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宗教論・宗教学コミュのセックスと宗教。

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セックスと宗教。

戦前まで日本の農村では、聖なる祭りの日には乱交パーティ的にセックスが行われ、セックスが宗教的行為の一部だった。

それは「夜這い」と呼ばれ、夜這いのセックスで出来た子供は神の子として育てられた。

古代イスラエルの神殿には神殿娼婦、神殿男娼が居て、信者は、セックスの恍惚と快感の中で、神との合一を体験した。

仏教では、インド後期密教、チベット初期密教が、セックスを悟りの手段として活用した。

12歳か16歳の美少女と師匠がセックスをし、弟子が美少女の性器から出る血と師匠の精液を飲んだ。

その後で、弟子全員が美少女とセックスした。

現在のチベット仏教では、実際のセックスはしない。空想の中でセックスするだけだ。

しかし、悟りを開くに当たっては、それで十分である。

セックスの快感は、性器で感じるものではなく、頭脳で感じるものである。

それは、現代の精神医学の常識である。

性器を切り取っても、性欲が無くならない。

去勢したカトリック司祭は、そのことを、ルターをうちわけた。

日本でも、真言宗に立川流が現れ、ドクロに精液を塗り、悟りのための性交を行った。

一時は真言宗の僧侶の80%が立川流の信者になった。

ユダヤ教、キリスト教、イスラームは、婚姻外性交を全面的に禁止した。

キリスト教は独身を奨励し、性交(セックス)しないことを勧めた。

パウロは必要悪としてのみ、結婚を認めた。

キリストは、天国には、性交はないと教えた。

偉大な進学者・オリゲネスは、性欲を絶つために、性器を切り取り、去勢した。

ロシアのキリスト教の一派であるスコペッツ教徒は、信者全員が去勢した。

男子の信者はペニスと睾丸を切り取り、女子の信者は乳房を焼き切った。

カトリック司祭、修道士、修道女は独身で、東方正教会の修道士も独身を強制されている。

プロテスタントは結婚を認めるが、セックスを楽しむことを禁止する傾向が強い。子供を作るため以外の性交を禁止した宗派もある。

こうしたキリスト教に対して、コーランで「独身主義に基づく修道院制度は認められない」とし、結婚とセックスを奨励しているのがイスラームである。

キリスト教の天国ではセックスできないが、イスラームの天国では4人の美少女を妻とすることができる。

イスラームでは、夫の性欲を挑発することが妻の義務であり、性交を楽しむことを強く奨励している。

イスラーム世界では、9才くらいから少女は、ビキニの水着のようなスタイルでセクシーなダンスを踊るベリーダンスの練習をする。

町の女たちの集会で、ベリーダンスを見せる。

男性は見ることは禁止。

それで、女だけ、母親だけが、町で、どの少女がセクシーなのかを知っているということになる。

だから、イスラーム世界では、息子の妻を選ぶのは、多くの場合、父親ではなく、母親である。

今、東京大学でも「摂理」という韓国のインチキ宗教の信者が増えているが、入信者のすべては、宗教について何もしらない人だ。

オウム真理教・摂理などにだまされないためにも宗教について知る必要がある。



できるだけ、多くの人が、この日記の感想を書いて下さる事を期待します。


私に対してマイミク申請して下さい。マイミクは、いきなり、OKです。

コメント(211)

>169:朝野善果一(よかいち)さん、

仏教の道に進んでみようと思われるなら誰か良い和尚に付いて可愛がられ乍ら精進するのが宜しいかと思います。何れにしろ凡人が独りで出来る事では無いと思いますよ。あの釈迦でさえスジャータに乳を貰わなければ死んでいた程に独りで修行を重ねて辿り着いたのが仏教で、にも拘らず彼は一求道者だと自分の事を呼んでいたそうです。

貴方が仰る通り貴方の心の問題でしょう。多分、女の子や他人の性格や性質の問題では有りませんね。相手に自分の素を悟られたと自分が感じた時に自分が不安に成るのでは有りませんか。
>171 川口 滋 さん
>進化論、天地創造論、科学の上ではどちらも仮説ですね。Creationist ScienceはEvolutionist Scienceの対義語として産まれた言葉で便宜上片方が科学と呼ぶならば両方同じ様に呼びましょうと云うものですね。私は、敢えて初めから「進化論」と「創造論」と呼んでいますけれども、貴方が「創造科学」と言い出したのですよ。

相変わらず誤解してるようですけど仮説というのは反証のあるもので、天地創造論のように聖書絶対の議論不能なものは仮説とはなりえません。創造論と創造科学の違いはその次元においてはなんの違いもありません。つまり、科学と称することが詐欺だと言ってるわけです。そして、科学でないものは、近代以降は個人の嗜好程度に収めるのが無難な話だといってるに過ぎないわけです。

>自分で種を落として煮詰まっておられるもの結構ですが。断言しているのは貴方です。私は自分の信じる処、嗜好と意見を述べ、不可解な点を問い掛けているだけですよ。押し付けておられるのは貴方の方にならないでしょうか。

私が断言してるのは、セックスから離れていつまでも宗教宣伝をするのはトピずれだからにすぎませんので、その姿勢そのものがキリスト教が間違ってる証明になっているという話です。

とりあえず、あなたのここでのキリスト教礼賛がこのトピのテーマのどこに合致してるのか、コメントされてはいかがでしょう?
>173:ユキチさん、

世の中は意味が有って存在すると考える私に云わせると「性交」を論議する前に「性」とは何であるのか、其の出処と意味と価値の考察から始める必要が有りますね。全てに何らかの価値が有り意味が有ると考える創造神を基にした世界観と、全てが偶然であらゆるものに価値も意味も定義され得ない無神論との違いとでも云いましょうか。

よって、宗教の場合には事の発端に関する論議にも成りますね。だから、テーマの「セックスと宗教」から逸脱した論議だと私は思いませんよ。然し、長い道のりである事は確かでしょう。

私が「キリスト教礼賛」していると受け取られるとは光栄です。

処で、仮説には反証は必要有りませんよね。仮説は実証されていない論説を意味するのではないでしょうか。Wikipedia日本語版には「真偽はともかくとして、何らかの現象や法則性を説明するのに役立つ命題」とも説明されています。仮説がどのように編み出されようと問題には成らないと思いますがね。大概の仮説は思い付きや閃きが基に成っている様ですから。其処から辻褄合わせに色々と論理的な構成を作り上げる訳でしょう。

Commander Stephen William Hawkingは時空を丸く収めれば始点も終点も無く成るので諸事の根原因である神を議論する必要を抹殺出来ると考えてA Brief History of Timeに記載された理論を構築しましたね。御読みに成られましたか?

進化論に関する断続平衡説(Punctuated equilibrium)と云う理論もそうですね、中間過程の生物種が見受けられないので考案された一つの修正仮説です。進化と云う前提と現実に我々が直面する世界との辻褄合わせです。

創造論が聖書の記述と辻褄を合わせ現在の現実と辻褄を合わせるのと何ら変わり無い努力じゃないですか。科学的見地から見て何れも実証実験が出来ない理論/仮説に過ぎませんが。

貴方が強要されておられるのは(疑似の様な気もするが)科学絶対主義ではないでしょうか。これは貴方の仰る暴力そのものではないのでしょうか。科学もある信仰の上に成り立っている一つの体系に過ぎない事は貴方も同意された筈なのに可笑しいですね。

Nature, Nature Biotechnology, Nature Medicine等を時折目を通したり検索したりしておりますが未だかつて一度たりともMacroevolutionに関する実証実験の記事を私は見た事が有りませんよ。
174
とりあえず、あなたのキリスト教におけるセックスとはなにかって自論を長く展開したいなら、自分の日記でやられてはいかがでしょう?

このトピでは、一般的な宗教について言及したいのでしょうし、その一般的なところのひとつとしてキリスト教があるわけでしょう?

一般的なキリスト教からセックスを語るだけで充分では?

また、キリスト教礼賛は、そういう人たちが集うそういうしかるべきコミュがあるわけですから、そこで思う存分されてはいかがでしょうか?
こんなところでやっても、単なる公開オナニーですよ。まあ、神の名を唱えながら、射精してるのを見るのは、なかなかいい見世物ではありますけど、流石に連投が続くと、社会的に止めた方がよろしいかと思う人も多いと思いますし・・・・

>貴方が強要されておられるのは(疑似の様な気もするが)科学絶対主義ではないでしょうか。

反証可能性を理解できてない人といくら科学について議論しても単なる時間の無駄で無意味だとは思いますが、現実的に、創造論の論文がまともな科学雑誌に載って精査されることはないのですから、創造論をいくら科学だと騒いでも結果的に無駄だと思いますけどね。とりあえず、まともな科学者が普通に議論できるレベルになってからだと思いますけど?
○172 川口さま
まあお寺に通って今一年くらいなんですが、御住職とはお話したり、
祈ったり、写経したり、落書きしたり、案内したり、もう自分の思う
通りのことをしてます。

ある意味天魔な自己中心なんですが、少しずつ人の喜びの中に自分が
発信することで、生きていける事が幸せです。お釈迦様がどうこうと
言うより、己の心が整っているか?みんなが苦しみを乗り越える事を
共に考えたりする事が大事な気がします。

また人と善いものを与え合うことも大切に感じます。
何々だから駄目ではなく、何々をすると、凄く皆も自分も心が喜ぶ。
それが自己中心な喜びだった我欲が少しずつ、我欲よりみんなの
喜びに向かい生きていく気がだんだん形成されつつあります。

また仏さまの縁が皆深まるきっかけを作っている。それが今自分の喜びです。

僕は人生の敗北者ながら、そんなに明日に対して不安はそんなに
感じません。自分で自分をいじめて苦しみの期間を凄く長く感じ
ました。そして今は少し先の未来にいいイメージをもつことが上手く
生きるコツと御住職からは教わりました。明日の事はそんなに
煩っていないです。不安は薄らいでます。

地獄に堕ちても、それにはそれなりの意味があり、
また永遠の輪廻をする果てに、全てから神仏菩薩の心を感じ取れる
ようになったとき、本当の世界をこの世を大切に愛するそして
世の法則がわかる事が出来るような気がします。

-------------------------------------------------------------
なんていうか女の子を特別な存在として感じるとき
自分の心はその独占欲なり支配したいなりそんな気持ちがふと出ます。
相手の気持ちを知ろうとしないで自分の嬉しさから暴走して結果として
相手に嫌な想いをさせる。そんな感じです。

自分の素が相手にとってつまらないものなんだと思います。

いつも一緒に居るだけで嬉しい、そういう時は僕も相手を大切に
どうしたら一緒に居て喜んでもらえるかなとも想うんですが

自分の素が自分がこれが言いたいと想うと暴走して相手そっちのけで
自分の主張をする。それはこの書き込みからも解ってもらえるかなと
思います。

まぁみんな50歩100歩なんだと思います。
>177:朝野善果一(よかいち)さん、

誰かの師事の下で修行しておられると聞いてホッと致しました。独りで闇の中を蠢いておられる様な印象を受けたので気掛かりでした。

仏教の世界では開眼と云うのですか、悟りの境地に至り平安の世界に至る事が出来ると宜しいですね。其の時には本当に人々を心から愛せる様に成るのでしょう。煩悩と云うのですか、邪念を避けて確りと精進下さい。

そんな時に又お話で来ると面白いかと思います。
○178 イヌワシさま
確かに自分のこだわりばかり話しています。それを人に伝えるには、その周りの条件を見ることが
大切なんですね。そのタイミングが良いと善い影響が波紋のように広がって行く。
そんな良いタイミングと善い発言をする。修行せねばなりません。

○179 川口さま
ある意味、世の法則を見極める事が大切な修行なんだと思います。心の平安を作る事もそうなのですが
ある意味自分自身への執着が取れたら、周りの人への対応が自然に出来るようになる気がします。
こころ澄み皆の心観て、皆に善いものを与える。そんな意味でも今は精進して自分の為せる技を磨く事が
大切なのだろうなと思います。

新たなトピ立てるべきカナ?
川口 滋 さん
進化論は反証可能な学説ですよ。
現在多くの人に支持されているからと言って反証不能な仮説とは言えません。
>182:しのぶさん、

「進化論は反証可能な学説ですよ。」私は次の様な理由で異なる見解を持ちます。

  1、我々は進化論が仮定する初期環境条件を知らず、又、構築出来ない。
  2、若し(1)の環境が一時的に整えられたとしても現在の技術では進化論が要求する長期間に渡り其の環境を維持する事が非常に難しい。

Darwinian Evolutionは当時の限られた知識と観察能力から構築され、現在我々が持っている知識で観ると非常に幼稚で粗雑な説ですが、後に多くの学者が色々な修正論を重ね重ね構築して来ており非常に複雑で高度なものに成っておりますね。私の知人で進化論学者の人も現在の進化論にある数々の欠点や問題を認めております。然し、抑が信仰と選択の問題であり、彼は何れ此れ等の問題や欠点を克服する修正論が出てくるであろうと期待しております。彼自身が進化論を選択するのは科学的理由ではなく嗜好の下での選択であると言っております。

現在の進化論に於ける問題の一つに塵や腐敗物の供給が有ります。進化論上では初期に発生したと考えられる下等生物が生活の糧にしている塵や腐敗物の大半を高等生物が生産していると云う事です。Young Earth Creation Theoryが提唱する様に非常に短期間で世界が構築されるならば問題には至らないのですが、現代の進化論が提唱する様な何百万年や何千万年という時間が掛かるとすると例え初期地球に其れ等の塵や腐敗物が存在したとしても其処に居た下等生物によって消費され枯渇するのではないかと云う問題と、下等生物が生産したものは高等生物が存在しないので消費されず其の毒性によって下等生物は滅亡してしまうだろうと云う問題です。

しかし、進化論者にいわせるとまだ進化論はヨチヨチ歩きの幼児の様なもので此れから高度に発展して此れ等の問題も克服出来るだろうと云う事です。

何れにせよ、最先端の著名な進化論学者の多くが自らの意図的な意志で進化論を選択し提唱していると云う事を隠そうとはしておらず、又、現在の進化論学説には多くの問題が残されている事も認めている処です。要は突き詰める処、進化論か創造論かと云う問題は科学の問題ではなく信仰と選択の問題で有ると云う事で私も進化論学者の知人も合意しております。如何でしょう。
183:川口 滋さん
進化論は確かにダーウインによって基礎が築かれた。
しかし・・・その進化論なるものは・・・日々進化する。
その意味ではダーウインは「過去」の人。
現代では遺伝学その他の最新の科学によって常に修正されつつある。
ここまで来ると単なる仮説とは言い難い。
その意味では創造科学は進化していない。
>186:しのぶさん、

創造論は神のお告げである特別啓示(Special Revelation)を基に構成されたので特に変更を促す問題に直面していないと云う事が大きいと思います。その点で進化論は一般啓示(General Revelation)と辻褄を常に合わせなければ成らず忙しく成るのは致し方無いでしょう。

特に近年の遺伝子関係の解明や発見は進化論学者をとても忙しくしていますね。遺伝子の意外にも高度な自己修正能力と自己破棄能力の解明は突然変異等を基礎にした進化の仕組みが種を跨ぐ進化への発展に至る実現性を非常に難しいものにしましたね。

だから排泄物とか栄養素等の議論以前の問題ですね。

進化論は 複雑な仮説の積み重ねですからconvoluted hypothesisでしょうかね。

創造論の世界では情報学的な考察がされているようです。遺伝子は正に情報を受け継いでいる訳でそう云う見方の中でIntelligent Designとか呼ばれる考え方が提起される様に成りました。

************
Wikipedia日本語版の説明が余り適切でないと思われるので、、、宗教学用語で端的に
  Special Revelationは聖書等の教典や預言を通して神が特定の人に与えた知識
  General Revelationは被造物/自然等を通して神が全ての人に与える知識
と云う意味です。

よって自然科学とはGeneral Revelationに関する学問と云う事に成ります。そこでSir Isaac Newtonが物理力学の事をPhilosophiæ Naturalis Principia Mathematicaと自然哲学と呼んだ由縁が理解出来ると思います。
187:川口 滋さん
この議論は現コミュ主さんの方が詳しそうだ・・・
そもそも科学とは宗教概念で押さえるべきものではない。
よってGeneral Revelationに関する学問と言って良いかどうか疑問ですね。
だいたい神学など宗教に関わる学問は王侯貴族もしくは聖職者のハイレベルな学問であって科学は本来奴隷の学問ですよ。
しのぶさんも好きだねぇ・・・

反証可能性を知らないのに議論しても結論はつくはずもないので、無駄ですよ。

創造論について質問すれば、その反証不可能なところはすぐに明確になる話。
例えば、創世記には神は蛇に塵を食べろと命令してますがそんなものを実践してる蛇はいないから、聖書の科学的な正当性は失われるわけですし、すぐに反証不能なことは明確になります。

簡単な話ですよ。

>そもそも科学とは宗教概念で押さえるべきものではない。

アメリカ在住の方にこれはあまりわかりやすい話ではないと思いますけどね。

ユキチさん
私は前コミュ主だから現コミュ主がやりにくくないようにそろそろ引き時だと考えています。
確かにアメリカ在住の方にはわかりにくいかもしれませんね(^^)
現在のキリスト教に関して言えば

>Special Revelationは聖書等の教典や預言を通して神が特定の人に与えた知識

と聖書を正当化絶対化するために勝手にクリスチャンが神を騙って捏造してるだけのことなので、間違いだという結論になるだけのことです。

ただし、個人でそれを信じている分では、日本は信教の自由がありますから別になんでもいいとは思いますけどね。
イヌワシさん

宗教的命題は反証可能かどうかという究極的なトピでも立てたらいいとは思いますが、

>標語的にいえば 「白いカラスは確かに存在するが、だからといってカラスは黒いといって間違いではない」のである。

ということが、なにを表すのかということです。

キリスト教では、白いカラスが福音に至るのであれば、黒いカラスは抹殺されるわけです。そこに議論の余地はありません。聖書を解読した結果、実は福音に至るのはノンクリでしたという結論をバチカンが出すはずはないし、出さないから宗教なのです。
わかりやすい話です。
普遍な価値や意義は上智により与えられる以外に生成は無理で有ると云うのが私の見解です。何らかの創造神を前提にする各宗教がそれぞれの世界で其の教義を基に価値や意義を定義する以外に普遍性を訴える方法は無いでしょう。此の事についてはせり☆暴走一番星さんと議論致しましたが途中のままです。

先にも述べました様に科学は其れ自体、価値や意義を定義もしなければ問題にもしないですね。ですから各社会に於いて倫理委員会等の科学外の論議をする機関が科学研究に統制を掛けようとしておりますね。そして其の倫理委員会で取り扱われる倫理基準はTPOで如何様にも変わる普遍性の無いモノですね。

よって、教義と云うものに拒絶反応を起こし其の中身に関しての議論が出来ない処で本トピック自体に更なる掘り下げは難しいと思います。
>普遍な価値や意義は上智により与えられる以外に生成は無理で有ると云うのが私の見解です。

例えば、セックスは?

セックスに関して、人は誰からも教えられないとしたら、男女は交わって子供を作れるのですかねぇ・・・・

とりあえず、聖書にはセックスの仕方は書いてないわけですけどね。
エッセネ派はそれで滅んだわけですが・・・・
川口さん

87→108と極めてまったりしたやりとりですが、一応お答えします。

川口さんは、どんなに些細なことであってもそれが真理として主張されるためには絶対的真理の土台が必要ではないか、と考えておられるのだと思います。

科学でさえ、アプリオリな信念の共有が必要ではないか。
科学は一定の基準を満たしたものを真理として承認する、だから、その「一定の基準」なるものはまさにそれであろう。そういうものがある以上、宗教と同じではないか。
こういうお考えなのだと思います。

これはなかなかの勉学を感じさせますし、かなり痛いところを突く(ま、痛くはないんですけど)ものだと思います。

私はここでは一貫して「理論の裏づけ(基礎づけ)」ではなく「理論の廃棄または修正」だけを問題にしてます。
ですから、真理性の基礎という考えはもともと無いわけです。

「理論の基礎付け」ではなく、「理論の廃棄・修正」からどうして進化論のような主張の妥当性が言えるのか、が疑問だと思います。私も一時期甚だこれが疑問でした。
無論、きちんとした理屈があります。ここで長々説明するのもなんですから、川口さんがたってのご希望でしたらメッセージにてお答えします(笑

「反証可能性」についてはわりとよく知られているのですが、「批判的合理主義」を首尾一貫して説明できる素人はほとんど見たことがありません。
「批判的合理主義」とは哲学者カール・ライムント・ポパーを始祖とする哲学的立場です。



さて、別の観点についてお答えします。
「聖書は霊感によって書かれた」と言われますから、聖書の事実上の著者は「神様」です。これがいわば、聖書の起源に関する超越性の主張です。
それはさておき。
それを信じるのは、読んだ者が人知によってその価値を判断するわけです。私はこの点を指摘したわけです。

川口さんは、ご自身が神・聖書を信じたのは摂理だと考える、と言われました。これは仏教で言えば親鸞などを思い起こさせる論理であり、一応筋のとおる考えだと思います。

しかし、私のような唯物論的レアリストは摂理の「手前」でものを考えるわけです。
つまり、あなたを信仰に導いた「人」がいたはずだと考えるわけです。
それがご両親であるのか、友人あるいは教師であるのか、牧師さんや開拓伝道や路傍伝道の兄弟姉妹であるのか・・・それは知る必要がありませんが、とにかく、そういう人々によって川口さんが信仰に導かれたのは否定できないと思いますが。もっと言えば、われわれは、社会関係によって宗教は成り立つ、と考えるわけです。

正義というものを説明するには「社会科学を説く」ということをしなければなりません。それは個人に基礎を置きながら個人を超越する一つの運動を説明することです。
幾分かは既に説明したと思います。

人間社会の規範には、宗教や国家や戦争に関わる「大義」と、交通法規・テーブルマナー・言語規範・貨幣・野球のルールのような道徳とあまり関係ないものとがありますが、社会科学ではこれらの間に絶対的な区別を設けることはしません。
もし、どんな規範にも絶対的な根拠が必要だとすると、後者のようなありふれた現象が説明できなくなると思います。
>「反証可能性」についてはわりとよく知られているのですが、「批判的合理主義」を首尾一貫して説明できる素人はほとんど見たことがありません。

なぁ〜んて、セリちゃんもわかったことを言うようになったんですね♪

でも、用語を振り回して知ったかしてるところは相変わらずだから、もう少し、勉学して、ちゃんと、基本をマスターした方がいいかもね。

>科学は一定の基準を満たしたものを真理として承認する、だから、その「一定の基準」なるものはまさにそれであろう。そういうものがある以上、宗教と同じではないか。
こういうお考えなのだと思います。

これは、まあ敢えて言うなら反証主義にやや近いぐらいのもので、ポパーはそんなレベルの宗教と科学の区別なんてひとつも主張してませんからね。

もちろん、そんなつもりはないだろうという念を押すつもりで言ってるわけですけどね。
創造論は、生命や宇宙の秘密は聖書に書かれているという論で、創造科学はそれは科学だと主張すること。
批判的合理主義とは、それらが議論に値するものであるかどうかも含めて、科学的論理的に議論するということ。

どちらにしても、トピずれでしょう。

面白そうですからID論も含めてトピ立てしたらどうです?
>イヌワシさん、

私は大自然はGeneral Revelationとして、聖書はSpecial Revelationとして受け入れております。

創世記一章によれば第一日目に闇の空間の定義が有って光の創造が有り、第四日目に天体の創造も有るのでその内に入ると謂わざるを得ないでしょう。

 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。(創世記第一章2〜5節:口語訳)
 神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。夕となり、また朝となった。第四日である。(同14〜19節)

Big Bang等の宇宙物理学の世界で考えられている初期宇宙空間での物質の生成順序、先ず光子が出来ると云う点で合意が有ります。時間が十分なのかどうかは色々と議論の余地があるでしょう。化石等の年代も多くの前提の下で放射性同位体を基に推定しているのですから、其れ等の前提が何処までの過去に渡って成立しているのか疑問の余地があるでしょう。

因みに創造論者は生物学者だけでなく宇宙物理学者にも沢山居ますよ。英語圏ではHugh Norman Rossが一般向けの本を幾つか出しております。因みに彼は古い地球派の人ですけれど。英Cambridgeの物理学者の友人はHugh Rossの著書に関して論理的道理は通っていると評価しておりました。
>196:せり☆暴走一番星さん、

論理の修正や破棄なら幾らでも両者ともやっていると私は観察しておりますけれど。只、進化したと云う基本路線を進化論者は変えようとしないし、同様に創造論者も創造されたと云う基本姿勢を変えようとはしません。私はお互いがお互いの基本路線に執着する姿勢を批判する立場に無いと訴えているだけですけれど。

片方の学会や論文ばかりしか目にしていないと片方聴いて物事を沙汰する事に成り難しいかと思います。日本語と云う篩に掛けて仕舞った時点で致し方無いでしょう。でも、其れを続けていては、中国の様な飼い主を噛む様な相手をODA等で手厚く何十年も養う事にも成りかねないので宜しく無いと思います。

社会科学及び人類学的な面に於きましてはものの視点の問題だと思います。社会科学や人類学は人を中心に物事を観察して人を中心にした説明を追い求めます。因ってその様な結論がまとまります。私が聖書の教えを信仰し其の神を礼拝するに至った由縁を人間を中心に観察し論ずる事も可能でしょう。只、私の目には余りにも奇異な事が多く、神がそれぞれの人を使わしたのだと結論付けて信じている訳ですね。

交通法規や食事作法、言語規範、貨幣その他の約束事等も其の背面に文化が有り文化の背面には価値観や世界観が有り其れは何らかの宗教に多くを依存していると私は思います。多くの此れ等の規範を大半の人は安易に受け入れて守っていますが、歴史や生立ちを辿って行くと其れ也に確固とした理由や由縁の有るものが少なく無いと思います。然し、問題は此れ等のそれぞれの由縁ではなくて此れ等の規範や慣わしに対する敬意の付与です。聖書は其の教えに反しない限り於かれた所の権威に従えと教えています。だから、作法や規範を敬い守ろうと云う動機を生み出す事が出来ます。しかし、偶然の世界では守るかどうかは相手が与える罰則や拘束力(直接的利害)に因ったりその日の気分次第に成るでしょう。それぞれの規範や慣わしが存在しても其処に敬意や権威を偶然は与えないと思います。要するに偶然の世界は意味や価値を定義もしないし元々其れ等は存在もしない、其処が偶然の世界の一番の問題であろうと私は思うのです。
まあ僕は科学も神の啓示も、結構夢のあるわくわくしたり、すごいと思うような魅力あるものと思います。話に混じれる知識が自分にはないのがもったいないですが、、、。

そういうポジティブな考え、人々が生活の中で心を明るく、正しい行いを好むような、また自分が辛く
苦しいのなら人に辛さ苦しさをいたわり、好意を持ちあうような、、、、そんなことに憧れています。

宗教や科学を己のエゴの混ざった正しさで人をお互い傷つけようとするように見え、本当の神仏人は
それを求めていない気がします。科学や宗教の矛盾を補正しあうより、人の心の悲しみや辛さを癒す
ような、そんな神仏人の心の傷を癒すような、そんな人間に生長したいです。

だから傷つけあうより、人の心の傷や悲しみ辛さを癒すような、神仏人学問を思いやり育てるような、、、己の正しさや、エゴの混じった宗教や科学の誇示より、誰かのSOSをキャッチし共に助け合う事の方が大切に思います。

そんな信仰の形もやっぱ己のエゴの正しさだから、反省します。
人に正しさを押し付けるより、人を癒し助ける宗教、科学、学問であって欲しい。

ごめんね。
> 川口 滋さん

学会とはたかだか任意団体に過ぎないわけで、学会を名乗れば学会です。だからあらゆる種類の学会が存在します。
私はだいぶ昔ですが、「日本超心理学会」というのを見物に行ったことがあります。名のとおり超能力を研究する団体です。
ある対立があるから、双方の意見をきかねばフェアではないというのは変な話ですよ。
> 川口 滋さん

私どもは偶然ということに特に感慨はないわけです。
世界は十分過ぎるほど不条理なので、必然を信じられるほどナイーブではいられないわけでして。
世界はあらかじめ意味があるのではなく、われわれが行為によって意味を与えている、というのが私の考えです。
>204:せり☆暴走一番星さん、

無神論の世界で「感慨」なんて意味は無いと思うので驚く事は無いですが、「われわれ」と云う発想はどうやって出て来るのでしょう。また、「意味を与える」事が出来るという発想は何処から来るのでしょう。

私が察するにNietzscheは無意味と無価値に徹する事が出来ず自己矛盾の中で苦しんだのでは無いかと思うのですが。
>205 川口 滋さん

>無神論の世界で「感慨」なんて意味は無いと思う

それはモロに「おまいら人でなし理論」なんじゃないですか?(笑
まあいいですけど。

>「われわれ」と云う発想はどうやって出て来るのでしょう。また、「意味を与える」事が出来るという発想は何処から来るのでしょう。

発想というよりは自明のことですが。あえて説明すれば「労働」のことです。

それを作ったり獲得するために多くの努力や労苦を要した対象は当人にとって「大切なもの」になるのではありませんか?
何を引き換えにするかが価値です。価値が意味を生みます。


また労働は多くの人間の連関によって成り立つことから「協働」とも呼ばれます。
例えば、自動車を作る人は、鉄板やネジやその他のものを作る人の労働を受け取って、そこに自らの労働を加えます。同じように、鉄板をつくる労働者には鉄鋼を精製する労働が関係し、鉄鋼をつくる労働には鉄鉱石や石炭を掘る労働が関係します。このように、社会では名も知らない無数の人間が関係しあっている、そのことを念頭において「われわれ」と言ってるわけです。
こうした場合、お互いが価値です。
このことはなにも物質的生産に限ったことではないでしょう。


価値は、キリスト教のようにそれを神から流出させようと、プラトンのように個物に先立ってどこかにあるとしようと、どのみち人間にとっての価値ですから。
>206:せり☆暴走一番星さん、

貴方にとって「感慨が無い」=「人でなし」ですか。

色々な国(欧米だけですが)で暮して来たので色んな人に巡り会って来まして、別に侮辱している訳じゃないんですよ。私に一番強く印象に残っている無神論者は「『感慨』って何だ。」と言ってましたから。

「労」=「価値」と云う事でしょうか。「労」には必然性が伴う訳ですね。其処には因果関係があって責任も興る。偶然じゃなく成ってしまいますね。

私は貴方が貴方以外のものに優越する権威を認めているとしか思えないんですけれどね。要するに無神論では無いと、其の優越する権威が与えられたものが貴方の神ではないかと思う訳です。
>207 川口 滋さん

人間の感情には大した違いはないものですよ。
その無神論者の方が感慨云々というのは言葉のあやとしか思いませんが。

偶然をことさら問題にされてるのは川口さんであって、私は偶然も必然もあると考えます。私は社会的行為が価値を基礎付けていることは明瞭だと思います。
権威はこの場合あまり関係ないですね。
>208:せり☆暴走一番星さん、

>「私は偶然も必然もあると考えます。」
貴方の其処に非常に興味があるのですよ。

無神論による構造の中でどうやって必然を包容するのか非常に面白い命題だと思います。必然は責任と原因を要求すると私は考えるので無神論の中でどうやって整合性を取っておられるのか非常に興味深いです。

確かに必然の元を議論しないのであれば「社会的行為が価値を基礎付け」にも一応筋が通る事は分からないでも無いです。しかし、「価値」が確立したとき「価値」に権威が与えられるのではないのでしょうか。其の「価値」によって人の行動や思考は拘束されます。
>209 川口 滋さん

「もっともな理由があること」を必然と呼ぶのではないですか?
逆にどうでもいいことが適当に決まっているのが偶然なんでは?
そう大した話でもないように思いますが。

権威は価値の一種であって、人や集団に社会的に信用があるので検証されずに信頼されることを言うと思います。それがあるのは検証ということが個人にとっては面倒くさいからにすぎません。

私はこういう「非本質主義」のような考えを、宗教の観察と研究から得たわけです。
尊いから礼拝するのではなくて礼拝されるものが尊いとされる、ということです。
宗教学とか専攻してた大学生です。
まだこのトピよく読んでないんですが最近ここにピッタリな本読んだので紹介します。既出だったり基本文献だったらすいません。
『聖と性 性の精神文化史』(英題Sex&Spirit)
クリフォード・ビショップ著 田中雅志訳 出版社河出書房新社

神話時代から近代に至るまでの宗教と性についての文化史です。概説書的な書き方で世界中の宗教と性にまつわることを項目毎にまとめています。学的方法としては神話学・文化人類学・歴史学あたりでしょうか。うまくまとまってるのでスラスラ読めました。もっと哲学寄りを期待してましたが、教養として理解しておきたい内容です。

カテゴリーの例 結婚 処女 童貞 娼婦 男根崇拝 精液 インセスト 月経 マスターベーション 両性具有 タントリズム オカルト 各宗教における性の扱い方 古代文化における性の扱い方 フロイト ユング 等々

なんとも興味をそそるタームばかり。なんか読んでみて性についての見方が相対化した気がします。
歴史的事実として驚いたのは精子や妊娠の医学が発見されたのが19世紀だということ。それまでの人々は性に関して本当に自由で様々な伝統をもっていました。想像力をかきたてられます。

アマゾンでは売ってなかったです。俺は大学図書館で眠っていたのを発見したため大きな図書館に行けば見つかるかも。このジャンルに関する基本的文献だなと感じました。以上。

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