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猛虎伝説コミュの 吉田義男(全12伝説)

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吉田義男 よしだ・よしお
背番号 23
在籍1953年〜1969年
監督1975年〜1977年 1985年〜1987年 1997年〜1998年

愛称 牛若丸(今牛若)

1990年代からは「ムッシュ吉田」。
華麗なグラブさばきでベストナインに9回選ばれる。 日本球界ナンバーワン遊撃手とも言われている。
通算264犠打は1990年まで歴代一位 オールスター出場13回 
1955年5月24日セ・リーグ遊撃手最多守備機会15を記録。

1933.7.26生
出身地   京都市中京区
出身校   山城高校 立命館大学中退
遊撃手 右投げ右打ち

山城高校時代、阪急の西村正夫が目をつけたが「体が小さいからダメ」と浜崎監督がことわった。
青木スカウトによりタイガースに入団

1953年 大阪タイガース 背番号23 8番ショート 128試合 2本 34打点 .267 リーグ1の28犠打
1954年 2番 119試合 3本 41打点 .273 盗塁王51 31犠打 オールスターファン投票選出
1955年 1番に定着 128試合 3本 28打点 .281 最多安打147 オールスターファン投票選出 ベストナイン
1956年 127試合 8本 34打点 .290 盗塁王50 オールスターファン投票選出 ベストナイン
1957年 111試合 8本 32打点 .297 オールスターファン投票選出 ベストナイン
1958年 127試合 2本 27打点 .286 オールスターファン投票選出 ベストナイン
1959年 130試合 5本 32打点 .272 犠打21 オールスターファン投票選出 ベストナイン
1960年 126試合 5本 24打点 .249 犠打22 オールスターファン投票選出 ベストナイン
1961年 主将 115試合 5本 22打点 .228 オールスターファン投票選出
1962年 127試合 3本 22打点 .261 オールスターファン投票選出 ベストナイン
1963年 120試合 4本 31打点 .262 オールスター出場
1964年 123試合 8本 29打点 .318 オールスターファン投票選出 ベストナイン
1965年 119試合 4本 12打点 .265 オールスター出場 ベストナイン
1966年 103試合 2本 20打点 .263 オールスターファン投票選出
1967年 1番ショートを藤田平に譲り 2番セカンド113試合 2本 22打点 .234
1968年 114試合 2本 21打点 .230
1969年 コーチ兼務 77試合 3打点 .194

1975年 監督就任 背番号1
1976年 監督
1977年 監督  辞任

1985年 監督就任 背番号81 正力賞 背番号23は永久欠番
1986年 監督
1987年 監督  

1992年 殿堂入り
フランスナショナルチーム 監督

1996年 10月25日監督就任発表
1997年 監督 背番号83
1998年 監督  

1999年〜 朝日放送解説者

実働17年 出場2007試合 打数6980 安打1864 本塁打66 打点434 盗塁350 犠打264 打率.267
監督通算8年 采配1051試合 勝利484 敗戦511 引分56 勝率.486 優勝1回 日本シリーズ優勝1回

コメント(12)

★身長165cm★

吉田は、身長165センチの小柄な選手だったが、旧制京都府立第二商業学校(通称「京都二商」)在学中、阪急ブレーブスにその才能を認められるなど、プロから注目されていた。
だが、吉田に初めて目をつけた阪急は「あまりにもチビ」という理由で獲得を断念しているが、吉田に初めて目をつけた阪急の浜崎真二監督は浜崎監督自身、身長が154センチしかなく、歴代のプロ野球選手の中で最も身長が低かった選手ではないかと言われている。

阪神は、当初は慶応大学のショートを守っていた松本豊を獲得する予定だったが、松本の婚約者の猛反対に遭って入団契約は成り立たなかった。
そこで、阪神は急遽、吉田を獲得することにし、1953年に吉田は阪神に入団した。
のちの吉田の活躍ぶりに阪急は、身長を理由に吉田を獲得しなかったことをかなり悔やんでいたという。
★牛若丸★

俊足巧打・好守の遊撃手として1年目から16年間不動のレギュラーとしてプレーした。
特に華麗で俊敏な遊撃守備は、「捕るが早いか投げるが早いか」「蝶が舞い蜂が刺す」「史上最高の遊撃手」等ありとあらゆる賞賛をうけ、その身のこなしから『牛若丸』、もしくは今様・今風の牛若丸という意味で『今牛若丸』と呼ばれた。
(現在の「平成の牛若丸」は小坂誠だといわれる。)

その守備力は、17年間の現役生活で15度のリーグ最多守備機会を記録し、1試合15守備機会、シーズン94併殺など数々のリーグ記録、日本記録を更新するなど、記録上も他を寄せ付けない。
★芸術と言われた守備★

牛若丸に例えられた吉田の守備は、ゴロを追い、捕ってから投げるまでの間隔がほとんどない、という素早い動きが持ち味だった。
吉田は、いかなるときでも、どうすればグラブから右手に球を少しでも早く移せるかということを考えていたという。
その芸術ともいえる守備は、吉田の前にゴロが飛んだだけで観客が沸いたとも言われ、守備だけでも充分ファンを球場に呼べることを証明した守備の達人であった。

ゴールデングラブ賞設立以前の当時は、遊撃手や捕手についてはベストナインがゴールデングラブ賞の代わりとなっていたが、吉田は9度も受賞している。
三塁の三宅秀史、二塁の鎌田実と組んだ阪神の内野守備は史上最強といわれた。

読売ジャイアンツの広岡達朗は学生時代から存在を意識した遊撃手のライバルであり、吉田本人は「現役時代は私のほうが上だと言ってもらえることが多かったが、監督としては足元にもおよばない」と語っている(そうは言うものの、監督としても1985年の日本シリーズで広岡の率いる西武ライオンズに勝っている)。
★消えた打球★

1962年5月9日、広島球場で行われた阪神×広島戦で吉田は、レフトオーバーの当たりを放ったが、その打球は、フェンス際で突如消え、行方不明となった。
吉田は、レフトの大和田が打球を探している間に悠々と生還して本塁打になるかと思われたが、すぐ後で、吉田の打球は外野フェンス上部の網に引っかかっていたことが判明。判定は二塁打とされた。
★三振しない打者★

吉田は、最も三振しない打者の1人であった。
1960年から1965年まで6年連続最少三振打者となっており、現役期間中、合計10回も最少三振打者となっている。
1964年には179打席連続無三振という当時の日本記録を達成しているが、これは、現在でも歴代4位の記録として残っている。

また、金田が最も対戦を嫌っていたバッターとしても有名であり、吉田とだけは対戦したくないと常々口にしていたほどである。
17年間対戦してきたにもかかわらず、あの金田からわずかに15三振しか喫していない。
金田の超スローカーブは、吉田を打ち取るために生み出されたとまで言われているほどである。
★二度の盗塁王★

1954年に51盗塁、1956年に50盗塁で2度の盗塁王に輝いたが阪神では20世紀最後の盗塁王である。
また、4度のリーグ最多犠打を記録し、通算264犠打は2005年末現在、歴代9位の記録である。

☆タイトル☆
盗塁王 2回(1954年、1956年)
最多安打 1回(1955年)
ベストナイン 9回(1955年〜1960年、1962年、1964年〜1965年)
オールスター最優秀選手(1956年第2戦)
★江夏のトレード★

吉田は引退後1975年〜1977年、1985年〜1987年、1997年〜1998年の3期に渡り阪神の監督をつとめた。

吉田によると、最初の監督就任時に球団はすでに江夏豊をトレードに出す方針を固めていたが、吉田は再生を期して「結果を残せなければトレードもあり得る」と本人に言い含めた上で残留させた。
しかしそのシーズンの成績がふるわなかったことからトレードが決まり、その際に「人事の話はフロントから言う方がいい」という長田球団社長の意向に従って吉田は「トレードのことは知らない」と言い続け、本人に直接伝えることはなかった。
この点に関して、後に吉田は「江夏に申し訳ないことをした。自ら伝えるべきだった」と記している。
★ケチ伝説★

現役時代の事は不明であるが、ある関係者の間で監督時代から”ケチンボ”として有名であり、タバコは必ず貰いタバコで、食事や酒の席では必ず会計の出所を事前確認する程、自分の財布の口はかなり堅いようである。(※ただし、この噂は長い年月を掛けて拡大されて広まっているので今となっては真偽不明。本人はインタビューで否定している)

同様の噂で「他人に取られないようにタバコの一本一本にまで名前を書いている」というものもあった。
これについては北杜夫が本人に問いただしたところ、「タバコ好きなのでつい他人のタバコを間違えて取らないよう、箱に名前を書いていた」というのが事実であったとエッセイに記している。したがって、上記の「貰いタバコ」も事実ではないことになる。

やはり同様の、吝嗇にまつわるエピソードとして、試合で活躍した選手が「『監督賞』という封筒を開けたら、「吉」(吉田の「吉」)と書いたタバコが一本だけ入っていた。」や、「コーチと一緒に屋台のラーメンを食べに行ったときに、数百円の貸し借りをしていた。」等、同種の話には事欠かないが、いずれも真偽の程は定かではない。
★21年ぶりの優勝を演出★

阪神は、プロ野球創設当初からある名門球団であるが、1964年に優勝して以降は低迷を続けていた。
1964年といえば、吉田が現役で大活躍し、優勝した年である。
しかし、1985年、監督となっていた吉田は、強力打線のチームを率いて快進撃で、バースを中心に掛布・岡田・真弓らが打ちまくって21年ぶりにリーグ優勝を果たした。

試合後のインタビューで「チーム一丸となって、チャレンジャー精神で戦うだけ」と言い続け、「チーム一丸」「チャレンジャー精神」はファンの間でちょっとした流行語になった。
しかし、なかなか「優勝」の二文字を口にしないことに川藤幸三が苦言を呈し、選手に対しては8月下旬になってようやく「優勝しよう」と語ったという。
また、優勝のプレッシャーがないかと聞かれて「ほとんどの選手は経験したことないからわからんのと違いますか」ととぼけたこともあった。

さらに日本シリーズでもその勢いはとどまることを知らず、4勝2敗で日本一となった。
★竹之内コーチ退団事件★

1987年6月6日対大洋戦第7回戦(札幌・円山)、大洋2点リードで迎えた8回表、阪神は先発新浦寿夫投手を攻め、無死満塁のチャンスを作る。
しかし6番佐野仙好の打ち上げた打球は浅いレフトフライだったため、三塁走者はタッチアップができなかった。
打順はこのあと新人八木裕、嶋田宗彦と続く。
阪神の代打陣には、田尾安志、柏原純一が控えており、多くの人がここで代打を出すと思った場面だったが、当時の吉田義男監督は代打を送らず、八木、嶋田をそのまま打席に送る。

結局この回、八木のセカンドゴロの間に1点を返しただけにとどまり、試合は3−6で敗れた。
阪神ナインが宿舎に戻った後、吉田監督の部屋に竹之内雅史打撃コーチ補佐が訪れ、8回の場面で代打を使うべきだったと意見を述べた。
これに対し吉田監督は「監督は勝負に勝つという仕事以外に、若い選手を育成する仕事もある。それに八木、嶋田に打たせたのは、並木(打撃コーチ)とも話し合って決めている。」と返答したという。
しかし、吉田采配に不満を積もらせていた竹之内は、翌日6月7日の大洋戦の試合前、室山チーム担当部長に「打撃不振の責任をとって辞任したい」との理由で退団を表明、チームに同行せずに単身で大阪に帰り、聞く耳を持たない吉田監督に三下り半をつきつけた。
結局、竹之内コーチは6月16日に正式退団となる。

その後も8月15日にバースが「楽しくなくなった仕事はやめる」と退団をほのめかしたり、8月16日に並木打撃コーチが「辞めたい」ともらしたりと、チームは空中分解寸前となり、結局1987年は最下位というどん底を味わった。
そして10月12日、吉田監督の解任を発表。
2年前の1985年にセ・リーグ優勝、日本一を果たした第二次吉田政権は、3年目に終焉をむかえた。
★永久欠番の23番★

"牛若丸"といわれた華麗な守備と、俊足・巧打でファンを魅了し、背番号23番は初代ミスタータイガースの藤村富美男(10番)そして二代目ミスタータイガースの村山実(11番)に次ぐ球団三人目の永久欠番となった。
★殿堂★

「今牛若丸」の異名をとった華麗な名遊撃手

殿堂入年度: 1992年
表彰区分: 競技者表彰
出身地: 京都府
生年月日: 1933年7月26日
出身校: 山科高校→立命館大学

【顕彰文】
山城高、立命館大学を経て昭和28年阪神に入団。小柄な体が飛燕の如くと讃えられベストナイン9回の遊撃手最多記録をもつ。29・31年には最多盗塁を獲得。打撃においても39年に179打席連続無三新記録を作るなど優れた選球眼を誇りベストテン入り7回をはたす。まさに三拍子揃った名選手として一時代を画した。のち同球団監督に就任し昭和60年にはセパ分立後初の日本一を達成した。

【成績詳細】
タイトル: 最多安打1回('55)/盗塁王2回('54、'56)
表彰: ベストナイン9回(遊 '55〜'60、'62、'64〜'65)/正力賞1回('85)
記録: ベストナイン(遊撃手)9回※プロ記録、セ・記録

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