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猛虎伝説コミュの藤村富美男(全20伝説)

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藤村 富美男   ふじむら ふみお
背番号 10
在籍1936年〜1958年

初代ミスタータイガース

37インチもある長い「物干し竿バット」で豪快に本塁打を放ち、常に闘志あふれるプレーを見せて、「闘将」と呼ばれた。
栄光の背番号『10』は永久欠番である。
首位打者1回 本塁打王3回 打点王5回


1916.8.14生
出身地  広島県呉市下山手町
出身校  呉港中学(大正中学から改名)
(1年目投手) 二塁 三塁 一塁 右投げ右打ち

1932年 大正中では中学2年でエース 甲子園出場
1933年 甲子園出場
1934年 春夏甲子園 夏は優勝投手  捕手は原一朗 外野に塚本
1935年 夏甲子園出場

1936年春 大阪タイガースに投手として入団 背番号10 開幕投手で完封勝利 6番打者 13試合 5打点 .297
1936年秋 25試合 .346 本塁打王2本 13打点
1937年春 肩を痛めて二塁手転向 40試合 15打点 .238
1937年秋 40試合 16打点 .317
1938年春 35試合 20打点 .301
1938年秋 40試合 1本 34打点 .262 東西対抗出場

1939年 1月 応召
1939年〜1942年 中国で従軍 乙幹まで昇進 バンダ海で潜水艦に撃沈されるも半日泳いで助かる

1943年 期間満了で除隊 タイガース復帰 34試合 11打点 .202 東西対抗出場
1944年 打点王49 35試合 .315 東西対抗出場
1945年 正月大会に4番3塁で参加してから応召される 内地 広島で穴掘り 九州で軍用犬の世話 終戦後は呉に帰ってからチーム合流 東西対抗に参加

1946年 主将兼監督代理 96試合 5本 191打点 .323 東西対抗出場
1947年 119試合 2本 .271 打点王71 東西対抗出場
1948年 140試合 13本 .290 物干し竿 打点王108 ベストナイン サイクル安打を記録 東西対抗出場
1949年 137試合 .332 MVP 本塁打王46 打点王142 ベストナイン 東西対抗出場
1950年 140試合 39本 146打点 .362 兼任コーチ 首位打者 ベストナイン サイクル安打(二度目)  東西対抗出場
1951年 113試合 23本 97打点 .320 兼任コーチ ベストナイン オールスターファン選出
1952年 120試合 20本 95打点 .314 兼任コーチ ベストナイン オールスターファン選出
1953年 130試合 .294 兼任コーチ 本塁打王27 打点王98 オールスター出場
1954年 114試合 21本 78打点 .273 助監督兼務 オールスター出場
1955年 112試合 21本 63打点 .269 助監督兼務 岸監督退陣後監督兼務 オールスタ−出場兼コーチ
1956年 51試合 4本 19打点 .219 監督兼務 オールスターコーチ
1957年 監督就任 オールスターコーチ
1958年 24試合 1打点 .115 現役復帰 同年末引退 
1959年 3月2日引退試合

1963年 国鉄コーチ
1964年〜1965年 東映コーチ
1967年〜1968年 東映二軍監督
1969年 評論家に転身

1974年 殿堂入り

実働17年 出場1558試合 打数5648 安打1694 本塁打224 打点1126 盗塁103 打率.300
投手 実働10年 登板76試合 勝利34 敗戦11 完投14 完封4 投球回345.1 奪三振183 防御率2.34
監督通算4年 采配462試合 勝利266 敗戦190 引分6 勝率.583

コメント(25)

≪甲子園伝説?(呉港中時代)≫

★空箱屋が大繁盛★

鶴岡一人 と同学年で呉市のすぐ隣の小学校に入学、野球を始める。大正中学 2年(5年制)、14歳で早くもエースとなり県内のライバル、鶴岡の広島商業 や濃人渉 、門前眞佐人 、白石勝巳 らのいた広陵中学 を悉く蹴散らし、春夏の甲子園 に6度出場、明石中学 の楠本保 、京都商業 の沢村栄治 、中京商業 の吉田正男 、県立岐阜商業 の加藤春雄ら球史に残る名投手と名勝負を繰り広げ『甲子園の申し子』と言われた。

藤村の活躍ぶりは「無人の荒野を行くがごとし」といわれ、甲子園の外野スタンドでは空き箱の上に立って試合を見る最後列の観客のために「空箱屋」が大繁盛するほどの人気沸騰ぶりだったという。

のちにタイガース(阪神)の主砲となり、173cmという大きくない体で37インチ(94cm)の長くて重い物干し竿バットをブン回して打ちまくった。初代・ミスタータイガース「猛虎」藤村富美男は、まぎれもなく甲子園のために生まれてきた男だった。
≪甲子園伝説?(呉港中時代)≫

★楠本保、沢村栄治、吉田正男との名勝負★

藤村がはじめて甲子園に登場したのは、まだ旧校名・大正中時代の昭和7年夏だった。
初戦の大連商(満州)に3対2で勝利したが、2回戦で楠本保の明石中(兵庫)に0対1で惜敗している。

翌8年春は、初戦の松山中(愛媛)を延長12回の末4対3で下したが、2回戦で沢村栄治の京都商に2対3で惜敗する。

8年夏は、初戦(2回戦)の松本商(長野)を完封4対0、迎えた準々決勝は、二日後に夏3連覇を達成する吉田正男の中京商(愛知)に0対2で敗退し、三たび夢を阻まれ、校名を呉港中に改名後の
9年春は、加藤春雄(近鉄)の岐阜商に2対4で初戦敗退している。
≪甲子園伝説?(呉港中時代)≫

★川上哲治の3打席3三振★

昭和9年夏、初戦の長野商に5対1で快勝、2回戦の桐生中(群馬)を完封8対0で圧勝、準々決勝の海南中(和歌山)を4対2で下し、準決勝の秋田中も寄せつけず9対0で大勝して初の決勝進出を果たす。

決勝の対戦相手は、吉原正喜捕手(巨人)や1年生・川上哲治(巨人)のいた熊本工だった。
熊本工の戸上・吉原バッテリーから5回に奪った2点が決勝点となって、投げては藤村が2安打完封、2対0で勝ち、悲願の全国制覇を達成した。

9番右翼手で、まだ左打者に転向後5ケ月目だった川上は、藤村の剛球にバットをかすらせることもできずに3打席3三振だった。

このとき呉港中のチームメイトは、田川豊(南海→大洋→近鉄→大映)、塚本博睦(阪神→阪急→西日本→西鉄→広島)、橋本正吾(阪神→阪急)、保手浜明(翼)という豪華顔ぶれだった。
≪甲子園伝説?(呉港中時代)≫

★選手権大会タイ19奪三振★

昭和10年夏にも出場し、飯田商(長野)と日新商(大阪)に勝ちベスト8入りするが、準々決勝で早稲田実(東京)に敗れている。藤村は初戦の飯田商戦で選手権大会最多の19奪三振を記録している。
≪甲子園伝説?(呉港中時代)≫

★藤村一族の甲子園伝説★

藤村の甲子園伝説は一族にまで広がる。
兄弟、子孫の代まで脈々と受け継がれるのだ。

まず、弟の藤村隆男が呉港中から昭和14年春に甲子園に出場、兄弟出場を果たすが、ここまでは珍しい出来亊ではない。

時を経て、昭和40年春に育英(兵庫)の三塁手として藤村富美男の長男・哲也が、続いて42年の春に三田学園(兵庫)の三塁手として次男・雅美が出場。

さらに時代は平成に移り、平成8年夏に海星(三重)の三塁手として哲也の長男・一仁が、続いて10年夏と11年春に海星の捕手として次男・賢が出場。何と広島・兵庫・三重の3県4校に股がり、まったく他に類を見ない「親子3代の兄弟出場」となった。

藤村一族の甲子園、まだ続きがあるから驚きだ。記憶に新しい平成12年春の育英(兵庫)で、雅美の長男・光司が7人目の甲子園出場選手となったのだ。
しかも育英の監督として息子と"同時出場"を果たしたのは、驚くなかれ藤村富美男の次男・雅美、その人だった。


≪藤村富美男甲子園通算成績≫
昭和7年夏=2回戦
昭和8年春=2回戦
昭和8年夏=ベスト8
昭和9年春=1回戦
昭和9年夏=優 勝
昭和10年夏=ベスト8
 (対飯田商=大会最多19奪三振)
★プロ野球戦後初ホームラン★

1939年 から1942年 までは兵役のため出場できなかったが、復帰後は戦力の落ちた阪神で主軸となり、1944年 に四番打者に定着すると、打点王 を獲得し、優勝に貢献した。

1945年11月23日、神宮球場で東西対抗戦が行われ、ようやく戦後のプロ野球が再開された。
藤村は、西軍の三番でスタメン出場。

5回表、藤村は、東軍の2番手投手白木義一郎の球をセンターに弾き返した。それを追ったセンターが転倒。
その隙をついて、藤村は全力でホームまで駆け抜け、ランニングホームランとした。
これがプロ野球戦後初のホームランである。
★ダイナマイト打線★

1946年、阪神は、名立たる強打者を揃えていた。
その年の6月に日刊スポーツの高山方明記者が阪神打線をダイナマイトに例え、次第に「ダイナマイト打線」と呼ばれるようになっていった。

藤村は、1946年7月27日に西宮球場で行われた阪神×巨人戦で4−4の同点だったとき、ダグアウトで新聞に火をつけて「ダイナマイト」と騒いだ。この後、藤村は自ら勝越2点三塁打を放ったという。
この「ダイナマイト打線」が打線に付けられたプロ野球史上最初の愛称である。

その圧倒的な打線で1947年は、チーム打率がリーグ最高を記録して優勝。藤村も71打点で打点王を獲得している。
1948年・1949も、優勝はできなかったものの、藤村・別当・金田・土井垣といった役者を揃えた打線は、他のチームの投手の脅威となった。
★史上初のサイクル安打&2度目の達成★

1948年10月2日、甲子園で行われた大阪×金星戦で藤村は、初回の第一打席にセンターオーバーの三塁打を放つと、2回にはセンターオーバーの二塁打、5回には三塁内野安打を放って、あと本塁打を打てばサイクルというところまでこぎつけた。
6回に回ってきた打席では惜しくもセンター前ヒットに終わった。
しかし、8回に回ってきた打席では右中間に2ラン本塁打を叩き込み、日本プロ野球史上初のサイクル安打を達成した。
しかも、単打&内野安打という5種類の安打というおまけつきだった。

さらに藤村の記録はこれだけで終わらない。
1950年5月25日に甲子園で行われた大阪×広島戦では自身2度目、プロ野球史上3度目となるサイクル安打を達成。
この通算2度のサイクル安打記録はR・ローズの3度に続いて歴代2位の記録となっている。
★物干し竿バット★

1948年5月、遠征で長野にやってきた藤村は、宿泊する旅館の庭に散歩に出かけた。そこに旅館の物置があった。
藤村が何気なく中を見てみると、当時はまだ珍しいゴルフのクラブが置いてある。
藤村は、練習を兼ねて、そのクラブで野球の素振りをしてみた。
すると、長いゴルフのクラブでもきっちり素振りができる。
藤村は、それを機会にバットを34インチから37インチの長いバットにすることを決めたという。

このバットに代えてから藤村は、本塁打を量産。1947年は、シーズン本塁打2本だったものの、1948年は13本、1949年は何と46本も放っている。
人は、その長い魔法のバットを「物干し竿」と呼んだ。

赤バットの川上哲治、青バットの大下弘に対抗して物干し竿を使ったが、藤村に言わせれば色を塗るだけなら誰でも出来る、自分は他人の真似の出来無いバットを使おうと考えた。

このバットを振り切る為、当時はバーベル なんて無いので、漬物 石を持ち上げ腕力を鍛え、女房の鏡台をストライクゾーンに見立てバットを振った。
「これならボール球もホームランに出来るわい」とほくそ笑んだ。
このバットの更に左手の小指を外して握り、外角高めの少々ボール気味の球でも手を出したので、うかうかウエストも出来無かったらしい。
★ミスタータイガース★

藤村の「物干し竿」に代えてからの活躍は目覚しく、3年連続打点王の原動力となった。

1949年 には187安打 、46本塁打 、142打点 と主要三部門のシーズン日本記録を一度に更新するという空前絶後の大活躍をみせた。。
惜しくも首位打者は小鶴誠 にゆずり、三冠王 にはなれなかった。
それでも、藤村の活躍は十分に認められ、チームが6位だったにも関わらず、MVP を獲得している。

このころから「ミスタータイガース」と呼ばれ、ファンから絶大な支持を受けた。

「ミスタータイガース」としては、他に村山実 、田淵幸一 、掛布雅之 がそう呼ばれた時期がある。
しかし、藤村を別格と見て、ミスタータイガースに初代も二代目も三代目も存在しない、藤村富美男だけがミスタータイガースとするオールドファンは多い。

ファンもそうだが、野球関係の書物に同時期活躍した小山正明 ら同僚選手、青田昇 らライバル選手やマスコミ関係者からも同様の意見が多く聞かれる。

青田は「ミスタータイガースはあのオッサンしかおらへん。
あの2リーグ分裂で、オッサンまで阪神を出て行ったら、今の阪神はないし、いまのプロ野球もないぞ。
プロ野球がここまでのびたんは、東の川上、大下、西では藤村が頑張ったからなんや。
村山、田淵、掛布がミスタータイガースなどといわれたが、とてもとても藤村のオッサンには及ばんよ。
ミスタータイガースは藤村のオッサンだけ」「とにかく阪神と戦って、巨人の選手が9人がかりで、あのオッサンを潰しにいかんとあかんかった」と声を大にして話していた。
★プロ入り初登板★

1936年 、藤村が呉港中学を卒業した年は、職業野球連盟 が結成された年であった。
設立されたばかりの大阪タイガースは、甲子園最大のスター選手であった藤村を熱心に勧誘し、前年末に投手として入団させた。背番号10。

1936年プロ野球リーグ開幕、タイガース最初の公式戦である4月29日の対名古屋金鯱軍 戦に開幕投手として登板、1安打完封勝利をあげ、続く第3戦も先発し同点から延長で、センター・平枡敏男のエラーによりサヨナラ負け。
阪神の勝利・敗戦とも第1号となった。

更にアメリカ遠征から戻った巨人との“伝統の巨人・阪神戦”第1戦に先発・若林をリリーフ。ボークなどで逆転されたが、味方が再逆転し“伝統の一戦”も勝利第1号となっている

投手で好成績を収める傍ら、内野手不足となったチームの穴を埋めるため、内野手としても出場し、1936年秋季には本塁打王 に輝いた。

1937年 からは、本格的に二塁手 に転向し、2番打者としてチームの二連覇に貢献したが、当時のタイガースは景浦將 、山口政信 、松木謙治郎 、藤井勇 などリーグ屈指の強打者が数多く在籍していたため、藤村の立場は完全に脇役であった。
★元祖魅せるプレーヤー★

藤村は、大阪のファンを喜ばせるため、派手なパフォーマンスを随所に見せた。
見せる野球、ショウマンシップに目覚めたのは『東京ブギウギ 』の笠置シヅ子 のレヴュー を見てからとよく知られるところだが、お客さんを喜ばそうと、試合前の練習から曲芸のような捕球や打ち方をやって見せた。

試合が公式戦でも紅白戦のようなオープン戦であろうとも手を抜くことはなく、土井垣らと内野のボール廻しを途中からボールを使わず、いかにも続けているかのように見せるシャドゥプレイでお客さんを沸かしたり、ホームランを打って両手を振ってダイヤモンド一周をしたり、砂煙を上げる猛烈スライディング をわざとしたり、内角のキツいところを突かれると大仰にひっくり返ったり、そういったサービス精神旺盛な姿勢が、球界初のレコード 吹き込み『涙の乾杯』やテレビ出演に繋がった。

そして、藤村の魅せるプレーとして見逃せないのがけんけんで走った本塁打である。
藤村は、左足捻挫で試合を欠場していたことがあった。
しかし、チャンスになり、藤村は痛みを押して代打で登場。
しかも、見事な右中間本塁打を放ったが走ることはできない。
藤村は、右足だけのけんけんでダイヤモンドを一周して観客の爆笑を誘ったという。

また打撃だけではなく強肩を生かした華麗な三塁守備でも知られた。
「V9巨人」の三塁手である長嶋茂雄も「藤村に憧れて三塁手になった」と公言している。つまりこの魅せる野球という姿勢が長嶋茂雄へ引き継がれ、プロ野球人気を今日まで永きに渡り持続するものにしたとも言えるだろう。
★連続試合出場が出場停止処分でストップ★

藤村富美男の連続試合出場記録は思わぬ事件で途切れた。
藤村は1946年8月20日以降、毎年全試合に出場し続けてきた。
しかし、1954年7月25日の対中日戦で打者真田のファウルか三振かの判定をめぐって審判団が協議して三振と出た判定に、一度落としてるのを目撃している阪神ナインは猛反発。

真っ先に飛び出していったのはやはり藤村氏だった。
そして、藤村が球審の胸を突いて抗議してるのを見ると、阪神松木監督が藤村の退場を阻止するため退場のジェスチャーをするかしないかのうちに藤村を投げ飛ばしてしまった。
ファンも乱入しての乱闘に発展して、結局は松木謙治郎監督と藤村は退場処分となった。

一時間後試合が再開されたが退場宣告の場内放送がなかったため、自分は退場になってないと思っていた藤村が打席に向かい、それを捕手が制止しようとしてまた大乱闘。
またも阪神ファンが乱入し、機動隊が出動するまでの騒ぎとなり、没収試合に発展した。

藤村は、野球連盟から20日間の出場停止処分を言い渡され、続いていた連続試合出場が1014試合で止まった。
この連続試合出場記録は、当時の日本記録を更新中だっただけに、惜しまれる止まり方である。
★阿修羅の藤村★

甲子園で「阿修羅の藤村」と表現されたように、赤鬼のような顔で審判にも文句を言いしばしストライクがボールになったらしい。
更に1948年の対巨人戦で本塁に突入し、捕手・武宮敏明 を体当たりして脳震盪させたプレーは、捕手への体当たり第1号といわれる。それまでは捕手が先にミットを構えたら走者は止まってアウトになっていた。
★代打わし★

1949年末から1950年 始にかけての2リーグ分立の際には、若林忠志 、別当薫 、土井垣武 等をはじめとする主力選手が次々と毎日オリオンズに引き抜かれたが、「わしゃぁタイガースの藤村じゃ」という名言を残し、ひとりだけタイガースに残って弱体化したチームを支えた。

そして兼任監督となった1956年6月24日の対広島カープ 戦、1点ビハインドの9回裏二死満塁で、兼任監督として三塁コーチャーズボックスに立っていた
藤村は、審判に「代打わし」と告げて打席に入ると、長谷川良平から日本球界2人目となる代打満塁逆転サヨナラ本塁打を放った。

古田敦也 に先んじること50年、「代打、ワシ」のコールから起こした夢の大記録だった。このホームランが藤村の現役最後のホームランであった。この年限りで引退して監督に専任することとなった
★藤村排斥事件★

この年の監督はノンプロ出身の岸一郎であった。しかし、阪神ナインは藤村中心に同監督の不可解な采配に猛反発をし、ついには岸を33試合めで追い出した。

しかし、後を引き継いだ藤村は自分ばっかり目立とうとし、これには小山正明、吉田義男等大半の主力が反発し、とうとうオフに「藤村を更迭しなければ我々は契約しない。」と強硬な姿勢で望み、大騒動となった。
これに対して藤村も「2軍だけになってもやってやる。」と強気だったが、結局更迭され幕を閉じた。

この事件は、後の阪神に大きく影響を及ぼしてる。反藤村派の人間は、吉田義男以外全員阪神を離れていき、そして何より立教大から長嶋茂雄を引く抜く寸前まで行っていた青木スカウトの首が切られたことは阪神だけでなく野球界にも大きく影響を及ぼしてると言えよう。 
★男どアホウ甲子園 ★

水島新司 の有名漫画 、「男どアホウ甲子園 」の主人公の名前が、藤村富美男から取った藤村甲子園であることは言うまでも無いが、「ドカベン 」岩鬼正美 の豪快・奔放なキャラは、藤村のそれが多大に影響を与えているらしい。

また「あぶさん 」こと景浦安武 の名は景浦將 からの命名だが、藤村も二度だけ作中に登場した。
ルーキー時代のあぶさんに「物干し竿」を使い始めるきっかけを与え、またこれは偶然ではあるが、「二代目物干し竿」のあぶさんが作中で三冠王を獲得した(1991年 )のを見届けてから、翌年に他界している。
★引退★

監督を解任され、42歳で平選手にされた1958年は、先発は1試合のみ、7番ファーストで途中交代。
結局26打数3安打、シングルヒットが3本の打率1割1分5厘で、生涯打率 3割を保つため出場をやめた。

引退の記者会見は、甲子園球場の食堂で行われた。
阪神一筋の大選手に対する処遇としてはあまりに冷たいものだった。
口が重い、怒りっぽい、むくれると、腫物を扱うように関係者・新聞記者達からも嫌われ、この後の評論家・解説者もうまくいかなかった。

水原茂 、浜崎真二ら他チームの大監督からは請われて、東映 打撃コーチ時代は、大杉勝男 の入団を促すなどの成果は挙げたものの1968年、野球界からは完全に離れ、藤村ファンという社長の経営する水道工事の会社に勤務した。この事について藤村自身は「野球だけしか出来ない人間と思われたくないから、野球界から完全に離れた」と言っていたが本心ではなかったと思われる。

終生のライバルだった川上や鶴岡が、指導者としても大きな名声を得たのと比べると淋しい引退後だった。
★殿堂★

藤村富美男 ふじむらふみお
“物干しザオ”バットの初代ミスター・タイガース

殿堂入年度: 1974年
表彰区分: 競技者表彰
出身地: 広島県
生年月日: 1916年8月14日
没年月日: 1992年5月28日
出身校: 大正(呉港)中学

【成績詳細】
タイトル: 首位打者1回('50)/最多安打2回('49〜'50)/本塁打王3回('36秋、'49、'53)/打点王5回('44、'47〜'49、'53)
表彰: 最優秀選手1回('49)/ベストナイン6回(三 '47〜'52)
記録: 初登板無失点勝利('36.4.29)/1014試合連続出場('46.8.30〜'54.7.31)/サイクル安打2度('48.10.2、'50.5.25)/最多連続試合満塁本塁打2('53.4.28〜4.29)※プロ記録、セ・記録/代打満塁サヨナラ本塁打('56.6.24)/三塁手・シーズン最多守備機会728('50)※セ・記録/三塁手・シーズン最多刺殺209('50)※セ・記録

【顕彰文】
昭和初期呉港中学投手として名声を博し、夏の甲子園大会で優勝。タイガース結成当初入団し、のち内野手に転じ、長年にわたり一貫して同チームの主軸として活躍した。その熱烈な闘志と強打巧守はファンの絶大な人気を博して、プロ野球の繁栄に大きな役割を果した。
★永久欠番 10番★ 

初代ミスタータイガース
1936年阪神創立とともに入団。エースで6番打者としても活躍するが肩を痛めて野手に転向。
野手としても才能を発揮し38インチ(97センチ)もの長いバットを使うことから「物干し竿の藤村」と呼ばれ、『4番・一塁手』として活躍。シーズンMVP1回、首位打者1回、本塁打王3回、打点王5回など輝かしい記録を残す。

選手兼監督としても活躍。阪神一筋18年の功績を称え背番号「10」は永久欠番。
引退後は国鉄・東映のコーチなども務めた。

1974年11月25日には野球殿堂入り。

1992年5月28日、糖尿病 による腎不全 のため、75歳で他界した。
初代ミスタータイガースに合掌
2005年に今岡選手が打点の球団新記録を打ち立てたが
それまでの記録が藤村選手であった・・今更ながらに
藤村選手の偉大さには驚かされます。

写真は19番とかぶり申し訳ないです。
大阪歴史博物館の「阪神タイガース展」
の図録55ページよりスキャンしてトリムしました。

この面構え、獲物を狙うような眼つき・・まさに猛虎です。
1箇所、間違いがありますね。
藤村排斥事件は、これは、2度目のことであって、1回目の方が、深刻でした。
当時は、金田正泰主将が、中心だったのですが、その際、タイガースを出たのは、若林、別当、土井垣、本堂、呉、、、
その出たみんなが移籍した先の毎日オリオンズで、第1回日本シリーズを制したのは皮肉です。
昭和30年の岸監督時は、藤村は、ヘッドコーチ兼務、最後まで岸擁護派で、決して、藤村が追い出したのではありません。
金田、白坂らを中心とした年棒問題の不満が原因で、采配批判は、マスコミが勝手に書いたことです。
当時、巨人、毎日など、全国紙を親会社に持つ、球団が、現在、球界を揺るがしている特待生問題の引き金になることを犯しています。
当時、各球団もスカウト組織は持っていましたが、金の卵を見つけても、移動時間など、当時は、ムダが多く、その点、全国紙が親会社の球団は、新聞記者が、スカウトの請負をしていました。でも、悪いヤツは当時から居たので、選手の親から、契約金の何%を自分に払うと、○○に入団させる。という念書を書かせて、△△球団には、○○は、契約金が、2百万円だが、おたくが、三百万出すのなら、おたくへ入団するように、するなどする記者も大勢、いました。
その後、青田買いにまで発展して、(元阪神の古沢投手や、元巨人の高橋一三投手は、高校中退で、プロ入りしている)後に、ドラフト制度に移管しました。
藤村排斥事件は、マスコミ対応の下手な球団がマスコミに付け込まれたもので、被害者は、藤村本人でしょうね。

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