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邪馬台国コミュのC14で箸墓古墳の年代特定か

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mixiニュースは読売新聞に準拠、その読売新聞は共同通信から転載したものです。
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■奈良・桜井の箸墓古墳、卑弥呼の墓か…死亡時期と一致
(読売新聞 - 05月29日 11:19)

「卑弥呼の墓」との説がある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)の築造時期について、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究グループが240〜260年とする調査結果をまとめた。

 31日開かれる日本考古学協会の総会で発表する。

 この年代は、魏志倭人伝に「卑弥呼以て死す、大いに冢(ちょう)を作る」と記載された247年頃と時期が一致し、倭の女王・卑弥呼がいた邪馬台国の位置論争にも影響を与えそうだ。同グループの春成秀爾・同博物館名誉教授は「これで箸墓古墳が卑弥呼の墓であることは間違いなくなった。生前から墓を作り始めていたのだろう」と話している。

 年代は、同古墳から出土した「布留(ふる)0式」と呼ばれる土器に付着した炭化物など約20点を放射性炭素(C14)年代測定した結果、導き出された。

 この年代について、寺沢薫・奈良県立橿原考古学研究所部長は「今回測定された土器の試料のうち、築造時のものは少なく、誤差を考慮すれば、まだ結論を出すわけにはいかない」と慎重な姿勢をみせている。

 箸墓古墳は全長280メートルで、最初に築かれた巨大前方後円墳。邪馬台国論争の鍵を握る古墳として注目されている。
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http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=851679&media_id=20
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20090529-OYT1T00384.htm?from=y10



朝日新聞では他社に先駆けてスクープ、全国で今日の朝刊の一面を飾りました。
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奈良・箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致 歴博測定
2009年5月29日3時5分

古墳時代の始まりとされる箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)が築造されたのは240〜260年という研究を国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)がまとめた。放射性炭素年代測定によるもので、250年ごろとされる卑弥呼の死亡時期と重なる。畿内説と九州説とが対立している邪馬台国の所在地論争にも一石を投じることになりそうだ。

 「魏志倭人伝」など中国の史書によると、卑弥呼は2世紀末〜3世紀初め、それまで戦乱を繰り返していた倭国(わこく)(現在の日本)の国々が共通の女王として擁立。邪馬台国に都を構え、239年には中国・魏王朝に使者を送って皇帝から「銅鏡百枚」など多くの品々を贈られたとされる。

 全長280メートルの前方後円墳である箸墓は、最大でも110メートルだったそれ以前の墳丘墓とは規模が大きく違う。強大な政治権力が誕生したことを物語り、時代の画期を示すものと考えられている。魏志倭人伝にある卑弥呼の墓と、箸墓の後円部の大きさが近いことなどから、古くから箸墓を卑弥呼の墓とする考えがあった。

 考古学では、少し前までは4世紀の築造と考えるのが主流だった。宮内庁指定の陵墓で本体の調査はできない。周囲で出土した土器や他の古墳で見つかった鏡などを手がかりに研究が進み、3世紀後半と見る研究者が増え、卑弥呼との関連が注目されるようになっていた。

 歴博は全国の5千点を超す土器の付着物や年輪の年代を測定。その結果、箸墓の堀や堤からも出土し、箸墓が築造された時期の土器と考えられている「布留(ふる)0式」が使われた期間を240〜260年に絞り込んだ。

 31日にハワイで始まる放射性炭素国際会議と、同日に早稲田大である日本考古学協会の研究発表会で報告される。

歴博研究グループ代表の西本豊弘教授(考古学)は「慎重に進めた5年間の研究の総まとめで結果には自信を持っている。どのようにしてこの年代を求めたのか、だれでも検証できるように測定データも含めてきちんと公表するようにしたい」と話している。(渡辺延志)
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http://www.asahi.com/culture/update/0528/TKY200905280355_01.html
http://www.asahi.com/culture/update/0528/TKY200905280355.html

産経では第一報以降も追跡記事を出しています。
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◎卑弥呼の墓か、築造期一致 歴博研究グループ調査
2009.5.29 09:38
邪馬台国の女王卑弥呼の墓説がある奈良県桜井市の前方後円墳、箸墓(はしはか)古墳(全長約280メートル)の築造時期が、土器などの科学的分析で240〜260年と推定されることが、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究グループの調査で分かった。

 中国の歴史書「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は248年ごろに死亡したとされる。研究グループの春成秀爾同館名誉教授(考古学)は「時期が一致し、卑弥呼の墓の可能性が極めて高くなった」と指摘。畿内説と九州説に2分される邪馬台国の所在地論争に影響を与えそうだ。

 研究グループは「放射性炭素年代測定法」と呼ばれる手法を使い、箸墓古墳の周濠(しゅうごう)から出土した築造時とみられる土器10点に付着した炭化物を分析、測定値を年輪年代測定法の年代で換算した。この手法には、精度や測定データ処理に対し、慎重な見方をする研究者もいる。

◎土器の炭素年代が卑弥呼と一致 奈良・箸墓古墳
2009.5.29 11:07
 邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説もある奈良県桜井市の箸墓古墳(前方後円墳、全長280メートル)について、古墳の周囲から出土した土器の放射性炭素年代測定と呼ばれる科学分析の結果、西暦240〜260年に築造されたとの研究成果を国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究チームが研究成果をまとめたことが29日、わかった。248年ごろとされる卑弥呼の死去した年代と合致し、邪馬台国の所在地論争に一石を投じそうだ。31日に早稲田大学で開かれる日本考古学協会で発表される。

 研究チームは、同古墳前方部近くの周濠から発掘された「布留(ふる)0式」と呼ばれる土器の表面に付着した炭化物を測定。「放射性炭素年代測定法」は経年による炭素の減少具合で、土器の年代を割り出す科学的な手法で、測定の結果、240〜260年の範囲に相当したという。

 測定した炭化物は、食べ物の煮炊きの際に土器に付着したとみられる。発掘状況から土器は、箸墓古墳の完成間もない時期に廃棄されたとみられ、築造時期に近いとしている。

 箸墓古墳はこれまで、土器の形式によって年代を絞り込む考古学的手法によって、270年前後の築造とされ、中国の史書「魏志倭人伝」に記された卑弥呼の次の女王、壱与(いよ)の墓との説もあった。

 放射性炭素を利用した年代分析は、炭化物に不純物が混じると年代がずれ、誤差が大きいとして、批判的な見方も根強い。研究チームは、箸墓古墳出土の土器だけでなく、周辺の古墳で見つかった土器でも測定を試みており、ここでも、同様の年代が出たことから、「分析結果の精度は高い」としている。


◎「被葬者は卑弥呼だろう」福永伸哉大阪大教授(考古学)
2009.5.29 11:11
福永伸哉大阪大教授(考古学)の話 箸墓古墳の築造時期は、ほぼ同じころとみられる古墳で出土した銅鏡の研究から、250年前後と主張してきた。魏志倭人伝など、当時を知り得る資料から言えば、これだけの巨大な古墳に埋葬されたのは卑弥呼だろう。ただ、放射性炭素年代測定法は万全とは考えていない。他の方法での実証や検証を積み上げて年代を決めるべきだ。
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http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090529/acd0905290940001-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090529/acd0905291110002-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090529/acd0905291111003-n1.htm

私の日記でも取り上げました。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1181285613&owner_id=509182

コメント(391)

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奈良県桜井市の纒向遺跡で3世紀前半、最大規模の建物遺構を出土
2009年11月09日 21:26更新

 邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で3世紀前半と見られる大型建物遺構を確認したと同市教育委員会が10日発表した。

 復元すると南北19.2メートル、東西12.4メートルと推定され、高床式で3世紀中ごろまででは国内の建築物では最大規模。市教委は「遺跡中枢部の居館域で、中心的な人物がいた建物」と説明している。

 邪馬台国論争に影響を与えることは必至で邪馬台国が畿内にあったと見る場合、纒向遺跡が最有力候補地とされてきた。

 市教委によると纒向遺跡で出土した土器などから3世紀初頭から半ばごろまで存在した可能性が強いという。また周辺で発掘された3棟とともに中心軸が東西の同一線上に計画的な並びで「弥生時代の建物とは一線を画する」としている。
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http://www.zaikei.co.jp/article/biznews/091109/40967.html

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3世紀前半、国内最大の建物跡 奈良・桜井市の纒向遺跡で発見
(日経産業新聞)
 邪馬台国の有力候補地、奈良県桜井市の纒向遺跡の中心部を調査中の同市教育委員会は10日、3世紀前半の大型建物跡を見つけたと発表した。復元すると南北長19.2メートル、東西長12.4メートルと推定され、3世紀中ごろまでの国内の建築物では最大規模。過去の周辺の調査で見つかった複数の建物跡と方位や中心の軸線が並び、規格に基づいて整然と建物を建ち並べた国内最古の例という。

 同市教委は「規模と計画性の点で、弥生時代の大型建物とは完全に一線を画す構造。纒向遺跡の中心的な人物の居城跡だったことはほぼ間違いない」としている。

 纒向遺跡では関東から北九州まで広範囲から持ち込まれた土器が出土し、当時の全国規模での交流の中心地的な集落だったとみられている。邪馬台国が畿内にあったと見る場合、纒向遺跡が最有力候補地とされてきたが、これまで大型建物跡が見つかっておらず、その発見が課題とされてきたことから、今回の発見で所在地論争がさらに熱を帯びそうだ。(17:12)
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http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20091110AT5C1001810112009.html

以上、見事なくらいに横並びなマスコミ報道です。
比較的冷静なのは産経新聞と日経ですね。
ということはほぼ間違いなく邪馬台国近畿説が裏付けられたんでしょうか?
>353

バートル様

いえ、これは345から349にかけて話題になっていた件です。これだけではまだ邪馬台国の証拠というには早計なはずなんですね。マスコミはいささか騒ぎすぎでしょう。
>354 偽史学博士さん

ついに発表されましたね〜新聞紙面に載るのは明日の朝刊でしょうか?

>353 バートルさん

私も偽史学博士さんと同意見です。建物規模ならほぼ同時期に万行遺跡だってあるんですから〜吉野ヶ里と比べて面積が1.5倍って、あちらは3階建。「宮殿」といってますが、総柱建物は普通は倉庫です。室内に柱が立ち並んでいては邪魔ですから。


>346 yoshiさん

>行きたくても行ける距離ではないので、詳細を知る事ができて嬉しいです。
>
亀レスですみません。yoshiさんは遠くにお住まいなんでしょうか?私は東京在住なので、奈良へしょっちゅうは行けません。関西在住の方々が羨ましい。。。

>348 常駐3号さん

>なるほど、その大きさなら十分理解しやすいです。
>
現場を見ていない菅谷さんはともかく、発掘に参加していた苅谷さんは間違えようがないはずですが…苅谷さん−当日も吉野ヶ里を貶めるような発言が多く、大型建物に関する発言も確信犯的ですね。

能登の万行遺跡は、3棟をまとめて1棟と考える説もあり、そうすると纒向よりはるかに大きい34×17mの巨大な建物となります。

>遺物、土器以外のものでも出土しませんかね。
>
土器以外のもの…なかなか難しそうですね。辻地区の北側の旧河川に面した方では、井戸状の祭祀土坑から木製品、飛鳥時代の溝から銅鐸の飾耳片※なども出土しています。工房なども出てくると面白いんですが…

※弥生後期に廃棄されたものが飛鳥時代に掘り返されて混入したとみられています。
読売新聞なんかは 卑弥呼の宮殿跡か? みたいに一面にガッツリ載っていましたね(・ω・)


あれはみんな信じるんじゃないのかなぁ・・・政治的なもので畿内説を定説化しようとしてないかねぇもうやだ〜(悲しい顔)
本日(11/11)の日経新聞の33面に詳しい」解説が載っていましたが
割と冷静に、邪馬台国九州、畿内説を説明しながら、卑弥呼の墓ではないかという
説もあると言うスタンスで記事になっていました。

最近、日本書紀を読み始めたところで、ちょうど箸墓のくだりを読んだところですが
箸でホトを突かれて亡くなったから、その墓地が箸墓と呼ばれているっては
恥ずかしすぎないですかね?しかも古墳の規模が
一后を葬るにしては大きすぎないでしょうか?
以前、オモイカネ氏が出しておられた、箸墓があるとされる「大市」の場所が
現在の箸墓の場所とは異なるかもしれないという
お話から、先に「ハシ」という地名があって墓地もあった。
書記編纂のおり、地名に音のあう漢字を当てると同時に創作を加えた。
という解釈が成り立つような気がしてきました。

ただ、現在の箸墓古墳があれだけの規模でありながら歴代天皇陵でなくて
ヤマトモモソヒメの墓とされてきたのはどうしてなんでしょう?

ちなみに、イザナギとイザナミの国産神話の件りは、そのまま性教育に使えるほど
リアルで生々しいですね。特にオノコロ島に降った2神が左に回って云々と言うところなど
当時の人にとって、「今夜夜這いに行くよ」って合図だったかもしれないと思うと
ニヤリとさせられますが・・
見てました。
CGで建物復元というのが明解すぎですね。
ヒミコさんの描写も目が細くて、良心的、だったのかな。

現地に行かなくてもかなり雰囲気がわかりますね。
オモイカネさまのレポート読み返しながら見てましたよ。
なんか行ってないのが申し訳ないぐらいですね。
報道ステーション見ました。
総柱ではなく、
床を支える支柱の様な扱いをして、(つまり、邪魔にならない様に)
宮殿をCGで作ってましたね。

正直、最大規模って誇張しすぎですよね…

CGを見ても、さほどでかくない。

まぁ、さすがにC14の時ほど卑弥呼のだ!
とは、言ってませんでしたが…


ちなみに私の見落としかも知れませんが、
三世紀前半の遺跡だと言う根拠は何なんでしょうか?
>361

キース様

>三世紀前半の遺跡だと言う根拠は何なんでしょうか?

もっともな疑問ですね。土器が出たとしても、その絶対年代判定に疑問があることはこのトピでもさんざん指摘されてきた通りですし、そもそも土器が出たかどうかの発表さえないわけですから。

偽史学博士さん
〉362

あ、やっぱり具体的な根拠は提示されてないのですかあせあせ
ありがとうございます。
>362〜363

おっと、先ほど年代測定の具体的根拠の説明がうpされました。
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クローズアップ2009:奈良・纒向遺跡に大型建物跡 卑弥呼の都、足固め
 邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で見つかった、女王卑弥呼(ひみこ)が活躍した3世紀前半の大型建物跡は、邪馬台国について記した魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に出てくる「宮室」(宮殿)との可能性が指摘される。この中枢建物跡は大和説をどのように強めるのか。東西方向の同一直線上で南北対称になる前例のない建物群が論争に与える影響と邪馬台国と確定させるためのハードルを探った。【大森顕浩】

 ◇中枢に計画性、裏付け
 纒向遺跡は「庄内式」と呼ばれる土器が使い始められた時期に、奈良盆地東南部の三輪山のふもとに突如として現れた。その年代は、卑弥呼が女王になったとみられる西暦190年ごろに近い。

 周辺では、後に全国で造られるようになった前方後円墳が早くから築かれた。大型建物跡の南約800メートルにある箸墓(はしはか)古墳は、全長約280メートルの巨大前方後円墳で、それ以前の墳丘墓や古墳とは隔絶した規模があり、時代を画した権力者の墓であることは間違いない。

 その後、奈良盆地東南部には、大和王権の初期の王陵とみられる巨大古墳が次々と築かれる。纒向遺跡を大和王権発祥の地とすることに異論はない。問題はそれが邪馬台国と結びつくかどうかだ。

 箸墓古墳の築造年代は、かつては4世紀以降とされたが、最近は卑弥呼の没年(248年ごろ)に近い3世紀後半とみられている。卑弥呼の墓とする説も有力になった。

 一方、卑弥呼の都とするのに欠けていたのが建物跡の存在だった。出土する土器の15〜30%を他地域から運び込まれた土器が占め、広範囲から人が集まった「日本最初の都市」と言われながら、裏付けとなる計画的な中枢建物跡が見つかっていなかった。今回の発見は、その弱点をクリアしたといえそうだ。
(続く)
(364の続き)
◇宮室復元カギに
 大型建物は推定で東西150メートル、南北100メートルの区画を整地して建てられた。壊されたのは土器型式の「庄内3式」期(240〜270年ごろ)。卑弥呼の死去(248年ごろ)とともに解体されたとも考えられるが、次の土器型式の「布留(ふる)0式」期(270〜290年ごろ)とされる箸墓古墳の築造開始時期とは微妙な時間差がある。

 魏志倭人伝によると、邪馬台国では、卑弥呼の死後、男王が立ったが、国中が服さず、卑弥呼一族の13歳の少女、台与(とよ)を新たな女王として国内が治まったという。纒向遺跡が邪馬台国なら、男王や台与が使った中心建物もあるはずだ。これまでの発掘調査で明らかになったのは遺跡全体の5%程度に過ぎない。範囲を広げた調査で、魏志倭人伝にある卑弥呼の宮室の全体像を復元できるかどうかが、邪馬台国イコール纒向説の鍵となる。

 纒向遺跡の建物群は中軸線が一直線となる点で後の飛鳥時代の宮殿と共通するが、中軸線の方向が南北ではなく東西になっている。また、大型建物は東が正面とみられ、南向きが一般的な飛鳥時代以降の宮殿とは異なる。正面の柱間が偶数で、中央に柱が立つ点も特異だ。建物の主が卑弥呼だったとした場合、後の大和王権とは違う思想を持っていた可能性もあり、新たな謎となりそうだ。

 ◇弥生と飛鳥、結ぶ技術−−方位・中軸そろう
 魏志倭人伝は卑弥呼の館「宮室」について「楼観・城柵(じょうさく)を厳かに設け、常に人有り、兵(武器)を持して守衛す」と記す。1986〜89年に発掘された吉野ケ里遺跡(佐賀県)は、卑弥呼の時代に近い2〜3世紀(弥生後期)の濠(ほり)に付設された物見やぐらが楼観、土塁が城柵に当たるとして「邪馬台国が見える」のキャッチフレーズを生んだ。

 一方、95年に池上曽根遺跡(大阪府)で見つかった大型建物跡は、中国の歴史書「漢書」地理志に日本が「百余国」に分かれていたと記された紀元前1世紀ごろ(弥生中期)の祭殿とみられている。方位を北に合わせており、後の宮殿建築のルーツとも言われる。

 纒向の建物群は、方位がそろっているだけでなく、各建物の中軸線が一直線でつながる点で、それまでと異なる。新しい宗教思想で統治した卑弥呼の館にふさわしく、いったん九州説に振れた振り子を大きく大和説に揺り戻す成果といえる。

 建物を復元した黒田龍二・神戸大准教授(建築史)は、この大型建物が池上曽根の建物より大きいのに、柱の直径が半分以下なのは、建築技術が進歩したためとして、弥生の祭殿と飛鳥時代の宮殿とをつなぐミッシング・リンク(欠けた環(わ))とみる。
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http://mainichi.jp/select/opinion/closeup/news/20091111ddn003040034000c.html

年代判定の根拠は庄内3式の土器のようですね。たしかに最近の通説では3世紀前半〜半ばということになります。

もっとも庄内3式の時代を3世紀いっぱいに下らせる説もあるわけで、その編年にはまだまだ議論の余地はあるわけですが。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku281.htm
“卑弥呼の柱”別の宮殿にリサイクル? 奈良・纒向遺跡 
産経新聞 2009.11.11 11:46
奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で見つかった邪馬台国の女王、卑弥呼の宮殿ともいわれる大型建物跡(3世紀前半)は、廃絶に伴って柱だけ抜き取られていたことが11日、市教委の調査で分かった。次の女王・壱与(いよ)の時代(3世紀後半)になると、遺跡の中心は約600メートル東に移ったとされており、新しい宮殿の柱にリサイクルされた可能性もあるという。

 大型建物跡では、一辺約1メートルの柱穴が十数本分見つかり、いずれも柱は直径約30センチと推定されている。そのうち数カ所の柱穴では、柱を引き抜くために掘り返された痕跡が確認された。

 奈良時代の都・平城京(710〜784年)でも宮殿築造の際、直前まで都だった藤原京(694〜710年)の宮殿の柱や瓦などを持ち出して使っており、「卑弥呼の宮殿」でも再利用が進められた可能性が浮かび上がった。

 纒向遺跡は3世紀後半、今回の発掘現場から東側に中心が移動し、最盛期を迎えたとされている。木樋(もくひ)を組み合わせた導水施設などが見つかったほか、この時期に箸墓(はしはか)古墳(全長280メートル)が築かれたことから、卑弥呼の時代より発展したといい、壱与の宮殿地域との見方もある。

 一方、今回の大型建物跡では、土器の出土量が周辺と比べて少なかったことから、宮殿一帯はつねにゴミなどが取り除かれ、清潔に管理された空間だったことも分かった。

 調査担当の橋本輝彦・市教委文化財課主査は「今回の大型建物跡は、常に管理された状態で数十年間使われたことが分かる。柱は新しい中枢建物に転用されたかもしれない」と話した。
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http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091111/acd0911111147007-n1.htm

産経新聞でも、もう「卑弥呼の宮殿」ということで決定のようですねげっそり
〉偽史学博士さん

ありがとうございます!

しかし、新しい宗教思想で統治した卑弥呼の館に相応しく…

って、のも根拠がない話しですよね(笑)


190年〜240年当時、
優れた木造建築技術があったってのは嬉しい発見です♪
清潔に管理、というのもすごい演繹だと思う。
土器などがたくさん出土すれば、ゴミだらけの不精な邸宅、ということになるのだろうか・・
>368

常駐3号様

ケネス・フィーダー著『幻想の古代史』上巻にそっくりな事例がありました。アメリカのニューハンプシャー洲にミステリーヒルと呼ばれるブリテン風の石造物がありまして、一部研究者は古代ケルト人がアメリカ大陸に渡って残した祭祀遺蹟だと主張している(おそらく実際には18世紀頃の入植者が作った石の倉庫)。

で、そこを発掘した人のなかには祭祀にまつわる遺物を探し求めた挙句、「気味が悪い。これほど清潔な遺跡は見たことない」といったそうです。

こういう思考法だと、証拠になるような遺物がないという事実が、重要視されていた証拠ということになってしまうんですね。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4903063372/
僕のような素人は、学者が発表したものをダイレクトに読むより、一度メディアを通したものを読む機会が多くなってしまうのですが、やはり後者の情報の抽出能力や売上などの現実的な事情が、何かしらのズレを生じさせるのでしょうか?

正直、学者自らが「宮殿一帯はつねにゴミなどが取り除かれ、清潔に管理された空間だった」と発表したとは思えないのですが・・・。
>370
>情報の抽出能力
記者で考古学に強い人はまずいないので、取材で聞いた人の説をうのみにする傾向があります。
ときには、理解不足・・・または、希望的観測が無意識のうちに入ることがあるという見方も(^^;・・・から、多少疑問な表現になることもありますね。

>売上などの現実的な事情
いかに大きなことがわかったかということを書きたがることは、たしかにあります。
タイトルに、史上最古・最大などという言葉がいかに多く使われているかでもわかると思いますが・・・。

まあ、メディアの発表は、事実の部分だけ読みとるようにした方がいいと思います。

reddwarf@フリーの記者
2009年11月21日(土)21:00〜放送の「世界ふしぎ発見(TBS系)」

タイトルは「卑弥呼殺人事件 謎を解く鍵は皆既日食」
http://www.tbs.co.jp/f-hakken/info.html

また、いろいろ面白そうな話題が飛び出しそうですネ!!
タイトルから、だいたい筋書きが読めてしまいますが…
> オモイカネさん

本当ですか?見てみたいなあ('-^*)/


まさか卑弥呼が皆既日食で霊力減退って見なされて、殺害され新しい女王推戴ってオチじゃないよね?
>373 バートルさん

>まさか卑弥呼が皆既日食で霊力減退って見なされて、殺害され新しい女王推戴ってオチじゃないよね?
>
まさかじゃなくてご明察の通りだと思いますよ。

持衰に関する『倭人伝』の記述なんかが引用されて…

皆既日食に関しては、天岩戸神話は史実だったとか、アマテラス=卑弥呼説だとか−採り上げられると思います。

邪馬台国の位置に関しては、日食がどの地域で見られたとか見られないとか…
>370 TS-KNさん

>正直、学者自らが「宮殿一帯はつねにゴミなどが取り除かれ、清潔に管理された空間だった」と発表したとは思えないのですが・・・。
>
いやいやそれがあるんですよ。

桜井市埋文センターのHさん、先日野洲の銅鐸博物館での講演会では「ヤマト政権から“銅鐸破壊指令”が出たと考えられる」と、邪馬台国東遷によって銅鐸族が滅ぼされたと主張している古代史ファンが泣いて喜びそうな話をしていました。

先月末の日経ホールでの講演会での、各クニの首長の合議制みたいな発言といい、九博−邪馬台国シンポでの大型建物=国会議事堂説といい、考古学者(掘り屋)としては優秀かもしれませんが、その解釈はかなり「ト」がつきそうな方です。

野洲では「銅鐸は神聖なる弥生の神さま」「それを破壊することは大変な暴挙」とも言ってました。偶像崇拝とアニミズムと呪物信仰がいっしょくたになっているようです。

(日本の)考古学者は、モノの分析には強いんですが、ハードウェアを解釈するソフトウェア(文献史学や民俗学、宗教学、それから理化学的分析など)の勉強が絶対的に不足してますから。

役所とか大学のような閉鎖的な職場で働いてますので、その解釈に関しては、一般人以下−児戯に等しい場合もありえます。

…ちょっと言い過ぎたかな?

でも、“神殿=清浄な空間”みたいなイメージは、先入観としてありがちですからね〜でも、古代宗教やシャーマニズムについて、ちょっと勉強すれば、それが明治以降の国家神道によって創られたイメージだとわかるはずなんですが…


>371 red dwarfさん

>ときには、理解不足・・・または、希望的観測が無意識のうちに入ることがあるという見方も(^^;・・・
>
理解不足…これ確かにあります。私も取材を受けたことがありますが、こちらが言いたかったことじゃない部分が実際記事の方には書いてあるなんてことがありました。

また偉い先生の変なコメントが載っていて、ご本人に聞いてみると「私はあんなことは言ってない!」なんて怒ってらっしゃることも。。。

>>売上などの現実的な事情
>
スクープすることで本当に売上に影響するんでしょうか?新聞しかメディアがなかった時代じゃあるまいし、現代の情報ソースは多チャンネルなので、スクープとかすっぱ抜くとか記者さんたちの自己満足のような気もします。

特に学術的な遺跡の発見などの場合、迅速性よりもその遺跡の意義などについて、いろんな研究者らの意見を取材してまとめる方が大事だと思うんですが…

そういう意味でも、捏造事件から何も学んでないんですね〜
> オモイカネさん

私は全く詳しくないのでいつも皆さんの話を聞くだけですが、あの捏造事件は学会にどんな影響及ぼしたんですか?(犯人名前なんだったかな?逮捕されたんですかね?)あの事件以前と以後でガラッと変わって、学者だけではない第三者による監査とか行われているんですか?うまく言えないけど(・ω・)/耐震偽装の姉歯事件みたいに変わったのかな?
>376

バートル様

旧石器事件捏造事件の顛末はこちらの本に書いておきました。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4903063240

結論からいえば、日本考古学界は対外的な信用を失墜させただけで内部的にはあまり変わりませんでしたね。ちなみに「神の手」の持ち主、藤村新一氏は事件発覚直後に心神耗弱で緊急入院。結果としてマスコミの追及を逃れることになりました。退院後は第二の人生を歩んでいるそうです(警察はこの事件にはなんら関与していません)。
>> 375オモイカネさん

>>邪馬台国東遷によって銅鐸族が滅ぼされたと主張している古代史ファンが
>>泣いて喜びそうな話をしていました。

このコミュとオモイカネさんのせいで無邪気に喜べなくなりましたよ。

じゃあ、プロの学者と素人の区別もあてにならないわけですか。自分の脳みそ信じるしかないなぁ、自信ないなぁ(笑)。オモイカネさんが【「卑弥呼」は固有名詞か、役職か?】のコメント33、でも書いてらっしゃる通り、「能く衆を惑わす…現代人にまでその力が及んでいるかのようです」と言うのは、本当にそう思います。宇宙物理などのコミュも時々覗くのですが、神秘に対しては、同様のバイアスが起きています。着想と事実の線引きを自分の都合でドンドン変えるんですよ。切り口(=神秘への取っ掛かり)を多様化すれば、神秘の魔法にかかりにくいのかな、とも思いましたが。

>>「銅鐸は神聖なる弥生の神さま」「それを破壊することは大変な暴挙」

これは発言者の「善悪の基準」として言っているのですか?
それとも「当時の解釈のされ方」として断定してるのですか?
まぁどっちもどっちか・・・。

まるで国旗国歌論争だな・・・。
>376 バートルさん

>私は全く詳しくないのでいつも皆さんの話を聞くだけですが、あの捏造事件は学会にどんな影響及ぼしたんですか?(犯人名前なんだったかな?逮捕されたんですかね?)あの事件以前と以後でガラッと変わって、学者だけではない第三者による監査とか行われているんですか?
>
私が#375レスで「捏造事件から何も学んでないんですね〜」と書きましたのは、考古学学界や業界のことではなくて、マスコミの方を指しています。

イタリアには文化財調査や行政を監査する第三者機関があると聞いていますが、日本にはありません。

>377 偽史学博士さん

>結論からいえば、日本考古学界は対外的な信用を失墜させただけで内部的にはあまり変わりませんでしたね。
>
ご指摘の通りです。日本の場合−考古学研究者=発掘でご飯を食べてる人になっているので、彼らは外部の目を意識してません。森本六爾の頃の官学VS在野研究者の時代に戻りたいとは思いませんが、もしかすると健全さは当時の方があったかもしれません。

>378 TS-KNさん

>このコミュとオモイカネさんのせいで無邪気に喜べなくなりましたよ。
>
スミマセン…でも今の方がもっと楽しいでしょ?

>これは発言者の「善悪の基準」として言っているのですか?
>それとも「当時の解釈のされ方」として断定してるのですか?
>
どちらかというと後者の意味です。

兵庫県の県立考古博物館のI館長は「銅鐸は、仏像やキリストの十字架像のようなもの」と一般向けの書籍で解説されています。どうも弥生時代には“銅鐸教”というものがあったようです。

関東ではちょうど酉の市の季節を迎えておりますが、私は酉の市で売られている「熊手」が花園神社の神さま(お稲荷さん)とは思えません。熊手が聖なるアイテムであることは確かですが、断じて神の像などではないと思っています。「銅鐸を酉の市の熊手といっしょにするなんて」と叱られそうですが、青銅器が神への奉献品でなかったとしても、神さまそのものとも思えません。

日本の考古学者は、基本的に考古学者の書いたものしか読みません。文献読むのが嫌いな人が考古学専攻しているともいわれるので無理もありませんが…祭祀のような難しい(ある意味キワモノの)考古学を研究している研究者は少ないため、限られた研究者の説が長年支持されつづける傾向があります。

当時(弥生時代)の人たちが青銅器にどのような価値を感じていたか−現代の古美術市場での値段(銅鐸が1億円する)を引き合いに出して説明する、佐倉にある某国立博物館のH名誉教授のような先生もいらっしゃいますから、前者の意味も含んでいますが…
こんばんわ。
初めて訪れました。どうぞ宜しくお願いいたします。

3世紀前半とかでは国内最大の大型建物跡が見つかった纏向遺跡で11/14・15、現地説明会が開かれました。古代史最大の謎、邪馬台国論争に影響する発見とあって、全国各地から大勢の考古学ファンらが訪れました。
最近の発掘成果から、纏向遺跡が邪馬台国の最有力地だという新聞報道や考古学者らの様々な発言もあって、弾む邪馬台国畿内説に「卑弥呼にふさわしい規模だ!」などと、考古学ファンも興奮気味だとか。

しかし、九州説の研究者の中には、「今回の発見の大型建物跡を卑弥呼の宮殿とするには時期が違う。4世紀とするのが無難だ」と反論しています。そして、畿内説の研究者の土器の見方は100年ほど古く見る傾向があるうえ、九州には吉野ケ里遺跡などの大きな建物跡もある。その上、吉野ケ里遺跡からは防御用の柵列、楼観にあたると見られる遺構も見つかっていることから、飛躍した邪馬台国論議だと反発しているようです。
特に、歴博の研究グループの炭素14年代測定法による「箸墓古墳は卑弥呼の墓説」は、測定手順や方法など全てが疑わしい。中には、捏造に等しいなどと畿内説の論拠となる研究成果を否定しているようです。

古代史の謎とされる邪馬台国の所在地については、考古学的な事実や文献学的な史実に係る裏づけと、王の権威を象徴するような出土品が必要なことは言うまでもありません。
亀レスでスミマセン。卑弥呼の宮殿ニュースもちょっと落ち着きましたね。

>356 バートルさん

>あれはみんな信じるんじゃないのかなぁ・・・
>
いや大丈夫でしょう。古代史に詳しくない職場の人でも「疑いの眼差し」で見ていたようですから。一般の方々は、そもそも柱穴しか残っていないのに、どうやって上屋構造がわかるんだと、疑問を持たれているようです。


>357 前原圭一さん

>箸でホトを突かれて亡くなったから、その墓地が箸墓ヤマトモモソヒメ墓と呼ばれているっては
恥ずかしすぎないですかね?
>
いいんですよ、神話ってそういうものです。セヤタタラヒメの場合は「大便為れる時」ですから。

「産屋」ってごぞんじですか? 地方によっては戦後でも結構あったらしいのですが、お産に伴う穢れを忌んで、出産前〜産後しばらく妊婦が居住する場所として仮設の小屋−産屋がありました。海辺や河原とかに多かったといいます。箸墓伝説や丹塗矢伝承が「厠」を舞台にしているのは産屋との関係もありそうです。

>ただ、現在の箸墓古墳があれだけの規模でありながら歴代天皇陵でなくて
ヤマトモモソヒメの墓とされてきたのはどうしてなんでしょう?
>
『延喜式』の陵墓リスト(天皇だけではなく皇族墓を含む)には、箸墓古墳(大市墓/モモソヒメ墓)からは落ちています。律令政府による陵墓治定と管理が、現場の実態とは乖離していて、いかに不安定なものだったか窺われます。神代の昔からずっと「ヤマトトトヒモモソヒメの墓とされてきた」わけではないんです。


>359 yoshiさん 360 常駐3号さん 361 キースさん

>テレ朝で特集してますね
>報道ステーション見ました。
>
見たかったなあ〜ニュースのCG映像見逃してしまったんですよ(残念)。
今週末の「世界ふしぎ発見!」でまた見られるでしょうか?

>ヒミコさんの描写も目が細くて、良心的、だったのかな。
>
目が細くて…ということはフカキョンには似てなかったわけですね?
どなた似か教えてください(笑)


>364 偽史学博士さん

>もっとも庄内3式の時代を3世紀いっぱいに下らせる説もあるわけで、その編年にはまだまだ議論の余地はあるわけですが。
>
年代論…まだまだ当分落ち着きそうにありませんね。先日ご紹介した万行遺跡だと、庄内期[新]〜布留式古段階併行期(ほぼ庄内3式〜布留0式と同じ意味)が、3世紀末〜4世紀初めとされていましたから。

それから、昨日、山梨県立考古博物館の秋季特別展「卑弥呼時代の黄泉世界」を見学して来ましたが、弥生時代後期後半が2世紀後半〜3世紀半ばとされていました(3世紀中葉〜古墳時代)。実年代で示されるとついつい信じてしまいますが、考古年代はあくまで考古年代ですからね〜各地で見つかっている遺跡や遺物が、本当に「邪馬台国時代」って言葉でひと括りにできるのかどうか…?

展示は、山陰地方のガラス玉類を中心とした豪華な出土品や信濃北部の渦巻文装飾付きの鉄剣(写真1)や螺旋状鉄釧(写真2)など−結構充実してましたが、「東海から甲府盆地に進出した倭国連合VS信濃北部の狗奴国連合」なんて説明を読ませられると…いったい何を根拠にこんなこと書いてるんだろうと、頭の中が「?????…」になります。

弥生文化博製作の「卑弥呼さま」は、山梨に行幸中でした!
>380 トモトモさん

はじめまして、トモトモさん。

纏向遺跡の大型建物発見のニュース記事をよく読まれてらっしゃるようですね。纏向遺跡の現説には参加されましたか?

九州説研究者の反論…
「今回の発見の大型建物跡を卑弥呼の宮殿とするには時期が違う。4世紀とするのが無難だ」
「畿内説の研究者の土器の見方は100年ほど古く見る傾向がある」
「九州には吉野ケ里遺跡などの大きな建物跡もある。その上、吉野ケ里遺跡からは防御用の柵列、楼観にあたると見られる遺構も見つかっている」
「歴博の研究グループの炭素14年代測定法による「箸墓古墳は卑弥呼の墓説」は、測定手順や方法など全てが疑わしい」

…どなたの発言か書いていただいた方がよいと思います。朝日の記事からの引用のようですので、だいたいわかりますが…(写真は朝日新聞09/11/11の記事です)

>考古学的な事実や文献学的な史実に係る裏づけと、王の権威を象徴するような出土品が必要…
>
これも鈴木靖民さんのコメントですね〜 実際、言うのは簡単なんですが、これがなかなか難しいんですよ。「王の権威を象徴するような出土品」は各地で出土していますからね〜
>>381
テレ朝のヒミコCGですけど、最初に思い浮かべたのは、鳥毛立屏風図でしたっけ、あの唐風のお顔ですね。
高松塚のほうではないのは、より美人にした、ということでテレビ的好意があったかな。
映像がないかさがしてたら、こんなのがありました。
http://www.youtube.com/watch?v=cAYlCSW_kZM&feature=related
テレビ見ないから全然知らなかったです。

時空を超えた日米鬼道戦争の幕開けか。

常駐3号様

マクモニーグルの卑弥呼透視でしたら、『ムー』の総力特集でとりあげられた後、学研から単行本になっています。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4054038255/

「いい加減にしろ!!」としか言いようがない内容ですが。
http://ameblo.jp/gitarcla/entry-10086040129.html#main
>383 常駐3号さん

>テレ朝のヒミコCGですけど、最初に思い浮かべたのは、鳥毛立屏風図でしたっけ、あの唐風のお顔ですね。
>
えらくぽっちゃりな卑弥呼さまだったわけですね?

>384 偽史学博士さん

>「いい加減にしろ!!」としか言いようがない内容ですが。
>
「よーやるわ」って感じですね〜
ちょっとTVでやってるの見ましたが、何でも山口県に邪馬台国があったとか…?
>トモトモ様

挨拶遅れましたが、ようこそいらっしゃいました。

>皆さま

トモトモ様は主に古代文明関連のコミュで主にエジプト関係の報告をしておられる方です。

ちなみに382は下記のトピの議論(特に15〜18)が下敷きになってのコメントです。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?page=1&comm_id=508139&id=46595783

>オモイカネ様

マクモニーグルは邪馬台国は畿内、卑弥呼出身地は山口県だといっているようで・・・どうもネットでみつけた複数の古墳の画像と、メソアメリカやらエジプトやらごっちゃになった古代文明のイメージに基づいて「透視」したみたいですな。
>>マクモニーグル

極めて勘の良い親爺かもしれない・・・。
こういう親爺が一番恐い。

き、嫌いになれない・・・。
・・すいません、おかしな方向に持っていってしまった・・
ここだけ見た人がいたら怪しいトピに思われてしまいそう・・

年輪年代法なんですけど、基礎データが公表されてないということで、こちらからのアクセスもやはり、研究課題、ということなんですかね。
法隆寺さんの方でもかなり古いのが出て、非再建論なんて絶滅危惧論が復活しそうでしたが、その話題も最近は聞かない感じです。
あそこまでピンポイントでわかるというのもすごいものなんですが。
>388 常駐3号さん

亀レスでスミマセン…最近風邪引いて絶不調だった上に忙しくて…

>年輪年代法なんですけど、基礎データが公表されてないということで、こちらからのアクセスもやはり、研究課題、ということなんですかね。
>
年輪年代法は、ご存じだと思いますが、奈文研の光谷さんの独壇場ですから…この辺は、今回の箸墓炭素年代問題で東海大の北條さんが激しく突いているところですね〜

>法隆寺さんの方でもかなり古いのが出て、非再建論なんて絶滅危惧論が復活しそうでしたが、その話題も最近は聞かない感じです。
>
法隆寺五重塔の心柱の年輪年代のことですね〜奈文研が2001年に発表した調査結果(594年頃−五重塔の心柱材伐採年)が天智9年(670年)『日本書紀』の「一屋も余ること無し」という法隆寺焼失記事と大きくズレていたことから論争再燃かとニュースが流れましたが…その後、2004年に五重塔雲型肘木材伐採年が673年頃、金堂外陣天井板が668-669年、中門が699年頃という数値が出ています。

寺院の建設には数十年もかかっているケースが多いですし…法隆寺の場合は塔が途中まで造られたところで工事が中断していたそうです。

また寺院には補修工事などのために材木が備蓄されているそうなので、法隆寺芯柱の場合もそういった−貯木材というんですが−昔(若草伽藍が建設された頃)伐採した材木だった可能性も残されているんです。

>あそこまでピンポイントでわかるというのもすごいものなんですが。
>
奈文研が誇る「年輪読取器」ですが、プリンターなど造っているメーカーでしたら普通にある「線幅測定装置」※となんら変わったところはないものです。

年輪年代のグラフを二例ほど参考にUPしておきます。二つのグラフが微妙に重なり合っている状態がわかると思いますが、年輪年代パターンに合うとか合わないといっているのはこういうことなんです(見ようによっては結構ラフなものでしょ)。

※印刷精度を測る機械で、一定幅の線を印刷してその幅を計測して、ギザギザのグラフの上限下限が何ミクロン以内に入っているかというようなことを調べます。
箸墓築造後の30年後の地層から4世紀初頭の木製鐙が出土した時点で、
240〜260年の間に箸墓が築造された説は成立しないのでは?

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