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伊達得夫コミュの伊達得男の発掘人 その一 『稲垣足穂』

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稲垣は、『一千一秒物語』を発表し、華々しい作家として、脚光を浴びた20代。

その後、羽田、蒲田、浅草を転々とし、20代後半から50代までは、作品をほとんど、発表せず、身元不明の作家崩れのような生活をしていた。

その才能の埋もれていくのを、伊達得男は危惧し、売春で生計をたてる女性たちを、更正させ、職業婦人にするため奔走していた、志よ尼と会わせる。

二人を結ぶために、伊達が、迷う志よに語った言葉『あなたは、100人の女性を救おうとしているが、この独りの男を救う方が、日本のためになる』

この結婚のあと、稲垣は、京都に居を構え、次々と大作を発表。日本文学大賞を受賞。

伊達のいうとおり、現代のクリエイター、グラフィックなど、最先端で活躍する人のほとんどが、稲垣の洗礼をうけているのは、衆知である。

コメント(2)

上の文章に加えると、1960年代後半、世の中が騒然として、芸術も社会も、価値観の混乱を生じ始める。
このころ、稲垣の再評価の気運が生じ、1968年の『少年愛の美学』と『僕の"ユリーカ"』の上梓で、一躍注目される。
伊達は、すでに亡くなっており、この稲垣の再登場で、伊達の仕事量も注目される
翌年、『少年愛の美学』が第一回日本文学大賞の選ばれ、『稲垣足穂大全』(全六巻)の刊行がはじまる。

1971年、『タルホ=コスモロジー』を刊行。同時に、大阪と東京で「タルホピクチュア展」を開く。

1977年、最後の本は、『男色大鑑』であった。
 写真:2006年2月1日の朝日新聞朝刊のコラム「大村彦次郎の文士のいる風景 その3」


 昨夜、当コミュニティーに参加して、かよさんの稲垣足穂の書き込みを見て、思い出したことがありました。
 新聞の気になった記事を切り抜いて、コピー用紙に貼り付けておくことがあるのですが、その中にかよさんの書き込まれた話があったはずだと、探したところ出てきましたので、転載させていただきます。

   京都西本願寺の不良少女の更生事業に従事していた篠原
  志代が書肆ユリイカの社主伊達得夫から、「イナガキ・タルホ
  の世話をしてくれないか」と頼まれたのは、彼女が早くからの
  タルホ・ファンでもあったからである。
   志代は先夫と別れ、幼い娘と京都・右京区の仏教学院の寮に
  いたが、そこへ東京から容貌魁偉な足穂が転がり込んで来た。
  昭和25年の冬のことで、それから足穂と志代と中学生になる
  娘の3人の共同生活が始まった。
   妻と娘が職場や学校へ出かけたあと、足穂は執筆のほかは昼
  間でも寝床の中で過ごした。同僚の住人が、「先生は寝床から
  離れないようですが、どこかお体の具合でも悪いのですか」
  と聞くと、妻は「冬眠にしては少し長すぎるようですね」と、
  とぼけたような返事をした。
   ときに京阪電車に乗り、桃山の町の銭湯へ出かけたが、夜は
  とことん酒を飲み、酔っ払った。妻は足穂とは仏縁によるめぐ
  りあい、と悟り、そんな生活が20年以上も続いた。
   足穂が「少年愛の美学」で新潮社の第1回日本文学大賞を受
  賞したのは昭和44年の4月、選考委員の一人、三島由紀夫が
  強力に推薦した。東京のホテルでの授賞式には本人は行かず、
  代理に娘夫婦が出席した。賞金の百万円について、足穂は「二
  人の孫におもちゃの汽車か自動車を買ってやれ。おれには床屋
  の500円と風呂賃をくれさえすればよい」と言った。足穂は
  76歳まで生きたが、まさに脱俗の一生だった。戒名は釈虚空。


 稲垣足穂という名前を知ったのは、このコラムを目にしたのが最初でした。伊達さんの人柄が偲ばれます。
  

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