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セーレン・キルケゴールコミュのあなたの好きなキルケゴールの言葉をご紹介ください。

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キルケゴールの著作の中には、難解なところもあるのですが、おどろくほど示唆に富む、面白い、有益な言葉もたくさんあります。

私にとって良かったところを紹介してみたいと思いますが、皆様にとって教えられた文章、注目すべき表現などがありましたらご紹介ください。できれば書名(出版社)と場所(第何編何節とか・・・、ページ数とか・・・)も書き添えてくださると探しやすくなるでしょう。

感想や解説も歓迎します。


コメント(8)

死に至る病 第一編Aの冒頭部分

「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか?自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。」

世界の名著「キルケゴール」p345

別のトピにも書きましたが、ここはキルケゴール哲学でもっとも重要な箇所だと思います。

人間を関係として捉えるのが従来の哲学(ドイツ観念論)でしたが、キルケゴールはその関係にもうひとつの要素を付け加えて、その関係に関係するところに人間の精神が成り立つと主張してます。

それを私なりに纏めると、1)自分、2)それを眺めている自分、3)その自分を措定した神、 1)と2)の関係に第三者である神が介入してはじめて自己が完成するというのです。

そういう人間観が万人に説得力をもつのかどうか判りませんが、私にとって、「第三者との関係が確立しなければ自己は完成しない」という考え方には「なるほど」という感想を持ちました。
私にはドイツ観念論の知識はありません。
しかし・・・死に至る病 第一編Aの冒頭部分 ・・・
感覚的にわかります。
人間は心と肉体からなり、心と肉体の関係の総合として精神がある。
その精神が心と肉体に関係すると共に関係そのものにも関係する。
しかも、その関係を措定したものを前提とする。

これは理論ではなくキルケゴールの目には現実だったのでしょう。
ギーレライエの手記

1835年にキルケゴールはコペンハーゲンから50キロほど北にあるギーレライエの町を訪れ、8月1日にギーレライエの手記を書き残しています。この手記の内容は非常に重要なのですが、著作集(白水社)には収録されてないみたいです。世界の名著(p20)で桝田啓三郎先生が解説付きで紹介していますので、皆様お読み下さい。・・・押しつけがましい言い方で申し訳ありません。・・・この手記は若き日の私の思索の方向性を決めた思いで深い言葉となっています。

その一部をご紹介します。

「私に欠けているのは、私は何をなすべきか、ということについて私自身に決心がつかないでいることなのだ。それは私が何を認識すべきかと言うことではない。・・・私の使命を理解することが問題なのだ。神はほんとうに私が何をなすべきことを欲したもうかを知ることが重要なのだ。私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き、そして死にたいと思うようなイデーを発見することが必要なのだ。いわゆる客観的真理などをさがし出してみたところで、それが私に何の役に立つだろう。哲学者たちのうちたてた諸体系をあれこれと研究し、求められればそれについて評論を書き、それぞれの体系内に見られる不整合な点を指摘し得たにしたところで、何の役に立とう。
(以下略)
「天におられるわれらが父よ、私は心からあなたに感謝しております。あなたは、私が地上の父を心から必要としていた時に、父をこの世に今しばらくとめ置いて下さいました。
どうか父が、私が生まれたあの日以上に、あなたの助けによって再び私が父の息子になれたことを大きな喜びとしてくれますように」

(キルケゴールの父親が亡くなるおよそ1ヶ月前のキルケゴールの日記より)
「8日の午前2時に父が亡くなった。あと数年でいいから生きていてほしいと心から願ったけれど。
私は父の死を、父の愛による最期の犠牲だと受けとめる。
父は死んで私から離れ去ったのではなく、私のためになるようにと、私のために死んだのだ。」

(1838年8月11日の日記より)
>>[6]

これも味わい深い言葉ですね。

自己が何に向き合う自己であるかという、まさに向き合う相手いかんが、いかなる時も自己の尺度となる。「尺度」の定義とは本来このようなものなのだ。
私たちはただ質を同じくするものを比べてのみ、そのものを見積もることが可能であり、したがって何らかの尺度によって見積もられるものというのは、全てその尺度と同質であるからこそ測定可能なのだ。
このように同質であり、それによって尺度となりうるものは、またそれの倫理的目標でもある。尺度と倫理的目標とは、したがって本質的には同じことである。
>>[1]

この冒頭は、ほんと難しいですね。
私たちの中には無限と有限、時間と永遠、自由と必然などの一見対立し合うものが存在している。こうしたものを抱えているのが人間だが、精神とか自己というものはこうした対立する関係が、この関係において、この関係自身に関係すること。
そして自己は、自己自身によって定立されたのでは決してない。神により定立されたものとして神に関係し神に依存しているから自己は、神と関係することによってのみ平衡と安らぎに達することができる。
もし自己というものが自己によって定立されたものなら、絶望した者は自己から脱しようとする。しかし自己は神により定立されたものであるから、絶望した者は自己自身であろうとするのである。

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