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般若心経コミュの「行って帰る」ことの意味

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『般若心経』は、(涅槃に)行って帰ってきた者が記したお経のことだと思う。だから「この世」のみを観ている者は、うまく理解できないお経になる。

「この世」とは、ブッダによれば「五蘊」の世界のことである。
ブッダは、この世を「五蘊」名づけ、執着心の満ちている世界(=自己)として分析した。
一方、涅槃とは、Thinking Mind が落ちた状態であり、執着心がない世界のことだ。

ブッダは、受法大経(マハーダンマサマーダーナ・スッタ)の中で

 比丘達よ、縁が無ければ、心は生じない。
 一方で、縁が生じるとき、六つの識が生じる。
 それでは、この六つの識とは、如何なるものか。

と言って眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識を上げ、さらに

 比丘達よ、識が無ければ、蘊は生じない。
 一方で、識が集まるとき、五つの蘊が生じる。
 それでは、この五つの蘊とは、如何なるものか。

 第一の蘊は、物質の執着の集まり、色蘊である。
 第二の蘊は、感受の執着の集まり、受蘊である。
 第三の蘊は、想念の執着の集まり、想蘊である。
 第四の蘊は、意志の執着の集まり、行蘊である。
 第五のの蘊は、認識の執着の集まり、識蘊である。

と説いている。五蘊は執着の集まりである世界(=自己)である。

ところが、「涅槃」(Thinking Mind が落ちた状態であり、執着心がない世界)に行った者から観れば、そこには、Thinking Mindや執着心がないから、色も受想行識もない。

それは、定義上、執着を細かく観るために色受想行識を概念としてこしらえたのだから、執着がなくなれば、色受想行識の五蘊そのものがなくなるのは当然である。

もちろん執着のかたまりである自己もない。

つまり、それらは、この世で執着という縁があって生じたものにすぎない。

行って来た者には、五蘊は縁起を通して生じたことがよくわかることになる。行って戻った者は、そのように観ることができる。

同様、執着のない世界(涅槃)には、無明という概念も老死も苦集滅道もない。なぜなら執着という苦を観るために定義した概念は、苦がなければ必要ないからだ。当然、「涅槃」という概念も言葉も執着のない世界では、ない。

だから、すべては「空」になる。

しかし、『般若心経』を書いた者は、なぜ「(涅槃に)行って帰ってきた者」でなければならないのか?「行った者」でも『般若心経』は書けないのか。

それは、「行った」ままでは心が戻ってこないからである。心がなければ、書くことも思うこともできない。つまり、『般若心経』を書いた者は、「外」(=涅槃)に行ったけれども、それを表現するときは、その「外」をこの世の中で使われている言葉として概念として書くしかないのである。涅槃の世界は、この世の「五蘊」の世界の中でしか表せないというパラドックスがつきまとう。

だから、また涅槃を目指さなければならなくなる。しかし、それもまた、「内」(=五蘊)の世界に回収されてしまう。

生きている限りはこの繰り返しであることに、『般若心経』を書いた者は気づいているのだ。しかし、五蘊を持つ自己は、五蘊のない自己を知っている。そして、五蘊のない自己を生かすには五蘊を持つ自己でしかありえないことも知っているのだ。


注:「色即空 空即色」の「空即色」を特別に取り上げる必要はない。『真釈般若心経』(宮坂宥洪)が言うように「空即色」は「色即空」を強調したにすぎない。つまり、「空即色」は「色即空」同じ意味なのだ。宮元啓一も『般若心経とは何か』で宮坂宥洪と同じ見解を取っている。サンスクリッドの原文からはそのように解釈できるようだ。中国語に訳されてから、中国、日本で「空即色」を特別に取り上げられるようになったのが実情らしい。それよりも、五蘊を持つ自己は、五蘊のない自己を知っていることのほうが、大事なのだ。

コメント(2)

(⌒-⌒)ニコニコ...

このトピを書かれたkodek さんは、
「行って帰って」来られたかたなんでしょうかぁ??

〜〜
うちの倶楽部にも遊びに来て何か書いてくださらんかなぁ(^_-)

バッド(下向き矢印)コミュ:【般若心経♡般若倶楽部】
◆http://mixi.jp/view_community.pl?id=60499


(⌒-⌒) ニコニコ..
  人  合掌 ハート達(複数ハート)
『般若心経』は、初期仏教の考え方を徹底することによって、涅槃や悟りの
意味を変えてしまいました。
何度も「行って帰る」ということは、悟りはないとも言えるし、あるのは小さな
悟りの連続だとも言えます。

何度も「行って帰る」ことが、小さな悟りの連続だと言うならば、瞑想や座禅を
すること自身が悟りになります。(無心になってThinking Mindや執着を落として
いるのだから当然ですよね。)
つまり、瞑想や座禅は、それをするときから別の次元に行くことを意味します。

また、「五蘊を持つ自己は、五蘊のない自己を知っている」ことの意味は、
悟りを日常に生かすことを含めてが修行となります。力点を「帰る」ことに移す
とどんな蚤の足のような悟りでもそれを得て、日常に生かすことの方が、「行
く」ことのみを考えた修行よりも重きが置かれます。

あるいは、「五蘊を持つ自己は、五蘊のない自己を知っている」ことから、この
ように認識すれことがすでに悟っていることであり、本来、皆、悟っているとい
う考えが出てきても不自然ではありません。

『般若心経』は、初期仏教の考え方を徹底すれば、その後出てくる大乗のいろい
ろな教えが展開されるということを示したお経であり、仏教を1つにまとめる
お経でもあると思います。

(あるいは大乗からは理解できない、初期仏教を徹底的に展開することによって
 理解できるお経であるとも言えますね。)

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