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三浦綾子コミュの三浦綾子の言葉 2

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三浦綾子の言葉( https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=16537&id=78658050 )の投稿が1000に達したためコメントのアップが出来なくなりました。

三浦綾子の言葉 2 を開設しました。
宜しくお願い申し上げます。


まず自分を誤魔化して生きて行くような生き方をするくらいなら、死んだほうがよいと思います。正直に率直に生きていきたい。

(三浦綾子『生命に刻まれし愛のかたみ』)




facebook三浦綾子読書会のページから転載させていただきます。
https://www.facebook.com/pages/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%B6%BE%E5%AD%90%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E4%BC%9A/296384877097509?fref=photo

コメント(1000)

 「人間には、決して他の人に代わってもらえないことがあります。例えば呼吸すること、食べること、動くこと、そして考えることなどです。これは自分自身が負うべき責任です。」

 なるほどと私は思った。自分がいかに面倒臭いからといって、呼吸することを人に代わってもらうわけにはいかない。食欲が進まぬからといって、他の人に食べてもらって命を維持するわけにはいかない。運動不足を解消するための散歩や体操を、代わってもらってすますわけにはいかない。考えることも、また同様の筈である。

 だが人間、果たしてこれらのことを、すべて自分の責任と受けとめて、生きているだろうか。よくよく考えてみると、呼吸すること、食べることはともかく、自分の考えることを自分の負うべき責任として、生きている人がどれだけいることかと思う。

 学校の宿題一つ取ってみても、親や兄弟に力を籍りるということが、少しも珍しくなくなっている。大人たちもまた、子供が、
 「どうして勉強しなければならないのか」
という問を発した時、実に簡単にその問題提起を切り捨て、折角の成長への芽を踏みにじってしまうのではないか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 しかし子供たちは、そんなことを聞いているのではない。人間が勉強するとは、いったいどういうことなのか、それは根源的な生き方と、どのように関わるのかと、聞いている筈なのだ。
 子供の潔癖な魂は、(何かが欠けている)と感じながら勉強している筈なのだ。

 勉学という一事を取ってみても、私たちは広い視野に立って、あるいは深みを見つめて考える、という訓練を受けてはいない。
 根堀り葉堀り尋ねると、「うるさい」とか「しつこい」とか、一言のもとに跳ねつけられる。そんな環境の中に育っては、次第に人生に対する考えが浅くなってくるのではないか。

 「考えることは自分の責任」
という明確な自覚は、実はいわゆる立派な人、政治家、指導者と言われる人々にも欠けてしまっている場合が多い。

( 『忘れえぬ言葉―私の赤い手帖から』)
これから死ぬまでの間に、私はまだまだ多くの人の言葉に励まされ、教えられて生きて行くにちがいない。私を強めてくれるこれらの言葉は、私にとって何物にも替え難い宝なのだ。その宝を私は土台にして生きて生きたいと思う。人間というものは、誰の世話にもならないなどとは、決して言えない存在なのだ。

(三浦綾子『忘れえぬ言葉―私の赤い手帖から』)
死を自分のこととして真剣に考えることは、生きることを真剣に考えることでもある。

(三浦綾子「北国日記」)
 どうか先ず、自分自身を謙虚に見つめ、心を豊かに育てて下さい。すると語るべきこと、語ってはならぬことが、おのずとわかって参ります。たくさん語らなくてもよいのです。わからないことは語らなくてよいのです。自然な自分の姿のままでよいのです。少々つっかかっても、とちってもいいのです。あなたの言葉で、語って下さい。

(三浦綾子『藍色の便箋』)
 自分の思いを相手に伝えるということも大切です。直接慰めの言葉をかけるということも、非常に大切なことです。でも、人には様々な生き方があって、思いが深ければ深いほど、軽々しく動かないという人もいるのです。

(三浦綾子 『藍色の便箋』)
人間の口から出る言葉というものは、心から出るものなのです。この心から出ることを忘れて言葉を語るのは、ナンセンスなのです。

貧しいこころからは貧しい言葉しか出てきません。豊かな言葉は豊かな心から出てきます。実に単純明快なこの一事を私たちは忘れていたような気がします。 

 
〈三浦綾子『藍色の便箋』〉
 私たちはまたたびたび人への忠告を怠ることがある。もし他人が危険な橋を知らずに渡るのを黙って見ていたら、それは大きな怠惰である。ひとこと声をかければいいのだ。 人生には、その声をかけることを怠ったばかりに、横領に走らせたり、女に迷わせたり、家庭の崩壊をきたらせたりすることが少なくない。                             気がついていても「まあいいや、誰かが注意するだろう」そう思って口をひらくのを差し控える。親や教師たちが、子供の事故に「あの時、ひとこと言っておけばよかった」と悔やむのも、怠惰の罪を犯したためである。                   
<あからさまに戒めるのは、ひそかに愛するのにまさる>(箴言二十七章五節)
という言葉がこの箴言の中にもあるが、怠惰は人を愛さないという罪につながるのである。

(三浦綾子『聖書に見る人間の罪』)
自分の死ぬ時だって、神は最もよい時をえらんで下さるにちがいない。死に方も、死に場所も、わたしの愛して下さる神は、わたしのために一番よいようにしてくださるのだ。

(三浦綾子『生きること思うこと』)
残されたぼくたちが
意味ぶかく受けとめて生きていく時に、
ほんとうの意味で、死んだ人の命が、
このぼくたちの中で、
生きているといえるのではないだろうか。

(三浦綾子『塩狩峠』)
 『この世は虚しさに満ちている。だから、この世に対して虚無を感ずるのはむしろ当然である。

 虚しいものを虚しいと感ずることに、恐れることはない。恐るべきは、虚しいものに喜びや生甲斐を感じて、そこに浸ることである。

 この頃よく、虚像と実像という言葉を聞くが、虚像を実像と見、実像と錯覚することは確かに恐れねばならない。

 虚無とは、自己を喪失させ、亡びに導く一つの力であると言える。虚無に陥ちているか、どうかに気づくことは、結核や癌の早期発見以上に大切なことなのだ。』


(『光あるうちに』)
「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである。」

(三浦綾子『続・氷点』上)
わたしたちは今しか生きられないわけです。過去を生きることはできないんです。昨日確かに生きていたんですけども、昨日をもう一回生きてみるというわけにはいかない。今日しか生きられない。明日を生きるわけじゃなくて今を生きるしかない。

(三浦綾子『永遠のことば』)
 あなたは自分の中ばかり見つめている。しかしその目を周囲に向けてごらんなさい。あなたの助けを待っている人を、きっと発見できるはずです。誰かの役に立つという、そういう思いを持って他の人々に目を向けなさい。 

(三浦綾子『キリスト教・祈りのかたち』)
 人間の理屈などというのは、誠に自分中心で、自分に都合のいいようにつけたへ理屈が多いのではないか。
 だから、合理的な人間だと思っている人の理屈には、自分だけに通用する理屈というのが多いのではないかと、わたしは思う。
 企業家には企業家の、政治家には政治家の、理屈があって、それが一朝事とあると表面化し、問題となる。水俣病をはじめ、公害問題など、そのいい例ではないだろうか。

(三浦綾子『生きること思うこと』)
愛とは、語ることではなく、実践することだ。


(三浦綾子「天の梯子」)
まじめに生きた人は、時間を無駄に生きていないから、その内容が豊富である。

(三浦綾子「愛すること信ずること」)
​「雨は晴れるかしら」                                                          別れるときにそういうと、                                                         「今まで晴れなかった雨があったかい、サチコ」                                           と直彦君はいった。                                                           そうだ、今まで晴れなかった雨があるだろうか。                                          ころんだら起き上がればいいんだ。失敗したらやり直せばいいんだ。                                「傷痍無き人生は恥」と、おにいさんはいった。教えてくれたそのおにいさんに、私は傷つけられたわけだけど、せいいっぱいに生きて受けた傷、愚かなゆえに受けた傷、その傷は人間の印ではないだろうか。                   
人を傷つけるより傷つけられた方がいいのだ。わたしは、自分の人生に高い目標を持って生きる元気がでてきたようだ。 
たぶん、あすは晴れるだろう。


(三浦綾子「雨は明日晴れるだろう」より)
「心をひらく」
ということが、なぜできないのか。 それは、心をひらくために必要な愛が私たち人間にはないからではないか。』もし愛があれば、相手が子どもであろうと大人であろうと、
 「お元気ですか」
 「いま学校から帰ったの」
 「きょうは暑いですね」
と、その人その人に応じて、励ましや問いかけのひと言が出ないはずがない。つまり、あいさつとは愛がなければできないことなのだ。

(『孤独のとなり』)
人格、これこそが、人間が人間であるゆえんのものである。
わたしたちは、自分たちの人格を育て養うのに、怠惰であってはならない。
その日その日に追われて、ただ忙しく立ち働くマルタ(福音書の中に出てくるひとりの女性)であってはならない。
ある時はすべてを捨てて、人格を養うために、心の耳を澄まさなければならない。                   「なくてならぬものは唯一つである」                                                    これはわたし自身がわたし自身に、常に自戒するための言葉でもある。

(三浦綾子「あさっての風」)
 「他の人に対しては忍耐強く寛大であれ。あなたも他人が耐え忍ばねばならぬようなものを、事実において多く持っているからである」
 とイミタチオ・クリスチに書いてあったような気がする。とにかく、誰も自分の姿には気づかないものだと奈緒実は思った。自分だけが絶対善であり正であるかのように思い勝ちであることを反省した。
  人を理解するためには自分自身をまず正しく理解しなければならない。自分を知ることが人を愛するはじめだと奈緒実はうなずいた。


(『ひつじが丘』)



画像はイミタチオ・クリスチの表紙です。
私たちは甘えているのですよね。自分に会ったら、人は笑顔を見せるものだと、決めてかかっているのですよね。

 人にはそれぞれの生活があって、ある人は自分の病気に心を捉われている時もあります。

 ある人は家業がうまくいかず、そのことで心を暗くしていることもあります。ある人は離婚問題が持ち上がり、大声で叫び出したいような、辛い思いの中にいることもあります。

 それなのに私たちは、そんな状態の人びとにも、笑顔を見せろと要求しているのです。優しい言葉をかけて欲しいと、期待しているのです。私たちはあまりに自分が可愛いのです。



(三浦綾子 『風はいずこより』より)
人の心は変わりやすいものだが、一面、変えようと思っても、なかなか変わらない根強いところもあるものだね。

(三浦綾子「続氷点(下)」)
愛って、その人の幸福をねがうことよ。

(三浦綾子『井戸』)
 私は、プロがプロの誇りを持つことは、悪いことだとは思っていない。例えば医師が医師の誇りを持つ、裁判官が裁判官の誇りを持つ、芸術家が芸術家の誇りを持つということは、よりよき医師であるために、よりよき裁判官であるために、よりよき芸術家であるために、持っていなければならないものであるとは思う。だが、私たちのこの誇りは、しばしば傲慢への入口となりやすい。

(三浦綾子「聖書に見る人間の罪」)
信夫はこん身の力をふるってハンドルを回した。だが、なんとしてもそれ以上客車の速度は落ちなかった。みるみるカーブが信夫に迫ってくる。再び暴走すれば、転覆は必至だ。次々に急勾配カーブがいくつも待っている。たったいまのこの速度なら、自分の体でこの車両をとめることができると、信夫はとっさに判断した。一瞬、ふじ子、菊、待子の顔が大きく目に浮かんだ。それをふり払うように、信夫は目をつむった。と、次の瞬間、信夫の手はハンドブレーキから離れ、その体は線路を目がけて飛びおりていた。

 客車は無気味にきしんで、信夫の体の上に乗り上げ、遂に完全に停止した。


(三浦綾子『塩狩峠』)
「そうです。ぼくはともすれば、いいものをつくりたいと思うあまり焦っていたような気がするんです。しかしぼくは、ひとつのものを生み出すのに、時間をかけて待つということを今度知らされたような気がするんです。頭の中に何かひらめくでしょう。
 するとすぐに、ぼくはそれを製品にしてしまいたいと思う。そりゃあ、デザイナーにとってひらめきは大事だけれど、しかし時間をかけて、かもしだすことも大事なんじゃないか。
 かもしだされたものには、単なるひらめきによって作ったものとは、ちがったものがあるはずですよね。そのためには待つという時間が必要なんです。
 電子レンジでは、本当の味が出ないでしょう。時間をかけて煮るということが、料理には必要でしょう。家具だって同じですよ。そう思うとね、ぼくはあなたにたくさんの礼をいわなければならないような気がして・・・・」

 ( 三浦綾子『果て遠き丘』)
孤独を埋めるもの、それが何であるかを、今から探し求めて行ってください。孤独の影が深い人こそ、人生を深く生きているといえることもあるのです。


(三浦綾子『新しき鍵』)
 自分の悩みに沈潜している限り、悩みは深まって死に至る。わたしはある日、がく然とそのことに気づいた。そして、
 「受くるより与うるは幸いなり」
 というすばらしい聖書の言葉を思った。そうだ、自分の姿ばかりを見つめ、自分の悩みにのみ嘆き沈むよりも、人々を慰め、励まさなければならぬ。わたしはそう思った。

(三浦綾子「あさっての風」)
あまりに急いで人を評価してはいけないと、わたしは思う。わたしたちは、自分自身すら、なかなか知ることができないのだ。まして他の人を、どうして一度や二度会っただけで知ることができるだろう。ゆっくりと時間をかけてつきあうということは、非常に大切なことなのだ。
「いつか憎まなければならないように愛しなさい。 いつか愛さなければならないように憎みなさい」
という諺がある。  
わたしたちは、人とつきあう時、自分の心が、そのように定かではないことを知っていて、つきあわなければならない。せっかちな友情や恋愛からは、いったい何が生まれるか、それは破綻だけではないだろうか。

(三浦綾子「あさっての風」)
自分を偉いと思う人間に、偉い人はいない。

(三浦綾子「塩狩峠」)
愛されたい。ああこの感情は人間への刑罰。なぜなら、真実に愛し得る人間はこの世にいないのだから。


(三浦綾子『帰りこぬ風』)
物質的繁栄のもたらしたものは何であっただろうか。それは心の荒廃を招いただけのような気さえする。物の命を大事にしない者に、人間の命を真に大事にすることができるだろうか。


(三浦綾子「天の梯子」)
私は自分を少々、理屈のわかる人間だと自負するようになったのだろう。わたしは浅墓な理屈屋になってしまったようである。いつも理詰めにものを言ってきたような気がする。
そんなわたしに父がよく言ったものだ。
「理屈はそうだが、綾子、理屈だけで人間の問題は解決しないぞ」
「人を責める時、相手が申し開きのできないような理攻めは、いけない。必ず相手に逃げ道をつくっておいてやるものだ。」
と。
また、こうも言った。
「理屈て勝ったからといって、人間と人間の勝負で勝ったとは言えん」
そんな言葉が、年を経て、ようやく、わたしにもわかるようになった。

(三浦綾子『生きること思うこと』)
無関心ということは、何と恐ろしいことだろう。つい、目と鼻の先の出来ごとであっても、関心を持たぬ限り、それは遠い世界の出来ごとである。この無関心はわたしの持つ大きな罪悪の一つのように思われる。


(三浦綾子『石ころのうた』)
 『人間一人が、死ぬか生きるかの目に遭っていても、傍の者からは、この程度にしか受止められぬこともある、ということをその時身をもって知りましたなあ。

 目に見える形のことさえそうであれば、まして、目に見えぬ心の悩みなど、人は気づかぬものでしょうな。

 どんなに傷ついていても、孤独に打ちひしがれていても、人間は顔に現さずに生きていくことができる。

 死ぬほど辛くとも、笑っていることもできる。ま、そんなものではないですかな。』


( 三浦綾子『夕あり朝あり』)
想像もできない程の大量の丸太が、谷の合間にびっしりと積み上げられている。ほとんど山間の中腹までの高さだ。それが何と、一里も奥まで、丸太で埋められているのである。同行したツバメの松が、                     
「川が開きゃあ、これが全部流れていくんだからなあ」                                        自分のもののようにいとおしそうに眺める。あちこちの沢から運ばれてきた、丸太、丸太、丸太の山だ。まだ凍っている内淵川の上に、累々と積み上げられた丸太を見て、さすがは樺太の山だと、完治は思わずうなる。                                         「ねえ、旦那(だんな)。しかし、わっしは毎年思うんだが、この地球上から人間が一人もいなくなっても、木はちっとも「困らねえ。だがねえ、木が一本もなくなりゃあ、こりゃあ人間は困る。 こんなに伐(き)ってもいいんかなあ」

( 三浦綾子『天北原野(上)』より)
「ぼく、明日から着物着ていく」
「着物?なんでかいな」
母のためゑが、優しく尋ねた。ためゑの声はいつも優しい。ためゑが大きな声を出しているのを聞いた者は、一人もいない。タバコをのんでいた通が、じろりと保郎を見た。保郎はその目に怯えたが、
「だってえ、みんな着物を着とるもん。ぼく一人服着とんの恥ずかしいんや」
通がタバコを灰皿に強く押しつけて言った。
「何やとう。みんな着物やとう。保郎、何でお前だけ洋服なら恥ずかしいんや」
「だって、みんな見るもん」
「保郎、男いうもんはな、いつも人と同じことをしていれば安心というのでは、あかんのや」
「・・・・・・」
「いいと思うことは、たった一人でもするもんじょ。服のほうが、着物より便利やろ。今にみていてみい、二、三年もしたら、着物など着るもん、一人もいなくなるで」
保郎は大きな頭で、こっくりとうなずいた。
「服のことはともかくなあ、保郎、何でも人と同じことしてたら安心という根性は、俺は大嫌いや。みんなが悪いことしてたら、お前も悪いことするのんか。何でもみんなと一緒やと思っとったらな、悪いことまで一緒にするようになるんじょ」
「・・・・・・」
「みんながしとるもん、みんなが着とるもん、みんなが使っとるもん、みんながみんなが言いよったら、悪いことまでせんならんようになるわ。みんながしとっても、ええことはええ、あかんことはあかん。わかったな、保郎、明日も服着て行け」


(三浦綾子『ちいろば先生物語』)
「人が死んで、後に残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」
というジェラール・シャンドリーの言葉があります。

多く集めた人が、歴史に残るのだと思って胸像やなんか建てたりしますけれども、やがて時が経つと、けとばされたり壊されたりしているのを見ます。しかし誰かにあげた美しい優しい笑顔、優しい言葉、ささやかながらも愛のこもったプレゼント。それらはその人が死んでも人々の心の中に残るに違いありません。

しかし自分の趣味で、自分の欲で、これは何十万円のものだ、何百万円、何千万円のものだと言って集めたものも、死んだ後にどのような形で残るでしょうか?われわれが死んで後に残るもの、それはわれわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものだという、この生き方を学ぶのが、われわれ人間が神から教えられる生き方でないかと思います。

(三浦綾子『キリスト教・祈りのかたち』)
自分でさえ、信じられないこの自分を、正さんは信じていますとおっしゃったのです。

今後の自分を信じられるか、信じられないか、それはわかりません。けれども私も、自分の正さんに対する愛情が、生涯に一度の本当のものであることを信じないでは生きてゆけない気持ちです。傲慢とも不遜とも申されましょう。けれど必死になって信じつつ、生きてゆくつもりです。信じられることの怖ろしさ、けれど私はもっと単純に生きてゆきましょう。

誓うことはいけないとも聴きました。けれど私は、生意気にも愚かにも誓うのです。信じられて生きている自分であることを考えて、決してその苦しみからのがれようとは試みないでしょう。

私は「頭」で生きてゆくつもりも「胸」で生きてゆくつもりもありません。爪の先、髪の毛一本に至るまで、私の生命が流れていることを想い、全身で生きてゆくつもりです。

正さん、私のようなものを、よく信じているとおっしゃってくださいました。私はでたらめな女でした。しかし今は本当に心安らかに生きてゆけます。どうぞ正さんのお言葉をお受けしようとする私の傲慢を、おゆるし下さい。信じられることが苦痛であればこそです。私がすべてに足りないこと、貧しい人間であることをも充分承知の上、とにかくも正さんのために在ろうとしているのです。笑うべきことかも知れません。けれど私は真面目です。信じられることくらい、自分に対して厳しくあろうとすることはないでしょう。

(三浦綾子『生命に刻まれし愛のかたみ』)

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