ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

五井先生コミュの聖書講義

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
聖書講義1P032洗礼のヨハネ
聖書講義洗礼のヨハネ
神より遣わされたる人いでたり、その名をヨハネといふ。この人は証の為に来れたり。光に
就きて証をなし、また全ての人の彼によりて信ぜん為なり。彼は光にあらず、光に就きて証せん為に来れるなり。

これは、先礼のヨハネと呼ばれた人のことですが、この人はキリスト教聖書中になくてはならぬ人であるので、ヨハネ福音書でも
ルカ伝でも第一章に、マタイ伝でもマルコ伝でもこの人のことを書いております。
法然と親鸞とが切っても切れぬ重要な宗教的つながりをもつ指定であったのとは、少し違いますが、法念なくしては親鸞の宗教が
成り立たなかったと同じように、洗礼のヨハネなくしては、イエスが救世主としての確信を持ち得なかったこと事実です。
それは、次の節ではっきりと現れております。ヨハネがエルサレムに遣わされた祭司やレビ人の質問に答えて「我はキリストにあらず、エリアにあらず、
我は預言者イザヤに伝える如く、『主の道を直くせよと、荒野に呼ばはる者の声なり』」といい、明くる日イエスが自分の許に訪ねてきたのを見て、次のようにいいます。

『見よ、これぞ世の罪を除く神の子羊。われ曽て「わが後に来る人あり、我にまされり、我より前にありし故な」といひしは、この人なり。
「我もと彼を知らざりき。然れど彼のイスラエルに顕れんために、我きたりて水にてバブテスマを施すなり」ヨハネはまた証をなして言ふ
「われ見しに御霊、鳩のごとく天より下りて、その上に止まり。我もと彼を知らざりき。然れど我を遣わし、水にてバプテスマを施させ
給ふもの、我に告げて、『なんぢ御霊くだりて或る人の上に止まるを見ん。これぞ精霊にてバプテスマを施す者なる」といひ給へり。
われ、之を見て、その神の子たるを証せしなり』

この節を読んでおりますと、その時のヨハネやイエスや群集の様子が、目に見えるように現れてきます。
髪はぼうぼう。髭で顔中おおわれ、眼光けい々として人を射る風貌のヨハネが、ヨルダン河畔で獅子吼している姿、その雄姿に吸い込まれる
ように見ほれ聴きほれている群衆、その中にまじって、いまだ定かならぬ自己の行く道を、切り開いてくれる偉大なる人のあることを信じ
ながら、その人を探し求めていたイエスの、期待に輝いている眼差し、この瞬間は実に真実のキリストの教えが開かれんとする重大な
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
瞬間であり、イエスの運命の定まらんとする一瞬でもあったのです。
この節を読んでおりますと、その時のヨハネやイエスや群集の様子が、目に見えるように現れてきます。
髪はぼうぼう。髭で顔中おおわれ、眼光けい々として人を射る風貌のヨハネが、ヨルダン河畔で獅子吼している姿、その雄姿に吸い込まれる
ように見ほれ聴きほれている群衆、その中にまじって、いまだ定かならぬ自己の行く道を、切り開いてくれる偉大なる人のあることを信じ
ながら、その人を探し求めていたイエスの、期待に輝いている眼差し、この瞬間は実に真実のキリストの教えが開かれんとする重大な
瞬間であり、イエスの運命の定まらんとする一瞬でもあったのです。

僕が神様から聞いて切るのは、キリストのヨハネも霊格んは同じです。

コメント(3)

聖書講義1P053イエスとサタン
聖書講義

イエスとサタン

ここにイエスの御霊にによりて荒野に導かれ給う。
悪魔に試みられんとするなり。
四十日、四十夜断食して、後に飢えたまふ。
試むる者きたりて言ふ「汝もし神の子ならば、
命じてこれらの石をパンに為らしめよ」
答えて言ひ給う「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より、
出づる凡ての言葉に由る」と録されたり」
ここに悪魔イエスを聖なる都に連れてゆき、
宮の頂上に立たせて言ふ「汝もし神の子ならば己が身を下に投げよ。
それは「なんじの為に御使たちに命じ給はん。彼ら手にて汝を
支へ、その足を石にうち当てること無からしめん」
と録されたり」悪魔また、イエスを最高き山に連れて行き、
世のもろもろの国と、その栄華とを示して言ふ「汝もし平伏して我を拝せば、
此等を皆なんじに与えん」
ここに言う給ふ「サタンよ退け。「主たる汝の神を拝し、ただ之にのみ事
へ奉るべし」と録されたるなり」ここに悪魔は離れ去り、視よ、
御使いたち来たり事へぬ。

ここはイエスが悪魔の試みを退けて、神の子の進化を発揮するところですが、
宗教信仰者にとって、特に大事な章であると思います。

古来から今日まで、少しの修行もしないで悟れた聖者というものは
おりませんで、それぞれ異なった形ではありますが、
肉体に執着する想念を浄め去るための様々の修行がなされております。
釈尊も断食行中に種々の悪魔の誘惑を受け、これを退けておりますが、
イエスも同じように断食中に前記のような悪魔の誘惑を受けております。
悪魔と言うのはどのようなものかと申しますと、業想念波の現われの一つ
の形であります。

--------------------------------------------

ここにイエスの御霊にによりて荒野に導かれ給う。
悪魔に試みられんとするなり。
四十日、四十夜断食して、後に飢えたまふ。
試むる者きたりて言ふ「汝もし神の子ならば、
命じてこれらの石をパンに為らしめよ」
答えて言ひ給う「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より、
出づる凡ての言葉に由る」と録されたり」
ここに悪魔イエスを聖なる都に連れてゆき、
宮の頂上に立たせて言ふ「汝もし神の子ならば己が身を下に投げよ。
それは「なんじの為に御使たちに命じ給はん。彼ら手にて汝を
支へ、その足を石にうち当てること無からしめん」
と録されたり」悪魔また、イエスを最高き山に連れて行き、
世のもろもろの国と、その栄華とを示して言ふ「汝もし平伏して我を拝せば、
此等を皆なんじに与えん」
ここに言う給ふ「サタンよ退け。「主たる汝の神を拝し、ただ之にのみ事
へ奉るべし」と録されたるなり」ここに悪魔は離れ去り、視よ、
御使いたち来たり事へぬ。

→光と闇の戦いは昔からですからね。

ここはイエスが悪魔の試みを退けて、神の子の進化を発揮するところですが、
宗教信仰者にとって、特に大事な章であると思います。

古来から今日まで、少しの修行もしないで悟れた聖者というものは
おりませんで、それぞれ異なった形ではありますが、
肉体に執着する想念を浄め去るための様々の修行がなされております。
釈尊も断食行中に種々の悪魔の誘惑を受け、これを退けておりますが、
イエスも同じように断食中に前記のような悪魔の誘惑を受けております。
悪魔と言うのはどのようなものかと申しますと、業想念波の現われの一つ
の形であります。

→悪魔の誘惑に負けた人がいっぱいいるんだが、
私のツイッターのアマテラスが言うには、
お金を初めは少しって言うので、
始まるらしいです。
それから、だんだん深みにはまっていくらしいです。

五井先生は宗教者は、のどから手が出るほどお金がほしくても
入りませんって言わないといけないって言っています。

聖書講義1P054カルマ
聖書講義
つづき

業想念波というのはどういうものかを、ここで説明いたしますと、
業というのは仏教語で、カルマとも言われておりまして、
人間が肉体身としてこの世に生まれ出でて、種々と意識したり、
想像したり、思いめぐらしたり、行ったりすることが、すべて業なので
あります。カルマと申しますと、悪いことばとして使われますが、
業という中には、善業も悪業もあるのです。しかし、普通一般的に業
といいますと、カルマと同じように、悪や不幸災難の場合に使われます。
そこで、業のふかい奴だ、などと言われ、悪い想念の多い人や、
欲望の深い人、不幸の多い人などに使われます。
そうした業の想念が波になって、この世やあの世を経巡っておりますのを、
私は業想念波動と申しております。これが凝り固まると、悪魔というように
形の世界に現われて来るのであります。
人間が神のみ心を離れ、肉の身だけに把われた業想念の波を、形ある世界に表現
すると、悪魔とかサタンとかということになるのであります。
この世の想いは勿論、行為も形も、すべて、波動の現れであることは、
今日の科学が証明いたしております。
そうした、業想念波が自己の中心にありますと、外的な業想念波の誘惑、
つまり悪魔の誘いにのることになります。女性の色香に迷っているときなどは、
自分の本心では、これはいけないことだと自分をたしなめながらも、
明るいところを嫌い、真理の光をさけるようにして、暗い方に引きずられてゆきます。
こうした神のみ心、真理の光が、この世にはっきり差し込むことを嫌う想いが、
悪魔の思いでありまして、これを今日流にいえば、
業想念波というので、聖者賢者のゆく道を妨げたり、善人を落とし入れたり
する行為をするのであります。
その方法は女性の誘惑という形もありましょうし、
金銭的なものや地位や権力欲的な誘いもありましょう。
また脅迫的な恐怖をさそうような出方もしますし、
おだて上げて高慢な思いを助長させようとしたりします。
釈尊やイエスには個人的な業想念などありそうにありませんが、
肉体身を持っている限りは、その肉体身を改めて捨離する想念
になる必要があるのです。そして、自己が霊身そのものであり仏であり、
キリストであることを再自覚することが大事なのです。
釈尊にしてもイエスにしてももともと菩薩であり、天使であるのですが、
肉体身をもっておりますと、この世の肉体世界の業想念波動と
感応しあう波動を持つことになります。
それでなければ、この世の人の悩みや苦しみが自分の苦悩として
感じられるわけがありません。この世の人の苦悩を自分の悩みとして
感じられないような人には、救世的な働きができるわけが、
ありません。何故ならば、人々の苦悩はたんに他人事の苦悩であって、
我れにはなんのかかわりもないこととなるので、
救いに立つという気持が起こりようがないからです。
菩薩や天使が肉体人間として生まれてくるのは、肉体世界の苦悩を
我が苦悩として、一度は受け止めるためでありまして。
そういう人びとは、人並以上の肉体的苦悩を味あわされ、ますます、
深い愛の心が培われてゆくのです。

-------------------------------------------------

業想念波というのはどういうものかを、ここで説明いたしますと、
業というのは仏教語で、カルマとも言われておりまして、
人間が肉体身としてこの世に生まれ出でて、種々と意識したり、
想像したり、思いめぐらしたり、行ったりすることが、すべて業なので
あります。カルマと申しますと、悪いことばとして使われますが、
業という中には、善業も悪業もあるのです。しかし、普通一般的に業
といいますと、カルマと同じように、悪や不幸災難の場合に使われます。
そこで、業のふかい奴だ、などと言われ、悪い想念の多い人や、
欲望の深い人、不幸の多い人などに使われます。
そうした業の想念が波になって、この世やあの世を経巡っておりますのを、
私は業想念波動と申しております。これが凝り固まると、悪魔というように
形の世界に現われて来るのであります。

→まさに、現在の世の中ですね。

人間が神のみ心を離れ、肉の身だけに把われた業想念の波を、形ある世界に表現
すると、悪魔とかサタンとかということになるのであります。
この世の想いは勿論、行為も形も、すべて、波動の現れであることは、
今日の科学が証明いたしております。
そうした、業想念波が自己の中心にありますと、外的な業想念波の誘惑、
つまり悪魔の誘いにのることになります。女性の色香に迷っているときなどは、
自分の本心では、これはいけないことだと自分をたしなめながらも、
明るいところを嫌い、真理の光をさけるようにして、暗い方に引きずられてゆきます。
こうした神のみ心、真理の光が、この世にはっきり差し込むことを嫌う想いが、
悪魔の思いでありまして、これを今日流にいえば、
業想念波というので、聖者賢者のゆく道を妨げたり、善人を落とし入れたり
する行為をするのであります。

→そうですね、私が善人かどうかは、別として、結構落とし入れられたり
しましたね。

でも、現在地球は大浄化に入っていますので、
悪いものは全て表に出てきますね。

浄化って、悪いものが表に出てよくなりますので。

その方法は女性の誘惑という形もありましょうし、
金銭的なものや地位や権力欲的な誘いもありましょう。
また脅迫的な恐怖をさそうような出方もしますし、
おだて上げて高慢な思いを助長させようとしたりします。

→この辺に、ひっかかるかどうかですね。

釈尊やイエスには個人的な業想念などありそうにありませんが、
肉体身を持っている限りは、その肉体身を改めて捨離する想念
になる必要があるのです。そして、自己が霊身そのものであり仏であり、
キリストであることを再自覚することが大事なのです。
釈尊にしてもイエスにしてももともと菩薩であり、天使であるのですが、
肉体身をもっておりますと、この世の肉体世界の業想念波動と
感応しあう波動を持つことになります。
それでなければ、この世の人の悩みや苦しみが自分の苦悩として
感じられるわけがありません。この世の人の苦悩を自分の悩みとして
感じられないような人には、救世的な働きができるわけが、
ありません。何故ならば、人々の苦悩はたんに他人事の苦悩であって、
我れにはなんのかかわりもないこととなるので、
救いに立つという気持が起こりようがないからです。

→ですので、普通は苦労した人は、慈愛が深いって言うのは、
事実ですが、そうでない、魔界の生物そのままの人もいるわけです。

菩薩や天使が肉体人間として生まれてくるのは、肉体世界の苦悩を
我が苦悩として、一度は受け止めるためでありまして。
そういう人びとは、人並以上の肉体的苦悩を味あわされ、ますます、
深い愛の心が培われてゆくのです。

そういえば、去年の7月15日、神々に言われて、祝詞+供養を
49回上げさせられたが、

あれは、あれで、正解だったようだ。

天台宗日勤行式にあるが、
目蓮尊者

初め舎利佛と同じバラモンの修行をし、舎利佛との約束によりその誘いをうけて仏弟子
っとなる。教団の長老として仏陀の信任が厚く、特に神通力第一の尊称がある。
自分の母が餓鬼道に、落ちて苦しみを受けているのを見て
毎年7月15日に百種の供物を供えて母を救った伝説があるが、
これが、盂蘭盆会の始まりである。また、祇園精舎の設計監督者であった。
っとある。

ようするに、神々は盂蘭盆会をさせたかったのか。

ここからは、五井先生が統一の指導で言っているのだが、

統一は、
--------------------------------------------
心と身体を投げ出して、
ふんわりした気持ちで統一しましょう。
--------------------------------------------

初めは座禅とか通うのもいいかも知れません。

神々は、言うには、
一時期私が掲示板をやめたときに、
あのまま、しておけばよかったのにって神々から言われた。
あの時、五井先生のテープの音が聞こえていたのは、
五井先生がお清めしていた、かららしい。

あのときRAHIRIさんは、五井先生が清めているから、
そのままするように言ったが、
風さんは、精神世界から出るように言った。

風さんがおかしくなりだしたのは、
比叡山の途中からですね。

そういえば、風さんの教団の年配の女性は元気なのだろうか?
あの方は、昔から、まともだ、オレは風さんは苦手だが。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

五井先生 更新情報

五井先生のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング