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古神道、神道研究会コミュの銅鐸と宗教の関係について

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皆様 こんにちわ!

一応 副管理人をさせてもらってます、フサと申します。

日本史(主に古代)に興味があって、神道のこと神社のことなど勉強させてもらってます。


で、いきなりで失礼しますが
私は「銅鐸」というものが、どういった目的で作られ、どんな集団が利用したのかを疑問に感じてる次第です。

まあ普通は 祭りに使われ「祭器」の一種として作られたようです。

銅鐸について一般に言われてる事を書きますと

・機内を中心とする銅鐸文化圏と北九州を中心とする銅鉾・銅剣文化圏(らしいですが、福岡県から銅鐸の鋳型が見つかってるようです)
・2・3世紀の弥生式文化の後半に盛大となり突然消える。
・祭器であるらしですが、他の祭器と一緒に出土したこと、ほとんどない。
・谷間・斜面・山腹など、特別な施設もない状態で発見される。
・古事記・日本書紀など古文献には全く登場しない。
…との事です。

はじめは本当に鈴のように鳴らす、小型のカネとして伝わったようです。で、のちに巨大化。

銅や鉄材は貴重であったと思いますが、なぜ山の斜面に埋めるような事をしたのでしょう。貴重だからこそ、埋めたんでしょうけど。
当時では重要であったであろう、「祭り」や「宗教的」に使われた物なら、その技術を引き継がなかったのでしょうか。 その儀礼をプツリと止める必要があったのでしょうか。


「銅鐸」から古代の宗教(祭り)を知る何か手がかりにならないかな〜と思ったりします。
もしくは、「それ以前の宗教」が何かあったのでしょうか。

わからない事考える時は、「深読み」と「単純」両方の感覚が必要で難しいです。
長くなりましたが何かご存知の方、教えてくだされば幸いです乙女座

コメント(53)

私はそれが「祭器」だと決めつける根拠がわかりません。学者が言えば何でも真実であるかのように思いこむ風潮が日本人にはありますが・・・。

 四国では瀬戸内海沿いで多く発見されています。狼煙に代わる船に対する合図の為に使用したのではないかと私は考えます。すぎさんの考えに近いと思います。

 またその時代が古墳時代で、大陸から伝わったものだから、クニツカミ系の物部氏達(=騎馬民族と考える)が使ったとすれば、その歴史を封印するためにも記紀には記さないのではないでしょうか。
> のん様

実は新潟県の北の方の「村上」と言う所に「古代ランド」と言うのが有りまして随分前ですが館内で上映する映画の音楽を手伝わせて頂いたのです。

付近で縄文時代からの遺跡が見つかったのがソモソモの発端なのですが、三面川と言う鮭の遡上する川の河口を見おろす崖の上に有りまして、新潟平野自体は米どころでは有る物のソノ周囲では田んぼヤルには難しい感じの環境でした。

熊野水軍は源平合戦の時、アノ弁慶の父上がリーダーをやっていたのですが義経たちが頼朝とモメた後、東北地方に逃げた事とコレは関係有りそうなのです。弁慶は縄文人だった???
ホントはどうだったか僕にも判りませんが弁慶の眉毛は太〜いです。

つい薩摩隼人の西郷隆盛ともイメージが重なってしまう(眉毛の太さダケで無く、政変で大きな功績をあげたのにも係わらず新政権が安定路線に入ろうした時にはジャマ者あつかいされたと言う運命も・・・)のですが薩摩も熊野も瀬戸内も新潟の村上も隅(熊&夷)の方に有るのが気にかかります。全然アカデミックな話しでは無いのですけど・・・。

いえいえ、トピずれ上等ですよ(笑)歴史勉強してる時って、まさにトピずれみたいな状態ばっかしやしあせあせ

銅鐸の話から 色々な話教えていただきセンキューです!みなさま!
私、感激〜〜泣き顔


海の民・山の民は かなり気になる常呂ですし、私は大好きです。
去年くらいに、三重県志摩の海の博物館って所いって、昔の船とか(本物)みてきました。臭かったけど、感動しました!
子ども用てかもあって、まさに海民の歴史を肌で感じれた瞬間でしたねぴかぴか(新しい)
「えべっさん」って今は商売繁盛の神様ですがね、もとは魚を抱えてはるように、漁師さんの神様だったみたいです(海に博物館より勉強)。「えべっさん」と言えば、古事記において国産みの際イザナギとイザナミの間に生まれた最初の神。不具の子、蛭子(ヒルコ)。で、その蛭子が葦の船に乗せられ流された後に たどり着いたのが今の兵庫県らしいです衝撃マジ?

それと私奈良県出身でして、奈良の高松塚古墳の近くには、「薩摩」「土佐」「兵庫」って言う地名がありまして、(今もあるんかな?)気になる次第なんです。
一般的には、そこらへんの人たちが、貢物持って来て、そのまま住みついた…って話らしいですがね、古代の事、本当のことは わかりませんねげっそり

ま、私も激しくトピずれ靴ずれ、失礼しました走る人
また書き込みしま〜〜蟹座
>19のんさん

銅鐸の話どうもです。

ちなみに風土記にも出てこないみたいです。

私は 記紀が青銅文化を抹殺したのは偶然ではなかったような気がします!ええ、「気がする」だけです手(パー)


では、また…走る人
のんちゃん
そうやっていつも「日猶同祖論」で考えるからややこしくなるのです。

渡来人はどうにかして「渡来人ではないフリ」をして国家の中枢に取り入ったと考えるほうが普通ではないのでしょうか?
「俺は隋から来た者で日本をバリバリ隋に変えます。」<<こんな外人は今の日本でも嫌われますよね?

だから「渡来人が怪我をしていて技術を習ったフリをした日本人」を演じていたのだと思いますよ。
秦氏のように船団を組んできた氏族は技術者集団ですから丁寧に扱われたでしょうが他の一族だけ本当は渡来人なんて国からしたら「厄介者」でしかありません。

だから船との通信に使われた銅鐸は音も重要ですが中身が空洞で光の拡散を抑える働きがあったのではないでしょうか?
古事記や日本書紀に記述がないのはその技術は中央政権から追い出されたまつろわぬ民の「渡来人誘導装置」だったからですよ。
口臭くても、ネタあれば また教えてください!
銅鐸の話は基本地味なんで、結構トピずれは もう覚悟してるんば♪なんですよほっとした顔

ただ、銅鐸が 一般的にいわれてる ただの「祭器」とは ちょっと思えなくて、トピたてたんですが、歴史はつながってると思うんで、なんでも手がかりになるかも〜んでしょ?

って事で、よろしくで〜〜す蟹座
銅製品の出土分布図検索してきました。
これをみてわかるのは銅鐸は畿内、東山道、東海道、山陰道、山陽道、南海道(四国)にしかなかったという事実です。

西海道(九州)には銅鐸がなかったということは半島の民の誘導には使われなかったのではないかと推測されますね。

さっきから銅の話をしているのに『東大寺の大仏』の話が全然でないのは何故でしょうか?
銅といえば大仏ですよね?

福岡県(原田遺跡言うらしいです)から銅鐸みつかってるらしいんですが、一個だけらしです(謎)それは副葬品として、お墓かららしいです。
近畿とは異なる発見のされかたです。

でも、近畿を中心に発見されてるのは変わらないから九州のは一体なんでしょうね


ふらふら
フサさん
そのたった一個の銅鐸だって小型なのでしょ?

学者が銅鐸だというから銅鐸なのであって僕が見たら「なーんだこれ銅の鈴の中身がないのですよ。」というかもしれません。

学者になるには大学に行って4年通い研究生になり、そして助教授になって選出されてやっと教授です。
波風立てないように研究生時代から訓練して他の教授にも認められなければいけないし、大学のパトロン企業の太鼓持ちもしなければ中々なれないでしょうね。

僕の論説は現代から辿る論説です。
間違えて操作された学術やお金欲しさに唱えられた論文には必ず穴があるのです。

弥生時代の遺跡一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E9%81%BA%E8%B7%A1%E4%B8%80%E8%A6%A7

ここに一覧されている遺跡は今の歴史を損なわない遺跡です。
僕は卑弥呼の存在を今の論説ではかなり怪しいと思うのです。
僕が思ってる事を言うにはもう少し時間がかかるでしょう。
今度は浅読みです。

銅鐸とは灯台と同じ海賊の連絡道具なのです。
だから祭具のように神社に収められないから山の斜面など単独で発見されるのです。

まさか出土した古代の道具を「海賊の連絡道具だ」とは言えないのが学者の辛いところです。
先祖の悪口はあまり普通は言いませんよね?

だけど人間なんだから良し悪し有ってもいいのに流石に死んだ人を悪く言うのは決まりが悪いのでしょうね。
僕は地獄に落ちる覚悟で言います。
水軍は戦いの無い時は海賊でした。
だから毛利は嫌われたのです。
毛利元就の息子小早川隆景の水軍が村上水軍です。

のんちゃんも僕も昔は海賊なのですwww

>27すぎさん

ええ、小さい鈴です(笑)あ、これも銅鐸なんや〜って思った次第です。
そもそも、銅鐸って銅鐸って呼ばれてたわけじゃないと思うんですが、カネとかって呼ばれてたんでしょうかね?

カネのネって音とかの意味かな〜みたいに思ったりします。

で、またぶっ飛びますが、銅鐸は地震鎮めのタメに埋めたのかな…とかなんちゃって衝撃
初めは航海道具です。
その後 海の民が山の民として移動したりして、鉱山などに入るとき洞窟とか地震きたら怖いし。
震動すると鳴る鈴・鐘(カネ)を お守りとして埋めたのかしら…。
元は鉱物は地中の物だし。それで、巨大化したのかな〜???????


鉱山の入口が鳥居に見えてしゃあない衝撃
鳥居の朱色は丹生(硫化水銀)だったりして。
もちろん違う時もあると思うんです。赤い鳥居ばっかしじゃないですし手(パー)


今日は この辺で!また ちょっと書き込みします乙女座

ではでは走る人
あ、でも鉱山とかの歴史が いまいちわからないし、本当にぶっ飛びなんで、スイマセン!!!

鳥居の赤も 赤い鉱物を表した…くらいの感じです。


一番古くて年表では、674年に対馬で銀が採取され献上されたらしいのですが、ってことは もっと以前から その技術はあったって考えたりするわけですひよこ

ではでは手(パー)また!!いつも中途半端でスイマセンたらーっ(汗)
丹生都比売神社
の丹生とは水銀なのではないかと思うのですが「ニフ」を、「稲積」を呼ぶ名称の「ニホ」や「ニフ」と同じとして、神の降臨を迎える標山とする折口信夫等による異説もありますね。

フサさん僕は「秦氏トピ」でも述べていますが「山」は重要なのです。
『丹』には修験道も陰陽道も毒殺も絡んできます。

で年代ですよ、平安時代の弘仁10年(819年)頃より弘法大師空海が修行の場として開いた高野山真言宗、ひいては日本仏教における聖地であり総本山金剛峯寺がある<<遅くないですか?

僕には敏達天皇(聖徳太子)に合わせて歴史が組まれているように見えるのです。
さっき新しい仮説を思いつきました。

ふふふ
>31すぎさん

ええ!丹生比売の丹生は水銀です蟹座

神功皇后が出兵の折、衣服や武具・船などを朱色に塗れば戦勝するという神託があったとかですぴかぴか(新しい)(あくまで伝説手(パー)
で、私は鳥居も朱色。そもそも日本の朱色って丹生が関係してるんではないか?とか思ったりしてる次第です手(パー)

で、「魏志倭人伝」に邪馬台国の時代くらいに「丹の山」があった事が書かれてまする本これは鉱山?と判断してよいのかどうか?わかりません。

それは邪馬台国の伊都国。だって、今の「丹生都比売神社」の所在地は和歌山県伊都郡ですからね、関係あるはず衝撃
邪馬台国が衰えた時、この水銀を押さえてた勢力は四国→淡路→和歌山と進んできたのかしらと思うのです。

それも現在の土地的に見て、一派ではなく
石見・出雲→播磨→丹後→福井に至った一派もいたかな?

そうやって、

日本の神社で有名どころが高千穂・出雲・紀伊・吉野・伊勢・諏訪ってなってるのは水銀鉱脈が原因なの????げっそり



そう考えると古くから鉱山資源に対する執着は激しく、銅鐸の時代にも もちろんの事だったんでしょうね蟹座

銅鐸を船に乗せて船団の連絡手段とし、そして海経由で移動したと思ったり波

なんだか無理やりでスイマセンがむふっ

まあでも、空海も丹後半島の水銀と熊野のそれとに目をつけたんでしょうね。多氏の事も気になってくる次第です。


では では、また走る人
フサさん

高野山が出来たのも伊勢神宮が出来たのもフサさんが銀の話で30で取り上げたように『遅すぎる』のですよ。

日本の歴史は歴史じゃないという人がいます。
西洋の歴史はキリスト教の歴史で統一した『主観』で見られていますが日本の『主観』はあくまでも『国民が誰に支配されたのか?』が主観ですのでバラバラなのです。

日本が本当に『皇国』であるならば天皇家の歴史を綴れば良いのです。

僕の新しい仮説は「年代がおかしいのと違う?」という視点から『一言主は空海なのではないか?」が僕の新しい仮説です。
四国巡礼八十八箇所は雄略天皇を含む天皇家が日本の主権を取れないようにするための『結界』なのではないかと推測しています。
空海は高弟から選んだ「偽空海」がいて本物は土佐に流され、恨みの結界をはり、偽物は国家事業でもある丹生の採掘の監督をしていたのではないかと推測したのです。

>33
なあああああぬうううううう!!!!!!!!!

朝っぱらから驚きーーーーーーげっそり
偽空海??????

確かに鉱山の歴史なんかを考えると、神社なんかができるのは遅いのかな〜〜〜????
う〜〜む。

自然崇拝とかは確かに大切ですが、自然崇拝をするってことは、そこに何かしらの職能が絡んでくると思うんですね。

太陽崇拝から鳥信仰。
山岳信仰からまた、水源(水資源)信仰など、道教的な神仙思想になったのかな〜〜衝撃
34<のんちゃん
僕も海好きです。
事故で三半規管がなくなってもうロングボードでやっと立てる程度だと思いますが波乗り一緒にしたいね。
たぶん僕の先祖はのんちゃんの先祖が海で取ってきた幸を水軍一党に分配する役目だったと思います。

僕がこのコミュだけでなく書いている話は全部一つの哲学に基づいて書いています。
安倍晋三後援会mixi支部
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1295859
超ひも理論
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1563228
日本の将来を考えよう!!
http://mixi.jp/view_community.pl?id=464870
京極夏彦堂
http://mixi.jp/view_community.pl?id=420
裏の世界史研究
http://mixi.jp/view_community.pl?id=388593
コミュの宣伝ではありません。
裏の世界史研究と日本の将来を考えよう!!と京極夏彦堂では自分でトピックスを立てて歴史の謎を多角的に解いています。
歴史の謎の闇は深いのです。
>7
でTOYO様がおっしゃるドンソン文化って ちょっと気になるんですね〜(`□`)


越国は越人の国だったんでしょうか?
(越の国のルーツは長江流域からの「越人の国」という意味で)こっから継体天皇が担ぎ出されてるのも気になるし考えてる顔


長江流域からベトナムに至る広い地域に居住してた人たちは「百越の民」と言われてたみたいですね。

「百越の民」太陽信仰・鳥信仰・蛇信仰などがあったようです。日本の文化・宗教にも影響を与えたのでしょうかね。


で、日本では古代 風葬や水葬が日常的に行われてたらしいのですが、銅鐸は自然木の間に吊るされたりもしたんでしょうね。それと一緒に「籠」に入れられた人間(死体)も吊るされた…とかげっそり
当然 鳥が突きに来る。でも、鳥信仰のある地域では残酷な風景ではなかったのかもしれない。鳥は魂を運ぶ役目を担わされたのかもしれません。
で、風に揺れたり鳥の突く振動で銅鐸が鳴る…。
そのあと、その場に銅鐸は埋められたのでしょうか?
わからん!!


神話でも黄泉の国でイザナミの体は腐敗して蛆がたかって…って感じで野ざらしな状態を表してるのではないでしょうか。


いつまでたっても まとまらない私の話衝撃

ではでは また…走る人
フサさんは情報が沢山ありすぎて整理がむつかしいのですね。

連想で仮説を立てるとそういう状態になってしまうのです。
新トピ立てます。

越の国については越すと日本の領土ではないという意味だと思いますよ、よって佐渡流しなのです。
「お越しやす」は国境を越えて来てくれた旅人にかける言葉なのではないかと思うのです。

そうです!
その通りでやんすひよこ

まあ、でも鉄とか鉱物は 古代日本史では外せないと思ってます。
フサさん銅鐸を語るならヤマタノオロチを外してはいけないでしょう?
僕は今一気に歴史の謎に挑んでいますよ。
ヤマタノオロチ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%83%8E%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%83%81

また迷うとあかんから抜粋します。
天叢雲剣は出雲国の古代製鉄文化を象徴するとされている。してみると天叢雲剣は鉄製であり、十拳剣が天叢雲剣に当たって欠けたということは、対する十拳剣は青銅製であったことを類推させる。当時としては最先端の技術であった製鉄、またはその結晶である鉄剣を「アマテラスに献上した」というのは、その頃の出雲と大和の関係を推し量る上で興味深いエピソードであると言える。<<ほれなんて書いてある?

銅の一族は鉄の一族に勝ったのですがあとは見ての通りです。
こんなトピで同じ事書いています。
[京極夏彦堂]
京極堂シリーズの登場人物の職業について(ネタバレ有り)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=19613449&comment_count=40&comm_id=420

ほれほれなんぼでもでてきますよwww
古事記偽書説
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=18823270&comm_id=73919
Hitachi Metals, Ltd.のHP
稲作と鉄の伝来
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=18823270&comment_count=68&comm_id=73919

神武天皇元年1月1日(紀元前660年2月11日

現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3〜4世紀のもの

時代が合わないのですよ、神武天皇が生まれてから鉄が作られたことになりますね。
そんなんアマテラスさんの時代から鉄が有ったのにおかしいじゃないですか?

だから僕は古事記は怪しいというのです。

欠史八代もかなり怪しいし、持統天皇、推古天皇もどうにもあやしい。
これはあくまで仮説なのですけど邪馬台国は九州で魏志倭人伝の倭の国は九州ではないかと推測しています。

倭国大乱による卑弥呼の擁立は中国では五書とも内乱の時期を2世紀後半としているのです。
第8代孝元天皇、第7代孝霊天皇の頃ですね。
卑弥呼を無理矢理持統天皇か推古天皇に当てはめようとする学説がありますけど僕は違うと思うのです。

で同時期に平城京と平安京があって794年まではどっちの天皇が天皇だと揉めていたと考えればはまりますね。
だから後に南北朝に分かれる。

鎌倉時代から室町時代への推移もこれで解決です。
壬申の乱の大友皇子 vs 大海人皇子

大海人皇子が奈良、吉野、熊野、美濃、東山道。

大友皇子が難波、近江、越前、山陽道

に勢力があったと考えると乱の後 近江から奈良に都が移るのは
理にかないます。天武系の勢力が衰退していき平城京から平安京へ遷都。

明治まで京都は都ということになってますが西日本の都。

鎌倉->江戸が東日本の都だっただけなのかもしれないですね。

主導権は関東に移ったり京都に戻ったり、、、。

そう考えると真の統一は明治維新なのかもしれません。
首都一覧です
* 飛鳥宮[4][5](奈良県明日香村)- 592年〜645年 - 豊浦宮、小墾田宮、岡本宮、板蓋宮
* 難波宮(大阪府大阪市)- 645年〜655年 - 難波長柄豊碕宮
* 飛鳥宮(奈良県明日香村)- 655年〜667年 - 川原宮、後岡本宮 等
* 大津京(滋賀県大津市)- 667年〜672年 - 近江宮
* 飛鳥宮(奈良県明日香村)- 672年〜694年 - 飛鳥浄御原宮
* 藤原京(奈良県橿原市)- 694年〜710年
* 平城京(奈良県奈良市)- 710年〜740年
* 恭仁京(京都府木津川市加茂町)- 740年〜744年
* 難波京(大阪府大阪市)- 744年〜744年
* 紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽)- 745年1月〜5月
* 平城京(奈良県奈良市)- 745年5月〜784年
* 長岡京(京都府向日市・長岡京市・京都市)- 784年〜794年
* 平安京(京都府京都市)- 794年〜1180年
* 福原京[6](兵庫県神戸市)- 1180年6月〜1180年11月
* 平安京(京都府京都市)- 1180年〜1868年
* 東京(皇居は東京都千代田区)- 東京府:1868年5月〜、東京市[7][8]:1889年5月1日〜、東京都35区[9]:1943年7月1日〜、東京23特別区:1947年3月15日〜(当初は22区。1947年8月1日より23区)  
福原京の1180年に注目してください安徳天皇が在位して後鳥羽天皇が生まれたとされる年なのに安徳天皇は5年で後鳥羽天皇に譲ってしまいます。

押さんまだ統一していないから名古屋バブルが起きるのですよ。
そういえば政治がらみの話題としては常に道州制、地方分権移行が出てきますが
自活できない地方はやりたくないというのが本音でしょうし
中央が地方に権限を移譲したがってるようにもみえない。

自分たちでやりたがってるのはどこかというと名古屋圏ですね。

経済もインフラも名古屋は自活できますから
道州制は名古屋の独立運動なのかもしれないな。

名古屋にしてやられないように道州性を組めば良いのですよ。

収入が多い州や道への物資配給の税金を上げれば良いだけですよ。
自活できない州や道は住民税をあげれば良い。
これで日本は丸く収まります
自活して収入を増やすためには地元を大事にしますよ。

と話がそれましたけど、日本はまだ統一国家でない事がわかりますね?
僕が歴史や日本の事で書き込みするのは全て「もっと日本の事を深く知って欲しい」という想いで書いています。
日光東照宮を辿ってたらへんな事に気が付きました。
平安京の前からあるお寺さんがあるのです。

下野薬師寺 白鳳期 天智天皇期 創建と考えられる天平5年(733年)頃 造寺司がおかれる
天智天皇って推古天皇の5つあとの第38代で中大兄皇子のことよ。

奈良薬師寺『日本書紀』によれば、薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良皇后(うののさららこうごう)の病気平癒を祈願し、飛鳥の地に創建したものである。

その後、和銅3年(710年)の平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した現在地に移転した。移転の時期は長和4年(1015年)成立の『薬師寺縁起』が伝えるところによれば養老2年(718年)のことであった。『扶桑略記』天平2年(730年)3月29日条に、「始薬師寺東塔立」とあり、東塔(三重塔)が完成したのがその年のことで、その頃まで造営が続いていたものと思われる。

なんやねんこれ、推古の時に鉄が入ったと言われているのにね。
おかしいね。
え?733年って聖武天皇なんじゃないですか!
え!!!
ちなみに県主犬養三千代が没した年でもあります。


下野薬師寺ってできた時期は諸説あるみたいですが飛鳥くらいからあったとか云々…。

あの受戒っていう試験みたいなん受けるところでしゅよね。
さらに道鏡が左遷された所ですね。

このとき、いろんな勢力が争ってたかんじですね。


すいません、聖武天皇でした、失礼しました。
道鏡が左遷<<いいとこ拾ってくれるよね。
 
吾妻鏡を愛読していた徳川家康が何故日光東照宮に場所を定めたのかが吾妻鏡に書かれていたのではないかと思うのです。

道鏡って銅鏡から取ったのではないかと思うのですよ。

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