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日蓮コミュのはじめまして

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コメント(118)

>>[79]

はじめまして、元日蓮正宗創価学会だったものです。

「日蓮正宗は日蓮大聖人がおっしゃってる事と違うことをしてる。」
との事ですが日蓮の御書、遺文と言われるものには俗に言う"真偽未決書"と呼ばれるものが数多く存在してまして
日蓮正宗はその中の真偽未決書と呼ばれるものを真書と見なし教義を構築されているわけです。

現実的にこの真偽未決書が日蓮正宗が言う様に全て真書と断定すべく証拠があるならば
個人的には
「日蓮正宗は日蓮大聖人がおっしゃってる事と違うことをしてる。」
とは思いません。

ただ、であれば日蓮って支離滅裂な事を言う人だとも個人的には思いますがね。
>>[81]

えっと。
僕は「日蓮正宗の御書は偽物」とは言ってないのですよ。
「日蓮正宗は真偽未決書と呼ばれるものを真書と見なし」ていると言ってるわけです。

ここはご理解いただけないと思います。

真書とみなすためには先ずはそれ相応の証拠が必要。
また、偽書と断じるのはそれは俗に言う「悪魔の証明」と呼ばれるものです。

近年の話を例にしますと
世間を騒がせた理化学研究所のスタップ細胞が解りやすいと思います。

スタップ細胞は"ある"と言う証明がされてないわけで
"ない"と言う証明がされたわけではありません。

日蓮正宗の方とこの話をすると直ぐに
「偽書であると言う証拠を出せ」と言ってくるのですが
それはもう「スタップ細胞はあります」と言った小保方さんと同じ事です。

小保方さんはあると思ったのでしょう。
第三者的にはそう言うしかありませんが
現実問題どうなんでしょうね?
日蓮正宗の信徒とすれば、やはり"ない"の証明がない限り"ある"って事なのでしょうか?

ちなみに日蓮はこんな事を述べております。

「若し証拠なくんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構へ申す間邪教とは申すなり」

この言葉を軸として考えれば
日蓮正宗の捉え方考え方そのものが日蓮は邪教と言っている事になっちゃうわけなのですが
その辺をどのように感じられるかと言うところです。
また説明していただけるのかと言うところです。
>>[83]

どの辺からお解りになりませんか?

真偽未決書はお解りになりますかね?
文字通り真書とも偽書とも未決着の書と言う事で
日蓮が書いたのか書いてないのか定かではないと言う代物です。

定かではない以上、それは真書とも偽書とも呼べないわけで
だからこその真偽未決書なわけです。

そもそもにこの真偽未決
俗に真書だの偽書だと言われるものは極めていけば
限りなく真書と思わしきものと、限りなく偽書であると疑わしきものとまでは
行きつく事は出来ますが
これは真書である、これは偽書であると断じることは
出来るものではないと言うのとのご理解をば。

僕が日蓮正宗創価学会から離れた理由の一つは
袂を解れた日蓮正宗と創価学会
何れもこの真偽未決書に対し扱いがずさん過ぎる考え方であったと言う事も挙げられます。
>>[85]

どうしてこんな事になってしまったんでしょうか・・・
の理由は日蓮正宗に限らずどの宗派に属してもトップダウン形式で
誰も各々が経を学ばない、考えない鵜呑み体質。
と言うよりはそれが許されない体質だからと言えると思います。

で、特に日蓮正宗や創価学会なんかは入会脱会に固執しているところがありますが
それって単に形式的な問題で
入会脱会に関してはそれこそ個々人の自由。
僕はその辺は固執するところではないと考えております。

僕の場合、宗派に捕らわれず、また日蓮と言う一人の人にも捕らわれず
世間の道理も踏まえつついろいろと見聞きするところから始めました。

なんと言いますか、今は焦らず早急に答えを出そうとは思わず
いろいろな人の話を聞きつつ、自分はどう考えるかを
いろいろとトライしてみる事なのではないかと僕は思います。
>>[79]
初めまして。
創価学会員のビルトアップと申します。
基本的の事ですが、日蓮大聖人は日本古来の神を否定していませんし、経文も法華経しか読むなともおっしゃっていません。

要は日蓮宗派の各自正当性を出したいがために相伝されたものがあると云っているのです。
その相伝書もなぜか大石寺になく写本が北山本門寺にあります。
御義口伝も日隆門流に写本があるのみ。

御書で日蓮大聖人は天台密教を否定されているのに中古天台本覚思想が取り入れられている御書があったりします。

真蹟のある御書と真偽未決である御書では真逆の事になる場合もあります。

まずは日蓮正宗のと云う思考を取り、日蓮正宗の書物・創価学会の書物・日蓮宗の書物どれでも良いので、十大部御書を読まれることをお勧めします。

十大部御書とは

唱法華題目抄
立正安国論
開目抄
如来滅後 五五百歳始観心本尊抄
法華取要抄
撰時抄
報恩抄
四信五品抄
下山御消息
本尊問答抄
です。

本文そのまま読もうとすると大変ですから現代語訳でまず理解するために読まれると良いと思います。
私が読んでお勧めする順番は
1、如来滅後 五五百歳始観心本尊抄
2、法華取要抄
3、四信五品抄
4、本尊問答抄
5、開目抄
です。
>>[88]

本物か?
と問われるならば、それは本物ですとも偶像ですとも答えられます。

言えるのは日蓮正宗が主張するような創価学会の本尊は偽物であるなんて事はないですね。
また、日蓮宗が用いている曼荼羅だって同じと言えますし
紙ではなく造物として象られた一塔両尊だって全て偽物などではないと言えます。

日蓮正宗が面白いのは、あの曼荼羅自体そのものを本尊と捉えていること。

道理として考えれば解ることですが釈迦像はお釈迦さんを象った物であり
鎌倉の大仏は阿弥陀さんを象ったもの。
真言の両界曼荼羅の中心に描かれるのは大日さんを表したものであり
これらを本物だ偽物だと論議している事自体が
「大丈夫?この人たち」と言わざるを得ないです。

端的に言えば日蓮が顕したあの曼荼羅の相明にこそ本尊とはなんの事であるかを理解させる鍵が隠されていると思います。

なんとなく日蓮正宗や創価学会って信徒を脅してなんぼwみたいなところがありますが
その辺は自由に考察されてみれば良いかと思います。

なーに、そんなことぐらいで罰なんてもらいませんよw
もし、罰らしきものがあるというのなら
それは根拠なき誹謗中傷をした時。

これ、日蓮正宗や創価学会が"正しい"からではなく自身の行動に明らかなる道理を欠いた非があるときです。
>>[89]
創価学会に戻す?
とんでもない。
そちらの水が合っておられるならそれで良いと思います。
日蓮正宗も創価学会も日蓮大聖人の教えとは違う自宗の己義が含まれているのでお気をつけ下さいと思ってコメントしたまでです。
>>[92]

そうですね。
最近はもう祈って無いかもしれないですね。
祈ると言うのはどちらかと言えば運否天賦の要素が高いかと思いますが
疑問や悩みの岐路に立ったときに物事の理屈を探り
その理屈をもって如何様に進んで行くことが得策であるかを考えるようになりました。

その数々のヒントとなり得たのが法華経と言う経典であり
この法華経を通した上での考え方と言うものは
自身の生活上とても有意義であると実感してます。

また、考え方をこの法華経に寄せる切っ掛けとなったのが
他でもない南無妙法蓮華経と言う題目であり日蓮と言うその人の発言の数々であることは間違いないとも言えますね。
>>[93]
しがらみで所属している感じですね学会2世なので。
日蓮正宗には所属する気もありませんし、

日蓮大聖人の教えは信奉しています。

学ぶと云う点において学会書籍は充実していると思います。

ただ、学会の教義に寄せていますからそこは自身で分別しないといけなせんが。
>>[97]

お寺に書籍が売られているか存じ上げませんが、どうも正宗の現代文訳の書籍は見当たりません。
http://www.dainichiren.com/index.php?id=10

こちらは日蓮正宗の書籍を取り扱うサイトです。

創価学会向けの個人サイトですが

http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/

お嫌で無ければこちらは如何ですか。

この御書講義は日蓮正宗創価学会の時代のものですから解釈は 日蓮正宗に寄っていると思います。
>>[95]

> 法華経と言う経典とはどのような物なのでしょうか?

と言うか五座三座の勤行と称して読まれているのが法華経なのですが・・・。

法華経は二十八品なのですがその中で特に日蓮が"読み習う"事を推奨しているのが
方便品と寿量品であると御書にも記されています。

これ、日蓮正宗に限った話ではないのですが
現代では経は唱えてもあまり読まれる事はないと言えるかもしれません。

読むの本来の意味は、書かれている意味を理解しながら読むことを差し
声に出して読むのは読誦と言い
唱えるは称えるからの流れで、こちらは意味を理解しなくとも声に出すと言うもの。

そう言う意味では勤行と唱題のすみ分けなってないと言うか取り違えているというか
完全にすり替わってしまっていると思われます。

日蓮は確かに題目は意味を理解せずとも唱えれば良いと言う趣旨の事を記されてはいますが
それが果たして勤行に当て嵌まっているかどうかという事。

ちなみにですが日蓮正宗が勤行として形式化している
「五座三座」とか「御観念文」と言ったものは御書の何処を引っ掻き回しても
出てくるものではないです。
日蓮が指し示したものではなく後世に付け加えられたものであるという事も調べていけば解ります。


> 南無妙法蓮華経と言うお題目はどれくらい唱えればいいのでしょうか?

「どれくらい」と言うのは時間と言う意味なのか定かではないですが
○○時間唱題だとか百万遍の題目を唱えろなんて事も御書からはうかがい知れません。

そもそもに題目の意味合い、目的においても
真偽未決の書とそうでないものとではガラリと変わっています。

端的に言えば、御書で法華経と書かれているところを現代訳する際に
意図的に題目と変えられていたり、日蓮正宗の場合
場合によっては御本尊や戒壇本尊と置き換えて常用されたりしています。

これ、先にも述べたように
真偽未決書が明らかに日蓮の書と断定できるならその解釈もありですが
日蓮の書でないとするならば、日蓮の意図を大きく外しているものとも思えます。


> あなたは日蓮大聖人のどの発言に感銘を受けましたか?

数多くありますが、今となってはそれらは悉く法華経からの引用
天台からの引用、妙楽からの引用であったという事が解りました。

ちなみに僕の中の感銘と言うものは摩訶不思議な夢物語の発言ではなく
全て現実に置き換え照らし合わせた上で、なるほどその通りであると思える事柄となります。
>>[101]

えーと。
正直そこからですかと言うところですが
なにを信じていけばと言う問いに関して言えば
なるべく多方面から多くの意見を取り入れてからと言うところですかね。

その中でいろいろと矛盾が生じたり疑問が生じたりすることがありますが
それはその都度聞き返していくと言うこと。

そこで納得の行く返答が得られれば、そこは信じるに足るものと言えるし
納得の行かないしどろもどろの返答や突然怒り出したりするものに対しては
むやみやたらに鵜呑みにはしないと言うところではないでしょうか。

そうですね。
戒壇本尊の件に関して言えば、本物だ偽物だと言う話以前に
それを信じ唱える題目に対し罪があるかと言えば
それはむしろ信じると言う心の上に置いては徳が優れど罪はないと言えますからね。

ただ、戒壇本尊を前として他の存在を貶し誹謗するところにこそ罪は生じるのではないかと僕は思います。

何て言うんでしょ。
ただ、あれが日蓮が書き残した一閻浮提総与の御本尊かと問われれば
いささかそれは苦しいのではないかとは言えますかね。
>>[103]

バカにしてるつもりはないのですが今の日蓮正宗では一体全体何を信徒に伝えているのかと
軽くショックを受けただけです。

僕も正直学会二世なのですがその昔は、まかり間違った部分はあれど
もう少し教学的なことも習いはしたのになと言うところです。

どうなんだろ、もしかしたら信徒にあまり教学的なことを教えちゃうと日蓮正宗教義が崩されてしまうから控えているのかと
穿った見方すら覚えてしまうところだと言う印象を受けてしまいました。

ともあれ「知らない」は「知らない」と言うだけであり
それがそのままバカだとは思いません。
知ってしまえば「知らない」と言う部分ぐらい直ぐに解消されるわけでもありますからね。
そうそう南無妙法蓮華経はサンスクリット語で「ありがとう」と言う意味ではありません。
>>[106]

そもそもに南無妙法蓮華経はサンスクリット語でと言うのが逆でしょと言う話で
大乗仏教の初期経典であるサンスクリット語のサッダルマ-プンダリカ-スートラを
鳩摩羅什が漢訳したものが妙法蓮華経。
いわゆる日蓮が指し示す法華経のこと。

ちなみに漢字での当て字(音写)だと薩達磨分陀利伽蘇多攬
薩は菩薩の薩で正しいと言う意味合い。
達磨は法のことで
プンダリカは白い蓮華の華でスートラが経。

直訳すれば竺法護訳の正法華経と言うのが割に妥当とも思えますが
鳩摩羅什訳と言うのは直訳ではなく意訳と言われるもので
原本であるサッダルマ-プンダリカ-スートラに若干のアレンジが加えられているわけです。

この点において宗教学者の見解は割れますね。
中には直訳ではないから鳩摩羅什の訳はダメだとか言う人など。

で、日蓮の見解はどうであるかと言えば鳩摩羅什訳をもう絶賛して
鳩摩羅什以外の訳は水で薄めて毒を入れたものだと言ってるくらいです。

この妙法蓮華経にサンスクリット語で敬意、尊敬、崇敬を表す意味であるナモの南無
南無阿弥陀仏の南無ですね。
これを重て南無妙法蓮華経。

南無阿弥陀仏は阿弥陀仏に敬意、尊敬、崇敬を馳せてあるわけですから
南無妙法蓮華経とくればそれはもう妙法蓮華経に敬意、尊敬、崇敬を馳せていると考えるのが
あまりに妥当な解釈かと思います。

これがまた真偽未決書を真書と見なし通しちゃうと解釈はガラリと変わります。
>>[101]
大石寺の戒壇本尊は偽物とは云っていません。
御本尊の相貌が日蓮大聖人のお伝えしたものと同じであればそれは御本尊です。
学会員も偽物とは云わず後世の模刻だと騒いでいる訳です。
他人の御本尊がなんであるかは、今となっては大きなお世話なんですがね。
但し、それ以外を日蓮正宗が偽物とか、仏力、法力が備わっていないと云うのも大きなお世話ですね。
観心本尊抄を拝読されればご理解されると思いますが、己心の十界互具を観る明鏡が御本尊ですから大事なことは相貌の意味と私は思います。
>>[110]

かなーとは、こちらも書きながら思いました。
もっと噛み砕いて順序だてていかないといけませんね。
こちらこそすいませんです。

平素に言っちゃうと
南無妙法蓮華経は法華経に帰依(捧げます)といったところです。
>>[114]

十大部御書と言うのは日蓮正宗及び創価学会の御書全集の中に含まれております。

ですから、原本を読むだけであるならば
御書全集の中の

唱法華題目抄
立正安国論
開目抄
如来滅後 五五百歳始観心本尊抄
法華取要抄
撰時抄
報恩抄
四信五品抄
下山御消息
本尊問答抄

これらだけを抑えれば先ずは間違いないと言う事ですね。

ちなみにこの御書全集と言うものは
日蓮正宗と創価学会で一から編纂したように思われるかと思いますが
実質はそんな大仰なものでもなく
ザックリと言っちゃえば
そのベースとなるものは日蓮各宗の方々で編纂された
「昭和定本日蓮聖人遺文」と言うものに
その編纂から漏れた限りなく真書判断から遠い
本因妙抄、百六箇抄、更には御義口伝等々を加えたものと考えて頂ければと言う感じです。

ちなみにこの「昭和定本日蓮聖人遺文」の編集メンバーの中には
御書全集の編纂を行った日蓮正宗の堀日亨さんもいたわけです。

そもそもにこの御書全集と言うものの発刊経緯は
この本因妙抄、百六箇抄をごり押し的に日蓮の真書扱いさせるために
戸田城聖さんが堀日亨さんにお願いして出版されたものです。

更に立ち入った話をしますと
この「昭和定本日蓮聖人遺文」においても真偽未決書は半数近く混載されています。
それは、日蓮正宗が真書根拠の乏しい口伝書を真書と主張する如く
他の日蓮各宗の方々も、真書根拠の乏しいものも
これを外せば、自宗の教義に影響を及ぼすと言わんばかりに外そうとしないからですね。

ですから新たに買うと言うよりは
御書全集の中に収録されている
この十大部御書を軸として、このタイトルの現代語訳等々を探して読まれてみればと言うところですね。
はじめまして。日蓮とはどういう人物なのか気になり参加しました。皆さんよろしくお願いします。

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