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宗教論・宗教学コミュのカルト(破壊的・反社会的セクト)について、宗教学は対応すべきなのか?

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カルト宗教、例えば「オウム真理教」や昨今話題の某教会など、危険な反社会団体の問題について、宗教学は何らかの対応をすべきでしょうか。
少なくとも、超危険団体と、善良な教会やお寺を、「宗教」の名で一括することには疑問を覚えます。

トピ主は定見がありませんので、提案を募りたいと思います。

「対応しない」あり方としては、価値中立の立場から良い悪いは度外視して、宗教現象を客観主義的に観察するというものです。それこそ「テロ教団」や「殺人教団」でも、それもまた宗教だとして扱う。
これには「反社と化した宗教はもう宗教学の対象じゃない」という批判もありえますが、「信者は宗教的に信じている」のも本当ではあるので、妥当性はあると考えます。

「対応する」あり方としては、生理学に対して病理学があるごとく、逸脱現象というカテゴリーを設けて分類するというものです。または宗教学の下位部門として「カルト学」を立てる。これもありそうに思えますが、「政治カルト」「軍事カルト」「経済カルト」まで含めて宗教学の対象か?という疑問もありえます。

どういう方向性がよいでしょうか?

コメント(46)

(* ̄- ̄)ふ〜ん。
書いて消した人がいるんだ。
言いたいことがあれば、普通に書き直せばいいのにね。
からあげじゃないことを祈るよ。(人として最低だからさ)

ちょっと補足。

>共産主義と天皇陛下万歳と宗教は同じものだよ。

上でこう書いたけど、たぶんよそのトンスルイリヤくんみたいにフジコる可能性もあるので。

なんとか主義と、なんとか教のちがいは、
「前者の神はイデオロギー、後者の神は偶像」
ってこと。

基本的にはだいたい同じ抽象概念なんだけど、
前者は神(のようななにか)の実体を否定し、
主義とか主張とか、
「教義を神格化するもの」

ヴィーガン、共産主義、フェミニズム、人権主義、毛皮廃止。
これらは基本的に宗教と変わらない。
イデオロギーの神が「絶対死ん」なわけよ。

後者には、「神」がいることになっている。
人の心の弱さだね。従属するには、絶対権力者がいないと納得できないんだろう。
実際には、その「人の作った神」による「人の作った神の教え」というイデオロギーに固執する。

「レーニンの作った、レーニン主義を信じます」
「イエスースの作った、イエっすーす主義を信じます」
 *正確にはパウロの作ったパウロ教だけどさ。

これ同じね。
認められないだろうけどね。

時代が違っていたら、マルクスやレーニンは、神になっていたかもしれないね。
だって、やってることはイエスースと同じだもの。
そこに気づけ。
全宗教信者。



>>[7]
書き込んで消したのは僕です。

ちょっと御霊、論理のレベルが低かったので、
もうちょっと洗練しなきゃいけないという事で、
消しました。

書き直すにもやっぱ自分の中で納得いかない…
この件に対して自分の考えが整理しきれてない。

そう一本の筋の通った論理展開が、色々な意見に左右され、
定まってないと言う事なんです。
>>[8]

なるほどごめんね。

なんかこの周辺の「宗教とか哲学、倫理等を扱うコミュ」って、
おかしな荒らしがよく出るので、ちょっと牽制してしまった。

実際、さもあたり前のように、
何年も前のコメントにしたり顔でレスを付けてきたり、
から揚げしたりが多いのよ。

<(_ _)>
>>[10]
[9]番も消しました。トピ違いにも感じたので、
[9]の内容は別のトピに載せます。

このトピのカルト問題。2,3日くらい考えて答えが出ません。
===============================
人にとって、そのカルトにはどんな価値があって、どんな問題点があるか?

結局そのカルト宗教やカルト団体に対しての教義の知識や考察が、
僕には知識がなく答えが出せないと言う状態です。
===============================
よく知らず印象で悪者扱いにして、悪を見つけて叩いて喜ぶ。それはやはり信心深かったりはしないし、そのカルトの問題点を提示しても、それをどのように改善するかを考えなければ、今と全く変わらない状況です。

言葉のやり取りで満足する、僕の様なその人の善い点悪い点など見ず、狭い見識の律法学者のような意見になるように思えます。
===============================
真実や結果だけを観ても、その細かい事実を観ないなら、上辺だけの浅い理解に留まる様に感じます。

そのカルト宗教の当事者(各団体に対し個別に考えないと行動が破綻しますが)に対して、

僕等は何をしてあげたいか?
その人達が悪いと言いたいのか?
悪い団体だから潰したいのか?
それともその人達を理解したいのか?
その人達とどういう関わり合いを持ちたいのか?

何をしたいのかよく考えたく想います。
[9]番の書き込み消えてしまいました。すみません。(><
>>[11]

まずさ、日本では10人に1人は創価学会関係者と言う話がある。
 *注 この数字けっこう眉唾、多いという人も少ないという人もいる。

端的に言って、
「日本人が一番入信している宗教は創価学会である」
というのはほぼ正しい。

でもその「日本最大宗教」は、
アメリカ、フランス、ドイツ、オーストラリアその他でカルト指定。

日本じゃありえないよね。

これはキリスト教でも同じこと。

なぜ日本で「キリシタン禁止令」が出されたのか?
それは人身売買を生業として、
日本国を蹂躙し、日本人を虐殺する尖兵としてやってきていたからだ。

カルトの定義は一応あるけれど、
「政治的に都合が悪いとカルト指定するだけ」というのが正解で、
教義がどうとかじゃない。

   ブタ

民俗学者系とかの言い分だと、
「日本人は、
 盆暮れに寺に行き墓参り、
 七五三や初詣では神社に行き、
 結婚式は教会、ハロウィンやクリスマスで乱痴気騒ぎ、
 というように、
 日本的な総合宗教が大多数である」
みたいなことだったり。
でもそれって宗教って言うのかな?
むしろ、風俗とか習俗のたぐいじゃね?
民間信仰って。

でもそういう民間信仰から、
「血液型ハラスメント」なんてものが起こったりするのも日本。

科学的根拠ないし、西洋人はバカにするけれど、
「占星術も変わらない」って言うと、怒る外人はいる。
中国人に「易も風水もインチキだよ」って言うと怒るかも。

なんでもよくて、
「他人に対してこれが正しい」主張するものは、ほぼカルト化する。
ヴィーガンとか、毛皮反対。

宗教は、どんなものでもそもそもカルトなんだよ。
立体のどの麺から見るか?ということ。




>>[2]
すみません。時間が想うように取れず、なかなか答えの出ない問題で、書いては消しの連続です。

実際このカルト宗教自体に参加しないと解らない面が多く感じます。
だからと言って考える事をやめるよりも、
その信者に向き合う事が一番手っ取り早く感じます。

そのカルト宗教にどうして入信したか?
そのカルト宗教はどのような教義なのか?
そのカルト宗教は何が問題なのか?
そのカルト宗教では、何を目指し、何人の人が目的の人格霊格になったか?
そしてその得たモノを、何をする為に学び励んできたか?

それらはどの宗教、どの信者とも向き合う事で解ると思います。

カルトに限らず一般の宗教にも言えます。

逆にこれらに問題の無い宗教ならば、
それぞれの信者にとっての価値創造が、出来るのかもしれません。

何を目指し、何が動機か…

そこを見誤る人が財産をお布施し、
教団自体がもし、日本社会に貢献せず、
搾取や、日本をコントロールする支配が目的ならば、その団体は反社です。
============================
ただ僕としては潰すより活かす方法は無いか…
また迷いながら、考え続けようと思います。

GHQが日本を骨抜きにしてやったように、
今度は政治の方から、宗教を骨抜きにする。
それは昭和日本平和にとっては幸せな事だったのかもしれないし、

それで善良な宗教団体になるなら、
カルト宗教も幸せを作る宗教に成りえたのかもしれない。
>>[14]
>カルトの定義は一応あるけれど、
>「政治的に都合が悪いとカルト指定するだけ」というのが正解で、
>教義がどうとかじゃない。

ここがまさにそう。政治に利用される宗教。
国民が真理を信じるのではなく、
幹部のお言葉に従う事により、
宗教となってコントロールされ、

宗教なのに政治的意味合いを含んでも、
信徒は自分が嫌でも、幹部から右を向けと言われれば右
信徒は自分が嫌でも、幹部から左を向けと言われれば左
そう言う上には従う、大衆をコントロールしやすい宗教団体はある。
==============================
創価学会に対しては結構偏見を持ちながらも
勉強させて貰ってますが、昭和50年代ごろの
池田大作さんの著書を観たら、仏教を僕よりは
ずっと勉強していると感じました。

ただ学会の入門者の人達は、
新聞もニュースも下手すると仏教系の書物も観ず、
選挙では公明党議員、自民党議員を推薦してくる。
団体にアイデンティティを置いて活動して、
団体にプラスになる事が、自分のプラスになる様に感じてる様に見えます。

それが群衆心理に繋がっていくように思えます。それが本当の真理ならいいんですが…大分僕はそこに疑問を持ってます。

仏教的には無論ぼくより詳しい学会員さんの方はいる。
でも政治に関しては自分の信じてるモノを
無理やり捻じ曲げて納得する感を感じる。

そこを対等に話せる人には、僕は巡り会わなかった。

自分の中にあるわだかまりを、解消せず、従う事が絶対と感じるなら、
それはそれでまた、信心なのでしょうが、生きづらく感じます。
疑問の中にある真理を誤魔化し、見えない業にしてしまい
積んでいるようにも思えます。

それは僕自身にも言えて、自分で自分が言ってて、耳が痛いです。
>>[3]
なぜ麻原彰晃は『サリン』をばらまいたり、同じ教団の信徒に『ポア』をしたのでしょうか?

その動機は想うに、他者を自由にコントロール出来ない時相手を否定する心。
上の立場の言う事は何でも下の者が従い、従わないモノの存在を否定する。

増上慢に感じます。
=============================
でもそう言う自分はどうなのか?自分を検証してみると、
やはり100%同じでなくともどこかしら、麻原彰晃と似た上下の立場と言う意味で、自分の裁量が効く所だから下の者を、自分の都合のいいように支配しコントロールしようとしてる自分が居ます。
=============================
考えてみると、

会社を例にして考えれば、会社の生産性、サービスなど、会社の利潤に関係する事に足を引っ張らない事が大事に想います。

そうなってくると支配するより、それぞれの社員の独自性(長所)が活かされて、お互いを肯定し、それぞれの仕事のやる気を起こさせる環境づくりなどが、大事に想います。

また宗教なども他人を抑圧し教化するよりも、幸せをクリエイトする事を宗教理念も踏まえながら、行動を起こすモリオバッハさんの様な行動は素晴らしいと思います。
=============================
僕自身も、人を否定をするより、相手を肯定し、活かしていく道を模索する事が大事だと考えつつあります。相手を否定して自分は正しいと思う愚かな律法学者を辞めようとしてます。相手を肯定できる物の見方。否定は、存在を抹消する為より、その場で相手を止めてあげられる人格を身に着ける事。

まだまだ私には足りません。

様々な宗教感は素晴らしいモノに感じます。孤高は至福の心地音です。自分にない神仏人と幸せになれる宝庫に感じます。ただ人は皆と幸せになるより、私は頑固な正しさに固執していました。いえ、まだ固執してます。
=============================
自分の心や世界の存在の中には、真心も邪心も、様々多くあり、一筋縄では全てを料理できず、一つ一つしらみつぶしで観る必要があると思えます。自分の見えて無い目をちゃんと蓋をせず観て、検証していかないといけません。

わたしは多くの穢れを持ち、禊ぎに辛い想いをする事と思います。
まだまだ高揚感や快楽に依存している面は、ぬぐえないと思います。

ただそんな中、人の善い点を観ていると、自分自身に無い人の善い所が見え、至らない自分が検証がしやすくなる。そして次に何を為すべきか導かれる。

何を取り何を捨てるか、その選択にはどちらにせよ正解も不正解もありながら、その選択に腹をくくる覚悟が必要なのでしょう。僕は改めて揺るぎない覚悟を求められてる事を自覚し、何を選択するか?本当の幸せって何だろう?答えを探しながらやるべき出来る事をやります。
ああ語り過ぎた。午前中が潰れた(@_@

>>[16]
>そこを対等に話せる人には、僕は巡り会わなかった。

話せる人には巡り会えたけど、その人は学会に反論する異端児になっていた。
>>[17]

おはようございます。

ご質問有難うございました。

下記に回答(解答)させて戴きましたので、ご参考情報に寄与すれば嬉しい限りです。

Q1:なぜ麻原彰晃は『サリン』をばらまいたり、同じ教団の信徒に『ポア』をしたのでしょうか?

A1:宗教の修行や修練に対して、精神界(魂・心・気持ち)の範囲内で行うべき実践を、精神界を超えて、物質界で行っているから、他人に対して、サリンを噴霧したり、仲間に対して、ポアー(殺傷)したりしているのです。

実際、イメージとして、麻原彰晃自身の邪心(邪気・邪鬼・ワガママ)に対して、サリンを噴霧して、自身の邪心を消滅させるアクションであるべきところ、誤認混同(勘違いしている様相観)・錯綜(何が何だかわからない様相観)しているため、他人に対して、或いは、仲間に対して、物質次元で、実践していることの間違いに気づけないから。

また、ポアーも、麻原彰晃自身の邪心に対して、行うべきことを、仲間に対して、行っていることに、誤認混同・錯綜していることに気づけるでしょうか?

麻原彰晃の顔つき(顔面)、全身の体つき(容態)を診れば、超々ワガママしているから、あのような顔つきで、超々超太り過ぎていることが診られるでしょう。

貴殿がご記述された様に、「増上慢に感じます。」とは、適切な見解コメントです。

精神次元界で行うべき実践を、物質次元界で行っている姿は、麻原彰晃に限ったことではなく、大半の宗教に関した聖職者(神父・司祭、牧師・伝道師・宣教師、高僧・貫主、宮司・神主)のプロ達も、誤認混同・錯綜している様相観も検証済です。

如何でしょうか?


第16項目に記述されたコメントで、創価学会の池田大作氏を明記されていましたが、創価学会を立ち上げるとき、先人者と一緒に、創立され、日蓮上人の六人弟子のニコウ上人が立ち上げた日蓮正宗を、フリーライド(商標のただ乗りと同じ意味合い)して、独自に立ち上げたのが創価学会の発端です。

私は、高校生時代(1963年〜)、立正大学附属高校で、必須科目として、1年目に、「日蓮上人の生涯」を、2・3年目に、「法華経」を、宗教担当教師(校長、日蓮宗の高僧、金子弁上氏)から学なび、いつも授業(講義)の終わり、創価学会の批判をしていました。

金子弁上氏の参考文献に、創価学会についての批判が多数載っています。

金子弁上氏によれば、池田大作氏は、サラリーマン・ローンの先駆者的な役割観で、宗教法人が無税であることを活用して、宗教を装って、金儲け主義のビジネス・モデルを立ち上げた先駆者と位置付けていることが判明出来ました。

幸福の科学の大川隆法氏も、東京大学の経済学部卒で、自身が書き綴った図書を売りさばき、無税の宗教法人を介している様相観を診て、これもビジネス・モデル化した宗教となっていることも検証済です。


大川隆法氏は、自身が、エルカンターレと称し、イエス様やお釈迦様の生まれ変わりであることを申しています。

生まれ変わりとは、宗教を最大に侮辱している行為であることを、大川隆法氏自身が認識されていないところに、愚かさを感じています。

如何でしょうか?

貴殿のプロフィールを拝見させて戴きましたが、年齢が特定出来ませんでしたが、マンガやゲームがお好きなところを診ると、お若いように想えます。

どうぞ、一生涯掛けて、宗教の真相・真理の探究(探求)にご尽力されて欲しいです。

デジタル情報のマンガの見過ぎ、スマホやパソコンでのゲームのし過ぎに、最大の注意を払って欲しいです。

ミクシィとフェイスブックを15年余り、種々のコミュニティのテーマに対して、コメント書きをして来て、メンタルな病に関したいくつかのテーマで、メンタルな病になって、困惑しているコメンターさんと意見交換して来て、メンタルな病になった根本原因は、デジタル情報の見過ぎ、使い過ぎに起因してることが判明出来ましたから。

4〜5年前まで、多くのコミュニティで、誹謗中傷合戦大会が続いてた時は、貴殿と同様に疲労困憊したので、コメンターさんのスタンス(生き方・生かされ方の姿勢・態度)を想起して、コメント書きをしています。

日本では、1950年から朝起き会(倫理の集い)で、「肉体は精神の象徴、病気は生活の赤信号」と唱和しており、特に、若人程、多いメンタルな病は、ライフスタイル(生活の仕方・生活習慣)の乱れや間違いに起因していることも検証済です。

寒暖差にご注意され、心身お大事にしてくださいね!!

感謝。
>>[19]
こんにちは、ご回答ありがとうございます(๑•̀ㅂ•́)و✧!

改めて質問ですが、教祖に登り詰めた麻原彰晃に、何をしたら「サリン」や「ポア」をさせずに済んだでしょうか?

ワガママを辞めなきゃいけないのは解ります。

ワガママを自発的にやめさせる。
ワガママな人を止めてあげるには、
どうしたらよろしいのでしょうか?
==============================
仕事柄、コンピュータを扱う仕事をしています。
ポスティングや農業もボチボチ仕事でしてます。
土いじりは姿勢が悪くなりますが、
日々の雑然としたオフィス作業の気分転換に
なります。

今私の働いてるところは、精神病者の作業所です。
1日4時間のアルバイトですが、自分を無理なく向上できる環境に感じます。
============================
確かにデジタル機器は精神に悪いです。
まんが、ゲーム、スマホも悪い面が、
たしかにあります。

でも世の中には、ムダなことなどないと思います。

それを止めるためには知識と知恵と愛が必要です。
================================
悪い結果が出ることを望む動機を持たせなくて済む、カウンセリングが必要になってくると思います。

精神科のお医者さんは患者さんの言うことを、上手く引き出して安心させ、未来志向にすることも大事に思えます。また同僚友達との対話、未来の道標から人生を、クリエイティブになることが大事に思えます。

新約聖書の中に確か、信仰の実を30倍60倍100倍にする事が目的だと思います。字面だと信者を増やす事と勘違いするかも知れません。

我々に与えられた知識と能力、求めた知識と能力、持ち合わせた知識と能力、身に着けた知識と能力をフル活用して、その人らしい心の中に魂の花園を作り人々を愛し、本当の意味での嬉しさを与えることが大切に思います。

仏は林野に安住する魂ですが、穢をまとって苦しんだり、迷ったりしてる人に、僕ら大衆は彼らと同じ苦しみを持つことに覚悟を持って助けてあげられる人になりたい。

そう思うことに恐れていながら、自分はどのようであろうと、考えてます。

キレイな心は好きです。だからそのキレイな心の素晴らしさを感じ、人が健やかに伸ばせられる自分を模索したいです。

他宗教を批判する事は僕自身も業を積みます。

でも自分も間違ってて、その自分を検証し、
改善することを目標とするならば、批判より

何がその宗教は良くて、
何がその宗教の問題点で、

その良い面は伸ばし、
悪い面を改善することが、

批判よりも、

改善が大事。

そうモリオバッハさん風に言うなら、
自分にハルマゲドンを、自分自身が起こす。

恐ろしい事ですが、皆平等に行われる、
魂の儀式に思えます。
>>[14]
日本の最大宗教は海外でカルト指定。

それは解ったけど、どんな面が外国では反社だったんでしょうか?

どのような改善の必要があるのでしょうか?
==============================
またキリスト教が海外で、人身売買をする反社の過去があったということは解りました。

何を改善したらいいのでしょうか?
今も人身売買はあるのでしょうか?
========================
民間信仰の多文化との摩擦。その関係がカルトに見えるのは分かりました。

ただ宗教はすべてカルトというものの見方は、宗教思想はすべてカルトという見方になると思います。

そこは極めて興味深いですが、反社を如何に改善するかが一番大事だと思います。
==============================
カルト=反社会的なら、宗教や思想はすべて反社会的となり、論理矛盾するようにも感じます。

どう改善するべきかを考えるときは、場合分けが大事だから、その具体的反社会的事例を如何に改善するか?

まだ間に合うなら考えたいです。
>>[20]

おはようございます。

種々の見解コメントと現況をご開示戴き有難うございました。

ご質問の件、下記に回答(解答)しましたので、ご参考情報となり得れば幸いです。

Q1:教祖に登り詰めた麻原彰晃に、何をしたら「サリン」や「ポア」をさせずに済んだでしょうか?

A1:麻原彰晃自身が、宗教の本質(真理)に気づいていれば、「サリン」や「ポア」をせずに済んだのです。


参考情報:

麻原彰晃自身に限らず、宗教に携わっている聖職者や信者をはじめ、宗教の研究者や大学教授、宗教の評論家に至るまで、宗教の本質・真理に目覚めていないため、誤認混同・錯綜していることが根本原因で、「真理は同一(同質)である」ことを認識しない限り、また、精神次元界以内の範囲(領域)で実践すべきことを、物質次元界で実践していることの間違いに気づいていないことが原因で、これを認識されていない限り、再度、永遠に延々と続いていくことと考察していますよ!!

回りくどい言い方で申し訳ございませんが、前項と重複している所が多分にありますが、相違観を判別出来れば嬉しい限りです。

如何でしょうか?

今までに100人余りの聖職者に面会・面談して参りましたが、お話されてる内容・中身を精査すると、哲学観を話されていることがわかりました。

また、NHKの宗教番組でも、1〜2人/100人しか、宗教観の話になっておらず、他は哲学観を語っていることが判明出来ました。

私自身は、サラリーマン時代の特許管理業務で、審査基準、審判基準、裁判の判定基準について、実際、審査官・審判官・判事・裁判長に面会・面談して、夫々のスタンダード(基準)をマスターして来て、その延長線で、哲学・宗教・倫理の相違観の判別に導入しました。

学識経験と実体験に基づいたスタンダード(基準)になっていると想っています。

宗教は、自身が信仰している宗教・宗派が正教(正道)で、他の宗教・宗派は邪教(邪道)と診て扱っているところが限界点と考察しました。

この診方は、判定基準として導入・採用した次第です。

他の宗教・宗派を邪教(邪道)と診なかった、扱った聖職者は、大半のキリスト教や仏教には存在しておらず、極一部の聖職者しかいないことも検証済です。

過去、仏教では、他を否定しなかったお坊さんは、弘法大師空海、道元、良寛、一休の4人ぐらいしか見当たりませんでした。

自然法則(熱力学の第1法則)に、「作用あれば反作用あり」とあります。

これを人間の法則に当てはめれば、「ああ言えばこう言う」に相当します。

正義感と悪義観は、有史以来存在しており、これが、バランス(平衡)&ハーモナイズ(調和)していることが自然的な診方です。

しかし、現在、正義感よりも悪戯観の方が勝っているため、世界は誹謗中傷合戦大会を呈していると考察しています。

様々なゲーム競争、賭け事、勝ちたいとの要望を増す環境程、正義感は薄れ、心身の弱体化、メンタルな病に陥る根本原因と診ています。

如何でしょうか?

このような様相観を半世紀余りに渡って、探究(探求)して来て、種々のボランティア奉仕活動の一環として、種々のセミナーで、語り続けて参りました。

感謝。












>>[24]
ありがとうございます。

ただ僕は誰が間違った行動をした理由が、知りたいわけでなく、正しい考えを持つこと、真理の同一である認識は深めたく思い、また表面上の言葉でしか受け止めてない自分を感じます。

私としては自他の区別なく慈しむ心を持つことも、大いなる慈悲を持つことも、僕は大事にしたいです。

好ましくない行動をしてる人に、どんな手を差し伸べられるか?どうやって止めてあげるか?を、考えてます。

もしそれにプラスになる解答があるなら、お聞きしたいとも思えます。それは今までのモリオバッハさんのお話から、深い考えに至ることが大事に思いますし、私の消化しきれない智慧をたくさん語ってもらえます。

他者へのアクション、「常不軽菩薩の想いが実現する(すべての人が仏になる)」行いにプラスになる智慧や、他者(永遠の輪廻の中、仏になれる)への布施波羅蜜、そこから智慧を、私は求めたく自分はどんな手を差し伸べられるか?を期待し、またモリオバッハさんを始めとする手の差し伸べ方を見いだす智慧をこのコミュの人は見出すことができるのではと期待します。

そういう意味ではわたしの私見の視野は狭く、もしかしたら愚かな想いである可能性もあります。

暴走した他者に、私達はどんな手を差し伸べられるでしょうか?事前に止めてあげられないでしょうか?それは愚かなことでしょうか?
>>[27]

おはようございます。

誠に的確な見解コメントありがとうございました。

仏教では、慈悲心を、キリスト教では、慈愛心と正義感を、習得されて欲しいです。

神秘主義の診方では、慈悲心も慈愛心も、同様な様相観に診ることが出来れば幸いです。

聖職者や信者をはじめ、宗教をマスターされている人々の大半は、自己中(自己中心主義で、自分勝手に生きている姿)が診られ、自身は、宗教をマスターしているつもりになっていますが、実は、哲学の範囲(領域)内に留まっており、宗教に至っていないことも検証済です。

仏教での解脱・涅槃・悟り表現、キリスト教でのハルマゲドン表現、イスラム教でのジ・ハード(聖戦)表現での実践・研鑽・修行・修練行為は、自己中を消滅(消去)させて、利他な姿(相手を思いやり、共に分かち合える姿)に変心することが必要不可欠であり、そこが求められています。

今まで得られた多くの情報知識を、集約化して、知識を知恵にかえなければ、自身に役に立つことはありません。

大半の人が、何でも、他人事として捉えているので、自分事として捉えない限り、スタンス(生き方・生かされ方の姿勢・態度)&ライフスタイル(生活の仕方・生活習慣)の改善に役に立つことに通じないのです。

貴殿のご質問に対して、下記に回答(解答)しましたので、ご参考情報として寄与されれば嬉しい限りです。

Q1:好ましくない行動をしてる人に、どんな手を差し伸べられるか?どうやって止めてあげるか?

A1:相手の心身を変えることは不可能ですから、手を差し伸べること、止めてあげることも不可能です。

相手に言って、いうことを聞く(聴く)人がどのくらいいるでしょうか?

増して、相手にとって不都合なことは、真っ向から反発・反論を食らいます。

要するに、相手が利己中であれば、どこまでいっても納得。認識して貰えることはありませんでした。

相手が、自身が間違っていることに気づけない限り、無理難題なのです。

手を差し伸べる、止めることは、相手にとって、嫌がらせ行為とみなされてします。

ほっておいてよ!!の心境です。

そこで、利己中の人程、哲学的な生き方から、利他的な宗教的な生かされ方に生まれかわることが必要不可欠であり、種々の実践・研鑽・修行・修練を重ねて、自分は一人で生きられない、皆様のおかげで、助け合って生かされていることを発見(気づくこと)しない限り、利他な心・姿に生まれ変われないのです。

貴殿がご記述された「すべての人が仏になる」ことは、仏教では、そのように言われておりますが、善い人も悪い人も、他界したら、仏に生まれ変わるとの事象は、検証出来ない世界観なので、判定出来ませんが、善い人も悪い人も仏として、同じ位置になれることが、安心観・安堵感を齎すものと想います。

しかし、また、仏教的な診方で、閻魔大王が、あの世への裁きを齎し、キリスト教的な診方で、最後の審判があります。

他界する前までの様々な行いよって、天国と地獄に振り分けられる思想観(思考観)も、熟考しなければなりません。

仏になれることも、輪廻思想観も、安心観・安堵感しかありません。

理系人としては、死体は焼却され、遺灰(骨の粉末)が残るだけです。

物質次元界では、遺灰を墓に埋葬して、墓をまつり、先祖供養して、精神次元界では、先祖から見守られているとの安心感・安堵感を得ることが出来ます。

どうぞ、原点(源泉)は、子供の童話・童謡にあります。

例外なく、「悪いことをしたら罰があたる」と教えています。

言い方に違和感を持つかもしれませんが、大人の童話として、仏陀の言葉(スッタニパータ)や聖書(バイブル)、コーランが相当します。

如何でしょうか?

相手に対して、悪戯を続ければ地獄行きとなり、善戯を続ければ天国行きとなった方が、判別しやすいですよね!!

貴殿の最後のメッセージ、「暴走した他者に、私達はどんな手を差し伸べられるでしょうか?事前に止めてあげられないでしょうか?それは愚かなことでしょうか?」は、出しゃばり行為となって診得て参ります。

相手が、自身の間違いに気が付くか否かが問題なのです。

気づくとは、目が覚めたらパット起き上がる実践が最適です。

中々起き上がれない人は、自身のワガママを増すだけです。

気づくとすぐする行動と共に、人生の教訓となっております。

今日は、クリスマス祭日、自己中的な姿から利他的な姿に生まれ変わることが求められて日です。

利他的な心で、何でも、他人事ではなく、自分事として、捉え、皆様に喜んで貰え、一寸(ちょっぴり)でも、役に立てるボランティア奉仕活動に精進されていって欲しいです。

感謝。









>>[28]
人は自分の心の鏡と言われていて、他者=自分、が仏の境涯とも感じます。ちょっと観念的ですが、言語化するのは難しいですが、人間そのものは、皆同じ様な似た性質をもっていると思われます。

そこには相手には同じ様に意識もあるし、同じ様に当たり前と思える自分の思った体の動きをするからだや察知する目や耳など5感第6感なども物質面ではほぼ同類に思えます。
=============================
より多くの多幸感は、本当の意味での幸せを1人で独占するより、多くの人に感じてもらう事が、本当の意味での天国的なこの世に成り、各一人一人が本当の意味での嬉しさ(悟り・天)を感じてもらう事に思えます。

それはモリオバッハさんのされてる事です。

それを僕らも提供し与える者となり、大いなる慈しみ、慈悲、どの人にも仏を見いだす法華経の常不軽の境涯に思えます。

私は嘘つきでがさつでずぼらで、どうしようもない人間です。でも私は常不軽のこころは何かしっくりくる魂の意識に感じます。固執してるのかもしれませんが、全ての人に同じ意識を持つ事は神仏から観たら当たり前で、智者も愚者もやはり同じ人間です。
==============================
物質的に見れば、個々の自意識を持ち、個々の人格ですが、それら人間は同じ性質を持ち、人はどの人も十界互具(さまざまな境涯)を全て感じる事が出来る。我々は天も地獄も同じ自意識で感じる。だから皆根本としては同じ性質であると思えるのです。

だから私はその天を皆に感じて欲しく、そして天でなく、仏を目指すならそれ凄く嬉しく思います。そこで成仏する事で、物質的な観念を脱皮し、霊的な魂の向上は、やはり「皆を見捨てない事」と思えるのです。
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確かに僕も感情的になる事は多いです。モリオバッハさんにも悪態をついた過去を詫びても詫びきれず、そして僕自身は大きな罪穢れを纏う事により、その低い境涯を深く自覚し、その低い自分と同じ御縁のある境涯の者たちと、共に心を磨いていく方法が見えやすくなり、それが宿命とも感じられます。

正しさを護る事で心の平安は持てます。でもそれよりも、その正しくなかった者を助ける為に、法華経常不軽菩薩品はあるのではないでしょうか?そこも深く読み解きたいです。

常不軽は虚妄を説く者と叩かれ石を投げられ、それでもさまざまな人を仏と同一視するその礼拝を辞めようとはしなかった。死ぬまで浮かばれないが、その人への礼拝を辞めず仏道修行者としては不品行な者でした。

その難を受けてもやはり他者が仏である事に揺るぎを持たない不動心であったと思えます。

そう私は法華経を感じます。
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まだまだ法華経方便品第2や、如来受量品第16の価値は
私には全然わかっていないし、創価学会の人から見れば笑われて
しまうような日蓮仏教の宗教知識です。

でも家は日蓮宗の檀家であって、お題目はできるだけ日に20ぺん唱えてます。
そこで学会の人からは唱える数が少ないから迷ってるとも言われる可能性は
確かにあるし、その意味も体感的に解る気もします。

ただ唱える回数がいかに多くとも、心が磨かれなければ智慧は出ず、
唱える回数が1回でも、心が磨かれてれば、仏の智慧はいっぱい出て、
この世のからくりが見えようになると思います。
でもその宗教知識だけではやはり出来る事は限られます。

だから各分野の知識、技能、能力を求め、基礎鍛錬、応用鍛錬に励む事で、
その道の智慧は生かされます。だからモリオバッハさんは
素晴らしい能力と、心と、祝福を基礎と応用と実践を、
しっかりしてるから、沢山のギフトを受けてるのだと推察できます。
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わたしは自分が間違った道を歩んでる時止めて欲しかった。やめさせてほしかった。でも私自身が自己保身の為に、周りの言葉に耳を貸さなかった。

だからかもしれません。

そんな道に迷ってる人に、何かしてあげたい気持ちが沢山あります。

私は苦を苦と感じない苦労の鍛錬が好きでした。
だから好きな事への努力と言うモノが無頓着に苦しくなかったのでした。
その意識で浮かばれた時、その嫉妬してる人達に、
その人の心の奥に同じ仏を感じ、彼らの能力を開花させたいし、
私自身栄光を掴む事に今のままで浮かばれたら、誰も助けられない。

それこそ増上慢になり、

そんな気持ちが当時は言語化できなかったですが、
長年の人生の学びと共に培った私の小悟です。

へっぽこ人間です。だから常不軽のように批判を浴びる事も覚悟を決めたいです。
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まだ具体的な行動には足りないモノが沢山です。
でもその仏である不動心を皆に持ってもらうためにも、
見えない世界の恩恵や慈しみ、正しさより優しさを大事にしたいから

だから私は、他者へ手の差し延ばしを諦めたくないのです。

その気持ちを踏まえた上で、自分の中にある彼らに対し
いえ仏になれる彼らに対し、手を差し伸べたいのです。

彼らだって本当の意味での嬉しさを感じる事は出来るはずなんです。

人間だから

仏だから

だから正しさよりも優しさを大事にしたく、
何かしてあげられないか、凄くもどかしく思ってます。
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何もかも足りず、来世に課題を持ち越しそうに感じます。

自分の中のハルマゲドンを一人で乗り越えるより、
皆、それぞれの人の中のハルマゲドンを乗り越える道を求めたいです。

常世(とこのよ)では出来ない魂の修行場が、
この現世(うつしよ)で出来るのだから。
すべては自分の中の内なる神との対話である。

まだまだ知らない事があります。
死ぬまで成長をする事は、色々なモノを感じたいです。

正しさより優しさを大事にしたく、

聖書の神は様々な顔をしていて、
本当に同一の神の言葉なのか解りません。

でもそれを敬い、そして誤解無く理解し、
正しい断罪よりも
純真無垢で優しい内なる神に
応えたく思います。

厳密には審神者が必要ですが、
自分の波長が断罪し、自分だけ天国に行ける悟ってると思えば、
律法学者、増上慢、蜘蛛の糸のカンダタに至る道にも感じます。
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だから人は苦難の道を避ける傾向はあるのですが、
苦難の道を歩み続けてる人は、地獄の道を歩んでる様に見えるけど、

その魂には華開いてて私達と変わらない尊い人間で、

少しでも魂がちゃんと華開くよう、

断罪(自分の中のハルマゲドン)は自分の内なる神との対話で、
通らなければいけない道にも感じます。


とうりゃんせ、とうりゃんせ。
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カルトと外れました。カルト、反社を引き続き語り合いましょう。
>>[35]

おはようございます。

誠に的確な見解コメントありがとうございました。

ご自身の洞察力、今までの反省力、これからの意気込みを語って戴きたのもしく想いました。

朝起き会(倫理の集い)では、「人は鏡、万象はわが師」、「夫婦は一対の反射鏡」、「子は親の心を実践する名優である」と、1950年から唱和されてきております。

哲学、宗教、倫理の相違観を判別出来る様になれば、夫々を一色単にさせず、違い観、関連性が把握出来ます。

仏教では、極楽浄土観がありますが、あの世に行ってから体験するのではなく、この世で極楽浄土観を味わうことを勧めて参りました。

この世の大人社会観は、嘘を嘘で固めた噓の世界観を演じて来ています。

サラリーマン時代、散々、実体験してきてうんざり観を持ち続けて来ましたが、還暦定年退職し、この15年間の年金生活では、質素な生活になりましたが、日々、健康(元気)維持が出来ており、歓喜の人生を謳歌し続けています。

何でも自分のことは、自身で出来ることが一番の幸せ観で、健康(元気)維持生活が、極楽浄土観につながっています。

私も、高校1年生(1963年)時から、宗教に携わって来て、現場検証、事実把握・精査・考察を繰り返し続けて来ても、この世の中の1%も存じ上げておりません。

他界するまで勉強の精神が肝心要で、真相・真理解明に精進して来た次第です。

真相・真理が判明出来るたびに、生きていて善かった、自然(神仏包含)の恵みのおかげで、皆様の働きのおかげで生かされている喜びを感じるたびに幸福観でいっぱいになります。

即ち、これが、他界する前までの極楽浄土観となっています。

聖典や教典の種々の神話&仏話は、どこの章句をカットしても、金太郎あめの構成で出来ているので、どっか一か所をチョイス(選定)されて、そこを深く探究(探求)されて欲しいです。

聖書でも、法華経でも、放蕩息子の例え話(噺)があり、診方や観点に一寸違いはあっても、内容(中身)の意味合いは同一(同質)であることが判明できれば幸いです。

日本の童謡には、宗教や倫理の真相観が満ち満ちていますよね!!

とうりゃんせ、とうりゃんせ。しかりです。

カルト好きなコメンターさん達、カルト、反社活動をしているコメンターさん達に、是非、上記の様な宗教観・倫理観をマスターされて欲しいので、あえて記述させて戴きました。

いつも、知的好奇心と科学的探究心を持ち続けて、一歩一歩、わからない世界の解明を、共に、一生涯掛けて、探究(探求)していけたら、嬉しい限りです。

如何でしょうか?

感謝。

>>[23]

それは解ったけど、どんな面が外国では反社だったんでしょうか?

どのような改善の必要があるのでしょうか?
…………………………………………………………………………………

ごめん今気づいた。

創価学会がフランスなどでどんな布教方法をとっているのか、
詳しくはわからない。
(現地人じゃないと知り得ないかな?)

ただ基本方針として、「折伏」というのがあるのね。
どこの宗教でもやっていることなんだけど、
「布教」が強引なわけですよ。
特に創価学会は。

そしてまあ言い方悪いけど「洗脳」して取り込んだあとは、
組織の兵隊にしちゃうわけ。
こういうのも統一教会や幸福の科学と同じ。
しかし創価学会は組織力が強いので「カルト認定された」ってところ。

イスラム世界でキリスト教の布教をしつこくやったら、
反社でしょ?
そういうイメージかな。

更に創価学会は、経済力とバックボーンを利用して、
警察、法曽界、政治に口出しするからね。
>>[37]
創価学会はやはり信者数も多く、多種多様な個性を持った方々が、
多くいらっしゃると思います。

真理を追究してる人も中にはいらっしゃるのでしょうが、
なかなかそのような霊格者人格者にはなかなか出会えません。

それは私の波長が低いのが原因で、そう言う御縁しかいただけないのですが。
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ただやはり団体に依存心や所属する事で満足し、会員を増やす事ばかり、
考えるのであれば、やはり意識を低く宗教を観てる様にも感じます。
それに対しては、私も学会員さんとの対話が少なく、理解をしてない面は
多くあります。

大慈大悲は大切です。

また個人の自己実現など現世利益のエゴを満たす事は、やはり迷い道に思えます。また立場が上の言う事は絶対的に服従する事は、組織維持には必要ですが、それにより真実が歪み妄信してしまい、自分の正しい事を歪め、自分をむりやりその中に当てはめようとする。

それはキリスト教の教会にもおおっさんのおっしゃる通りある様にも感じます

=============================
やはり何が正しく、何が間違ってるかは、自分自身を自分を裁く時に使う、モリオバッハさんのいう、自分の心の中のハルマゲドン・ジハードの中にあることである。

裁くのは神であり人が裁くべきではないとも感じます。
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だから誰かを悪者にすることで、
相手を全否定する事で、自分を肯定し、自己満足する道は、
僕と同じ律法学者になるんだと思うんです。

だから具体的に悪い面をどう把握し、
そしてどう具体的な改善・行動するか?
それをやはり一歩考えを進め、

より善い自分・より善い宗教・より善い国にする改善をする。

だからおおっさんのいう問題点は解ります。

でもそれは結局相手を悪いと言う所で思考が止まってる。

それを改善する考えと智慧と実践が、やはり僕ら批評家には大事に想い
そしてそう言う智慧を振り絞り世の中が良くなるのであれば、
それなりにここでの語り合いもまた価値が大きくなり行動出来ると思うのです。
=============================
朝なのでちょっと急ぎ足、ごめんまだちょっと僕は、今、ゆとりがない。
>>[36]
レスが遅れて、すみません。

仕事しながら、空いた時間レスを書いてます。
だから片手間なのであまり気の利いた事はお話出来ないかもしれません。

私自身、人に裁きの言葉を放ち、人を否定する事で、自分が肯定できるような
感覚に酔います。そしてそのトゲは修羅界の様相で、勝ち負け肯定否定は
その業(ごう)を私は多く積んだと思います。

今ならわかります。私自身心の平安(天・仏)の境涯でなく、人に地獄(修羅)を感じさせようとし、自分を勝つ事に陥る境涯でした。

それはモリオバッハさんが言うよう、己の心の中での禅問答(戦い・ハルマゲドン・ジハード)であり、人に向けて勝ち負けを、ぶつけ、ぶつけられるモノではないと思えます。
============================
人は外的要因の
十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)
の中の一つの状態になり、
また人のこころも、その内的要因の
十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)
が中に包括してる。

これは全ての人が体感できるのだけど、(その意味ではすべての人間は
同じ性質(十界)を顕す事が出来る)人は迷いの境涯に苦の境涯に安住する。
だが皆、仏の境涯にもなりえ、地獄の境涯にもなりえる。

その悟りも迷いにあるのが人であり、
人間の性質という点に注目して見れば、皆一切衆性・同じである。
============================
その自分と同一の相手を観て、相手の業、縁、自性により
十界の迷いの世界に、皆・自分を現わしてる。
それが人間であり、常世の魂であると思えます。

そして人は、素晴らしくもあり、愚かでもあり、賢くもあり、愚鈍でもあり、
それは自性と成長により、どんな人とも同じ境涯を持てる。

ただ私はそんな小悟を得たんですが、その活かし方を考えてます。
============================
人がこの世に天や仏をもっと感じる様、出来る事を
モリオバッハさんはしています。
幸せな境遇の人をもっと幸せにする生き様です。

でもまだまだ迷ってる人がいる。このままこの物質的に豊かになっても、
精神的に暗い日本に生きる事に、何が出来るか…。

だから仏とか地獄とか関係ない。でもこの世には天や仏に御縁のないことで、辛い苦しみや涙する人もいる。

その人達に何かできないか?そう思うんです。

そんな人たちに仏や天を感じてもらえる手を差し伸べて行きたいです。
私の経験や業もかなり好ましくない境涯でもあり、
人を苦しめ不幸にしていました。
============================
だから私は『挽回』したいんです。
『改善』しなければいけない事はいっぱいあります。
そこを一つ一つ『改善』し、運命の軌道修正をしたいと思うんです。

辛い事が多く起こる予感です。でも自分も大切にし、人も大切にする。
千手観音の一つの手としての生き方を模索したいんです。
神仏の御加護はどれだけあるか解りません。

虚妄を説く私なのかもしれません。

ただ正しさの中に優しさ(慈しみ)があるならば、
皆を見捨てない事も、現世でやるべき事とも思えます。

自分も大切にし、人も大切にする。手が届く人に差し伸べようとしてます。
>>[39]

おはようございます。

誠に的確な見解コメントありがとうございました。

私は、1980年から、朝起き会(倫理の集い)に参加して、貴殿が想っている事象について、トライ・アンド・エラー(試行錯誤)で、実践・研鑽・精査・考察を繰り返し検証してきました。

自分自身は変えることが出来ても、他人を変えさせることは出来ない、或いは困難であることを散々実体験を基に精進して来た次第です。

宗教観は、自分自身の精神界のあるべき姿に改善しようとする検証観です。

倫理観は、他人と仲良くどの様に接して行けば改善出来るのかの検証観です。

貴殿の実践・研鑽活動が、今後、下記に示した絶対倫理観で、時間を掛けて、実体験され、検証されて診て欲しいです。

今までの悩み、モヤモヤ観が、解消されれば有難いです。

(38)絶対倫理について

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1968682084&owner_id=19347649#feedback

如何でしょうか?

種々の疑問の解決に寄与されれば嬉しい限りです。

ミクシィで15年余り、くのコメントターさんと接して来て、知的好奇心と科学的探究心を持っているコメンターさん達は、私のプロフィールをご参照して戴き、大いに興味・関心(感心・歓心・寒心)を持ったことを示しています。

まあ、プロフィールの後半は、釈迦に説法と題して、その道のベテランに対して、説法をしてきたことを開示してありますよ!!

烏滸がましいかもしれませんが、診るに見かねて、釈迦に説法をして来た次第です。

一番、達の悪い人間は、植木等さんが歌ってた「わかっちゃいるけどやめられない」の心境です。

この心境観、大半の人間が持っていることも検証済です。

誹謗中傷を言い続けたコメンターさん達は、最初から、知的好奇心と科学的探究心を持ち合わせていないため、私のプロフィールを閲覧されることもなく、何でも感情的に反対意見をコメントされるだけでした。

私自身は、そのような誹謗中傷を受けた場合、時間の無駄、言っても聞かない人、感情論ばかりで、全て、一蹴して来た次第です。

論理が整然として、的を得たコメントであれば対応をし続けて来ました。

参考情報に供すれば嬉しい限りです。

一生涯勉強ですから、共に、マスター(習得)していければ嬉しいです。

感謝。
>>[40]
少しカルトとかとは外れるので別のトピックを作ろうと思います。

他人を変える事は困難だし、他人自身、周りの説教は余計なお世話と
考えてると私は思います。

そんな中、相手と仲良くするには、相手の事を好きと思い込む事で、
少し仲の良さが、改善されると思います。
==========================
きっと仲が悪いのは拒絶心が自分の中にあり、自分が相手を拒絶して
その人に向き合ってない事だと思います。

なぜ人が好ましくない事をしてるのかは、
その理由はその人にとって自分の中に譲れないモノがある。

ワガママは良くないと言います。
でも反抗期など、自分を主張する事で、大人の階段を登り、
晩年成熟するようにも思えます。
==========================
そんな中、他者に配慮する事を大事にする事は
相手に迎合する事でもあり、その向き合おうとする心で見ると

ワガママはワガママでなくなると私は思います。
そのワガママであっても、職人かたぎの人は、
がより善いモノを作り出し見出すでしょう。
それもまたダメでないと私は想うのですが…

また人がワガママで間違った事をしていたら、止めてあげることも、
その人と向き合ってる事に思います。

そう言う意味で私はワガママとは何か?
何故ワガママと言う間違いを人はしてしまうか?を探求したいです。
==========================
ワガママの何が悪いのか?場合場合によって、
仕方のない事だってあるように、私には感じます。

ワガママを改善するにはどうしたらいいか?
それに対し『わかっちゃいるけどやめられない』は
その辞められない原因と解決法を見いだす智慧が、
その人には、心曇り見えなくなるとも思えます。

ワガママを無くせと言っても一般衆生は解る人は出来ますが、
智慧がない考えの曇り(無明)の人に対しては、
その方法論を語り、智慧の方向、解決改善の方に、
誘うのが宗教者や批評家の役目に思えます。
=========================
モリオバッハさんは善きことをし、たくさんの人を喜ばせ
自分自身も人生を謳歌してる様に見えます。

ただ無明の人の智慧の眼を開かせる事が、
神仏菩薩天使高徳の方の想いだと思います。

だから人を変えられないと諦めるのより、
より善くしようと考え行動する事はとても大事な事に私は思います。

モリオバッハさんは他者を変えられないと言う嘆きがあっても、
仏がこの世に実在し、多くの人の目を正し智慧の眼を開かせたことは、
事実だと思います。

だから人は変えられないなどと諦めないでください。

智慧の眼を多くの人に開かせて、善き行いをする人が少しでも増える様、
我々は智慧を巡らせたいです。
==========================
困難な道かもしれません。でもお釈迦様だってイエスキリストだって、
人を教化する事を諦めなかった。だから僕らも人々と分かり合い、
幸せに成れる様、善く人を理解する必要があり、
もし一人でも耳を傾ける人が居たら、その実りは大きいモノと思います。

今まで出来なかった事も、これから未来には改善出来る可能性は
少しでもあると私は信じたいです。

どんな希望も積み上げながら、
我々は未来をもっとよくして行こうと思えたら幸いです。

どんな涙も必ず乾くから。
>>[41]

おはようございます。

超々お忙しい中、適切な見解コメントと私の拙いプロフィールをご参照して戴き感謝に堪えません。

私のマイミクさんから、カルトでなく、オカルトと称してくださいね!!と適切なコメントを頂戴しました。

貴殿のご見解に大いに賛同致しますが、半世紀余りに渡って、種々のボランティア奉仕活動をして来て、同じ思想観・思考観を持ち合わせた人とは直ぐに仲良しになれましたが、同じでない思想観・思考観の人は、誹謗中傷の連続で、正に、口頭による戦闘合戦でした。

このような誹謗中傷に富んだ人を、我々に引き込むために、色々と精進を重ねて来ましたが、半数の人は、こちらに傾いても、残りの半数の人は、喧々囂々の様相観でした。

ミクシィとフェイスブックでの意見交換を15年余り実践して来て、批判者達は、私をのけ者扱いに、2チャンネルでは、うざったい叔父さんと書き込まれていました。

仏教では、諸行無常観を説いていますから、何とか善くしてあげたい気持ちはあっても、相手が、自身の間違い・乱れていることに気が付けない限り、どこまでいっても平行線でした。

一部のコメンターさんは、私のプロフィールを閲覧してくださり、そのような考えで、種々のボランティア奉仕活動をして来たことを知り、私を貶していたことをお詫び申し上げますと改心されたことを印象的に覚えています。

更に、そのようなコメンターさんからも、友達リクエストを依頼され、承認して来た次第です。

前記した様に、熱力学の第1法則に、「作用あれば反作用あり」で、「ああ言えばこう言う」に通じます。

少しでも、反対の気持ちを反転すことに尽力・精進し続けても、改心される人が極少でした。

残念ですが、これが現実の様相観です。

反対の気持ちを持っている人とどのように接していくかも、サラリーマン時代のテーマ(課題)でした。

サラリーマン時代の38年間、経験則によれば、私の意見に同意してくれる人が20%、同意して貰えない人が20%、どちらでもない、無関心な人が60%を呈していました。

同意して貰えない反対の気持ちを持っている20%の人と、如何に仲良く仕事をして行けるか?を実践・研鑽・精査・考察を繰り返して来たのです。

還暦定年退職時、最後の挨拶をしに行った時、反対の気持ちの20%の数人の方は、もうこれで最後か?今まで、私になごめず、何でも反対して来て、迷惑を掛けて申し訳なかった反省した方も数人いました。

その他の反対の気持ちを持った方は、無言の別れとなりました。

人生いろいろです。

反省の念があった人が増えればいいのですが、強かった人程、去っていきましたよ!!

私は、高校生時代から、「去る者は後を追わず、来る者は拒まず」のスタンスで、取り組んで来た次第です。

如何でしょうか?

応えになっていないと想われても致し方ありません。

まあ、賛成者・反対者がいて、切磋琢磨して、「歓喜の人生」を謳歌し続けて行ければそれで善しと想っているのです。

感謝。








>>[42]
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1654083&id=99610196&comment_count=1

こちらです。
>>[45]

おはようございます。

新しいトピへの移動有難うございました。

お互いに、一緒に、研鑽していきましょうね!!

感謝。

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