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知の統合コミュのまずは「知の統合」命題を整理しよう。

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知の統合(合一)問題について、私どもの見解を紹介したく以下お話したいと思います。

人類は自然破壊・地球破壊と人間自身と文明の崩壊に直面しています。

それを知る者たちのなかでも僅かだが、それが抜き差しならない段階に達していることを自覚せざるを得ない者たちを生み出している。

しかしそのような僅かな者たちも、地球自然破壊と人間とその文明破壊をもたらした真の原因を突き詰め、突き止める者はさらに僅かしかいないだろう。
さらにその原因を知り、真の解決の方策を導き出せるものは、さらに僅かな者に限られる。
そこで、そのような自然・地球破壊と文明崩壊の問題を人間自身がいいながらも、その問題原因を突き止められず、解明・解説できず、解決しえないという中途半端な事実があることが、その自然・地球破壊と文明崩壊の問題をある者が解明し解説したとしても、その正否を理解し判別できる者が皆無に等しいということを証明してもいる。

このような状況にある世界状況と理論の問題と不可分な関係にある、「知の合一」「三者の合一」などの課題について、ここで話し整理してみる。

といってもこの「知の合一」「三者の合一」などの問題さえ、この問題の当事者責任をもつ学者でさえ知らない者が多くいる。従ってこの問題を理解している者は、特に学者の中の真の学者のうち僅かな者たちに限られ、さらにそのうち30年近く研鑽を積んで、
自らの専門の学問に対し真剣に、責任を持って探求して、自身の死期を感じ始めた老齢な者で、自分の学問人生を振り返り始め当事者責任について今現に苦しんでいる者だけが、つまり真面目でかつ理解力ある者が、それらを理解することができるのであろう。

従って、自然・地球破壊の人類存亡の危機の問題と「知の合一」「三者の合一」などの問題を理解できる者はいない、と言う方が正しいだろうことは自明のこととなる。

しかし、いつかこれらの問題を探求するべく、またこの問題で苦悩し命から解答を探す者たちが、ここに(正しい結論に)到達せざるを得ないだろうから、そのためにここに記しておくことにする。


人類存亡の問題と「知の合一」「三者の合一」などの問題と関係をある程度理解できる者は、我々のここまでの話で、この問題の根源的問題を指摘していることで、我々が問題を真に理解し解を得ているだろうことも想像いただけるであろう。

さて「知の合一」「三者の合一」などの問題のうち、まず「知の合一」とは何か、またその意味とは、どのような問題で、課題なのか、これらの問題について明らかにし、その関係として「三者の合一」などの問題へと解き明かしていきたい。


まずは「知の合一」と個別の知としての個別の学問との関係を整理すると、

「知の合一」や「知の統合」がいわれる訳は次のような理由によっている。
人類は自身が生きるために自分の眼の前に広がる世界(宇宙と地球自然と人間およびその社会と歴史)について知る必要があって、それら世界の観察を始め、観察を進めてきた。

それら世界に対する知識は、人類史が始まった当初から今ほどの知識量を得ていたのではない。徐々に知識を蓄えてきたものです。

人類の知の旅は、つまり人類の理性や学問の歴史は、おおよそギリシャの哲学(愛知)から始まり、徐々に知の旅を進め、現代でも進めて、現代あるような知識を獲得してきた歴史である。

「知の合一」というテーマを知る上で、この人類の歴史経過の事実から、はっきり位置づけ自覚しておかなければならないことがある。つまり知っておかなければならないこと、さらに知というものの内容を自覚しておかなければならないことがある。

一つに、人類の知識は今でも探求しているように未完で、それらの知識対象(世界)を人類は知っているとか認識しているとは言えないのだということである。

さらに二つは、だが同時に人類は世界という知識対象について探求を進め、知識を積み上げてきた現段階の分だけ、世界の諸々を知っているし認識していると言えるということでもある。

すなわち人類は世界の知識対象について知っているし、知らないのだということが、正解等であるということである。「知の合一」というテーマを知る上で、このことをまずは押さえておき、次の話を進める。


人類の知と学問の旅(歴史)は、それら人間の眼の前に広がる世界を細分化することで観察を進められることだから、宇宙と太陽と月と地球を分けて観察し、自然を大地と水に分け、また命ないもの(地学的対象)と命あるもの(動植物学的対象)に分けて、人と社会の現象を医学や生活学・社会科学に分け、それらそれぞれの学問に分けて、分担して、世界全体のうちのそれぞれの対象を観察し理解を進められるようにしてきたのである。

一つの世界を正しく見たり考えるために、人類は哲学と数学と医学と家政学などを分け、さらに世界を宇宙と地球・自然と、人間およびその社会と歴史に分け、それぞれの対象に対応する学問を分担化させ、そのそれぞれの学問別に分業化し組織化することで観察と理解を進め、それぞれの知を発展させてきたし、またそうすることで人類の発展できたのである。

つまり一つの世界の諸属性について、それぞれをそれぞれの学問が分担して探求し、それぞれが分析・分化することで、また言葉と意味概念を分化し細分化することで、さらに細分化して捨象し抽象することで、学問と知を効率的に進めることができたし、そういった歴史としてある。

しかし21世紀の現代では、今あるとおり学問と知の細分化を極限まで進ませてきた結果、それらの個別化した学問、つまり専門化し特殊化し細分化した学問と知は、宇宙と地球自然と、人間およびその社会についての総和としてある、そもそもの一つの世界の姿を見失い、

つまりあるがままの、全体としてある、また全体関係としてある、しかも切れ目がない、現実の宇宙と地球自然と、人間およびその社会の姿を、それらの世界の真実の姿を見失うことになってしまったのである。

専門化と個別化を限りなく進め極限まで達したため、一つの世界としてある、ありのままの全体の姿を見られる者が誰一人いないという、そのような知の関係と学術関係や社会関係と制度が出来上がってしまったのです。(専門の言葉を使うと難しく分かり図らいのでなるべく避けたいが、多元化と一元化・多元論と一元論などのことでもある)

そこにある知の問題として、ありのままの全体の姿というものと真理の構造と錯誤の構造を、分かりやすく説明すると。

例えば人間の足の爪を見て、また爪を指差してこれが人間の爪だというのは真実であり真理である。

それは真実なのだが、だがそれは爪であり人間そのモノではないのだから、人間そのものを観察し説明し理解し、知ったことではなく、爪というもの一般(他の動物にも爪はあり、そのような一般的な爪を)を説明しただけの真実であり、それを知ったというだけのことなのである。

これと同じように、人間の爪だけでなく、髪の毛や顔や鼻、耳目や足やヘソだとかDNAだとかの人の部分を解明し説明しても、あるいは心や精神や脳(特に強調しますが精神科医・心理学者・臨床心理士、脳学者などがいう、その心や精神や脳のことです)といった人の部分を説明しても、さらに男や女だとか子供・老人・性や愛や理性や誠意、職業や民族の別などなどの、人の一側面や部分(細部)や一瞬を説明しても、

しかも全体から切り離した瞬間(写真のように)と部分を説明しても、人間を説明し理解し知ったことではなく、それらの部分と硬直したそれぞれの「一般」を説明しただけの真実と真理なのです。

さらにこれと同じように、人間社会も、例えば経済と経済学だけ説明して、それが卓越した真実の説明であっても、それが客観的科学的な真実であっても、それは社会そのモノではなく様々な細部・側面・属性をもった社会の一つの、経済というものの細部であり、経済的な真実ですから、そのことで人間社会を説明したり理解して知ったことではないのですし、その論述は真実を述べたことではないのです。

それも社会の一部には政治と政治学というモノ・もあります。

少し脇道にはいるようですが、世間の迷信として「すべての問題が起こる原因は、物質的な姿としてある経済と政治のあり方に起因するのだ」という考えがありますが、また「政治の優位性」などという命題もあるのですが、このような意見が大きな間違いであることを上の説明が証明しているのです(ただし各学問の主要末節関係や主従関係や階梯的関係・相対関係などはあります)。

社会の属性には法律というモノもあります。教育・企業経営・会社・家庭・宗教・男社会、女社会、子供社会、芸術・文化・芸能などなどというモノもあります。
社会を取り巻いて切れ目や接続口もないほど世界とも歴史とも自然とも宇宙とも繋がってあります。

そのように社会と人があり全体としてあり、しかも写真のように留まり硬直したものではなく有機的に常に動いているわけです。

ところで、論理学的な真理判断の一つに「二律背反」という原理がありますが、上の全体的関係の説明で明らかとなるのは、一つの専門学の真理は、他の諸学の真理に背反関係となることによって、「他律相背反」となるということです。
いかなる個別専門学問であても、一つの個別専門学問が示す真理は、真理でないことを、他の全部の学問のそれぞれの個別真理が、真性の真理でないことを証明する関係にあるということなのです。

法学関係者や裁判官や弁護士などは、法的知識や価値観で人と社会を知り真実を知り裁決できるのだとして、賠償責任があるだとか有罪だとか死刑だとか断定しているのですが、法学と法曹の真理基準や真理判断の手法で、社会そのものも説明や諸問題の解答を出せないし、人間の生理も精神も真理も一切を説明することはできないのです。

その法学の理論で、物理も化学も経済も政治の問題の解明もできないし、芸術の新しい価値を創造することもできないし、それら一切の学問的対象を解明し、説明し、解を得て、判断を下すことはではきないし、それらの個別真理を法学や法活動が明らかにすることはできないのです。

そのことは政治でも政治学も同じことで、政治学で社会と世界を説明し理解したつもりになっていても、政治学ではない他の一切の学問と学問対象は、政治学では(例えば法学と法現象)説明できず、解明できず、使い物にならず、政治学で知ったつもりになっていても、その知が「偽」であることを他の一切の学問が証明しているのです。

つまりある特定の、個別の、専門の、特殊の、特別な学問は、他の一切の学問(全体)を代理したり代替することはできないのです。

これが世界と人と社会の、真理中の真理のない、細部(専門)と動きのない(死んだ)真実を導き出し、その微細な真理が、しかも様々な個別学問が一緒になって大嘘となっている学問の全体構造なのです。

つまり話を換言すれば、その全部と全体から見ないと、真理中の真理はつかむことは出来ず、更に個々細部の真実を全部見て理解しないと、その全体と全部を見たことにはならないのです。でから、真理中の真理はつかむことは出来ないのです。

すなわち、それら諸学の知を合一しなければ、あるいは統合しえる知を持たなければ、現実の一つの世界・人を理解し認識できず、人の知に対応せず、真理中の真理を掴むことができず、学問は発展できず、知は知にならないのです。これが、知の合一というテーマの意味内容なのです。

ここで脇道に入り補足しますが、人と自然と世界を示そうとするモノのうち、学問や言葉では言い表すいことが不可能なモノがあるため、文芸や音楽や美術・演劇・舞踊・映画・写真などの芸術的なものによって、世界を言い表そうとしている活動があります。

科学哲学を言う科学者や人々には、科学と芸術は違うとして知の合一のテーマに含めないような場合もでてきますが、上に説明したようにそれらは錯誤理論なのでしょう。

さて、ですが翻ってそれら知の全体(と細部)関係をみれば、そこから、その真実と知を得ることは絶対的に不可能であることが証明されたことでもあるのです。さらにまた、しかしそれは同時に、真理中の真理(最高段階の真理)へ到達するための、おおよその真理関係と原理(法則・全体の姿)は説明でき理解できたことも意味しているのです。

なぜ「真実を得ることは絶対的に不可能である」といえるのか、その答えは各学問科学には終わりがなく、次々に、永遠に、その学問固有の専門の対象の、しかもその細部を分化・分析し微細化して微細真理を追い求めるから、永遠に満足できる地点に到達することはなのです。

さらに、それが全部の科学学問で繰り広げられるため、各専門・個別・特殊学問は、細部問題に向かって微細化し下降するだけで、それらの学問は次々と狭くなる隘路を進むだけだという絶対的な本性を持つものであり、その対極の上昇し上向してある「大きな、一つの世界には到達しない」「全体的真理、真理中の真理は絶対的につかめない」また「全面的認識には到達できない」ことを意味するからです。

しかし、そのような、知と真理の、しかも嘘となる逆理の構造と原理は解き明かされたことでもあり、これが真理なるものを論じる「真理論」の重要な命題でもあるということを証明したことであり、それらを知ったことでもあるのです。

こうして人類と人々が真理を掴むために、また誤った活動を改めて救われるためには、そのよう真理の原理と構造を明らかにし、学び、示す学問が必要であることが明らかとなったわけです。

これが「知の合一」の意味内容であり、それをいう必要性であり、問題であり、「知の合一」の課題なのです。

そのような真理中の真理を求める要の学問が必要だと言うことについては、すでに宗教はその真理について凡そは説明しているのですが、しかし各宗教は各民族と国家の個別宗教であり、それぞれ各宗教ごとの真理を言い示し導いてはいるのですが、
しかし例えば、キリスト教はその信者であるキリスト教徒だけに真理を示し導いて救うものであり、仏教徒やイスラム教徒は導けないという専門の細部の一部の真理でしかないのです。

それは他の宗教にもいえることで、互いが上に説明した他律相背反の関係を作り、その個別の宗教的真理は偽であることを、また自身の信徒以外は導けず救うことができないことを、互いが証明し合っているのです。

宗教や民族国家ごとの真理とは別な、人類共通の、全ての人に福利をもたらす学問としての真理が、社会的に成立していないため、誰でもが信じざるを得ない真実とはなりえていないから、そうして人々が自らの錯誤を改めなくなっているからこそ、「知の合一」の課題を言うのです。


さてそこで、人類はどうしたら科学的学問的な「知の合一の課題」を達成できるのでしょうか。それが次に、示される人類の課題ということになります。

その答えも、実はこの文章冒頭に暗示されてあるのです。というのも人類は世界を正しく認識することは未だ実現してはいないのです。
つまり全体を見ることもできていないし、実現していないし、細部を見ることも実現していないのですし、何よりも現代の人々でも、現代人類でも、未だ世界(地球が幾つもあるのではない一つだけの世界)を正しく見て、考え、判断し、行為し活動し実践する方法(方法論)を獲得していないのです。

人類がそうして世界を正しく見えないし、考えられず、行為し活動し実践できずに、地球を破壊し自らの文明も崩壊させてしまい人類存亡の危機となっているのです。
さらにそう危機だと言っていながら、そうなった原因も示せず、従って解決策も見出せない(様々な学問別の「解決策」と「真の解決策」は示されるのですが、それは実は錯誤と嘘となっている)でいることが、それを実証しているのです。


ただ現代人類はそれと自覚せず、自分たちは目の前に展開している世界が正しく見え、考えられ、判断でき、実践できるのだと錯覚しているのです。それらの当為的事実が、現代人が世界を正しく見ることが出来ないからこそ、それを自覚できず、そう錯覚することになる、それらの証拠でもあるのです。

確かに現代人は世界を正しく見られないのですが、しかし一面では、細部は正しく見えてもいるのです。それも冒頭に実証しました。


そうして人類はそこにある、世界を正しく見て、考えられない問題について、つまり認識問題について、そのナゾを解き明かす活動をギリシャ次代から進め、現代まで続けてきているのです。

その人間が正しく認識を進められない問題として、世界と人間の関係を正しく見てる学問としての哲学を、さらに人間が正しく考え話し弁じる方法を解明してきた学問としての論理学を、さらにそれらを結ぶ学問として弁証法(の学)を進めてきたのです。

従って人類とその知の学問は、これらを「三者の合一」といっているのです。その三者を合一できるなら、人間は世界を正しく認識でき実践できるだろうといっているのです。

つまり知の合一という課題は、三者の合一をもって解が得られるのだというところまで、解明が進んでいるのです。

現代人類はそこまで知の旅を続けてきたのですし、すでに「知の合一」と「三者の合一」と言われ示されているものの関係がそのように示されているのです。

数ある科学と学問の認識と真理、芸術的認識と真理、哲学の認識と真理、論理学の認識と真理、弁証法の認識と真理、それらを合一し統一し、統合したところに、人類の真理があるのでしょう。

その三者の合一を得ることで、たった一つの地球の、一つの世界を、人間という一つの像を、正しく見て認識することができるのです。従って人類の現代課題は、三者の合一にあるのです。

人類の危機を前にして論理実証主義や分析科学哲学など心理学主義の学者たちは、それぞれの理論で「知の合一」や「知の統合」を言ったり、あるいは宗教者は「西洋と東洋の合一」などといっていますし、芸術家は芸術と科学の合体を知の合一の課題かのようにいったりもしています。

文化人なども「西洋文化と東洋文化の合一」などともいっていますが、それらはある程度のことはいいえているのですが、しかしそれらは近からず遠い命題や課題であって、やはり錯誤が深く、その命題や課題を探求してもいつまでも解答には到達しない設問なのです。

また、それら近からず遠い視点からすると、ここでの私たちの理論に批判や「疑問」が様々あるだろうし、また出されることになるのですが、冒頭に述べたようにそのことについて私どもが説明したり解説しても、そのような方たちには理解できないことは自明なことなのです。

(たとえを言えば、論理実証主義、とくに数学論理主義は特殊学問である数学と論理学を合わせているわけですが、いくら数学と論理学を合わせても芸術的真理は解明できなし創造することもできないのです。更にそれらは特殊な学問であり、すでに上に説明したように細部化を追究しても真理中の真理には絶対的に到達し得ないものです。

さらに現代は全ての人が携わっているその仕事が、資本主義的大規模工業社会と世界的金融経済システムとなり、高度に分業化し分担化して、さらにそれを細分化し微細化しているため、人の経験と知識や意識が微細化し畸形化せざるをえないために、数学と論理学を合わせた専門家は、全体的姿としてある世界と人の真理を解明したり理解することはできないのです。)

以上がおおよその説明ですが、何度もいうように、それを理解する者は有り得ないほど難しいことを説明したことでもあり、それを承知で敢えて記しておけば、私どもの日記などで展開している認識論が、その三者を合一した認識論であり、その認識論から知を合一するための学を獲得するには、人類には二つの学問が欠落しているだろうことが導き出されることを提示しておきます。

さらに、それら二つの学問が獲得されないかぎり、それは認識の正誤を計る定規を持たないことだから、人類の認識は、まして人個人の認識は、正しく認識することはできず、人間の活動は錯誤したものでしかないのです。

従って、錯誤の人間活動によって起きている地球と自然を破壊と、文明を崩壊させる人間活動をやめさせることはできず、地球と人類を救うことはできないのです。

さらにこのまま、社会改革や革命などで人類の理想の国家が(天皇制封建国家・資本主義・社会主義・共産主義・神の王国・理性・人倫・自由の王国・暗黒の王国・などなど、各自が理想とする国家)できたとしても、それは錯誤した人々とその国家でしかなく、やはり地球と人類を救うことはできないのです。

つまり「三者の合一」の課題が第一義的な、人類の課題なのです。特に人々の錯誤活動(自分の活動が正しいと錯覚している活動・学問活動)によって、社会不条理と矛盾が起き、またその被害を受けて多くの方たちが苦悩することになっていますが、それら人と人々を質し正すためには、またそうして解放されるためには、「三者の合一」の課題を獲得することが第一義的に必要なのです。

コメント(6)

kaorin さん

返事が遅くなりました。申し訳ありません。

確かにヒトは物や文化・文明・精神などを作ろうとして、日々活動し努力していますが、同時にその活動によって文化・文明・精神などを崩壊させています。

特に、歴史上では数々の文明が崩壊してきましたが、現代世界は人類的文明崩壊へと向かっているのでしょう。

なぜ文明が崩壊するのか、この命題でも様々な議論があり、また別れ、人類の意思がまとまらずに、未解明常態のままでいるのでしょう。

その結果、文明崩壊を食い止めることができないでいるのでしょう。

ヒトである以上、それを考え(考える生き物だから)解答を得なければ、いられないはずです。

こんばんは。梶田と申します。はじめまして。自己紹介と、地球温暖化スレでも書きましたが。

特に、人類の人口爆発をなんとか止めないと、人類は近々に滅亡すると強く感じています。

二酸化炭素削減ならば、なぜ人類一丸となった人口抑制の話題がでないのか、もどかしく思います。

次に、個々人の、人類の意識の覚醒です。戦争を待望する人々や、金儲けばかりに余念がない人々も、人類が滅亡しては元も子もないのですから。

個々人が、自分の意識の奥底へダイブして、集合無意識というか、心の善なるものにふれて、本来の人間の持つ素晴らしい部分を取り戻す。

世界中の富める者も、貧しきも、老いも若きも、白人も黒人も、兵士も牧師も、すべての人々が覚醒すれば、世界人類は良い方向に動くと思います。

地球は滅ばない、地球の皮膚癌の人類が滅ぶだけだ。

核戦争は神の放射線療法で、AIDSやインフルエンザや狂牛病(ウイルスやプリオン)は神の免疫療法ではないか。

ドヒャー2世
ドヒャー2世さん

返事が遅くなりました。

人類及び現代の人々が自然を地球規模で破壊する根本的原理は、人間(生物一般)
が生きるために自然を活用しようとするところにあるでしょう。

さらにそこで、次に問題となのは、トピ本文でも話したように人類(未来の人々は該当しないかもしれません)の各自が「自分勝手」をやる原理にあるでしょう。

例えば自分が炊事の火力にしたいとして木の枝を取り、それが自然に対してどれほどの負担になるのか、また反対に木や森林にとって自然の摂理に合致した剪枝や間引き伐採が成長や発展に役立つのか、個人がそれを目の前で確認することは難しいことです。

人は目の前しか見えないため、社会や世界や自然全体を見渡すことが出来ず、さらにまた人生が100年ぐらいですから歴史の全体を見渡せないため、そのような人が何らかの活動をすることで自然に負担を掛けることになっても、それに気付かないようになり勝ちなのです。

そのようにして、そうとは知らずに「自分勝手な行い」をすることになってしまうのでしょう。

そのような人の原理が、一般的性向であり、自然破壊の問題を起こすのでしょう。


さらに問題を深刻にしているのは、近代から資本主義世界が始まり、森林や山や土地を買った者が、同じ原理で「自分勝手」に開発(自然を活用すること=自然破壊)をしてもいいことになっり、またそれら資本主義的生産・産業活動が大規模に行われるようになってきたために、自然を破壊する自分勝手な活動が「正当」とされ、そのような金儲けは皆が羨む「正義」や「価値観」となってきたことにあるでしょう。

そうして21世紀まで資本主義の原理で科学・技術(知)を進めて、さらに産業活動力が強大になったために、地球規模の開発(破壊)も強大な力で進められ、自然破壊が誰の目にも見えるようになってきたのです。

さてそこで、人類のこのような問題の流れが集まるところは、人と人類の「知」のありようの問題であることが理解できるでしょう。
自然保護・地球的自然を守るための、中心的・根本的問題は、あるいは根本的「課題」は、さらに人々が力を集めなければならない点は、人の知の問題にあるのでしょう。

ですからさらに問題となるのは、人はどうして目の前しか見ず、瑣末なところにしか視点が向かわず、どうして瑣末な問題から次の瑣末へと向かってしまうのか?
また人間の仕事活動や生活活動を理性や知性で制御できないのか?、
なぜ解決策を共通理解にしえないのか?、
どうしたら自然の状態を多くの人々が理解して共通認識にできるのか?、
など、一つしかない地球とその自然なのに多様な解釈・理解がうまれている、その認識・理性・といった知が問われることになるわけです。

だからこそ「先験性」や「集合無意識」などの哲学的認識論の問題もでてくるわけです。

認識・理性・知の問題で中心にある問題は、人の先天的性向である偏狭性の問題にあるのでしょう。

この人間個人の偏狭性は解決が難しく*、大学の教授研究者たちでさえ、自分が関わる専門学科から社会や世界や歴史を見て、さらに手分けをして専門のさらに細部の「分野」を各自が研究をするという具合に、細分化した意識になっていくことを「分析だ」「解明だ」「研究だ」として、細部意識・認識へと偏狭へと閉塞するわけです。

(*「難しい」といっても、個人の肉体的生理的実態がそうあるのですから個人の偏狭性を解決することは不可能であり、集団的・世界的・それらの歴史的にある理性・統覚によって止揚する以外ない)

人は偏狭性もち克服し得ないから、社会を知ろうとすると社会を作るのは人だから「人と言うものを知らなければならない」といい、次に人を知ろうとするなら「人の観念や精神や心を知らなければならないだろ」うとする。

さらにだから、それら認識や観念や精神や心は、結局は脳の活動なのだから「脳を知らなければならないだろう」ということになるのです。
さらに脳細胞がだとか、血流が活発化しているだとか、ニューロンやシナプスが、などなどと、実際に細部からより次元を下げたさらなる細部へと向かう、そういう思考と思弁の原理(科学学問の性向的原理)になっているでしょう。

こうして現代の物理学者たちは、地球上と宇宙の全てが、また脳自体が素粒子から出来ているのだから、人と地球・宇宙・自然の根源を知るためには、「素粒子の構造原理を解明しなければならない」「そこに諸学を集約する統合の地点がある」とする人々も出てくるわけです。

下へ続く
上からの続き

さらに理論物理学・論理学・経済学・経営学・などなどでも、数学(関数・統計学など)を用いて解明ができるとして、数学分野の専門的細部理論とその原理構造の解明へと向かう学者たちもいたり、数式論理学を探求することで「全ての理論活動(学問・学科)において真理である統合の地点が明らかにできる」とするものも出てくるわけです。

私たちも「自分らしさ」「ジェンダー」を知るためにはと、心理学をひも解き、脳生理学を学び、心理学主義的にアンケート調査とその集計数を操作して、解明できるなどと錯覚するわけです。

こうして人一般は、全体が見えず、全体は見ないで、全体を見る方向ではなく、細部を見ていく狭隘の方向へと進み、あるいは指先しか見ないで、家族や身内のことし考えられず、さらに目先の利益しか見ないで、「各自が自分勝手をやる原理」から抜け切れず、自然破壊・地球破壊をやることになってしまうのです。

(全体と細部の問題、個別特殊と全般普遍の問題、主観と客観問題、主体と客体問題、演繹的・帰納的関係性の問題、など関係する)

ですから要は、人と人類の知の活動・思惟活動の問題があるのであり、さらにその現代人類の知を集め代表するものとしての、学者たちの思惟活動・学研活動・認識の問題があるのです。

人が誕生すると脳は白紙状態で、まさに無知そのものですが、成長に伴い徐々に知識を蓄えていくことになります。
しかし人の一生で知識を蓄える量は千差万別ではあるのですが、どんなに知の巨人でも死ぬまで、あるいは死んでも「全知全能」の脳とはなり得ないのです。
つまり馬鹿者と大した違いが無いのですが、人々が知識人だとか知の巨人と言うから、自分でも知識が詰っているのだと過信して、驕り昂ぶるようになるのです。つまり大馬鹿をやってしまうのです。

まさにその辺に居る私たちのような大馬鹿者と大した違いがないのです。

実はそうではなく「大した違い」があるのです。

というのもギリシャの哲人が「無知の知」を教えたように、私たち一般人は自分たちは大馬鹿者だと理解し自覚しているように知性的ですが、彼ら学者や研究者は自分の無知を知らないし、その自覚がないのですから手が付けられないような大馬鹿者で、

言い過ぎですがヤクザ者がハクを付けるために(自分の名声を上げ、目先の利益のために)努力するのと代わりが無いのです。

ヤクザ者は身なりでそれを明示しますが、学者たちは善良を装い人々を偏狭と錯誤と自滅へと誘うのですから、最悪なのです。

知ある者達は、そのような逆転現象・逆理・原理に陥っているのです。

自分たちがやっている経済学が貧困の解決には役立たずに、反対に金融経済学理論・数理経済学によって世界経済を破綻させても、反省もしませんし、態度を改め勉強のし直しをやろうともせず、開き直っているのでしょう。

政治学も「国民のための政治」となっている国は(全般的に)無いのに、つまり利益誘導原理の政治・私利私欲原理の政治・ワイロ政治・金融資本の利益先導の政治でしかないのに、その本当の姿や問題を言わない「政治学」となっているでしょう。

法学も、日本は戦後から人権と正義、公序良俗・信義誠実などの実現を目指してきたはずなのですが、また学者も裁判所や法曹界も警察・行政もそのために仕事をしてきたはずですが、64年たった今はそれら全部が荒廃した方向へ向かっているでしょう。

教育学も同様のように逆転現象・原理に陥って、悪い方向へと進める「理論」=逆理論となって、子どもたちを息苦しくさせ死の方向へ追い込んでいるのでしょう。

こうして全ての学問とその知がすっかり逆転してしまい、大学と学問・学者が非科学の宗教的神秘主義に陥ることになり、大学と学問・学者が政府と財界に追従させられてしまい、大学と学問と人類知の方が政治・政府と財界・法曹界・マスコミ・国民などに教えを広め、社会と各国と世界を従えるようにはなっていないのです。


ドヒャー2世 さん出題の「核戦争は神の放射線療法で、AIDSやインフルエンザや狂牛病(ウイルスやプリオン)は神の免疫療法ではないか。」も、社会と人間世界は人間が作っているのですから、そのような真の学なる知で解決できるのでしょう。

学と知とを偽とさせているのも人ですし、核兵器やエイズ・インフルエンザなどを制御しえないのも、

そのような人が為せる業であり、当為であり、所与であり、然りであり、人が然るべくあるのですから、然るようにあり、然るように解決できないだけなのです。

下へ続く

上からの続き


人個人は、先天的に認識不全・欠陥があるからこそ愚かであり、愚かだからこそ物事を正しく見えず、正しく考えられず、正しく行為・活動できず、そのような人々が会社で集まり、政治で集まり、国家で集まり、世界で集まっても、正しく仕事・政治ができないのです。

人間理性を押し止めているのは何か、誰か、それが問題なのです。

神は真理と世界の支配者であろうとして、人類が知識を蓄えて人類全体で全知全能になって行くことを苦々しく思い、王権や政治や経済界と手を組んで、さらに学者を金銭と名声を与えて操作して、人類知性の発展を阻んでいる真犯人なのでしょう。

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