ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

宗教論・宗教学コミュの宗教観について

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
こんにちは、私は母が日蓮宗、父が真言宗に属している者です。
しかし宗教活動などは行っておらず、墓参りなどの儀礼的行為でもってのみ宗教と関わってきました。
だから仏壇に手を合わせるぐらいの行為はありました。つまり私は根っからの宗教家ではないということです。

私は心理学にも傾倒しており、宗教の価値や心理的な意味を知るためにも、宗教学入門(脇本平他)、宗教心理学(松本滋)を読みました。なるほど宗教は、人間のパーソナリティに深い影響を与えることが分かりました。このことについては良く判ります。私も幼少のころ親の宗教的な儀礼をみて、その態度をまねた部分があるはずだからです。

かなり漠然とした質問です。受け答えのなかで新たな質問を出していきます。
宗教家の方にお聞きします。あなたにとって宗教はどのように解釈されていますか?
申し訳ありませんが、ご自身が宗教家である方のみお答えをお願いします。

コメント(21)

私は3代前(私で4代目)からの信仰で天理教を不真面目ながら信心しております。
「宗教をどのように解釈しているか?」という問いであったかと思います。
これは誠に答えにくい問いの立て方です。
逆に「神、人間、世界を天理教ではどのように解釈しているか」を私なりに説明する、ということならいくらかお答えできるのではないか、と思います。
お答えありがとうございます!

天理教の教徒なのですね。
確か私が呼んだ本の著者も天理教徒でした。

さて、分かりにくい質問に答えて下さってありがとうございます。
しかし「神、人間、世界を天理教ではどのように解釈してい るか」をQちゃんさんが説明すると、それは天理教の教義を聞いていることになってしまいます。
申し訳ないのですが、それは私の知りたいことではありません。

私の知りたいことは、その教義はQちゃんさんにとってどれ程の価値、意味、影響を持っているかを聞きたいのです。
ある排他的な宗教があるとします。お察しの通り日蓮の流れです。そこは、究極的にはその宗教に属さねば幸福は得られないと考えているように思われます。
私は宗教とは思想だと捉えています。故にその思想でなければ幸福にならない思想などはないと考えています。歴史上、思想は数多ありますし、様々な思想があってよいかと。
Qちゃんさんはどのように考えておいでですか?
>>[2]

ぼくもお話していいでしょうか?
>>[3]

こんにちは!はじめまして、よかいちさん。
もちろんです、お話聞かせてください!w
>>[4]
>どれ程の価値、意味、影響
価値:こころの苦しみを離れられる事。
意味:心磨きこころ遠き星や太陽を感じる事。神仏世の心を己のこころで観る(感じる)事。徳と業を積みながら。 自分から与え、嬉しくなってもらい自分もそれを喜ぶ。まだまだ宗教の意味を解ってない。
影響:いろいろな場面でその場に合った行いをする事。それが慈愛であれば仏の道に通ずると思う。

>私は宗教とは思想だと捉えています。故にその思想でなければ幸福にならない思想などはないと考えています。歴史上、思想は数多ありますし、様々な思想があってよいかと。

万教帰一という思想も生長の家にはあります。宗教を山登りにたとえ、どの道(さまざまな宗教)を歩んでも上を向いて居れば、頂上に辿り着きみんな同じところを目指してると言ってます。それが人間の道に感じます。多分、麻原彰○は信仰の山を途中で下山したと僕は捉えてます。
実はあまりはっきり意識していないのでうまく言葉にできないのですが、信仰者にとって自分が信心している宗教的伝統を解釈するという場面はあまりないのではないか、と思うのです。
複数の宗教的伝統を比較するなどの立場でもあれば、宗教を解釈するということもあるかもしれません。
ほとんどの場合、生涯おなじ宗教的伝統に信仰を向けると思うのです。
たとえが下手でかえって伝わらないかもしれませんが、自然科学であっても「難しいことはわからんが、まあとにかくそうらしい。」と信じて、というか知って、不自由なく暮らしています。
地球は太陽の回りを回っている。
たぶん、そう考えたほうが普通です。
しかし、あえてたくさんの周転円を組み合わせて、無理矢理「地球の回りを太陽とか月とか他の星が回っている。」と言えば言えるのだそうです。これはさすがに不便過ぎて考えたくありませんが、理屈ではできるそうです。
ところで地球は太陽の回りを回っているということは、太陽はジッとして動かないと思っていたのですが、木星によってブレているのだそうな。木星の公転周期は約12年で、太陽も木星に引っ張られて約12年かけてブレているらしい。ブレている太陽の回りを地球は回っているのだそうです。
別に天文学の話をしたかったわけではないのですが、あえてたとえてみたのです。
普通に暮らしている人にとって、「地球は太陽の回りを回っている」で良いのでして、それをさらに「12年周期でブレている太陽の回りを地球が回っている」とまで考えなくても、一般には大きな間違えではないとされるのではないか、と思うのです。
厳密な天文学では「太陽も回っている」ということなのでしょうけど、「太陽は動いてなくて、地球がその回りを回っている」でもたいして不都合を感じない。だからそこからいろいろ他の星を見たっていいでしょ。それだって物の見方の一つじゃないかな?と思うのです。
宗教を解釈するという態度は、言わば地球から離れて天体の動きを見ようとしているみたいに感じるのです。
しかし、地球からの、また、太陽からの物の見方をしているほうが、むしろ自然な感じがするのです。
たとえが下手でごめんなさい。伝わりましたかね?
しかし、例えば、同じ天理教を信心しているという人が二人以上いて、細かく見ていくと、やはり一人ひとり信じ方は違ってくるのだと思います。
ここまで踏み込んで、さらに「わたしの信じ方はこう」という価値判断を書くことは、誤解を恐れない限り、可能です。
実は、同じ教理から展開しても、まるで正反対の結論に至ることもあるのです。
そういう事情を踏まえて、私なりの解釈を書き込んでもよいのでしたら、ボチボチ書いてまいります。
たぶん、それが宗教でなくても、「何か」を信じていている人にとっては、それがその人にとっての中心になるのではないか、と思います。
「○○教のほうがありがたい感じがするけど、あえて△△教を信心しています。」という人はいないと思います。
なので、私の立場からは、「宗教と言えば天理教」であり、天理教を通して宗教を知る、ということが自然だし、このスタート地点を間違えると、おかしなことになるような予感がするのです。
長々と「宗教を解釈すること」について書いてまいりましたが、これはやむを得ないことだと思うのです。「天理教」はワタクシに解釈されたがってはいないからです。
「それでもあえて」、と、傲慢を振りかざすには一定の「ことわり」をするべきかな?と思ったのです。
 他の天理教を信仰されている方はわかりませんが、ワタクシにとって天理教は、「人間」「世界」を含め「時間」「空間」がいかにして成り立っているか。それにはどんな意味があるのかを説明しうる教えなのではないかと、思っています。まだワタクシ自身の信仰が至らないために、わからないことがたくさんあるのですが、教えそのものは広く深く昔から将来まで変わらずあるのだと思っています。
>>[15]

世界中のどの宗教も真理は一つなので、天理教に限らず、どの宗教から入っても辿り着くとこは皆同じですよ。ほとんどの聖職者達(宗教に携わっているプロ&信者)が真理に辿り着けず亡くなってしまっているのですね。真理に辿り着けるよう実践・研鑽に励んで下さいね!!
[>>16]
モリオバッハさん。
ありがとうございます。
ボチボチやってまいります。
詳しい見解を述べてくださってありがとうございます。

私は宗教とは思想の一種であると思っております。コメントから、実際の宗教家さんも似た捉え方をしているように感じられました。

宗教家の方々の中にはご自身の所属する宗教が、この世で唯一無二の真理を解いていると考える方もおられるようです。
私にも宗教家の知り合いがいますが、日々研鑽を積み、答弁や議論に価値を置いていれば、そのような曲解にはならないのでは、と思っておりました。
実際、私の知り合いも、自分の宗教に価値を置きながらも独善的にならないよう腐心しています。

私は宗教に否定的ではありません、しかし宗教団体としての行動には懐疑的です。本来の宗教の倫理的・道徳的観点から解離し、形骸化し、所属宗教絶対論者を輩出してしまうように思われるからです。

コメントを下さってありがとうございます。
文面上では密な議論はできませんが、興味深い洞察が聞ける良い機会をいただけました。
宗教学を始めるときに「どの宗教的伝統に対しても、平等に、価値中立的に、客観的に取り扱うべきだ」と教わると思うのですが、「平等」とか「価値中立的」とか、「客観的」えらく響きの良い単語ですが、一歩踏み込むと実はそんな立場は存在していないことがわかります。
自然科学ならそういう立場が重要だと思いますが、こと、宗教などのような現象を記述し、感得する場面においては、そういう立場はもとより存在しません。
「ワタシの信仰する宗教が一番尊くて、その他はそれ以下。」と見下すことは、宗教研究を進める上で大きなつまずきになりそうです。(宗教学が成立する前は、キリスト教の業界では本当にこのように考えられていました。)この事を踏まえれば、「平等に」扱うべきだと思います。
しかし、解釈学の表現で「超越論主観性」とか、ハイデガーのいう「被投的存在」というような感じで説明すると、「すべての宗教を平等に見ます。」という立場は、少なくとも「それら宗教」より一段高いところから見下していることになります。
「(宗教ではないが)ワタシはすべての宗教より一段上である。」ということを、言外に表現しているのです。これはこれで、研究上のつまずきになると思います。
これらふたつのポイントをおさえてあるべき研究者の立場を言葉にすると「よその宗教まではわかりませんのでここはワタシの信仰する宗教でワタシが感得したところから説明します。」というような立場からしか宗教研究はスタートできないのではないか、と思っています。
>>[19]

おはようございます。

前記にもコメントさせて戴きましたが、宗教&倫理の本質(真理)は同一、或いは同質なのです。

「自分自身の信仰している宗教(宗派)が正道で、他は邪道だ」と叫んでいることが実はここが宗教の限界(点)だと伝授してきましたよ。

これを乗り越えられない限り、前進しませんよね!!

今でも聖職者(神父、司祭、牧師、宣教師、伝道師、高僧、神主、宮司等々)のプロ達の本音は、口には出さなくても、他を邪道扱いに観ていることが判明(検証)出来ていますよ。


哲学、宗教、倫理を夫々分析・解析して、夫々精査していくことが重要なのです。

どこが相違するのか、どのようなことを実践・研鑽していくべきなのか、聖職者のプロご自身がご存知ないことをインタビューを重ねて検証済ですよ。

宗教界は錯綜状態ですよ。

礼拝での説教(メッセージ)においても、統一見解すらなく、錯綜状態が永遠に、永遠と続いてきておりますよね。

哲学、宗教、倫理の分別が出来ていない状態なので、入り混じってお話しされているのですね。


今までに多くの宗教施設を訪れて、説教者からお話しを聴いてきましたが、私に言わせれば、哲学的なお話しが大部分を占めていましたね。

宗教法人と看板に乗せてある以上、宗教的なお話しに特化・専念されたし、と釈迦に説法を繰り返し伝授してきましたよ。

神話解釈においても、誤認混同(勘違い)している状況ですよ。

世界史・日本史等々、学生時代に学習した歴史は、事実・真実が記述されていませんよ。

歴史は、様々な戦争・葛藤事件において、勝者が語ってきたものの視点で診ているだけで、敗者の視点で診ているものは少ないのです。

勝者が事件の事実に、オヒレを付加し、恰もかっこいいことをしたように記述されてきているのです。

特に、神話(釈迦の言葉スッタニパータ、聖書、コーラン、日本書紀、その他)に関しては、この世で起こった事件かのように記述されているのです。

ここに間違いがあることに、気づいている人間が少ないのですよ。

聖職者のプロでさえ、神話の絡繰りをご存知ないわけですよ。

世の中、色々な絡繰りがあり、絡繰りがある事さえ知らない多いですよね。

絡繰りが解けない人も多いですよね。

でありますから、考古学者達がこぞって、神話に登場した聖者・賢者達の発掘作業を鑑みると可笑しくなってしまうのですよ。

神話に登場する聖者・賢者は、この世の物質次元界に存在した人物ではないのですよ。

哲学、宗教、倫理の分別が出来ていないので、行動(修行・実践・研鑽)活動範囲(領域)が入り乱れ、誤認混同(勘違い)を来している状態でありますから、世界・人類の悲劇・不幸が永遠に、延々と続いてきているのです。

行動範囲を限定すれば、間違った行いは起こらないはずなのです。

哲学、宗教、倫理を集合論的な思考法で精査・考察していけばイイのですよ。

宗教は精神(魂・心・気持ち)の世界観でありますから、自分自身の精神内での活動範囲となるわけです。

神話の内容(中身)は、精神次元界のお話しなのです。

精神次元界のお話しは我々凡人には難し過ぎるので、物質次元界の置換されて、わかりやすいように、物語風に描かれているのですね。

この描かれた物語の精神的な世界観、我々一人ひとりの魂・心・気持ちにどう反映したらイイのかを聖職者のプロは伝授すべきことなのです。

続きあり


第20項目の続きです。



仏教、基督教、イスラム教、その他様々な宗教の延長線上に神秘主義の奥義があります。

奥義をマスター(学習)されれば、究極が診得てきますよ。

「真理は同一(同質)である」と聖者・賢者が言っていますので、理系人の思考法で、マトリックス図法を活用し、縦横列の一方に哲学・宗教(宗派)・倫理の項目をおき、もう一方をそれぞれの特性要因(要件)の項目をおき、共通項、共通点を見出せば、その共通項、共通点が真理であることを導き出すことが出来ましたね。

上位概念、中位概念、下位概念と分別し、上下の関係・関連性を把握したり、マクロ的な観方、ミクロ的な観方、マクロとミクロの関係・関連性等々、様々な分析・解析思考法を活用すれば、診得てくるものですね。

私は長年(28年間)特許部門(出願から侵害訴訟事件処理まで)で培った分析・解析法を利用・応用し、パテントマップ&ポートフォリオによる解析法で、哲学、宗教、倫理、神秘主義の本質(真理)を導き出せました。

どのような視点で診ればイイのか、多面的な観方、多角的な観方、全方位的な観方が出来るようになれば、上位概念、中位概念、下位概念、マクロ・ミクロ的な観方に至るまで、夫々ぞれの視点で判別できるのです。

文系的な観方、理系的な観方、色々な思考法で解析していくことが私の生き甲斐の一つになっているのです。

私はもう少しで古希(70歳)を迎えます。

貴殿のプロフィールを拝見すると、まだまだお若いので、現場観察・検証し、精査・考察を繰り返し、絡繰りを見破る、見極められる裁量を磨き上げて下さいね。

詳細は私のプロフィール&日記(10年分のバックナンバー)に、mixiを始めた10年前から全体公開していますので、ご興味がありましたらご閲覧下さいね!!


「歓喜の人生」を共に謳歌していけたら嬉しい限りですよ。






感謝

ログインすると、残り6件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

宗教論・宗教学 更新情報

宗教論・宗教学のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。