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ラーマクリシュナの福音コミュの師とケシャブ・セン

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ラーマクリシュナの福音

「師とケシャブ・セン」より



1882年10月27日(金)


ケシャブ・チャンドラ・セン氏と聖ラーマクリシュナの楽しい船旅――喜びと会話


聖ラーマクリシュナ、サマーディの境地にて


 今日はコジャーガル(アッシン月の満月の日に断食をしてラクシュミー女神を礼拝する日)、ラクシュミー・プージャの日であった。ケシャブ・チャンドラ・センが、シュリ・ラーマクリシュナのためにガンガーの船遊びの用意をしていた。
 午後四時頃、ケシャブと彼のブラフモ会員達を乗せた汽船が、ガンガー、ドッキネッショルのカーリー寺院の前あたりに到着した。タクルはボートで汽船のところまで行かれ、お乗りになるのだ。ヴィジャイがお供をした。ボートに乗られるとすぐ、外界の意識を失われた! サマーディに入られたのだ!
 校長は汽船の甲板に立って、このサマーディの様子を拝見していたのである! 彼は乗客の中にいた。三時頃ケシャブの船に乗り込んで、カルカッタから来たのである。タクルとケシャブの交歓をこの目で見、お二人の会話をこの耳で聞きたいと、心から希望してのことであった。ケシャブの人格とその講演で述べられる言葉の数々は、多数のベンガル人の心を強烈につかんでいる。また多くの人々が、最上の友として彼を心から敬愛している。ケシャブはイギリス式の教育を受けた人であって、英語で哲学や文学上の作品を書いている。また彼は、神々や女神達を拝むのは偶像崇拝であると、以前から繰り返し強調していた。このような人物が、聖ラーマクリシュナを心から尊崇して、何度もタクルをおたずねしているのであった。これは実に驚嘆すべき出来事だ。
 二人の心がどの点で一致するのか、あるいはどんな具合に調和しているのか、その秘密は、校長の他にも多くの人達が不思議に思い、ぜひ解明したいと願っているのである。タクルは無相の実在、つまり無形の神を信仰する人々に賛成し、また同じく、人格神、つまり有形の神を信奉する人々にも賛成する。ブラフマン(すなわち無相の実在)を瞑想し、また神々や女神の像の前に花や白檀香を捧げて祈り、神の愛に酔いしれて歌ったり踊ったりなさる! 小さいベッドにお座りになって、身におつけになるものは赤い縁取りの下衣、上衣、靴下、靴。だが、世間的な事は一切なさらない。気持ちは全くのサンニャーシンそのものである。であるから、人々はこのお方をパラマハンサと呼んでいる。一方、ケシャブは無相の実在を信奉し、妻もあり息子もあり、世間並みの生活をし、英語で講演や講義を行い、新聞を書き、実業家でもある。
 ケシャブの指導する大勢のブラフマ会員達は、船から神殿の美しいたたずまいを眺めていた。船の東の方、さほど遠からぬところにレンガ造りのガートと神殿の石畳がある。重なり合った左側の張出しの北には、12のシヴァ堂のうち六つのお堂が並び、南にも六つ並んで建っている。秋の紺碧の大空を背景に、バヴァタリニー(救いの女神=カーリー女神)の神殿の塔とその北のパンチャヴァティ、およびジャウ樹の茂みが望見できる。バクル樹台の近くに一つとカーリー殿の南端に一つ、音楽塔が見える。この二つの音楽塔の間にある庭路には、どこもかしこも花の咲いた樹が両側に並んでいる。絵の具を塗ったような秋空の青さが、ガンガーの水に照り映えている。
 外の世界も美しく優しく、ブラフマ協会の会員達の心も優しく和んでいる。頭上には果てしなく広がる紺青の空、前面には優美な神々の館、下は聖なる水ガンガー、その岸辺には貴きお方が、日夜、神を瞑想しておられるのだ。さらにそのサナータナダルマの化身であるところの一つの偉大なる魂が、ここに見えようとしているのだ。このように幸運な機会は、人の一生に於いて滅多にあることではない。このようなところに、サマーディに入った大聖者が出現なさったのであるから、岩のような心臓の持ち主でも、感激のあまり胸が震えて溶けること請け合いである。

コメント(12)



サマーディ、真我は不滅


 人が古くなった衣服を捨てて
 新しい別の衣服に着替えるように
 魂は使い古した肉体を脱ぎ捨て
 次々に新しい肉体を着るのだ

 ――ギーター 2−22


 ボートがこちらへ進んできた。皆は全員がシュリ・ラーマクリシュナを見ようとして、手すりに押し寄せた。ケシャブは、彼を無事に乗船させようと気を揉んでいた。ようやくのことで、タクルは外界の意識を取り戻して、船室の中に連れ込まれた。だが、まだ放心状態で、一人の信者に支えられていらっしゃる。機械的に足を動かしておられるだけである。ケシャブたちがお辞儀をしたが、少しもお気づきにならぬ様子であった。船室にはテーブルが一つと椅子が数脚置いてある。彼は一つの椅子に導かれ、ケシャブも椅子に腰掛けた。他の信者たちのおおかたは床に座り、その他大勢は場所がなくて外に立っていた。彼らは熱心に室外からのぞいている。シュリ・ラーマクリシュナは再び深いサマーディに入られた! 全く外界の意識をなくされているのだ! 一同は身じろぎもせず、その様子を見ている。
 大勢の人で部屋の空気が息苦しくなり、タクルのためにもよくないだろうと思って、ケシャブが部屋の窓を開けた。ヴィジョイはケシャブから離れてサーダーラン・ブラフマ・サマージの会員になり、ケシャブの娘の結婚などの事を批判した講演を何回もおこなっているので、ケシャブはヴィジョイと会って、いささか困惑の態であった。
 ブラフマ協会の会員達は、待ち受けるような顔つきで師を見つめていた。タクルの感覚意識は徐々に解けてきた。しかしまだ神に酔った状態は残っていた! 彼は独り言をささやいておられた――「マー、あなたはなぜ私をここに連れておいでになったのですか? 彼らは垣に囲まれて自由ではありません。この人達を解放することが、私にできるだろうか?」
 タクルは、世間の人々が囲い堀につながれていて、外に出ることができず、外の光も見ることができず、誰もが世俗の行為に手足を縛られているありさまを見通されたのであろうか? 彼らにとって人生の目的は、肉体上の喜びと、世俗的な行為だけ、つまり”愛欲と金”だけだと思っていることを! 彼らの無力さが、師をして母なる神にこのようなことを言わしめたのだろうか。
 シュリ・ラーマクリシュナは、徐々に外界の知覚を回復してこられた。ガジプルのニルマダヴさんとブラフモ会員が、パオハリ・ババのことを話し合っていた。他の一人がタクルに向かって――
「先生、この人達は、パオハリ・ババに会いに行ったのでございます。彼はガジプルに住んでおられます。あなた様と同じような聖者です。」
 タクルは、ほとんど口をきくことができず、ただ微笑なさった。その信者はまたタクルに――
「先生、パオハリ・ババは、自分の部屋にあなたのお写真を飾っておられますよ。」
 タクルはまたほほえんで、自分の体を指しながらおっしゃった――
「枕のカバーだよ!」

三つのヨーガの合一


 サーンキャを通じて至る境地には
 ヨーガによっても到達する
 この二つを同じと見る人は
 事物の実相を了解した賢者である

 ――ギーター 5−5


 タクルは平常に戻られて、次のように語られる。

「けれども、信者の胸は神様のお住まいだ、ということは覚えておいで。彼はあらゆる生き物に宿っておられる。しかし信者の胸の中は特別だ。地主は自分の領地のどこにでも住むことができる。しかしいつもは彼は決まった応接間にいるという話だよ。信者の胸は神様の応接間だ。」

 一同は、見るからにうれしそうな表情になった。

師「ジュニャーニがブラフマンと呼ぶものをヨギたちは真我といい、バクタたちはバガヴァン、イーシュワラと呼んでいる。同一のブラーミンでも、聖堂でお勤めしているときには司祭と呼ばれ、台所で食べ物を料理しているときはラドニバヌン(ブラーミンの料理人)と呼ばれるのだ。ジュニャーナ・ヨーガに固執しているジュニャーニは、(実在は)これではない、これではない、という具合に打ち消し続けて、常に実在を求めて推理をする。ブラフマンは『これ』でもなければ『あれ』でもない。それは生き物ではない、宇宙でもない。このように推理をして、心は堅固になる。それからそれが消えて、しまいに心が静かになり、無心になってサマーディに入る。そして、ブラフマンの叡智に達する。ブラフマンの叡智を得ようとする人の正しい考えは、ブラフマンのみが真実、世界は幻であるということ。すべての名と形は夢まぼろしだということ。では、ブラフマンはどんなものかといえば、説明することはできない。人格神があるかどうかなどということは問題にもならない――ジュニャーニたち、つまりたとえばヴェーダーンタ派の人たちはそんなふうに言っている。
 しかしバクタは、あらゆる状態を受け入れる。この毎日の目覚めている状態も真実だという――世界は幻だ、などとは思わない。この宇宙は神の力と栄光の現れだという。大空、星々、月、太陽、山や海、人間、動物など――をおつくりになった。あのお方の素晴らしい栄光を構成しているのだ。あのお方は我々の奥深くに、我々の胸の中におられる。また、外にだっていらっしゃる。最も進歩したバクタは、彼ご自身が24の宇宙原理、宇宙、生物になっておられると言う。バクタは砂糖を食べたいということが望みで、砂糖そのものになりたいとは思わないのだ(一同笑う)。
 信仰を持った人達の気持ちがわかるかい? 神よ、あなたはご主人、私はあなたの召使い。あなたは母さん、私はあなたの子供。あるいはまた、あなたは私の父と母。あなたは全体、私はあなたの一部分。こういう気持ちなんだ。”私はブラフマンである”などという気は全くないんだ。
 ヨギもパラマートマン、すなわち至高の真我を悟ろうとして一生懸命励んでいる。ヨギの理想は、この肉体に宿る魂(ジーヴァートマン)とパラマートマンとの合一である。彼は世の中のことから心を引っ込めて、それをパラマートマンに集中しようと努力する。それ故、初めのうちは彼は人里離れた静かなところで、決まった姿勢を取り、堅固な心で精神を集中して瞑想する。
 けれども、本体は同一である。違いは名前だけだ。ブラフマンである彼が真我であり、そしてそれがバガヴァンだ。彼はジュニャーナ・ヨーガの信奉者にとってはブラフマンであり、ヨギにとってはパラマートマンで、神を信仰する者にとってはバガヴァンなのである。」
ヴェーダとタントラの調和――豊穣なるアディヤシャクティ


 あなたは精妙であり、かつ粗大
 あなたは顕現にして非顕現
 あなたは形があって、また形がない
 そんなあなたを、どうして知り得ようか

 ――マハー・ニルヴァーナ・タントラ


 蒸気船は、一路カルカッタの方に向かって進んでいた。船室の中で聖ラーマクリシュナに面と向かい、乗客達はその天上の甘露したたる言葉に聞き惚れて、船の動きのことなどは気がつかなかった。ミツバチは花にとまると、もうブンブンいわない。
 船は次第にドッキネッショルから遠ざかった。美しい聖堂や庭園の景色も背後に残された。船の外輪は、青みがかったガンガーの水にあぶくを立てながら進んでいった。信者達の耳には、これら波の音も一切届かなかった。彼らは完全に魅せられて、偉大な一人のヨギを眺めていたのである――ニコニコ笑う顔、その容貌は愛を放射しつつ、目は喜びに輝いている、一目見たら好きにならずにはいられぬような、何とも懐かしい様子のこの素晴らしいヨギを!――神のために一切を捨てた人、そして神のこと以外の何ものも知らない人を! 
 タクルのお話は続いている。

師「ヴェーダーンタ派の非二元論哲学を固守するブラフマンの叡智の行者達は、創造と維持と破壊の行為、宇宙それ自身、および生物は、すべてシャクティのリーラーであると言う。もしそれをよく考えて推理していけば、すべてのものは夢のように幻影的なものだ、ということをお前達は悟るだろう。このシャクティでさえ夢のように実質のないものである。
 しかし、たとえ何千何万回考えて推理をしても、サマーディに定住しない限りは、シャクティの支配から逃れる道はない。”私は瞑想している””私は考えている”とか言う時でさえ、まだお前達はシャクティの領域内、それの力の勢力内でのことだよ。
 このようにブラフマンとシャクティは同一のものである。もしその一つを認めるなら、あとの一つも認めなければならない。ちょうど火とその燃える力のようなものでね――火を心に思い浮かべると、燃える力も一緒に思う事になる。燃える力を抜きにして火を想像することはできないし、火を抜きにして燃える力を考えることもできないだろう。太陽のない太陽光線を考えることはできないし、光線のない太陽を考えることもできない。
 ミルクはどんなものか。お前達は言う、おお、それは白いものですと。お前達は白さを抜きにしてミルクを思い浮かべることはできない。
 このように、人はブラフマンなしにシャクティを考えることはできないし、シャクティなしにブラフマンを考えることもできない。相対世界を抜きにして絶対者を考えることも、絶対者を抜きにして相対世界を考えることもできないのだ。
 本源力(アディヤシャクティ)は、常に永遠に遊んでいる。創造し、維持し、破壊している。この力が、カーリーと呼ばれるものである。カーリーこそブラフマン、ブラフマンこそカーリーなんだ! それは全く同一の実在なのである。ただ一つの本体が非活動であるとき、つまり創造、維持、および破壊の仕事をしていなさらぬものとして考えるとき、我々はそのお方をブラフマンと呼ぶ。そのお方がそうした活動をおこなっているときにはカーリーとかシャクティと呼ぶ。実在はただ一つ。名前と形が違うだけ。
 水のことを、ジョルともウォーターともパニともいうようなものだ。一つの池に三つか四つの沐浴場があるとする。一つの沐浴場でヒンドゥーは水を飲んでジョルと呼ぶ。もう一つの場所でイスラム教徒は水を飲んでパニと呼ぶ。また別の場所でキリスト教徒達はそれをウォーターと呼ぶ。三つとも一つのものなのに、違いは名前だけにある。あのお方のことをある者はアッラーと呼び、ある者はゴッドと呼んでいる人もあり、ある者はブラフマン、またはカーリーと呼ぶ人もある。ラーマ、ハリ、イエス、ドゥルガーというような名で呼ぶ者たちもある。」

 ケシャブはほほえみながら――

「カーリーは何種類ぐらいの姿でお遊びになるのか、お話しくださいませんか。」

師「はっはっはは――あのお方はいろんな様子でお遊びになるよ。マハーカーリー、ニティヤカーリー、シュマシャナカーリー、ラクシャカーリー、シャーマカーリーなんだ。マハーカーリーとニティヤカーリーのことはタントラの哲学に出ている。まだ創造がなく、日も月も地球もなく、闇が闇に包まれていた時、母、形なきものマハーカーリー、偉大なる力は、永遠の絶対者マハーカーラと一体であった。
 シャーマカーリーはだいぶ優しい面を持っており、家内安全の守り神だ。彼女は在家の人の家庭で礼拝されている。
 醜い流行病、飢饉、凶作、地震、日照り、洪水などの時にはラクシャカーリーに祈ったらいい。
 シュマシャナカーリーは破壊力の権化である。彼女は死骸、ジャッカル、ダーキニー、ヨーギニーに囲まれて火葬場に住んでいる。口から血を流して、首には人間の頭蓋骨でできた輪をかけており、腰には人間の手を連ねた帯をしめている。
 大周期の終わり、世界が滅びる時、母なる神は創造のために種子をお集めになる。彼女は、家事に入り用の雑多な品々を入れておく瓶を持った年輩の主婦に似ている。(皆が笑う)
 あっははははは、そうなんだよ! 主婦達はそういう瓶を持っている。中には海の泡(海岸で見つかるイカの骨や美しい貝殻など)だの、青い色をした丸薬だの、キュウリの種子、カボチャの種子、ひょうたんの種子などの小さい包みなどを入れておき、入り用の時にそれらを取り出す。ブラフマンの具象であるマーは、創造破壊の後に、そうした種子をみな拾い集めておきなさる。創造の後では、シャクティはその宇宙世界に宿る。彼女は宇宙を生み、それからその世界の中に住んでいらっしゃるのだ。ヴェーダでは、創造は蜘蛛と蜘蛛の巣にたとえられている。蜘蛛は自分の身体から糸を取りだし、その糸の網の中に住む。神は宇宙の容器であり同時に中身でもあるのだ。
 我が母なるカーリーはどんな色の肌だと思う? 遠くから見るので黒く見えるが、よく見ると黒くはない。空は遠くからは青く見えるが、近寄って見れば色がないということがわかるだろう。海の水は遠くからは青く見えるが、近くに行って手ですくってみれば、色はないことがわかる。」

 師はその話の後、神の愛に酔ったように、歌を歌い始められた。

 私の母は黒いでしょうか
 黒い色の裸のお方が、
 胸の蓮の座に灯をともす
この世俗性はどうしたことか?


 グナからなる三種の状態に世界は惑わされ、これらすべてのグナを超越している私を、世界は知らない。

――ギーター 7−13――


 師はお続けになった。

「束縛と自由の二つとも、あのお方のなさること。あのお方の不可思議なマーヤーによって、世俗の人間になり、『愛欲と金』に巻き込まれ、そしてまた、彼女の恩寵によって自由な人(解脱者)となります。あのお方は、この世の束縛を取り除くお方、救いの女神だよ。」

 そのように言うと、ガンダルヴァも裸足で逃げ出すような世にも美しい声で、ラームプラサードの歌を歌われた。


 この世の忙しい市場の真ん中に シャーマ、
 あなたは凧をあげている。
(ほら、あそこに)希望の風に上がり行く。凧を繋ぐはマーヤーの糸。
 それらの枠はそのまま人の骨格、三つのグナの帆を張って
 世間の地面にしっかりと 糊つき糸で繋がれて

 罪と徳とが入り乱れ 重さ軽さも自分から
 律儀なのやらアホなのやら 堂々巡りの輪を描いて

 幾百万の凧の中のせいぜい一つか二つの糸が切れ
 飛び行く凧を眺めては、母は大笑いして手をうつ。
 追い風に乗り、とプラサードは言う、凧は解き放たれて、
 この世の海をひとっ飛び、
 気持ちよく 楽しい彼岸に、速やかに運び去られる。


 師は言われた、

「母なる神はリーラー・マイー(遊戯の女神)です。彼女は遊び好きで、常に戯れています。この世は彼女の遊びです。彼女はイッチャー・マイー(ワガママいっぱいの女神)、アーナンダ・マイー(喜びに満ちた女神)です。彼女は、百万人の中の一人に解放をお与えくださる。」

ブラフモー会員「先生、あのお方は、もし望みさえすれば、すべての人を自由にすることがおできになるはずです。ではなぜ、私たちをこの世に縛り付けておかれるのですか?」

師「それが彼女の思し召しなのだ。鬼ごっこで、鬼婆に最初から触ってしまったら、鬼ごっこはできない。もし皆が触ってしまえば、鬼婆は面白くありません。遊びの続くことが、彼女の喜びなのです。それだから、
『幾百万の凧の中のせいぜい一つか二つの糸が切れ
 飛び行く凧を眺めては、母は大笑いして手をうつ』
のです。」(一同喜ぶ)

「彼女が、人の心に目配せして、『行って、今のところはこの世を楽しんでおいで』と言われるようなものである。どうして心に落ち度がありますか。もし、彼女がお慈悲によってそれを彼女にお向けになるなら、そうなれば自分を世俗的な知恵の手から解き放つことができるのだ。そのときに初めて、あのお方の蓮華の御足に献身するようになるのである。」


 タクルは、家庭生活をしている人の気持ちになり、母なる神に苦情を述べる歌をお歌いになった。


 私は悲しい この悲しみを嘆く
 母なるあなたがついていて
 しかもはっきり目覚めているのに
 部屋に盗賊が入るとは。
 幾たびも幾たびも、あなたの御名を唱えようと思う。しかしそのときには忘れてしまう。
 今はわかりました。全部あなたのトリックです。
 何も与えず、受け取らず、持たせず、食されない、それは私の落ち度か。
 もし、与え、保存し、受け取り、食されるのなら、
 いつも与えては取り上げるのが、あなたのやり口。
 名誉、不名誉、苦いも甘いも、
 すべてあなたのもの
 この世はあなたのお遊び気まぐれ
 それをなぜ、自分は離れて高みの見物
 なぜそんなにいつもふざけていたいのですか。

 ラームプラサードは言う、――あなたは私にこの心を与え、目配せして、
 行って世間を楽しめとお命じになりました。
 創造の夢の世界を駆け回り
 焼ける思いを楽しんでおいでと。


 師はお続けになった。

「人間はあのお方のマーヤーによって、欺かれてこの世界に執着しているのだ。
 ラームプラサードは、『あなたは私にこの心を与え、目配せして、行って世間を楽しめとお命じになりました』と言っている。」



【カルマヨーガに関する教訓――世俗的仕事と無私の仕事】

ブラフモー会員「師よ、何もかも全部捨ててしまわなければ、神に触れることはできないのでしょうか?」

師(笑いながら)「そんなことないよ! 何もかも捨てねばならぬなどということがあるものか。真ん中の道――お前たちはちょうどいい湿り具合だよ、うまくやっています。(みな笑う)
 ナスクというゲーム(持ち点が17点以上になると上がるカード遊び)を知っているか。 私は最高点数を稼いだものだから、ゲームから外されてしまいました。もうそれを楽しむことができない。あなた方は非常に利口だ。ある人は10点、ある人は6点、またある人々は5点です。皆がちょうど良い点数を稼いでいる。それだから、私のように仲間から外されることなく、ゲームを続けることができる。まあ、実にけっこうだ。」(みな笑う)

「私はお前たちに本当のことを言っているのです。世間で暮らしているのは、ちっとも悪いことじゃない。しかし、心はいつも神様の方に向けていなさい。そうしないとダメだよ。片手で世間のつとめをし、もう一方の手でしっかり神をつかんでいなさい。仕事が終わったら、両手でしがみつくことになるだろう。 
 すべては心の問題である。束縛と解脱は、心だけのものである。心は、お前たちが染めるとおりの色になるのだ。それは洗濯屋の布のようなものだ。それらはもし赤く染めれば赤くなり、青色に染めれば青く、緑色に染めれば緑色になるだろう。どんな色の染料に浸してもその色に染まる。
 ごらん、少し英語を勉強すると、すぐに『フット・ファット、イット・ミット』なんてね(一同大笑い)。そのうち、長靴を履き、口笛を吹くなど、すべてが同時に始まる。また、学者がサンスクリットをやりだすと、彼は直ちにサンスクリットの聖句を朗唱するだろう。悪い仲間と交わると、その仲間と同じように話し、また考えるようになる。これに反して神の信者のところに心を置くと、心は神を思い、神の話などの、それらすべてになじむでしょう。」

「心がすべてです。一方に妻を、片方に子供です。彼は、妻を一つの態度で、子供をまた違った態度で愛します。しかし、同じ一つの心です。」


ブラフモー信者たちに対する教示、――キリスト教、ブラフモー協会と罪の話


 あらゆる宗教の形式を斥け
 ただひたすら私に頼り、服従しなさい
 そうすれば、私がすべての悪しきことから君を守ってあげよう
 だから、なんら心配することはない

 ――ギーター 18−66――


 聖ラーマクリシュナ、続けてブラフモー会員たちに語られる。

「束縛は心のもの、解脱もまた心のものだ。”私は自由な魂だ。世間に住もうと密林の中に住もうと、何ものにも束縛なんぞされるものか。私は神の子、王たちの王の子供である。誰がこの私を束縛できるものか”と、こう思っていろ。もし蛇にかまれても、『毒はない』と断固として言い切れば、人はその毒を免れることもある。同じように、勇気と決意とをもって『私は縛られてはいない。私は自由だ』と、いつもこの言葉を繰り返していると、本当に自由になるのだ。」

【昔話――聖ラーマクリシュナのバイブルの話を聞くこと。クリシュナキショルの信念】

「いつかある人が私にキリスト教の本をくれたので、読んで聞かせてくれるように頼みました。その中にあったのは、ただもう罪のことしか書いてなかった。(ケシャブに)ブラフモー協会でも、罪の話ばかり。”私は束縛されている、私は縛られている”なんてばかり言っていたら、そんな人間は束縛されることに成功するだけだ。」

「人は、
『なんだって、私は神の御名を唱えているのだぞ。なんでわたしのところに罪なんかがくっつくことができるのか。どうして私が罪人などになれよう。どうして私が縛られることなどあり得よう』
と言うことができるほど、神の御名に強い信仰を持ちたいものです。
 クリシュナキショルは、それはもう正真正銘のヒンドゥー教徒で正統なブラーミンだが、彼は、聖地ヴリンダーヴァンに行ったとき、ある日、終日歩き続けて、水が飲みたくなりました。井戸を見つけてそばへ行くと、一人の男が立っていた。
『おい君、君のカーストは何だ? 私に壺一杯の水を汲んでくれんかね?』
と頼みました。彼は、
『尊者様、私は低い階級、靴を作っている者でございます』
と答えました。クリシュナキショルは、
『シヴァ神の御名を唱えろ。さあ、水差しを受け取って、水を汲んでおくれ』
と言った。」

「もし神の御名を唱えれば、人の心も身体もすべて清められる。なぜ、罪や地獄やそのたぐいの話ばかりを言っているのか? 一度こう言え。
『神様、私はたしかに悪いことをいたしました。しかし二度といたしません』
と。そして彼の御名を信ぜよ。」

 シュリー・ラーマクリシュナは、神の愛にうっとり酔って、お歌いになった。

  もし私がドゥルガーの御名をとなえつつ死ぬことさえできるなら
  どうしてあなたが、おお、聖き御方よ、
  私に救いを拒むことがおできになりましょう、
  たとえ私が惨めな奴でありましょうとも。
  私は一杯の酒を盗んだかも、またはまだ生まれぬ赤子を殺したかもしれない。
  あるいは女か、または雌牛を殺したかもしれない。
  ブラーミンを死に至らしめたことさえあるかもしれません。
  しかし、そのすべてが真実だったとしても
  私はすこしも不安は感じない。
  あなたの甘美な御名の力により、
  私の惨めな魂でも、
  ブラフマンの悟りをさえ、望むことができるのだから。

「私は母なる神に、ただ純粋な愛だけをお願いしました。花を手に持ってマーの御足に花を捧げて、こう申しあげたものだよ。
『母よ、さあ、あなたの罪を取り上げ、あなたの徳を取り上げて、私に純粋な愛をください。あなたの明智を取り上げ、あなたの無明を取り上げて、私に純粋な愛をください。あなたの清浄を取り上げ、あなたの不浄を取り上げて、私に純粋な愛をください。あなたのダルマを取り上げ、あなたのアダルマを取り上げて、私に純粋な愛をください』
と。」

(ブラフモー信者たちに)
「どれ、一つプラサードの歌を聞きなさい。」


 カーリー カンタパルの根本に
 さあ、散歩に行こう、来なさい、心よ
 行って、人生の四つの果実を集めよう。
 欲望と離欲の二人の妻のうち、
 樹まで行くには、離欲の妻を連れて行き
 そして
 ヴィヴェーカ(識別智)という名の彼女の息子に
 真理のことを尋ねるがよい。

 清浄と汚濁を侍らせて、いつの日にか神の部屋に寝るがいい、
 彼のこの二人の妻が仲良くするそのときに、
 黒き母シャーマーのお姿を得る。

 お前の我執と無智という父と母を追放せよ、
 迷妄が暗い穴に引きずり込もうとするなら、
 忍耐の柱をつかんでいよ。

 善と悪の二匹の羊は、無頓着の杭に結びつけ
 それでもメーメー騒ぐなら
 智慧の剣で殺すがよい。

 お前の最初の妻(欲望)の息子には、離れているように説得せよ、
 そしてもし彼らが納得しないなら、
 完全なる神の叡智の海に溺れさせるがよい。

 プラサードは言う、ことが運べば、死神に報告書を提出しよう、
 それでこそ愛しき息子、
 愛するお方に選ばれて
 真実そのものになるだろう。


「社会生活をしていたら、なぜ神を得られないのだね? ジャナカ王はあれほどの悟りを得ていた。ラームプラサードは言いました。この世は『幻影のスクリーン』だと。だが、もしあのお方の蓮華の御足に信仰を持てば――


 この世はそのまま歓楽の遊び小屋
 私は食べ、飲み、そして楽しむことができる
 ジャナカ王は偉大なお方
 不足のものとて何もなく
 こちらもあちらもその両方を固守して
 あふれる器から牛乳を飲んでいた!

(皆が笑う)

「しかし、人は突然ジャナカ王のようになることはできない。王は一人でたくさんの苦行をしたのだ。世間で暮らしていても、時々は孤独になることです。世間の外に一人で住み、神を求めて三日のあいだでも泣くのなら、それは彼にとって大きな助けとなるだろう。余暇を得て、たとえ一日でも一人になって、もしあのお方を考えることができるなら、それでもいい。
 人々は、妻子のために水差し一杯の涙を流す。しかし誰が神のために泣くか。人は時々、人里離れたところに入って、バガヴァーンを得るために修行をしなければならない。世間に住み、世俗的な仕事のまっただ中にいると、修行の最初の段階では、気持ちを集中させようとしても邪魔されることが多くていけない。道ばたに生えている木のようなもので、まだ若いあいだは囲いをしてやらないと、家畜に食べられてしまいます。最初のあいだは、囲いをすることです。幹が太くなれば、もう囲いは要らない。そうなれば、象を幹に繋いでも樹は傷まないだろう。」

「チフスのような病気になったとします。そして、チフス患者の部屋に大きな水差しとタマリンドの漬け物の壺が置いてある。もし病気を治したいなら、その部屋から彼を動かさなければなりません。世俗の人がチフス患者です。感覚の対象は大きな水差し、感覚の対象への様々の欲は喉の渇きと同じだ。漬け物のことを思い出すだけでも口に唾がわいてくるんだから、そばにあっちゃどうしようもない。それなのに、そういったものに囲まれているのだ。すなわち、女との交際などは一番美味しい漬け物だ。だから、一人にして治療することが必要なんだよ。」

「ヴィヴェーカ(識別智)と離欲を得てから社会生活をしなさい。世俗の海には愛欲、怒りなどという名のワニがいます。しかしお前たちは、ターメリックを身体に塗りつけておけば、ワニなんて恐れる必要はない。識別智と離欲がターメリックである。実在と非実在を見分けること、これが識別です。神のみが実在、不滅の実質である。その他はすべて皆、錯覚で、年中移り変わる頼りにならないものだ、というのが悟りである。
 もう一つ、その上でお前たちは、神を求める強烈な熱意を養わねばならない。彼に愛を感じ、彼に引きつけられなければならない。ヴリンダーヴァンのゴーピーたちは、クリシュナに対してそのように引きつけられた。一つ、歌を歌って聞かせよう。」


 笛が奏でられた、あちらの森に
 私は飛んでいかなければならない、
 道でクリシュナが待っている。
 友よ、あなた方は一緒に行くか、行かぬか。
 お前のシャーマの話は口先だけ、
 私のシャーマは心の中の苦悶。
 お前はあの笛 耳で聞く
 私はあの笛 わが心の中で聞く
 シャーマの笛が、『出ておいで、ラーダーよ!』と呼んでいる。
 お前がいないと森は美しくない、と。


 タクルは、目に涙をいっぱいためて、この歌を歌いながら、ケシャブと他のブラフモーの会員たちに、こう言われた。

「お前たち、ラーダーとクリシュナの話を信じても信じなくても、この愛だけはどうぞ認めておくれ。自分の心の中に、至聖なる主をこんなふうに恋い慕える熱望を作り出せるようにせよ。夢中になってあこがれれば、きっとあのお方をつかまえることができる。」

 
ケシャブ・センらと船遊び、
「万人の幸せを願う」


 感覚器官の群を統御し、
 あらゆる生き物を平等に扱い
 万人の幸福を願う彼らも
 ついには私のもとに到達する。

 ――ギーター 12−4――


 引き潮になっていた。蒸気船はカルカッタへ向け速度を速めている。ハウラーの橋の下を通り過ぎて、植物園の見えるところに来た。船長は、もう少し川下に船をやるようにと頼まれた。乗客たちは師の言葉に魅せられて、大部分の者は、今何時かということも知らず、どこまできたかも知らなかった。
 今度は、ケシャブは客たちに、ふくらし米とココナツとを供した。客たちはそれをめいめい少しずつ着物の前の折り目に受け、食べていた。喜びの雰囲気に満ちていた。タクルはその合間に、ヴィジャイとケシャブの二人が互いに意識して、いかにも避け合っているのに気づかれた。そして、タクルは、あたかも聞き分けのない愚かな男の子を扱うような様子で、仲直りさせるよう心をお配りになる。

師(ケシャブに)「ほら! ヴィジャイが来ています。あなた方の争いや意見の相違は、ちょうど大神シヴァとラーマの戦いのように思われるよ。シヴァはラーマのグルです。ときには二人は戦いましたが、じきに仲直りした。しかし、シヴァの従者の悪鬼たちとラーマの従者の猿たちとのあいだの争いと誤解には、もう全く終わりがありません。(大笑い)こんなことは身内の間にでも起こるものだ。ラーマも自分の息子たち、ラヴァとクシャと争ったではないか。またもう一つの例を挙げよう。母親と娘の幸せは同じだ。それなのに彼女らは、別々に火曜日の断食とお祈りをおこなっているのを見ているだろう。まるで、互いの幸せは相反するものででもあるかのように。
 同様に、あなた方はここに一つの宗教団体があるし、そして、あちらにも一つ必要というわけだ。(みな笑う)だから、あれもこれもいるのです。あなた方はたぶん、神ご自身が遊びをなさっていたのに、そこにジャティラーやクティラー(騒動を起こすゴーピーたち)がどうして必要だったのか、と言うでしょう。ゴタゴタを起こす人物が必要なんだよ。そういう悶着起こし屋の妨げがなかったなら、神なる恋人としての彼のお遊びは、おもしろみがありません。(みな笑う)そういう役者がいなけりゃ、ふざけることもできません。」(大笑い)

ケーシャブへの教訓
教師の資格とブラーフモー協会
教師はただ一つ――サチダーナンダ

 御身は動・不動の全宇宙の万象万有の御父
 すべてのものが礼拝し従うに値し、無上の師、
 あなたと同等な者はなく、同座できる者もない
 はかりしれぬ力を持つお方よ あなたに勝る者は三界に皆無です

 ――ギーター 11−43――


シュリー・ラーマクリシュナ(ケーシャブに)「お前の弟子たちが次々と離れていくのは不思議ではない。お前は人々を自分の弟子にする前に、彼らの性質を見分けないのだもの。人は皆、見たところは同じだ。しかし、彼らはそれぞれ様々の性質を持っている。ある人の内部は落ち着いたサットヴァの、神に向かう性質を持つ。派手に動き回るのが好きな性質(ラジャス性)の人もあるし、ある人は反対に、のんびり怠けているのが好きな(タマス性)性格です。プリという小麦粉のバター揚げは、見た目はどれも同じ形だ。けれども中身は別だ。あるものは甘いコンデンスミルクが入っている。あるものにはココナツの小切れ、あるものにはカライ豆の煮物が入っています。」(皆笑う)

「私の態度を知っているかね? 私は気楽に食べたり飲んだりして、あとのことはすべてマーまかせだ。私には、三つの言葉で身体にちくりとトゲが刺さるのです。――『グル』と『カルター(行為者)』と『ババ(父)』だ。
 たった一つのグルがあり、それはサチダーナンダ(実在、智、歓喜)である。そのお方が、教えてくださいます。私の場合は、子供が母親に持つ態度です。私はグルだ、なんて誰も彼もが言っている。しかし、誰が弟子になることを望みますか。
 弟子を教える師の仕事は、極度に困難です。もしその師が主を見たのであれば、そして彼から教えることを委託されたのであれば、教えることができる。ナーラダ、シュカデーヴァ、および彼らのような賢者たちは、そのような委託を受けたのだ。シャンカラーチャーリヤの場合もそうだ。彼らに、神の命令が下ったのです。命令を受けたのでなければ、誰がその人の言葉を聞くものか。
 カルカッタの、あのメチャクチャな騒がしさを見なさいよ! 鍋の下に火が燃えている間は、鍋のミルクは煮えてふくれあがるが、燃料を除けばそれはすぐに鎮まる。カルカッタの人たちは、騒ぎや噂が大好きです。井戸掘りをします。――水がいるからといってです。しかしちょっとした石にぶつかると、その場所は放棄してしまう。そしてもう一つの場所を掘り始める。そしてそこでたぶん砂を見つけ、またあきらめて次に別の場所を掘り始める。そして同じようなことを繰り返す。そのようなものです。」

「神は彼自身を人にお示しになり、お話しになる。そのときに初めて、命令を受けることができるのです。そういう人の話は、どんなに力強いと思う? 山も動き、岩も波打つほどだよ。だが、ただの講演はどうだ? 2、3日くらいは人も耳を傾けるだろうが、じきに忘れてしまう。ああいうものは言葉のあやだけで、ものの役には立たんよ。」



【昔話――ハロダリ池のこと】

「私の郷里にはハロダリ池という名の小さな池がある。池の畔に汚物を散らす近くの人たちがいた。朝、沐浴をしにやってくる他の人々は、大声をあげてその無礼者を口汚く罵りました。それでも翌朝にはまた無礼は繰り返されて、迷惑はやまなかった。(みな笑う)そこで村人たちは、当局に届けた。腰の周りにバッジをつけた係の者が一人やってきて、『大小便無用』の制令を立てた。そのとき以来、皆パッタリしに行かなくなった。(笑い)
 人を導こうとするなら、そういうバッジを持っていなければならない。そうでないと、人間が他者を教えるなんて――それは笑い話だよ! 自ら知らない人間が教えなければならない。盲人が盲人を導かなければならない――などということを考えてごらん! 利益になるどころか害になるよ。神を得ることができたときに初めて、彼は心眼が具わり、どのような(魂の)病気にかかっているのかを教えてやることもできるのだ。
 神様の委託を受けていなかったら、”私は人に教える”と思い、人はうぬぼれるようになる。これは無智から生まれるものなのだ。人は、この世界という仕組みの中の唯一の行為者は神である、自分たちは何も神の御手の中の道具に過ぎない、ということを感じるようになれば、これこそジーヴァーンムクタだ。私がしている、私がやっていると思っている限り、悩みは続くし、不安は尽きない。」


ケシャブはじめブラフマ会員たちに
カルマヨーガに関する教え

 故に行為の結果に執着することなく
 ただなすべき義務としてそれをおこなえ
 執着心なく行為することによって
 人は神のもとに行けるのである。

 ――ギーター 3−19―― 



「お前たちは皆、世間のために尽くすなどと言う。世界は、そんなに小さいものなのかね。世界を救うという、あなたは誰なんだね? 修行することによって、あのお方のお姿を見なさい。あのお方をつかんでみなさい。あのお方から力を与えてもらって、初めてほんとにすべての人に善を為すことができるのです。さもなければ、できるものではありません。」

ある信者「(神を)得るまで、どんな行為もしてはいけないのですか?」

師「いや。なぜ行為をしてはいけないんだね? お前たちは、瞑想や、御名を称える歌を歌うこと、こういう日々の勤行、これらすべてをしなければならない。」

ブラフマの信者「しかし世間のつとめ――金を稼ぐことや、商売とかの仕事はどうなのですか?」

師「ああ、それもいいよ。生活に必要な程度においてです。しかし涙を流して、ひとけのないところで、それらの活動を無私の心でおこなうことができますように、と、時々、神に祈らなければならない。彼にこう申しあげるのだ。
『おお、神よ、お願いです。私の世間のつとめを段々に少なくしてください。そうでないと、おお主よ、ご承知のように、私はすぐにたくさんの仕事に巻き込まれてあなたを忘れてしまいますから。自分は無私の仕事をしていると思っていても、それは利己的になってしまっているのでございます。』
と訴えなさい。
 それから、施しを与えたり、慈善事業などをあまりやり過ぎると、とかく名誉欲の犠牲になってしまうものだ。」


(シャンブー・マリックと様々な活動についての話)

師「シャンブー・マリックがあるとき、病院、施薬所、学校、道路、貯水池を作る話をしていた。私は彼に、自分の目の前にある、起きたこと、しなければならないこと、それらを実際に無欲の精神でするように努めよ、自分からそんな仕事を探して道をそれてはならないと、言って聞かせたよ。様々の仕事に巻き込まれるのはよくない。――それは神を忘れさせる。
 カーリーガート寺院で、ある人々は貧しい人々に施しを始めたら、そうしたら、もうカーリー女神を見ることができませんでした。ハッハッハ・・・・・・。まず人を押し分けてもカーリーに参拝をして、それからその後で、施しをしようがしまいが勝手だがね。そうしたいと思ったら、大いにやりなさい。
 仕事は神を得るためのものなんだ。シャンブーに、だから『もし神様がお前の前にお現れになってくださったら、あのお方に、いくつかの病院や診療所をこしらえてくださいという話をするつもりかね?』と言って聞かせたよ。ハッハッハ。
 信仰者というものはそんなことは言いはしない。こう言うだろう、『おお、主よ、あなたの蓮華の御足のもとに座らせてください。あなたと一緒に、いつも置いてください。あなたの蓮華の御足への、純粋な信愛をお与えください』と。
 カルマヨーガは、ものすごく難しい。聖典に書いてあるような儀式をカリユガにおこなうことは、とてもとても難しいことだ。食べなけりゃ生きていられないからね。とにかく多くの聖典に命ぜられている祭祀儀式は、通用しません。ひどい熱が出た場合、もしカヴィラージ療法(旧式の土着の治療法)でゆっくり治そうとするなら、間に合わない。今どきは激しいD・グプタ(強力な解熱剤)です。カリユガには、最善の道はバクティヨーガだ。主の賛歌を歌い、神の御名を唱え、祈ることだ。バクティヨーガだけが、現代の宗教である。
 ブラフマ信者のあなた方の道もやはりバクティヨーガです。ハリの御名を唱え、マーの栄光をたたえる歌を歌います。あなた方は祝福されています。あなた方の宗教の態度は素敵です。ヴェーダーンタ派の者たちのように、この世界は夢である、などとは言わない。ああいうブラフマジュニャーニではない。あなた方は神の信者です。あなた方が『彼』のことを人格として語るのも良い。あなた方は信仰者だ。もし熱望して求めれば、あのお方を間違いなく得るでしょう。」

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