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 嫌いな服を着せられるのがいやだったら、好きな服をどんどん着ろ。

 コアが削られる感触がしたら、外に飛び出していけ。
 もう、そこは用が無いはずだ。

 選べ
 シビアに選別しろ
 明け渡すな
 留保無しに前提を言え

 そこを違えたら 全てが駄目だ

 15歳に戻れ。

コメント(110)

   #選民意識

   「誰も知らないのでそれを言う」という類いのものがある。
   とてもありふれた選民意識ではあるのだが、その「ありふれた」という感慨こそが
   それであることに気づき、顔を赤らめ陶器の皿の署名のように名を隠す。

   そして、そのような振る舞いもまた
   「選ばれてある恍惚」に真に感染することを厭わない俊才たちによって
   延々と繰り返され続けるのである。是認はすまい。
   # ちょー自我になりたい。

  あたし、スーパーエゴイストになりたいの。自我を超える自我になりたいの。

  と、彼女はひとりごちながらどこかへ立ち去る…(ふりをする)


  **

  しかし、“超自我”という訳語は端的に拙いのはなぜだろう。
  超自我とは常に「誰かにとっての」それでしかなく、常に「それ」という代名詞で
  済まされてしまう悲哀でもある。それ。
  超自我たらんとすることをこそ欲望する「それ」。


  ***

  だからそれがなんなんだ!?
  抑圧を旗印とする威勢のよい“あたし”たちとすれ違うことを避けるばかり。
   # 食卓に「檸檬」を

   言わずと知れた梶井基次郎の名作。
  恥ずかしながら、私は二十歳を過ぎるまで、これを読んだことがなかった。
  いや、読んだような気もするが記憶に残っていない。
  しかし、三十年も生きてみると「基次郎兄さん!」と言ってしまうほど親近感の湧く文章で、
  腰が抜けそうに驚く。

  わたしは、書き手自身にとってしか有効でない象徴を、ちゃんとその限界に基づいて
  説明してある文章に弱い。実践する科学に近いものがあるのかも知れない。


  身体は壊れてるし、金はないし、というズンドコにあって、
  ガラスのおはじきをねぶり、「旨い」と涙ぐむ基次郎。

   檸檬はそんな貧困闘病学生基次郎が、かつての己が健康と豪奢の象徴である丸善書店に投げる、
   実際には無効でしかない爆弾なのだ。

  貧困闘病学生基次郎は、それが「本当のことでありますように」と夢見ながら
  丸善を去っていくけれど、たぶんわたしがいま彼のその若さを愛でられるのは、
  基次郎の年齢からも、基次郎の貧困闘病時代からも遥かに時間を重ねているからだ。


   今でもわたしは爆弾を求める気持ちに駆られるから、わたしは「檸檬」に横溢する
  若さを愛でられる。
  けれど、学生時代なら、八百屋のレモンは爆弾に見立てるにはふさわしくないと怒っただろう。
  しかし、その怒りもまた、爆弾を求める気持ちには違いないのだ。



   ガラスのおはじきを味わって涙ぐむ基次郎。それは空腹とかいう実用から引き算をして
  流す涙ではない。うらぶれた八百屋の灯りを夜の底から見上げて、心を温める基次郎。

   彼にはもう、丸善書店をそぞろ歩いて暇を潰す空疎は無い。
  空疎を突き抜けた無の淵に向かって、かろうじて現世からこぼれ落ちてくる光の残滓でしかないものが、
  貧困闘病学生基次郎の魂に乳をやる。



   ***


   まったく、
  なんと時間は動かないもんなんだろう。
  基次郎の置いた檸檬の爆弾は、気持ちだけがこもっているだけなのだから、
  実際に丸善書店を吹き飛ばしたり出来ないのは、まあ、当然なんだけども。

  しかし、
  基次郎が「爆弾になれ」とばかりに檸檬を取った、その時からどれほど時間は進んだのか。

  わたしには、今だってまだその瞬間なのだと思える。
  あらかじめ失敗することが運命づけられている制止した一瞬が来ることは、まだ根絶されてはいない。


  おはじきを口に含んで涙ぐむ髭面の子供は、これからもこの世にやってくる。
  そして、また檸檬が爆弾になるだろう。檸檬に似たものが爆弾になるだろう。


   そして、檸檬でないものも爆弾になるだろう。

   爆弾としてはおそらく、檸檬でない物の方が凶悪だ。
  こういう、虚無の辺縁に輝く命の核は、黄色くなければいけないのかもしれない。
  例えばブラッドベリの「たんぽぽのお酒」のように。


   でも今という時代は困難だ。
  ガラスのおはじきをねぶる前に、コンビニやレンタルに対して潔斎をいたさねばなるまい。
  檸檬か、檸檬に似たものを爆弾とするには障害がありすぎる。

  基次郎兄を実際に持ったとて、その兄は檸檬でないものを手に取り、生きながら腐り溶け、
  爆弾を信じながら世界を汚し続け、そんでもって不死身だろう。



   やっぱアレだ、兄さん。
   丸善が閉まる前にもう一度檸檬を取ってこよう。
   # 埋葬

   もし、明日、わたしが死んだら、
   わたし自身を棺桶に入れて下さい。
 檸檬が爆弾になるには自同律を超えなければなりません。そして丸善を吹っ飛ばすには丸善的な教養主義を超えなければなりません。
 今日、丸善を吹き飛ばすのは、iPadという檸檬のように見えますが、さてどうしましょう。丸善が吹っ飛ぶのを見ていましょうか。それとも、あの置いてきた檸檬を取りに戻りましょうか。私の意図が、iPadによる爆破ではないことの不在証明のためです。
 さて、私の檸檬はまだあの場所にあるでしょうか。

 当コミュは、怠け者の私が管理(嫌いな言葉ですが)者です。
 ただし、そこで立てられたトピについては、コミュ全体への何らかの著しい問題がない限り、トピ主さんの運営に任せます。
 望むらくは、特定の相手を対象にしたチャット的な雰囲気ではなく、コミュのメンバーが参加しうる余地がある記述になればとは思います。
 あ、上の私のコメント、それだけ読むとぐんまさんの発言に統制をかけているように読めてしまいますね。
 これには前提があって、ぐんまさんから上記トピを削除しようかなといった意味合いを含んだメッセージをいただいたものに応えたものです。
 メッセには、ぐんまさんを取り巻くご事情なども含まれていますので、もちろん、公表はしませんが、それを受けての私のコメントであることをご了解下さい。

 なお、私個人の見解としてはツイットなどではつぶやききれない言葉など、書き連ねる自由な空間があってもいいと思っています。
  何年か前、河原町の方は閉店し烏丸の方に移転したという話を聞いたのだけど、
 移転後も檸檬がおかれていったのかしらん。閉店にさいして大量の檸檬爆弾が投げ込まれたと、
 京都在住の友人が言うておりました。京都は学生の町だからして、基次郎兄とのシンクロ率高そう。


 ところで、個人的に丸善はあまり好きじゃないのですよ。
 だって老舗ぶってんだもん。ま、実際に老舗なんですけど、京都という土地柄が
 さらにそれを顕著にさせてたのよ。ああ、感じ悪い。専門はジュンク堂の方が強かったし、
 あれじゃ潰れるのも無理ないねえと思っていたのでした。ipadごときで潰れるなら、
 ざまーみろと言いたいくらいです(小声)
 
 

 ***


  トピを削除したくなったのは、発声練習を兼ねた自分の声があまりに聞き苦しかったからです。
 愚かだと分かっていたけど、迂闊にも「わたしは愚かである」という確認作業をしたら、
 それなりに萎えたという…。愚かさと寂しさには底がないのだと気づいたのだけれど、
 そんなことは今更なので、まあおいといてー。
 マイミクの野火さんと絡んだのは、単純にその場のノリですが、もともとわたしは
 コミュニティ全体に対して働きかけるような言葉を持っておりません。
 
 特定の“あなた”に対して発し続ける、まさにつぶやきみたいなものが、わたしの限界でしょう。
 単純で鬱陶しい求愛じみたつぶやき。 

  ネットというこの場も、ずいぶんと“あなた”に固執してしまう場所で、わたしが
 書いているこの文章を、コミュのどんな人が読むのか、あいにくとわたしは分かりません。
 だけど、分からないその向こうの人たちのあいだに、理想の“あなた”がいるのだと、
 ついついわたしは夢想してしまうのです、これはわたしの病。たぶん死ぬまで治らない。
  でも、まあ、そんなの幻想だよねえ。

 
  それでも、ときにふっと“あなた”の幻を見ることがある。
  わたしを理解してくれる“あなた”を。
  わたしを育ててくれる“あなた”を。
  わたしを甘やかしてくれる“あなた”を。
  そんな“あなた”が画面の向こうにいるのだと……。


 ずいぶん前から“あなた”に対して書くメッセージについて色々考えていたのだけれど、
 いざ書こうとすると、気持ちが先にどんどんいっぱいになっていき、どんな言葉を書いても
 窮屈な感じがするのです。
   # 何故わたしはここにいるの?


 ネットって面白いと思った久々の出来事。

 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『ラセンウジバエ解決法』を読み返してたら
 ハマってしまい、ティプトリーについていろいろ検索をかけていたら、とある海外のサイトで、
 御年五歳のアリス・シェルドン、のちのティプトリーの写真なんてのを見つけてしまった。
 おそらく、作家にして研究家だった母に連れ添ってアフリカで暮らしていた幼少時の写真だと思う。

 これがまた、いかにもな写真で、上記のタイトルな顔をしてる。
 無邪気な子供の顔とはなかなか云い難い、含みのある表情。
 両腕をひっぱられた姿はリトルグレイの写真に似てると思ったのだけれど、
 それは先入観のなせる技だろうか。
 
 がしかし、
 違う場所から彼女だけがこの場所に引っ張って来られたような違和感、
 というのは写真を見た誰でも感じ取ることができると思う。


 わたしが出会った時期による先入観のなせるわざか、特に好きというわけではないのに
 彼女の小説は、いつ読み返しても、何か考えさせられるはめになる。
 今回感じ入ったのは彼女の根本にある不信感、みたいなもの。
 不信感、というより人に対する絶望、といった方がいいのだろうか。

 「ビームしておくれ、ふるさとよ」にしてもoutside of the everywhereにしても、
 人間の世界に絶望した主人公が、星の世界を目指す物語なんだけれど、そこに対話や抵抗はない。
 outside……の主人公なんて、男社会の中で、ただひとりの女として生き、レイプされまくり、
 侮辱されまくり、という設定なのだけれど、決して抗議の声は上げず、ただ黙々と
 「ちがう世界」を目指す。

 

  ***


 よくよく考えてみれば、「対話」ごときでなんとかなると思ってる人間が、
 その最後に、夫を道連れに無理心中なんてするはずがないんで、
 これはわたしの勝手に思い描いたティプトリーと言えるかもしれない。

 「ラセンウジバエ解決法」を読み返して思うのは、彼女がコミュニケーションの絶望を
 感じている相手というのは、人類というよりも男なんじゃなかろうか。
 
  この短編、
 「理解も会話もできない、おまけに自分より力が強い異種族の中で暮らす恐怖」のようなものが
 ヒシヒシと伝わってくる。異星人の計略によって、男が女を殺しまくる世界というのが設定なので、
 この場合の異種族とはもろに「男」ということになる。

 
 自分が自分である、というだけで誰かを抑圧していることになるのかもしれない、
 という考え方はあまり楽しくないので、ふだんは取らないのだけれど、彼女の小説を読むと
 その「不快」な考えを思い起こされるハメになる。
 
 なにが「不快」なんだかはっきりと輪郭がつかめていないのだが、たぶんそこには
 竹で割ったような明快な解決法を容易にもとめられないいらだたしさがあるのかも知れない。


 自分のとなりにいる人間が、にこにこと笑いながら、内面では見えない黒い雨みたいな
 プレッシャーを浴びてずぶ濡れになっている、なんて考え方はあまり楽しくない。
 多くの男性はそこまで深く考えず、労わって終わり、に(意図的に、努力して)してしまう
 んだろうけれど、でもそれってズルくないか?などと思ってしまうわたしは、やっぱり
 女なんだろうか。
   #欠落感
   
 
  地獄に堕ちた夢を見た。

  幼い頃のオネショをしてしまったときの気分、ってのを覚えているわけではないけれど、
  おそらくはそれに近いであろう、繰り返される諦念とわずかな開き直りの感情。


  冷えた気分の底に、ゴツゴツとして小さく固まった、いじけた精神がある。
  ジーンズのポケットに突っ込んだまま洗濯機にかけられたティッシュの塊のような精神だ。

   
  地獄の事務所(?)の片隅に置かれたパイプ椅子に腰かけ、わたしは裁きの時を待っている。

  地獄の事務所には、スチール製の事務机が六脚くらい、向かい合わせに並べられていて、
  そこではスーツ姿の鬼たちが、忙しそうに働いている。

  電話のむこうの相手と大声で怒鳴りあいながら、鬼たちは時折チラリとこちらに刺すような
  視線を向ける。あからさまな嫌悪と軽蔑。罪人であるわたしはそれがひしひしと感じられる。


   やっぱり、
  わたしはなにかしでかしてしまったんだ。
  何かをやった記憶はないけれど、やっぱりなにか悪いことをしでかしていたんだろうか。
  それともこういうことを、この期に及んで考えている、この優柔不断さが“悪”なのか。
 
 
  …
  などと考えながら、
  わたしはパイプ椅子の上で、さらに居心地悪くなり、身じろぎをする。
  わたしの体重で、パイプ椅子はぎし、ぎしと鳴く。



   それでもついに自分のやってきたことを清算できるんだ、という
   ホッとした気分に、ふいに満たされる。

   どんな罰を受けるにしたって構わない。
   裁きの席で、反省すべきところは反省し、云うべき事は云おう。
   ちんけな人生ではあったけれど、そこであったことを、
   ぜんぶ自分で引き受けよう。


   と、
  そのときまた事務机の上の電話が鳴る。
  鬼の一匹が、その電話をとりあげる。短いやりとりの後、事務所の雰囲気が一変する。
  鬼たちの肩が緊張にこわばり、怖い顔がさらに険しくなる。
  断片的な会話が耳に飛びこんできて、それを整理してみるに、どうやら地獄の事務所に、
  またひとり罪人が送り込まれてくるらしい。

  そして、その罪人は、わたしみたいなちんけな罪人とは比べものにならないくらい、
  とんでもない大悪人らしい。


  わたしに構おうとする鬼はいなくなった。
  誰もがこれからの修羅場に備えてばたばたと忙しく働きつづけ、
  わたしはパイプ椅子に放置されたまま、縄で拘束されるわけでも、
  チェーンで縛り付けられるわけでもなく、ただどこにも行く当てもないまま、
  待たされつづける。




   二時間が経つ。
   座りつづけてお尻が痛くなってくる。

   二ヶ月が経つ。
   わたしよりもずっと重要で、ずっと大物な罪人が、次から次へと送り込まれてくる。


   二百年が経つ。
   その辺りでようやくわたしは気づく。
   こうやって宛てもなく待たされつづけ、自分よりも重要な人間が通り過ぎていくのを
   ただ眺めていく。それこそがわたしの罰なのだ、と。


   ただの夢に過ぎないけれど、
   なんとなく自分の行く末を暗示している気がした、今の気分。
 カフカの『掟の門』を想起します。
 もちろん、シチュエーションは幾分違いますが・・・。
  あまりにリアルで出来すぎた夢をみた時なぞ、現実が心細くなって、ベッドに横たわったまま
 友人などにアタマ支離滅裂なまま甘えたりぃな電話なぞするのですが(迷惑なタイプかも知れん)、
 
 「安直な提案で恐縮なのだけれど、やっぱり自分の意志で立ち上がって歩き出すことが
  罰の終わりなのではないだろうか? 自分で自覚しているように、その地獄では
  誰かの意思によって拘束されているわけではないのだし…」
  
  というとても誠実な助言をして貰いました。


  なんですかねー、
  この、自分のこと突きまわしてジタバタし続け一歩も前にすすまないのは、
  結局のところ、ここでジタバタするのが好きだから… とは言わないまでも、
  のたーっと過ごす地獄は、それなりにわたしに合っているのかも知れない。

  エールや慰めを強要しないように、
  そしてなるべく鬱陶しく見えないように心がけよう(明日はどっちだ)
   # San Diego Lightfoot Sue

   若い頃に読み、ココロにカスりもしなかったものが、歳をくってから読み返すと
  号泣モノに変化してるってぇのは、これ、どういうことなんでしょう。
  枕元のおめざ読書にしたら、出かけるまで一時間もなかったのに湿度が上がって
  しょうがなかったんですよ。こーゆーのってすごーく困るんですけどー!(八つ当たり)



   夭逝した作家、トム・リーミィの、ほとんど伝説とも云える一品。
  20年くらい前に読んだときは「はぁ!? なんでこれがネビュラ賞なのよ? 
  ぜんぜんSFじゃねーじゃん」くらいの感想しかなかったのが、
  今になって読み返すと湿度感たっぷり満載。



   いあ、でも、
  これはもうSFとしても、ファンタジーとしても、ぎりぎりの作品だと思う。
  結局のところ、あの家のなかで具体的な“なに”がおこったのか、
  主人公ジョン・リーと同じく、読者も知ることができない。物語の上っ面だけをなぞれば、
  実に平凡なイノセントの消失、思春期の恋愛をつづった物語に見えるはずだ。
  そこをファンタジーにつき抜けるには、物語に起こった唯一の不可解なできごとに対して
  “なぜ?”を追求せねばならない。描写をせねばならない。
  
  がしかし、主人公のジョン・リーはスーの喪失に疑問を抱かない。
  立ち入りもしない。
  ただ喪失感に泣き、大事なモノを失ったことを受け入れ、汚れた大人になっていく。

  この小説を読んだ若き日の自分が、「なんじゃこりゃ」と思ったのもむべなるかな。


   …が
  ……が!
  よく読めば(てほど読み込むまでもないけど)、物語の中では、徹頭徹尾あいまいな魔法が、
  “なぜ”行われたかは、あぜんとするくらい明快なのである。
  “どうやって”行われたか、なんてものが分からなくても。
  およそあらゆる小説の中でおこなわれた魔法の中で、ここまで痛切な魔法があろうか。

     なぜそれを読み逃してた!>ぐんぞー
     未熟じゃあ、おまえは未熟じゃあ!>ぐんぞー




  ***

   この作品も、そして『檸檬』もそうなのだけれど、どうも最近、時が過ぎてゆき、
  そして戻らないということを描いた物語に、極端に弱くなっている気がする。
   歳をとるということは、こーゆーことなのかしら?>誰とはなく

ミラボ―橋の下をセ―ヌが流れ、吾等の時が流れる…。



逝く川の流れは斯くの如きか…。


でありますねぇ。

   # あなたの人生の物語


   あんたもおいのことば、ふうけた爺さんやと思いよろ?
  そこらの、摺り切れたジャージ着たおいちゃんと一緒にしなんな、
  こいでも元をただせば親子三代の鉄道マン。オヤジも爺ちゃんも、
  キハの車輪で線路から鉄屑削って生きてきたとばい。
  “国鉄のサラブレッド”なんてよう言われてねぇ。

   それがいまじゃこんなとこで、あんたみたいな若か人と一緒に
  開店前のパチンコ屋に並んどう。ほんまに人生ちゅうとは、わけのわからんねぇ。

   ああ、あんた、
   今日ば何な打ちなんな? 
   “えう゛ぁ”な? 
   止めときやい。ここの店の青か髪の娘はいーっちょん働かん。
   赤か髪の娘は出てきぃもせん。労組作って、ストライキでもしちょるっちゃろう。
   は、は、は。



   **


   若かころはオヤジが憎ぅてねぇ。
  爺ちゃんの七光りで空威張りしよる、つまらん男と思いよった。
  それが大学出たら、まるであたりまえのごたーに、国鉄の入社
  試験ば受け寄ったとよ。

  そんな自分を面白がる余裕もなかったじぇ。三公社五現業の時代やもん、
  受かった時は、これで一生食いっぱぐれはなかと思うたねぇ。
  気がついたらオヤジの言われよったごと、おいも「親の七光り」て言われてくさ。

   そいばはねかえそうと、仕事に必死こいとった。
   あんときゃ、仕事の楽しゅうて楽しゅうてたまらんかった。

   風向きの変わったとは、あれは昭和の六十年やったかな。
  もうその頃には、国鉄の民営化は誰にも避けられんと、分かりきっちょった。
  山は動いて、大木は倒れたとたい。

  おいはそげなことに見向きもせんと、昇進試験ばきばりよった。
  上に行きたい、上に行きたい、
  まるで毛の生え始めたおどもんのおなごの尻ば追いかけるごと、
  そのことしか考えとらんかった。


   熊本にある管理局の、昇進試験ば受けてねぇ。
  一次の筆記は受かった、二次の論述も受かった。それから、さあ三次の面談たい。
  よっぽどのふうけた振るまいばせんかったら、まず九分は大丈夫て上司も太鼓判ば
  捺してくいてねぇ。

   うれしかったぁ。
  いまでも思い出す。あの管理局の長か廊下さ。受付のクソあまのびっくらこくごと
  愛想のわるうてくさ。みとれ、いずれ部長になっちゃあ、局長になっちゃあ、
  おまえなんぞ、そんときに米つきバッタのごとぺこぺこしたっちゃあ、目もくれちゃらんと
  思いよったねぇ。

   会議室のドアの重かったこと。
  開こうとしたら、まるであばら屋のやぶれ戸のごとギシギシきしむ。
  肝を冷やしながら入ったら、長机にずらーっと、名前も知らん重役ら五人も座って、
  こっちば睨んどう。部屋の中は五人分のタバコの煙でもうもうたい。
  嫌煙権なんち言葉、あの昭和の世の中にはなかったけんね。

   冷や汗ばかきながら相手の顔ば確かめたら、すぅーっち汗の引きよった。
  五人のうちの三人は知った顔やったとよ。うちの爺さんの元部下で、酔うて顔ば赤うして、
  うちの婆さんに介抱されよるとば、子どもの頃に見たこともある。
   そのうちの一人が、にこにこ笑いながら俺ば見てこう言うと、
  「血筋やねぇ。鉄道屋の血筋ばい。お爺さんによう似とんさる」
  ってな。

   両手にかかえたドル箱からパチンコ玉のこぼれ落ちるごと、会心の微笑の漏れたばい。
  「いえ、それほどでも」なんちてなぁ……勝った、そう思うた。

    何にてや? 
    人生にくさ。
   十五分ほど、何ちことなか世間話のつづいたと。景気の話とか、天気の話とかの。
  それからさりげなーく、さっき話しかけてきた偉そうなおいさんの――あとから聞いたら、
  そん人が熊本管理局の局長やったらしい――さりげなーくこう聞いてきた。

  「国鉄はこれから民営分割化の波にもまれます。
   そのときあなたは、民営化に反対するであろう部下たちに対して、
   きわめて遺憾な措置をとらねばならぬであろうことも予想されます。
   あなたに……できますか?」

   遺憾な措置たぁ何ね、てや? 
  あんたも若かねー。親方日の丸の事務所に置いてある辞書ば引いたら、
  そこには赤書きでこう書いてあるたい…「クビキレ」。


  「はい。」
  そう答えるつもりやったよ、もちろん。そんときふっと…
  
  …魔のさしたとねぇ。
  酒に酔うて帰ってきて、お袋にいばりちらしようオヤジの顔が目に浮かんだとよ。
  なんやつまらん、なんば嘘ついちまで、あげなオヤジのあとば追わにゃいかんとや…
  …ふと、そんな気になってしまったとよ。


  「できません。」
  言うた途端に、相手の顔色が変わるのがわかったと。
  局長のいきなり立ち上がって窓のカーテンば閉めてくさ。またどかんと腰かけて

  「よく聞こえなかった。もういちど聞きます。」
  「なんど聞かれても返事は変わりません。できません。」

   若かねぇ。 二十五、六やもの。

  もういちど聞きます、何度も、何度も局長の聞いて、おいはその度に首ば振る。
  まるで歌舞伎の見えのごたぁたよ。そのうち局長の泣きだしてさ。
  「かとぉ、よかとか! 爺さんの顔に泥を塗るとか!」

  おいも、おらんだね。「関係なか! おいはおいたい!」
  ……若かねぇ。結局そのまま、もの別れたい。


   あんたは役所ちゅうたら、仕事の遅かもんと思いよろ? 
  嫉妬と見栄と憎しみの絡んだときの役所ほど、仕事の早かもんはなかとよ。
  次の日職場に出て行ったら主査に呼び出されてくさ。
 「加藤、きさんにはもう仕事はなか。机に座って、染みでも眺めとけ」なんていいおる。
  もちろん鼻で笑って堪えたとよ。

   他にどうしようもないやんね。
  うちに帰ったら、女房の泣きよる。おいの仕事しよるときば見計ろうて、国鉄の役員のきよった。
 「おまえの亭主はアカやろうが。労組のことばっか熱心にやって仕事はいっちょんしよらん。
  このままじゃ良うなかことの起こるよ。あんたんとこの息子はまだ三歳やろ? 
  川っぷちを歩くときは気ぃつけり。足場の悪いとこなんぞ山ほどあるけんね」ってな。

   オヤジの反対振り切って、国鉄辞めたとは半年後たい。


   人生どこで踏み外したとか、なんちよく言うやろ?
  おいはそんなことで悩むことはなか。どこで踏み外したか、はっきりわかっちょう。
  熊本管理局の長か廊下? いんや違う、その日の我が家の食卓たい。
  女房の出したカラシ蓮根の少しいたんどったとよ。おいはそんとき腹ば下して…
  …ちょっと苛ついとったとさ。そんだけよ。は、は、は。ただ、そんだけの話たい。



   ***


   は? 何ちね? 
   みくしぃ? よかよ、なんでん書かんね。別に減るもんやなか。
   むかしの、むかしの、むかしの話たい。
   は? なんね、まだなんかあるとや? 
   なんで、あんたに むかってこげな長か話ばしたかてや?
   は、は、そりゃあ、あんたの吸うとるタバコの煙が気にいらんかったとよ。
   話をしとる間は、あんたもタバコが止まるやろ?
   そのタバコの匂い好かんとよ。おいのことば、泣きながら説得しようとしたあの局長…
   …あん人があんとき吸いよったとが、そのタバコやったんよ。


  さぁ、行列の動きはじめたごた。
  あんたも今日いちにち、頑張って稼ぎなせ。
  でも“えう゛ぁ”はやめときない。青か髪の娘には、もう会えんよ。
  人生なんち、そんなもんたい。
 上の文章はぐんまさんの創作でしょうか?
 そうだとしたら、二つ驚いたことがあります。

 ひとつは、こうしたシチュエーションを短編風におまとめになることについてです。
 もう少し、アブストラクトな分野でお書きかと思っていました。

 もう一つは、九州弁(にもいろいろあるのでしょうが、私は福岡弁と鹿児島弁の区別も出来ません)にご堪能で、しかもそれがこのショート・ストーリーにきわめて効果的な味わいを付与していることです。

 国鉄民営化に関しては、このまんぼうでは、Tさんが国労でがんばっていて冷や飯を食わされた経歴をお持ちです。
  # 忘れてきた産声


   明け方、寝る前に読んでいた本に書いてあったこと。


   長崎県壱岐郡の言い伝えでは、
  出産に際してあらゆる神が産神として集まってきて、子どもの産声を聞くのだそう。
  産声にはその子の一生の運命が物語られており、産神だけがその運命を知っているんだという。


   なんだかアカシックレコードみたい。
  「空の上のどこかに、人の一生が記されている書物がある」とでもいうように、
  人の最初の呼吸の中に、すべての運命が刻まれてるというのは恐ろしいようで、
  なかなか面白い考え方だ。

   日本の民間伝承はほんと、こんなネタの宝庫だ。



   ***


   そこからまた妄想をふくらませ、こんなことを思いついた。


   クラリネットとかトロンボーンとか、吹奏楽器で遊んでいた子どもが、
  たまたますごくいい音を吹いてしまい、そんな感動が忘れられず、真っ赤な顔をしながら
  管楽器を吹きまくっている。


    しかし、
    その楽器は、二度と音を出さない。


   人の呼吸というのは、実はこんなもんだったりするんじゃないのか。
  わたしは、いまも呼吸してるんだけれど、「なんで?」そんなことをしてるのかなんて
  自分でも分からない。


   それは、
  実は最初にこの世に吐き出した息の感覚ってのがものすごい快感で、その感覚を取り戻そうと、
  無意識のうちに管楽器を吹き鳴らし続けているんではないだろうか。


   最初の母乳は濃いというけれど、誰も確かめようもない。
  それと同じように、人の最初の呼吸も恐ろしく濃い味がして、その感覚を取り戻そうと、
  必死で何万回と呼吸をくり返し、それでも、やっぱり、その感覚を取り戻せずに、
  人は死んでいく。



   だから、
   うっかり、その呼吸の感覚を思い出した人は、そのあまりの快楽に死んじゃうんだよ、きっと。


  あなたが色々と忘れてきたというものたちは、
  もう、それは忘れてきていいということなんじゃないのかなあ。




   ***


>六文錢さん

  わたしは人見知り大王でありますが、同時に外面番長でもありまして、他人の話を聞き
  キャラから過去から、その人のドラマを妄想しては、勝手にお話を作るのもわりと多いような。
  たぶん、このような短編なら、ニフ時代にも男性のキャラでいくつか書いてた気がします。  


  実だくさんの面白い人生を送って来た人こそ、わたしには魅力的にうつるのですが、
  そーゆータイプって、一般社会ではロクデナシと呼ばれる人が多いのよね。上記のように。
  おかげで『九州男児はマッチョでナイーブなダメ人間』という偏見がうまれましたけど(小声) 


  おまけ:上記の熊本弁はわりと適当です。
      福岡の人とよく話すので、そっちに近いのかも。
      お国訛りのトピが出来ていたので、可愛いなーと思っていた九州の言葉で書いてみました。
『九州男児はマッチョでナイーブなダメ人間』
あら ぐんまさん 九州男児をそばで見てきたわたしとしては・・・・・・・・























      I also think sooooooooooooooooo !! 指でOK


マッチョ=虚勢を張る が  ぴったりです 。    マル秘
わたしの友人は   そういった方がたくさん。
愛しい愛しい友人たちです。ひよこ
   # 月


   それは梅雨にはいるすこし前の出来事。
   乗り継ぎの地下鉄を降り、長い地下道を黙々と歩いていた。

   黙々といったって、1人だから喋りようもないのだけれど
   だからと言って、そばに友人がいても、はしゃげる気分ではなかったと思う。

  ジーンズの裾は雨水を吸って重くびしょびしょになっていたし、
  濡れたシャツが背中に張りついていた。
  早々と夏のサンダルをはいた素足なんか、感覚もなくなるくらい冷たくなっていて、
  なんだかもう生きてるあいだに二度と笑うことはないんじゃないか、って
  そんな気分だった。



  ***

   
   音がする。

   最初は、外の喧騒がそんな風に聞こえるのかと思った。


   暗い地下道のしけった空気が、低く震えている。
   チェロの音色だった。
   信じられない思いで、わたしは地下道を先へと急いだ。
   音は高くなる。地上へとのぼる階段を見上げた。
   矩形に切り取られた薄暗い地上から、雨が落ちてくる。
   地下道の階段はほとんど滝のようだった。
   彼女は(そうなのだ、ひいていたのは1人の女の子だった)
   その階段の上に行楽用のビニールシートを敷いて座っている。
   そしてチェロを弾いているのだ。

  タワレコのビニール袋を抱えた中学生が二人、びっくりした顔で彼女をみつめている。
  松坂屋の買いもの袋を抱えたおばさんが、空気みたいに彼女を無視して通りすぎる。
  女の子は、ちょっとだけ身体をずらして、おばさんが通りすぎるためのスペースをつくる。
  
  だけど演奏する手は止めない。
  地下道の蛍光燈の明かりで見るせいだろうか、彼女はとても色白に見えた。
  ベージュのサマーセーターを着て、瞳は(川みたいに水の流れる)地下道を見つめている。
  開いたままのチェロケースに、誰かがコインを投げいれたが、顔も上げない。
  金のためにやってるんじゃない、とでも言いたげに。
  ひたすらに自分の内側だけをみつめているかのよう。


   けれど、それならなんでこんなところで演奏してるんだろう。


  しばらく聞いているだけで、
  彼女が、コインも拍手も、聴衆さえも必要としていないと分かり、
  わたしは立ち去ることにした。


   わたしは彼女の横をとおりすぎて階段をのぼる。
   彼女は演奏をやめない。

  それにしてもなんの曲だろう。
  知っているチェロ協奏曲の旋律を記憶の中で探ってみた。
  ドヴォルザーク、ハイドン、ボッケリーニ。どれとも違う。
  地上まであと数歩、というときになって。
   「あ」
  思わず声が出てしまった。
  わからなかった。
  わかるはずはない。
  なんなんだ、このメッタギリのアレンジは。


   荒城の月だった。

   その瞬間、
   どしゃ降りの空の向こうに、確かに輝く白い月が見えたような気がした。

  たとえ雲が隠していようと、
  たとえわたしが俯いて生きていても、それでも月が無くなることはない。
  自分でもなんだかわけがわかりゃしないが、そんな悟りみたいなもんが
  全身をかけ抜けていった。


  わたしは振り向いた。
  彼女の背中はびしょ濡れで、ブラジャーの線が見えた。
  他人の自意識というのは、近くでみるとこんな風に滑稽だ。
  月から見れば、きっと詩になるんだろう。


  ……とまぁ、こんなことがあったよ、と。



   ***


>たぬしおさん

 ダメな人間と呼ばれる人たちが、(その多くが)愛すべき存在というのは、男女問わず
 共通認識なんでしょう。


 わたしの友人たちも、美味しいものが好きで、面白いものに目がなくて、綺麗な女性に
 惚れっぽくて、そしてそのどのことに対しても、非常に単純です。
 とても「男らしい」と思うw。

  男らしい男性が好きというのではなくて、男の人が持つ男らしい(と思われる)部分に
 心惹かれるのです。彼らの行動はとても率直で素敵なことだと思うのですが、
 彼らの身内(恋人や妻や母親ら)が眉をひそめる気持ちも分からなくはないので、
 完全に、男友達として個人的な好みというやつかも知れません。

 
 
>たぬさん
 男性のみならず、九州(と限定するのは抵抗があるのですが)出身の女性で、そうした意地や虚勢に生きた人を複数知っています。
 たぬさんに前に送った「若杉」さんもそうした人でした。
 それから、かつての今池烈女の一人、弱冠17歳で年齢を偽りホステスを続けて40年、4人の兄弟を親代わりに育てたという人が昨年、突然死で亡くなりました。私の勝手な思いかも知れませんが、突然死でよかったと思います。
 迫り来る老いの中で、彼女がかつてのプライドのようなものをもてあましているのを知っていたからです。
 形にはまらないことは、かっこいいのですが、またリスクも伴います。
 それにもかかわらず、そうした人たちがいることが、大げさに言えば世界に「出来事」を与えてくれるように思います。
 
小さい頃
暗い夜道を歩いていると
不意にわけがわからなくなった
わたしの影が背後からやってくるのだ
そしてわたしを残していってしまう
わたしは自分が幽霊になってしまえたら
どれだけ心が安まるかと思った
まだまだ家までは遠い夜道を
ひとりで歩いていくことをおもえば



Slapp happy-Slow Moon's Rose

わたしの戯れ言とは関係もない
とても美しい歌

ゆっくりと昇る月
   # 充足感


  駐車場から体育館に向かって歩いていると、背後から奇声がひびいてきた。
 髪をきれいに短くそろえた三十歳くらいの男の子、スキップしながら、わたしを
 追い越していく。駐車場をショートカットし、脇の花壇を遠慮なく踏みつけながら(笑)
 彼はいつみても楽しそう。

  この子とは、いつもすれ違うので、もうすっかりお馴染みさんになっている。
 声をかけあったことはないけれど、彼が近くにある障害者自助施設に通って
 いることも、どうやら同じ場所に通っている赤いジャンパースカートの女の子に
 惚れているらしいことも、わたしは知ってる。


  そして、これは世界の誰も知らないことだけれど、わたしは彼のお母さん
 (もしくは家族の誰か)の隠れファンだったりする。


  最初にあれっと思ったのは、ぬかるみを踏んでぐちゃぐちゃになっていたはずの
 彼のスニーカーが、あくる日ぴかぴかに磨かれているのに気づいたときだ。

  たまたま靴を履き替えたのかと思ったけれど、それにしてはスニーカーの柄は
 毎日おなじものだ。そうして、そのうち、彼のシャツやブルゾン、ズボンなどが、
 毎日過剰なまでにぴっかぴかに洗濯されていることに気づいた。
 ウォッシュのジーンズに、アイロンをあてたらしい折り目がついていることに
 気づいたときには少し引いたけれど、それでも彼の服装がだらしなかったり、
 汚れていたりしたことは、この一年で一度もない。

  雨の日も、風の日も、彼のスニーカーはいつもぴかぴかなのだ。




  彼のスニーカーがいつもきれいに磨かれていること。
  その事情について憶測するのはいくらでもできるけれど、
  ここにそれをひけらかすのは失礼な気がする。
  ただの美談ですませようと、そうでなかろうと、どっちにしろ、
  わたしは彼らにとって赤の他人なんだから。


  わたしはただ頭の中でいろんな妄想を膨らませつつ、
  誰も知らない場所で、たぶん履いている本人も気づいていない場所で、
  毎日根気よく愛情を注いでいる誰かに、静かな賛辞を送るだけだ。


  けれど、よく考えたら、人間の努力のほとんどはそんな場所で培われている
  ようなもんなんだよね。誰も知らない、気づかない、ちっちゃな戦場。
 人に会わなくてはならない用件がある
 ところで 僕の方には話すべきことはなにもない
 彼にもおそらくそんなものはないのだろうが
 彼はそんなときのルールを心得 習得している
 だから自動機械のようになめらかに話すことができる

 女が通りかかって会釈をする
 その一瞬に私を計量し 評価のリストに記入する
 唇の端が少しまくれ上がったのが評価の結果だ
 しかし私は それを読み解くコードを持ち合わせていない
 ミニスカーからはみ出た足の運びが幾分ぎこちない

 「今年のボルドーは」と彼が言う
 今年も 来年も ボルドーには縁がない
 「なるほど」と相づちを打つタイミングが難しい
 「で 日照時間がですなぁ」といわれて
 急に立ちくらみがしたのは
 やはり 彼の言葉に反応してしまったからだろう

 さっき通り過ぎた女性の下着を思う
 ボルドーの赤のように深みのある
 そんな色彩ではなかろうか
 彼女はそれをどこで買ったのだろうか
 誰がそれを見ると思ったのだろうか
 僕ではないことは確かだ
 股間で戸惑っているボルドーの赤

 「で 次回ですが」と声がする
 彼がこの会話を締めようとしているのだ
 次回? そう まだ次回があるのだ
 それまでにこの退屈な話の接ぎ穂を捜さねばならない
 「もう私には話すことはないのですが」とはいえない
 彼の方にだって取り立ててはないのだから

 夕日が傾いているわけではない
 傾いているのは僕の方だ
 これで今日が終わってホッとするのか
 それとも残念なのか 誰がそれを判断するのか
 僕であって僕ではないような
 
 あの やたらケタケタ笑う女がいるバーへ行こうか
 それとも部屋で安物のウィスキーを傾け
 古いジャズなど聴こうか
 アート・ブレーキー? エラ・フィッジェラルド?
 彼女のスキャットはすばらしい
 
 退落する言語は薄汚れていて貧しい
 そこでの対話は私を世間へと突き落とす
 遺された時間から逆算するに
 私の世間へのお付き合いはもはや虚しい
 同時にそこを離れた「本来」もまた虚しい

 僕は許された半径をぐるりと回してみる
 一瞬、多彩な色たちがざわめく
 
チューリップ六さん
負の連鎖ってあるんだな と 子供心に体感してました。バッド(下向き矢印)

チューリップ佐伯さん ?
>>わたしは自分が幽霊になってしまえたら
>>どれだけ心が安まるかと思った
ハイ どうぞっ
         http://www.youtube.com/watch?v=ax2wgRF4Pa8


チューリップぐんまさん
最後の二行に 共感します。
わたしは早い段階で   「もうだめ、できない」と、
スニーカー洗いから撤退しましたけどね。バッド(下向き矢印)


余談ですけど   「体温上昇中」 って いいタイトルですね。
体温低いと、なにもできませんものね。


   # 決壊


  まず書いておく。
  最近、涙腺がちょっと壊れておるのだった。
  きゅっと押すとじゅわわぁぁ〜っと溢れんの…ちゅう、お断りをひとくさり。
  


   ***


  はあああああ。はああああああああああ。もうだめ、わたし。
  泣きすぎて疲れた。でもまだ泣きたい。

  さっき『トゥルーマン・ショー』をDVDで観たんだけど、もうもうもうっ
  完全にやられてしまった。カンプなきまでにやられた。

   ジム・キャリーでなんで泣くーっ!?>自分


 だってさー、
 これ全てが虚構の世界で、ただ一人“トゥルー”真実、現実だと思って
 生きている男の話なんだよ。ネタバレになるからこれ以上は言わないけど。
 (ああ、でも数日中にネタばれで書いてそう)とにかくすごくきたんである。



  一緒に見た夫はぜんぜん泣いたりしてなかったから、これはわたし個人的な
 ツボにずばっときたってことなんだが、いまは感情がやたらととんがり切って
 いるので言語化できないけども、これほどのツボ直撃は久々なのだった。
 はぁぁあああ。←体温上昇中



  ちょうど映画が始まる前に、夫がいれてくれた紅茶をぶちまけてしまい、
 左手の甲を火傷したのだが、そのひりひりした痛みがなかったら、わたしは
 自分がどこにいるのかも分からなくなって気が変になってたんじゃないかと思う。
 それくらいハマってしまっていた。


  はぁぁあああっ(落ち着け、落ち着くんだ>自分)←たぶん血圧も上昇



  ジャンルは一般コメディ、レンタルのDVDである。
   # 第一走者の方へ


   人が生まれて、育って、死んでいく。

   次の世代にバトンを渡すまでのスパンを四十年としよう。
   そうすると、百年でたった二回ほどしかバトンは渡らない。

   そうね、箱根駅伝に例えたら、読売新聞社前を出発し、
   戸塚を過ぎた辺り。
   箱根どころか小田原にすら着いてない。
   高床式住居に住んでた大昔から数えても、バトンが渡ったのなんて、
   せいぜい六十回くらい。


   たった六十回のトライアルアンドエラーの末に、
   ここまで辿りついたことを讃えるべきなのか。
   それとも、これでしかないことに落胆すべきなのか。


     いやいや、諦めないでくれよ。
     バトンが百回も渡るころには、何処か、とんでもなく
     すばらしい場所に辿りつけるかもしれないじゃないか。



   でも、とりあえず、六十回目のバトンが渡ったいま、わたしは相変わらず
   変化に怯えたり、蜂蜜の中の気泡を見るような気候に顔をしかめたり、
   あなたとそんなに変わんない恐怖の中にいる気がします。
 バトンタッチねぇ。
 私は少し違った考え方をします。
 自分の年齢を、生まれた年を支点にして過去へとひっくり返すのです。
 パタンと乾いた音がします(嘘です)。

 そうすると、私は1867年にいるのです。
 明治維新の前年です。
 ブラームスはまだ生きていて、それどころかさらに30年も生き続けます。
 ヨハン・シュトラウス? が「美しく青きドナウ」を作っています。
 マルクスは「資本論」の第一巻の発刊に漕ぎ着けました。

 夏目漱石が生まれ、トスカニーニも生まれています。キューリー夫人も。
 ボードレールが死にました。坂本龍馬も。

 私の方法では、20回ぐらいで日本の書かれた歴史の時代に到達します。
 バトンという継続性は拒否できない側面を持ちますが(遺伝子や環境など)、敢えてそれは考えないし(受け取らない、渡さない)、それらの規定から抜け出て行く「出来事」の突発性、偶然性に期待したいと思います。
 むろんその突発性、偶然性は私のものですから、それを引き受けて生きることが私の固有性で、それはバトンとは関係ありませんでしょうね。
 
 
 # 告白

 ある中途半端さや、どうにもできない生々しさ。完成されないこと。
 いつまでたっても欠如のゆえに完成を求める道筋。手に負えないこと。
 生きることには落ちがつかない。決定的なあきらめと、あきらめの悪さ。

 わたしは、どうしても、それを感じさせるものが好きだ。

  # 喰ってゆけ


  じぃんせぃいはぁ〜 バイキングぅ〜♪
  白いお皿抱えて「わたくしの料理はまだこないのかしら」なぁ〜んて、
  優雅に首をかしげてるあいだに、幕が下りてしまうのさぁ〜♪ るらぁ〜♪



  ***


  この場所に来て、わたしが真っ先に学んだのは、欲しい物を手に入れるためには
  「泣かなければならない」ということだった。
  黙ったままでは、誰もミルクをくれなかったからだ。

  次に、自分の舌とことばの使い方を学び、最後にキーボードの使い方を学んだ。
  だが、わたしが欲しい物はずっと一つだった。 

  「わたくしのミルク、どこ?」

 
  # かっこいい心臓


  知人が心筋梗塞になって倒れ、九死に一生を得た。

   
  彼の心臓はいつの間にか太い血管が詰まり、
  その先の毛細血管が壊死してしまっていたという。
  もちろん、詰まった血管のその先に血液は届かなくなり、
  そのままでは心臓の組織も壊死してしまうので、
  カテーテルとかいう器具を使い、足の付け根から管を通し血管の詰まりを取り
  血流を復活させる。

  その処置により彼の黒くなっていた顔色はピンク色に様変わりし、
  彼は助かった。

 
  後に、担当の医師が言ったことには、
  心臓の毛細血管は壊死していたけれども、ぐるっと反対側から血管がのび、
  壊死した血管がある場所をカバーして血液を送り続け、発作が起きるまで
  心臓は持ちこたえてきたのだった。


   「あと30年は心臓は保つ」と、医師に保証された。


  がしかし、
  当人は「あと30年しか生きられないのか、もう折り返したのか」と思ったのだそう。
  彼はいま45歳である。



   心臓には神経が通っていないから、不調の兆しは他のところに現れる。
  自分の意志とは無関係に知らないうちにのびる血管、生き延びる心臓。
  わたしの心臓もわたしの制御を離れ、今このときも血液を全身に送り出して
  いるはずだが、それは実感ではなく、後付けの知識から喚起される想像に過ぎない。


  リアリティは持たないが事実であるというようなことが、
  わたしの脳裏に引っかかっていて、
  たまにしげしげと手のひらに乗せ、眺めたりしている。

 
 
  自分にも備わっているかもしれない、知らぬ間に損なわれたところを補完する機能について。

  ダメな時はきっとダメだが、
  自分の意志が諦めても、意志が介在しないところで諦めさせてくれないもの、
  すなわち、大雑把な状態として「生きちゃってる」ということについて。

  わたしがうっかりその心臓のことを「かっこいい」と思ってしまったことについて。
  そうしようと思わなくても前に押し出そうとする生の働きについて、
  何か微かに気づかされ、振動を起こすわたしのリアリティの在り処について。

>六さん

 お久しぶり、という感覚があまりないのは、
 わたしの毎日が、寝たり起きたり動いたりしているだけだからなのかしらん。
 気づいたら季節変わってるし、外でたら暑いし… 

 こーやってぼんやり作業している間に成人してくれそうな錯覚を覚えるのですが、
 そんな簡単にはいかんよなぁ、やっぱり。
 # 人の痛み


  色々な輪郭ぼやけている。もともとぼぉーっとした性質だったけれど、最近は本当にひどい。
  引きこもり生活にずっぽりと馴染んでいるからか、人との距離感が分からないのだ。


  ***


  一般的に「会話はキャッチボールみたいなものだ」という考え方がある。
  言葉というボールを投げて、受け取って、投げ返して。
  両者は対等の関係で、相手を傷つける可能性も低い。
  どんな剛速球を投げるかとか考えるよりも、相手の受け取れる球を投げ返すことが大事。

  そうじゃないとキャッチボールにならないもんね。
  大多数のユーザーのネットにおけるスタンスは、だいたいにおいてそうだと言えよう。

 
  ただ、わたしが無意識に欲してしまうのはボクシングみたい距離。

  今はあまりにエントリーが少ないからちょっと分からないけど、以前の佐伯さんは
  言葉を交わしている他人に対してか、あるいは自分のあり方に対してか、
  とにかく“立ち向かう”という言葉が、キーボードを前にしたスタンスだった気がする。
 
  (もっとも彼の歴史の中では戦後処理の時期みたいだったけど)


  JOLTのカウンターのようなものかしらん。
  もっと相手とのあいだに距離をおいて、安全な距離から打ち合えばいい。
  それをしないで、(自身を含めた)対戦相手と目と鼻の先の距離に詰め寄って、
  腰の入ったカウンターパンチを繰り出す。
  
  それって相手との距離が近すぎて、お互いのパンチの威力も強すぎて、
  とても危険な場所なんだけれども、あえてそこに踏みとどまって拳を繰り出す。
 

  当時のわたしが欲していたのは、言葉の“数”じゃなくて“パワー”だから。
  そうやって相手の内懐にまで入り込む、強い強い言葉を彼には望んでいたんだろう。

  かといって、彼は別にバトルをしていたわけではない。むしろ対極。
  ほんとにしょぉもない揚げ足取りのネットバトルの場で飛び交う言葉と、
  本音が入った佐伯さんの言葉。
  その彩りを比べてみればいい。
  想起される色彩の数を数えてみるだけでもいい。
  どちらの言葉が生きているか、子どもにでも分かるもの。
  だいたいネットバトルのパンチは、“手数は多いが腰が引けている”のだし。


  …っと、つい熱くなってしまったわ。

  ええっと、そんなわけで、なんでわたしが佐伯さんに惹かれていたのか、
  振り返ると、ちょっと分かったような気がする。


  この人は真剣だ。
  なんか、とってもとってもマジなのである。
  とても風通しがいいんだけれど、思い詰めたものもが持つ強固さもある。


  なにが好きって、わたしは真剣な人は好きなのだ。
  どっか覚めて、距離を置いてしまう都会的な冷静さってものに憧れはするけれど、
  やっぱり本気の潔さにも焦がれるのだ。


  オフの帰り道、相手は誰だったか忘れたけど、そんな話をしていたら
 「実生活(オフライン)でこんな人いた大変そうだよね……」と言われ
  思わず笑ってしまった。
  確かに、マジな人を前にすると萎縮するわ。

  普通のオフでもオンラインでも、こゆう人には近づけないなぁ、わたしは。



  そばに近づくのはとても勇気がいるんだろうけれど、その苦労を越えれば、
  それに倍する見返りがあるような気がするんだよね。


  ええ、この期に及んで、わたしは損得勘定で考えております(笑)
  ゲンキンな上にめんどくさがりやだから、こっちが出した本気の分の
  見返りを出してくれる人を望んでしまうのだ。


  もう、コミュニケーションは結局どこまで行っても“言葉”なのだ。
  ぱっと流して読むと、おもしろヨタ話にしか見えないのも多かったけど、
  言葉の質も掘り下げ方も、そして“立ち向かいの在り方”が尋常じゃない。


  わたしがぬるい生活を送っているからかなー。
  以前、彼が発した言葉の数々がとても輝いてみえる。
  
  やっぱりコミュニケーションはええねぇ…と思い、ちょこっと書いてみた次第。

  や、べつに立ち向かったわけじゃないけど、久々に殴られて目が覚めた感じ。
  そういえば、かつてニフティというのは、わたしにとってそうゆう場所だった。
  そうゆう場所って、真剣勝負の場所ってことね。
  やっぱ、真剣はいいよ。真剣は。
 

  …でもやっぱりオフラインにつながる日記は怖いので、
  誰も読まなさそうなここで、しばらく発生練習していこうっと。

  あ、相変わらずわたしって情けない……。
 # つぶやき

 結局
 「昔の音楽はよかった。今の音楽はさっぱりわからない」のではなくて、
 自分が若いときに生活や気持ちを重ね合わせて聴いていた、
 思い出と繋がった「昔の音楽」がいいのであって、
 忙しくなって音楽を追いかけられないときに流れている「今の音楽」を聴いていない。
 
 ただ、それだけなんだよなぁ、わたしの場合。
  #月の骨


  ずっと分かっていたことは、すべて忘れて幸福になろうと努力することより、
  憎み続けることのがはるかに簡単で、なんのリスクも払ってないということ。




  ***



  エレキギターを預かる。
  気まぐれなわたしが「ギターが弾けるようになりたい!」と言ってるのを
  聞いていた友人から。


  友人は、ドラムやギター、ベースはもちろん、見たことのないパーカッション、
  キーボードも自由自在に操る才人だ。
  いつも冷静で正確な上、遊び心もあり、フットワークも軽く、話し上手で、
  人生を楽しむ方法を沢山知っている心豊かな人でもある。


   そんな彼の小脳に脳腫瘍ができて、摘出手術を受けたのが1年半前。

   以来、彼は後遺症に苦しみ、再発率の高さを受け止めつつも、
   今まで普通に出来たことが出来ない日々に苦しんでいる。


  箸を持ってご飯を食べるように、普通に身に染み付いてるはずのことが
 「箸を持って」「ご飯を食べる」と、強く意識しなければ出来ない。
  無意識に息をするように、抱えると自然と爪弾いていた楽器も
 「コードを押さえて」「ストローク」と、強く意識しなければ弾けない。


  表面的には出来ないことを悲観したりはしていないが、どれだけ悔しい思いを
  感じているだろうか。元来根が暗いわたしだったら、底なしに暗闇に閉じこもって
  しまうことだろう。

 

  脳腫瘍が見つかって、手術。
  勤めていた職場は一年の休暇の末、解雇となった。
  以来、保険と嫁の給料でなんとか暮らしている。
  でももう限界で、持ち家を手放すことに決めたそうだ。

  府営住宅に転居するにあたり、何十種類もいたペットを可愛がってくれそうな
  知人たちに全て託す。

  同様に、彼の大事な楽器も、その殆どを音楽仲間に譲っていた。
  その中の一つが、うちにやってきたギターである。


  わたしが、こんなにあるなら一本くらいええやんけー(マテ)と、ねだっても、
  「どれ一つとっても俺の大切な楽器やからあかーん」と拒み続けてきたのに。

  あんたやったら大事にするやろ?と。



  友人はくれると言ったが、わたしは借りることにした。
  元気になって復職して、楽器が弾ける環境に引っ越すまで預かるわ。


  10代の終わりから、10年くらい健康とは言い難い生活が続いていた。
  いつか余裕が出来たら楽器が操れるようになりたいなあと思いながら、
  なかなかその余裕が出来なかった。

  そんなわたしの手元に彼からギターが届く。


  婆ちゃんになるまでのライフワークやから、ゆっくり練習するわー。
  早くギター取りにきて? その時には自分のん買うから一緒に選んでなーと
  言うあたしに、友人の言葉は胸に刺さった。


  何言うてんねん? 時間なんか俺らにはもうないねんで?
  いくつまで生きれると思ってんの? 明日死ぬかもしれんねんで?
  のんびりなんてしてる時間はない。今日から死ぬ気で練習せえや。


  ホントだねー。 
  わたしは、よく「いつか○○するの」と言うけれど、
  そのいつかっていつやねん!って話だよな。
  いつかする、いつかする言いながら、何もせずに死ぬんかもしれん。


  今を大切にせーへんてことは、大切にせーへん日々の積み重ねの、なれの果ての
  何もない日々に立つということなんだろうなぁ。今を生きている人への冒涜だ。


  俺の心はどこからどこまでも俺のもの、誰にもやらん!ちゅーのも
  ちょっとアンタカッコよすぎるんちゃうん?と笑ったけども、
  ホントは軽く胸打たれておりました。忘れへんでー、その言葉。


  

   **


  
  人生とは、ひどいにきび面のくせに、そいつを治す気がない代物だって結論に達した。
  治ってしまったら、一日に五十回も鏡を覗いて、自分を憐れむことができないからね。
                      (ジョナサン・キャロル『月の骨』



   ***



   訳あって、我が家にエレキギターがやってきた♪

  今まではアコギだったから
  「夜遅いとご近所迷惑になるから、なかなか練習できないしー、練習出来なきゃ
  上達しなーい」などと言い訳してたけど、もうその言い訳通用しねーなー。

   さぁ、エレキな婆さん目指して、お頑張りなさい。

 そのエレキギターの質量感が伝わってくるように思いながら読みました。

 余談ですが昔、ザ・スパイダース の「エレクトリックおばあちゃん」という曲があったのを思い出しました。
 もちろん、ぐんまさんはまだその年ではありませんが・・・。
   http://www.youtube.com/watch?v=DykntFrAQwg
 # 妻の言い分

 夫はつまらない男でした。
 
 休日にどこぞにでかけては、化石になった家庭を掘ってきて、
 土を払って棚に飾り、一日中眺めている、そんな人でした。

 結婚してからほとんど会話もありません。

 は?
 夫がわたしを埋めようとした理由ですか?
 
 それなりに私たちにも愛があった、それだけのことでしょう。



 # 夫の回想

 化石の発掘には繊細さが必要なんだ。
 スコップを使うなんてのは論外だ。小さな刷毛で少しづつ周囲の土を落としていく。

 やがて輪郭がはっきりしてきても、まだ安心しちゃいけない。
 落として傷がつかぬように、まわりを乾いた布でふき取ってゆく。

 
 そうして掘り出したのがおまえのお母さんだよ。



 # 子どもの感想

 ああ、うるさい。

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