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三浦綾子コミュの三浦綾子の言葉

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まず自分を誤魔化して生きて行くような生き方をするくらいなら、死んだほうがよいと思います。正直に率直に生きていきたい。

(三浦綾子『生命に刻まれし愛のかたみ』)




facebook三浦綾子読書会のページから転載させていただきます。
https://www.facebook.com/pages/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%B6%BE%E5%AD%90%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E4%BC%9A/296384877097509?fref=photo

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確かに自分は愚かである。弱い者である、みにくい者であると、自分を神に明け渡したはずだったのに、すぐにそのことを忘れ、神により頼むよりも、自分の知恵に依り頼む。毎日がこの繰り返しではないだろうか。信仰があると称しながら、なんとおそまつな信仰であろう。

(三浦綾子『生きること思うこと』)
いいえ、あなただけが罪ふかいのではないのです。
今、そこにいる人たちも大人も子供もみなおなじです。

(三浦綾子『珍版 舌切雀』)
「保郎はん、戦争は地獄ですやろ。何しろ人の殺し合いやからなあ、人間、地獄を見れば、そりゃあ、変わりますわなあ、地獄というところはなあ、人の心が荒(すさ)むところや。」

(三浦綾子『ちいろば先生物語』)
話しかける対象が自分の胎内にいる。それは不思議な充足感であった。何かの小説の中で、夕起子は、「海」という字の中に「母」があると言った子供のことを、読んだことがあった。海という字の中に、母という字が組み込まれていることの意味深さを、その時夕起子は深く感じたものだった。    
(三浦綾子「青い棘」)
人を愛するというのは、美しいかも知れない。あるいは愚かしいといってもいいかも知れませんね。美しさと、ある種の愚かさは、往々一致しますからね。でも、好きとか嫌いとかいう感情生活だけが、青春だと錯覚しないでくださいよ。むしろ、意志するところに青春があるはずなんです。

(三浦綾子『帰りこぬ風』)
確かに世の中にはいい人がいます。親切な人がいます。しかしキリスト教では、どんなにいい人でも、その心の中に、創造主なる神を見上げなければ、それは罪人だというのです。それは例えば、お父さんが家にいる。だが、その子が朝夕何の挨拶もせず、語りかけても知らんふりをしていたとしたら、これは無礼者、親不孝者というものでしょう。同様に真の神がいられるのに、他の神々には手を合わせても、一度として真の神には手を合わせないとしたらどうですか。この罪をキリスト教では原罪というのです。罪の素というのです。

(三浦綾子『夕あり朝あり』)
わたしたちは与えられている時間も、才能も、財も、私物化してしまってはならない。真にそれらを生かすためには私だけのものにしてはならないのだ。


(三浦綾子『北国日記』)
人生というものはすべて、待つ間に熟して行くのだ・・・・・・

(三浦綾子『果て遠き丘』)
ふいに近くで女の泣き声がした。胃けいれんの女だった。
「ドウシマシタ?」
宣教師の声は落ちついていた。救命具のひもが切れたと女が泣いた。
「ソレハコマリマシタネ。ワタシノヲアゲマス」
宣教師は救命具をはずしながら、続けていった。
「アナタハ、ワタシヨリワカイ。ニッポンハワカイヒトガ、ツクリアゲルノデス」
啓造は思わず宣教師を見た。しかし啓造は救命具をゆずる気にはなれなかった。

(三浦綾子『氷点』上)
人間としての本当の生き方を求めるというかぎり、私にとってはやはり、なくてはならぬものは私にとって何かということを求め続けていかなければならないと思います。
 それは私にとって、結論は出さなくてもおわかりだと思いますけれども、この天地をつくりたもうたイエス・キリストの父なる神を信ずることです。

(三浦綾子『なくてならぬもの』)
文学というものが人間を描くものだとすれば、それが最も深く鋭くえぐられているのが聖書だと思います。それがよく「聖書そのものが最大の文学」といわれるゆえんなのではないでしょうか。

(三浦綾子『私にとって書くということ』)
何と人間は、人の心の奥底を知り得ないものなのか。

(三浦綾子『水なき雲』)
わたしはふいに、自分が路傍の小さな石ころのように思われた。いや、それはわたしだけではない。同時代に生きた多くの人の姿なのだ。石ころは踏まれ、蹴られて何の顧みられるところもない。如何に一心に生きているつもりでも、結局は路傍の石に過ぎない。わたしは、自分が蹴られて、溝の中に落ちた小さな石だと思った。

石ころのわたしの青春は、何と愚かで軽薄で、しかし一途であったことだろう。わたしは、今も石ころであることに変わりはない。が、幸いわたしは、聖書を知った。そして聖書の中の次の言葉を知った。

「このともがら黙さば石叫ぶべし」(ルカ伝 十九章四十節)

弟子の口を封じようとした人々に、キリストの答えた言葉である。

故に、わたしはこの書を記した。叫ぶほどではなくても、どんなつまらない石ころもまた、歌うものであることを人々に知ってほしいが故に。そして、すべての石ころをおしつぶすブルドーザーのような権力の非情さを知って欲しいが故に。

(三浦綾子『石ころのうた』)
確かに前川正の青春は真実にあふれた、清らかな青春であった。青春というものは、いわば人生の岐路である。青春時代を以下に生きるかがその一生を左右すると言っても過言ではない。 多くの方々が、本書によって青春について考えてくださりさらに人生について考えてくださるなら、望外の幸いである。                                    

(三浦綾子『生命に刻まれし愛のかたみ』新潮文庫からの出版にあたって)
しかしね、ぼくたち子供はいろんなことを感じて生きてきた。いろいろな思いちがいもあった。だから大人に聞いてほしいんだ。ぼくはね、やさしさというのは、真ちゃんのように、敵意のない人間のことだと思っているんだ。真ちゃんが、人に敵意を抱いているのを、ぼくは見たことがない。

(三浦綾子「水なき雲」)
夜には何重にも錠をおろし、じゅうぶんに戸締りはしていた。この時も、二人そろって家にいながら、まひるだというのに、玄関の戸を割られ、下でごとごとしているのに、何分も気づかない。まことに三浦のいうとおりで、「主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい」である。

(三浦綾子『生きること思うこと』)
「天国(ハライソ)に人が入るためには、狭い門から入らねばならぬと伺いました。狭い門から入るためには、全ての持ち物を捨てねばなりませぬ。身分という持ち物も、財産という持ち物も、傲慢という持ち物も、美形や学問という持ち物など、持っては入れぬ狭い門をくぐらねば、天国(ハライソ)には入れぬと承りました。それらの荷は、天国(ハライソ)では何の役にも立ちませぬ。いいえ、そればかりか、かえって邪魔になる荷物だそうでござります」

(三浦綾子『千利休とその妻たち(下)』)
私たちは何を持っていてもいい。が、与えられた知恵、与えられた体力、与えられた才能に、今一つを加えねばならぬのだ。
それはやはり神を神とすることだと思う。


(三浦綾子『聖書に見る人間の罪』)
信仰というものは、外からの迫害によって崩れるよりも、自分の心のゆるみによって崩れることのほうが多い。

(三浦綾子「新約聖書入門」)
「わが魂よ、お前には長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ、安心せよ。食え、飲め、楽しめ」と言った金持ちが、神に、「愚かな者よ、あなたの魂は、今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意したものは、だれのものになるのか」と言われた。


(三浦綾子『生きること思うこと』)
何と人間の心の底には、悲しい思いが秘められているものなのでしょう。

(三浦綾子「どす黝き流れの中より」)
祈りは神に捧げられるもの、清められた言葉でなければなりません。神への願いであり、神への問いかけであり、その問いかけに対する答を聴き取ろうとすることでもありますな。

(三浦綾子『夕あり朝あり』)
 結婚したのは私が三十七歳、彼が三十五歳の時であった。その結婚に、私自身、大きな感謝と感動を持ったが、そんな中で次のような歌が生まれた。

 君とゐてなおも淋しきこの夕べ聖句幾つか胸に浮かび来

 この淋しさは、決して彼との間の感情の行ちがいから生まれたというものではない。人間、何処から来て、何処に行くのか、という存在にかかわるところから発する淋しさである。しかし私には聖書があった。そして共に祈る夫がいた。祈る対象があった。イエス・キリストの神である。朝に夕に、私たちの家庭では夫婦が共に祈る。食事の度に祈り、また来客と共に祈る。

 こうした祈りの中で、私は独身時代に覚えた孤独ほどには、深い孤独に陥らずに生きてきた。それはやはい、神の愛が私たち夫婦を一つにしてくれたからであろう。

(三浦綾子『それでも明日は来る』)
「殺されったって死なない、か」
男のような言い方でなぎさは言い、
「そりゃあそうよ、お父さん。人間を完全に殺すっての、むずかしいわよね。キリストさまだったかしら、肉体を殺し得ても魂を殺し得ぬ者を恐れるなって言った人。この言葉、何かで読んだことあるけど、わたし意外と好きよ。刃物や銃で、肉体の命は奪えても、人間、魂までは奪えないんだなあ。」

・・・中略・・・

聞きながら夕起子は、肉体の命は奪わずとも、人間の魂を滅ぼし得るという何かがあることを感じた。                         

(三浦綾子『青い棘』)
今一度、結婚とは何かと言うことを、真剣に考えて頂きたいと思うのです。真剣という、このわたしの言葉を、本気で受けとってください。        

(三浦綾子 『小さな郵便車』より)
 『みんなが同じ命を持って、生きているのだ。病人であろうと、貧しかろうと、能力がなかろうと、子供であろうと、それぞれが、各自の人生では主人公なのだ。

 決して政治家や、金持や、知識人だけが、この世の主人公なのではない。

 皆、幸せに自分の人生を生きたいというねがいを持って生きている主人公たちなのだ。
 
 一人の人も軽んじてはいけない。』


( 『太陽はいつも雲の上に』)
(黒柳)朝さんの本に、「すばらしいものはみんなタダ。愛情、太陽、空気、水、勇気、信じること、情熱、好奇心・・・・・・」とあったのを思い出す。すばらしいものが、すばらしいものとわかること、これは実に私たち人間にとって稀有のことなのだ。何が大切なのか、何がすばらしいのか、それを知らずに生きているのが私たちだ。

(三浦綾子『生かされてある日々』)
誰の目にも触れぬ 深山の中に
美しい花の咲いているのを
見ることがあります
おそらく その花に目を(と)める人は
何年に一度あることでしょう
でもその花は 懸命に
命の限り 美しく咲いているのです
人は見ずとも
神は見ていられることを
花はきっと知っているのでしょう 
そのような謙遜と信頼を
どうぞ私たちにも教えて下さい
         
(『祈りの風景』)
(こんなにまで、父母に迷惑をかけて、生きていってよいものだろうか)
わたしは心弱くもそう思った。だがそのわたしを、叱りつけるようにして励ましてくれたのは、前川正だった。

「綾ちゃん、生きるということは、ぼくたち人間の権利ではなくて、義務なのですよ。義務というのは、読んで字のとおり、ただしいつとめなのですよ。」
この言葉は、わたしをふるい起こした。
(そうか。生きるということは、義務だったのか。義務ならば、どんな苦しいことがあっても、まず生きなければならない)

こんなにまで経済的な負担をかけながら、生きるということは、何かずうずうしいことのように、わたしは思っていた。それが、人間としての義務だと言われると、何かしんとした謙遜な心持ちにさえなった。

(三浦綾子『道ありき』)
「おばちゃんも、たいていの人が好き。だけど、それはおばちゃんに親切にしてくれるからよね。人間って、あまり利口じゃないんだよ。その親切な人が、ちょっといやなことをすると、すぐきらいになるのさ」
(三浦綾子『氷点(上)』)
「いかに生きるか」は、 「いかに死ぬか」ということであり、それは車の両輪だ。

(三浦綾子『北国日記』)
「同じだよ、竜太。自分がこんなに弱い人間であったかと何度自分に愛想が尽きたことか。しかしね竜太、自分にとって最も大事なこの自分を自分が投げ出したら、いったい誰が拾ってくれるんだ。自分を人間らしくあらしめるのは、この自分でしかないんだよ。」


(三浦綾子『銃口(下)』)
「おもしろいものだね。あくせくして集めた金や財産は、誰の心にも残らない。しかしかくれた施し、真実な忠告、あたたかい励ましの言葉などは、いつまでも残るのだね。」

(三浦綾子『続・氷点(上)』)
『「生きるって、大変ね。明日の日に、何が起きるか、わからないんですもの。
 受けて立つより仕方のないのが、人生のような気がするのよ、孝介さん。

 「受けて立つか、大変なことですよ、それは」

 「そうね、起きてくること、ひとつひとつに正しい判断を下したり、耐えたり…力の要ることねえ、生きるって」』
                                    
( 三浦綾子 『天北原野(上)』)
「北森上等兵、おれはね、恥ということは、捕虜になることなどではないと思う。人間として自分に不誠実なこと、人に不誠実なこと、自分を裏切ること、人を裏切ること、強欲であること、特に自分を何か偉い者のように思うこと、まあそんなことぐらいかな。」

(三浦綾子『銃口(下)』)
「雲の上には、いつも太陽が輝いているのです」そうだとわたしは思った。
二人の一生には、いかなる悪天候があるか予測できない。
しかしどんな悪天候の日であっても、その黒雲の上には必ず太陽が輝いているのだ。
雲はやがて去るだろう。だが太陽は去ることはない。
わたしたちは、わたしたちの太陽であるところの、神を決して見失ってはならないと、深く肝に銘じた。

(三浦綾子「道ありき」より)
「これが時代というものだよ」
誰かがそう言いました。それでは時代とはいったい何なのか。今まで正しいとされて来たことが間違ったことになるのが時代だと言うのか。いつの時代でも悪いことを「時代」や「社会」のせいにしてしまってことたれりとする風潮があるが、本当にそれでいいのか。


(三浦綾子『さまざまな愛のかたち』)
「謙遜ほど人間を美しくするものはない。その反対に、いくら見目形がととのっていようと、お前のように思い上がったものほど、みにくいものはない。」


(三浦綾子『細川ガラシャ夫人』)
十三年という長い月日を病むことは、たしかにひとつの不幸であろう。しかし、それさえもわたしの成長に役立っていることを思うと、学問や、趣味のみならず、わたしたちの日常のできごとのすべてが、神の与え給う豊かな糧のような気がする。むろん、それは、成長しようと、ねがう者にとってである。

(三浦綾子『あさっての風』)
「自分の非を素直に認めたり、まぬけさを客観的に笑えたら、これは立派だよ。
人間、立派ということは、こういうことじゃないかな。
ここには劣等感も傲慢もない。
あるがままの自分を見つめる澄んだ心だけがある。
寛(ひろ)い心と言ってもいいね」  

〈三浦綾子「死の彼方までも」〉

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