ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

カナダの歴史と政治コミュの「史上最悪のカナダ人」にトルドー元首相

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 各種人気投票では必ず3位以内にランクインするカナダのスーパースター、故ピエール・トルドー元首相が、歴史雑誌「ザ・ビーバー」8月号と連動したインターネット投票で「史上最悪のカナダ人」に選ばれたと、同誌が7月31日に発表した。

 トップ10は以下の通り。
1.ピエール・トルドー(元首相)
2.クリス・ハンナ(パンクグループ「プロパガンディ」)
3.ヘンリー・モーゲンタラー(中絶推進医師)
4.ブライアン・マルローニ(元首相、進歩保守党を破滅させた)
5.ポール・ベルナルドとカーラ・ホモルカ(女学生2名を殺害)
6.スティーブン・ハーパー(現首相)
7.セリーヌ・ディオン(ポップ歌手)
8.ジャン・クレチエン(元首相、スポンサーシップ事件被告)
9.クリフォード・オルソン(児童連続殺人犯)
10.コンラッド・ブラック(元メディア王)

 カナダ歴史協会代表でビーバー誌発行人のデボラ・モリソン氏は、ノミネートされた人々がここ30年間の人物に限られていることに注目し、
「投票者は現在だけを見て、歴史的視野を欠いている。多くの人々がこの結果を見て『歴史上もっと悪いやつらがいる』と考えるだろう」
と語った。

 1990年と2004年の人気投票の結果はこちら。
http://bluejays.ld.infoseek.co.jp/preface.htm


写真左:キューバーのカストロ首相と会談するトルドー。
写真中:バッキンガム宮殿にて。女王の死角でバレエを踊るふりをしておちょくるトルドー首相。フランス系の彼にとって、イギリス人女王など何ほどの意味もなかった。
写真右:エリザベス二世が1982年憲法に署名するのを見守るトルドー首相。新憲法は総督を「事実上の」国家元首と規定し、国王は象徴的存在となった。これは憲法がイギリスからカナダに移管された瞬間であった。そして女王がカナダを手放した瞬間でもあった。

コメント(24)

トップテンにハーバーのみがあって、
センターくんはないね。
HarbourじゃなくてHarperでした。
残念! 泣き顔

忙しいので後刻、アンケート結果の分析とトルドーの業績について解説します。
●元メディア王コンラッド・ブラック氏に有罪判決

 2007年7月13日、シカゴの陪審裁法廷は元ホリンジャ・インターナショナル社最高経営責任者(CEO)コンラッド・ブラック被告に対し、郵便詐欺、司法妨害の計4件の容疑について有罪、脅迫、送信詐欺、脱税など9件の容疑について無罪を宣告した。被告側弁護団は控訴した。

 ブラック被告はアメリカの出版社に自分がオーナーの傘下グループを売却する際、買い手が売り手に渡し契約後同様の会社を設立しないと約束させる「競争禁止供託金」260万USドルを会社に入金する前に着服。詐欺、横領を謀り当時の取締役3人にも割り当てた罪でホリンジャ・インターナショナル社から訴えられていた。
 さらに2005年、警察から禁じられていたにもかかわらずブラック氏自らトロントの元オフィスに出向き、証拠隠しのため13箱の重要書類を運び出す司法妨害を行った。その一部始終はビデオカメラに収められていた。

 ブラック氏は1944年モントリオールに生まれた。当時父親は大手醸造会社兼複合企業のトップであった。翌年家族はトロントに移り、ブライドルパスにある豪邸で、幼少から召使やナニー、運転手つきの富豪の家に育つ。
 10代の頃には通っていたアッパーカナダ・カレッジで期末試験の問題を入手し、級友に売ったことが発覚して放校処分となった。25歳でケベックの地方紙の買収に始まり、メディアへのビジネス欲をみせる。
 1976年に両親が他界すると財産と会社を引き継いだが、84年オーナーであったスーパーマーケットのドミニオンを売却したときも従業員の年金用基金に手をつけたと訴えられている。
 その翌年からイギリスにある数社の新聞社を買い上げていく。90年代中ごろには105紙あるカナダの日刊新聞社のうち59紙を買収し、新聞グループ会社ホリンジャ・インターナショナルのトップは、ついに世界で3番目に大きい新聞王となった。
 彼の2番目の妻、イギリスの元ジャーナリスト、アミエルさんには不正な金で60万ドルもする真珠のブローチや260万ドルのダイヤモンドの指輪をプレゼントしている。また各界の有名人を招き、巨費をはたいてマンハッタンでアミエルさんの誕生日パーティーを開いたこともある。

 今回アメリカの裁判所が下した評決は、カナダの服役システムや刑期に比べてかなり厳しい。3件の郵便詐欺ではそれぞれ5年、司法妨害では最長20年の禁固刑と100万ドル以下の罰金刑が加えられる可能性がある。
 アメリカとの刑務所移動システムを使ってカナダの刑務所に移り、刑期の3分の1に到達したら仮釈放が認められる場合もあるが、ブラック氏の場合はそうもいかない事情がある。
 ブラック氏は新聞ビジネスを広げ、サッチャー元首相との親交が深いことから、イギリス上院の「一代貴族」に任命されている。だがクレチエン首相は「外国で貴族とされる者はカナダ市民権を保持すべきではないという1919年からの伝統的決議を変えることはできない」と主張し、裁判に発展したがブラック氏は敗訴。カナダ市民権放棄を余儀なくされた。移民局も「外国で罪を犯している人をカナダに戻すことはできない」とコメントしていることから、ブラック氏のカナダ市民権再取得は絶望視されている。
〔このレスはニュースサイトの翻訳で、筆者の意見ではありません〕

 トルドー元首相がワースト1に選ばれたことは、2004年に「最も偉大なカナダ人」調査で3位にランクインした事実と比べ、明らかにカナダ人がトルドーに対し愛憎相半ばするツンデレ状態にあることを示している。
 カナダ歴代首相をランク付けした「嫌な奴・馬鹿な奴」の著者ウィル・ファーガソンは「トルドーはいまだ賛否両論ある人物なのだ」とコメントした。
 マーク・リードは「トルドーは憲法の父として尊敬を集めているが、国家エネルギー計画によって西部で、十月危機の戒厳令によってケベックで敵を作ったのだろう」と指摘するとともに、「彼はカナダを変えた男として、最近の50年の歴史においてただ一人挙げられる人物だ」とも語った。
 また彼は、オンライン投票は歴史に関心を持つカナダ人の気を引くために遊び半分で行われた可能性があり、オンライン・コンテストが統計的に信頼できない例となるだろうとコメントした。その例証として、政治家または殺人犯がトップ10にランクインしているにもかかわらず2位に入らず、2位はパンク・バンドマンであったという事実に着目した。2位にランクインしたクリス・ハンナは、自分への投票を呼びかけていたのだ。
●ポール・ベルナルドとカーラ・ホモルカの犯罪

 (1) 生い立ち
 ポール・ベルナルドは1964年、オンタリオ州スカボローの裕福な家に生まれた。だがその内情は悲惨だった。公認会計士だった父ケネスは母マリリンを虐待した。彼女は昔の男友達に救いを求め、挙句に身籠ったのがポールだった。ケネスは寛容にもポールを我が子として受け入れたが、虐待は止まず、マリリンは次第に精神を病んでいった。
 ケネスの悪行はこれに留まらなかった。彼はご近所を覗いて回るようになり、少女たちに性的いたずらを働いた。そのうえ彼は自分の娘にもいたずらしていたのである。
 ポールは母から父の子ではないと告白され、父と同様に女性を蔑視する人間に育っていった。そして父と同様に覗きに出歩き、強姦を始めた。「スカボロー・レイピスト」事件の始まりである。

 カーラ・ホモルカは1970年、オンタリオ州ポート・クレディットに生まれた。高校時代にペットショップでアルバイトしたのがきっかけでポールと出会う。彼女は男前の公認会計士に夢中になった。彼女の卒業アルバムにはこう書かれている。
 「一番の夢は、ポールと結婚して週に2回以上デートすること」
 彼女はヨーク大学とトロント大学に入学できたにもかかわらず、それを蹴って動物病院に就職した。もうポールのことしか考えられなかった。

 (2) セックスと殺人とビデオテープ
 ポールは過剰な性欲を持て余していた。カーラだけでは十分満たされなかった。今やポールの性奴と化したカーラは、彼のために女を調達した。その中には妹タミーの友達も含まれていた。また彼女はポールが「スカボロー・レイピスト」であることを知ったうえで、その犯行を幇助していた。犠牲者の一人が現場でビデオを撮影する女を目撃しているのである。
 更に驚くべきことに、カーラは妹のタミーまでも差し出した。1990年12月23日、自宅の地下室でタミーとビデオを見ていたカーラは、彼女のカクテルに動物用の睡眠薬を混入した。タミーは昏睡状態に陥り、ポールに後ろから前から陵辱された。カーラはいつものように撮影していた。ところが、事が終わるとタミーは息をしていなかった。吐瀉物を気管に詰まらせ窒息したのである。意図していなかったとはいえ二人は最初の殺人を犯す。しかし事故として処理され、法的責任を問われることはなかった。

 (3) とめどない殺人
 タミーの死は二人にある一線を越えさせた。また同時に絆を与えた。もう別れることはできないのである。二人は1991年6月29日、ナイアガラ・オン・ザ・レイクで結婚式を挙げた。カーラの夢がかなった瞬間である。馬車に乗り、幸せそうに結婚写真を撮影しているそのとき、ギブソン湖畔ではレスリー・マハフィ(14)のバラバラ死体が発見されていた。ポールがレイプした後殺害し、カーラがセメントに漬けて遺棄したのである。1992年4月30日にはクリステン・フレンチ(15)の全裸死体がバーリントンの排水路で発見された。彼女は13日にも渡り拷問された挙句殺されたのだった。

 (4) 発 覚
 この頃にはポールは会計事務所を辞め、アメリカからの酒や煙草の密輸で生計を立てていた。やがてカーラへの暴力が始まった。彼女が殺されるのも時間の問題だった。
 1993年1月5日、瀕死の目に遭ったカーラは命からがら逃亡し、警察に通報した。「スカボロー・レイピスト」事件の容疑は43件にも及び、これに加えてレスリー・マハフィーとクリステン・フレンチの殺害を立証するとなるとカーラの証言は不可欠だった。トロント市警は彼女に司法取引を迫り、その結果懲役12年という軽い刑が宣告された。ところが、その後決定的な証拠である犯行ビデオテープが発見された。カーラの証言だけがポールを有罪にする唯一の証拠ではなかったのである。



写真左:プールサイドで遊ぶポールとカーラ。
写真中:ポールとカーラの結婚式。10か月前に人を殺したようには見えない。
写真右:3人の犠牲者。左からタミー・ホモルカ、レスリー・マハフィ、クリステン・フレンチ。
 (5) 裁判と世間の関心
 カーラの裁判については全面的に報道が規制された。その根拠は「続くポール・ベルナルドの公正な裁判の確保」だったが、本当は「司法取引の隠蔽」だったと思われる。ポールの弁護人はこの旨を目敏く指摘し抗議したが、結局、報道規制は撤回されなかった。
 かくしてカナダ中が注目しているにもかかわわらず、カナダ人はその内容を知らないという異例の事態となった。報道規制はアメリカのメディアには及ばないので、カナダ人は国境を越えてアメリカ版「ニューズウィーク」を買った。文明の利器インターネットもこの騒ぎに一役買った。野次馬どもの興味の焦点は「殺人・レイプビデオは存在するのか」であり、「日本のヤクザが買った」などとまことしやかに論じられた。
 辞任したベルナルドの元弁護士ケン・マレーは、証拠のビデオテープをすぐに引き渡さなかったため児童ポルノの容疑で起訴された。2000年に無罪となった。
 カナダ当局は2001年、ビデオテープは将来使用される見込みがないと判断し、被害者が拷問されレイプされる様子を撮影した6本のビデオテープの破壊を命じた。
 だがスティーブン・ウィリアムズは、「検死」という番組を製作しているホーム・ボックス・オフィス社にビデオの若干の部分を売却した。彼はまた、テープが高価な値段で地下市場において売買される可能性を示唆した。
 主犯のポール・ベルナルドは1995年、終身刑を宣告された。カナダは死刑を廃止していたからである。
 2004年には映画「カーラ」が製作されたが、オンタリオ州首相ダルトン・マギンティはボイコットを呼びかけた。


写真左:公判中のカーラ・ホモルカ被告。
写真右:映画「カーラ」の1シーン。ポール役のミーシャ・コリンズとカーラ役のローラ・プレポン。
 アンケート結果についてトピ主の意見を述べます。

1位 ピエール・トルドー
 後述する。

2位 クリス・ハンナ
 ランクインしたことを喜んでいる唯一の人物。カナダ映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」において、事件に影響を与えたと糾弾されたマリリン・マンソンが、そのアナーキーなイメージとは裏腹に至極真っ当なコメントをしていたことが思い出される。

3位 ヘンリー・モーゲンタラー
 私はこの人を知らないが、キリスト教保守主義の影響の強いカナダではやはり受け容れられないだろう。

4位 ブライアン・マルローニ
 1993年に辞任したとき、新聞に「戦後最低の内閣」と書かれていたが、戦後最低どころか歴史上最低で、犯罪者でもなければこれより悪いのは絶対に出て来ないだろう。20世紀末に調査したら間違いなく1位になっていたと思われる。詳しくは「カナダの右派政党」を参照。

5位 ポール・ベルナルドとカーラ・ホモルカ
 人もうらやむハンサムなエリートと美女のコンビで、しかも変態で殺人犯にまで堕ちてくれると、人々の屈折した優越感を刺激せずにはいられない。殺したのは「わずか」2人で、もっと大勢殺した者もほかにいるが、やはりこれほどの逸材はそうはいないと思われる。

6位 スティーブン・ハーパー
 自由党支持者の組織票と思われる。前歴から右翼と疑われていたが、首相に就任してみると案外まともで、改革党のような過激なことはせず、よく頑張っている。ハーパー政権は過半数を大きく割り込んでおり、野党は解散・総選挙に追い込むことは簡単だが、そうしないのは総選挙すれば保守党の議席が増えるだけだとわかっているからである。

7位 セリーヌ・ディオン
 子育てで休業するのが気に入らないのか、ケベック人なのに英語で歌うのが気に入らないのか、金持ちなのが気に入らないのか。
 あるいはエア・カナダの組織票だろうか。詳しくはサチ先生の日記を読むべし。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=480418645&owner_id=6880763

8位 ジャン・クレチエン
 戦後の首相では唯一連続3選を果たし、20世紀を代表する政治家であることは間違いない。有力野党がなかったのが大きな原因だが、それゆえ政権内に自浄作用が働かなかった。政権末期には公共サービスの切捨てを行い、スポンサーシップ事件で晩節を汚した。
 彼が首相になったとき、知り合いの日本人が「俺より英語下手なのに首相になった」と憤慨していたが、いえいえ、英語が下手でも努力すれば報われるということを、首相自らが教え、希望を与えてくれたのですよ。

9位 クリフォード・オルソン
 知らないのでノーコメント。

10位 コンラッド・ブラック
 アンケートの半月前に有罪判決を受けたためランクインしたと思われる。


写真:プロパガンディのクリス・ハンナ。
写真:ヘンリー・モーゲンタラー。
写真:クリフォード・オルソン。
●過大評価された英雄
 ピエール=エリオット・トルドー(1919〜2000)
 第19代首相(1968年4月〜1979年6月)
 第21代首相(1980年3月〜1984年6月)

 (1) 前半生
 モントリオールで資産家の家に生まれる。父はフランス系、母はスコットランド系で、家では父に英語、母にはフランス語を話す生まれながらのバイリンガルだった。
 モントリオール大学で法律を学んだ後弁護士資格を取り、ハーバード大学で政治経済学修士号を取得。
 1948年、中東を旅行中スパイ容疑で逮捕される。1949年、アスベスト鉱山ストライキに労働者側弁護士として関わり、逮捕される。共産主義経済会議出席のためモスクワを訪問中、スターリン像に雪を投げ逮捕される。このころ反体制雑誌「自由の街」編集長となり、デュプレシの抑圧支配を批判してジェラール・ペレティエ、ジャン・マルシャンとともに「ケベックの三賢人」と呼ばれる。このころアメリカで入国を拒否される。1960年、カヌーでフロリダからキューバへ渡航しようとして、80キロ地点で断念。1961年、まだ国交のない中国を訪問する。1961年、モントリオール大学准教授となる。
 1965年総選挙で自由党から出馬し、初当選を果たす。ピアソン首相の核配備を受け入れを批判したにもかかわらず、1967年ピアソン内閣の法務大臣に任命される。離婚・中絶・同性愛について寛容な姿勢を取り、国民の人気を博した。
 ピアソン首相が1968年の引退を発表すると、トルドーは党首選出馬を表明する。1965年に入党したばかりの彼は当選1回のアウトサイダーと見なされ、党内右派からも強い反発を受けたが、彼は当選し、首相に就任した。

 (2) 第一次政権−カナダ・アイデンティティの構築
 トルドーのアウトサイダー・イメージは若者の人気を呼び、「トルドーマニア」を生んだ。トルドー政権は1970年、西側諸国で最初に中華人民共和国と外交関係を結び、北京を訪問してニクソン大統領を激怒させた。ニクソンは後年、中国との交渉の仲介役にわざわざカナダを避け、ルーマニアを選んでいる。貧しい家から叩き上げでのし上がって来たニクソンは、金持ちでハーバード卒でバイリンガルでプレイボーイで、そのうえ容共主義のトルドーが大嫌いだった。後にウォーターゲート事件が発覚したとき、ニクソンが「あのトルドーのバカ野郎(asshole)」と語ったテープが公開されている。
 同年の十月危機では、戦時中でないにもかかわらず戒厳令を発令し、賛否両論を呼んだ。
 1971年には「多文化主義」宣言を行い、英仏二か国語を公用語と定め、1980年には「オー・カナダ」を国歌に制定して「カフェイン抜きのアメリカン」などと評されたカナダ人のアイデンティティ構築に努めた。だがトルドー自身は後に、全てのカナダ人が二か国語を話すよう要求するかのような印象を与えたため「バイリンガリズム」という用語を使用したことを後悔していると語った。

 (3) 華麗な交友関係
 1969年のクリスマス・イブに、ジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻がトルドー首相を訪問した。このときレノンは「全ての政治家がトルドーのようだったら、世界は平和になるだろう。カナダ人は彼のような人材を得てどれほど幸運なことか」と語った。
 トルドーは1971年、シンクレア水産大臣の娘マーガレットと電撃結婚し、現職首相として唯一結婚した人物となった。だがいっぽうでは女優バーブラ・ストライザンドを公共の場に同伴し、オンタリオ州首相ボブ・レイの姉妹ジェニファー、リオナ・ボイド(ギタリスト)、マーゴット・キッダー(女優)、キム・キャトラル(女優)とも交際するなど浮気癖が直らず、マーガレット夫人は精神科に入院したこともある。その夫人もエドワード・ケネディ上院議員やローリング・ストーンズのロン・ウッドと関係し、1984年ついに離婚する。こうしてトルドーは現職首相として唯一離婚した人物となった。


写真左:30歳年下のマーガレットとの挙式。
写真中:バーブラ・ストライザンドを同伴するトルドー首相。
写真右:カナダの美人ギタリスト、リオナ・ボイドとのデートを楽しむトルドー首相。
 (4) 第二次政権−社会主義の影響
 1972年総選挙では、7.1%の失業率、5.3%のインフレが話題となった。結果は定数264議席のうち自由党109、保守党107、新民主党31、社会信用党15と史上最大の接戦を際どく制したトルドーが少数政権を組織することになったが、新民主党の閣外協力が不可欠となった。それゆえ第二次トルドー政権には、外国資本の参入を規制する外国投資審査庁の設置や、カナダ石油公社の設立など、社会主義的政策が見られる。
 その後支持率の上昇を見た彼は、予算案編成について新民主党の要求をわざと拒み、1974年下院で内閣不信任案を可決させた。解散を受けてその年行われた総選挙では自由党が141議席と過半数を回復し、安定政権を築くことに成功した。
 だがその後景気は悪化し、財政赤字は増大し続けた。妻との別居や妻の自伝がゴシップとなり、1979年総選挙の投票日前日にはマーガレット夫人がナイトクラブで踊っている姿が目撃され、その写真が翌日あらゆるメディアで公表された。トルドー自由党はジョー・クラーク率いる進歩保守党に敗れ、トルドーは政界引退を表明したが、次の党大会で党首が選任されるまで党首に留まることにした。だがその前に、その年のうちにクラーク内閣が不信任されたため、トルドーは党首に留まり、選挙を戦うよう説得された。

 (5) 第三次政権−西部の疎外
 翌1980年の総選挙でトルドーは進歩保守党を破り、政権を奪回する。だがこの選挙は、カナダを東西に大きく分断することとなった。自由党は地盤のケベックで75議席中74議席を獲得したが、西部ではマニトバで2議席を得ただけで、サスカチュワン以西で議席を得られなかったのである。
 彼はアメリカとの自由貿易を否定し、アメリカ資本への従属を阻止するためカナダ経済を囲い込む政策を取ったが、西部諸州は遠い中部と取引するよりアメリカ西部と取引する方が有利だったから、西部では不評だった。また第二次オイルショックを受けた、石油利潤を各州に再分配する「国家エネルギー計画」の導入は、西部を激怒させ「西部の疎外」を生んだ。アルバータ州は国家エネルギー計画によって、500億ドル以上の歳入を失ったと考えられている。だがトルドーは中西部に議席がなく、自由党の地盤にならないことがわかっていたため、彼らがどんなに嫌がる政策でも痛みを伴わず実行できたのである。
 1982年には、彼の最大の功績とも言える新憲法制定を実現させた。旧憲法に欠けていた人権に関する規定を定めたほか、イギリスの同意なしにカナダ独自で憲法改正できるようになり、カナダはここに完全独立を達成する。だが当初ケベックに約束されていた「特別な地位」は土壇場で反故にされ、ケベックは新憲法の批准を拒否した。自由党は歴史的にケベックを強固な地盤としてきたが、1982年憲法制定以後、連邦議会で一度もケベックで最多議席を獲得できていない。
 1981年には失業率が8%と戦後最大の水準に達した。財政赤字はトルドーが首相に就任した1968年には180億ドル(GDPの24%)だったのが、1984年には2000億ドル(GDPの44%)にも膨れ上がっていた。トルドー内閣支持率は1982年憲法制定から下降を始め、1984年の初めには、世論調査はトルドーが総理・総裁に留まるなら自由党は確実に総選挙で敗北することを示した。彼は6月に総理・総裁を辞任し、政界を引退した。


写真:ジョン・レノン、オノ・ヨーコ、トルドー首相。
 (6) 引退してなお影響力
 引退してもなおトルドーは英雄であり、隠然たる影響力を保持していた。マルローニ首相が提唱した、ケベックを憲法体制に取り込むための憲法改正試案であるミーチレイク協定とシャーロットタウン協定は、1982年憲法を制定したトルドーの功績を修正する行為にほかならず、ケベック文化を「尊重される文化」、先住民に「特別の地位」を規定するのは国民平等の観点からも問題だと、トルドーは引退した身でありながら公然と2つの協定に異議を唱え、いずれも廃案に追い込んだ。トルドーもマルローニもケベック独立を阻止し連邦を維持する立場に違いはなかったが、その手法はあまりに違い過ぎていた。
 トルドー首相は公用語・国歌・憲法を制定しカナダ・アイデンティティを構築するなど、その15年の治世においてスーパースターとしての揺るぎない地位を確立したが、経済に弱く、カナダ経済を囲い込む「経済ナショナリズム」政策は失敗に終わり、トルドーは過大評価されているきらいがある。
 彼は政権末期にはケベックの恨みを買い、西部の憎しみを買った。この両者は本来敵対関係にあったが、進歩保守党のマルローニ首相は、両者のトルドーに対する恨みに巧妙に乗じ、ケベックには憲法上の特別の地位を、西部には国家エネルギー計画の廃止と自由貿易を約束して、ケベックと西部の「大連立」という歴史的和解を実現し、1984年総選挙で大勝利する。だが記述の通り前者は2つの憲法協定の破綻、後者は戦後最大の不景気と西部の離反を招いた。この2つの災難の元凶が実はトルドーにあることは、カナダ史のタブーとして意図的に伏せられているようだが、この2つが進歩保守党を崩壊に導き、自由党一党支配を確立させたのがトルドーの「功績」だと言っては、故人に対しあまりにも気の毒というものだろうか。
 またトルドーは政権末期に対米関係をこのうえなく悪化させたが、マルローニ首相はレーガン大統領とアイルランド系同士、ネオコン同士でウマが合い、史上かつてないほどアメリカ寄りの政策を取った。これはもちろんアメリカ嫌いのカナダ人には不評だった。
 歴史家マイケル・ブリスは、トルドーを「最も賞賛され、最も嫌われた首相である」と述べている。
>5
アマンダ・グリスさん、はじめまして。
トルドーについてまとめていたので、返答が遅れました。

>カナダ史をかじって、大学の卒論を書いたので

日本の大学でカナダ史を教えるところなんてあるんですか?
上智大学にはカナダ図書館があるので、教えているかもしれませんが。
噂では、ブリティッシュコロンビア大学と姉妹校である立命館大学がそうだと聞いています。

>トルドーって国際的な評価は比較的高いような気もしますが、カナダ人的な視点からは芳しくないんですかね?

トルドーが国際的評価が高いとは、私は思いません。アメリカでの評判がいいとは思えないし、少なくともニクソンは嫌っていました(ニクソンに好かれる人物にロクな人はいないと思いますが)。サッチャー首相がカナダを訪問したとき、「あなたと私の意見が食い違うのはあなたが間違っているときだけです」と言ったのは有名な話です。政権末期に彼が「平和イニシアチブ」を掲げて各国を精力的に訪問したことについても、大韓航空機撃墜事件などで西側が東側と対決姿勢を強めている時期にあたり、米国務省高官が「ヤクにラリったブサヨクのやること」と口走って問題になったり、またサッチャー首相には「原爆が落ちた1年後には広島に草が生えていたのよ」と言われたりするなど、散々でした。
トルドーは国歌・公用語・新憲法を制定するなどカナダ・アイデンティティを確立し高く評価されていますが、経済には明るくなかったようです。ケベックに「独特の地位」を認めず、西部を犠牲にする政策をとったため両地域での評判はすこぶる悪いです。彼は過大評価されているのです。

>トルドーやセリーヌ・ディオンの評価の悪さって何なんでしょうか?

1990年と2004年の調査結果を見ると、戦前の人物はジョン・マクドナルド、フレデリック・バンティング、ルイ・リエル、アレクサンダー=グレアム・ベルだけであとは全て戦後の人物であり、また「なし」が3位を占めた事実とも併せて考えると、カナダ人がいかに自国の歴史を知らないかがわかります。投票者が歴史的視点を欠いているがゆえに、著名人や近年の人物、特に半月前に有罪判決を受けたコンラッド・ブラック氏の名を挙げたのではないでしょうか。
またトルドーがアメリカの大女優バーブラ・ストライザンドと交際していたのは、カナダ人にとっては誇らしかったでしょうが、ニクソンのようにエリート臭・プレイボーイ臭が露骨なのを嫌っていた人もいたでしょう。
そうですか。卒論なのに独学とは、恐れ入ります。

>南北アメリカのゼミ

えらい広範囲ですねえ。普通は北米・中米・南米だと思うのですが。

>筑波大学の木村和男先生の研究

大学情報ありがとうございます。この先生は有名で、総督賞を取られましたね。桜美林大学の吉田健正先生は体調を崩しているようです。あとは関西学院大学の櫻田大造先生とか。
はじめまして。OH!CANADAコミュからハーバーセンターさんのご紹介により参りました。

私もカナダ史を卒論で書いてますが(現在進行中)、専攻は東洋史で指導教授の専門は明です。(ばく)

中国系カナダ人の歴史のことをやっているので「華僑だから東洋史」と押し通しました。

日本のカナダ史研究はまだまだ発展途上のようですね。

トピ違いでしたらごめんなさい。
はじめまして、管理人です。
「はじめまして」トピはだいぶ下の方に埋もれていて、もうみんな忘れていると思います。

>カナダ史を卒論で書いてますが、専攻は東洋史で指導教授の専門は明です

う〜ん、カナダ史学習者の悲哀がひしひしと伝わってまいります。
大勢に逆らい、誰からも関心を持たれず、物好きだと思われ、一人孤独に戦う運命を克服した者だけにわかる世界なのです。

>中国系カナダ人の歴史のことをやっているので

当コミュはあまりお役に立てません。
中国関連は
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=13097954&comm_id=1611536
くらいです。
レスありがとうございます。

カナダ史をやっていて最も孤独を感じたときは
「大学の図書館で15年ほど前に配置された本のはずなのに、貸し出し記録を見ると借りるのは自分が始めてだった」というときでした(^^;

カナダってそんなにマイナー地域でもないと思いますけどねー(><

少なくともオーストラリア史よりメジャーだと勝手に思い込んでおります。
>カナダ史をやっていて最も孤独を感じたとき

おもしろいのでトピ立ててください。
 12月10日、元ホリンジャ・インターナショナル社最高経営責任者のコンラッド・ブラック被告に、懲役6年6か月と罰金12万5000ドルの90日以内の支払いが宣告された。彼は3件の詐欺容疑と司法妨害のため、最高で20年の懲役の危機に直面していた。
 被告側弁護士の1人アンドリュー・フレイ氏は「63歳の被告に懲役6年6か月は長すぎる」と語った。だがエディー・グリーンスパン弁護士は「罪状が9000万ドルの詐欺を含んでいたことを思えば、我々は終身刑と戦ったようなものかもしれない」と語った。

 裁判で被告側弁護団代表ジェフリー・スタインバック氏は「ブラック氏は、彼が盗みを働いたといわれる企業帝国を築いた勤勉な実業家だ。銀行強盗は自分が設立した銀行から盗むようなことはしない」と弁論した。だが検察側は、ブラック被告が反省の色を見せず、法廷を侮辱さえしたと反論した。
 裁判はブラック被告のほか、彼のファイナンシャル・アドバイザーだったジャック・ボルトビー被告に懲役27か月及び3年の保護観察処分と15万2000ドルの賠償、ホリンジャー社主任法律顧問のピーター・アトキンソン被告に懲役24か月と罰金3000ドル、弁護士マーク・キプニス被告に懲役6か月及び地域奉仕活動の判決を下した。
 元メディア王コンラッド・ブラック被告(63)は3月3日、フロリダ州パームビーチの豪邸を出てオーランド近くのコールマン連邦刑務所に出頭し、「囚人18330-424」として服役した。
 ブラック受刑者は受刑者と同様に、写真撮影、指紋押捺、所持品検査などの手続きを済ませたあと獄舎に案内された。彼はほかの受刑者1名と同房となり、庭掃除、厨房の仕事などを与えられ、時給12〜40セントが支給されることになる。
去年の記事ですが、CTVのおもしろいアーカイブを発見しました。
http://www.ctv.ca/servlet/ArticleNews/story/CTVNews/20070905/mulroney_intvu1_070905/20070905/
Mulroney says Trudeau to blame for Meech failure
「マルローニ氏、ミーチレイク協定失敗の責任はトルドーにあると語る」

記事よりも、カナダ人読者のコメントが興味深いです。
収賄疑惑で証人喚問までされながら死者を罵り続けるマルローニ元首相もアレですが、CTV読者には保守党支持者が多いのか、トルドーの反米、容共主義、財政赤字、国家エネルギー計画を糾弾するとともに、彼の伝説を作った多文化主義・二言語主義にも懐疑の目を向けています。何人かの読者は、失敗したにもかかわらずマルローニの上院改革、保護貿易から自由貿易への転換などの「構造改革」を歴史的視点から評価しているようです。2つの憲法協定に対するトルドー元首相の妨害は、やはり個人的感情の問題を抜きにはできないでしょう

>Pierre Trudeau will always hold a special place in Canadian history.
(ピエール・トルドーは、カナダの歴史において常に「特別な地位」を保持するだろう)
>Mr Mulroney will hold his "appropriate" place in Candian political history.
(マルローニ氏は、カナダ政治史において彼の「適切な地位」を保持するだろう)

adam saundersさんのこの発言は、憲法協定におけるケベックの「特別な地位」への皮肉でしょう。
Vince M.さんの発言は、2ちゃんねらーみたいで笑えます。
 アンガス・リード社が5月19日と20日に、1004人の成人カナダ人を対象に実施した世論調査は、ここ40年間で最高の首相として圧倒的にトルドーを推していることと、現職のハーパー首相が最高の首相・最低の首相の両方で高い数字を記録していることを明らかにした。
1位はピエール・トルドー(自由党)40%。
2位はスティーブン・ハーパー(カナダ保守党)11%。
3位はジャン・クレチエン(自由党)9%。
4位はブライアン・マルローニ(進歩保守党)8%。
5位はポール・マーチン(自由党)4%。
6位はジョー・クラーク(進歩保守党)3%。
7位はジョン・ターナー(自由党)とキム・キャンベル(進歩保守党)1%。

 トルドーは他を圧倒して断然トップに立っている。マルローニは2年前の調査では12%だったが、今回の調査は彼がエアバス疑惑について委員会で審問を受けている最中だったため、数字を大きく下げた。「史上最低の首相」と呼ばれるマルローニには、いくつかの汚点もあるが、NAFTA締結などの功績もあり、短期政権で何もできなかったターナーやキャンベルよりは支持が多かった。
 調査はまた、現職のハーパー首相が支持も不支持も多いことを示している。ここ40年間で最低の首相は、22%のハーパーが1位で、「史上最低の首相」マルローニの19%を上回った。アンケートが審問の最中であったことを考慮すると、驚異的なことといえる。2008年の調査では、ハーパーを最低とする人は15%だった。
 ハーパーを最低とする人はオンタリオで18%、ケベックで29%、東部で39%となった。東部の数字が大きいが、ノバスコシア州とニューファンドランド&ラブラドル州は、大西洋協定違反でハーパー政権を告訴している。
 2008年総選挙で自由党に投票した人の38%、新民主党に投票した人の31%、ケベック連合に投票した人の31%が、ハーパーを最低の首相とした。いっぽう保守党支持者の間では、最低の首相はトルドー23%、クレチエン20%となった。全国的に支持の多いトルドーは、中西部をターゲットにした国家エネルギー計画で、保守党支持者の間では評判が悪い。
 6月30日、アンガス・リード社が1009人のカナダ人を対象に、「1968年以降の首相で最高・最低は誰か」というオンライン世論調査を実施した。
 最高の首相は、1位トルドー(38%)、2位クレチエン(13%)、3位ハーパー(11%)、4位マルローニ(7%)、5位マーチン(3%)、6位クラーク(2%)、7位キャンベル(1%)、8位ターナー(0%)、わからない(23%)という結果となった。
 自由党支持者の58%・新民主党支持者の55%・緑の党支持者の51%は、トルドーを挙げた。保守党支持者の35%はハーパーを、ケベック連合支持者の21%はマルローニを挙げた。
 最低の首相は、1位マルローニ(24%)、2位ハーパー(18%)、3位トルドー(12%)、4位クレチエン(10%)、5位キャンベル(8%)、6位クラーク(6%)、7位マーチン(5%)、8位ターナー(1%)、わからない(17%)という結果となった。
 短期政権に終わったクラーク、ターナー、キャンベル、マーチンの各首相は、最高・最低ともに数値が低く、存在感がないようだ。

ログインすると、残り3件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

カナダの歴史と政治 更新情報

カナダの歴史と政治のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。