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カナダの歴史と政治コミュのカナダ首相列伝(1)

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 (1) 連邦草創期(1867〜1920)
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1611536&page=1&id=33586167
 (2) 地域政党繚乱期(1920〜1963)
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1611536&page=1&id=64625958
 (3) カナダ主義の時代(1963〜1993)
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1611536&page=1&id=53709081
 (4) 多党制の時代(1993〜)
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1611536&page=1&id=36034582


 (1) 連邦草創期(1867〜1920)
●アル中だった「建国の父」
 初代・第3代 John Alexander Macdonald
 (1867年7月1日−1873年11月5日)
 (1878年10月17日−1891年6月6日)
●青天の霹靂で政権に就いた庶民派宰相
 第2代 Alexander Mackenzie
 (1873年11月7日−1878年10月9日)
●高齢首相、病気で退陣
 第4代 John Joseph Caldwell Abbott
 (1891年6月16日−1892年11月24日)
●ニューリーダーを襲った突然死
 第5代 John Sparrow David Thompson
 (1892年12月5日−1894年12月12日)
●閣僚造反で死に体内閣、逆ギレ解散で幕
 第6代 Mackenzie Bowell
 (1894年12月21日−1896年4月27日)
●最後の「建国の父」、史上最短政権に終わる
 第7代 Charles Tupper
 (1896年5月1日−1896年7月8日)
●妥協と融和を重んじたフランス系初の首相
 第8代 Henri Charles Wilfrid Laurier
 (1896年7月11日−1911年10月5日)
●カナダ独立の立役者、徴兵危機で退陣
 第9代 Robert Laird Borden
 (1911年10月10日−1920年7月10日)


 保守党は1867年の連邦結成以降、29年間のうち24年間政権を独占した。だがマクドナルド首相・トンプソン首相の相次ぐ急死の後、党内のリーダーシップは動揺し、4人の短命政権を経て、1896年ローリエの自由党に政権を譲った。
 1911年に成立したボーデン内閣は、第一次大戦中には挙国一致内閣を組織したが、徴兵危機でケベックの支持を失い、保守党は次の63年のうち52年間を万年野党として過ごすことになった。「ナショナル・ポリシー」に代表される保守党の保護貿易と英国追随主義は、後の政権によって覆されることになる。

コメント(14)

●John Alexander Macdonald(1815−1891)
初代首相(1867年7月1日−1873年11月5日)
第3代首相(1878年10月17日−1891年6月6日)

 (1) 生い立ち
 スコットランドのグラスゴーに生まれる。父が事業に失敗し、5歳の時カナダのキングストンに移住する。貧しさのゆえ大学には進めず、15歳から法律事務所で働き、1836年に弁護士資格を取得する。

 (2) 連合カナダ時代
 1844年、保守党から連合カナダ植民地議員に当選し政界入りを果たす。だが1847年、保守党が総選挙で敗北するとマクドナルドは離党し、アラン・マクナブらと自由保守党を結成した。この新しい保守党は改革党(自由党の前身)の穏健改革派も結集し、後にカナダ政界の主流を成す「レッド・トーリー」を構築することになった。
 自由保守党は1854年に政権を獲得し、マクドナルドはマクナブ=モレン連合政権の司法長官に任命された。そして1856年にはカナダ・ウェスト首相に就任する。オンタリオとケベックが合併して成立した連合カナダ植民地は、カナダ・ウェスト(オンタリオ)とカナダ・イースト(ケベック)の2つの地区からそれぞれ首相を選出し、共同で統治していた。マクドナルドはカナダ・ウェスト首相として、カナダ・イーストのエティエンヌ=パスカル・タシェ首相とともにタシェ=マクドナルド連合政権を形成することになったのである。タシェは翌年辞任し、ジョルジュ=エティエンヌ・カルチェとともにマクドナルド=カルチェ政権を築いた。
 1858年、マクドナルド内閣が不信任案されブラウン=ドリオン連合政権に代わったが、わずか4日で崩壊し、カルチェ=マクドナルド連合政権が復活した。この政権は1862年、市民軍創設法案の否決により総辞職し、マクドナルドは野に下るが、1864年にタシェ=マクドナルド連合政権が再び成立した。

 (3) 連邦結成へ
 このころアメリカでは南北戦争が勃発し、マクドナルドら「建国の父」たちは、カナダの諸州がバラバラではアメリカの軍事的脅威に対抗できないと考え、連邦結成に動き出した。マクドナルドは、連邦はフランス系も含み、また大西洋から太平洋までのすべての州を含めるべきだと考えていたが、大西洋諸州は、連邦結成は自分たちの権限を弱めると見て当初反対していた。連邦結成の宿願を達成するため、マクドナルド=カルチェ連合政権は、1864年政敵ジョージ・ブラウン率いる改革党との大連立を成立させる。
 このころのマクドナルドは、連邦結成に向けて東奔西走していたが、私生活においては過度の飲酒という問題を抱えていた。息子と幼くして死別し、病弱な妻は寝たきりとなり、長い闘病生活の後に亡くなった。また後妻との間に生まれた娘は脳水腫を患っており、正常な生活を営むことができなかったのである。彼は泥酔して本会議に臨み、野党議員に指摘されると「しらふの自由党員より酔った保守党員の方がましだ」と答弁し、また選挙討論でも、対立候補の演説中に吐いてしまい「彼の演説は吐き気がする」と語っている。こうした彼の酒癖については、ブラウンが新聞ネタにしたため国民は皆知っていたという。
 1864年、大西洋諸州による連邦結成のためのシャーロットタウン会議に、マクドナルドは参加を許され、大連邦結成のため諸州を説得した。1866年にはアメリカのフェニアンが侵攻する事件が起き、連邦結成への追い風となる。そしてついに1867年7月1日、英領北アメリカ法(旧憲法)が施行され、カナダ連邦(Dominion of Canada)がオンタリオ、ケベック、ニューブランズウィック、ノバスコシアの4州によって結成された。彼は連邦初代首相に指名され、1か月後の最初の連邦議会選挙でブラウンに勝利した。

 (4) 第一次政権
 ブリティッシュコロンビア州は当初連邦に加入せず、かえってアメリカ編入の動きを見せた。マクドナルド首相は10年以内の大陸横断鉄道敷設を約束して、1871年ブリティッシュコロンビアをカナダに編入する。だが鉄道建設には莫大な費用がかかり、財政を圧迫した。さらに不況にみまわれ、工事は予定を大幅に遅れた。1873年、カナダ太平洋鉄道の建設を請け負っていたヒュー・アランの会社から35万ドルの政治献金が保守党に流れた「パシフィック・スキャンダル」が発覚し、マクドナルド内閣は総辞職に追い込まれ、マッケンジーの自由党に政権を明け渡すことになった。
 (5) 第二次政権
 だがこの汚職事件が不況と同時期だった点において、マクドナルドは幸運だった。彼はカナダの産業を保護するため、外国特にアメリカの輸入品に高率の関税を付す「ナショナル・ポリシー」を訴え、1878年の選挙に勝利し、再び首相に返り咲く。1885年のノースウェストの反乱に対しては、完成したばかりの大陸横断鉄道で派兵して鎮圧したが、首謀者であるフランス系のルイ・リエルを処刑したことで、保守党はケベックでの支持を失った。

 バンフをカナダ初の国立公園に指定し、RCMP(今日の連邦警察)を創設したのはマクドナルドの偉大な功績であり、彼はまた6度の総選挙(1867・1872・1878・1882・1887・1891年)に勝利した唯一の首相でもある。彼は首相在任中に死亡した。没後は10ドル札の肖像となり、カナダ人に関する各種人気アンケートでも常に上位にランキングされている。
●Alexander Mackenzie(1822−1892)
第2代首相(1873年11月7日−1878年10月9日)

 アレクサンダー・マッケンジーはスコットランドのロジエレイトに生まれ、ダンケルドで育った。14歳で父が死去したため、学業を中退して石工となる。
 1842年オンタリオ州キングストンに移民し、その後ランブトンに移り土建屋を営む。1852年新聞ランブトン・シールドの編集者となり、新聞社グローブ(現在のグローブ&メイル)の社主で改革派(後の自由党)リーダーのジョージ・ブラウンと知己を得る。1861年改革派として出馬しランブトン郡から連合カナダ植民地議員に当選、1867年にはカナダ自治領最初の連邦議会選挙に当選し下院議員となる。
 リーダーのブラウンはカナダ連邦結成に反対し、保守党との大連立を解消した。その結果自由党は最初の連邦議会選挙で敗北し、ブラウンも議席を失った。1873年パシフィック・スキャンダルによりマクドナルド内閣が総辞職すると、総督ダフェリン卿は自由党の誰かに組閣を命じようと考えたが、ブラウンは落選しており、自由党には党首が公的に存在しなかった。組閣の大命は4人目のマッケンジーがようやく受諾し、彼は第2代首相となる。彼はその年連邦自由党の党首に就任したが、周囲は彼をブラウンの傀儡とみなしていた。少数与党政権に甘んじていたマッケンジーは、翌年議会を解散して総選挙に勝利し、国民の信任を得た。
 総督は、石工を首相にすることに不安を覚えるという異例の声明を発表したが、後には彼の誠実な人柄を信頼するようになった。マッケンジー首相は、秘密投票を含む選挙法改正、最高裁判所の創設、下院議事録の記録などの業績を残したが、その任期中に不況に見舞われた。大陸横断鉄道の建設には莫大な費用がかかり、不況下で鉄道建設を続けることに彼は反対したが、ブリティッシュコロンビア州は鉄道が敷設されないなら連邦を離脱すると表明し、マッケンジーは進退窮まった。これを見かねた総督が自らブリティッシュコロンビア州を訪問したが、マッケンジーは自分の頭ごなしに事が進むことに腹を立てた。その後も景気は回復せず、1878年自由党は総選挙で敗北し、マッケンジーは政権を失う。1880年には党首の座をエドワード・ブレイクに奪われ、彼は過去の人となった。
 生粋の職人だった彼は、政府からナイトの地位を贈ると打診されたが、3度拒否した。首相在任中にフォート・ヘンリーを訪ねたときも、城壁の厚さを知っているかと兵士に尋ね「知らない」と言われると、「5フィート10インチだ、自分が建てたから知っている」と答えている。
●John Joseph Caldwell Abbott(1821−1893)
第4代首相(1891年6月16日−1892年11月24日)

 ジョゼフ・アボットはケベック州セント・アンドリュースに生まれた。彼の妻メアリ・ベチューンは、有名なノーマン・ベチューンの親戚である。
 アボットはマギル大学で法学を修め、弁護士・ビジネスマンとして活躍した。1853年からはマギル大学で商法と刑法を教え、名誉教授の地位を贈られた。彼の生徒には後の首相ウィルフリッド・ローリエがいた。
 アボットは1857年、連合カナダ植民地議会選挙にモントリオールから出馬して落選した。だが選挙制度に抗議し、その結果1860年に議席が認められ、1867年まで務めた。彼はローワーカナダ(ケベック)の英語系少数派住民の立場が弱まることを恐れ、カナダ連邦結成を支持した。12あるケベックの英語系選挙区を保護すべきという彼の提案は、1867年の英領北アメリカ法に取り入れられた。
 アボットは1867年、カナダ連邦下院議員に当選する。また彼はカナダ太平洋鉄道社長として鉄道敷設に邁進していたが、彼の事務所から密かに持ち出されたマクドナルド首相からの電報を暴露されてしまう。
「あと1万必要だ。これが最後の警告だ。私の期待を裏切るな。今日中に返事してくれ。」
 この問題は汚職事件「パシフィック・スキャンダル」に発展し、マクドナルド内閣を総辞職に追い込んだ。アボットも1874年に議員を辞職した。
 1878年下院選挙では惜敗し、1880年下院選挙では当選したものの贈収賄のため当選無効とされる。1881年補欠選挙でようやく議席を得て、1882年下院選挙では勝利した。
 1887年、マクドナルド首相より上院議員に指名され、マクドナルド内閣の無任所大臣を務めた。1887年から1889年まではモントリオール市長も務めている。
 1891年、マクドナルド首相が在任中に死去したとき、アボットはジョン・トンプソンを後継総理総裁に就けようとした。だがチャールズ・タッパーやエクトル=ルイ・ランジェバンらのグループの反発で保守党分裂の危機に瀕し、アボットは不本意ながら自ら後継総理総裁就任を受け容れることになった。彼は最初のカナダ生まれの首相であり、上院議員で首相に就任したのは彼とマッケンジー・ボーウェルだけである。アボットは首相に就任すると、ランジェバンに「公共事業大臣を辞任したらケベック州副総督のポストを提供する」と持ちかけ、ランジェバンは辞任したがアボットはジョゼフ=アドルフ・シャプローを任命した。
 1年5か月の短い在任期間中に、アボットは政府と党の再生に取り組んだ。公共サービスの改革、刑法改正、アメリカとの相互条約は、アボット首相の数少ない功績である。彼の任期中に総選挙はなかったが、52の補欠選挙において42選挙区で勝利した。
 アボットはなおもトンプソンへの政権禅定を図ったが、保守党幹部会の反カトリック感情のため頓挫した。1892年アボット首相は脳の病気を理由に辞任し、11か月後に死去した。後継総理総裁にはトンプソンが就任した。
 彼の残した言葉「私は政治も法律も嫌いだ。評判も、公共の会議も、公共での演説も、幹部会も、能力の及ぶ限り公務に務めること以外、政治的に必要な全てが嫌いだ」はよく知られている。
●John Sparrow David Thompson (1845−1894)
第5代首相(1892年12月5日−1894年12月12日)

 ジョン・トンプソンは、ノバスコシア州ハリファックスに生まれた。初め弁護士と裁判官を勤め、1878年から1882年までノバスコシアのサイモン・ホームズ政権の司法長官を務める。1882年にはノバスコシア首相に就任したが、わずか2か月後に総選挙で敗北し、政界から引退する。
 その後のトンプソンはノバスコシア最高裁裁判官を務めていたが、彼の能力を買っていたジョン・マクドナルド首相によって1885年、法務大臣に任命される。トンプソンはその年下院議員に初当選を果たす。
 彼が中央政界に復帰したのは、ルイ・リエルの反乱の真っ最中だった。そしてそれは法務大臣たるトンプソンの責任であった。彼は議会で「カナダ先住民に国家への反乱をそそのかすような者は、誰でも法の裁きを免れることはできない」と演説して大衆の喝采を浴びた。彼はそれから、次代の保守党を担う人物とみなされるようになった。
 法務大臣としてのトンプソンの業績には、刑法制定と刑務所改革が挙げられる。
 1891年のマクドナルド首相の死後、保守党は後継総理総裁選出で紛糾した。総督スタンレー卿はトンプソンに組閣を命じたが、トンプソンは妻と結婚した際にカトリックに改宗していた。保守党内でのカトリックへの偏見は根強いものがあり、トンプソンは党内の反対をまとめる自信がなく、総理総裁を固辞し、ジョン・アボットを推薦した。こうしてアボットが政権に就いたが、彼は高齢のためわずか1年5か月で辞任することになり、今度はトンプソンが満を持して総理総裁に就任した。彼はカトリック初の首相となった。
 わずか2年の任期を務めた彼は、ビクトリア女王に拝謁するため滞在したウィンザー城で心臓発作を起こし、若干49歳で死亡した。彼の死については、今も毒殺説がささやかれている。トンプソンはマクドナルドとともに在任中に死去した首相であり、チャールズ・タッパー、リチャード・ベネットとともにカナダ国外で死亡した3人の首相のうちの1人である。
●Mackenzie Bowell(1823−1917)
第6代首相(1894年12月21日−1896年4月27日)

 マッケンジー・ボーウェルはイングランドのリッキングホールに生まれ、1832年にオンタリオ州ベルビルに移住した。印刷工となった彼は新聞「インテリジェンサー」の印刷を手がけ、後にはその編集者、最終的にはオーナーとなった。アメリカ独立戦争とフェニアン侵攻では、彼は民兵として奉仕している。
 ボーウェルは1867年下院議員に初当選し、1882年の落選を除き1872年、1874年、1878年、1887年、1891年と順調に当選を重ねた。1878年税関大臣、1892年国防大臣、同年通商貿易大臣を歴任し、その年上院議員に指名される。1893年には上院幹事長となった。
 1894年にトンプソン首相が急死すると、人々はチャールズ・タッパーが後継総理総裁になると考えたが、総督アバディーン卿はマッケンジー・ボーウェルを首相に指名した。総督がタッパーを指名しなかったのは彼を嫌っていたからであり、ボーウェルを指名したのは閣僚の中で最年長だったからだった。
 こうして弱い基盤の上に成立したボーウェル政権に、マニトバ学校問題が襲いかかった。マニトバ州政府はそれまで、公立でない宗教系のセパレートスクールにも助成していたが、1890年マニトバ公用語法を制定し、英語を公用語と定めてカトリック系セパレートスクールへの助成を廃止したのである。マニトバ州にはフランス系住民が多く、マニトバだけでなくケベックでも反対の声が上がった。ボーウェル首相はカトリック系セパレートスクールを復活させたが、保守党内の造反により延期を余儀なくされた。首相は上院議員だったため、下院の審議に加われなかったことも響いた。
 いよいよボーウェルの指導力が疑われるようになった。首相の辞任を求め閣僚7名が造反して辞任し、さらにその後継指名も難航し、政府の活動は完全に停止してしまった。ボーウェルは造反派を「裏切り者の巣」と非難した。
 見かねた総督が介入して、首相が会期終了後に辞任するという条件で辞任した大臣のうち6名を復帰させ、政府危機は解決に向かった。だがボーウェル首相は完全に死に体となり、与党内のイニシアチブはこのとき国務長官として入閣したチャールズ・タッパーに握られることになった。彼は反ボーウェル勢力によって刺客として送り込まれたのである。
 1895年枢密院法務委員会は、連邦政府はマニトバ学校法をくつがえす法律を制定できるものとした。そこで与党は翌年2月、下院に法案を提出したが、自由党とダルトン・マッカーシーらプロテスタント過激派の議事妨害に遭い、ボーウェルは下院を解散した。首相は約束通り辞任した。
 その後のボーウェルは1906年まで上院幹事長を務め、その後は一介の平議員として生涯上院にとどまった。
●Charles Tupper(1821年7月2日−1915年10月30日)
第7代首相(1896年5月1日−1896年7月8日)

 「建国の父」最後の生き残りであるチャールズ・タッパーは、マクドナルド首相の後継者とみなされていたが、後に対立して失脚し、オタワを去った。だがマクドナルド首相とトンプソン首相の相次ぐ急死により、保守党のリーダーシップは迷走し、タッパーは再び中央政界に復帰する。満を持して政権に就いたタッパーだったが、保守党の硬直した反カトリック主義はマニトバ学校問題を紛糾させ、ケベックの支持を失い政権を手放すこととなった。

 (1) 生い立ち
 タッパーはノバスコシア州アマーストに生まれた。ホートン・アカデミーを卒業し、1839年から教職を務め、ノバスコシア州ウィンザーで医学を学び、さらにエジンバラ大学で医学を修めた。
 その後はアマーストで医院と薬局を開業したが、知人のノバスコシア保守党党首ジェームズ=ウィリアム・ジョンストンに政界入りを薦められる。

 (2) ノバスコシア政界
 1855年のノバスコシア総選挙で、タッパーは初当選を果たしたが、全体では自由党が大勝利を飾り、ウィリアム・ヤングが首相に就任した。
 総選挙大敗を受けた翌年の保守党幹部会では、タッパーはカトリック少数派に耳を傾けることと、大陸横断鉄道建設を受け入れること、民族や宗教でなく天然資源を重視する政治という新機軸を打ち出した。そして1857年初めには、タッパーは自由党のカトリック議員に保守党に加わるよう説得し、自由党のヤング政権を過半数割れに追い込んだ。そしてその年ヤング内閣を総辞職させ、保守党は政権奪回に成功する。
 1859年総選挙で保守党はかろうじて勝利したものの、内閣信任案を否決され、ジョンストン首相は解散に打って出ようとしたが、総督マルグレーブ卿はこれを拒否してヤングに組閣を命じた。タッパーはイギリス政府に総督の罷免を要請したが、無視された。
 1863年総選挙では、保守党は大陸横断鉄道建設推進のマニフェストを掲げ、定数55のうち44議席を獲得する大勝利を飾り、ジョンストンが政権を奪回した。だが彼は翌年政界を引退し、タッパーが後継総理総裁に就任した。

 (3) 連邦結成へ
 タッパーはそれまで、莫大な人口を抱える連合カナダ植民地との合併は、ノバスコシアを埋没させるだけだと考えていた。だが1858年首相としてロンドンを訪問した際、イギリスの政治家たちは、ノバスコシアのような小さな植民地にまるで注意を払おうとしなかった。1861年アメリカ南北戦争に北軍が勝利すると、タッパーは北軍が北に方向を転じ、英領北アメリカに侵攻するのではないかという不安を抱いた。そこで、将来の全ての英領北アメリカ植民地による連邦を見据えて、ノバスコシア・ニューブランズウィック・プリンスエドワード島3州によるマリタイム連合構想を発表し、1864年のシャーロットタウン会議での批准を目指した。ところが連合カナダのマクドナルド首相が、シャーロットタウン会議に参加したいと申し入れてきたので、タッパーは驚いた。しかしこれはマリタイム諸州にとって、自分たちに有利な条件で連合カナダを含む連邦を結成する絶好のチャンスでもあった。
 同年のケベック会議では、タッパーは当初、一つの議会のみを持つ連合を提唱した。だが、連合カナダのフランス系であるカルチェ首相やランジェバンらは、単一議会制に強く異を唱えた。
 そこでそれぞれの州がその議会を引き続き保持し、中央政府もまた新たに議会を持つというマクドナルドの連邦案が浮上した。タッパーも単一議会による中央集権制を嫌い、ある程度強力な権限を有する連邦政府を持つ連邦制に賛成した。ただし連邦議会が圧倒的な人口を有する連合カナダ植民地に独占されることがないよう、タッパーはマリタイム諸州を上院議席で優遇する案を提示した。
 (4) 中央政界進出
 1867年7月1日、カナダ連邦が成立した。タッパーはノバスコシア首相を7月4日に辞任し、その年の連邦議会選挙で当選する。1870年枢密院議長、1872年国税大臣、1873年税関大臣、1878年公共事業大臣、1879年鉄道運河大臣を歴任したタッパーは、マクドナルドの後継者と目されるようになった。だがタッパーがカナダ太平洋鉄道チーフエンジニアとしてサンドフォード・フレミングを支持したのに対し、マクドナルドは彼の更迭を望み、二人は次第に距離を置くようになる。1881年、タッパーは閣外に去ることを決意し、マクドナルドへ駐英高等弁務官に任命するよう依頼した。以前は全国で選挙運動していたタッパーは、1882年総選挙ではノバスコシアのみで運動した。タッパーは翌年駐英高等弁務官となり、オタワを去ってロンドンに移り住んだ。1884年には閣僚と下院議員を辞任し、オタワから完全に距離を置いた。
 1884年のノバスコシア州議会選挙は、自由党が連邦離脱の公約を掲げて勝利した。そこでマクドナルドは、反連邦派と戦うためタッパーにオタワへ戻るよう頼んだ。タッパーは1887年、財務大臣としてオタワに戻った。高等弁務官の職は保持したままだった。
 1887年総選挙で、保守党がノバスコシア州21議席のうち14議席を獲得して勝利すると、タッパーは駐英高等弁務官に専念するためにロンドンに戻ろうとした。マクドナルドはタッパーに、オタワにとどまるよう説得した。彼は以前エクトル=ルイ・ランジェバンを後継者に指名していたが、このときタッパーを後継者に指名すると約束した。しかしタッパーはマクドナルドを信じることができず、1888年財務大臣を辞任してロンドンに戻った。

 (5) 総理大臣
 1891年にマクドナルド首相が死去すると、何人かはタッパーを後継総理総裁に就けようとしたが、タッパーはジョン・トンプソンを推してオタワ復帰を固辞した。ところがそのトンプソン首相が1894年に急死すると、多くの人はタッパーが首相に指名されると考えたにもかかわらず、総督アバディーン卿はタッパーを嫌っていたので、マッケンジー・ボーウェルに組閣を命じた。
 だがボーウェルはマニトバ学校問題でつまずき、首相辞任を求め閣僚7名が辞任し政府の活動が完全に停止する事態となった。総督の仲介により、会期終了とともに首相が辞任するという条件で辞任した閣僚を復帰させ、ようやく正常化できたものの、ボーウェル首相は完全に死に体となった。タッパーは次期総理総裁を約束され国務長官として入閣し、中央政界復帰を果たした。事実上はタッパーが総理総裁であった。
 ボーウェルは1896年4月24日に下院を解散し、首相を辞任した。タッパーは5月1日、首相に指名される。74歳、史上最高齢の首相が誕生した。
 1896年総選挙は、どの選挙区においてもマニトバ学校問題が非難の種となった。いっぽう自由党のローリエは、党是である自由貿易を修正し、保護貿易を受け容れた。結果は、自由党の得票率45%に対し、保守党は45.1%の最多得票率を得たにもかかわらず、わずか89議席にとどまり、117議席の自由党に敗北した。保守党はケベック以外の全ての州で自由党と互角に議席を分け合ったが、ケベックでは自由党49議席に対し保守党16議席と大敗した。
 タッパー首相は総選挙敗北を受け容れず、辞職を拒否した。そこで総督アバディーン卿が介入し、タッパーを辞職させローリエに組閣を命じた。タッパーは総督の行為は憲法違反と主張したが、無視された。
 タッパー首相の在位69日は、史上最短政権である。彼は下院解散後に首相に就任し、次の総選挙で敗北し辞任したため、カナダの歴史上唯一連邦議会を経験しなかった内閣でもある。
 1900年総選挙では、保守党はオンタリオで自由党を上回ったものの、ケベックでわずか7議席の大敗を喫し、全体では自由党133議席に対し保守党80議席と再び敗北した。タッパーは後事を同じノバスコシアのロバート・ボーデンに託し、保守党党首を辞任した。
●Henri Charles Wilfrid Laurier (1841−1919)
 第8代首相(1896年7月11日−1911年10月5日)

 フランス系最初の首相であるウィルフリッド・ローリエは、第一次大戦前後のイギリス系とフランス系の対立が激化した困難な時代に、独特の「妥協の政治」で融和に努めた。将来のカナダ独立を必然とみなし「われわれの運命の北極星」と呼ぶいっぽう、イギリスによる自治領併合に強く反対し、アメリカとの関係強化を模索した。融和を重んじるあまり節を曲げることがあり、フランス系からは「国家の統合のためフランス系を犠牲にした」、イギリス系からは「フランス系からの圧倒的な支持だけで国を運営した」と評される。
 15年連続首相在任、32年連続党首在任、45年連続下院議員在任の記録は、今も破られていない。

 ローリエはケベック州サン・ランに生まれ、マギル大学で法学を専攻し、モントリオールで弁護士を開業した。新聞「ル・デフリシュール」を創刊するが、ルージュ党(後の自由党)と緊密な関係を持つようになり、1871年自由党からケベック州議会選挙に出馬し当選。1874年には州会議員を辞職し、連邦下院選挙に出馬し当選。1877年、初の自由党政権であるアレクサンダー・マッケンジー内閣で内国歳入大臣を務めた。

 (1) 自由党党首
 エドワード・ブレイク党首は、1886年総選挙敗北の責任を取り、翌年辞任してローリエを後継党首に指名した。だが自由党の中には、ローリエが慢性の気管支炎を患っていたため、リーダーにはふさわしくないと反対した者も少なくなかった。彼らはまたオンタリオの人々が、メティスの反乱指導者ルイ・リエルとローリエを関連づけるネガティブ・キャンペーンを心配した。
 野党党首となったローリエは1888年、アメリカとの無制限互恵を公約に掲げた。これは、米加両国は互いの関税を撤廃するものの、第三国には独自に関税を設定できるというものだった。だがローリエは親米反英主義者・大陸主義者とみなされ、1891年総選挙に敗北し実現を見なかった。
 1896年総選挙では、マニトバ学校問題が重要な争点になった。1870年に連邦に加入したマニトバ州には、プロテスタント校とカトリック校があり、前者は英語・後者はフランス語で授業を行っていたが、州政府は1890年カトリック校への公費支出を打ち切った。これは、同州におけるフランス語公教育の終わりを意味した。しかし保守党政権は、マクドナルド首相とトンプソン首相の相次ぐ現職総理の死により、リーダーシップが混乱し、問題を解決できそうになかった。有権者は、フランス系カトリックのローリエなら、この問題を解決できると期待したが、「妥協の人」ローリエはあえて明確な態度を示さなかった。
 (2) 総理大臣
 1896年6月、ローリエは総選挙に勝利し、首相に指名された。だが多くのフランス系の期待に反し、ローリエは融和を重んじ、カトリックに有利には運ばなかった。彼は「国家の調和」と「少しはましな政治」のスローガンのもと、マニトバ州のトーマス・グリーンウェイ首相との会談で、カトリック教育を英語以外の言語で、放課後30分以内に限り行えるという妥協案に逃避した。
 ローリエは1897年イギリスの首都ロンドンに行き、初めて開催された植民地会議に出席した。フランス系の彼は、将来のカナダ独立を見据え、大英帝国が政治的・経済的・軍事的に密接に結びつけられることに反対した。
 1899年のボーア戦争では、ローリエは派兵を求められたが、イギリスの戦争に全面的に協力しフランス系市民を送ることは、カナダを分裂させかねなかった。彼は妥協案として、イギリス軍への物資補給・輸送援助・資金援助と義勇兵7300人の派兵という最小限の協力にとどめたが、フランス系カナダ人はいかなる協力であっても強く反対した。フランス系のタルト公共事業大臣は、ローリエのわずかな協力を批判したため、1902年辞任に追い込まれた。
 1903年には、アラスカとの国境画定に失敗した。アメリカによる併合を防ぐため、カナダは1898年にユーコン準州を創設していたが、米加両国が互いに都合のいい国境線を主張し、これにイギリスが介入して決裂した。
 1905年、ローリエはアルバータとサスカチュワンの新しい2州を創設した。だがそのことは、これら2州にも学校問題が降りかかることをも意味した。ローリエはイギリス系プロテスタントからの再度の圧力に屈し、単一教育制度に逃避し、少数派のカトリックからセパレートスクールを奪った。かくして中西部のフランス系市民の多くが祖先の言語を失い、ローリエはカナダに真の多文化・バイリンガル教育を導入する最後の機会を逸した。この問題は90年後の1993年、1982年憲法制定を受けて蒸し返されることになる。
 1907年の植民地会議では、自治領の自立が促され、個別に海軍と外務省を設立することを求められた。これを受けてローリエは1910年、5隻の巡洋艦と6隻の駆逐艦から成るカナダ海軍を創設した。だがこれは、イギリス系「帝国主義者」にとっては不十分であり、フランス系民族主義者にとっては過剰であった。そのころ、後に外務省となる「対外関係省」が、オタワの床屋の2階で業務を開始した。
 ローリエは1910年、第一次産業製品のほぼ全てを免税、製造品では鉄鋼と有刺鉄線を免税をとする対米自由貿易構想を打ち出した。だが企業家や農民の間に、競争激化への不安が広がった。保守党のロバート・ボーデン党首は、これをイギリスへの背信行為であり、アメリカによる併合への道と非難した。ローリエは局面打開のため解散・総選挙に打って出たが、1911年9月の総選挙で敗北し、首相を辞任した。

 (3) 第一次大戦と徴兵制
 政権を手放し野党党首となったローリエは、オンタリオ州におけるフランス語教育を擁護し、フランス系市民の喝采を浴びた。
 ローリエ自身は、カナダの第一次大戦参戦を強く支持した。フランス系で拒否反応の強い徴兵制に反対するいっぽう、志願兵の派兵を推進した。保守党政権提出のカナダ海軍がイギリスに協力する法案には、ローリエは議事妨害を行い、自由党が多数を占める上院で廃案にした。
 ローリエは、ボーデン首相から挙国一致内閣への参入を持ちかけられたが、彼の真意は徴兵制導入にあったので、ローリエはこれを拒否し、志願兵に固執した。だがビミー・リッジの戦いでカナダ人だけの部隊が勝利し、国民が熱狂するなか、カナダ軍編成は不可避の情勢となった。挙国一致内閣を固辞するローリエに対し、自由党のイギリス系議員たちはボーデンの「連合」内閣に参入し、自由党は分裂する。ボーデンはこの機に乗じ、1917年7月に徴兵法を成立させたうえで、12月の総選挙に打って出た。保守党は「連合」会派を名乗り、連合内閣に参加した自由党員は「連合自由党」を名乗り、参加しなかった自由党員は「ローリエ自由党」と呼ばれ、分裂選挙となった。結果は、定数235議席のうち連合153、ローリエ自由党82と与党圧勝に終わった。ローリエは党を分裂させたうえに総選挙で大敗し、苦い敗北を味わった。


写真:オタワのローリエ・ハウス。ローリエ首相とキング首相が暮らした。
 (4) その後の影響
 だが徴兵制を強行した保守党は、ケベックでの得票が困難になり、1958年総選挙を除き以後70年近くケベックから閉め出されることになる。いっぽう自由党は、1917年総選挙で大敗したものの、ケベックでは65議席中62議席を獲得し、影響力保持に成功している。1958年総選挙を除き以後70年近く、ケベックでは自由党が常に第一党となり、ローリエはその後の自由党万年与党体制を確立したともいえる。
 そのいっぽう、もしローリエが連合内閣に参加していたら、彼と自由党がケベックで強く支持されることもなく、今に続くケベック独立問題は違った展開になっていたことだろう。
●Robert Laird Borden(1854−1937)
 第9代首相(1911年10月10日−1920年7月10日)

 ロバート・ボーデンは、ノバスコシア州グラン・プレに生まれた。1868年から1874年までノバスコシア州とニュージャージー州で教師を務めたが、1874年ノバスコシアに戻り、弁護士となる。1882年ハリファックスの法律事務所に移り、そこで後の首相チャールズ・タッパーと知り合ったことが、政界進出のきっけとなった。
 ボーデンはもともと自由党員だったが、自由党が打ち上げたアメリカとの互恵条約に反対し、1891年に離党した。1896年自由保守党から出馬して下院議員に当選し、1901年には自由保守党幹部会から党首に選出された。

 (1) 野党党首
 党首に就任したボーデンがまず手掛けたことは、野党に転落した党を再建することだった。1907年に発表した「ハリファックス綱領」は、上院改革、地方の無料郵便配達、電信・電話の国有化などを構想している。だが1908年総選挙で、ボーデン率いる保守党はローリエ率いる自由党に敗れた。
 そこで1911年総選挙では、「カナダ主義か、それとも大陸主義か」という巧みなスローガンを掲げて、反ローリエの諸団体を結集させた。農民や企業家は、アメリカとの自由貿易に恐れをなしていた。ケベック民族主義者は、海軍を設立しイギリスの戦争に協力することに反対した。またブリティッシュコロンビアでは、保守党は「ホワイト・カナダ」のスローガンを掲げ、アジアからの安い労働力がもたらす賃金低下の脅威を訴えた。こうしてボーデンは総選挙に勝利し、首相の座に就いた。

 (2) 総理大臣:連合内閣と徴兵制
 1914年、第一次大戦が勃発した。カナダはヨーロッパの戦場に志願兵を送ったが、当初すぐ終わると思われていた戦争が長期化すると、兵力不足が深刻化した。そこでボーデン首相は、徴兵制実施に向けて布石を打ち出した。
 ボーデンは1917年5月、自由党に挙国一致内閣の組織を提案した。これには2つの狙いがあった。一つは徴兵法案を全会一致で成立させ反対を封じること、もう一つは自由党のイギリス系議員とフランス系議員の分裂を誘発することだった。ローリエ党首は大連立すれば徴兵制に反対できなくなり、自由党がケベックの支持を失うと同時に、ケベック民族主義のアンリ・ブラサを調子づかせることになるのを恐れ、この提案を拒否した。だが自由党のアングロフォン議員の多くは大連立に加わり、院内会派「連合」を形成し自由党は分裂した。
 ボーデン首相はこの機に乗じ、7月に徴兵法を成立させた。国民の反発は必至と思われたが、首相は10月に内閣改造に踏み切り、保守党12名・自由党9名・労働者1名・無所属3名からなる「連合内閣」を組織した。なお「労働者」とは電信技手をしていた保守党のギデオン・ロバートソンのことで、ボーデン首相は「挙国一致内閣」とは言っても社会主義者を入閣させるつもりは毛頭なかった。
 こうしてボーデンは、自由党の分裂と徴兵制の両方を巧妙に実現したうえで、12月の総選挙に打って出た。保守党は「連合」会派を名乗り、連合内閣に参加した自由党員は「連合自由党」を名乗り、参加しなかった自由党員は「ローリエ自由党」と呼ばれ、分裂選挙となった。選挙法に従えばカナダは前年に下院選挙を実施しなければならないはずだったが、イギリスの例に倣い、第一次大戦の非常事態において挙国一致内閣を組織するためという理由で、選挙を延期していたのである。
 ボーデンはさらに選挙を与党有利に運ぶため、抜け目なくいくつかの有事立法を成立させた。一つは「戦時選挙法」で、1902年以降に移住した敵国出身者から市民権を剥奪した。この法律はまた、志願兵の親族女子にも選挙権を認めた。こうしてこの年の選挙は、はからずもカナダ史上初めて婦人参政権を認めたものとなった。もう一つの法律は「軍人選挙法」で、海外派兵された軍人はどの選挙区でも自由に投票できるというものだったが、これは最も票がほしい選挙区に役人が軍人を誘導することを可能にするものだった。選挙結果は、定数235議席のうち連合153、ローリエ自由党82と与党圧勝に終わった。
 (3) 徴兵危機
 ボーデン首相は徴兵法を成立させたにもかかわらず総選挙で大勝利し、翌年1月1日から徴兵法を実施した。40万人の成人男子が徴兵の義務を負っているはずだったが、免除条件もあり徴兵を免れる方法はいくらでもあった。ケベック州では徴兵制はすこぶる不評で、1918年4月に大規模なデモに発展する。そしてついに軍がデモ隊に向けて発砲し、4人の市民が死亡した。世論は騒然となった。
 政府はその後免除がないよう徴兵法を改正したが、それでも12万5千人しか徴兵できず、このうち2万5千人だけが戦地に送られた。徴兵制は今やほとんど全ての国民の不評を買っていた。

 (4) パリ講和会議
 幸運なことに戦争はその年終結し、国民の不評を買いカナダを二分した問題も過ぎ去った。ボーデン首相は、パリ講和会議にイギリスとは別にカナダ代表を送ろうとした。これはイギリスだけでなくアメリカの反発をも買ったが、ボーデンはカナダがアメリカとは比較にならないほどの犠牲を払ったと主張した。大英帝国は最終的に、カナダ・インド・オーストラリア・ニュージーランド・ニューファンドランド・南アフリカそれぞれの自治領代表を送ることになったが、ボーデンはニューファンドランド代表がカナダ代表より上位の席次を占めたことに抗議し、開会セレモニーをボイコットした。また彼は、カナダがベリーズと西インド諸島を委任統治する可能性についてイギリスと交渉したが、受け容れられなかった。
 ボーデン首相は最終的に、独立国ではないのにカナダ代表としてベルサイユ条約に署名し、国際連盟で1議席を得て、カナダの国際的発言力を戦前とは比較にならないほど増大させた。だが徴兵危機はボーデンの政治生命を奪い、彼は1920年健康を理由に政界を引退する。そして彼の後継者ミーエン首相は翌年の総選挙で大敗し、自由党のマッケンジー・キングによる21年にも及ぶ長期政権が始まることになるのである。
 ボーデンは1918年から1920年までマギル大学総長、1924年から1930年までクイーンズ大学総長を務めた。

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