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超宗派・仏教コミュの龍樹版スートラ・サムッチャヤ(抜粋)

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龍樹版スートラ・サムッチャヤ



はじめに


 ナーガールジュナ(龍樹)の著作である可能性がある作品の中で、「十住毘婆沙論」は、いまだに謎の多い作品である。現在、漢訳のみが存在し、サンスクリット原典や、チベット語訳は見つかっていない。
 この作品は詩と散文で成り立っているが、最新の研究では、少なくとも詩の部分に関してはナーガールジュナの作であろうという意見が主流のようである。

 またこれは、長年、「十地経」の解説書であるという説が一般的であったが、最近の研究では、そうではなく、大乗菩薩道について、ナーガールジュナが様々な経典を引用しつつまとめたものではないか、という説も出ている。

 ところで、チャンドラキールティはその著作の中で、ナーガールジュナの作品一覧を載せているが、その中で「スートラ・サムッチャヤ(経集)」という作品が出ている。そしてこの「スートラ・サムッチャヤ」がこの「十住毘婆沙論」なのではないかという説も、一部にある。

 ところで、シャーンティデーヴァの「入菩提行論」の中に、次のような一節がある。

「またシクシャー・サムッチャヤは、必ず繰り返し見るべきである。何故なら、正しい行法がそこに詳しく示されているから。
 あるいは簡単に、まずスートラ・サムッチャヤを見よ。そして聖ナーガールジュナの作を、第二に努力して読め。」

 この一文は意味が取りにくく、謎とされてきた。しかし「スートラ・サムッチャヤ」という作品に、シャーンティデーヴァ作のものとナーガールジュナ作のものがあったと考えるとつじつまが合う。

 つまり、まとめるならば――これは今のところ、おそらく私だけの説であるが――シャーンティデーヴァが「入菩提行論」で読むことを進めている「スートラ・サムッチャヤ」には、シャーンティデーヴァ作のものとナーガールジュナ作のものの二つがあり、そのナーガールジュナ作のスートラ・サムッチャヤこそ、この「十住毘婆沙論」なのではないかと、私は推察している。

 シャーンティデーヴァの作とされるほうのスートラ・サムッチャヤは、すでに「菩薩道の真髄」という本に抄訳を収めているので、今回新たに、この一般にはあまり知られていない「十住毘婆沙論」の詩の部分を、「龍樹版スートラ・サムッチャヤ」として、わかりやすい日本語としてまとめてみたいと考えた。

 ただし私は学者ではないので、学術的な正確さよりも、わかりやすさや、真の意味の伝わりやすさに重点を置き、まとめていくつもりである。その基準において、通説よりも、私自身の修行経験を基準とすることもあるので、ご了承頂きたい。
 また、わかりにくい部分や、今回必要ないと思われる部分は独断でカットしたり、言葉を付け加えたりするつもりなので、学術的に正確に訳された「十住毘婆沙論」を読みたい方は、新国訳大蔵経などを参照して頂きたい。



※ここには一部のみ掲載する予定ですので、全部読みたい方は、日記の方をお読みください。

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龍樹版スートラ・サムッチャヤ


一.序


 すべての仏陀方と
 無上の大道と
 および堅固な心で十地に住する諸々の菩薩方と
 「私」「私のもの」という思いなき、声聞・独覚とに
 礼拝し奉ります。
 今、仏陀の所説に随順し、十地の意味を説こう。

 世間は哀れむべきである。
 常にみな、自利において一心に富楽を求め、
 誤った見解の網に堕し、
 常に死の恐れを抱いて、
 六道の中に流転する。
 大悲ある諸々の菩薩方でも、彼らをよく救うことは希である。

 衆生に死がやってくるとき、
 彼をよく救済する者はなく、
 深い暗闇に没入して、
 煩悩の網に縛せられる。

 もしよく大悲の心を発願する者があれば、
 彼は、衆生の重荷を背負うという、重い責任を負う。
 もし人が、決定心をもって、一人諸々の苦しみを受け、精進に励み、
 それによって得られる安穏の果報を、すべての衆生と共に受けるならば、
 彼は諸々の仏陀方に称賛せられる、第一の最上の人である。
 また彼は希有な者であり、大いなる功徳の蔵である。
 
 諸々の功徳ある人は、種々の原因と条件をもって、
 衆生に利益を与えるは大海のごとく、また大地のごとし。
 世間を求めることなく、ただ衆生への慈悲によって世間に住する人
 彼の生は最も貴いものとなる。

 私は、自らをよく見せるために、文章を荘厳することはない。
 また、現世的なメリットを貪りたいがために、この論書を作るのでもない。
 私はただ慈悲によって、衆生に利益を与えたいがために、この論書を作るのである。
 それ以外の理由で、この論書を作るのではない。

 ただ仏陀の経典を読むだけで、究極の意味に通達する者もいる。
 善き解釈を読んで、実際の意味を理解する者もいる。
 人には、荘厳された美しい文章を好む者もいる。
 詩を好む者もいれば、
 たとえ話や、物事の因縁の話を好み、それによって理解を得る者もいる。
 このように人は様々なので、私は誰のことをも捨てることはない。

 もし大いなる叡智のある人がいて、仏陀の経典を聞くならば、
 さらなる解釈を聞かなくとも、十地の意味を理解するだろう。
 しかし経典だけでは理解を得がたい人でも、
 詳しい解説書を作るならば、彼には大きな利益があるだろう。

 このように考えて、私は深く善の心を起こして、この論書を作る。
 そしてこの法の灯火を燃やすことで、仏陀への無比なる供養をする。

 法を説いて法の灯火を燃やし、
 法の旗をたなびかせる。
 この旗はこれ賢聖の
 素晴らしきダルマの印相なり。
 
 私は今、この論書を作ることで、
 真理と放棄と滅と智慧との
 この四つの功徳を、自然に修め集めるだろう。

 私はこの論を説き、その心は清浄を得る。
 深くその清浄なる心を貪るがゆえに、私は精進して飽きることがない。
 もし人がこの教えを聞いて、心清浄になるならば
 まさにそれは私の願うところであるがゆえに、私は一心にこの論書を作るのだ。

二.初地に入ること


 十地の法は、過去・現在・未来の諸々の仏陀方が、
 諸々の仏陀の御子(菩薩)たちのために、
 お説きになったものである。
 初地は歓喜と名付けられ、
 第二は離垢地
 第三は明地
 第四は焔慧地
 第五は難勝地
 第六は現前地
 第七は遠行地
 第八は不動地
 第九は善慧地
 第十は法雲地と名付けられる。
 
 善根を植え、
 善く諸々の行を行じ、
 善く諸々の資糧を集め、
 善く諸々の仏陀を供養し、
 素晴らしき師や友に守られ、
 深心を具足し、
 哀れみの心を持って衆生を念じ、
 無上のダルマを信じ理解する。

 この八つの法を具足し終わって、まさに自ら発願して言うべし。
 「私は自らが解脱して、まさに衆生を救済しよう」と。

 十の力を得るために、不退転の境地に入れば、
 すなわち如来の家に生じ、諸々の過ちはあることがない。
 世間の道を転じて、世間からの解放というよりよい道に入る。
 これをもって初地を得る。
 この道を歓喜と名付ける。

 もし人が自ら恐怖から解脱していれば、帰依する者を救済することができる。
 もし自らがいまだ疑念や後悔から解脱していなければ、帰依する者をどうして救済することができようか。
 もし人が自ら善でなければ、他者を善ならしめることはできない。
 もし自らがニルヴァーナを悟っていなければ、どうして他者にニルヴァーナを悟らせることができようか。
 もし人が自ら善きところに至り、安らぐことができれば、
 他者をもそこへ導き、安らがせることができる。
 このように、まず自己の達成があって、他者をも利することができる。
 もし自己の達成をおろそかにして他者を利そうとするならば、
 どちらの利も達成されず、憂い、後悔するだろう。

 智慧のパーラミターは母なり
 善き巧みな方便は父なり
 この二つにより仏陀が生まれ、養育されるがゆえに。

 菩薩の善法を父とし
 智慧をもって母となす
 一切の諸々の如来は、みなこの二つより生ず。
 
 十方諸仏が現前するサマーディは父なり
 大悲と無生は母なり
 一切の諸々の如来は、この二法より生ず。

 菩薩が初地を得るならば、
 心は寂静にして、常に歓喜に包まれる。
 そして如来の種子は、自然に成長していく。
 このような菩薩は、賢善者と名付けられる。

三.初地の相


 初地のステージの菩薩は、
 不屈の心で努力する。
 争いごとを好まず、
 その心は喜びとエクスタシーで満ちている。
 常に清浄であることを決意し、
 衆生の苦しみを哀れむ。
 嫌悪や怨みの心はなく、他者を害することもなく、
 また、浄信、勇躍、勇猛さを有している。

 彼は常に仏陀を念じ、
 常に仏陀の偉大なるダルマを念じ、
 常に衆生のために仏陀になることを念じ、
 常に希有なる菩薩行を念じている。
 ゆえに彼は、歓喜に満ちているのである。

 菩薩は初地を得て、その心に歓喜多し。
 諸々の仏陀の無量の徳を、われもまた、必ず得よう、と。

 生活していけるかどうかという恐怖、死への恐怖、悪趣の恐怖、
 多くの人々の中にいるときの不安感、地位や名誉を得られなかったり失ったりすることへの恐怖、
 縛られたり幽閉されることへの恐怖、略奪されたり殺されたりすることへの恐怖、
 菩薩には、これらの恐怖はない。
 「私」も「私のもの」もどこにもないのだから、
 何故にこれらの諸々の恐怖があるだろうか。

 もし貧しい者があれば、彼はただ衣食を望む。
 もし彼が衣食を得たならば、美しい異性を望む。
 もし彼が美しい異性を得たならば、地位と名誉を望む。
 もし彼が地位と名誉を得たならば、王となることを望む。
 もし彼が王となったならば、天の王となることを望む。
 このように、世間の人々の貪欲は、永遠に満たすことはできない。

 菩薩は多くの功徳を積むがゆえに、愛する客人を待つように死を待つ。
 命を捨てるときに恐れなく、歓喜の園に旅立つがごとくにこの世を去る。

 死者を離れて死はなく、死を離れて死者はない。
 死によって死者はあり、死者によって死はある。
 死が成就して死者を成就する。
 死がまだ成就していないとき、そこに死者はない。
 死者がまだ成就していないとき、そこに死はない。
 死がないとき、死者はどこにもない。
 死を離れて死者があるならば、死者はまさに独立して存在するが、
 実際は、死を離れて死者があることはない。
 しかし凡夫は、これは死であり、これは死者であると、意味のない分別をする。
 死は真実には来ることも去ることもないが
 凡夫はそれを知らぬがゆえに、死の恐怖を免れ得ない。
 これらを知って、諸々の現象の実相を観ずれば
 ついには死への恐怖はやむ。

 私はたとえ地獄に堕ちようとも、布施をし続ける。
 私がそのために地獄に堕ちようとも、私は衆生を救済する。
 ゆえに私には、悪趣の恐怖もない。

 「私」という意識は「私のもの」という意識をよりどころとし、
 「私のもの」という意識は「私」という意識をよりどころとする。
 ゆえに、「私」も「私のもの」も、ともに空なり。
 もし主体がなければ、主体の所有物もまたない。
 もし主体の所有物がなければ、主体もまたあるとはいえない。
 「私」という意識は我見であり、「私のもの」という意識は我所見である。
 真実に見るならば「私(我)」はなく、我がなければ無我もない。 
 感覚をよりどころとして感覚を認識する者があり、
 感覚がなければ感覚を認識する者もない。
 しかし感覚を認識する者なくして感覚はないので、
 どうしてこれらが生起するだろうか。
 もし感覚を認識する者が感覚を発生させるのだというならば、
 感覚はもともと発生していないことになるので、
 感覚を認識する者は発生することができない。
 このように、感覚を認識する者は空であるがゆえに、
 これを「私」ということはできない。
 ゆえに、「私がある」「私はない」「私はあり、かつ、ない」「私はあることもなく、ないこともない」――この四つの分別は、みな、誤った論である。
 「私のものがある」「私のものはない」「私のものはあり、かつ、ない」「私のものはあることもなく、ないこともない」――この四つの分別もまた、同様に誤った論なのである。
 

 

四.初地の浄化


 信の力は増大し、深く大悲の心を行じ、
 衆生を慈しみ、哀れみ、
 善を修めて飽きることなし。
 諸々の素晴らしきダルマを喜び楽しみ、
 常に素晴らしき師や法友に近づき、
 慚愧し、恭敬して、
 その心を柔軟にする。 
 すべての現象を正しく観ることを決意し、愛著することなく、
 一心に多くの教えを学び、
 利得と供養を貪らず、
 詐欺・不誠実・よこしまな生活を離れる。
 仏陀の家系をけがさず、
 戒を破らず、仏陀を欺かず、
 全智を得ることを深く決意し、
 不動なること山のごとし。
 常に菩薩行を修習することを決意し、
 世間からの解放の法を求め、世間の法を求めない。
 修めがたき歓喜地をよく修めるために、
 常に一心に、諸々のダルマを修行する。
 菩薩がこのように、優れた素晴らしいダルマをよく成就すれば、
 初地に安住することができる。

五.初地の菩薩の大願


 願わくば、一切の仏陀に供養し、奉仕し、恭敬できますように。

 願わくば、衆生が一切の仏陀のダルマを保ちますように。
 
 諸々の仏陀はトゥシタ天から降臨し、
 衆生を教化し終わって、完全なニルヴァーナに入る。
 その中間において、母から生まれ、出家し、菩提樹の下で瞑想し、
 魔を下して仏陀となり、素晴らしい法輪を転ずる。
 願わくば私は、まさに心を尽くして、
 諸々の如来を奉り、お迎えし、供養しよう。

 願わくば、衆生を教化し、ダルマの道に入らしめよう。
 
 願わくば、一切の衆生を、仏陀の境地に導こう。

 願わくば、衆生に一切のダルマを信じ理解させて、平等の境地に入らしめよう。

 願わくば、仏国土を清めるために、諸々の悪を滅尽しよう。

 願わくば、私は衆生とともに菩薩の道を行じ、他者と競ったり恨んだりすることなきように

しよう。

 願わくば、菩薩道を行じ、不退転の輪を回し、
 諸々の煩悩を取り除き、清浄なる信を獲得しよう。

 願わくば、一切の衆生がみな、完全なる覚醒を得ますように。

 諸々の菩薩は、まずこのような十の大願を起こす。
 この大願の力は空のように広大に、未来際に行き渡るのである。

 菩薩はこのように十の大願を起こし、十の究竟を得る。

 衆生の本質の究竟と、
 世界の本質の究竟と、
 虚空の本質の究竟と、
 現象の本質の究竟と、
 ニルヴァーナの究竟と、
 仏陀の生の本質の究竟と、
 仏陀の叡智の本質の究竟と、 
 一切の心の対象の究竟と
 仏陀の行いの叡智の究竟と、
 世界と現象と叡智の展開の究竟、
 これが十の究竟である。

 衆生の世界が終わるとき、我が大願もまた終わる。
 もし衆生の世界が終わりなきものであるならば、我が菩薩行も終わることなし。

六.発菩提心


 初めて菩提心を起こすには、いくつかの原因と条件がある。

 一.諸々の如来の祝福によって、菩提心を起こす。
 二.ダルマが壊れようとしているのを見て、ダルマを守るために菩提心を起こす。
 三.衆生の苦しみを見て、大悲によって菩提心を起こす。
 四.菩提心のすばらしさを菩薩に教えられ、菩提心を起こす。
 五.菩薩の行を見て、菩提心を起こす。
 六.布施功徳を積むことによって、菩提心を起こす。
 七.仏陀の身体の相を見て、歓喜して菩提心を起こす。

七.心の調伏


 菩薩はまさに菩提心の法を、決して失ってはならない。
 まさに一心に修行して、覚醒の法を失わないようにせよ。

 一.ダルマを敬わないこと、
 二.傲慢であること、
 三.不誠実であること、
 四.師を敬わないこと、
 これらによって、菩提心は失われる。

 さらに、優れた法を広めるのを惜しむこと、
 小乗に愛著すること、
 諸々の菩薩をそしること、
 瞑想に励む者をさげすむこと、
 師に対して怨み、敵意、嫌悪を抱くこと、
 心が曲がっていてこびへつらうこと、
 諸々の利得と供養等を貪ること、
 諸々の魔事を悟らないこと、
 菩提心が劣弱であること、
 これらもまた、菩提心を失う因である。

 師に布施をせず、たぶらかすこと、この罪ははなはだ重い。
 他人の中に、大乗への疑念や後悔を起こさせること、
 大乗を信じ決意する者を嫌悪し、非難し、ののしり、広く悪評を立ること、
 人々の中で、心を偽り、こびへつらい、不誠実で、心を曲げ、邪悪であること、
 これらの「黒い法」をおこなうならば、直ちに菩提心は失われる。

 以上のような悪法に陥ることなく、ひたすら善行を修めるべし。
 そのようにするならば、無上の菩提心を失うことはない。

 たとえ命を失おうとも、転輪王の位を失おうとも、
 誠実さを捨てず、心を偽らず、こびへつらわず、心を曲げず、邪悪になるべからず。
 一切の衆生に、菩薩たちへの恭敬の心を生じさせるべし。
 もし人がこのような善法をおこなうならば、
 無上の覚醒の誓願は、成就へと向かう。

八.不退転


 衆生に対して平等心を起こし、
 他者が利得や供養を得ているのを妬まず、
 たとえ命を失おうとも、師を批判せず、
 深遠で素晴らしいダルマを信じ決意し、
 他人から敬われることに愛著しない。
 この五つの法を具足する者は、不退転の菩薩である。

 もし善の志がなく、
 下劣の法を好み、
 名声や利得や供養を得ることに強く愛著し、
 心は不正直で、
 他者に嫉妬し、
 空の法を信じず、
 ただ諸々の言葉を尊ぶだけで、実践しない。
 これらは、不調御の者、破滅者の相である。

 菩薩は、「私」というものに愛著せず、
 また衆生に愛著せず、
 分別して説法せず、
 また覚醒に愛著せず、
 仏陀を相をもって見ることがない。
 この五つの功徳をもって、
 偉大なる菩薩の不退転を成就するという。

 もし五蘊が「私」だというならば、「私」には生起と滅尽があるということになる。
 しかし五蘊を離れて、「私」というものは見いだせない。
 感覚を離れて「感覚の認識者」が見いだせないように。
 もし「私が五蘊を持つ」というならば、「私」は五蘊を離れても成立することになる。
 もし「五蘊の中に私がある」というならば、それもまた、「私」は五蘊を離れても成立することになる。
 もし「私の中に五蘊がある」というならば、それもまた、「私」は五蘊を離れても成立することになる。
 可燃は燃焼にあらず、可燃を離れて燃焼はない。
 しかし燃焼に可燃はなく、燃焼は可燃の中にはないように、
 「私」は五蘊にあらず、五蘊を離れて「私」はない。
 五蘊の中に「私」はなく、「私」の中に五蘊はない。
 同様に、たとえば煩悩と煩悩者なども、みなまさにこのように知るべし。
 もし「私」に定まった本質があり、それぞれの事物は個別の相を持つと説くならば、
 まさに知るべし、そのような人は、仏陀のダルマの味を得ず、と。

 物事の本性は、有ではない。
 また、無でもない。
 有でありかつ無であるというのでもない。
 有でも無でもないというのでもない。
 ここに言葉はあることがなく、また、言葉を離れてもいない。
 このように、真実の意味とは、言葉で説くことはできない。
 言う者は言葉を言えても、これみな寂滅の相なり。
 もし本性が寂滅ならば、それは有ではない。また無でもない。
 ゆえに、何を説こうと欲するのか。何をもって説くというのか。
 しかし智慧ある者のために、法を説く。
 もし諸々の法の本性が空ならば、諸々の法にはすなわち自性がない。
 では、何をもって、法の本性が空であるというのか。
 この法は言葉で説くことはできない。
 しかし言葉なくして説くこともできないので、仮の言葉によって空を説く。
 真実の意味はまた、空でなく、また空でないのでもない。
 空でありかつ空でないのでもなく、空でなくかつ空でなくないのでもない。
 空虚でなく、また実体でもなく、 
 言葉でなく、言葉でないのでもない。
 所有なく、また所有がないのでもない。
 これことごとく諸々の所有の分別を捨離するとなす。
 原因および原因から生じるこのような一切の法は、
 みなこれ寂滅の相にして、取ることなく、また捨てることもなし。
 灰と衣には不浄はないのに、灰はまた衣を汚す。
 言葉がなければ真実を述べることはできないが、言葉には過ちがある。

 覚醒者(仏陀)は覚醒を得ず、覚醒者はまた覚醒を得ないのでもない。
 諸々の結果その他の法は、みなまたこのごとし。
 覚醒者があれば覚醒があり、覚醒者は覚醒を得て実体となす。
 覚醒者がなければ覚醒はなく、覚醒を得ないならばすなわち断滅す。
 覚醒者を離れて覚醒はなく、覚醒を離れて覚醒者はない。
 もし一つならば異は成立しない。
 異が成立しないのに、なぜ合一があるというのか。
 覚醒は覚醒者に異ならず、ゆえに覚醒と覚醒者に合一はない。
 覚醒者と覚醒が異なるならば、それらはともに成立しない。
 二を離れてさらに三はない。
 ゆえに覚醒者は寂滅なり。覚醒もまた寂滅なり。
 この二つが寂滅であるがゆえに、一切はみな寂滅なり。

 一切がもし無相ならば、一切はすなわち相がある。
 寂滅は無相なり。すなわちこれを相となす。
 もし無相の法を観ずれば、無相をすなわち相となす。
 もし無相を修めるというならば、すなわち無相を修めるにあらず。
 もし諸々の愛著を捨てれば、これを名付けて無相となす。
 この愛著を捨てる相を取れば、すなわち解脱はない。
 取ることがあるがゆえに、捨てることもまたある。
 誰が取り、何を取るのか。これを名付けて捨となす。
 取る者と、取ることと、取る対象とは、
 ともに離れてあることなく、これみな寂滅と名付ける。
 もしすべての現象の相が原因と条件によって成立するならば、これすなわち自性がないとなす。
 もし自性がないならば、これすなわち相はない。
 もし有と無とをもって、遮り、または聞くべきならば、
 心に愛著せずと言ったとしても、これすなわち過ちはない。
 先に現象があって、後に滅しないものが、どこにあろうか。
 先に燃えることがあって、後に滅するものが、どこにがあろうか。
 これ有相寂滅は、無相寂滅に同じ。
 ゆえに、寂滅の言葉と、寂滅の言葉を言う者とは、
 寂滅でもなく、寂滅でないのでもない。
 また寂滅かつ不寂滅でもなく、寂滅でも不寂滅でもないのでもない。

 般若経には広く、この不退転の相が説かれている。 

九.易行


 もし声聞および独覚のステージに堕落するならば
 これを菩薩の死と名付け、すなわち一切の利益を失う。
 これは、地獄に堕ちるよりも恐ろしいことである。
 菩薩のステージから、声聞・独覚のステージに墜ちるのは、大いなる恐怖である。
 仮に一時的に地獄に堕ちたとしても、菩薩道を捨てなければ、最後には仏陀になることができるが、
 もし菩薩道を捨てて声聞・独覚のステージに墜ちたならば、仏陀への道は閉ざされる。
 生命に執着する者が、首を切られることを大いに恐れるように、
 菩薩も、声聞・独覚のステージに墜ちることを、大いに恐れるべし。

 菩薩がまだ不退転のステージに至っていないならば、
 まさに、頭に着いた火を消そうとする者のように、常に努力して精進すべし。
 菩薩は、衆生救済という荷を背負うのであるから、
 常に努力して精進し、懈怠の心を生ぜざるべし。
 声聞乗・独覚乗を求める者たちは、ただ自己の利益を求めているのであるが、
 彼らも常に努力して精進している。
 いわんや、自他の両者を救おうとしている菩薩は、
 声聞乗・独覚乗の者たちの、まさに何億倍も、精進すべきなのである。

 東の善徳如来
 南の栴檀徳如来
 西の無量明如来
 北の相徳如来
 東南の無憂如来
 西南の宝施如来
 西北の華徳如来
 東北の三乗行如来
 下方の明徳如来
 上方の広衆徳如来
 これらの諸々の世尊が、今現に十方にまします。
 もし人が速やかに、不退転のステージに至りたいならば、
 まさに恭敬の心をもって、心を集中して、これらの御名を唱えるべし。

 もし人がこの諸々の如来の御名が唱えられているのを聞くだけでも
 すなわち無量の徳を得る。
 私はこの諸々の如来を礼拝し奉る。
 今、現に十方にまします、その御名を唱えるならば
 すなわち不退転を得る。
 
 東方は無憂界
 その如来を善徳という。
 その容姿は黄金の山のごとく
 その名声は限りない。
 もし人が、その名を聞けば、すなわち不退転を得る。
 私は今、合掌し礼拝し奉る。
 願わくば、憂いや悩みをことごとく除きたまえ。
 
 南方は歓喜界
 その如来を栴檀徳という。
 そのお顔は満月のように清く、無量の光明を発し、
 諸々の衆生の三毒の熱悩を滅す。
 その名を聞けば不退転を得る、このお方に礼拝し奉る。

 西方は善世界
 その如来を無量明という。
 身体の光と智慧は明らかにして、無限の世界を照らす。
 その名を聞けば、すなわち不退転を得る。
 私は今、礼拝し奉る。
 願わくば、生死輪廻を滅尽したまえ。

 北方は不動界
 その如来を相徳という。
 魔を打ち破り、諸々の人や神をよく教化する。
 その名を聞けば不退転を得る、このお方に礼拝し奉る。

 東南は月明界
 その如来を無憂という。
 その身から発する光明は太陽や月よりも明るく
 彼に会う者は煩悩が滅する。
 常に衆生のために法を説き、諸々の内外の苦しみを取り除く。
 十方のブッダが称賛したまうこのお方に、礼拝し奉る。

 西南は衆相界
 その如来を宝施という。
 常に諸々の法の宝をもって、広く一切に施す。
 諸々の神々は、彼の足下に礼拝する。
 私は今、五体をもって、宝施世尊に帰依し奉る。

 西北は衆音界
 その如来を華徳という。
 この世界には衆宝という樹があり、素晴らしきダルマの音を奏でる。
 常に七覚支の華をもって衆生を荘厳し、
 その白毫は月のごとし。
 私は今、このお方に礼拝し奉る。

 東北は安穏界 
 諸々の宝が集まるところなり。
 その如来を三乗行という。
 無量の相にて身を飾りたもう。
 智慧の光は無量にして、よく無明の闇を破り、
 衆生の憂いと悩みを取り除く。
 このお方に礼拝し奉る。

 上方は衆月界 
 諸々の宝によって荘厳されるところなり。
 多くの声聞と菩薩たちで満ちている。
 諸々の聖者の中の獅子を、広衆徳如来という。
 諸々の魔が恐怖するお方に、礼拝し奉る。

 下方は広世界
 その如来を明徳という。
 その身の相は素晴らしく、最高の黄金をも超越する。
 常に智慧の眼をもって、諸々の善根の華を開きたもう。
 その宝の世界ははなはだ広大である。
 私はこのお方に礼拝し奉る。

 遙かなる過去のカルパにおいて、
 海徳という如来がまします。
 現にまします諸々の仏陀は、皆、彼にしたがって発願せり。
 その寿命は無限であり、光明にきわまりなし。
 その仏国土ははなはだ清浄なり。
 その名を聞いた者は仏陀となり、今、十方に現にましまして、十の力を成就する。
 世界において最も尊いお方に、礼拝し奉る。
 また、その他、アミターバ等の如来や、および諸々の偉大なる菩薩の名を唱え、一心に念じた場合もまた、不退転を得る。

 アミターバ如来は、無量光明の智慧があり、その身は純金の山のごとし。
 私は今、身口意において、合掌し、礼拝し奉る。

 黄金色の素晴らしい光明は、あまねく諸々の世界に放たれる。
 アミターバ如来に礼拝し奉る。

 もし人が命終わって、アミターバ如来の国に生ずることができれば、
 すなわち無量の徳をそなえる。
 アミターバ如来に礼拝し奉る。

 人がよくこの如来の、無量の力と功徳を念ずれば、
 仏陀への道は確定される。
 アミターバ如来に礼拝し奉る。

 もし人がアミターバ如来の国に生ずるならば、
 その後は、三悪趣と阿修羅界には生まれ変わることがない。
 私は今、アミターバ如来に帰依し、礼拝し奉る。

 もし人がアミターバ如来の国に生ずるならば、
 天眼通・天耳通をそなえ、
 十方においてあまねく障害はない。
 聖なるものの中で最も尊いアミターバ如来に礼拝し奉る。

 アミターバ如来の国の諸々の衆生は、
 神変および他心通、また宿命智をそなえる。
 アミターバ如来に礼拝し奉る。

 アミターバ如来の国に生ずれば、
 「私」はなく、「私のもの」もなく、
 そのような意識を生ずることはない。
 アミターバ如来に礼拝し奉る。
 
 アミターバ如来の国の諸々の衆生は、
 その性質はみな柔和にして
 自然に十善を行ずる。
 聖なるものの中の主に、礼拝し奉る。

 清らかな智慧の輝きは無量であり
 衆生の中の第一なり。
 私はアミターバ如来に帰依し奉る。

 もし人が仏陀になることを願って、心にアミターバ如来を念ずれば、
 時に応じて、彼のためにその身をあらわされる。
 私はアミターバ如来に帰依し奉る。

 アミターバ如来の誓願の力によって、
 十方の諸々の菩薩はやってきて、彼に供養し、法を聞く。
 私はアミターバ如来に礼拝し奉る。

 アミターバ如来の国の諸々の偉大なる菩薩は
 昼に三回、夜に三回、
 十方のブッダを供養する。
 アミターバ如来に礼拝し奉る。

 もし人が善根の種を植えても、
 疑念があれば、華は開かない。
 信心清浄なれば、華は開いて、すなわち仏陀を見奉る。

 十方の現にまします仏陀は、種々の原因と条件をもって、アミターバ如来の功徳を賛嘆する。
 私は今、アミターバ如来に帰依し礼拝し奉る。

 アミターバ如来の御足の千のスポークの車輪は
 柔軟にして、蓮華のようである。
 見る者はみな、歓喜する。
 アミターバ如来の御足に頭をつけて礼拝し奉る。

 眉間の白毫の光は、清浄なる月のごとく
 その身の光をさらに増大する。
 アミターバ如来の御足に頭をつけて礼拝し奉る。
 
 アミターバ如来がまだ菩薩のとき、
 諸々の素晴らしいことを行じてきたと、
 諸々の経典に説かれている。
 アミターバ如来の御足に頭をつけて礼拝し奉る。

 アミターバ如来の説かれる法は、諸々の罪の根を破壊し、
 その言葉は美しく、利益が大きい。
 私は今、アミターバ如来に礼拝し奉る。

 美しい言葉の説法をもって、
 輪廻の苦を楽と錯覚して執着する病を救いたもう。
 今までも多くの衆生を救済し、今もなお多くの衆生を救済する。
 アミターバ如来に礼拝し奉る。

 諸々の神々が、その御足に頭をつけて礼拝する
 アミターバ如来に、私は帰依し奉る。

 一切の賢者や聖者たちと、および諸々の神々や人々が
 ことごとくみな帰依する
 アミターバ如来に、私もまた礼拝し奉る。

 彼の八正道の船に乗りて、渡りがたき海を渡る。
 自ら渡り、また他の衆生を渡らせる。
 自在者を礼拝し奉る。

 諸々の仏陀が無量カルパに渡ってその功徳を称賛しても、
 なお称賛し尽くす事のできない、清浄なるお方に帰依し奉る。

 私もまた、アミターバ如来の無量の徳を称賛する。
 この功徳によって、願わくばアミターバ如来よ、常に私のことを念じたまえ。
 願わくば、私の心が常に清浄でありますように。
 そしてすべての衆生もまた、同様の果報を得ますように。


 ヴィパッシー世尊は、無憂樹の下にて
 全智を成就し、絶妙なる諸々の功徳あり
 正しく世界を観察し、その心は解脱を得ている。
 私は今、五体をもって、無上なるヴィパッシー世尊に帰依し奉る。

 シキー仏陀世尊は、プンダリカーの樹下に座して、覚醒を成就す。
 その身体のすばらしさは他に比べるものがない。
 私は今、無上なるシキー世尊に帰依し奉る。

 ヴィシュワブー世尊は、サラ樹の下に座して
 自然に一切の素晴らしい智慧に通達した。
 諸々の衆生の中の第一の者にして、他に比べる者なし。
 私は最勝なるヴィシュワブー世尊に帰依し奉る。

 カクサンダ大仏陀は、無上の最正覚を得て、
 シリシャ樹の下にて偉大なる智慧を成就し、
 生死輪廻を脱したもう。
 私は今、第一無比のカクサンダ世尊に帰依し奉る。

 カナカムニ大聖無上世尊は、ウドゥンバラ樹の下にて、成就して覚醒を得た、もう。
 一切法に通達すること、無量にして限界がない。
 私は第一の無上なるカナカムニ世尊に帰依し奉る。

 蓮華のような眼をしたカッサパ仏陀世尊は、
 ニグローダ苦の下にて、覚醒を成就したもう。
 三界に恐れるところなく、象王のように歩む。
 私は今、限界なきカッサパ世尊に、帰依し礼拝し奉る。

 釈迦牟尼仏陀は、アシュワッタ樹の下にて
 魔を降伏し、無上なる道を成就したもう。
 そのお顔は満月のごとく、清浄にしてけがれなし。
 私は今、勇猛第一の釈迦牟尼世尊に、礼拝し奉る。
 
 未来の如来マイトレーヤ仏陀は、ナーガ樹の下に座して
 広大なる心を成就し、自然に覚醒を得たもう。
 その功徳ははなはだ堅牢にして、誰よりも優れている。
 私は無比の素晴らしいダルマの王、マイトレーヤ世尊に帰依し奉る。

 
 アパラージタ世界の中に、徳勝という仏陀あり。
 私は今、徳勝仏陀とそのダルマとサンガとに、礼拝し奉る。

 随意喜世界に、普明という仏陀あり。
 私は今、普明仏陀とそのダルマとサンガとに、礼拝し奉る。

 サマンタバドラ世界の中に、勝敵という仏陀あり。
 私は今、勝敵仏陀とそのダルマとサンガとに、礼拝し奉る。

 善浄集世界に、王幢相という仏陀あり。
 私は今、王幢相仏陀とそのダルマとサンガとに、礼拝し奉る。

 離垢集世界に、無量功徳明という仏陀あり。
 十方に自在なる無量功徳明仏陀に、礼拝し奉る。

 アシャーティヤ世界の中に、無障害薬王という仏陀あり。
 私は今、無障害薬王仏陀とそのダルマとサンガとに、礼拝し奉る。

 金集世界の中に、宝遊行という仏陀あり。
 私は今、宝遊行仏陀とそのダルマとサンガとに、礼拝し奉る。

 美音界に、安立山王という仏陀あり。
 私は今、安立山王仏陀とそのダルマとサンガとに、礼拝し奉る。

 今、これらの諸々の如来は、東方界にまします。
 私は恭敬の心をもって、称賛し、帰依し、礼拝し奉る。
 ただ願わくば、諸々の如来よ、深き慈悲をもって、
 私の前にその身をあらわし、衆生にそのお姿を見せたまえ。


 過去の諸々の仏陀方は、魔の衆を降伏し、
 大いなる智慧の力をもって、広く衆生を利益する。
 諸々の衆生はみな、心尽くして供養をし、
 恭敬して称賛する。
 それら過去の諸々の仏陀方に礼拝し奉る。

 現在の十方の計り知れない仏陀方は、
 その数はガンガーの砂よりも多く、無量にして限界がない。
 諸々の衆生を慈しみ、哀れんで、
 常に素晴らしい法輪を転じたもう。
 それた現在の諸々の仏陀方に、恭敬し、帰依し、礼拝し奉る。

 未来の諸々の仏陀方は、黄金の山のような身体で、
 その光明は計り知れない。
 すべての衆生を救済する、このような未来の諸々の世尊に、
 私は今、礼拝し奉る。

十.カルマの浄化


 十方の無量の仏陀方は、すべてを知り尽くしている。
 私は今、彼らの前においてことごとく、
 諸々の悪業を懺悔する。
 
 もしその悪業によって三悪趣に墜ち、その果報を受けなければならぬというならば、
 願わくば今、今生のこの身において罪を償い、悪趣へ墜ちることがありませんように。

 十方において、今、仏陀となった方々に、
 法輪を転じて、諸々の衆生を安楽にせんことを、私は懇願する。
 
 十方の一切の仏陀が、もし今、肉体を捨てようと思っているならば、
 私はその御前にて礼拝し、
 永遠にこの世にとどまりたまえと祈願する。

 諸々の衆生の身口意より生ずる
 あらゆる布施の功徳、戒、瞑想の行、
 聖者および凡夫が、過去・現在・未来において集積する一切の功徳のすべてを
 私は歓喜する。
 
 私のあらゆる功徳の一切は、
 すべての衆生のために、
 正しく仏道に回向する。

 悪業を懺悔し、
 法輪を懇願し、
 仏陀がこの世におとどまりになることを祈願し、
 功徳を随喜し、
 無上道に回向すること、
 みなもまた、まさにこのようにすべし。

 諸々の仏陀もそうしてきたように、
 私もまた、悪業を懺悔し、
 法輪を懇願し、
 仏陀がこの世におとどまりになることを祈願し、
 功徳を随喜し、
 無上道に回向する。


十一.功徳


 右膝を地につけ、右肩をあらわにして、
 合掌し、恭敬の心を持つべし。
 昼に三回、夜に三回、このようになすべし。

 ダルマはヴァジュラのごとし。
 カルマの力には勝つことはできない。
 今私は真理の道に入ったが、
 それでも過去の悪業の果報を避けることはできない。

 汝、もし全智の師に会えば、
 過去に作ったカルマは、速やかに現れ、その罪を償う。

 今、心のけがれが尽きて、仏陀の境地に至ったとしても、
 まだ精算していないカルマのゆえに、トゲはなお、その身に刺さる。

 コップ一杯の塩を大海に投げ入れても、大海の味が変わることはない。
 しかしもしそれを小さな器に投げ入れれば、塩辛くて飲むことはできない。

 同様に、人が大いに功徳を積むならば、過去に積んだ悪業も、大海の中のコップ一杯の塩のようになり、彼は悪趣に落ちることはない。
 まだ精算していない悪業があったとしても、それは軽い苦しみとして現象化する。
 
 また、もし過去に積んだ悪業が小さかったとしても、功徳もまた小さかったならば、
 それは小さな器に投げ入れられた塩のようになり、
 彼は悪趣に落ちる。

 過去に積んだ悪業が小さかったとしても、
 善、功徳、慈悲の炎が弱いならば、
 彼は地獄に堕ちる。

 大いなる善、功徳、慈悲の炎があるならば、
 過去に積んだ悪業があったとしても、
 その炎は悪業を焼き、
 その果報は、軽い苦しみとして現象化する。

 たとえばアングリマーラは、多くの人々を殺し、
 また母と仏陀さえも害そうとしたが、
 仏陀に出会い、ついに解脱を得たるがごとし。

十二.布施


 仏陀の功徳および菩薩の偉大なる行為を信ずることにより、
 功徳の力は増大し、心もまたますます柔軟なり。
 
 苦悩する諸々の衆生には、この深浄の法はない。
 それについて悲しんで、深い慈悲の心を起こす。

 菩薩はこのように深い慈悲心を持ち、
 あらゆる貪りを断じ、布施のために努めて精進する。

 私が所有する一切のもの
 転輪王の位でさえも
 求められれば、与えないものはない。

 たとえば良き妻や妾、あるいは侍者などで
 恭順にして心は柔和であり、
 自分の命よりも大事にしている男または女があったとしても、 
 もし誰かに求められれば、それらさえも私は布施をする。

 乃至、身体、血、肉、骨、手足、
 頭、眼、耳、鼻など、
 これらの自らの身体も、よく布施をする。

 このように布施する者は、諸々の果報を得る。

 布施には、以下の四つの種類がある。
 ?清らかな者に対して、清らかな心で布施をする。
 ?不浄な者に対して、清らかな心で布施をする。
 ?清らかな者に対して、不浄な心で布施をする。
 ?不浄な者に対して、不浄な心で布施をする。

 清らかな心で、名声や利得や果報を求めずに、布施をおこなうべし。
 
 物惜しみの心を起こさずに、
 物を蓄える事なかれ。

 常に衆生を利するために、自己の身を薬樹のごとしと理解すべし。

 そしてその布施の功徳を、みなことごとく回向すべし。

 回向には、四つの清らかな回向と、三つの不浄な回向がある。

 四つの清らかな回向
 ?清浄なる仏国土を得るために回向する。
 ?清浄なる覚醒を得るために回向する。
 ?衆生を救済するために回向する。
 ?清浄なる全智を得るために回向する。

 三つの不浄な回向
 ?王になるために回向する。
 ?欲楽を得るために回向する。
 ?小乗の解脱を得るために回向する。

 もし布施をしても、清らかな回向をせず、
 現世の欲楽を求め、
 悪しき友に親しみ近づくならば、
 このような布施は、不利益な布施である。

 このような不利益を避け、
 菩提心をもって布施をし、
 仏陀のダルマによって布施をし、
 果報を求めずして布施をするならば、大いなる利益を得る。

 仏陀のダルマを得るために布施をするべし。
 仏陀が法輪を転ずることを願って布施をするべし、
 衆生が無上の至福に至ることを願って布施をするべし。
 
 また、この布施によって将来、より多くの富を得、それによってより多くの布施をし、布施の完成に至ることを願って布施をするべし。

  

十三.法施


 布施の中では、法施が最高である。
 智者はまさに修行して、
 悪しき見解を捨てて、清らかな教えの法施をすべし。

 「決定王経」の中にある、以下の内容を、
 まさに常に修習して行ずべし。

 法を説く者は、以下の四つの法を行ずべし。
 ?広く多く教学すべし。
 ?一切の法の生起と滅尽の相をよく知るべし。
 ?瞑想と智慧を得て、論争を捨てるべし。
 ?師や聖典の教え通りに行ずべし。

 法を説く座に着く際には、以下の四つの法を行ずべし。
 ?まず恭敬して礼拝した後に座に着くべし。
 ?もし法を聞く者の中に異性がいた場合は、不浄観を修習すべし。
 ?立ち居振る舞いや目配りなどは菩薩の相をもって行い、表情は和やかであるべし。そして間違った教えを説くべからず。心に恐怖を持つべからず。
 ?法を説いているときに、誰かから悪口や反論を受けても、まさに忍耐すべし。

 また、以下の四つの法も行ずべし。
 ?諸々の衆生に利益を与えようという思いを起こすべし。
 ?諸々の衆生には実体がないと思うべし。
 ?諸々の教えの言葉には実体がないと思うべし。
 ?この法を聞いた諸々の衆生が、無上の最正覚に安住することを願うべし。

 また、以下の四つの法も行ずべし。
 ?よく教えを心にとどめ、深く法を信じ、求めるべし。
 ?諸々の仏陀が現前するサマーディを得て、精進し、戒を清浄に守るべし。
 ?来世どこに生まれ変わりたいということを願わず、利得と供養を貪らず、果報を求めるべからず。
 ?空・無相・無願の三解脱において心に疑念なく、諸々の深遠なるサマーディに入り、正念を堅固にして、智慧に安住し、興奮せず、心乱れず、言葉に誤謬なく、諸々の感覚器官を守護し、頭陀を決意し、世間と出世間の法を分別し、心に後悔なく、他者を批判すべからず。

 また、以下の四つの法も行ずべし。
 ?自己を軽んずる事なかれ。
 ?聞く者を軽んずる事なかれ。
 ?教えを軽んずる事なかれ。
 ?利得と供養に惑わされる事なかれ。

 

 
十四.帰依


 在家の者は、まさに多くの財施をなすべし。
 そして出家の者は、まさに諸々の法を説くべし。

 まず自ら法を修行し、しかる後に人々に法を説くべし。
 「汝、我が行いにならえ」と。

 自ら不善を行じて、どのようにして他者を善ならしめることができるか。
 自ら寂静を得ずして、どのようにして他者を寂静ならしめることができるか。

 故に、まず自らが善を修め、それにより他者によく善を修めさせるべし。
 まず自らが寂静を得、それにより他者によく寂静を得させるべし。

 菩提心を捨てず、受持した法を壊さず、
 大悲の心を離れず、声聞乗や独覚乗に向かわず。
 これを、仏陀に帰依するという。

 法を説く師に親しみ近づき、一心に法を学び、
 正念正智し、自らも法を説く。
 これを、法に帰依するという。

 菩薩は、声聞が持つ様々な功徳を求め、しかしニルヴァーナは求めない。
 これを、サンガに帰依するという。

 まさにこの仏法僧を念ずべし。



十五.戒


 在家の菩薩は、善なる行為を修め、
 法に則って財を集め、法に則って財を用いるべし。

 得ることに喜ばず、失うことを憂えず、
 ほめられることを喜ばず、けなされることを憂えず、
 快い言葉を喜ばず、嫌な言葉を憂えず、
 楽を喜ばず、苦しみを憂えない。

 そしてよく利己心を捨てて、
 常に努めて利他を行じ、
 深く恩を知りて倍に報いる。

 まず修行によって自己の利益をなし、しかる後に人を利す。
 自己がまだ未熟であるのに利他に励むなら、後に憂いや後悔が生じる。

 自己の智慧がまだ足りないのに利他をおこない、自分は智慧者だと言う者は、
 世間の中で最も迷妄なる者である。

 菩薩は利他において、その心は劣弱ではなく、
 菩提心を起こすならば、利他はすなわち自利となる。

 貧者には財を施し、恐れる者には安心を施す。
 これらの功徳は堅固となる。

 在家の法は五戒であるから、まさに堅固に五戒を守るべし。

 五戒以外の身口意の善業も、まさにしっかりと行ずべし。

 利すべき衆生に対して、法を説いて教化するべし。
 
 諸々の悪しき衆生は、種々な悩みを抱え、
 心は曲がり、怠惰であり、
 他人を罵倒し、軽んじ、だまし、
 恩に背いて、恩を返すことなく、
 迷妄にして、開花しがたい。
 故に菩薩は、哀れみの心を持って、利他のために勇猛に精進すべし。

 菩薩は、縁のある衆生を教化せず
 彼らが三悪趣に落とすのを許すならば、
 諸々の仏陀から与えられた責務を放棄したということになる。
 故に、責任を持って彼らを教化すべし。


十六.家庭生活のデメリットを知る


 ある経典にはこう説かれている。

「家庭生活は、諸々の善根を壊す。
 家庭生活は深い刺の森であり、自ら出ることは難しい。
 家庭生活は清らかな白き法を壊す。
 家庭生活は諸々の悪しき考えのすみかなり。
 家庭生活は心身を調御できない凡夫のすみかなり。
 家庭生活は愛著・嫌悪・迷妄のすみかなり。
 家庭生活は過去世に積んだ善根を消耗するところなり。
 凡夫は家庭の中で、なすべきでないことをなし、語るべきでないことを語り、父母や師を軽蔑し、仏陀や出家修行者を尊敬しない。
 家庭生活は貪り・愛欲・不運・激痛・悲嘆・苦悩の原因なり。
 家庭生活は悪口・罵倒・批判のすみかなり。
 過去に植えた善根は破壊され、新たな善根を植えることもない。
 家庭生活は戒を持たず、サマーディを捨て、智慧を観ず、解脱を得ず、解脱智見を生じない。
 家庭生活の中において父母への愛着を生じ、兄弟・妻子・親族・財産への愛着を増長させて、輪廻への嫌悪はあることなし。
 家庭生活は、毒の入った美食のようなものなり。
 家庭生活は、聖道を妨げる障害なり。
 家庭生活は、種々のカルマにより互いに相争う。
 家庭生活は無常であり、壊れ去る。
 家庭生活は苦しみの集まりなり。
 家庭生活は疑念の集まりなり。
 家庭生活は幻のごとく、夢のごとく、朝露のごとし。
 家庭生活の味ははなはだ少なし。
 家庭生活は激痛であり、不運であり、心は乱れる。
 在家の菩薩は、まさにこのように、家庭生活のデメリットを知るべきである。」

 在家の菩薩はこのように、家庭にありながらも家庭生活の悪とデメリットをよく知り、
 布施・戒・善をなし、師・聖者に親しみ近づき、六つのパーラミターを行ずべし。

 布施の果報をよく知り、
 妻子や親族や友や人生を、まさに幻のごとく観るべし。

 在家の菩薩は、仮に結婚していても、妻のことを、次のように観るべし。
 無常であり、失うものであり、壊れるものであり、
 戯れの伴侶であり永遠の伴侶ではなく、
 食事を共にする者でありカルマを共にする者ではなく、 
 その肉体は不浄であり、臭く、汚れており、
 執着したなら地獄に導くものであり、
 執着したなら動物に導くものであり、
 執着したなら餓鬼に導くものであり、
 実体はなく、仮のものであり、
 身口意の悪業の原因となるものであり、
 愛欲・嫌悪・悩みの原因となるものであり、
 鎖であり、繋縛であり、
 戒と瞑想と智慧の障害であり、
 落とし穴であり、網であり、
 災害であり、病であり、悩みであり、罪のもとであり、
 病にかかる者であり、老いる者であり、死ぬ者であり、
 魔であり、魔のすみかであり、恐怖であり、
 獣であり、毒蛇である、と。

 また、もし自分の子供に対して偏った愛著を持つならば、菩薩の叡智は衰退する。
 よって自らの子供を他の衆生と平等に観、
 すべての衆生を、自らの子供と同等に慈しむべし。

 自分と子供は、それぞれ別のところからやってきて、別のところへ去っていく。
 よって子供に対して「我がもの」という執着を持つなかれ。

 無明は智慧の眼を覆い、
 衆生はしばしば輪廻において、家庭生活に結びつけられ、
 世間の楽に愛著して、優れた真理があることを知らず、
 怨みはしばしば愛著に変わり、
 愛著はしばしば怨みに変わる。

十七.法の守護



 もし誰かが、菩薩の持ち物を欲しがるならば、
 彼は、それに愛著があったとしても、物惜しみせずに施すべし。

 しかしもしどうしても、乞われたものを施せない場合には、次のように言って謝るべし。
『私はまだ未熟であり、善根はいまだ成就せず、心はまだ自在を得ていません。
 願わくば、未来際において、私がこれをあなたに施せますように。』

 もし衆生が和合せず、仏法が廃れようとするときには、 
 菩薩は、あるときは力を使い、あるときは財物、あるときは言葉をもって、仏法が廃れないように努力すべし。

 在家の者は、たとえどのような職業や環境にあろうとも、
 月の八日、十四日、十五日、二十三日、二十九日、三十日には、
 不殺生、不盗、性的な禁欲、不妄語、不飲酒、
 香水や油や装飾品などを使わないこと、
 現世的な歌や踊りなどを楽しまないこと、
 快適な寝床に寝ないこと、
 一日一食などの戒を守るべきである。
 清らかな戒を守っている者に親しみ近づき、敬うべし。

 殺生、盗み、邪淫、妄語、飲酒、
 香水や油や装飾品などで身を飾ること、
 現世的な歌や踊りなどを楽しむこと、
 快適な寝床に寝ること、
 一日二回以上食事すること、
 これらは、聖者が捨離するところなり。
 よって私もまた、これらの戒を守り、
 この功徳の原因と条件をもって、
 一切衆生と共に仏陀とならん。

 もし戒を破る者を見ても、軽蔑や怒りの心を起こすべからず。
 まさに哀れみの心を生じさせて、彼自身ではなく、彼がさいなまれている諸々の煩悩をこそ責めるべし。

 もし人が他人を批判するならば、すなわち自分自身を傷つける。
 ただ自分自身の過失を観察せよ。
  
 ある者は瓶が空っぽで、蓋がされている。
 ある者は瓶が空っぽで、蓋が開いている。
 ある者は瓶が満ちていて、蓋がされている。
 ある者は瓶が満ちていて、蓋が開いている。
 諸々の世間の人々もこのようであるので、
 全智を得ていなければ、他人を正しく評価することはできない。

 内に正念正智があり、善き心ある人を、賢者という。
 ただ外的な所作を見て、その内側を知ることはできない。 
 内側が功徳で満ちていても、外的にはみすぼらしい者もいる。
 もし他者の外側だけを見て内側を計り、軽蔑の心を生じるならば、
 彼の身体および善根は衰退し、死後は悪道に堕す。

 外側を偽って賢者のふりをし、賢者を真似た言葉を発するが、内が成熟していない者は、
 雨なき雷鳴のごとし。

 諸々の人々の心の内は、外側から知ることは難しい。
 故に、他人のことを気軽に評価・批判するなかれ。

 ただ全智を得た者のみが、諸々の衆生の心をことごとく知り、
 正確に推し量ることができる。

 故にまさに、他人に対して軽蔑の心を起こしてはならない。


 もし在家の菩薩が僧院に行ったならば、
 恭敬し、礼拝し、
 諸々の出家修行者を供養すべし。

 天の神々に、大いなるカルパに渡って供養することよりも、
 世を捨てて出家することは優れている。
 よって在家の菩薩も、出家のすばらしさを思惟し、あこがれ、
 今生か来世において、いつの日か出家することを願うべし。

 また在家の菩薩は、仏陀のストゥーパを礼拝し、菩提心を起こすべし。
 そして諸々の出家修行者に奉仕し、教えを学ぶべし。
 煩悩を生じさせることなく、布施をおこなうべし。

 正法を守護するためには、命を捨てても惜しむべからず。
 
 もし病気で苦しんでいる出家修行者がいたならば、在家の菩薩は、自らを犠牲にしても看病すべし。

 決定心をもって諸々の布施をし、
 一切悔いることなかれ。

 そしてどんな微少な徳でさえも、
 すべて無上なる菩薩道のために回向すべし。 


十八.在家の菩薩と出家の菩薩の共通の修行


 忍耐を行ずれば美しくなり、
 法施によって過去世を知る。
 法忍によって教えをよく心に記憶し、
 正しい思惟によって智慧を守る。
 諸々の法において曲がることがなければ、常に正念を得る。

 常に法を重んずるならば、法は堅固となる。
 信によって、修行ができない諸々の難を超える。

 正しく空性を修習するならば怠惰にならず、
 貪ることがなければ利益を得る。
 教えに則って生きることで煩悩を滅する。

 灯火の布施によって、天眼を得る。
 美しい音楽の布施によって、天耳を得る。
 乗り物の布施によって、神足を得る。
 
 布施、慈愛の言葉、利他行、同事行に励むならば、
 将来、仏陀となった時に、多くの弟子を得る。

 平等心を持つ者は、最勝なる者となる。
 

十九.四つの法


 智慧を失う四つの法がある。菩薩はまさにこれらから遠く離れるべし。

?法および法を説く者を敬わない。
?法を隠し、教えることを惜しむ。
?法を求める者の邪魔をし、彼の求道心を壊す。
?慢心を抱き、他人を卑下する。


 智慧を得る四つの法がある。菩薩はまさに常にこれらを修習すべし。

?法および法を説く者を恭敬する。
?清浄な心で、見返りを求めずに、他者のために法を説く。
?頭についた火を消そうとする男のように、教えを求めて努力する。
?学んだ法を忘れず、言葉よりも実践を尊ぶ。


 善根を失う四つの法がある。菩薩はまさにこれらから遠く離れるべし。

?慢心を抱き、現世の事柄を貪り求める。
?利益や供養を受けることに執着して、諸々の家を訪ねる。
?憎しみや嫉妬心を起こして、諸々の菩薩をののしる。
?教えを学ばず、学んでも信じない。


 善根を増大させる四つの法がある。菩薩はまさに常にこれらを修習すべし。

?いまだ学んでいない菩薩の教えを求めて飽きることがない。
?慢心を抱かず、常に謙虚になる。
?諸々のよこしまな生活を離れ、自然に得た衣、食物、座具などに満足して修行し、迷いを断つ。
?他者の罪を非難せず、他者の短所を探さない。


 自己の心をねじ曲げる四つの法がある。菩薩はまさにこれらから遠く離れるべし。

?仏法に疑いを抱き、信じない。
?慢心を抱き、他者に嫌悪や怨みの心を抱く。
?他者の得た利益に対して、嫉妬や貪りの心を抱く。
?菩薩を誹謗し、菩薩の悪評を言いふらす。


 自己の心を純粋で美しくする四つの法がある。菩薩はまさに常にこれらを修習すべし。

?罪を犯したならば即座に懺悔する。
?たとえ地位や財産を失うことになろうとも、嘘を言わず、真実を語る。そして他者を軽んずる言葉を言わない。
?もし他者から悪口を言われても、軽蔑されても、監禁されても、暴力を受けても、掠奪されても、カルマの法則を信じ、心に怒りや怨みを抱かない。
?堅固な信を持ち、仏陀の説くはなはだ理解しがたい深遠な法さえも、清浄なる信の心によって、すべてを受け入れる。


 敗れ壊れる菩薩の四つの法がある。菩薩はまさにこれらから遠く離れるべし。

?教えを多く学ぶが、遊び戯れ、教えの実践をしない。
?概念的な言葉をもてあそび、師を尊敬せず、師に従わない。
?信者から供養を受けながら、自らは戒を破る。
?心が善く整えられた菩薩を敬わず、心に慢心を抱く。


 心が善く整えられた菩薩の四つの法がある。菩薩はまさに常にこれらを修習すべし。

?常に真理の教えを学び、学び終わって教え通りに実践する。
?概念的な言葉をもてあそばずに真の意味に従い、師によく従う。
?戒・サマーディを失わず、清浄に生きる。
?他の心が善く整えられた菩薩を恭敬し、心に慢心を抱かない。

 四つの菩薩の誤謬がある。菩薩はまさにこれらから遠く離れるべし。

?まだ準備ができていない衆生に対して深遠なる法を説く。
?大乗の教えを求めている衆生に対して小乗の教えを説く。
?正しく道を行ずる者の自戒・善心を敬わず、心に慢心を抱く。
?いまだ修行を成就していない者に信を持ち、また戒を破る悪人に親しむ。


 四つの菩薩の正しい道がある。菩薩はまさに常にこれらを修習すべし。

?一切衆生を平等に見る。
?一切衆生を善法によって教化する。
?一切衆生のために法を説く。
?一切衆生に、正しい行いをおこなわせる。


 偽の菩薩の四つの法がある。菩薩はまさにこれらから遠く離れるべし。

?利得と供養を貪り、法を尊ばない。
?ただ名誉のために修行をし、功徳を求めない。
?自己の楽を追い求め、衆生のことを考えない。
?親族に愛著して、現世放棄を決意しない。


 初心の菩薩の四つの功徳がある。
 菩薩はこれらを努力して生じさせ、生じたならば増大させ、増大したならば失わぬように守るべし。

?空性の法を信じ、理解し、また同事にカルマの法則を信じる。
?無我の法を求め、また同事に一切衆生に大悲の心を持つ。
?心はニルヴァーナにありつつ、輪廻を生きる。
?衆生を救済するために布施をし、自己のためには果報を求めない。

 四つのタイプの『素晴らしき友』がある。菩薩はまさにこれらに親しみ近づくべし



?法を求めてやってくる者を『素晴らしき友』と見るべし。
?正しい法を説いてくれる者を『素晴らしき友』と見るべし。
?現世を放棄して出家した修行者を『素晴らしき友』と見るべし。
?すべてのブッダ・世尊を『素晴らしき友』と見るべし。


 四つのタイプの『悪しき友』がある。菩薩はまさにこれらから遠く離れるべし。

?独覚の心を求める者。
?小乗の解脱を求めて瞑想に没頭する者。
?現世肯定・煩悩肯定的な宗派の教えを好んで学び、現世の快楽主義を肯定し、俗世

のすばらしさを巧みに論ずる者。
?現世的な利益を与えるが、法の利益を与えない者。


 四つの菩薩の大いなる宝の蔵がある。

?ブッダに出会う。
?六つのパーラミターを学ぶ。
?法を説いてくださる者に対して心に嫌悪や害心を抱かない。
?怠惰でない心をもって、寂静の地に住むことを喜びとする。


 一切の魔を追い払う四つの法がある。

?菩提心を捨てない。
?一切の衆生に対して心に嫌悪を持たない。
?一切の正しい見解を理解する。
?慢心を持たない。


 無量の功徳を得る四つの法がある。

?見返りを求めずに法を説く。
?破戒をする悪人に対して大悲の心を起こす。
?無上の菩提心を起こして衆生に教えを説く。
?下劣な衆生の中にあって忍辱を起こす。


 一切の善法を摂取する四つの法がある。

?寂静の地において、飽くことなく常に修行し続ける。
?見返りを求めずに四摂法を行ずる。
?身命を惜しまずに正法を守る。
?諸々の善根を植えるとき、菩提心を第一とする。


 四つの繋縛がある。もし諸々の菩薩の功徳を得たいならば、まさにこれらから遠く離れるべし。

?誤った外道の経典に愛著する。
?必要以上に衣や鉢などを所有する。
?諸々の見解にとらわれる。
?利得と名声を貪る。


 二つの障害と二つの垢がある。もし諸々の菩薩の功徳を得たいならば、まさにこれらから遠く離れるべし。

二つの障害
?必要以上に在家信者に親しみ近づくこと。
?善人と疎遠になること。

二つの垢
?諸々の煩悩に耽溺すること。
?施主や友人を欲しがること。


 二つの腫瘍の法と二つの破滅の法がある。もし諸々の菩薩の功徳を得たいならば、まさにこれらから遠く離れるべし。

二つの腫瘍の法
?他人の過ちを見ること。
?自分の過ちを隠すこと。

二つの破滅の法
?正法を破壊すること。
?戒を破っているのに供養を受けること。


 二つの熱脳の法と二つの治しがたい病の法がある。もし諸々の菩薩の功徳を得たいならば、まさにこれらから遠く離れるべし。

二つの熱脳の法
?汚れた心を持って袈裟に愛著する。
?汚れた心を持ちながら、清らかに戒を守っている者から供養を受ける。

二つの治しがたい病の法
?慢心に満ちた人が、自分はよく自分の心を調御したと思うこと。
?大乗を求める者が、その大乗の心を壊すこと。
 

 速やかにブッダの覚醒を得る、四つの真理の相がある。

?一切の善法を求めるが故に精進する。
?学んだ教えの通りに実践する。
?三界をまるで殺戮の地のように嫌悪し、常に解放を求める。
?一切の衆生に利益を与え、安楽に導くために、まず自分の心を成熟させる。


 諸々のブッダやブッダの弟子たちや解脱者たちが称賛する四つの法がある。

?今この瞬間から、命の終わるときまで、決して悪を為さない。
?常に法を説く。
?常に心を法に一筋にする。
?もし心に執着が起きそうになったら、正しくその原因と条件を観察する。この執着の感覚とは、何を名付けてそう言っているのか。何が執着なのか。何事において執着が起きるのか。誰においてこの執着が生じるのか。――このように正しく憶念して、その執着が虚妄であり、実体がなく、存在していないことを知る。そのような心を決定して、一切が空であることを信じ理解するが故に、また所有の法なきが故に、また正しく執着の原因と条件を観察するが故に、諸々の悪業を起こさない。他の一切の煩悩に関しても、またこのように観察する。

 一切に頓着しない心を具足して、この世の利益と、この世から解放された利益を求める。
 これらの真の利益を求めるとき、心に飽きることはない。
 疲れることなくこの二つの利益を求める故に、諸々の深遠なる法を得る。
 したがって、教えを求め、智慧を得、智慧を具足して世界を知る。それは最上にして第一の法なり。

 人に慚愧の念があるならば、法を知り、善と悪の何たるかを知る。
 もし慚愧の念がないならば、善人から遠ざかり、あらゆる悪をなすことだろう。

 慚愧の念がある者は、自分に害を与える者さえも尊重し敬う。いわんや自分を利してくれる者においておや。
 慚愧の念と恭敬の心を持って、善人を軽蔑するなかれ。

 おおよそこの世間においても、あらゆる行いは、行いがたきことであっても、不退転の心によって成就することができる。
 大いなる堪忍の力を得て、深くブッダを供養すべし。
 ブッダの教えたまうところを皆よく受け保つべし。

 信と哀れみと慈愛と無頓着の心をもって、苦しみに耐えて疲れることなし。
 また、法をよく知って、衆生の心を導くべし。
 苦しみに耐えることと慚愧の念を第一として、
 深くブッダを供養して、
 ブッダの教えの中に住し、
 これらの法を正しく行ずべし。

二十.ブッダを念ずる


 ブッダがバドラパーラのために説いた、ブッダ方を現に見るサマーディがある。

 多くの衆生に囲まれたブッダが、三十二相と八十種好で身を飾られていることを念ずべし。

 世尊のそれらの相好は、どのような行為を原因として得たのであるか、
 私は今、それらの行為と相をもって、大聖を称賛しよう。

 足の千のスポークの車輪は、清浄にして眷属を施せばなり。
 この原因の故に、聖賢たちに礼拝せられる。

 足の裏の安立相は、善を受けて持して失わなかった故である。
 そのために、魔の軍勢は、太刀打ちすることができない。

 手足の指の縵網と、身体が紫金色であることは、
 善行にて法を摂する故であり、衆生は自然に礼拝する。

 手足が極めて柔軟であることと、身体の七カ所が円満であることは、
 意に従って食を施したためであり、自然に多くの供養を得る。

 長い指と、広いかかとと、身体が広大端正であることは、
 殺生のカルマを離れているが故であり、これにより一カルパ生きることもできる。

 毛が上に向かって右巻になっていることと、足の甲が盛り上がっている相は、
 常に諸々の善の道を進んだためであり、そのために不退転の法を得る。

 羚羊のような脛をしている相は、
 常に願って経典を読誦し、人のために説法をしたからであり、
 それによって速やかに無上道を得る。

 腕が膝下まで垂れ下がっているのは、
 一切の所有物を、求められれば惜しまずに施し、
 意のままに人を導いたからである。

 陰部が身体に隠れているのは、仲違いした人々をよく和合させたからであり、
 それにより、清らかな智慧の眼を得る。
   
 皮膚が薄いことと、黄金に輝いていることは、素晴らしい衣や住居を布施してきたからであり、
 それによって、多くの素晴らしい衣と、清浄なる住居を得る。

 一つの毛穴に一本ずつの毛が生えているのと、眉間に白毫がそばだつは、
 常に最上の護を為したからであり、故に三界において尊きなり。

 上半身が獅子のごときと、両肩が丸く円満なのは、
 常にすべての人に慈愛の言葉を語ったからである。

 腋の下が満ちているのと、最上の味覚の相は、病人に医薬を施したからであり、
 それによって人間や神々に愛され、身体に病なし。

 身円と肉髻の相は、和悦の心で幸福を施し、
 剛強者を勧化して、法王の中の自在者であったからである。

 カラヴィンカ(美声の鳥)のような美しい声は、
 広き舌から発せられ、ブラフマー神の声のごとく
 言うところは常に柔軟で真実であり、ブッダの八つの音を得る。

 まず思慮をもっておこない、後に言うは必ず真実あり。
 それ故に獅子のような頬の相を得、見る者はみな信伏する。

 歯が白く、密なる相は、かつて供養した相手を、後に軽んずることがなかったかrであり、
 それによって、眷属の心は和合する。

 歯が40本あるのは、嘘をつかなかったからである。

 眼が青黒く輝いているのと、まつげが牛王のようなのは、
 慈愛の心によって衆生を見たからであり、
 それによって、彼を見る者は飽きることがない。

 転輪王もまた、このような諸々の相好を持つが、
 その光明は、ブッダにはかなわない。
 
 願わくば、私が称賛して説くところの、諸々の相好の功徳によって
 一切の衆生が、心清く、常に安楽になりますように。


 また、ブッダは、80の妙好によって身を荘厳す。
 汝らはまさに歓喜して、一心に我が説くところを聞くべし。 

 世尊の指は繊細で丸く、その中は赤紫色。
 隆高にして潤沢あり、所有は無量なり。
 
 脈は平らかで、くるぶしは現れず、両足はすっと伸びている。
 
 行動は獅子王のようであり、威厳のあるまなざしは比類がない。

 行くときに身は右旋し、ゆったりと落ち着き、理にかない、優雅である。
 
 次第を分かち、端正・厳かにして、愛しきお姿。

 身体は堅固で、極めて柔軟。
 関節ははなはだハッキリしている。

 歩くときは斜めにならず、諸々の器官は完全である。
 
 肌は極めてきめ細かく、鮮明にしてはなはだ清浄なり。

 身体の形ははなはだ端正で優雅にして、欠点はない。

 腹は丸くて突き出ておらず、臍は深くて穴はない。

 其の文は右旋し、威儀ははなはだ清浄なり。

 身体に傷はなく、手足は極めて柔軟なり。

 其の文は深くかつ長く、修直にして潤色あり。

 舌は薄く、顔は長くない。
 牙は白く完全で鋭い。

 唇はビンバの実のように赤く、声は鳥の王のように美しい。

 鼻は高く、眼は明るく清らかで、まつげは細やかで整っている。

 眉毛は左右等しく整い、よく諸法の過ちを知る。

 眉毛の色は潤沢であり、衆生をよく救済して潤す。

 耳は長く、左右等しく、はなはだ愛おしい。

 額は広く整い、頭は相がみな具足している。

 髪は細やかで乱れず、黒蜂の王の色のごとし。

 清浄にして清潔な香りで、中に三種の相があり。


二十一.四十のブッダのみに具わる法


 また、まさに四十のブッダのみに具わる法をもって、ブッダを念ずべし。
 ブッダの本質は法身であり、肉体のみではないがゆえに。

 四十のブッダのみに具わる法とは、以下の通りである。

・飛行自在
・変化無量
・聖如意無辺
・自在なる聴力
・無量の叡智による他心智
・よく瞑想・サマーディ・解脱の心を知る
・常に智慧に安らぐ
・法において忘失することがない
・ヴァジュラ・サマーディの力を得る
・よく不定の法を知る
・よく無色処を知る
・完全なニルヴァーナに通達する
・よく心不相応無色法を知る
・勢力の完成
・無障害の完成
・答えを具足することの完成
・三輪を具足して説法する
・説法に果報がないことがない
・説法に誤りがない
・誰にも害されない
・諸々の聖賢の中の大将である。
・四不守護
・四無畏
・ブッダの十の力
・無礙解脱

二十二.ヴァジュラ・サマーディのために、悪から離れること


 諸々の身の悪行を離れ、
 また言葉の悪行を離れ、
 心の悪業を離れて、
 すべての悪業から遠く離れよ。

 正法によって身を守ることは素晴らしい。
 正法によってよく言葉を守ることもまた素晴らしい。
 正法によって心を守ることは素晴らしい。
 正法によって一切を守ることもまた素晴らしい。
 修行者は正法によって一切を守って、すべての悪から遠く離れよ。

 手足をみだりに動かすことなかれ。
 言葉を節し、行為を慎み、
 まさに心の集中を守るべし。
 これを真の修行者という。


二十三.不定の法について

 すべての法はいまだ生ぜず、いまだ出でず、いまだ成立せず、いまだ定まらず、いまだ分別されぬがゆえに、この中に如来の智慧は力を得る。

 もし愛著・嫌悪が己に定まれば、一切もまた固定されて見えてしまうのである。


二十四.ブッダを称える詩


 聖なる主は、大いに精進し、ブッダのみに具わる40の法を持つ。
 われは今、ブッダの御前において、敬心によって称賛する。
 
 如意の力および空中飛行の力は、その力に際限がない。
 聖なる如意の力において、等しい者はない。
 
 聞く力は自在であり、他心智は無量なり。
 よく心を調伏し、その念は大海のごとく安穏なり。
 
 諸々のブッダが称賛したもうところは、ヴァジュラ・サマーディの宝なり。
 よく不定の法、四無色定の事を知り、
 微細にして分別しがたきものを、あまねく完全に知る。
 
 世尊は大威力にして、その功徳と智慧は無量なり。
 衆生のあらゆる問いに、易々と答える。

 もし誰かが、ブッダを害そうとしたとしても、
 それが達成されることはない。不殺の法を成就しているからである。

 もし過去・現在・未来において、世尊が何かを説くならば、
 その言葉は決して空虚なものとはならず、必ず大いなる果報を生む。

 声聞・独覚・菩薩の弟子たちを導く、第一の大導師は、
 身口意の行為と生活が、完全にして常に清浄なり。

 みずから全智であると宣言し、その心に一切の疑いも恐怖もない。
 
 過去・現在・未来のあらゆるカルマとその果報を、みなよく知りたもう。

 あらゆる瞑想・サマーディの、粗雑な事柄、微細な事柄、深い事柄、浅い事柄を、
 皆よく了知し、瞑想・サマーディにおいて等しい者はない。

 衆生の機根に上・中・下とあり、また種々の願いや性質があることを知り、
 それらにしたがって法を説く。
 
 道を行じて諸々の利益を得、それをもって人を教化し導く。
 これをもって弟子たちは、善なる利益の果実を得る。

 宿明智は無量にして、天眼智は無限なり。
 ヴァジュラ・サマーディに住して、一切の煩悩を滅する。
 また、他者の漏尽を知る。

 煩悩の障害、瞑想の障害、一切法の障害という
 三つの障害からの解脱を得て、無礙解脱という。

 ブッダのみに具わる40の法は、その功徳を計ることはできない。
 もし世尊がこれらの法の功徳を説いたとしても、一カルパかかっても説き終わることはできない。
 ましていわんや智慧なきわたしに、そのすべてを説くことはできない。

 世尊の大慈の木陰に、無量の善がよく集まり、
 真理・放棄・滅尽・智慧の四功徳処によって、ブッダの無量の法を得る。
 世尊が称賛し、お説きになるところは、この優れた四功徳処なり。
 われもまた、これをもって、如来を称賛しよう。

 世尊には三十二相が具わり、また八十の妙好あり。
 三千大千世界の衆生のあらゆる功徳とその果報を一万倍にして、
 眉間の白毫の一本が成就する。
 三十の相の一つ一つの功徳とその果報を千倍にして、
 肉髻の相が成就する。

 世尊の諸々の功徳は、計ることはできない。
 人が定規をもって、宇宙空間を計ろうとするようなものである。

 初めて菩提心を起こしたときから、衆生を救済するために、
 堅固な心で無量カルパに渡って努力し続けてきた。
 それ故に、仏道を成就した。
 
 精進して、このような大願を成就せんと欲し、
 無量のカルパの中で、諸々の難行苦行を行じた。

 いにしえの諸々のブッダたちと同様に、四つの功徳を説き、
 無量のカルパにおいてそれらを成就し、今、中に安住することを得る。

 真理を守るために、自己の身体、及び親愛なるもの、財宝、諸々の富楽を捨てた。
 これ故に具足を得る。

 無量のカルパの中で、見、聞き、悟り、知り得た法を、常にまず善く思惟して、後に人のために説く。
 
 他者の悪事や欠点を中傷せず、他者を非難することなく、
 常に他者が安らかな智慧の中にあることを念じて、相手に応じた教えを説く。

 飲食、寝具等、楼閣、素晴らしい象馬車、美しい諸々の女性、金銀、珍しい財宝、集落、諸々の城、国土及び高い地位、そして全世界、愛しき子供並びに両親と妻、自分の手足及び頭、目玉、肉を割いて骨髄を出し、身をあげて施す。
 諸々の衆生を哀れみ、良く施して惜しむところなし。
 これによって衆生が生死から解放されることを求め、自己の楽を求めない。
 世尊が菩薩のときに布施した数は、地上の砂や夜空の星の数よりも多い。
 
 非法によって布施することはなく、
 財を求めて布施することはなく、
 人を苦しめて布施することもない。
 好きなものに執着して悪いものを布施するということはなく、
 曲がった心で布施することはなく、
 惜しみながら布施することもない。
 怒りなく、疑念なく、誤謬なく、嫌悪なく、不信もない。
 正しい分別の心あり、ただ慈悲心をもって、平等心によって布施を行ず。
 衆生を軽んじることなく、衆生を幸福の田畑と見て、
 聖者を見れば恭敬し、破戒者を見れば哀れむ。
 他人を卑下せず、また称賛を得るために布施をせず、報いを求めずに布施する。
 後悔なく、苦しみなく、賎しい心で布施することもない。
 不敬の心によって布施することなく、嫉妬心によって布施することもない。
 
 世尊が無数カルパに渡って諸々の希有なる布施を行じてきたのは、
 皆、無上道のためであり、自己の楽を求めるためではない。
 諸々の仏法の中において、出家して遠離を行じ、
 諸々の仏法を修習して、諸々の人間や神々のために説く。
 

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