ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ラーマクリシュナの福音コミュのシヴァーナンダの生涯

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

マハープルシャ・シヴァーナンダ


 ラーマクリシュナ・パラマハンサの直弟子の一人であるスワーミー・シヴァーナンダは、マハープルシャ・マハラジ(偉大なる魂、偉大なる王)という呼び名で有名でした。ここでは、リシケシの偉大なヨーギーとして有名だった別のシヴァーナンダと区別するために、彼のことをマハープルシャ・シヴァーナンダと呼びたいと思います。

 彼は一八五〇年代に生まれましたが、正確な生年月日はわかっていません。彼自身、そのようなことに無頓着だったため、自分でも正確な年を覚えていなかったのです。彼の父は、インド人の多くがそうするように、息子が生まれたときにインド占星術の正確なホロスコープを作成しましたが、マハープルシャ・シヴァーナンダは、放棄の道を行くことを決心したときに、そのホロスコープをガンガーに捨ててしまったのでした。

 マハープルシャ・シヴァーナンダは、出家前の俗名はターラクナート・ゴシャールといいました。先祖の一人であるハラクリシュナ・ゴシャールは、クリシュナナーガル州の総理大臣でした。彼の父のラムカーナイ・ゴシャールは、十分な収入のある、成功した弁護士だっただけではなく、有名なタントラの修行者でもありました。その収入の多くは、修行者や、貧しい学生たちのために使われました。彼が、自宅に一度に20〜30人ほどの学生を泊まらせ、食事を食べさせるのは、珍しい光景ではありませんでした。そして後に彼は、クーチビハールの副総理になりました。

 このラムカーナイ・ゴシャールは、ラーマクリシュナが住んでいたドッキネッショルのカーリー寺院のオーナーであったラーニー・ラスモニの法律顧問をしていたので、仕事でたびたびカーリー寺院を訪れるうちに、ラーマクリシュナと知り合いになり、ラーマクリシュナの人柄に大いに惹かれるようになりました。

 さて、ターラクには、幼い頃から、その偉大な生涯を予感させる、様々な兆候が見られました。彼は頭は良かったものの、学業にはほとんど興味を示しませんでした。まだハッキリとしない漠然としたあこがれが、彼の心を悩ませ、しばしばわれを忘れさせ、物思いにふけらせました。彼は年若いうちから瞑想を好みました。しばしば、仲間たちと遊んだり笑ったりしている最中に、突然、厳粛で重々しいムードの中に入り、仲間たちは畏敬と驚異の念に打たれました。
 年頃になっても彼は大学には行かず、その当時の多くの若者が惹かれた新興宗教組織ブラーフモー・サマージに惹かれ、しばらくそこに通いましたが、それでも彼の心の飢えは、ほとんど満たされることはありませんでした。

 ある時期から父の収入が減り、ターラクは就職しなければならなくなりました。彼は仕事を探しにデリーに行き、そこでよくプラサンナという友人の家で、何時間も宗教的な話をして過ごしました。ある日、ターラクがサマーディについて尋ねると、プラサンナは、サマーディは滅多に経験されないきわめて希な現象であるが少なくとも一人、それを経験しているお方を知っていると答え、シュリー・ラーマクリシュナの名をあげました。ついにターラクは、生涯をかけて身をさ捧げることを定められた師の名を聞いたのでした。

 それからしばらくしてターラクはカルカッタに戻り、マッキンノン・マッケンジー商会に就職しました。このころターラクは、ラーマクリシュナの在家の中心的な信者の一人であるラームチャンドラダッタの家の近くに住んでいましたが、一八八〇年暮れのある日、ターラクは、ラーマクリシュナがラームチャンドラダッタの家においでになるということを耳にしました。ターラクは今こそ、噂に聞くラーマクリシュナにお目にかかろうと思い、ラームチャンドラダッタの家に行きました。
 夕方、ラームチャンドラダッタの家にターラクが行くと、ラーマクリシュナは、聴聞者でいっぱいの部屋の中で、半ば忘我の境地で話をしていました。ターラクはサマーディについての詳しい話を長い間切望していたのですが、驚いたことに、この日のラーマクリシュナは、まさにサマーディについて話をしていました。ターラクはラーマクリシュナにたまらない魅力を感じ始め、次の土曜日にドッキネッショルを尋ねることにしました。
 
 その頃ターラクは、ドッキネッショルについてよく知りませんでしたが、ある友人に伴われて、何とかたどり着きました。ついた頃には、夕方の礼拝が始まろうとしていました。ラーマクリシュナの部屋に入った瞬間、ターラクは深い感動に圧倒されました。目の前に座っておられるお方が、まるで自分の母親のように感じられたのでした。
 ラーマクリシュナはターラクに対して、「君は形のある神を信じているのかね? それとも形のない神かね?」と尋ねました。ターラクは「形のない神です。」と答えました。するとラーマクリシュナは、「しかし君は、神シャクティも認めないわけにはいかないだろう。」と言って、ターラクをカーリー聖堂に連れて行きました。
 そこでは、喜びに満ちた音楽の伴奏と共に、夕拝が続いていました。聖堂に来ると、ラーマクリシュナは、母なるカーリー女神の像の前にひれ伏しました。ターラクは最初、師にならって像にひれ伏することをためらいました。しばしば出入りしていたブラーフモー・サマージの教えによると、神の像は生命のないただの石に過ぎないので、礼拝してはいけないとされていたからです。
 しかし突然、ターラクの心の中に、ある考えがひらめきました。
「私は何と考えが狭かったのだろう。神は偏在しておられる。至るところに宿っておられるのだ。それなら神は石の像にも同じように存在しておられるに違いない。」
 そしてターラクは、カーリー女神の像の前にひれ伏したのでした。

 ラーマクリシュナはターラクに言いました。
「今夜はここに泊まりなさい。たまたま一日来たぐらいでは、長続きのするような効果は得られない。たびたびここに来なくてはならないよ。」
 ターラクはその日は友人の家に泊まる約束をしていたので、泊まらずに帰りましたが、その日以降、たびたびドッキネッショルのカーリー寺院を訪れるようになり、師ラーマクリシュナとの親しい交わりは深まっていきました。

 ある日、ラーマクリシュナはターラクに尋ねて言いました。
「あのね、私は普通は、ここに来る者がどこに住んでいるか、などということは聞かないのだよ。だが一目で、おまえは私の身内だということがわかった。だから、おまえのお父さんや家の人たちの事を知りたいのだ。」

 ターラクがラムカーナイ・ゴシャールの息子であると知ると、ラーマクリシュナは驚き、喜びました。そして彼が自分になした奉仕の話をし、「また彼に会いたいものだ」と言いました。
 それから少ししてラムカーナイ・ゴシャールは久しぶりにドッキネッショルを訪れ、ラーマクリシュナの前にひれ伏しました。ラーマクリシュナは彼の頭に足を置くと、深いサマーディに入りました。ラムカーナイ・ゴシャールは師の御足をひしと握って涙に暮れました。

コメント(5)


 ある日、ラーマクリシュナはターラクに「舌を出せ」と言って、彼の舌の上に、指で何かを書きました。するとターラクは圧倒的なエネルギーに包まれ、広大な感覚世界が彼の前から消え去り、心は内側へと深く入り込み、彼の全存在が忘我の境地に入りました。この現象はこの後も二度起こり、一度は兄弟弟子のブラフマーナンダが見ている前で起こりました。

 師ラーマクリシュナとの交わりは、ターラクがもともと持っていた神への渇望をさらに高めました。ターラクはラーマクリシュナと一緒にいると、よく泣きたくなりました。ある夜ターラクは、カーリー聖堂の前で思い切り泣いていました。それを見たラーマクリシュナは、彼にこう言いました。
「神は、ご自身のために泣く人を好まれる。そのようにして流された涙は、前世の罪を洗い流してくれる。」
 またあるときは、ターラクがパンチャヴァティ(ドッキネッショルにある、かつてラーマクリシュナもその下で修行した樹)で瞑想していると、ラーマクリシュナがやってきました。ラーマクリシュナは一言も発せずに、ターラクのそばにじっと立っていました。そしてラーマクリシュナがちらっと一目ターラクに目を投げかけた瞬間、ターラクは泣き出しました。むずむずした感覚がターラクの全身を通り抜け、体中がガタガタと震え出しました。ラーマクリシュナは、ターラクにこの経験が起きたことを喜び、それは神聖な感動からきたものだ、と言いました。

 ラーマクリシュナに初めて会った日から、ターラクは、ついに自分を無限のドアまで導いてくれるお方を見つけたと、心の奥で感じました。彼は直感的に、少年時代から持っていた漠然としたあこがれが、ラーマクリシュナの中に実現されていると感じたのでした。師ラーマクリシュナはあらゆる宗教の極地そのものであり、師を知ることは神を知ることであると思われました。このような確信が強まり、ターラクの師ラーマクリシュナへの信仰はどんどん増していきました。そしてラーマクリシュナもターラクをはじめとした弟子たちに計り知れない愛を注ぎ、ターラクもそれを強く感じていました。
 彼は晩年に、ある求道者への手紙の中で、師ラーマクリシュナの愛について、次のように書きました。

「私はいまだに、師がただの人間であられたのか、それとも超人であられたのか、神々のお一人であられたのか、あるいは主なる神ご自身であられたのか、ハッキリとわかっていません。しかしあのお方が、完全な自己忘却の人、至福の智慧をお持ちの最高の放棄の師、まさに愛の権化そのものでおありだったことは知っています。そして日が経つにつれて次第に深く霊性の領域のことを知り、シュリー・ラーマクリシュナの霊的な雰囲気の果てしない広がりと深さを感じるようになると、師を、一般に理解されているような神と比べることは、師のこの上ない偉大さを小さく低くするものだ、という確信が、私の内部に深まりつつあります。
 私は、師がその愛を、男にも女にも、学のある者にもない者にも、聖者にも罪人にも同じようにそそがれ、彼らが不幸から救われ、神を悟って究極の平安を得るようにと、常に気を遣っておられるのを見てきました。ですから近代、人類の幸福にこれほど尽くした師のようなお方は世界中のどこにもいなかった、とあえて言うのです。」

 あるとき、ターラクの姉が結婚することになったのですが、その頃ターラクの父は貧しかったために花嫁の持参金を用意できず、代わりに相手方の家の娘を、ターラクの花嫁として迎え入れることを承諾せざるを得ませんでした。しかし現世放棄の心が強かったターラクはこの計画を好まず、結婚を拒否し、世俗を放棄して出家しようと考えていました。
 しかしある日、この思いをラーマクリシュナに打ち明けると、ラーマクリシュナはこう言いました。
「どうして恐れることがあろう。私はおまえを助けるためにここにいるのだよ。もちろんおまえの妻が生きている限り、面倒を見なければいけないよ。少し辛抱しなさい。聖なる母が、すべてをうまく取りはからってくださるから。」

 師の助言に従い、ターラクは世を捨てることを一時延期して、姉のために結婚を受け入れました。
 結婚後、ターラクは妻を養うために働いて金を稼ぎましたが、それ以外は一切、妻に関わることなく、禁欲生活を貫きました。そしてしばらくして妻は突然、亡くなってしまったのでした。

 妻の死によって、ついに出家の時が来たと知ったターラクは、父に別れの挨拶をしに行きました。ターラクの決心を聞くと父は深く感動し、涙を流しました。彼はターラクの頭に手を置いて息子を祝福し、こう言いました。
「おまえが神を悟りますように。私は自分でも一生懸命努力した。出家しようとまで思ったのだが、そうはいかなかった。それだから私は、おまえが神を悟れますようにと祈って、祝福する。」

 ターラクがこのことをラーマクリシュナに話すと、ラーマクリシュナは非常に喜びました。師の同意を得て、ついにターラクは世を捨てた出家修行者の生活に入りました。

 一八八五年にラーマクリシュナが病に倒れ、その後、転地療養のためにコシポルのガーデンハウスに移ったとき、泊まり込みで師の面倒を見るために、ラーマクリシュナの若い弟子たちが集結しました。ターラクもその中の一人でした。彼らは協力して病床の師に付き添い、奉仕しました。この時期の師へのたゆまぬ奉仕と、共通の理想に対する忠誠心は、この若い求道者たちの間に、固い団結の絆を作り上げました。この時期、彼らの中にくすぶっていた現世放棄の思いはよりいっそう燃え上がり、彼らは悟りを切望しました。
  
 その後、師ラーマクリシュナが亡くなると、若き弟子たちは、「バラナゴルの幽霊屋敷」と呼ばれたボロ屋に集まり、世を捨てた生活に入りました。最初にここにやって来たのは、もともと出家生活を続けていたターラクでした。そして集まった若者たちは正式に出家の誓いを立て、ターラクは「スワミ・シヴァーナンダ」という新しい名前になりました。
 あまりにも偉大な存在であった師ラーマクリシュナの師は、弟子たちの心に言いしれぬ空虚感を生み出しました。彼らは、肉体がなくなっても師は永遠に現存しておられるということを実際に悟るために、ほとんどの時間を一心不乱に瞑想して過ごすようになりました。しばしば彼らは僧院からも離れ、にぎやかな場所や親しい人たちを避けて、あちこち放浪しました。この数年間におけるラーマクリシュナの弟子たちの苦行期の詳しい内容は、おおかた謎に包まれていますが、まさにこの時期に、後のラーマクリシュナ・ミッションを支える偉大な聖者たちが鍛えられていったのでした。
 この時期のことを回想して、後にシヴァーナンダはこのように言っています。

「身体を覆う布がたった一枚しかないことはたびたびだった。幾夜も樹の下で眠った。当時は放棄の精神が燃えさかっており、肉体の安楽という考えは全く心に浮かばなかった。ほとんどお金を持たずに旅をしたが、主の恩寵によって、一度もきわどい目には遭わなかった。師の生きた存在が常に私を守ってくださったものだ。よく、次の食事がどこから来るのかわからなかった。その時期には、内部の深い、満たされぬ思いにさいなまれ、心は神を渇望した。人々と接するのがいやだった。普通の人々が通る道を避けたものだ。夜が近づくと、枕にするに足るだけの場所を探し、自分の思索だけを友として、一人で夜を過ごしたものだった。」

 兄弟弟子たちのリーダーであったヴィヴェーカーナンダは、ヒマラヤからインド最南端のコモリン岬までを徒歩で旅しながら修行を続けた後、後援者の支援を受けてアメリカに渡り、大成功を修めました。そのヴィヴェーカーナンダのインドへの帰国をもって、シヴァーナンダの放浪の日々も終わりを告げました。彼はヴィヴェーカーナンダを出迎えるためにマドラスにおもむき、一緒にカルカッタに戻りました。そして同年、ヴィヴェーカーナンダの要請によってセイロン(現在のスリランカ)に行き、約八ヶ月にわたって教えを説きました。
 セイロンではシヴァーナンダはバガヴァッド・ギーターとラージャヨーガの教室を開き、それは西洋人を含めた地元の教養人たちの間で人気を博しました。
 1899年、カルカッタで疫病が流行したとき、ヴィヴェーカーナンダの指示により、シヴァーナンダは、自分の身体の安全は少しも顧みずに、病人たちの救済活動に全力を尽くしました。


 ヴィヴェーカーナンダが亡くなる直前、ビンガーの王がヴィヴェーカーナンダに多額の布施をしました。ヴィヴェーカーナンダはそれをシヴァーナンダに渡し、ヴァーラーナシーにアシュラムを開設するように指示しました。この命を受けてシヴァーナンダは1902年にそれを実現しました。

 シヴァーナンダはその後七年間にわたって、このヴァーラーナシーのアシュラムで暮らしました。
 このヴァーラーナシー・アシュラムは、対外的にはほとんど活動をおこなわず、ただ純粋に修行者達が修行をおこなうための施設でした。そのために資金はすぐに底をつき、ときには、日常生活に必要な費用がどこから来るのかさえわからないときもありました。しかしシヴァーナンダはそのようなことに惑わされることなく修行を続けました。
 シヴァーナンダの一日のほとんどは、修行に捧げられていました。彼はほとんどアシュラムから外に出ることもなく、昼夜、心を神秘的な高い状態に保っていました。
 アシュラムの生活は、厳しい規律と苦行の日々でした。修行者達が日々の食事も満足に取れない日々が何ヶ月も続き、厳しい冬をしのぐための衣服も不足していました。冬期には修行者達は午前三時頃に起床し、ドゥニ・ファイヤーに火をつけて、その前で瞑想するのでした。瞑想はそのままお昼まで続くこともしばしばでした。
 当時、ラーマクリシュナ・ミッション全体の書記役を務めていたスワミ・サーラダーナンダは、シヴァーナンダとこのアシュラムのことを心配して、資金調達の努力をするようにシヴァーナンダに強く促しました。また冗談交じりに「単なる瞑想でお金が入ってくるかね?」とも言いました。しかしシヴァーナンダはそのようなことには全く無頓着に、修行を続けたのでした。

 1910年、シヴァーナンダは、ラーマクリシュナ・ミッションの副会長に選ばれました。また1917年にはベルル僧院の運営を司っていたプレーマーナンダが病に倒れたため、その重い任務をシヴァーナンダが引き継ぎました。そして1922年にブラフマーナンダが他界すると、シヴァーナンダはその後を受け、ラーマクリシュナ僧院とラーマクリシュナ・ミッションの長となりました。

 この後、昔からの仲間である兄弟弟子や信者たちが相次いで亡くなったり、僧院運営において様々な困難や背信行為があったり、そしてシヴァーナンダ自身の身体もひどく病に悩まされたりしました。しかしそのような苦難の洪水も、シヴァーナンダの神への信という燃える炎の輝きを、一瞬たりとも弱めることはありませんでした。
 毎晩、食事が済むとシヴァーナンダは、必ず一人になり、深い瞑想に没入しました。ほとんど途切れることのない信者や一般の人々の訪問のただなかにあって、少しでも自分の時間が見つかると、いつでもその状態に立ち返りました。


 かつてヴィヴェーカーナンダが存命中、僧院の面倒を見ていた頃、ヴィヴェーカーナンダは、僧は必ず朝四時に起き、礼拝堂に集まって瞑想するという規則を作りました。しかしある日、シヴァーナンダは瞑想の時間になってもベッドで眠っていました。するとヴィヴェーカーナンダは彼にやさしくこう言いました。

「ねえ、あなたには瞑想など必要ないということは分かっています。あなたは聖ラーマクリシュナの恩恵によって、最高の目標にすでに達しておられますから。しかし、若い者たちに手本を示すために、彼らと一緒に毎日瞑想すべきです。」

 その日以来シヴァーナンダは、病気であろうと何であろうと、いつも若い仲間たちと共に礼拝堂で早朝の瞑想を続けたのでした。それは彼の身体が本当に弱り、部屋から出られなくなるまで続けられました。
 彼はよくこう言っていました。

「早朝、心を神への思いで満たしておきなさい。そうすれば、心を散らす様々な活動に従事していても、心の羅針盤の針はいつも神の方を指しているでしょう。」



 1930年以降、まだ歩くことはできましたが、シヴァーナンダの身体は病気にひどく蝕まれていました。しかしひどい肉体的苦痛の中にあっても、彼は喜びと平安を周囲に放射していました。肉体をさいなむ激痛に対する不平の言葉が彼の口からもれるのを聞いた人は、一人もいませんでした。彼の健康を心配する人々に対して、彼が好んで使った言葉は、
「ジャナキー(シーター)は、ラーマの御名を唱えることができるうちは大丈夫です」
というものでした。
 彼の治療をしに来た医師たちは、ひどい病気の中でも全く弱まることのない、彼の楽天的な精神を見て驚嘆しました。

 また、シヴァーナンダはよく、当時ペットとして飼っていた犬を指さして、
「あいつの主人はここにいる(自分のこと)。そしてこれ(自分のこと)は彼の犬だ」
と言って、師ラーマクリシュナの聖堂を指さすのでした。

 老いと病によって身体が不自由になってからも、シヴァーナンダは苦しみ悩む多くの人々に祝福を与え続けました。貧富や貴賎を問わぬおびただしい数の老若男女、家を持たない人々や賎民たち、運命にうちひしがれ、人生のあまたの不幸に動揺する人々が、シヴァーナンダのもとへやってきては、意気揚々と帰って行くのでした。優しいまなざし、励ましの言葉、そして目には見えないもっとリアルな何ものかが、失敗と絶望で生きる力を失っていた人々に、新しい希望と活力を与えたのでした。

 ある夜のこと、若い僧の何人かが、ベルル僧院の一階のベランダで、ふざけ合って大声で笑っていました。にぎやかな笑い声が、シヴァーナンダの部屋にまで聞こえてきました。シヴァーナンダはこれを聞くと、やさしくこう言いました。

「若者たちが大笑いしている。幸せなようだね。彼らは至福を求めて、家族の団らんを捨ててきたのだ。師よ、彼らを至福で満たしてやってください!」


 1933年5月、シヴァーナンダは脳卒中の発作を起こし、それによって言葉を話すことができなくなり、また半身不随になりました。
 しかし言葉と半身の自由を失ってからでさえも、皆の役に立ちたい、という変わらぬ熱望がハッキリと現れていて、彼の優しいまなざしと、祝福を与える左手のやさしい動き、そしてその聖なる存在そのものが、書物に書かれた無数の言葉以上に、意気消沈した人々の心を奮い立たせました。

 そして1934年2月20日、シヴァーナンダは肉体を捨て、マハーサマーディに入ったのでした。


ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

ラーマクリシュナの福音 更新情報

ラーマクリシュナの福音のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング