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邪馬台国コミュの水行20日水行10日陸行1月の読み方 私案と理由

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水行20日水行10日陸行1月
合計六十日ですね。

これが行きの行程の一部ならば、ふみ国から六十日もかけて邪馬台国に行くことになります。
ふみ国まで帯方郡から10日はかかったと考えれば、なんと片道70日。
こんな軍事同盟があるでしょうか。途中に海峡まであって。
しかも女王が一大卒を置いた伊都国は女王国の首都から片道六十日。
それはちょっと人間社会の営みではないのでは。

それに親魏倭王を名乗っても、70日先の帯方郡が脅威となるでしょうか。
そもそも七十日かけて訪問する手間ひま考えたら、自前の軍備を増強したほうがいい。

ぼくはだからこれを投馬国からの帰路、邪馬台国からの帰路と考えています。

旅行会社のプランのこんなパターンと同じ

フランクフルト空港到着 そこから電車で東北に進みベルリンへ そこから南に電車でウィーンへ
そこから西北に飛行機でパリへ そこから船でロンドンへ北西方向 ヒースロー空港発で成田

旅の一部なら最後はヨーロッパ旅行なのに成田?となるけど帰っただけ。
こんな事情ではないかと推理する。
ちなみに
陸行一月は誤記とは思っていません。ただし日本列島のどこかを目的地として、そこに向かう時に一月も歩く必然性のあるルートがないと考えています。

半島も帯方郡までは南岸と西岸を船で行けるので、単に移動が目的なら一月も歩かない。
したがって水行の部分は、復路の日程を書いたという想定上、考えられる可能性として2つ。

1.帰りに有明海から半島へ10日かかった。その後、三韓を視察しながら、ゆっくり逗留しながら、一月かけ歩いてて帰ったというのが一番ありそうな話。
(投馬国から出航した一団はそのまま帯方郡へまっすぐ20日で帰った)


2.遭難して10日かけて半島に到着。遭難したばかりだから、また船に乗る気がせず、船はこりごりで歩いたというのも人間的にありそうだと思ってます。
うがった見方をすれば、正式な使節団が帰りは遭難したなどと書くと恰好つかないからさらりと、水行10日、陸行一月と書いた。説明なしで。
ここまでくると小説的な解釈ですが。

ただ遣唐使の往復路を見ると、あれは遭難前提でやってるような気もします。
ひょっとして当時の航海時の概念はこんな感じ。
目的地にそのまま行く。30%。流されて目的地の割と近くに行く。40%。
流されて目的地よりかなり離れたところに行く。30%。
最初からこんな風な受け止め方であったかもなどと思っています。

遣唐使の場合は行きが大陸で広い陸地だから、このときはとにかく西に向かってこげば遭難しても大陸のどこかにはつく。(小さい陸地の日本に帰るときに落命してるケースが多いです)
空海などもとんでもない南方に漂着しました。でも、広い陸のどこかにはたどり着くわけです。それと同様に有明海から半島へは五島を西に見ながら北上すればすぐ半島の巨大な陸地が広がるので遭難して流されても、対馬や半島東岸のどこかにたどり着く、海路だと思うのです。
これは子供時代に海辺の村でしょっちゅう船に乗っていたものとしての実感です。海は大型輸送路、高速道路です。車や馬のないものにとって。

コメント(9)

ドイツツアーの喩え、面白かったです(^^)
プロフィールを拝見しましたがドイツのご出身なんですね。

私は「又」という接続詞の使われ方から投馬国までの経路と邪馬台国までの経路とは別だと思うので、仮に始点を狗邪韓国だとして、邪馬台国までは船で10日+徒歩で一月、もしくは奴国か伊都国起点で船で10日=徒歩で一月だと思っています。

古代の帆船でも風が良ければ時速5km程度は進んだようなので釜山から博多の210kmは2日ほど有れば足りる計算になり、ならばソウル付近と見られる帯方まで10日で行けそうな気もしますが、対馬や壱岐で休憩して結局10日くらいかも知れません。
朝鮮出兵や元寇も大体そのくらいかかっているようです。

古代の遣唐使船がかなり無謀な航路を取っているのは日本と高句麗、または新羅の不仲によるものでしょう。
彼らの妨害を避けて東シナ海を直航するルートを選んだために多大な犠牲を払いましたが、それでも海を渡る価値があったのでしょうね。

魏と韓人も決して友好関係ではなく、特に高句麗からは常に攻撃されて結局半島から撤退していますし、三韓からの攻撃も受けていました。
海路で狗邪韓を目指したのもそのためかも知れません。
特に馬韓は高句麗系王族の国でしたし、後に百済として倭と盟を結んでまで唐と戦うなど、漢人には根強い敵対意識があったことがうかがえます。

逆に日本海側の辰韓は秦韓とも呼ばれ秦の移民が開いたとされるなど、比較的漢人寄りであると見られ、弁韓の狗邪韓もその影響下にあり、魏の船が寄りやすい場所だったのかも知れません。
訂正

「又」という接続詞は魏志倭人伝の該当箇所では使われてません。後世の「太平御覧」と勘違いしてました。いずれにせよ、投馬国は邪馬台国への途中には無かったと思っています。
ついでですが、倭の五王の時代に安東将軍を名乗ることが許されたのも、上のような微妙な半島情勢があります。
日本では韓人が常に中国寄りだと考え勝ちですがそれは後世のことであり、当時は半島における中国の覇権は弱く、それを牽制する上で倭はうってつけだったのが、新羅の強大化によって百済と高句麗を抑え、やがて滅亡させることができたので倭国の重要性が低下した。遣唐使の廃止もそのような文脈で捉える必要があるのでしょう。
使節団は例えばこんなルートで有明海から直接水路で帰った。半島まで水行10日。そこから帯方郡へは水行でさらに10日。(合計20日)陸を行くなら1月。ほんとうは24日くらいかも。でも24日なら1月と表現するのでは。

あるいは邪馬台国人たちは帯方郡に行く時は有明海から直接半島へ向かった、その所要日数はとして、水行、陸行の記載になった。

もっと言えば壱岐にも対馬にもよらずに直接半島にいくことも大いにあったと思います。
五島を西に見て北上すればやがて東に対馬の陸影が見え、半島の巨大な、九州北岸よりはるかに巨大な陸が見えてくる。五島と対馬はこの航路の位置確認のために存在するかのよう。そして朝鮮半島という陸地は巨大です。五島あたりから北上すれば必ず見える。そして流されても対馬が見えるからどこにいるかわかる。
そう考えると対馬海峡航路は恵まれた航路だったと思います。
>>[004]

帯方までの日数だとした場合、狗邪韓からマツラ国までは風待ち含めて10日程度だとして、いくら楽な沿岸航海でも、その四倍近い距離のある狗邪韓から帯方までを10日で行けたかという疑問があります。
となるとマツラ国→狗邪韓を10日+狗邪韓→帯方を陸路で一ヶ月の方が良さそうですね。

恐らく、最初に女王国の使節が帯方を訪ねたときに半島を進んだときは陸路を通ったのではないでしょうか。

倭船か韓船で何とか海峡は渡ることはできても、そこから航路の分からない沿岸航海は避けて、陸路で郡を目指したのだと思います。倭から魏への供物の大部分は足のある供物、即ち奴隷であり、船で運ぶ必要はありませんでした。

逆に魏から倭への返礼の船は堅牢な漢船で、おまけに大量の銅鏡をはじめ膨大な下賜品を積んでいました。
そのため山の多い韓の陸路を人力で運ぶことは避けて、よく知る韓の沿岸航路を通って、倭まで水路で一直線に向かったのでしょう。その代わり倭の水路はよく分からなかったため、マツラ国で上陸して陸路で宝物を運ばせたのではないでしょうか。

倭人伝だと順序が逆になっているために先に魏から女王国を目指しているように読めてしまいますが、実際は倭の方から先に訪ねており、その日程をそのまま記しているのではないでしょうか。
勿論、投馬まで二十日との整合性も考えなければいけませんが。
追記です。
マツラ国→狗邪韓を10日と書きましたが、エーベルさんのおっしゃるように女王国→狗邪韓を10日としても良いと思います。
大まかに言って倭から韓へは夏に、韓から倭へは冬に渡ってきたようで、帆船の時代は季節風を利用した航海が主流でした。
夏は南風(はえ)が、冬はアナジという強い西方風が吹き、これに乗れば倭と韓の航海は容易だったろうと思います。
半島南岸から対馬。壱岐。まつろ国までそれぞれ1000里だから合計3000里。壱岐から有明までこの縮尺なら2000里。合計4000里です。
半島南岸から帯方郡まで7000里とあるから4000里を10日なら7000里は20日となっても可かなと。
里程問題は重要ですが、よくしらないぼくはおおらかにこう考えます。
いずれにしてもそれぞれの距離の比率、縮尺には整合性があると。
半島から対馬を1000里なら半島南岸から帯方郡の7000里はちょうど対馬までの1000里の7倍くらいだと。帯方郡から筑紫平野の有明沿岸は、帯方郡=南岸の7000里の2倍弱、対馬までの12倍と。
そうすると、一里が何メートルかという大問題は未解決ですが、あの記述は、正しく、実際の
里ていを一定倍数拡大したものであると。すべてがめちゃくちゃではなくて、基本正しいがそれぞれの距離をすべて例えば10倍にしたと。こうすることで邪馬台国を遠方にしたのだと。
一説によると大月氏国が魏に朝貢し
西の大月氏、東の邪馬台国という構図を作りたかったと。それで邪馬台国までの距離は一定倍数拡大された。
拡大されたのであって、場所場所の距離の比率はかわってない。対馬までが1000里の距離を基準い7000里と12000里が整合性があるように見えます。
すると壱岐から1000里は唐津では当然近すぎ、伊万里か博多湾東岸です。博多湾から太宰府までが500里で、そこから朝倉平野の入口まで100里です。同じ比率で。

南岸から帯方郡まで7000里。これは倭人伝のっ縮尺で水行で10日。陸露で約一ヶ月。
そんな風に想像しています。
追記*一里が本来500メートルとのこと。
メルカトル図法の地図上では倭人伝の記述はどう見ても50mくらいだから、どう解釈しても、実際の里程には当てはまらないのかもしれないですね。
でも一里を50mで見ていくと、使用されている距離はみな正しい比率に見えるのです、一つ一つめちゃくちゃではなくて。だから、魏は本来の距離を知っていた上で、最後に記載するときに、すべての距離を10倍した。と考えると人間的で文学ずきなぼくは妙に納得してしまいます。
理由は先にあげた「大月氏(チベット)=西戎の大国」と同規模の、東夷の大国として邪馬台国を演出したかった。
だから距離については実際の10倍で書いた。西と東のこんな遠い大国がそれぞれ魏に朝貢してきたのだぞと。この学説を唱えた方によると戸数も誇張されてると、チベットに匹敵するように。
追記の追記 地図で見ると洛陽からチベットと洛陽から邪馬台国って二倍くらいの差はあっても途方もない差ではないですね。西のマークがチベット。中央洛陽。東の緑マーク、想定する邪馬台国です。

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