ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

「角井」集合!コミュの始めまして、宜しく・・・。

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
【名前】角井 一郎

【ふりがな】つのい いちろう

【角は突き抜ける?】はい

【現住所(市区町村)】横須賀市

【生まれた場所】横須賀市

【祖父母様の生まれた場所】横須賀市

【ご先祖様の情報】出雲の神様

【角井にまつわる話】
埼玉県大宮〜千葉県富津〜横須賀市榎戸湊〜浦賀〜須軽谷・馬掘・佐野・平作と移動してきたらしい?その大宮のご先祖様が出雲の神様です。この家は武蔵国造を輩出しています。(「東角井/西角井家系図より)

【その他(何でも)】
横須賀の角井は上記6町の角井(そせぞれに本家がある)から派生していると思われる?

コメント(9)

はじめまして、どうやら横須賀系
私は、「須軽谷」<屋号:央(なか)>です。
今は、大宮「氷川大社」の近くに引き寄せられました(笑)
それ以来、氷川大社に初詣いっていますけど・・・
関係あるんですね・・・
☆一郎さん

す、すごい!

出雲の神様ですか!

全国の「角井」トピックの写真が山口なのは、出雲から出てるんでしょうね。
★重要★

自己紹介は、自己紹介トピックに書いて下さいね。

<書き方>
自己紹介トピックを表示して、その下にコメントボックスが出るので、そこに入力して下さい。

よろしくお願いします。
伝説巨神タコラさん、おはようございます。
須軽谷の角井さんですか。
須軽谷の角井さんをお尋ねして
聞いたお話によると、須軽谷の角井さんの
ご先祖さんは浦賀から須軽谷に遣ってきたと
仰っておられました。

その角井さんの亡くなられたお父様はルーツを
調べておられたそうで、千葉・富津まで足を
延ばしていたようです。

因みに榎戸湊の角井さんは対岸の
千葉県・富津からだと聞きました。
大宮「氷川神社」の池は見沼田圃に繋がり
古江戸湾は深く、その辺りまで入り込んで
いたとか?海上を渡って、大宮、富津、榎戸湊、浦賀、
そして須軽谷へと云う道筋も考えられますが、
如何でしょうか?

大宮までは出雲から、信州・諏訪経由のルートを
提唱する学者もいるみたいですよ。そうすると、
ご先祖様は出雲の神様つーことのようですが、
こうなると、もう古代(誇大)妄想になりますかね?
でも大宮の東・西角井家の系図には、そう書かれて
いるそうです。大方の学者先生は否定的のようですが。

屋号は「央(なか)」ですか。うちは平作の
「五反田(ごたんだ)」です。須軽谷の広田さんの
お爺様は私の父(早世)と戦友だったそうです。
過っては、お盆の頃になるとお参りに来てくれました。
そして、父が残していった支那や仏印のアルバムを
開いて昔話を亡母にしていたそうです。

今後とも宜しくお願いします。
大宮は、そんなことで足繁く通った時期もありますが、
このところは、ご無沙汰しています。
須軽谷の角井さんがおられると知って、
また、出掛けてみたくなりました。

あっ、そうそう・・・。
大宮の東・西角井さんは過っては角井さんだったのを
ご存知ですか?明治政府の命令で東と西を頭に
付けさせられました。それ以前に分家された角井さんは
そのままで、だから大宮にも角井さんが
沢山居られるようです。

     (つのい いちろう)
>出雲の神様ですか!

>全国の「角井」トピックの写真が山口なのは、出雲から出て>るんでしょうね。

りょうさん、そうなんでしょうけれど・・・。
大宮の東・西角井さんが角井を名乗るのが江戸時代のはじめ
頃なので気になります。この角井さんは神代の時代から
幾つも姓を名乗ってきたようです。中には物部なんて云う
のも確かあったような。今度、資料を引っ張り出して
おきましょうね。

>自己紹介は、自己紹介トピックに書いて下さいね。

りょうさん、ゴメンナサイ。
早速、掲示板からコピーしておきました。
宜しくお願いします。

    (つのい いちろう)
つのい いちろうさま
よろしくお願いいたします。
平作ですね!ヨコハマ生まれヨコハマ育ちなのですが
地域は大体わかります。

アレックス・ヘイリー原作『ルーツ』(Roots)にでてきた
アメリカのアフリカ系移民主人公の気分ですね、
「クンタ・キンテ」(アフリカの先祖)に引かれて、アフリカのクンタ・キンテの子孫に会いに行く様子も
理解できる感じです(笑)

仕事で鳩ヶ谷氷川神社に行ってから・・・
思いが深くなり・・・
大宮の氷川大社に行ったときに・・・
何か不思議と安らぎを感じました。
この十数年で埼玉にちょっとずつ縁ができて、
呼び戻されているのでないかと
思うようになったりしています(笑)

今は、父の代からヨコハマに住んでいるのですが、
隣に5代前程度で分家した遠縁があります。
お墓は、両隣よりも多くて古そうです。
彫られた文字上では、享保までさかのぼれました。
(1700年代前半・8代将軍徳川吉宗による享保の改革の時代)

内墓(お寺にないお墓/
扇山の南隣の丘にあった浄土宗のお寺が消滅してしまったようです)なので檀家になっているお寺に檀家として、
戦前に津久井浜のお寺に檀家になったために・・・
記録などは蜜から無そうです。

ということは、富津から横須賀に移り住んできた人たちの
分流に近いところまでたどり着きそうですね。

今は、戦前の4代前以前に土地をほとんど失っており・・・
母屋のあった土地だけになっています。誰も住んでいませんが。
墓石ばかりの家になっています(笑)
たぶん、自分が央(なか)の最後の一人になりそうです(^^;
そう、私がお話を伺った須軽谷の角井さんも
内墓で寺は津久井浜だと云ってました。
一列に並んだ墓の数々、とても壮観でしたよ。

享保・8代将軍徳川吉宗の享保の改革の時代まで遡りますか。
家は貞亨・5代綱吉、生類憐みの令辺りですね。
庶民の墓や位牌は江戸初期かららしいので
それ以上昔に遡るのは難しそう、系図でもあれば別だけど
庶民にそんなものは無かったに違いない。

実は我家も明治後期に全財産を失っています。
今も平作に住んでいますが没落時までの住居跡には
現在別の方のお住まいになっています。
没落時の家屋は岩戸のお寺の庫裏に移築されていましたが
横横道路に架かったので今はありません。

県公文書館の先生にお尋ねしたところ
この明治後期に入った頃、漸く三浦半島にも
近代的な経済活動が浸透してきて
投機などの結果、没落する家も多々あったとか・・・。
没落後、全財産を失っても小さな商売で食繋いで
いたところを見ると一次産業オンリーの百姓では
無かったのかもしれない?

家は外墓だが何故か菩提寺が二つある。
一つには家督相続人専用の墓がある。もう一つは
その他誰でも用です。家督相続人用には私の祖父の
父親が最後で、その後は全員、その他用の寺に
眠っています。こんな家、聞いたことがありますか?

東・西角井さん、それと明治のはじめまで宮司だった
岩井?さんの系図は大宮市史にも載っていますから
図書館でご覧になれますよ。
当時、岩井さんが宮司で両角井さんは禰宜でした。
それで両角井さんは生き延びたのです。
明治政府は宮司に外の人を任命して岩井さんを
お払箱にしてしまったのです。江戸時代の、この三家の
主導権争いも面白いですよ!

    (つのい いちろう)
たぶんお話から察するところによると、
お墓が右隣のお隣さん「須軽谷」の角井さんですね。
お坊様のお墓を境界線に我が家の墓と
美しく整備されている右側の角井さんが折られます。
左隣は、お付き合いのある前出の遠縁です。

かなり、投機(ギャンブルに近い話で・・・田畑もって行かれたみたいですね。)祖父は、勤勉らしかったのですが・・・
赤紙で徴兵されてインパールで斥侯に出て爆死したということです。なので、あったことないので聞いてみたいことが聞けなかったです。
我家にはお坊さんのお墓はありませんが、
お坊さんの位牌が一つあります「・・・聖人」何て
戒名が書いてあって、上部には唐門みたな
飾りが付いています。家を建直すまでは物置に
黒塗りの大きな葛籠(つづら・ふた付きの木箱)
がありました。この坊さんが何処かの寺で亡くなった後、
実家である我家に手荷物を入れて送届けられたそうです。
そう、坊さんが寺を追出される時は「唐傘一本
持たされて・・・」って云うでしょ。まあ、そんなもんです。

昔は体が弱かったり、身寄りの無い子供を寺に預けることが
よくありました。我家の菩提寺の一つの寺の三代前の住職は
後者のようでした。私の祖父は体が弱かったので
菩提寺のもう一つの寺に預けようとしたら、
どうしても云うことを聞かなかったそうです。「うん」と
云って承知していれば、何処かの寺の住職になれたかも?
そうしたら、私もその後を継いで、お坊さんを職業に
したでしょうか?

あっつ、そうそう我家に二つの菩提寺がある理由が
分りかけてきました。土曜日に博物館の歴史の先生から
教えて戴きました。我家の一つ目の菩提寺は本山系の
お寺で、三浦半島にはここの末寺が沢山あります。
我家の二つ目の寺も、この末寺です。

本山系の寺には過っては沢山の僧侶がいたそうです。
彼らが隠居(定年)すると、末寺を開きます。
まあ、暖簾分けってことでしょうか。末寺が建立されると
本山系の寺は檀家に分家はその末寺の檀家になるよう
命じました。つまり、得意先まで付けた暖簾分け
だったんですね。宗旨人別帳があった時代もある位ですから
本山系の寺はそんな命令を出せる力があったのでしょうか?

我家は没落するまでは土着の百姓でしたから、
労働力確保のために次男、三男も同居していたかも
知れませんん。次男、三男やその家族が亡くなると
末寺の方の菩提寺に葬られていたと思われます。
そのことが家督相続人は本山系の寺、その他大勢は
末寺に葬ると今に伝えられているのでしょう。

だから、我家のように二つの菩提寺を抱えている家は
珍しく無いと、この歴史の先生は仰っておられました。
因みに、こんなことも、お話されました。
我家の菩提寺である本山系の寺の山門(仁王門)脇の
墓地には中世の墓もあると・・・。ここは、ここの広大な
墓地の中でも一番古い墓地ですが、我家の墓は
江戸初期まで遡るのがやっとです。

     (つのい いちろう)

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

「角井」集合! 更新情報

「角井」集合!のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング