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ラーマクリシュナの福音コミュのシンティのブラフモ協会への出席

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ラーマクリシュナの福音

「シンティのブラフモ協会への出席」より


1882年10月28日(土)


シンティのブラフモ協会への出席
――シヴァナート氏はじめブラフモ会員たちと

大祭の聖域に聖ラーマクリシュナ

 大聖パラマハンサ様は、シンティのブラフモ協会の集まりに、神に敬意を表すためにご出席になっている。キリスト暦1882年10月28日、土曜日。アッシン月の黒分第二日であった。
 今日はここで大祭がある。ブラフモ協会で年二回おこなう祭典である。それゆえ、至聖なるシュリ・ラーマクリシュナは、ここに招待を受けられた。三時から四時の間に、タクルは数人の信者たちとドッキネッショルのカーリー殿から、馬車で、ベニー・マーダヴァ・パル氏所有の別荘にお着きになった。その庭園別荘で、ブラフモ協会の会合が行われていた。その別荘は、心を魅惑させた。場所はたいそう静かで、神の黙想に特に適していた。大祭は一回は秋に、そして一回は春である。この大祭のために、パール氏はカルカッタとシンティの近隣の村から大勢の信者を招待していた。それで、今日もカルカッタからシヴァナートその他の会員たちが来ていた。彼らの中でかなりの人数が朝の祈祷式に出席しており、午後の祈祷式にも参加するに違いなかった。特に彼らは、午後に大聖者が来訪して、その方の喜びに満ちたお姿を見ることができ、心を魅惑する天の美酒のような言葉を傾聴することができ、神をたたえるあの甘美な歌声を聞いて、天人の舞いも遙かに及ばないような神の愛にあふれる踊りを拝見することができるだろうことを聞き知っていたのだから。師が深く愛しておられるブラフモの有力な信者、シヴァナートが、シュリ・ラーマクリシュナの到着を熱心に待ち受けているブラフモ・サマージの会員の大きな群れの中にいた。
 午後の庭園には、大勢の人が集まってきていた。ある人は、木陰の木製のベンチに腰掛けている。また、ある人は、美しい池の端を仲間たちと一緒に散策している。大部分の者は集会堂の中で、聖ラーマクリシュナの到着を待ちながら、ずいぶん前からそれぞれ席を取って座っている。庭園の入り口には、キンマの葉を売る屋台が出ていた。中に入ってみると、いかにも祈祷祭をしている家のような感じで――夜になると宗教劇が行われる模様である。喜びがその辺一体に満ちあふれている。
 師と数名の信者たちとを乗せた馬車が、集会堂の正面に到着した。皆は恭しく起立して、この偉大な方を歓呼で迎えた。劇場で幕がまさに上がろうとするときのように、突然、あたりがしんとしずまった。互いに話し合っていた人々は、今は師の静かな顔に注意を集中し、彼の唇から漏れる言葉の一語を聞き漏らすまいとした。
 シヴァナートの姿を見て、師は嬉しそうに叫ばれた。

「ああ、シヴァナートがいます! ね、本当にあなた方は神の信者だろう。ご覧なさい。あなた方に会えるのは、非常に嬉しいよ。大麻吸いは大麻吸いに会うとやたらに嬉しがるものだ。ときには彼らは嬉しさのあまり抱き合います。」(シヴァナートはじめ皆も楽しそうに笑った。)

「神に対して心のない人を見ると、私はこう言ってやる。”お前たちはあっちの方へ行って座った方がよい”とね。または、ときには”行って立派な建物(カーリー寺院の神殿)を見ておいで”と。」(皆笑う)

「時々、信者たちに付き添って、つまらない人が来るのを見ます。彼らの考えは、欲の塊みたいなものだ! 神様の話が彼らには面白くありません。信者たちが長いこと私と神のことを話し合っていると、もう彼らはそれ以上座っていることができないで、イライラしています。彼らは信者である友人の耳元にささやく。『いつ帰るのか。君、いつまでいるつもり?』と言っているのだ。信者は言う、『もう少し待ってください。もう少ししたら帰るから』と。すると世俗的な人々はうんざりしたという口調で、『それなら君たちは話していてください。我々は舟で座っていますから』。」(皆笑う)

「世間の人たちに、一切を放棄し、心の底から神に献身せよ、と勧めたところで、彼らは決して聞き入れません。だから、チャイタニヤとニタイの二人の兄弟はいろいろ相談した結果、世俗的な人々を惹きつける工夫をした。彼らはこのような人々に向かって、『さあ、ハリの御名を唱えよ。そうすれば美味しい魚のスープをごちそうし、若い女性を抱かせてあげよう』と言った。大勢の人々が、この二つに惹かれてハリの名を唱えるのだ。神の聖なる御名の甘露を少し味わうと、”美味しい魚のスープ”は実は神への愛に自分たちが流す涙のことであり、”若い女性”は大地を意味するということを悟った。若い女性を抱擁するというのは、大地をハリへの愛に狂喜して転げ回ることだったのである。
 ニタイは、どんな方法を使ってでも、何とか人々にハリの御名を唱えさせようとした。チャイタニヤはこう言っていた――『神の御名は非常に神聖なものである。すぐには実がならなくても、いつか必ず実を結ぶだろう。ちょうど家の蛇腹に残された種子のように、長い年月が経った後に家が崩れると、その種子が地面に落ちて発芽し、ついには木となり、実を結ぶ』。」

「世間の人々がサットヴァ、ラジャス、及びタマスを授けられているように、バクティもやはり、サットヴァ、ラジャス、タマスの三種のグナによる特徴を持っている。
 サットヴァを授けられている家住者は何に似ているか知っているか。おそらく、家はあちこち壊れていてもさっぱり気にかけない。礼拝所には鳩の糞が散らばっているだろうし、中庭は苔だらけになっていても平気だ。家具は古くても、磨きをかけようともしない。同じように、着物も何でもいいから一枚かそこらで間に合えばいいのだ。人柄は極めて柔和で、寛大で、親切で謙虚である。そして人の嫌がるようなことは何一つしない。
 ラジャスの属性を持つ家住者がいる。このような人は鎖付き懐中時計を持ち、二、三の指輪をはめている。家の道具はすべて新しい。壁にはヴィクトリア女王の肖像画や皇太子の肖像画とか、その他の有名な人々の写真なんかがかけてある。家は真っ白に塗って一点の染みもない。いろいろな種類の立派な衣装を持っている。召使いたちにも制服を着させている。万事そういう次第だ。
 タマスを授けられた家住者の特徴は、惰眠、愛欲、憤怒、我執が強い。
 同様に、サットヴァ的な信仰がある。サットヴァ性の信者は、人に知られないようにして瞑想する。彼は、ときには蚊帳の中で瞑想したりするので、皆は――彼は眠っている、夜眠れなかったに違いない、だから起きるのが遅くなっている、と思っている。彼の肉体への愛は、飢えを満たしてやることを考える程度のもの。それもただ、米と簡素な野菜によってである。食べるものについて何の注文もない。豪華な家具は置きません。そして着ているものを人に見せようなんて気もない。そしてサットヴァ性の信者は、決してお世辞を使って金を受け取るようなことはしない。
 ラジャス的なバクティを持つ信者は、額にティラクをつけ、首にはルドラークシャで作ったマーラーをかけている。しかも数珠のところどころには黄金の玉がまざっている(皆笑う)。礼拝のときには絹の着物を着てする。」

コメント(7)



偉大なる御名と罪、霊性の教師の三段階

プリター妃の息子よ
弱い気持ちにくじけるな
それは君にふさわしくない
おおパランタパよ
取るに足らない卑小な心を捨てて、立ち上がれ!

 ――ギーター 2−3――


「タマス的なバクティを持つ人の信念は燃えている。このような信者は、神様に対しても力ずくだ。強盗が押し入って金を強奪するように、神様から否応なしに恵みを奪い取る。『縛りたかったら縛れ! 殺すなら殺せ! 切るなら切れ!』と、そのように強盗に押し入るような態度だ。

 こう言いながら、タクルは目を上の方に向け、忘我の愛に満ちた美しいお声で歌われた。


 どうしてガヤー、ガンガー、カーシー、カーンチやプラバースに行くことがあるか
 口にカーリー、カーリー、カーリーと御名を唱えつつ、
 息を引き取ることができるなら。

 儀式に何の用がある。どうしてその上に勤行を求めるか
 日に三度、カーリーを呼べば。
 
 儀式は彼に負い迫ろう。
 だが決して彼に、追いつけない。

 慈善や誓いや贈り物
 マダンは、そんなものには目もくれず
 
 至福の母の蓮華の御足が、
 彼の祈りと犠牲のすべて。

 彼女の御名の持つ力を、誰が推し量ることができるか。
 神々の中の大神マハーデーヴァさえも
 御名の栄光を五つの口で歌う。


 師は我を忘れ、火のように燃えて歌い続けられる――


 ドゥルガー、ドゥルガーと唱えつつ
 死ぬことさえできるなら、
 どうしてあなたが、おお聖なるお方よ、
 私に救いを拒むことがおできになりましょう。
 たとえ私が惨めな奴でありましょうとも・・・・・・


「なに? 私は母の御名を唱えたのだぞ。どうしてその私が罪人などであり得よう。私は彼女の子供、あのお方のお力と栄光の相続人だ。――人は誰でも、そのような断固とした態度を取らなければならない。 
 もしタマス性を霊的なものに転用すれば、神様を悟ることができます。あのお方に強制するんだよ。あのお方は他人ではなく、実際、身内です。そして、いいですか、このタマスという性質は、他者を幸福にするために使うこともできる。
 医者には三つの種類がある。――最上級、中級、下級だ。往診に来ても、患者の脈を取り、『薬を飲みなさい』と、そのように言うだけの医者が下級に属する。彼は、病人が薬を飲んだかどうか、尋ねようともしない。
 中級の医者というのはさまざまの方法で病気の様子を説明して聞かせ、優しく、『ねえあなた、薬を飲まなかったら良くなるはずがないでしょう。ラクシュミーを飲んでください。あなたのために私が自分で調合した薬ですから』などと言う人だ。
 そして、患者がどうしても薬を飲まないのを見ると、病人の胸ぐらを押さえつけて、力づくで飲ませてしまう医者が最上級だ。これが医者のタマス性のあらわれである。これは患者を害することはなく、逆に良くしてやるものだ。
 医者と同じように、宗教の教師にも三つの型がある。宗教上の指図をしてやるだけで、あとは弟子の進み具合も見ずにほったらかしにしておくようなのは下級の教師。
 中級の教師は、弟子たちの利益を思って、彼がその教えになじむよう繰り返し世話を焼いてくださり、よく理解するよう彼に頼み、さまざまなやり方で教えてくださり、愛を示す。
 しかし、生徒がいつまでも聞き入れないのを見ると、腕力まで行使してでもやらせてしまう教師のタイプがある。私は彼を、最上の教師と呼ぶ。」


ブラフマンの性質は言葉では表現できない

 心は達し得ず、言葉と一緒にそこから戻る。

 ――タイティリーヤ・ウパニシャッド 2−4――


 一人のブラフモ信者が、神は有形か無形かという質問をした。

聖ラーマクリシュナ「あのお方を、”こういうものだ”などと言いきることはできないよ。あのお方は形がないし、また形をお持ちだ。バクタのためには、あのお方は形がある。ジュニャーニ、つまり世界をただの夢と見る者に対しては、彼は無形である。バクタは、自分というものは一つのものであり、世界はまた一つのものであることを知っています。それ故、あのお方はこういう人に対しては、ご自分を人格として示されるのである。ジュニャーニ、たとえばヴェーダーンタの不二一元論者の場合は――『これではない、これではない』という方法を用いて常に推理をする。この識別を通じて、ジュニャーニは、『私も虚偽、世界も虚偽、――夢か幻のようなものだ』ということをハッキリと悟るようになる。ジュニャーニはブラフマンを悟るのだ。あのお方はどんなものか、口でなんか説明できないよ。
 私の言おうとしていることがわかるか。絶対の実在・意識・歓喜の海――無辺際の海としてブラフマンを考えてみよ。信仰といういわば冷却力によって水があちらこちらで凍り、氷の塊ができている。言葉を換えれば、神はときどき、彼を愛する者たちのために様々の形をおとりになり、ジュニャーナの太陽が昇ると、氷の塊は溶けてしまう。そのときには、神を人格あるものとは感じられなくなるのだよ。あのお方のお姿も見ない。あのお方はどういうものだなんて口で言えなくなる。いったい誰が言えるんだね? 言うはずの、そのお方がいなくなったのです。そのお方の『私』は、どこを探してももうないんだよ。
 もし人が自己を分析するなら、彼は『私』などというものを見いだすことはできない。タマネギの最初の赤い皮を、あなた、むいてごらん。次は白い厚い皮だ。次から次へとむいていくと、中には何もないことがわかるだろう。その状態においては、人はもはや彼のエゴの存在を見いださないのだ。また、そこにそれを探すべき誰が残っているというのだ。その状態で――彼自身の純粋意識において――彼がブラフマンの真の性質について、どのように感じるかを誰が説明することができるか。
 一つの塩人形が、海の深さをはかりにいった。海の中に入っていくにつれて溶け出して、海と一緒になってしまった。さあ、誰が海の深さを報告する?
 完全なる絶対なる叡智のしるしがある。叡智が完全なものになると、人は黙ってしまう。そのとき、”私”という塩人形は、絶対のサッチダーナンダの姿の海に入って一つになり、差別の感じが少しも残ってない。
 彼の自己分析が完成しない間は、人はやかましく議論する。卒業すると沈黙します。水差しの水がいっぱいになると、ゴボゴボ音は聞こえない。音は、水差しがいっぱいにならない間だけ聞こえるのだ。
 昔はよく人が言ったものだよ。黒い海に舟が出て行くと、もう帰ってこないってね。」

【”私”はどうしてもなくならない】

「すべての悩みと面倒は、”私”が死ねばなくなります。(笑い)千回も推理にふけっても、”私”は消えない。あなた方や私には、『私は神の信者である』という誇りを持つことが適しています。
 バクタにとっては、サグナ・ブラフマンです。つまり、あのお方は様々な属性を持っておられ、様々の姿をとって、一人の人格としてご自分をお示しになるのだ。我々の祈りを聞いてくださるのはその彼なのだ。あなた方が祈っているのは、そのお方に向けられているのだ。あなた方はヴェーダーンタ派の信奉者でもなく、ジュニャーニでもない。神の信者です。属性を持つ神の姿を認めても認めなくても、問題ではありません。イーシュワラは一人の人格という性質を持ち、我々の祈りを聞いてくださり、宇宙を創造し、維持し、破壊なさるお方であり、そのお方は無限の力を持っておられる、という実感があれば十分です。」

「信仰の道を通れば、楽にあのお方に触れることができる。」

ブラフモの信者「先生、神は見ることができるのでございますか? もしそうなら、私どもが神を見ることができないのはどうしてでしょうか?」

師「そう、【彼】は間違いなく見ることができる。人は彼の形を見ることもできるし、形のない面を見ることもできる。だが、そのことを、あなたにどうしたら説明することができよう。」
ブラフモの信者「どんな方法をとったら、人は神を見ることができるのでございますか?」

師「お前は、心の底から神を慕い求めて涙を流すことができますか? 人は子供のため、妻のため、金のために、水差し一杯の涙を出してなく。しかし、神を慕って誰が泣いている? 子供がおもちゃで夢中で遊んでいるうちは、母親は料理など、いろいろな家事に携わっている。しかし、子供がそれ以上おもちゃに興味がなくなり、おもちゃを放り出して泣き叫ぶと、母親は竈から釜を降ろして、あたふたと急ぎ足でやってきて、子供を抱き上げます。」

ブラフモの信者「先生! なぜ神の性格について、こんなに様々な意見があるのでしょうか? ある人は神は形をお持ちだと言い、ある人は形がないと言います。そしてまた、神は有形だと主張する人たちでも、いろいろ違った形を主張いたします。なぜこんなに複雑なのでしょうか?」

師「信者が心の中で思っている通りの神を見るのだ。実際には何の混乱もない。信者がもし何とかして神を悟りさえすれば、あのお方がすべてをわからせてくださるのだ。お前はまだその領域に向かって歩きもしないでいて、どうして全部の情報を得ることができますか。」

「一つ、話を聞きなさい。あるとき、ある人が森に入って、樹の上に一匹の小さな生き物がいるのを見ました。彼は帰って友人に、自分はどこそこの樹に、綺麗な赤い色の動物がいるのを見たと言った。その人は、”私も用を足しに行ったときに見たけどね、赤い色でなんかあるものか。あれは緑色だよ”と答えて言った。居合わせたもう一人の男が言った。”いやいや、それは黄色でした”と。こんなふうにして、他の人たちもやってきて、それは灰色だった、すみれ色だった、青色だったなどと主張した。ついにケンカです。そこで、みんなで樹の下に行ってみると、根元に一人の男が座っていた。その人に聞いてみると、彼はこう答えた。『はい、私はこの樹の下に住んでいますので、その動物のことはよく知っています。あなた方がそれぞれ言っているのは、皆本当です。それはときには赤いときもあるし、緑色のときもあるし、黄色いときもあるし、青いときもあるい、どんな色にでもなるんですよ! カメレオンです。また全然色がないときもあります。ときには性質をあらわし(サグナ)、ときには性質はありません(ニルグナ)。』」

「同様に、常に神のことを思っている人は、あのお方のお姿はどんなものか分かってくる。彼は、あのお方は様々な形で求道者たちにご自分をお見せになり、様々な方法で現れてくださる。――あのお方は属性をお持ちだ。同時に、全くそれをお持ちにならない。樹の下に住んでいる男だけが、カメレオンがいろんな色になり、そしてあるときにはどのような色もないことを知っています。そうでない人たちは、ただ言い争い、無益な議論に苦しむ。
 カビールはいつもこう言っていた。『形のない者は我が父、形のある者が我が母』と。」

「信者が好む姿、その姿で神はご自分をお示しになります。信者に思いやりのあるお方なんだよ! プラーナに、英雄的な信者ハヌマーンのために、あのお方はラーマの姿をとって現れたと書かれています。」


「ヴェーダーンタ哲学によって識別をすると、神の姿や形など消えてなくなってしまいます。その考え方の最後に行き着くとことはこうだ――ブラフマンだけが実在で、様々な色や形でできている世界というものは、いわば一種の錯覚だと。”私は神の信者だ”という誇りがある間は、神のお姿も見えるし、神は人格であるという意識を持つことができます。推理識別の目で見れば、この信者の”私”の感じは、信者を少しばかり神から離すものである。
 お前たちは、なぜカーリーの御像、あるいはシャーマの御像が3キュービット半(175cm)であるのか知っているかね? 距離があるからです。距離があるから、太陽は小さく見えます。そばに行けば、まあ理解することができないほど大きいのだ。それからカーリーの姿、あるいはシャーマの姿が青色なのはなぜですか。それは距離があるからです。たとえば、湖の水も遠くからは緑色や青、あるいは黒い色に見えるのと同じことだ。近寄って手にすくってみれば何色でもないのと同じだ。空もやはり、遠くからは青く見える。近くに行けば全く何色でもない。
 それだから、ヴェーダーンタ哲学の考え方では、ブラフマンはニルグナ(無性無相)です。ブラフマンがどんなものか口で言うことはできないと。しかし、あなたが自分というものが本当にあると思っている間は、あなたの見ている世界だって本当にあるんだよ。神のいろんな姿、形も真実だし、神は人格を持つという感じも同じように真実なのである。
 お前たちの道はバクティの道だ。たいそう良いことだ――楽に行ける道です。無限の神がどうして理解できる? それにまた、あのお方を理解することがなぜ必要なのかね? このような希有な出生を得て、私に必要なのは、神の蓮華の御足への愛を育てることである。
 もし水差し一杯の水で喉の渇きが癒されるのなら、なんで湖の水量をはかる必要があろう。私は瓶に半分の酒でフラフラになってしまうから、酒屋に幾瓶の酒があるか勘定する必要などあるでしょうか。ましてや”無限”を知る必要などあるでしょうか。」
神を得たしるし、七つの階域とブラフマンの完全なる叡智

 しかし真我を知って真我に満足し 歓喜し
 それに安らぎ 楽しむ者には
 もはや為すべき義務はない。

 ――ギーター 3−17――


聖ラーマクリシュナ「ヴェーダには、ブラフマジュニャーニの様々な心の状態が書いてある。叡智の道は極めて難しい道だ。人は世俗性のわずかな痕跡でも残っていたら――愛欲と金にほんの少しでも執着が残っていたら、明智を得ることはできない。その道は、カリユガの道ではないのだ。
 これについてヴェーダでは、七つの階域のことを説いている。この七つの段階は、心のいる場所だ。世間のことに心が浸っているときには、生殖器と排泄器と臍が心の住処だ。心は、そのとき高いヴィジョンは全く得られない。――心はただ愛欲と金だけに住みます。
 心の第四の段階は心臓。心がそこに宿ると、人は初めて霊的意識が目覚めます。彼は周囲一面に光を見ます。そのとき、天界の光を見て感動して、”素晴らしい!””素晴らしい!”と言っている。そのときには、心は二度と下に、すなわち世俗の対象物に向かっていきません。」

「心の五番目の住処は喉。心が喉まで上がると、修行者はすべての迷妄と妄想から解放される。その人は、神の話だけで、他のどのような話も聞いたり話したりすることも嫌になる。もし、誰かが他の話をすると、その場から立ち去ります。」

「心の第六の階域は額にある。心がそれに到達すると、昼も夜も神の姿を見る。しかしそのときでも、エゴのわずかの痕跡は残っている。その人は、その何ともたとえようもない姿を見て、キチガイのように喜び、陶酔し、その姿に触って抱擁しようと前進しますが、できません。それはランタンの中に灯があって、この光に触れるように思うのだが、間に一枚のガラスがあるから触れないのだ。
 頭のてっぺんに第七の段階がある。そこに心が行くとサマーディに入り、ブラフマンの智者はブラフマンを直に見るのだ。だが、その状態では彼の肉体はそう幾日もは保たない。彼は外界は意識していない。ミルクが口の中に注ぎ入れられても流れ出てしまう。何も食べられない。この段階にとどまっていると、21日の間に肉体は放棄されます。それがブラフマジュニャーニの状態である。しかしお前たちの道は信仰の道です。それはたいそう良い。そしてたやすい道である。」

「あるとき、私にある人がこう言った――『先生! あなたがサマーディとお呼びになるものを、短時間に教えてくださいますか?』(皆が笑う)
 人がサマーディを得た後には、仕事は皆、用がなくなってくる。礼拝称名などの行事も、世間のつとめも、すべて脱落します。初めのうちはいろんな仕事がわんさとあるものだ。神に向かって進めば進むほど、物々しい仕事は減ってくる。神の名をたたえたり、歌うことさえできなくなるほどだ。
(シヴァナートに)お前がここに来るまでは、人々はお前について大いに語り、お前の徳を論じていた。しかし、お前がここに来るやいなやそれは全部やんだ。今はお前を見て、皆喜んでいる。人々はただ、『ああ! シヴァナートさんが来ていらっしゃる』と言うだけだ。お前についての他のすべての話は、やんでしまう。」

「私の場合も、この状態(サマーディ)の後、ガンガーの水でタルパン(死んだ身内に水を捧げる儀式)を行いに行った。しかし、手のひらで水をすくおうとすると、水が指の間から漏れてしまうのだ。私は泣きながら、ハラダリ(ラーマクリシュナの従兄弟)に、”兄さん、これはどうしたことでしょうか”と言って聞くと、ハラダリは、それは溶けてしまった手(ガリタハスタ)というのです、と言いました。神にお会いした後は、タルパンのようなおつとめも要らなくなる。
 キールタンのはじめに歌うだろう、”ニタイ、アマル、マタ、ハティ!(私のニタイは狂った像のように踊る)”と。宗教感情が高揚すると、彼はただ”ハティ! ハティ!”と言います。それから次はやっとのことで”ハティ!”と口を動かすだけ。そして最後には”ハ”と言ってバーヴァ・サマーディに入る。それまでその人はキールタンを歌い続けてきたのが、このとき黙ってしまう。
 また、ブラーフミンたちがごちそうに招かれた場合、最初はおしゃべりでたいそうやかましい。皆が木の葉の皿の前に座ったら、そのときにはただ『ルチをください』『こちらにルチをください』という声が聞こえるだけになる。それから彼らがルチやその他のごちそうを食べ始めると、そのときにはさらに四分の三の騒音は減るのです。最後にヨーグルトが出されると、そのときには、スプ、スプという音が聞こえるだけである。もう特に他の音は聞こえない。その後でお昼寝。そうするとみんな全く静まりかえる。
 それだから、宗教生活の最初のうちは人は仕事で大騒ぎをするが、心が神に深く潜るにつれて非活動的になる。最後には活動は停止し、サマーディです。」

「家庭で、嫁が妊娠すれば、姑さまは家の仕事を減らしてくれる。十ヶ月にもなれば、仕事をすることはほとんどありません。子供ができたら、もう全く他の用は足さなくてもいい。赤ん坊を抱いてヨシヨシとあやしているだけだ。家の中の仕事は姑や小姑や兄嫁、弟嫁たちがする。」


【アヴァターラたちの肉体はサマーディの後どうなるか――人々を導くために】

聖ラーマクリシュナ「普通は、サマーディに入った後は、肉体は残りません。いくらかの人が、他者に霊性の光をもたらすために肉体を生かし続ける。ナーラダのような賢者たちだ。それにチャイタニヤデーヴァのような神の化身の場合にもそうである。井戸を掘ってしまえば、人は普通は、鋤やカゴは捨ててしまう。また人によっては、もし近所の誰かに必要が生じたらと考えて残しておきます。こんなふうに、偉大な魂は、人間の苦しみ悲しみを気遣ってくれるのだよ。こういう人たちは利己的じゃないから、自分たちが智慧をものにしたからもうそれでいい、とは思わない。身勝手な人の話はよく知っているだろう。”ここに小便をしろ”と言うと、その人のためになるのを嫌って、言われたところで小便をしません(皆笑う)。1パイサのサンデーシュ(お菓子)を菓子屋から買ってくるように頼むと、それを舌で舐めながら持って来ます。」(皆笑う)

「しかし、力の現れ方は様々だ。普通の程度の器量では、人に教えることを恐れる。哀れな木ぎれは、自分自身はどうにか浮いていきますが、鳥が一羽来て止まれば沈んでしまう。ナーラダのような賢者たちは大きな丸太だ。これは自分が浮いているだけじゃなく、上に人間や牛や、象まで乗せて運んでいける。」

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