風に乗って南下しながら昆布と米を山ほど積んで大阪に戻る交易ルートは平和な江戸時代に完成されましたが、もっと古い時代からあったのだろうと思います。
>>[24] なるほど。半島の文明や鉄などが海流にのって、出雲、丹波、若狭湾、能登、越へ、いき、それらの地域のものが、季節風に、のって、九州、対馬、半島へ。古代日本海交易圏は、ありそうですね。若狭湾からは、琵琶湖や尾張や河内の物まで、発信されてたのではないか。越からは、諏訪や、長野のものが。そうすると、日本海という高速道路を大動脈にして日本中でひとつの交易圏を作っていたことが考えられ、そのまとまりを国にしたのが、ヤマト王権ということで、一から統一作業したわけではなく、正に国譲りを三回くらいしたら、天下統一ですね。
>>[25]

不弥国についてのトピの方で丹波王国について考えていた時に気付いたのですが、この地域は羽衣伝説の発祥地です。羽衣伝説は丹後国風土記ではトヨウケビメに比定されていますが、トヨウケビメは明らかに食糧神です。

また、羽衣伝説は七夕ともつながりがありますが、七夕は、中国の『七夕』と後世に合体するまでは、元々は『棚機』であって、合体した理由は『七夕』も『棚機』も両方とも7月の行事だったからです。それゆえ今でも『しちせき』と読まずに『たなばた』と読むのです。

『棚機』はそもそも仏教伝来以前のお盆の行事であり、仏教以前のお盆は祖霊祭祀と豊作祈願が原型で、『棚機』とともにベトナム・中国南部・台湾などの照葉樹林帯に今でも広く伝わる風習です。この地域はすべて古来から稲作をしてきた地域です。

従ってこれらの風習は稲作とともにこの地にやってきたのではないかと考えられるのです。
上記[15]の長江文明の流入を示した図の補強証拠になると思いませんか? つまり稲作は九州経由ではなく、長江流域から日本海沿岸へ「直接」入ってきた可能性があるわけです。

さらに、棚機の『棚』とは供物を乗せる棚であり、この行事には神への捧げものが必要だったことの名残であると考えられるのですが、棚機のルーツを調べると「機織淵伝説」というものがあり、水神の生け贄に捧げられた娘が神の妻となり、水の底で機を織りつづけるという民話や伝承が日本各地にいくつも見つかるのです。

これが、上記の[10]に書いた話につながるのですが、魏志の沃沮の項の現地の古老の話として、東の海に島があり、言葉が通じず、 不思議な風習を持つ民族が住んでいるという話の詳細はこういうものです。

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王頎は毋丘倹の命をうけて本隊から別れて高句麗の位宮を追い、北沃沮の東境にまで至り、その地の老人に尋ねた「この海の東にも人が住んでいるのか。」すると老人が言った「この国の者が昔、船で漁をしていて暴風にあい、数十日流されて東方の島に漂着しました。その島には人がいましたが言葉は通じません。その地の習俗では、毎年七月に童女を選んで海に沈めるのです。」また次のようにも言った「一枚の着物がこの浜辺に流れついたことがあります。その丈は普通の人の着物と変わりませんでしたが、袖の長さは三丈(約10m)もの長さがありました。また難破船が流れ着いた事もあります。その船には頚にもう一つの顔がある人がいて、生け捕りにされました。しかし話しかけても言葉が通ぜず、食物を取らぬまま死にました。」こうした者たちが住むところは、みな沃沮の東の大海の中にある。
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北沃沮というのは、現在の北朝鮮の北東部、ロシアとの国境付近に当たります。日本海をはさんで反対側は能登半島です。この老人の話はどこか日本以外の国の話か、あるいは三国志によくある突拍子もないおとぎ話の類かと思われて、特に注目されていなかったのですが、少なくとも毎年七月に童女を選んで海に沈めるという話は、今に伝えられていない古代日本に実際に行われていた風習である可能性も考えられるのです。

だとすると、渤海使の後期に行われていたという、半島を経由せず直接日本海を横断する海上ルートは、季節風と海流の条件さえ整えば、数十日で横断する事が十分に可能だった証拠にもなるわけです。

長さ三丈の袖の着物というのが、あるいは羽衣を模した儀式用の着物だったのかもしれません。
>>[28] はごろも伝説。そうですね。ありますね。確かに古代日本海交易圏というのはほんと、奥が深そうです。教えていただいた北沃沮の東夷伝の記事読んでみました、わざわざあの長さの東方の漂着先の島の出来事書くのも不思議ですね。あれは列島の越の国のことに見えます。ちょうど、北沃沮から漂流するなら能登半島の東西あたりかと。ある意味日本海というのは太平洋と違って漂流しても必ずどこかに流れ着く安全な海かもしれませんね。そんな安心感が活発な航海となって邪馬台国にも影響しているかもしれなどと想像します。
そして漂流ではなく、意図的に航海するなら10日くらいでも到着できることもありかなと。出雲あたりならそれくらいかと。古代の海というのは現代のわれわれの感覚以上に日常的な交通手段のような気がします。特に、日本海というのはもと湖だけあって、宗谷海峡あたりと、対馬海峡あたりで狭く閉ざされているし、大小の島や半島や大陸がたいていどこからも見えるから、航海しやすかったでしょうね。大きさはカスピ海くらいでしょうか。
長江からのルートも頻繁であれば、ほんとにこの海流の中の島々は、南北に長く文化の影響を受けるゾーンですね。
>>[28]

童女を海神に捧げる儀式はヤマトタケルの東征や、ヤマタノオロチに娘が捧げられていた風習を思い出させてくれます。残酷極まりない話ですが、たとえば朝鮮のパンソリ「沈清歌」でも親孝行な娘が清国に売られていく途中で嵐に遭い、船人たちを救うために海に身を投げる話があるなど、日本以外でも共通の認識として存在している考え方だったのではないかと思います。

私は旧丹波国(丹波、丹後、但馬を合わせて三たん地方というそうです)というと、浦島太郎伝説を思い出します。実際の国と竜宮を重ねることは難しいでしょうけれど、船が海流に乗ってしまい人が消えてしまうことや、何年も経って村が戦乱で荒廃するなどした後にひょっこり人が戻ってくる話などは沢山あり、それが伝説として残ったのだろうと思います。
そういえば垂仁天皇の時代に黄泉国へ渡ってときじくの木の実(橘とする説あり)を得たのは田道間守(たぢまもり)という人で、彼は渡来人であるアメノヒボコの子孫だそうです。魏志倭人伝に出てくる都市牛利であるという説もあります。

東シナ海の海流を見ると、長江の河口流と対馬海流が合わさって九州方面へと向かっています。
この海流にうまくのれば長江河口あたりから九州への航海は不可能ではなかったんだろうと思います。
もちろん、陸続きで朝鮮半島を経由したほうがはるかに安全であることは間違いないでしょう。
また、対馬暖流の一部は済州島や朝鮮半島にぶつかって方向を変え、長江河口付近へと流れています。
後の遣唐使船はこの海流と季節風を使って航海していたのだろうと思います。
>>[030]

この図を見ると、海流は長江から九州南部へは向かっていないみたいですね。

普通に黒潮を考えた方が良さそうですね。

台湾に十五夜綱引きなどの風習があれば面白いです。

しかし、十五夜の風習は平安時代に日本に入ってきたらしいですね。
>>[31] 確かに南九州には向かってないですね。むしろ途中対馬海流に合流するから、長江の文物や人は、そのまま日本海へ向かうことになりますね。筑紫、出雲、越がそのルートにあるというのは偶然ではないと思います。たった10人の、古代周、漢、楚、越あたりの人間が来るだけでも、米作、住居の作りかた、人間組織の運営方法、などなど、大変な影響がでたのではないかと思います。
>>[32]

ありがとうございます!

長江から日本海へのルートなんですね。

たった10人ですか。

遺伝子や言語には影響が出ないけど、いろんなことが伝わってきたかもしれないのですね。

興味深いです!
>>[31]

確かに南九州はいわゆる黒潮文化圏との関連性が深いのでしょうね。
こないだ鹿児島の黎明館(歴史資料館)で「隼人の盾」のレプリカを見ましたが、台湾や南洋各地で見られるものに似ていると感じました。もちろん、渦巻き模様はアイヌにもあるし世界各地で普遍的に見られるものですが…。

台湾の風俗については漢人の風俗は大陸起源のものが多いのですが、アミス族の豊年祭は毎年旧暦の7〜8月頃に行われ、相撲や綱引きもあるようです。ただし、十五夜と直接の関連はないと思います。
台湾先住民の相撲についてはヤスさんの方が詳しいのではないでしょうか?いずれにせよ、日本にも中国式の祭礼が入ってくる前に土着の祭りがあったでしょうし、十五夜もあったのかも知れませんよね。
>>[33] 大挙して、ヨーロッパの民族移動のように来たら、文法まで変わりそうです。でも、ゲルマン人の大移動でも、イタリアは、ラテン語で、スペインもラテン語で、変化はしても根本は変わってないか。すると、時に応じて、何百人かづつ来ても、言葉は単語が入るレベルでしょうか。ヒーフーミーというのも江南からだったと思いますが。紀元前500年の越の滅亡前後の日本に、まさしく越の亡命者が2,300人くらいでも、日本海に来たら、その当時の古代中国文明は、列島において、破格なものではないでしょうか。特に、遺跡とならない、国の組織づくり、運営方々。軍隊の行動方法などソフトパワーが威力を発揮したと想像します。そんなに物資は、運べませんから。ジャポニカ米くらい。文字と鉄器の作り方とか。荘三の余地がありすぎて楽しいです。この黒潮の流れかた。
>>[30] この海流に沿って、人、物、智慧 が移動したと考えれますね。示唆に富む図です。
この海流全域が実は大きな文明の大陸のようなものかも。
ポリネシアでは海流の地図が有名ですよね。日本にもなかったのでしょうか
同様にして匠に海流を航海すれば台湾から樺太あたりまで、島々と大陸は繋がってるということですね。
>>[034]uさん >>[035]エーベルバッハ少佐さん

ありがとうございます。

弥生時代だけではなく、旧石器時代や縄文時代も半島ルートが主流だと思いますし、樺太から南下した人たちもいたでしょうけど、黒潮に乗ってやって来た人たちは想像するよりも多いのかもしれませんね。

古代の舟を想像するとやって来たのは少人数な気がしてしまいますが、何度も何度もやって来て、大きな勢力にまで発展したのでしょうね。
これなら古代の人達も作れそうですね。

5.阿美族的竹帆筏
http://ship.nmmst.gov.tw/dbx/Editor/Assets/ship03_01-05.jpg
スミマセン、40は「古代の阿美族」という意味でした。
>>[41] ポリネシア船です。面白いですね
>>[040]

古代の航海は竹など浮きやすい素材の筏が多かったという説もあります。
素材自体浮きやすく壊れても海上で修理ができ、食糧と真水に乏しい外洋でのサバイバル技術に長けていれば長時間の航海は可能ですが、欠点は素材の浮力に頼るため重い荷物や大人数を運べないことでした。
そのため木船にとってかわられ、更に堅牢な鋼鉄船の時代になるのですが、転覆すれば沈むしかない鉄船が果たして理想的な海上交通なのかははなはだ疑問です。
>>[43]

ありがとうございます!

筏で本当に日本まで来られるのか、ちょっと心配ですが、古代人は現代人の想像を超えているかもしれないので、可能だったのかもしれないですよね。

竹の筏だったらたくさん作れるので、何隻も一緒になってやってきたかもしれないですね。
>>[42]

カッコイイですね!^^

これでイースター島まで行きましたかね?
>>[45] これは絶対に沈みませんから。楽勝ではないでしょうか。海流にのる技術をもっていたわけですし。食べ物は魚をとらえ、水は雨がふるというおおざっぱな。でも淡水は用意してたでしょうね。さすがに。

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