ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

田口線コミュの色々と謎の部分

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
田口線の歴史を紐解くと、色々と謎の部分に突き当たります。

それら小さな、文献にも載らないようなモノを雑談するトピです。

コメント(15)

私が小学校1年生の1学期は鳳来寺小学校に通っておりまして、その時(昭和53年)は木造校舎でした。
家庭の事情により、夏休み中に転校、直後に校舎は改築されました。
その、在校中は三棟並んだ木造校舎のさらに裏に自転車置き場があり、そこにホーロー製の駅名票が二つありました。
玖老勢駅と鳳来寺駅のものです。
廃腺後まだ十年で、ピカピカでした。
白地に青い字で、ローマ字も書かれていました。
今でも鮮明に憶えていますが、現存するのでしょうか?
実は数年前、学校をちょっと覗いたのですが、多分なかったと思います。
改築時に処分してしまったんでしょうか??

あの駅名票は、どこへ行ったのであろうか・・・
田口の奥三河郷土資料館のモ14形の中は覗かれましたか?
私は5年前に行ったことがありますが、おっしゃる駅名票があったかどうかまでは確認していません。

田口鉄道の廃線跡は何度か辿りましたが、存続していた頃の車窓はさぞかし桃源郷のようだったことが窺えますね。
>Tom Wanibeさん
もちろん奥三河郷土資料館のモ14の中は、くまなく知っておりますが、学校にあった駅名票はありません。
紺色縦長の、駅の柱に取り付けるタイプの看板ではなく、モ14の脇にある、三河田口の駅名票と同じ白いものです。
他にそのタイプの現存するものは、長篠、医王寺にある三河大草駅のものと、山びこの丘の民族伝承館にある滝上駅のものだけだと思います。

平成八年まで清崎駅のも駅付近の道路脇にありましたが、現在は撤去されています。
多分処分されてしまったんでしょう。
ただ、一緒に保存されていた腕木信号機は、その後田峰の民家の裏にあるとも聞きます。
この駅名票もどこ行ったんでしょうね?
田口線の駅トピックにも画像を上げましたが、清崎に保存当時の駅名票と信号機です。
ところがここでも疑問浮上。
やや意外かもしれませんが、田口線内の信号機の半数近くは二位色灯式信号機です。
色灯式だったのは玖老勢、清崎、三河田口の場内及び出発信号機で、架線柱に取り付けられていました。
残りの本長篠、鳳来寺、三河海老、田峰の場内及び出発信号機が腕木式で、中間閉塞はありません。
遠方信号機や通過信号機も無かったはずです。
つまりこの路線は、ほぼ交互に色灯式、腕木式が混在していたということです。
清崎は色灯式だったはずですが、ではいったい、この腕木信号機はどこのを持ってきたのでしょうか?
田口も色灯式なので、近くにあるのは田峰のしかありません。
ところがこの田峰の場内信号機は清崎側のは、第二寒狭川橋梁のたもとにありますが、写真で見る限りはこの画像のものより背が低いような感じがいたします。
海老側のだと、稲目トンネルを出てすぐ、現在は山ごと切り崩されて消滅してしまった、短い方瀬トンネル手前にありました。
ところがこの写真も見ましたが、この信号機、てっぺんにトンガリ帽子のような飾りがついております。
このタイプの飾り、戦前にあったもので、戦争中は不要不急の物として金属回収に応じ、戦後まで残った物は僅かです。
戦後は烏帽子のような短いキャップが多数派になったのです。
また戦中取り外して、そのままにされた信号機も多く、鳳来寺駅の本長篠寄りにある二連の場内信号機や、清崎駅跡に保存のこの画像の信号機にはキャップがありません。
ということは、方瀬トンネル手前の場内信号機でもないことは、まず確実で、残るは田峰の両出発信号機です。
これについては写真を見たことがありません。

あと、わざわざ離れた海老や鳳来寺から清崎まで腕木信号機を持ってくるとは考えにくく、(廃腺後は道路事情も悪く、清崎駅に閉じ込められたモ36を運び出すのにも往生した)やはり可能性があるのは田峰の出発信号機だと思います。
どなたかこの画像をお持ちでないでしょうか?
続き
ただ昭和31年発行のアルバムには、この鳳来寺駅本長篠寄りにある二連の場内信号機にも、ちゃんと戦前型の長いタイプの飾りがついています。
海老駅構内で撮られたデキ53の隣にある写真です。(図録、田口線と用具参照)
この写真がいつ撮られたものなのか分かりませんが、後年の信号機には確かにこの飾りは無くなっています。
にんとく さん、

おみそれしました。地元の方だけあって大変に詳しいですね。
私も愛知県民ですが、初めて田口線の廃線跡に触れたのは小学生の頃の1979年、そして意識して辿り始めたのは高校生になった1985年になってからです。
85年当時、滝上駅跡のスロープの下の商店に、滝上駅の駅名票があったのを覚えています。その商店のおかみに滝上駅のホームを案内してもらいました。今ではその商店も閉店してしまいました。
あと、三河大石駅付近の商店に、三河大石駅に停車中のモ15の白黒写真が飾ってありました。それで三河大石駅のバス停の待合室が、駅ホームの物をそのまま使用しているものということを知りました。今ではその待合室もなくなってしまいましたね。

謎といえば、晩年の電車の前照灯はシールドビーム2灯化されていましたね。赤字だったのにそんな余裕があったのだろうか? と思ったことがあります。おそらく渥美線電車への転用前提だったのでしょうね。
モ36〜38は田口線廃止後も約20年渥美線で走り続けましたが、乗れなかったことを残念に思います。
ほぼ同型の川車型の車両は名鉄築港線でも乗れましたが(西武→東濃→名鉄3790系)、内装が徹底的に近代化されていて興ざめしたものでした。
シールドビーム2灯化されたのは、最晩年の昭和43年のみです。
したがって2灯化された電車の写真を見れば昭和43年撮影だと分かる訳です。
転用せず廃車予定だったモ14,15までもが2灯化されてましたね。
鳳来寺小学校への通学路は、現在なかよし小道という名称の廃線跡です。
私たちが通っていた頃は、そんな名称はなく、ただ単に新道(しんどう)と呼ばれていました。
当時は廃線跡とは知らなかったのですが、玖老勢川にかかる橋梁を見て子供ながらに『なんか電車の鉄橋そのものだな』と思ったものです。
廃線後まだ十年しか経っていなかった当時、橋梁は今よりもずっと鮮やかな朱色で、いかにも鉄道橋梁でした。
今思えば毎日廃線跡を歩いて通学するという、マニアからすれば夢のような経験をしていた訳です。
下校時に湧き水を飲んだり、野苺やイタドリをおやつ代わりに食べてました。
麹坂トンネルについて

当線第二位の441メートルの長さを誇る鳳来寺〜玖老勢間の麹坂トンネル
豊鉄の台帳によれば麹坂だが、実際地元の人に言わせると、あの辺は非常に滑り易い坂で、故に氷坂との地名だとの由
恐らく開業時に鉄道関係者が間違った地名をトンネルに冠してしまったのではないかと推測されるが、まだ調査検討の余地ありと認む。
その後また某サイトにて数葉の駅構内カラー写真を拝見し、学校にあった玖老勢、鳳来寺両駅名板の現役当時の姿を見、懐かしく思いました。

さて、駅構内もはっきり写っているため、出発信号機を探しましたが、どこにも見当たりません。
今までに確認したのは本長篠駅の出発信号機のみです。
これも昭和41年頃には使用休止になり、白い×の板が貼られていました。

田口線内には場内信号機しか存在しなかったのでしょうかね?
コメント11の麹坂トンネルのトラ柵がある青少年旅行村の所、先日の台風18号による倒木の為、容易に近づけない状態になってしまったようです。
恐らくここだけではなく、全線に亘るかなりの部分で同じような倒木や崩壊が発生したことでしょう。
こうして、廃トンネルは土砂で埋まり、築堤や切通しは崩壊し、長い間に徐々に自然にかえっていくのですね。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

田口線 更新情報

田口線のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング