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ミイラ・ミイラ・ミイラコミュの西欧

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ヨーロッパ(・∀・)イイヨーイイヨー!!

イギリス、フランス、ドイツ、スペイン、ポルトガルあたりをとりあげようと思います。
北欧は泥炭ミイラがメインなので泥炭ミイラトピで。

コメント(217)

ルイーズ・ド・ケンゴ夫人 その2

布(服)を外していく様子。
ルイーズ・ド・ケンゴ夫人 その3

微妙にポーズが変化してるので、体は柔らかさを保っているようです。
ルイーズ・ド・ケンゴ夫人 その4

顔のアップなど。
ルイーズ・ド・ケンゴ夫人 その5

「この場所からは、他にも17世紀のものとされる鉛製の棺4個と墓800基が発見されたが、中には遺骨しかなく、完全な状態で保存されていたのは1体(ルイーズ・ド・ケンゴ夫人)のみだった」

とのことで、画像は医所角残っていた鉛製の棺。
医所角って何だ(・∀・;)
遺骨が残っていた鉛製の棺、ですな。
ルイーズ・ド・ケンゴ夫人 その6

こちらは夫のトゥーサン・ド・ペラン(Toussaint de Perrein)氏の心臓容器の中身。

2枚目の画像
朱色部分:容器、白色:心臓、緑色:詰め物(穀物または植物繊維)

3枚目の画像
PA:肺動脈; Ao:大動脈; LV:左心室; RV:右心室; IVS:心室中隔; tv:三尖弁; mv:僧帽弁。
こちらはトゥーサン・ド・ペラン氏の心臓容器とは別の心臓容器の中身。
ルイーズ・ド・ケンゴ夫人 その7

>>180の婦人の画像の大きめのがありました。茶色い髪の毛がよくわかります。
2枚目の画像は婦人の復元図。
ラス・サレーサス修道院

スペイン内戦勃発直後の1936年7月、バルセロナのSant Joan通りにあるラス・サレーサス修道院が共和国派の民兵に襲撃され、僧や尼僧のミイラが晒し者にされた。

1936年7月、左派の人民戦線政府(共和国派)に対してスペイン陸軍の将軍たち(右派・国民戦線。民族独立主義派)がスペイン各地でクーデターを起こす。
バルセロナでのクーデターは失敗し、かねてより人民戦線政府と敵対していたカトリック教会(ラス・サレーサス修道院)が略奪された、ということのようです。
ラス・サレーサス修道院 その2

大勢の市民が見物に訪れたそうな。
ラス・サレーサス修道院 その3

玄関に並べられたミイラ。
ラス・サレーサス修道院 その4

玄関に並べられたミイラ。
2、3枚目画像は、1枚目の右端のミイラのアップ。
ラス・サレーサス修道院 その5

玄関に並べられたミイラ。

1枚目の画像では上段中央のミイラは首がありませんが、2枚目の画像だと首があるので、ここに並べられてから破壊されてしまったようです。
ラス・サレーサス修道院 その6

棺に入れられたミイラ。
ラス・サレーサス修道院 その7

棺に入れられたミイラ。
ラス・サレーサス修道院 その8

こちらの画像もラス・サレーサス修道院のものと思われます。
こちらも同じくスペイン内戦時に共和国派の民兵に襲撃された、カスティーリャ=ラ・マンチャ州トレド県の教会。
こちらもトレドの教会で、ミイラと記念撮影する共和国派の民兵。

スペイン内戦といえばなんとなく、ファシストのフランコ将軍が悪でヘミングウェイら文化人が参加した共和国派が正義みたいなイメージだったんですが、共和国派が教会を弾圧したり教会への略奪を黙認していた(共和国派は左派で、教会は保守・右派だった)とか聞くと、どっちもどっちだなという感じも(・∀・;)
こちらは「1939年2月25日にフランコの軍隊によって占領されたメノルカ島のマオンの大聖堂で冒涜された墓地」。

真ん中の人は急に穴を開けられてビックリしているみたいな。
こどものミイラ

スペイン南部、グラナダ県の県都グラナダにあるサン・ホセ墓地で発掘された20世紀前半の幼児のミイラ。
こどものミイラ

グラナダにあるサン・ホセ墓地で発掘された20世紀前半の幼児のミイラ。
こどものミイラ

グラナダにあるサン・ホセ墓地で発掘された20世紀前半の幼児のミイラ、顔のアップなど。
ピンボケですが、靴底が外れて小さい足が見えます。
ホルツ男爵

ドイツのバイエルン州にあるゾンマースソルフ(Sommersdorf)城の地下室にはクライルスハイム(Crailsheim)家の家族が埋葬されており、それらの遺体は防腐処理されていないにもかかわらずミイラ化しています。
この地下室は効果的に換気が行われる構造を備えており、気流が遺体の乾燥を促進し、細菌による腐敗を抑制したと考えられます。

1806年、これらのミイラがナポレオンの軍隊によって発見され、ミイラの衣服や所持品が略奪されました。
1822年に地下室が修復され、棺に蓋が設置されたものの、見物人によって蓋が開かれてミイラが損傷しました。
1864年になってようやく棺が封印されました。


1833年に描かれたリトグラフには5体のミイラが描かれています。
(地下室の棺は全部で11基。)

D:“Julius Wilhelm Freiherr von Crailsheim”
1812年の狩猟事故で致命傷を負い、地下室に埋葬されました。

H:“von Rauber”
詳細不明

A:“Baroness(女男爵) Luise von Schenck by Geyern”
17世紀後半に58歳で埋葬。

C:“Baroness(女男爵) Sophie Luise von Kniestätt”
産褥熱で8番目の子供を死産した後、42歳で亡くなりました。腕と手が組み合わされずに窮屈に曲がっているため、生きたまま埋葬された疑いがあります。

B:“Baron von Holz”
ホルツ男爵。
クライルスハイム家の親戚で、三十年戦争(1618–1648)でスウェーデンと戦い、この戦争を生き延びたあと、インフルエンザあるいは慢性疾患による敗血症で亡くなったと考えられています。
彼の棺は、他の棺と同じくオークで作られ、彼の身長に合うように長さ201cmの大きさがありました。
棺は布で裏打ちされ、体液を吸収するための木の削りくずで満たされていました。
(木の削りくずを布で覆ってクッションにしていたようです。)

リトグラフにはホルツ男爵の体のそばに剣が描かれていますが現在は残っておらず、盗難されたとみられます。


画像は、ホルツ男爵のミイラ、リトグラフ、ゾンマースソルフ城の地下室。
ホルツ男爵 その2

上半身など。
男爵は当時としては非常に健康でよく整列した歯を持っていました、とのこと。
ホルツ男爵 その2

ブーツ足。ブーツの下にタイツか何かを履いてるんですな。

ブーツより上の部分の衣服が剥ぎ取られてしまっているのは1833年に描かれたリトグラフでも確認できます。
ホルツ男爵 その5

こちらはホルツ男爵と同じ地下墓地に埋葬されていた、"Baroness(女男爵) Luise von Schenck by Geyern"。
リトグラフに描かれていた、Aの番号が付けられた女性。
ホルツ男爵 その6

Luise von Schenck by Geyern女男爵、横顔。
ホルツ男爵 その7

Luise von Schenck by Geyern女男爵。
ホルツ男爵 その8

1枚目の画像は“Baroness(女男爵) Sophie Luise von Kniestätt”
「産褥熱で8番目の子供を死産した後、42歳で亡くなりました。腕と手が組み合わされずに窮屈に曲がっているため、生きたまま埋葬された疑いがあります」という説明があったのですが、「生きたまま埋葬された疑い」というほど腕が乱れてる感じはしないですね。

2枚目の画像は同じくゾンマースソルフ城の地下室に埋葬されていたこどものミイラ。詳細は不明。
Borum Eshøj

Borum Eshøj(ボルム・エショイ?)はデンマーク、オーフス自治体の西、ボルム地区エショイにある、ユトランド半島最大の青銅器時代の古墳の1つ。
紀元前1350年ごろのオーク材の棺が3つ発見され、棺には50〜60歳の女性、同年代の男性、20〜22歳の若い男性の遺体(いずれもほとんど骨ですが)が納められていました。

3体の遺体はコペンハーゲンの国立博物館に収蔵されていましたが、オーフスにMoesgaard博物館が開館したのにあわせてそちらに移されました。
Borum Eshøj その2

1871年、まず女性の棺が発見され、中には50〜60歳、身長157cm、長いブロンドの三つ編みの髪の女性の遺体がありました。
骨の筋肉の跡から、彼女は肉体労働をしていたと考えられています。

女性は棺の中で牛革の上に横たえられ、半袖のブラウスとベルト付きの長いウールのドレスからなる伝統的な衣装を着ていました。体は大きな毛布で覆われていました。
「今日、Borum Eshøj の女性は頭髪がありません。発掘中に、彼女の棺は地元の農民によってかき回され、髪が抜け落ちました. したがって、彼女の髪型についてはあまり知られていません - 私たちが残したのは髪の毛の束の絵だけです」とのこと。
Borum Eshøj その3

女性の毛髪の絵など。
Borum Eshøj その4

1875年には若い男性の棺が発見されました。
20〜22歳で身長は166cm、金髪の毛髪、筋肉やその他の軟部組織が残されていました。
ウールのケープとスカート、そして革のベルトを身に着けていました。
副葬品の木製の長い鞘には短剣が収められていました。
棺の年輪による年代測定結果は紀元前1345年。
Borum Eshøj その5

若い男性の頭部など。
Borum Eshøj その6

1875年にはさらに、50〜60歳、身長170cmの金髪の男性の遺体が納められた棺が発見されました。
遺体は筋肉の一部などが残っており、マント、帽子を身に付け、ベルトを腰に巻いて、牛革の上に横たえられ、ウールの毛布で覆われていました。
年代測定結果は紀元前1353年。
Borum Eshøj その7

年配の男性の遺体は非常に保存状態がよく、筋肉?によって骨格が維持されていたのが、コペンハーゲンに輸送される途中でバラバラになってしまったとのこと。

胸の部分を見ると、発見当時のスケッチでは胸骨や肋骨がきれいに残っているのに、現在ではチラ見えする胸の部分の骨は乱れてますな。
バイエルンの王女アンナ その4

バイエルンの王女アンナは14世紀の神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の娘で3歳で亡くなりました。
>>81-83でも紹介しています。
ライヒャルト・ヴィルヘルム・シュターレンベルク

ライヒャルト・ヴィルヘルム・シュターレンベルク(Reichard Wilhelm Starhemberg)のミイラ。


死因は「日光不足」 オーストリア伯爵家の地下で見つかった赤ちゃんミイラの謎
https://nazology.net/archives/116837

オーストリアで最も古い名門貴族の一つ、シュターレンベルク(Starhemberg)伯爵家の地下室に眠っていた16〜17世紀頃の赤ちゃんミイラ。

その死因は数世紀にわたって謎のままでしたが、このほど、独ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン(LMU Munich)の最新研究により、日光不足によるビタミンD欠乏症であったと解明されました。


男児のミイラは、オーストリア北部オーバーエスターライヒ州にある名門シュターレンベルク伯爵家の地下室で発見されたものです。

埋葬時、男児の年齢は生後わずか10〜18カ月でした。

また、皮膚サンプルの放射性炭素年代測定から、男児は1550〜1635年の間に埋葬されたことが特定されています。

正確な名前や生年月日は不明ですが、家系図から判断して、ライヒャルト・ヴィルヘルム(Reichard Wilhelm)という名前だったと推定されています。
ライヒャルト・ヴィルヘルム・シュターレンベルク その2

この男児はビタミンD欠乏による骨の形成異常(くる病)と、ビタミンD欠乏症の乳児に見られる「致死性の肺炎」の兆候が見つかったとのこと。

「脂肪組織の分析から、この男児は、同年齢の幼児と比べると、かなり肥満気味であることが判明しました。

そのことから、(お乳など)栄養源の摂取は十分にできていたと思われます。

ところが問題は、貴族生活に特有の「日光不足」にあったようでした。

ビタミンDは、食べ物から十分量を摂取できるものではなく、日光の紫外線を浴びることで、自然に皮膚上で産生されます。

しかし、当時のヨーロッパ貴族社会において、肌の白さは高貴さの証であり、貴族たちは陶器のような肌の白さを保つために、積極的に日光を避けていました」

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