ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

縄文族ネットワーク [太陽の道]コミュの冬至の鎮魂(タマフリ)と新嘗(ニイナヘ)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
一年のうち最も昼が短くなる日。
冬至とは「日短きこと至る(きわまる)」を意味します。

古代人たちは、冬至の前後になると太陽の力が弱まり、人間の魂も一時的に仮死する。
すなわち陰極まれば万物みな衰えて死に、太陽の帰り来る「一陽来復」によって再びよみがえると考えた。

こうした原始的な信仰は、日本に限らず世界の多くの民族に共通したもの。
一旦死にかけた太陽の復活を願って、「タマフリ」と称する鎮魂の行事が世界各地で行なわれるようになりました。

例えば炉の火を新しく替えることによって太陽を復活させ、人もまたこれで新たな生命力を得ようとしたといわれています。
現代に伝わっている「冬至風呂」もそうした民俗風習のひとつ。
再生した火で風呂を沸かし、新しい力を得た湯に柚子を入れ、その精によって衰えた体に新たな生命の復活を念じたといわれています。


◆現在に残る各地の風習

太陽の力は、冬至の日まで徐々に弱まって行くように見えます。
冬至は太陽の力が一番弱まった日ということになります。
しかし力が一番弱まった日ということは、この日を境に再び力が強まる(甦る)日であるともいえます。
そこで地方によってこの日は柚子湯に入り、小豆粥や南瓜を食べると風邪をひかないという習慣が残っています。

・柚子湯

柚子を浮かべたお風呂に入ることで、体を温め冬を乗り切りました。
柚子には「融通(ゆうずう)が利く」という願いうを込めて、また冬至を湯につかって病を治す「湯治(とうじ)」にかけているとか。

・冬至南瓜

野菜の少ない季節に栄養を補給するため広く浸透した風習。

・冬至粥

小豆入りの粥のことで、赤い色によって疫神を遠ざけるという意味があります。
また、地方により「いとこ煮」といって、南瓜と小豆の炊き合わせたものもあります。

沖縄地方では、冬至(トゥンジー)の頃からトゥンジービーサといって寒さが一段と厳しくなります。
各家庭では、「冬至雑炊(トゥンジージューシー)」をつくり、火の神と仏壇にお供えし、寒さを元気に乗り切るためみんなでいただく習慣があります。
お米に豚肉や人参に田芋などを入れて煮込んだジューシーは、地域によってかたい雑炊(クファジューシー)にしたり、やわらかい雑炊(ボロボロジューシー)にしたりします。
いずれも田芋などの芋が入るのに特徴があり、トゥンジージューシーを食べることによって冬が来たことを知りました。
ネバネバした沖縄独特の田芋は身体を暖め寒さを防いでくれるので、トゥンジービーサもどこかへ飛んでしまうそうです。


◆冬至粥のルーツ、新穀感謝の祭

冬至粥(とうじがゆ)という習俗も、そのルーツは古代の最も大切な行事、新穀感謝の祭に由来しています。
古代人は、稲の穂を摘むことによって穀霊が一旦死ぬと考えた。
そこで一家の主婦は、田から稲や粟(あわ)の初穂を抜いて家に持ち帰ると、それを寝具にくるんで添い寝し、新しく生まれてくる稲魂(いなだま)のすこやかな生育を祈った。
ついで、その新穀を臼(うす)に入れ、復活の唄を歌いながら杵(きね)で搗く。
得られた白米を、火を新しくしたカマドで炊きあげる。
出来た固粥(かたがゆ。今の普通のご飯)と、同じ米で醸(かも)した神酒(みき)を供え、それらを神と共に飲んだり食べたりすることが祭そのものであった。

これを新嘗(にいなへ)と呼び、復活した新穀を自らの体内に入れることによって、新たな生命(いのち)を得ると信じた。
また稲を「とし」、年も歳も「とし」と呼んで、神人共食による新しい年の活力のよみがえりを期待したのである。
このきわめて古い伝統をもつ民族の風習は、3世紀頃、王権の高まりと共に公的な行事として次第に儀式化されていきました。


◆鎮魂(タマフリ)と新嘗(ニイナヘ)

宮中の公式行事としての新嘗祭(にいなへのまつり)は、大化の改新の皇極天皇の時代(642〜645)になって「子月中卯の日(冬至の月である旧暦11月中の卯の日)」と定められました。
毎年行なう祭を「新嘗祭」と呼び、新しい天皇が即位された際に行なう一代一回限りの大祭を「大嘗祭(おおにへのまつり)」として区別するようになりました。

1874(明治6)年に太陽暦が採用されたため、この年の11月の中卯の日がたまたま23日であったことから、新嘗祭は11月23日に行われました。
それ以来、中卯の日を計算することなく、毎年11月23日を新嘗祭の日として踏襲することになりました。
宮中での新嘗祭は、天皇が神嘉殿において神々(天照大神をはじめ天神地祇)に感謝を込めて新穀(神饌)を奉るとともに、自らも共食される厳粛な祭りが行われます。
戦後、新嘗祭自体は伊勢神宮及びそれに連なる神社の祭儀となり、国民の祝日「勤労感謝の日」となりました。

その新嘗祭の前日、11月22日には「鎮魂祭」が執り行われます。
古くは「旧暦10月中の寅の日」に行われていました。
鎮魂祭では、宮廷の御巫が死した日神の魂を呼び戻し復活させようとしてタマフリ(鎮魂)の歌舞を行います。
神話では、アマテラスの天岩屋の前でアメノウズメがタマフリしました...


新嘗祭の起源は、いつからとなるとはっきりしません。
記紀神代篇によると、皇祖神である天照大神自身が新嘗の儀式を行っていたくらいなので、大和建国以前の稲作が本格化した弥生時代まで遡る可能性が出てきます。
キーワードは、冬至前後の太陽の復活を祈る祀りと、豊かな実りを感謝する祭が習合した国家的祭祀が出来る勢力。
大和以前となれば、当然それまで葦原中国を治めていたという出雲あたりが非常に気になります。

現在でも出雲大社では、毎年11月23日に「古伝新嘗祭(こでんしんじょうさい)」というお祭りが執り行われています。
このおまつりは、出雲大社の宮司である「出雲国造」が奉仕する祭事の中で、最も神秘的で重大な祭事です。
明治以前は、やはり旧暦11月中卯の日に行われていました。
国造がその年の新穀を御神前に供えて、また自らも新穀を食べて神恩を感謝し、五穀豊穣と国家の隆昌繁栄を祈願するおまつりです。

国造は、まず斎火殿の祭具を携え、出雲国八束郡の熊野大社に参向されます。
そして熊野大社、出雲大社をはじめ、出雲国の重要な百八十六社の神々をおまつりし、新穀を御供し、自らもこれを食し、皇室の隆盛、五穀豊穣、国民の幸福を祈願します。
この時、国造は熊野大社から、神器である火燧杵(ひきりきね)と火燧臼(ひきりうす)を受けます。
代々の出雲国造はこの神器で火をおこし、その火で神饌を調理して神々に御供して自らも食すのです。
出雲大社というお宮のおまつりというよりも、国造のためのおまつりだったようです。





このように冬至のニイナヘとタマフリは、太陽と魂の復活を願って今に伝わっています...

▽「冬至」と「夏至」の太陽信仰
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=13355554&comm_id=1581098


...

コメント(4)

現在の暦(新暦)では、

 新嘗祭の日が「毎年11月23日」で固定

 冬至の日が「毎年12月22日」前後

と、1ヶ月も離れていますが、もとは同じ月の同じ日ぐらいにお祭りがあったということになります...
ちなみに、今年の新嘗祭がもし「旧暦11月の2回目の卯の日」で行われたら、いったいいつなのか?

 旧11月21日(癸卯)→「2007年1月9日」

と、年明けになってしまいます。
今年は閏月があったため遅くなっていますので、さらに来年で見てみると...

 旧11月14日(辛卯)→「2007年12月23日」

となり、ぴたりと冬至に近づきます。
(2006年12月05日 01:53 の書き込みを、別トピから移動)

実は「冬至粥」とか調べてやっと知ったくらいで何にもやったことないんですが、今年からこの風習に挑戦したいです!

冬至粥って、きっと縄文人が初期の稲作始めたときからあったんだろうなぁ(妄想中)...
ってことは、赤米(勝手に決めつけ!)だったから『赤いお粥』のイメージが現れたぞっ!!
よしっ!今年は『赤米入り冬至粥』に決定〜〜〜っ!(^^)!

って、待てよ^^;
もう一度現在の風習をよく読むと...
んっ!やっぱり「小豆」を入れるって書いてあるけど、それっておんなじことじゃん(>_<)

つまり、お祝い事の「お赤飯」のルーツが古代米の赤米という私の常識からすると、結局どっちからイメージしてもやっぱり「冬至粥」=「赤米粥」にたどり着くのでした...
しかも、沖縄の「冬至雑炊」は、田芋を入れてネバネバにさせるのにも、なんか意味を感じてきたぞっ!
あっそうか、赤米は「もち米」だから、お粥にしたことないけど、きっとネバネバのトロトロになるに決まってるもんね(納得)...

そして「固粥」や沖縄の「かたい雑炊」は、つまり「赤米の普通のご飯」=「お赤飯」でいいんじゃないの???
※新嘗祭について追記

新嘗祭の前日に行なわれる「鎮魂祭」、「みたましずめ」または「みたまふり」について


宮中では、新嘗祭の前日に天皇の鎮魂を行う儀式が行われ、これを鎮魂祭(ちんこんさい)という。
天皇に対して行う場合には「みたましずめ」「みたまふり」と言う。
鎮魂祭はかつては旧暦11月の2度目の寅の日に行われていた(太陽暦導入後は11月22日)。
この日は太陽の活力が最も弱くなる冬至の時期であり、太陽神アマテラスの子孫であるとされる天皇の魂の活力を高めるために行われた儀式と考えられる。
また、新嘗祭(または大嘗祭)という重大な祭事に臨む天皇の霊を強化する祭でもある。

鎮魂の儀では、宇気槽(うきふね)と呼ばれる箱を伏せ、その上に女官が乗って桙で宇気槽の底を10回突く「宇気槽の儀」が行われる。
これは日本神話の岩戸隠れの場面において天鈿女命が槽に乗って踊ったという伝承に基づくとされている。
『古語拾遺』に「凡(およ)そ鎮魂の儀は、天鈿女命の遺跡(あと)なり」とある。
かつてこの儀は、天鈿女命の後裔である猿女君の女性が行っており、「猿女の鎮魂」とも呼ばれていた。

鎮魂の儀の後、天皇の衣を左右に10回振る魂振の儀が行われる。
これは饒速日命が天津神より下された十種の神宝を用いた呪法に由来するとされる。
『先代旧事本紀』には、饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種の神宝を使って神武天皇の心身の安鎮を祈ったとの記述があり、「所謂(いはゆる)御鎮魂祭は此よりして始(おこ)れり」としている。


新嘗祭は農耕神の祭祀と、鎮魂祭という太陽神復活の太陽信仰が習合したということか...
そこに、中国から北極星を神とする思想も混じってきています。
北極星を祀っていたところに天照大神が習合されているんですね。

この神に神饌を奉るために、北斗七星と南斗六星が使われています。
伊勢神宮祭祀や大嘗祭には謎が多いとされていますが、
祭神を北極星、北極星に神饌を奉るための北斗七星と南斗六星とし、
全てを陰陽五行で読み解いていくと、するすると謎が解けていきます。

儀式のしつらえをはじめ、その進行には古代の星辰信仰が生きており、
天皇が日本の最高神官であることを確認できますが
神饌には天皇自身も箸をつけるわけですから、
太陽神と北極星に加え、天皇霊も習合されているのでしょう。
これは三位一体で日本を守るための儀式なのではないでしょうか。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

縄文族ネットワーク [太陽の道] 更新情報

縄文族ネットワーク [太陽の道]のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング