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邪馬台国コミュの食料確保の観点から考える

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ぼくの比定するクニの位置です。

筑紫平野の朝倉郡あたりが奴国 2万戸
佐賀平野が投馬国。 5万戸
筑紫平野の南が邪馬台国。 7万戸

*伊都国は福岡平野と筑紫平野の境目。
山にはさまれた大宰府のあの狭いポイント。
だから戸数が少ない。あの山の門のようなところで筑紫平野の入口を守る。博多湾に上陸して筑紫平野に行く人たちは必ずこの大宰府の山門を通るから半島の使節も必ず立ち寄らざるを得ない。


この平野部分が邪馬台国中核と考えています。
この時代になぜクニができたかというと
大規模米作のための、労働力確保と
その平野と川を守る防衛上の必要性からだと考えます。
どこの古代文明も同じような理由で成立。穀物栽培の開始こそまとまった文明の開始です。

上記の平野だけでは狭すぎるという意見に対しては米作の生産性を考えてみたいと思うのです。

佐賀平野・筑紫平野・福岡平野の合計面積は60億坪あります。2千キロ平方ーメートルです。
現代農法では、一人分の年間消費量の米作りのために必要な農地は40坪です。
60億坪の半分30億坪使っても、750万人分の米が作れる計算です。
そして生産性がどれくらい低かったかは実は知らないのですが(調べています)10分の1として、75万人が暮らせます。
邪馬台国や投馬国、奴国の周辺合計戸数は15万戸数くらい。
同時代の半島の一戸あたりは6.5人というデータがあるのでそれを適用すると、90万人。
これは食料生産性から類推する人口と同レベルです。(60億坪のうち何坪農地にしたかと、生産性が現代の何パーセントかがあいまいですみません。研究中です)

当時の土地利用というのはほぼすべて米作農地です。当時の労働のほぼすべて、当時の経済問題のほぼすべては米作です。クニのエネルギーのすべては米作とその土地の防衛なわけですから 、遊びのような生産性ではなかったのかなとおも考えています。

コメント(4)

読ませていただきました。自分への反省も込めて書いているのですが、これまでの邪馬台国研究は「古地名との類似」及び「記紀との整合性」という部分に囚われすぎていて、食糧生産や考古学的発見を軽視してきた側面があります。

地名は日々新たに作られる一方で数百年の歴史を経ても変化しないものがあり、決して軽視はできないのですが、例えば同時代の三韓の小国名について調べてみると、三国時代の郡名と対応しているものは半分程度で、統一新羅時代には全て唐風の地名に改められたため、現代韓国の地名と対応するものはほぼ皆無です。
これと日本の状況は同じではないのですが、律令時代の郡名と対応するとしても半分程度だと考えた方がよいのだろうとは思います。

伊都国=糸島と古くから考えられてきたのは、律令時代以前に伊都県(いとのあがた)が筑前国に置かれていたからですが、これが後の怡土郡(いとぐん)、現在の糸島に当たるという確証はないのかも知れません。
大宰府(おほみこともちのつかさ)はいわゆる官製地名ですが、この地名がつけられる以前の固有の地名はわかっていません。郡名としては御笠郡に当たります。
一大率と後世の大宰府は機能的によく似ており、名称も似ているため、何らかの関連性はあったのだろうと思います。
「双方に山が迫り糸のように細い地形であるからイト国」だと考えることは可能だと思います。

疑問点を挙げるとすると、邪馬台国、投馬国などが全て九州にあったとして、当時すでに一大勢力となっていた出雲や大和について、魏志は言及していなかったのか、という点があげられます。
もちろん、これについては遠隔地であったために帯方郡は認知していなかったのだという反論が可能です。発見された銅鏡の枚数などから見れば、北九州は出雲や近畿よりもはるかに半島や大陸の影響を強く受けていたことがうかがわれます。
例の「陸行一月」については誤記であるというお考えでしたよね?
ありがとうございます。
知識の分厚さが僕とは異次元なので勉強になります。これからもよろしくお願いします。
僕の場合はGoogleアースの衛星写真で倭人伝を眺めた時に気づいたことや感じたことをつづったエッセーです。歴史、考古学は素人なので経済的、軍事的観点で書いてます。

ご指摘の部分はこう考えてます。
日本列島には平野が少ない。米作を覚えた倭人たちの大規模平野における土地争い、水争いが倭国大乱の原因ではないかと思います。
東夷伝の最後の倭人伝にやっとこの親魏勢力の記載があるわけですが、他の倭種のクニを割愛するのは、魏としての政治的な関係性がなかっただけとおおらかに考えてます。
彼らは倭の全土の社会観察に来たわけではなく、同盟国邪馬台国と親睦を深めに来ただけですから。
邪馬台国が魏には用事はあっても呉にはさほど関心がないのと同じかと。

邪馬台国本土は筑紫平野で、中核は福岡、佐賀平野と狭いですが、倭人伝の記述は、邪馬台国連合に及んでいてそれは、直方平野、中津宇佐平野国東まで含むのかなと思ってます。

ローマ帝国はローマが本土で、イタリア半島が中核で、地中海がその全体だったと。これと同じような権力の広がりかなと。地中海沿岸のどこにもローマの痕跡があるわけで、いわばすべてローマに間違いありません。といって七つの丘のあるローマは一か所しかない。そんな状況が日本古代史の現況なのではないかとも思っています。

不作のための複数の平野の相互扶助システムが広域の国(邪馬台国連合)の存在理由ではないかと。
そう考えてます。


ご指摘の伊都国と大宰府の役割はほぼ同じですよね。ウィキペディアで比較すると、同じものの説明かと思います。
地政学的に九州北部を支配するにはあの場所が最適だということではないしょうか。
御笠川ですぐ博多湾に行けるし、筑後川ですぐ有明海にいける。
伊都国の一大卒としての役割を考えると、なぜ糸島にそれがあるのか、地理的には無意味な場所のような気がしてます。
そして糸島だと戸数が少ない理由もないような気がします。

 食料については古くから論じられていることですが、弥生時代には広範囲の交易があり地産地消で考えない方がよろしいと思います。

 例として飯塚の立岩遺跡の石鎌は北部九州全般で見つかっており、交易圏というか経済圏があったのは共通の認識だと思います。

 交易圏単位で食糧生産力を判断する必要があるのではないでしょうか?また、環濠集落や倭国の内乱は食糧不足を意味していたのではないかと思います。
なるほど。当時の交易は列島規模に近いものだったかもしれませんね。
またご指摘の「交易圏」こそ当時のクニの広がりかもしれませんね。もしくは同一勢力圏。
素人考えですが、道具や特産品的なものや、水銀や、黒曜石などの資源のようなものの交易と、穀物中心の食料の交易とは事情が違ってくるのではないかと考えています。
三大丸山遺跡に人々が1500年定住できた理由は植林したとされる栗林が、栗を安定供給し続けたからだと思います。栗林が枯れてそこは無人となった。
一定レベルで同一場所で食料の確保ができなければ、大きな人口が定住することはできないかと。
しかしながら、日本海沿岸で言えばおそらく、海から眺めると九州北岸から能登半島までは楽に交易できたと思いますが、

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