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邪馬台国コミュの邪馬台国使節団

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皆さん始めまして。
魏志倭人伝に邪馬台国の使節団のメンバーとして名前がでてくる難升米、都市牛利、伊声耆、掖邪狗(又は伊声耆掖邪狗)、載斯、烏越(又は載斯烏越)について詳しい方、もしくは自論をお持ちの方がいらっしゃいましたら是非ご教授いただきたく思いトピックを立てました。

コメント(13)

 難升米については明治末期の内藤湖南以来、タジマと読んでタジマモリに当てるという説が人気が有ります。タジマモリは垂仁天皇の命令で常世国と往復している、ということでそれを帯方郡に当てるわけですね。
 都市牛利について、湖南は田島の出石(イズシ)関連の人物であろう、としました。

 最近では、前田晴人氏の『桃太郎と邪馬台国』(講談社、2004)で、難升米をタジマモリ、都市牛利を丹波県主の祖ユゴリにあて、初期大和朝廷の外交が日本海側の丹波・但馬の勢力によってなされていたことがうかがえる、としています。

 その他、個々の論者が思い出せないのですが、難升米を「ナ(ガ)スネ」と読んで長髄彦にあてる、載斯烏越を「タ(ケ)シウチ」と読んで武内宿禰にあてる、載斯烏までを「ソサ(ノ)オ」と読んでスサノオにあてる、といった説もありました。

 ただし、これらは魏への特使の名が記紀に残されている、ということを前提として解釈です。また、その前提の関係上、畿内説に偏った解釈にもなりがちです。

 大和朝廷が魏への遣使と対応する事件の記録を持っていなかった、または持っていてもそれを正史に残す意思はなかった、ということは『日本書紀』神功皇后紀註における半端な中国史書引用からうかがえます。

 ということは、魏への特使の名は日本側の記録にはなかった、またはあったとしても、大和朝廷の史官はその名を記紀などに残そうとはしなかった、という可能性も考慮する必要はあるでしょう。
>KZI様

 固有名詞については陳寿が音を当てたものではなく、帯方郡関係の書類にあった表記を、おそらくは『魏略』経由で採用したものでしょう。

 卑弥呼については国書を奉呈しているわけですから、それにあった署名に基づくものと思われます(自署名か、漢字がかける祐筆に命じたか、という問題はありますが)。

 また、倭としては、魏に派遣する人員には漢字の知識の有る者を選ぶか、漢字が使える通訳をつけたでしょうから、その人名も文字知識のある倭人が納得する表記だった、というのが自然でしょう。

 残念なことに当時の漢字個々の音については正確な再現は困難です。現代中国語といわれるものは北京官話ですが、北京は歴史的には漢民族の土地というより北方遊牧民族の地で、長江以南も含めた中国広域の首都になったのは元(モンゴル族)から、さらに北京官話が形成されたのは清(満洲族)の治世においてです。

 いうなれば、現代中国語そのものが北方遊牧民族の占領の結果できたものなわけですから、それで『三国志』の固有名詞表記を読んでも、当時の発音から程遠いものになるだけです。

韻書を参考に三国時代頃の音韻(中古音)を復元するという試みもなされていますが、まだ完全なものとはいえません。むしろ、日本語の音読み(漢音)こそ古い中国語の音韻に近いのではないか、という説もあります。

中古音復元の試みについては下記参照。
http://www.aichi-pu.ac.jp/for/museum/pdf/oningaku.pdf
たぶん、『卑弥呼』は役職名か一般名詞ではないかという説が主流ですね。女性の貴人をあらわす「ひめこ」、太陽神に仕える巫女をあらわす「ひのみこ・ひみこ」の発音の音写ではないかと言われていますが。貴人の本名は口にしないというのは、世界中で見られる風習ですから。

魏志倭人伝に出てくる好古都という国も、当時の中国語の発音だと「ほかた」に近い発音なんだそうで、現在の博多に比定する説もありますので。ただ、中国語は王朝が変わってトルコ系民族が流入したりして、時代ごとにかなり発音が変化するそうなので、かなりの専門家でないと難しいと聞いたことがあります。

また、中国語というと自分たちはひとつの言語のように思いがちですが、山ひとつ越えるともう通じなくなるぐらい、地域格差が大きい言語なんだそうで。北京標準語と広東語、福建語ではまったく通じないそうですし。王貞治さんのお父さんも、字が書けなかったのと同郷の人にしか言葉が通じないような方言だったため、親族すら死後に出身地がどこだったかさえよくわからない状況だったとか。

漢字というのは、そういう言葉が通じにくい広大な国を治めるため、文字によるコミュニケーション・上意下達のために浸透したとか。発音に関しては、日本ですら漢字の読み方に漢音・呉音・宋音がありますから、かなり難物かと。

ちなみに難升米をマオリ語で説明している?なサイトもあったりします(笑)。
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/koten04.htm#49%93%EF%8F%A1%95%C4
 唐代にも遣唐使が持ってきた国書への返書(の写し)で、スメラミコトを日本国王の固有名詞と思って書いたと思しきものが残っていますね。

 日本の習慣で、天皇の本名は書かない。で、唐の方では朝貢してきた国の王は当然、国書にその名を記すと思う、ということでそんなトンチンカンなことになってしまった。

 卑弥呼は、魏側の解釈では人名です。しかし、それが土岐様ご指摘の通り、国内的には役職名なり主張の称号であって、それを魏の方で誤解したとしてもおかしくはないところです。
うわ! 投稿のタイミングが重なって、内容が中途半端に被ってしまいました。追加で自分の知ってる範囲のお話を。

漢音は中国北部で使われた言葉で、儒教などといっしょに日本に入ってきたようです。呉音は現在の江南地方(呉越)で使われた中国語の発音で、日本には仏教がこちらのルートから入っていたため、仏教用語はだいたいがこの呉音です。行脚とか弟子とか、特殊な読みという感じがします。

入ってきたのは呉音の方が早いと言われます。朝鮮経由説と中国から直接入ってきたという説があるようです。中国人の日本との交易や移住はかなりあったので、仏教公伝以前にそうやって日本に入ってきた可能性は否定できませんね。

   人  行   明   丁   性   星
漢音 ジン コウ  メイ  テイ  セイ  セイ
呉音 ニン ギョウ ミョウ チョウ ショウ ジョウ

こうやって並べると、なんとなく呉音の傾向はわかるのではないでしょうか。

この他に唐音もありますが、唐音は遣唐使によってもたらされた発音です。玄宗皇帝と楊貴妃の時代に起きた安史の乱で有名な安禄山も「 アレクサンドロ」の音訳か、ソグド語で「光明」 を意味する 「ロクシャン」「ロフシャン」 の音訳かもという説があるように、実はかなりユーラシアは人と物の交流が盛んで、言語的にも混淆しやすいようです。

唐王朝自体が元々、トルコ系又はモンゴル系鮮卑族の末裔ですから、実は異民族による征服国家です。なので、本来の発音とは異なる、トルコ語系の発音が入っているという指摘もあります。三国志の時代に中国の人口は激減し、遊牧異民族が大量に流入したと言われております。魏の曹操は、むしろ彼らを積極的に受け入れ、自分の兵として登用したという事実もありますから、発音の再現はかなり難しいと考えて間違いないのではないでしょうか。

ちなみに、縄文時代から日本と中国や韓半島・ロシアとの交易は盛んでしたし、現在の華僑のように日本に渡ってくる中国人商人も多かったようですので、中国人通訳の存在は確実にあったともいます。
あの、質問があります。卑弥呼は役職説では、壱(臺)与はどう解釈してあるのでしょう?

また、「宋書倭国伝」には「倭の五王」の名前が出てきておりますが、その点につきましては、卑弥呼の場合とどのように違うと説明されているのでしょうか?
>踊る船様
 壱与または臺与については、女王即位前の名を魏側でも聞いていたようですから、固有名詞としての人名ということで異論はありません(ただし、伊予または豊という国を象徴する神話的人格を魏が新女王の名と誤解した、といった説はあります)。

倭の五王については、すでに漢字文化を取り入れていた倭人が王のフルネームを南朝に報告していたのを、南朝の史官がその一字のみを取り出して記録した、という説と、倭人の上流階級がすでに中国風の一字姓・一字名を受け入れており、倭王もその慣習に従って中国側への国書を書いていた、という説とがあります。

 説得力があるのは後者の方でしょう。当時の史官が夷狄の王の名から一字だけを取り出して記録したなどという類例はありません。

 後者の場合、倭王の一字姓は何かという問題が生じるのですが、宋書倭国伝に「倭讃」「倭武」といった王の呼称があり、また倭王と別に王族と見られる「倭隋」という人物が登場することからいって、倭王の姓は「倭」だった可能性が高いということになります(当時、他に国号と国姓に共通の字が用いられた例としては高句麗の王姓「高」などがあります)。

倭人の王姓が「倭」だったという説の初期の提唱者としては、古田武彦先生がおられます。これは古田先生の説としては珍しく、現在の古代史学界で通説的扱いを受けている例です(拙著『幻想の多元的古代』参照)。
???
なぜ、おそらくかなり高貴な身分の壱与の名前が魏側に伝わったのでしょうか?名を乗らないという点では卑弥呼と条件はかわらないのではないでしょうか?

また、国書に(最高位の者は)本名を書かないという習慣が倭にあったとしたら、五王も書いてないのではないかと思います。

?同じような巫女女王であるイトは名前であると解釈されている。?倭の五王は本名(の一部?)を書いて国書を送ったらしい。のに、卑弥呼だけは役職名だと考える根拠は、卑弥呼がヒメミコと発音が似ていることだけなのですか?
>踊る船様
名前の重要な機能は個別識別です。ただ1人しかいないことが前提という立場の人物(たとえば「日本」における「天皇」など)ならば肩書きをいうだけで特定の時点における誰にあたるか特定できます。この場合、名を言う必要がないのはただ身分が高貴だからではなく、個別識別が肩書きだけですむからです。卑弥呼の死後、男王による治世が安定しなかった時、宗主国的立場の魏にとって重要だったのは複数いる時期倭王候補のうち、誰が王位に就くことが望ましいか判断することだったわけで、当然、時期倭王候補の個別識別はしていた、つまりそれぞれの名を知っていたわけです。

 ただし、昔の東アジア人は現代日本人のように戸籍に記載しているただ一つの本名があった、というわけではありません。中国においても、たとえば曹操の本名は操、幼名は瞞、あざなは孟徳という具合に複数の「名」を使い分けていました。、壱与または臺与というのも公的な場で用いられる呼称の一つであって、彼女の本名は別にあったかも知れません。

 倭の五王については、国書には王の名を記すという当時の常識に従っただけでしょう。ただし、この場合も国書に記すのはあくまで体外的な名であり、別に倭人語での名を持っていたと考えるのが自然です。卑弥呼の時代は、倭人がまだ国書の様式に慣れようとする段階でしたし、遣唐使の時代は、白江村の敗戦でいったん公式な国交途絶した直後のことで外交上のノウハウが失われていた、ということが考えられます。

以上、という形で一応説明はできるのです。

 しかし、より根源的な問題、なぜ、卑弥呼のみを個人名ではなく称号とみなす説が有力なのか、ですが・・・・
それはまさにご指摘の通り、卑弥呼が「ヒメコ」「ヒ(の)ミコ」「ヒメミコ」といった日本語で解釈されうる、ということに尽きるのです!!

 したがって、卑弥呼もまた固有名詞と解することは可能です。あるいはその方が漢代の倭国王・帥升から倭の五王まで一貫して固有名詞と解することができるので、整合性があるかも知れません。

 なお、卑弥呼を固有名詞と考える前例としては、「ヒムカ」と読んで地名「日向」と結びつける、「ヒミカ」と読んで『筑紫国風土記』逸文に出てくる筑紫国造の祖・ミカヨリヒメと結びつける、といった説があります。
伊予=邪馬台国四国説(愛媛説)
豊=邪馬台国大分説
なんかに議論が発展しますが、それはいったん置いておいて(笑)。

中国風の一字姓・一字名についてなのですが、個人的な疑問を。日本書紀を見ますと、亡命百済人の名前には鬼室集斯、憶礼福留、木素貴子、各那晋首など、中国風なのかちょっと微妙ですね(鬼室は日本から賜った苗字のようですが)。

実際問題として、朝鮮半島で中国風の一字性・一字名が主流になったのは、唐と連合して半島を統一した新羅の武烈王・金春秋以降と言われていますね。昔の韓半島では永郎、述郎、初郎、という二字性が多かったようですし、地名も徐羅伐、達久火、斉次巴衣と、現地の発音に漢字を当て字した、万葉仮名に似た使い方をいるようですね。日本でも中国風に地名を二字にしたのはかなり後(和銅五年=712年の地名二字好字令)ですから、倭の五王の時代に一字姓・一字名を受け入れていたのか、ちょっとだけ疑問です。

日本書紀では雄略七年(462年)に、百済より技術者としてとして今来漢人(いまきあやひと)の陶部高貴・鞍部堅貴・画部因斯羅我・錦部定安那錦・訳語卯安邦らが渡来したとあり、日本よりも遙かに中国文化の影響を受けざるを得ない韓半島で、一字姓・一字名がそれほど普及していない気もします。素人考えですので、反論はいろいろあるでしょうが。

それ以上に驚いたのが、因斯羅我はタミル語のインティラガー、崇峻元年(588年)に百済から来た瓦博士の麻奈文奴はマナマンヌ、昔麻帝彌はサガマティヤミであるとの説もあります。一見するととんでも説に思えたのですが、インド貴族の血を引く父を持つ鳩摩羅什(くまらじゅう)が、長安でサンスクリット語から漢文への仏典翻訳を始めたのが401年以降の話ですから、インド系の人間が中国や韓半島に来ていても、なんの不思議もないですね。

ちなみに鳩摩羅什の生年は350年、倭の五王の時代よりも前ですね。西遊記のイメージか、自分などは中国とインドは遙か遠く隔てた国というイメージがあったのですが、実際の中国とインド、中東やロシアなども含めたユーラシアの交流と人的移動は、かなりの古くから活発であったように思えるのですが。

歴史は素人で嘘をつくのが仕事の漫画原作者の意見ですので、ご批判をお待ちしております。倭の五王については、また後ほど。
げげ! また投稿のタイミングがおかしくなってしまいました。

>>踊る船さん
卑弥呼に関しては、役職名であり個人名であるという解釈も可能ではないでしょうか。自分の親戚では代々同じ名前を世襲する家がありますし、薩摩焼の沈寿官さんは代々この名を世襲されていますが、特別な職である巫女という立場を受け継いだ場合、その名も受け継ぐという可能性があると思います。

中国でも、秦の始皇帝は後世の人間が他と区別するために始皇帝と呼んでいるだけであって、本人は皇帝とだけ名乗ったのであって、自分の子孫が代々この称号であり役職を永遠に引き継ぐものと考えていたようです。この皇帝という称号は歴史の中で中国の覇者の称号であり地位であり役職となったのですが、卑弥呼もひょっとしたら、最初は個人の名前だったのが、Shamanとしての特殊な役職を指す言葉=巫女になったのかもしれないと思ったりもします。

論語の中にも、孔子の死後は姿形が似た弟子を代わりに擁立しようとするエピソードがあります。古代の人間にとっては、姿形が似ているというのは単なる偶然ではなく、その人物の本質も似ているという発想(たぶんに呪術的な発想ですが)があったようです。名前を受け継ぐというのも、それに近い発想というか呪術的な意味があったのではないかと思います。卑弥呼の名が固有名詞化した証拠にはなりませんが、ひとつの推論として。
「難升米」の難は「な」で、姓のようなものか。奴国関係者、
奴國王の子孫かも。
升米は倭国主帥升の子孫であり、升の名を継承してるんだろう。
AD107年に朝貢した「倭国王・師升」は、「倭国主帥・升」の
誤写で、これはAD57の奴国王の降格したもの、という説。
「主帥」は三国志の鮮卑烏丸伝や東夷伝に、王までには至らない
小部族長として「小帥・渠帥・長帥・主帥」などとして出てくる
言葉と同じ。
「面土」は国王の重出誤記とする説によれば伊都国説・松蘆国説
は採れない。タジマ説やナガスネ説より合理的と思うが・・・。

「都市牛利」の都市はイヅシと読む前にまず官職名に見えます。
唐に「都水監」などの例がある。文字から解釈すれば市場監督
官。朝貢にともなう交易の責任者か?  
姓は牛氏、名は利。牛氏は三国から唐にかけて著名な姓。大陸系
の帰化人でしょう。中国人らしい名前であり、無理にユゴリと
読む説はとれない。

「伊声耆、掖邪狗(又は伊声耆掖邪狗)」は中国人の名としては
違和感あるので倭人の可能性が高いでしょうね。イセキ、ヤヤコ
と読むのかな?

「載斯」「烏越」ともに大陸系の帰化人でしょう。烏越をアヲと
読んだり、載を戴の誤記として戴斯烏越をタケシウチと読んで
倭人とする説もあるが音韻的にどうなのかな? 諸橋大漢和に
よると載氏も烏氏も中国人の姓として存在したようです。
(載を戴の誤写とした場合でも、戴氏というのもあった)。

帰化人が多くなってしまいますが、中国との交渉に大陸系からの
帰化人を登用するのは当時としては十分ありえた適切な処置
だったのでは。

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