1812年戦争では首都ヨーク(現トロント)が焼かれ、1837年にはカロライン号事件が起こった。そして1861年にはついにアメリカで南北戦争が勃発し、ジョン・マクドナルドら建国の父たちは、英領北アメリカの諸州がバラバラではアメリカの軍事的脅威に対抗できないと考え、早期の連邦結成に動き出した。 マクドナルドは、連邦はフランス系も含み、また大西洋から太平洋までの全ての英領植民地を含むべきだという「大連邦」を構想していた。ところがニューブランズウィック首相サミュエル・レナード・ティレイ、ノバスコシア首相チャールズ・タッパー、プリンスエドワード島首相ジョン・ハミルトン・グレイは、東部3植民地による「マリタイム連合」について協議するため、1864年にシャーロットタウン会議の開催を予定していた。オンタリオとケベックが合体した連合カナダ植民地は、人口・面積ともに巨大であり、それを含んだ連邦に参入することは、連合カナダの影に埋没することになるからである。 マクドナルドはあくまでも大連邦を実現すべく、シャーロットタウン会議に割り込み、全ての英領北アメリカ植民地による連邦結成を訴えた。翌月のケベック会議では、ニューファンドランドをも含めた5植民地が連邦結成の骨子となる「ケベック決議」が採択された。 マリタイムは大連邦結成に強く反対したが、1866年にアメリカのフェニアンがニューブランズウィックに侵攻する事件が起きると、ニューブランズウィックとノバスコシアは、より大きな連合カナダに防衛負担してもらう方が得策だと考え、マリタイム連合を放棄し、カナダとの連邦結成に踏み切った。シャーロットタウン会議の主催者であるプリンスエドワード島は、難しい立場に立たされた。結局プリンスエドワード島とニューファンドランドは、島国でありアメリカから遠いことから、連邦参加を見送った。イギリス植民地のままでいた方が、植民地であるカナダの州になるより格上でいられるという判断もあった。こうして連邦は、オンタリオ、ケベック、ニューブランズウィック、ノバスコシアの4州で発足することになった。 マクドナルドは憲法制定のため、後に自由党を結成する政敵ジョージ・ブラウンとの大連立に踏み切った。急遽作成された憲法は、もっぱら統治機構や連邦と州の権限について説明しており、人権規定を欠いている。上院議席をオンタリオ・ケベック・マリタイムの各地域に同数配分する規定は、人口の少ないマリタイムへの優遇であり、マリタイムを連邦に引き込むための妥協であった。 カナダの憲法となる「英領北アメリカ法」は、1867年2月12日イギリス貴族院で可決され、その後庶民院でも可決され、3月29日にビクトリア女王の勅裁を得て成立した。憲法は7月1日に施行され、「カナダ自治領」(Dominion of Canada)が成立した。 マクドナルドは国名を「カナダ王国」としたかったようだが、イギリスから「カナダは国ではなく植民地」と指摘され、またアメリカを刺激するのを憚り、この名称になったという。「ドミニオン」の名称は、聖書の詩篇72篇8節“He shall have dominion from sea to sea(その支配は海から海へ)”に由来しており、マクドナルドの「大西洋から太平洋まで」の大連邦構想をよく示している。「大西洋から太平洋まで」の大連邦が実現するのは1905年、憲法に人権規定が盛り込まれるのは1982年のことである。英領北アメリカ法は、1982年の憲法移管により「1867年憲法法」と改称された。