ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ウデータ/基本情報コミュの●自伝/30〜39才●

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
■1992(30才)

○村上あゆみ(仮名)と結婚。

あゆみが「なあ、あたしと結婚したい?」「うん!」という一瞬のやりとりから結婚することに。 2月、村上あゆみを婚約者として両親に紹介。4月に両家、京都の丸山公園料亭にて顔合わせ。

その後、京都に遊びに来ていた僕の両親と彼女の両親が、偶然、蹴上の日向神社で遭遇するという不思議な出来事があった。これを吉事と受け止め、5月、村上あゆみと入籍、結婚。親族のみにて日向神社で2人の婚礼の儀を執り行う。新郎は30才、新婦は26才であった。

新婦は5月末にインテリアの勉強の為、約1年間の予定でイギリスへ単身留学。11月、航空券の安くなる時期を狙いすまし、留学中のあゆみを訪ねて約1週間の渡英。初めての飛行機&海外旅行。ヒースロー空港であゆみと半年ぶりの再会を果たす。英国滞在の拠点は郊外にある彼女のアパート。

ピカデリーサーカスをウロつき、喫茶店で巨大なカップに並々と注がれた本物のイングリッシュティーをすすり、蝋人形館でジョニーロットンと握手し、ひからびたフィッシュ&チップスをほおばり、大英博物館のミイラ部屋の冷気にゾゾ気立ち、ロンドン橋やビッグベンをオノボリし、コベントガーデンのどこまでも続く青空市に浮かれる。

途中、憧れのロンドン急行に乗って風呂(バス)発祥の地、その名もバース(=bath)へ一泊旅行。牧場で英国製のヤギやロバとたわむれ、夜の田舎町を泊まる場所を求めて彷徨い、ようやく見つけたB&Bで英国の伝統的な朝食を愉しむ。

古いムスク型の寺院を訪ね、キングスロードのオープンカフェでぬるいビールをあおり、ハロッズでおみやげを買い、あゆみのアパートで3枚重ねの毛布にくるまり、コイン式シャワーを浴びたりしている内に、1週間はあっという間に経ち、旅行は終わる。

どっちにせよ、ある程度地慣れしたあゆみのエスコートなくしては、こんな風な旅は出来なかったろう。帰国後、この時の体験を「ロンドン日記」というトーキングブルースにまとめる(しかし、詩は2/3を紛失)。
------------------------------
■1993(31才)

○「中山徹デザイン事務所」入社。

渡英の印象は帰国後も強く残り、この頃、何となくイギリスを代表するパンクバンド、セックス・ピストルズを聴き始め、間もなく彼らの音楽が持つ“力への意志”に深く感じ入るようになる。それは読みかじっていたニーチェがその著作で頻発するキーワードでもあった。

6月、あゆみ、留学を経て帰国。7月、「石倉イラスト」が、まだまだ実用には程遠いマックのパブリッシングまでを包括したシステム購入の借金によって経営不振に。突然給料が半額支給となり、感情的に退社する。

3ヶ月程の、あゆみと共に7帖のワンルームでダブル・プー太郎生活の後、京都市役所横にある「中山徹デザイン事務所」に“一応デザイナー”として就職。スプレー糊とカッターボードのあるワーキング風景はまだまだ続く。

11月、4年間も住み慣れた西七条のワンルームマンションから、あゆみと2人で京福電車「猿田彦神社」駅に程近い、新築の1DKマンションに引っ越す。家賃8万円。11階建ての7階で眺めも良好。家具もかわい〜く揃え、ようやく新婚カップルらしい生活が始まる。

また、この秋、中島氏の友人が主催するウーピーズでのイベント参加の為、即席バンド“ヒップス”を結成。この時のメンバー募集で、その後末永く付き合うこととなるギターの森口氏と出会う。

他にも応募してきたギター1名、もし応募がなかった場合にとキープしていた大学の後輩、稲富氏も含め、トリプルギターにベース、キーボードという大所帯に。さらにイチかバチか国際交流会館に貼ったメンバー募集の紙を見てやって来たオーストリア人のドラマー、ルイス氏が加入するが、氏はどうやら仕事のつもりで応募してきたらしく(祇園のクラブバンドでプレイしていたこともあったらしい)、ライブのギャランティを請求、しかも氏はヤクの売人でもあった。

が、ドラムの腕は良く、数回の練習のみで、当日のライブはノリノリ。森口氏はライブ会場にドハデな女を連れて現れ、目つきも悪く、如何にもデンジャラスな雰囲気で周囲をビビらせたりした(その後イイ人であることが発覚、現在に至る)。

結局、ルイス氏はその時のライブのみで脱退。急遽再募集を掛け、薬剤師の赤名君をドラマーに、ヒップスの残りの森口氏、中島氏、早瀬氏をそれぞれギター、ベース、キーボードとし、新バンド“トレインズ”を結成する。コンセプトは“ディランがピストルズに入ったような”バンド。

この頃、年齢と給料の格差に喘ぎ、副収入を得る為、“石倉イラスト”の向いにあるカラオケボックスでアルバイト。
------------------------------
■1994(32才)

新バンド“トレインズ”で“拾得”に定期的に出演。さらに、ギターの杉本君が加入し、ツインギターの大所帯となる。

スタジオ246にて「こんにちわイースト」「ハニーハロー」「パレード」を録音。程なくドラムの赤名君が脱退し、替わりに京都人形の社長、中浜氏が加入。氏の実家の専用スタジオにて快適に練習をこなし、ミューズホールや、念願の“磔磔”へのブッキングも果たす。

また、ちょうどこの年の4月に自殺したカート・コバーンのバンド“ニルヴァーナ”に心酔。コバーンのによる鬱病者の日記然とした詞世界に、それまで好きだったディランとはまったく違った可能性を感じると共に、ピストルズの逆方向から聴こえてくる新種の美しい騒音に強く惹き付けられる。その影響下で一気に30編程を詩作。数年後に結成する“中年バイブ”初期にもこの時に書いた詞を使うことに。

この夏、僕の最初のオリジナルバンド“ジャンクシップ”以来、十数年来の付き合いであった吉田さつきが、男と宇治川花火見物の帰りに車の追突事故により死去する。享年30歳。僕という人間やその作品に対する最大の理解者であり、同じく何らかの創造者であり、人間的にも深い繋がりを感じていた彼女の死に相当なダメージを受ける。

後にその死に対して、子守役の平手を失った深い悲しみの表現である織田信長の“癇癪”をイメージして作った、パンク仕様の、そのタイトルもズバリ「鎮魂歌」という楽曲を捧ぐ。
------------------------------
■1995(33才)

○1月17日、“阪神大震災”勃発。

○株式会社「セントラル警備保障」入社。

“トレインズ”は定期的に“磔磔”等でライブを実施。この頃、しきりと周りに「オレはロックが分かった!」と漏らしていたのを裏付けるように、強力なロックナンバーを矢継ぎ早に発表。

恒例のスタジオ246で「セブンティーン」「ハダカの夜」「パレード」を録音し、音楽雑誌“ルーディーズクラブ”のオーディション、“ロックンロールを我らの手に!”に応募。数ある応募の中から「ハダカの夜」が最優秀賞を獲得し、審査員の一人であった鮎川誠をして“これぞロケンロールたい!”と言わしめる。

ある時、“トレインズ”のライブを見ていたショウエイ氏というオヤジがバンド気に入ってくれ、木屋町の“リバーサイド”で開かれた氏主催のイベントに参加するが、その場で氏はベースを弾きつつ昏倒。脳溢血で半身不随となる。

この年、上がらない給料とカットされる賞与に不満が募り、「歌手になります」等と適当なことを言って8月「中山徹デザイン事務所」を退職。自分の時間が持てないデザイナー業がイヤになり、あゆみにも「自分の時間を増やして人生最後のチャンスを作りたい」などと言い訳しつつ、自由時間の多そうな警備員に応募。10月より「セントラル警備保障」より、四条烏丸の“佐川急便ビル防災センター”へ派遣される。

当初はうっとうしい上司がいて居心地がいいとは言えなかったが、間もなくそいつが左遷となり、ほぼ同年代のメンバー4人の快適ローテーション。社員が帰った後は、地下駐車場全体に“アナーキー・イン・ザ・UK”が鳴り響く無法地帯となる。

この頃から、僕自身のパンクロック(ピストルズ)への傾倒が著しくなり、自身の詞・曲作りはもちろん、バンドの音やアレンジにまで影響を及ぼし始める。僕的には初期の“ピストルズにディランが入ったような”バンドを実践しているつもりであったが、「はあ?今更?なんでパンク?」という基本的な疑問を持つメンバーとの間に違和感が生まれ、それは、挑発的な歌詞に加え、完璧にピストルズ譲りの半音上げ下げコード、ギミックな間奏を採用した楽曲「街の王」で決定的に。ギターの杉本君、ベースの中島氏、ドラムの中浜氏が相次いで脱退。

が、その渦中で録音した「トルバドール」は、イントロにツーショットダイヤルでのホステスとの会話をコラージュした実験的なものであると共に“放浪している、何もかもが全部、オレの魂がキレイな訳ないだろ?”という詞が幾人かに絶賛される佳作となる。この曲にて某オーディションの一次予選通過。二次予選敗退。

結局、早瀬を再度ベースに据え、ドラマーに故吉田の知り合いであった緒方氏をスカウトすることでバンドは存続することになったが、僕は自身の中でのかまやつひろし、吉田拓郎から始まったいわゆる“旅的ロック”の終焉を感じ、“トレインズ”という語感が自分のやろうとしている音楽とは馴染まなく思えたので、バンド名を“ラストポエッツ”に変更。

曲作りも一から始め、マグリッド的なタイトルを持つ「ロックンロールではない」、ウィリアム・バロウズからそのままタイトルを拝借した「爆発する切符」、PILを意識した「イミテーションソング」等、高レベルのパンクロックを完成させる。

この時期、ビデオレンタルで観て好きになった映画は北野武の2大作品「2+3X=10月」「ソナチネ」。
------------------------------
■1996(34才)

秋、ビールっ腹のジョン・ライドン率いる セックス・ピストルズの再結成ライブを大阪のIMPホール、東京の武道館で相次いで体験。東京公演へは友人で同じくピストルズフリークのアイリー入江と現地で落ち合って同行。

この年、商業誌“ニュー・ルーディーズクラブ”冬号に、拙文「運命を変えたこの一枚“セックスピストルズ/ネバーマインド・ザ・ボロックス”」が掲載され、初めて自身の書いた文章で稿料を得る。<「運命を変えたこの一枚“セックスピストルズ/ネバーマインド・ザ・ボロックス”」/“ニュー・ルーディーズクラブ”Vol.13> 

また、“ラストポエッツ”は、「N.O.T」「花粉症」等、相変わらず高レベルのパンクロックを発表。“磔磔”に定期的にブッキングするが、その後、緒方氏の結婚等により自然消滅。

この頃、ビデオで借りたヴィム・ヴェンダースの「まわり道」、アラン・タネールの「白い町」等のねじ曲がったロードムーヴィーにシンパシーを感じる。
------------------------------
■1997(35才)

4月中旬、“ニュー・ルーディーズクラブ”編集部佐藤女史より、秋の「U2特集号」への原稿依頼があり約1ヶ月で脱稿。その後の僕のロックンロール観の基本となる思索が、U2とはまったく無関係に記述されている。<「U2一夜づけ」/“ニュー・ルーディーズクラブ”Vol.16>

夏には「第1回フジロックフェスティバル」の2日目に参加する為、森口氏、中島氏、古宇田氏と共に一晩車を飛ばし、翌朝、富士山麓のスキー場までたどり着くが、その場で主催者側から台風接近による中止を告げられるという悲惨な事態に苦渋を飲む。

この頃、勤務先の警備室にあったダブルカセットを使って、過去に録音したQ2ダイヤルの女のコとの会話を編集(僕はツーショットで知り合った女と逢う際、どんな問題が起こるか分からないので、証拠として電話での会話を逐一録音していたが、結局この用心の為のストックが、後々様々な作品の素材となるのである)。「レジェンド・オブ・0990」(全3巻)を制作。

長い会話の要所を抜粋してつなぎ、一話毎のパーテーションに音楽をかませたのみのシンプルな構成ではあったが、社会学的に、または人類学的見地からすれば(?)割合インパクトがあったと思われる。数名の友人にのみ露出。

また、佐川烏丸派遣隊にメタル好きの後輩、和田君が新たに配属され、彼を通して、佐川に隣接した烏丸京都ホテルの派遣隊のロック狂、久保田氏(現久保夫)とも懇意になり、三人で“ロック会”を結成する。つーてもタマに三人で飲みに行き、ウダウダ言い争うのみであったが…。

秋には、友人のアイリー入江脚本・監督・主演の8mm映画「永遠の都」に“トレインマン”の役所で出演する。
------------------------------
■1998(36才)

以前トレインズでベースを担当していた中島氏とデジタルフォークユニット「T2ファージ」を結成。氏は当時、アメリカの音楽シーン彗星の如く登場したベックの奏でるサンプリングミュージックに傾倒し、後に伝説の神器と呼ばれることとなるアカイのサンプラー(AKAI-リミックス16)を購入。それを中心とした作品づくりに熱中する。

程なく森口氏が加入し、当時三人とも西京極界隈に住んでいたことからバンド名を“西京極ブラザーズ”に改名。大阪のスパゲッティ屋にてデビューライブを飾り、その後“中年バイブ”として、市内各所にてライブ活動を始める。代表曲は「ティッシュ」「ミーム」「アナドレリン」etc.。

夏には、一昨年の雪辱を誓い同メンバーにて、場所が東京の豊州に変更された「第2回フジロックフェスティバル」へ。2日間無事に豪華絢爛たるメンバーの競演を堪能する。“ベック”“プロディジー”“ソニックユース”特等のビッグーネームが居並ぶ中、特にイギーポップのパワーには圧倒される。

この頃、高橋洋脚本、鶴田法男監督、柳ユーレイ主演の三流J-ホラー「女優霊」にハマる。以降もこの映画は「フリークス」「タクシードライバー」「シャイニング」「ジョーズ」「勝手にしやがれ」「ポンヌフの恋人」etcとまったく同等に並ぶ、僕のフェイバリットムービーに。

この年、警備室に中島氏から借りた例のサンプラーを持ち込んで、仕事の間隙を衝き「レジェンド・オブ・0990」を進化させた「サンプリング霊」を制作。「レジェンド〜」にはなかった音声の反復の多用や、音楽とダイアローグとの融合等のテクノロジー面における充実はもちろん、純粋なサンプリングミュージック(?)も収録。おそらく全世界に照らしても類がないであろうオリジナル作品を確立したという自己満足に浸る。

また、秋の“ニュー・ルーディーズクラブ”「ニルヴァーナ特集号」に「鬱のロックンロール(メランコリック・ロックンロール)」を発表。ピストルズを躁のロックンロールとして対比させて論じようとしているが、かなり中途半端で単なる思いつきの域を出ない。が、詳細な言い回しには詩的な輝き、力がある。<「鬱のロックンロール(メランコリック・ロックンロール)」/“ニュー・ルーディーズクラブ”Vol.21>

また、TVでたまたま観た特集番組で、その頃巷に流れ始めたスピッツの歌詞の内容を知り、興味を持つ。それはソフトでありながら攻撃性を秘めた魅力があり、「運命の人」の完成度はヒットチャートの中でも孤高の存在感を放っていた。

さらに、仮装したロックンロールを立て続けにヒットチャートに叩き込んだサラブレッド、小沢健二に心酔。「LIFE」はまぎれもなく我が国最高の部類のロックンロール・アルバムであると確信する(オザケンはロックンロールとは無縁の女子高生達にロックンロール装置を、本人達にはそれと気付かれずに仕組んだ。そしてそれは残留していた演歌的グランジーを一掃したのである)。邦楽のロックンロールのクオリティが最も高かったのがこの時期。

この年、憧れのタワー型ベージュマッキントッシュ8500を中古にて購入。当時はこのスペックでも30万円近くした。
------------------------------
■1999(37才)

○株式会社「アックス」入社。

最初1年だけの息抜きにと勤め出した警備会社を3年経っても辞めないこと、それによって生じるすれ違い、等々をキッカケに、妻、あゆみと別居。そのままあっけなく7年間の結婚生活は終焉。

輝かしき(?)バツイチの称号を手に入れた僕は、住み慣れた西京極界隈から都心、大宮の8帖・ワンルームマンションへと転居。案の定、ツーショットダイヤルに明け暮れる毎日を送る。

程なく年を26歳と偽って滋賀県彦根在住の40歳・バツイチ主婦と付き合い始め、熟女のオートマチックな腰の動きと絶え間ない欲情にカルチャーショックを受ける。数年前に亭主と離婚したという彼女は、相当くたびれた岡村孝子といった風貌で17歳、14歳の子供の母親。家持ち車持ちであり、毎週末彦根から車を駆って僕のマンションにやって来て、日曜の夜に疾風の如く去って行った。

が、僕はほぼ同時期に南区在住の29歳・別居ヤンママとも情交を通じ、彼女のミニスカとチャパツにシビレ、40歳とのタダレタ関係は想い出の歌(「40歳」-“中年バイブ”1st.CD収録)を残して強制終了。

ヤンママは幼子と2人暮らしであったが、ある日、別居していた亭主の両親にその子を連れ去られ、以降3年に渡って彼女の、亭主との「離婚訴訟」及び「親権奪還訴訟」裁判に巻き込まれることに。

彼女はその風貌からは思いもよらない創価学会員であり、付き合い始めてすぐに彼女はそのことを告白したのだが、僕は大して気にもならず彼女の魅力のオプションである程度に解していた。家に泊まりに行くと狭いアパートに巨大な仏壇が鎮座。ヤンママは毎朝、毎晩学会流のお経を唱える“勤行”を欠かさず、また、何ら実感もないまま闇雲に池田氏を盲信しており、日常生活に巧妙に組み込まれた上部構造としての宗教の威力を思い知らされる。

また、この年早々、強引な大阪転属を期にセントラル警備を退職。愛用のパワーブック150、一応オベーションのアコギ、ワープロ等を質に入れる(後、スベテ流れる)など極貧のプー生活の後、3月に天神橋筋六丁目にあるデザイン事務所に就職するが、本採用の際あまりの薄給にやる気を失い即退職。

同年6月、心斎橋のデザイン事務所「アックス」に心機一転コピーライターとして潜り込む。
------------------------------
■2000(38才)

ヤンママとのごたごたした付き合いが続く。別居中のヤンママの亭主は彼女にこだわっており、夜中に車で何度もアパート周辺を徘徊したり、突然訪ねて来たりと奇行を繰り返す。ある時、彼女をずっとつけていた亭主に大宮駅で彼女といるところを捕まり、警察沙汰になったことも。

私生活は荒れに荒れていたが、仕事の方はコピーライター職にも慣れ、これまで貰ったことがないような額のボーナスを貰うなど至極順調。慰安旅行では生涯2度目の海外旅行、韓国へ。後々まで語り継ぐこととなる“美人床屋”を体験する。また、夏には突如思い立って単身、熊野へ那智の滝見へ。しばし幻境に遊ぶ。

この冬、契約更新を期にさらに安い部屋へと、再び西京極駅徒歩数分の地に戻る。扉付でそれぞれが独立した5帖の洋室2つに流し場、風呂付の2人用のシェアハウスを一人で借りて住むことに。

“中年バイブ”では、ほぼ月イチのライブをこなし、冬には1st.CD「ティッシュ」を自費制作、プレスして配布(とはいえ全てをマック上で行った為、ボーカル録音の為のオールナイト割引カラオケボックス代、録音用CD原盤以外の費用は掛かっていない)。

この頃、警備員時代の友人、久保田氏が構造主義者であったことから、ポストモダン思想の片鱗に触れる(とはいえ氏の理解も混沌たるものであり、片鱗に触れたというよりは“存在を意識した”程度のものだが)。

ポストモダン思想の源流と言われるニーチェを前々から読みかじっていた僕はその流れで、ポストモダン思想の代表的な存在であり、1992年に自宅のアパートメントの窓から投身自殺したフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズに傾倒。「ニーチェ」「ヒューム」「対話」等のドゥルーズ作品から、「ドゥルーズ・流転の思想」等の解説本までを浅く広く読みかじる。「アンチオディプス」「ミルプラトー」のような大作は、部分的に読み飛ばしているのみであるが、ドゥルーズは2006年現在も僕の最新のスター。

僕にとってドゥルーズは、これこれこういう思想家である、とクリアに説明できる存在ではない。つまり、僕はドゥルーズを理解してはいない、と思う。ニーチェにも似たところがあるが、“理解するのではなく接続する” のである。それは多分、ストーンズのジャンピン・ジャック・フラッシュやピカソの絵画の如きものであろう。

理解出来ないまま、すなわち感情を遠く離れ、意味不明のまま、否、意味以外の何かによって僕の中の衝動が踊る、そんな感じだ。
------------------------------
■2001(39才)

○年9月、貿易センタービル同時多発テロ起こる。

結局、ヤンママの「離婚訴訟」は示談、「親権奪還訴訟」は敗訴。彼女は晴れて自由の身となったが、一緒に戦う(?)という共通の目的を失したこと、子供が戻らないことで寂しさを感じたヤンママが結婚する為、僕に創価学会入信を強要したことで話がコジれ、この夏、ヤンママと別れる。

同10月、バンドの中島氏の彼女主催の飲み会にて知り合った同じくバツイチ・35歳の小山容子嬢と電撃的に付き合い始める。彼女の、僕に対する第一印象は「手のきれいな人」であった。お互いの部屋を行き来するようになり、程なく京都駅前の彼女のワンルームマンションに入り浸る。

年末には2人で敦賀発函館行の夜間フェリーに乗り北海道旅行へ。函館、札幌の雪景色を満喫する。

(ウッディー)

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

ウデータ/基本情報 更新情報

ウデータ/基本情報のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング