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マンボウ広場コミュのわくわく読書メモ(ランダム引用)。

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その時々の、こころに留まったフレ―ズを、気軽に記録しておきましようよ。そのためのトピックです。よろしかったら皆さんも、ぜひどうぞご利用下さい…。

コメント(1000)

吉本隆明『全著作集 9 <島尾敏雄>』勁草書房




…もう少しのところで巧くゆかなかった。しかし、得たものは<もう少し>ではなくて、決定的な刻印であった。なぜなら、他人の分まで背負うというのが、すべての<関係>の結末だから。






吉本隆明「芥川竜之介の死」『全著作集 7 』勁草書房 所収




…しかし、「或阿呆の一生」は、完全に自己告白を素材にしてかかれた、フィクション、否、むしろ反語の集積にほかならないのだ。「人生は一行のボオドレェルにも若かない」という断言の背後には、かならずや百行のボオドレェルの詩も、下町庶民の生活の一こまにも若かないという痛切な反語的な自己処罰の鞭があったはずであった。






檜垣立哉『ヴィ−タ・テクニカ〜生命と技術の哲学』青土社 2012年3月





ロボットが生命であるためには、それがそなえている局所的な文脈を越えた何かの侵入を、まさに新奇性の創発において処理しなければならないのである。…だからそこでは、「コミュニケーション」を軸とした切り口において示される「他者」ではなく、つねに無限に開かれた環境性と、そこでの自己限定という質料的な矛盾の発生が主題化されてくるのである。







吉本隆明「異常性をいかにとらえるか」『全著作集 4 』勁草書房 所収





わたしたちがこの世界に分業的に存在することは大なり小なりじぶんを<異常>にさせる原因を背負って生活していることになる。それが全人格に侵入するのを防いでいるのは、ただ人間が別の場面や対象に関しては<慣れ>ない部分をもっているからである。


心的な<異常>というのは、ただ<異常>そのものに綜合的に<慣れ>た存在を指しているにすぎないだろう。心的な<異常>にとって<慣れ>の対象は<異常>そのものである。






内田樹『武道的思考』筑摩選書 01



主体って何?
武道はこのデカルト的省察をデカルトとは逆方向に進む。
………………
術技的には、主体なんてなくてもぜんぜん困らないし、むしろそのようなものはない方がましだからである。
この逆説的状況に学生諸君を投じるために、お稽古しているのである。






吉本隆明「思想的弁護論」『全著作集 13 』勁草書房 所収




どんな豊富な思想の表現も、いったん行為事実に還元されれば、ありふれたものとならざるをえない。






内田樹『私の身体は頭がいい〜非中枢的身体論』新曜社





「私の身体は頭がいい」というのは橋本治先生の至言である。(『「わからない」という方法』集英社新書)。私はこの一言で、橋本先生が二十世紀を代表する世界思想家であることの証左として十分であると思う。







岸田秀『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』新書館 2007年3月




アフリカの黒人の一部に白子(アルビノ)が発生し、黒人に差別されたか黒人を差別したか、白子同士でしか性関係をもたず、その結果、白人種が成立し、アフリカから北ヨ−ロッパに追われのである。そのあたりから、地球の西半分における人類の歴史が始まる。






竹田青嗣『<在日>という根拠』ちくま学芸文庫





<吃音>とは単に言葉上の不便を意味しない。それはむしろ他人たちの「まなざしの壁」を引き寄せ、そのことによって自己のうちに゛自意識の牢獄″を作りあげてしまいような奇妙な体験のことだ。…つまり<吃音>とは、本質的に他者との間で゛交換価値″をもたぬ不毛な苦しみである。金[鶴泳]氏が描き出してみせた<吃音>の苦しみとはまさしくこのようなものであった。






吉本隆明『日々を味わう贅沢〜老いの中で見つけたささやかな愉しみ』青春出版社




この「丹ほふ」が「匂ふ」の語源だというのが折口[信夫]説の要にあたっている。すると、何はともあれ、「匂う」は色彩とか色調の呼称からはじまったことになる。







竹田青嗣『言語的思考へ〜脱構築と現象学』径書房





われわれは稀に独語における「言い間違い」ということを経験する。にもかかわらず、独語においては、この「言い間違い」の意味や理由は、ここでの唯一の当事者である「発語者」に明証的に知られている。ここでは「意」と「表現」のズレは生じうるが、「意」自身がつねに直接性として与えられているために、「意味」が分からないとか誤解といったことが生じないのである。






曾野綾子『神の汚れた手』文春文庫



祈るなんて非科学的だというのは、貧しい痩せた心情なんですよ。それは人間の思い上がりなんだ。やるだけのことをやって、祈るほかはないんですよ。





渡辺京二『案内世界の文学』日本エディタースクール出版部所収:カフカ「変身」評




これはじつは家庭小説なのだ。主人公がいやらしい昆虫に変身するという設定が異常なだけで、あとはまったくのリアリズム小説なのだ。これが前衛的な実験小説などであってたまるものか。カフカはただ、自分の心の奥底にある家族に対する強烈なわだかまりを、忠実に表現しただけだった。





佐藤幹夫『ハンディキャップ論』洋泉社新書





知的障害、自閉症、身体障害など、「健常」と呼ばれる存在とまったく切り離された「別の種類の人間」がいるのではなく、わたしたちが待つ何らかの相対的な遅れやつまづきにすぎない、という視点をここでも貫きたいのである。しかしくり返すが、わたしが日々行ってきたことは、きわめて具体的で、小さなあれこれにすぎない。





岸田秀『官僚病の起源』新書館



日本人は争いを好まず、「和」を重んじると言われるが、もちろんこれは嘘であって、組織のなかの「和」をこれほど強調しなければならないのは、組織が真の意味での構造的統一を欠いているからである。…問題は組織のあり方にあるのであって、個々の官僚の道義心にあるのではない。自閉的共同体となった省庁は不可避的に国民にとって有害な組織となる。






山本夏彦×山本七平『意地悪は死なず』中公文庫





夏彦:手短に言うってことは全部知ってなくちゃできないんですから。
七平:そう、そう。
夏彦:ですから僕はよく聞くんですよ。「それで?」「結局?」って聞くんですよ。学校で家庭でみんなこれを言うといいと思うんだがなあ(笑)。







福岡伸一『動的平衡 2〜生命は自由になれるのか』木楽社




失うこと、捨てることにも積極的な理由が必要である。そうでなければ、淘汰の中でその形質が選択されることはなかったはずだから。つまり退化も進化なのである。…私は次のように考えている。あるアミノ酸が生命に必須となった瞬間、生物は「動的」になりえたのだと。





笠井潔『秘儀としての文学〜テクストの現象学へ』作品社




身体は意識の道具あるいは機能であるのではない。むしろ、意識こそが身体や無意識の暗がりに棲まっているなにものかの道具である。






渡辺京二『案内世界の文学』日本エディタースクール出版部 1982年7月




ドストエフスキー『罪と罰』:『罪と罰』が今日の眼からみても非常に新鮮な小説に感じられるのは、彼の熱にうかされたような浮遊する意識が、解剖すべき心理としてではなしに、そのまま感受すべき現実として描かれているからだ。








渡辺京二傑作選?『ドストエフスキィの政治思想』洋泉社新書 2012年3月





私には、ドストエフスキィがそのような表現でいいたかったのは、自然に最も近い存在として生きそして死んで行く人間の生、その生があたかも自然的過程であるかのように展開し、しかもそれ以上意味づけることもできずその必要もないような民衆の存在形態に対する畏怖感の喪失であるように思われる。そのような畏怖感の喪失を彼は神の喪失と呼んだのではなかろうか。






石川幹人『人間とはどういう生物か〜心・脳・意識のふしぎを解く』ちくま新書





「将来の改訂された量子の理論」は、物と心を一貫して説明できるようになるにちがいない。かつてデカルトが物と心を分離して以来、物の研究と心の研究は別々に進行してきたが、将来は両者の研究が統合されると同時に、物と心の概念的な融合も進むであろう。






『廣松渉著作集 第十一巻』所収「生態史観と唯物史観」より引用。





マルクス・エンゲルスは「意識」なるものを、ほかならぬ<人間‐自然>態系に即して−といっても、精神的人間対物質的自然という対峙関係ではなく−まさしく間主体的‐対環境的>=生態学的な関係態に定立して規定する。「私の環境に関わる私の関係が私の意識である」。







リチャード・ロ−ティ『哲学と自然の鏡』野家啓一監訳 産業図書の「訳者あとがき」より。





対話が「目的志向的」に問題の解決を目指す活動であるのに対し、会話はその外部に目的をもたず、会話の継続それ自体を目的とする。会話は「一致」を要求することなく、むしろ異質な他者との出会いを求め、その異質性を共に生きることを目指す。「一致」はあくまでもその結果であって、あらかじめ定められた目標ではない。…以上のような「対話」と「会話」の根本的差異は、ローティによって「体系的哲学」と「啓発的哲学」の対比という形で取り上げられている。






郡司ペギオ‐幸夫『生命理論』哲学書房 2006年3月




だから粘菌で作った計算機が勝手なことをやっても、こちら側の解釈が同期して変れば、これはエラーではなくて新しい発想である、と思えるわけです。…生きて死ぬということを出発点に計算機を作ると、世界内存在が、工学的なものとして展開可能になります。






吉本隆明「『四季』派の本質〜三好達治を中心に」『全著作集 5 』勁草書房 所収




「四季」派の詩人たちが、詩形と詩意識との先祖かえりを敢行したとき、必然的につきあたったのは、日本の恒常民衆の独特な残忍感覚と、やさしい美意識との共存という現象であった。このような伝統感性への先祖かえりが、現実社会からの逃亡によってはじめておこなわれたとかんがえるのはまちがっている。むしろ、三好が、本来的に強靭な生活者であり、リアルな日常生活感覚の把握者であることが、このような恒常民的な感性につきあたるおおきな原因をなしていることは、これらの戦争詩を、背後からささえている強い論理的感覚によって推定できるとおもう。


初出→『文学』昭和三十三年四月号






エレイン・モ−ガン『人類の起源論争〜アクア説はなぜ異端なのか?』望月弘子訳 どうぶつ社 1999年12月:「訳者あとがき」




それにしても、処女作を発表してからじつに二十五年の長きにわたって、「人間の祖先は遠い昔、ある一時期を水辺や水中ですごした。そしてその半水生生活こそが、人間という種をつくったのだ」という゛アクア説(水生類人猿説)″を主張しつづけ、しかもその内容を、新たに発見された諸資料、諸学説に照らして、より完成されたものに近づけてきたモ−ガンのエネルギ−には、感服するほかない。





郡司ペギオ=幸夫「ウロボロス〜生命の臨界論理」『岩波講座 宗教と科学 6』所収




突然変異が中立的という時、何らかの評価関数を定義することが可能という前提がある。したがって、やはり環境は理論の中枢をなす。





吉本隆明『カール・マルクス』試行出版部 1966年12月




ひとはたれでも個人としては、生涯のうちに、おおくの道を奥深くつきすすむことはできない。それは、生涯の時間がかぎられているからではなく、個の生涯をおとずれる現実が、どうしてもあるひとつの道をゆくことを強いるからである。






吉本隆明『愛する作家たち』(株)コスモの本




本当のかんがえとうそのかんがえを分けられる装置をつくるか、装置自体になってしまうか、ということができればいいんだろう、ということを、宮沢賢治は追い詰めていったということです。…宮沢賢治の場合には、たぶん一生を棒に振って、宮沢賢治なりに最終のところまで追い詰めていったとおもいます。しかし、その追い詰めかたはどうも不可能な追い詰めかたじゃないのかなという感じがします。







吉本隆明『日本近代文学の名作』毎日新聞社




岡本かの子の場合は、仏教的な生命の流れの雄大さが根本にあり、そのうえに個々の男女がもつ「生命力」と「性」の二つの組み合わせによって作品ができている。…こうした特徴は作り物や知識・教養ではない、仏教者としての深い研鑽から形作られた本質的なものであると思える。






吉本隆明「過去についての自註」『背景の記憶』宝島社 所収




すべての思想体験の経路は、どんなつまらぬものでも、捨てるものでも秘匿すべきでもない。それは包括され、止揚されるべきものとして存在する。






奥野健男『歴史の斜面に立つ女たち〜文学のなかに女性像を追う』毎日新聞社




花子のモデルにされた武田百合子こそ、もっとも貞淑でもっとも淫乱に見える、しかも過去と未来とをつなぐ現在に生きる、可愛い、したたかな女性なのである。この花子的な女性によって文学者武田泰淳の後人生は発奮し刺激され、さまざまな秀作を書き、入れ歯もはめないまま、酒をのみのみあの世に行ってしまった。






大宅壮一が平林たい子は日本の女性で唯一人総理大臣にしたい人物だと絶賛していたが、からりとして私情をさしはさまない公平な観察、判断、実行など、いずれも男まさりで頼もしい感じがあった。…『自伝的交友録・実感的作家論』というエッセイをぼくはいつも座右に置いている。








内田樹『街場の読書論』太田出版 2012年4月29日発刊




この<誰か>は、論理的には、「宇宙の設計者」以外にはいない。だから、真に科学的な知性は、その絶頂において、必ず宗教的になるのである。私たちは「私を超えるもの」を仮定することによってしか成長することができない。







有田隆也『生物から生命へ〜共進化で読みとく』ちくま新書 2012年4月





ネットワークは固定されたものではなく、各個体が自由に変えていけなければならない。ここに共進化がある。つまり、他人との関係を表すネットワークの構造に応じて、個体の振舞いは変わるはずだし、その逆に個体の振舞いによってネットワークの構造も影響を受けるはずである。







下條信輔『サブリミナル・インパクト〜情動と潜在認知の現代』ちくま新書




新たな知は外から直接与えられたわけではなく、といって内側にあらかじめ存在していたとも言えません。その両者の間でスパークし「組織化」されたのです。…それゆえまた、前意識の知は集合的であります。人々の間で共有されている部分が多いのです。





檜垣立哉『ヴィ−タ・テクニカ〜生命と技術の哲学』青土社 2012年3月





そもそも唯物論的な生命がそなえている関係性としての無限を、行為する身体である個体につなげるためには、環境という媒介を考えることは不可欠であるからだ。生態系に関する議論は、自然哲学を二十一世紀的な方向において推し進めていくときに、鍵であるともいえる。





関裕二『聖徳太子は蘇我入鹿である』ワニ文庫



今まで『日本書紀』によって前代未聞の大悪人とされ、聖者である聖徳太子の一族を滅ぼしたとされる蘇我入鹿こそが、飛鳥の聖者、聖徳太子その人であったことになるのだ。…蘇我善徳[蘇我入鹿]。この飛鳥の聖者は、聖者なるがゆえに暗殺され、その死後たたえられ、おそれられたのであろう。






村木弘昌『医僧白隠の呼吸法〜「夜船閑話」の健康法に学ぶ』柏樹社





西洋的な深呼吸では、酸素を多く吸い入れようと努力するが、それは長くつづかない。捨て去るべきものを捨てきっていけば、努力を要せずして大量の酸素が入ってくるのだ。白隠のみずおちの下が深く括れているのは、出る息を大量に出している証拠である。







ヨーガでも吐く方に重点をおくことのほうがおおいです。


          あと ひとつですねっ
栗本慎一郎『ゆがめられた地球文明の歴史〜「パンツをはいたサル」に起きた世界史の真実』技術評論社




自然人類学的に言って、コーカサス地方に10万年前にいた人類は、そこでひとり白子化現象を経験したゲルマン人を含めて、みな北アフリカからメソポタミアを経てコーカサスに北上してきたのだ。




今は白人が世界の主流の位置を占めるわけだが、初期には逆に差別を受ける弱い立場だったことは想像に難くない。コーカサスを出なければならなくなった白人化したゲルマン人が、日照が少ない北欧にまず向かったことを白人となっていたからと考えるのは無理のない想定である。







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