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南京大虐殺・議論の広場コミュの七三一部隊とその周辺 「凍傷」の研究

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ここ3か月ほど、「731部隊」にハマっています。

集めた関連図書は既に100冊近く。しかし他にも確認しておきたい資料は多く、また情報の整理もあまりできていない状況です。実際に「形」になるには、まだまだ時間がかかりそうです。

最終的には、漠然と、「人体実験 これだけの根拠」「細菌戦 これだけの根拠」「中川八洋氏のトンデモ否定論」「ネット否定論の虚妄」なんてコンテンツを構想しています。

ただ「人体実験 これだけの根拠」だけでも、フェルレポート・ヒルレポートに石井部隊幹部への尋問調書、さらに「七三一部隊作成資料」など盛りだくさんになりそうで、どうやって1つの記事に収めるか、悩みは多いところです。

コンテンツが出来上がれば、まあ少なくとも、ネットに広まる低レベルの「否定論」には、決定的な打撃になるでしょう(笑)

twitteでは気が向いたときに短い文章をつぶやいていますが、このあたりでひとつぐらい、まとまったものを書いてみたくなりました。現段階では私の中で一番整理が進んでいる「吉村寿人博士の「凍傷」研究」について、以下、とりあえずの「まとめ」をしておこうと思います。





1942年、七三一部隊吉村班(凍傷研究)班長の吉村寿人は、画期的な「凍傷」の治療法を発表しました。

>凍傷応急処置法としては凍結部位を摂氏三七度附近(少くとも三〇〜四五度)の微温湯にて融解せしむるが最も効果ある方法なるを発見せり(常石敬一『消えた細菌戦部隊』増補版(ちくま文庫)P173)


これだけ読んでも、どこが「画期的」なのか、あまり詳しくない方にはさっぱりわからないかもしれません。

少し、解説しましょう。


当時においては、凍傷に対してお湯で「暖める」ことはタブーとされていました。

なぜなら、例えば凍傷の患部を50度のお湯で暖めると、軽度の凍傷で済むはずが、「重症凍傷を惹起し右母指を残すのみにて他の九指を喪失」する、などという悲惨な事例が報告されていたからです。(同P175)。

こんな中にあって、吉村は、40度前後のお湯が最も効果的である、ということを発見したわけです。まさに、凍傷治療法の、コペルニクス的転回です。


当然、疑問が生まれます。「50度」と「40度」の差はたったの10度。吉村はどのようにして、「50度」だと指がボロリととれてしまうが、「40度」だと効果抜群である、なんてことを発見できたのか。

誰しもが、「人体実験」を連想します。現に、ソ連で行われたBC級戦犯裁判、「ハバロフスク裁判」では、次のような証言がありました。

>吉村研究員から聞いた所によりますと、酷寒 ―零下二〇度以下とのことです― に部隊の監獄から人々を引出し、素手にさせ、人口風によって手を凍らせていました。

>それから、小さな棒をもって凍傷にかかった手を、小板を叩く様な音が出る迄叩き続けました。

>此の外、私は実験に関する吉村の報告を読みました。これについて、映画も撮影されました。

(西俊英証言、『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』P354)  


その結果は、こんな悲惨なことになった、と伝えられます。

>私が監獄の実験室に立寄りました時、其処には長椅子に五人の中国人の被実験者が座っていましたが、此等の中国人の中二人は、指が全く欠け、彼等の手は黒くなっていました。

>三人の手には骨が見えていました。指は有るには有りましたが、骨だけが残っていました。

>私が吉村の話しから知った所によりますと、是れは、彼等に対して、凍傷実験をした結果でありました。

(橘証言、同480)

コメント(7)

さて戦後になり、吉村は学会で枢要な地位を占めることになりました。「南極特別委員会」委員や京都府立医大学長なども務めています。

氏は同時に、「七三一部隊」の人体実験に関わったとして、各方面からの非難の的にもなりました。

吉村氏は、このような非難に対していくつかの「弁明」もしくは「反論」を遺しています。1972・10・23付朝日新聞、1982・11・4付毎日新聞、あるいは氏の著作『喜寿回顧』で、氏の言い分を確認することができます。

※七三一部隊関係でよく引用される新聞記事については、私が図書館等で直接確認して、こちらにまとめてあります。

http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/731/kiji1.html 

吉村関係は、このうち1番目と3番目の記事です。



1982・11・4付毎日新聞は、こんな内容です。

― 民族別の凍傷予防研究を行ったというが。

中指を氷水につけて反応を調べる方法は、ハンチング反応といい、今も使われている方法だ。当時氷点下四度にならないと凍傷にならないことが関東軍の調査でわかっていたので、零度で実験した。

しかも、マルタを使ったのではなく、現地人の協力を得て調査した。生体実験などというものではない。私はマルタを管理している特別班には近寄らないようにしていた。

その後、凍傷治療を研究することになり、部下の軍医中尉にやらせた。彼からの報告はあったが、あまり聞かないようにしていた。彼が何をしたか、よく知らない。

(略)

― 石井部隊に入ったのはなぜか。

大学の恩師から「満洲へ行け」といわれた。断ったが、行かないと破門する、といわれた。

― 自分では生体実験をしていないというが、部下の監督責任はあるのではないか。

監督責任はあるかもしれない。しかし、軍隊に入ったら仕方のないことだ。

― 科学者としての倫理、良心の問題はどうか。

倫理といわれても、私はマルタは使ってない。部隊に入ったこと自体が間違いだった。"



もう一つ、『喜寿回顧』。長いので、主なセンテンスのみをぶつ切りで紹介します。関連部分の全文はこちらをどうぞ。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/731/yosimura.html


>私が戦時中に属していた部隊において戦犯行為があったからとて、直接の指揮官でもない私が何故マスコミによって責められねばならないのか、全くのお門違いの事であり、マスコミの何らかの意図的な動機によるとしか判断の仕様がない。

>それでも新聞や石井部隊の事を書いた書物にはまるで私が悪魔であったかの様に善かれている。

しかし私は軍隊内に於て凍傷や凍死から兵隊を如何にしてまもるかについて部隊長の命令に従って研究したのであって、決して良心を失った悪魔になった訳ではない。

>ただ当時は戦争中であって部隊は臨戦態勢をとっていたことだけは御了解願い度い。「悪魔の飽食」中に書かれた私に関するものには随分とひどい誤解やフィクションに満ちたものであることはここに断言する。

本書を読まれた皆様には私を信頼し、私個人はそんな悪魔でなかった事を信じていただき度い。

>私は細菌戦とは無関係な凍傷の研究をやり、たまたま興安嶺方面の住民の衛生調査を行った機会にその凍傷抵抗性を測定し、比較民族学的な耐寒性の研究として欧文論文にも発表したもので、今日さわがれている浮虜の生体実験ではない事をよく説明し、同記者もよく判りましたと言って帰えったのであった。

>私にとって石井部隊は全く地獄のように思われ、部隊に居る事自身が苦痛でたまらなかった。

私は天を仰ぎ地に伏して歎いた。鬼界ケ島へ流された俊寛には謀叛という罪があった。しかし私にどんな罪があったというのであろう。これは私のみならず軍属として大学より派遣せられ大学よりの呼び返しを待っていた陸軍技師諸君の誰もがそうであったと思う。

>ただ辛じて私共をこのような地獄に留まらせ得たものは部隊の内でも多少の自由研究として動物実験や満州国内の衛生調査が個人の自由で行う事がゆるされ、差し支えないものは日本内地や満州国内での学会発表が許された事であった。


>(氏を部隊に送った正路教授は)「自分は石井部隊で何をやっているかをうすうす知り乍ら、厭がる君を無理矢理に満州へ送り、しかも今日のような事態を迎えて、君や君の御家族の生命に危険が及ぶ所迄追いっめた事は自分の大へんな誤りであった。」と何回も何回も繰返して謝罪せられた。

さて、以上の氏の「反論」をよく読んでみましょう。

まず、「七三一部隊」の性格です。氏は、「私にとって石井部隊は全く地獄のように思われ、部隊に居る事自身が苦痛でたまらなかった」と書きます。

しかし部隊では、内地とは比較にならないほど食糧事情は良かったといいます。またセントラルヒーティング設備も完備。かつ、研究も自分が思う通り自由に行えた、と氏自身が語っています。

ここまで良好かつ快適な研究環境を得ながら、氏はどうして「石井部隊」を「地獄」と認識したのでしょうか。


読み進めると、氏の恩師の言葉として、「自分は石井部隊で何をやっているかをうすうす知り乍ら」というセリフが登場します。


新聞記事に目を戻すと、「私はマルタを管理している特別班には近寄らないようにしていた」という言葉が目に入ります。

つまり氏は、「マルタ」の存在を知っており、それが「不都合な人体実験」に使われていることを薄々(かどうかわかりませんが)感づいていた、と見ていいでしょう。


以上の記述から見ると、吉村氏は、部隊が不都合な「人体実験」を繰り返す、非人道的な機関である、という認識を持っていた、ということになりそうです。そう考えれば、「地獄」の表現にも素直に頷けます。



さらに、吉村班では「不都合な実験」は行っていなかったのか、という疑問も生じます。氏自身は、凍傷にかかる恐れのない「零度」で実験しただけである、と主張しています。

しかし「部下」は何をやっていたのか。


>その後、凍傷治療を研究することになり、部下の軍医中尉にやらせた。彼からの報告はあったが、あまり聞かないようにしていた。彼が何をしたか、よく知らない。

>(部下の)監督責任はあるかもしれない。


自分が班長を務める班で、部下に「研究」をやらせ、「報告」も受けていたけれど、「彼が何をしたか、よく知らない」。そりゃないだろ、と思うのは、私ばかりではないでしょう。

ここでは、氏が「監督責任」に言及していることに注目してください。少なくとも氏は、部下が「不都合な研究」に手を染めていたことは、暗に認めているわけです。


以上をまとめると、氏は、「七三一部隊が不都合な人体実験を行っていたことには感づいていた。班の中で、部下も問題ある実験を行っていたようだ。しかし自分は、一切そんなものには関わっていない」と主張していることになります。

・・・ま、信じたい人は信じてください、というレベルですね。
しかし氏の「ウソ」は、氏の戦前の講演記録、『凍傷ニ就テ』で明らかです(カタカナにした方が気分が出ますね(笑))。

この文書は、「米国からの返還文書の一冊として、東京の国立公文書館に収められている」(常石、前掲書)ものです。


不二出版『七三一部隊作成資料』に、その全文が写真製版で掲載されています。しかしこれは手書き文字で、しかもあちこち擦れたり潰れたり、とにかく読みにくいので、自分で書き写してみました。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/731/yosimura3.html


いやあ、とんでもなく手間がかかったので、面倒な図表等は全部省略です(^^; 読めない部分は■にしたり、エイヤ、で埋めたりしましたので、誤字脱字も多いです。

それでも、論稿の大体の内容はおわかりになると思います。



「実験1」は、こうです。

* * *

実験1に示す如く、中指「プレスチモグラフ」を装着して之を零下二〇度の塩水に透す時は寒冷が働くと共に皮膚血管が先づ収縮し然る後遂に麻痺す。

 従って「プレチスモグラム」の■■途中に小さき山を示す。

 而して更に寒冷作用が働く時は皮膚温並に指容積は益々低下し遂に皮膚温は零下数度に下る。

 然るに之がある程度進む時は温度は突然に上昇しそれと共に指は白色固化す。

* * *


中指を「零下二〇度の塩水」に浸しておいたら、「白色固化」してしまった、というわけです。まさに凍傷、それも指がポロリと落ちる一歩手前です。

続く「実験2」は、こんな内容です。


* * *

右中指を約十五分間零下十度の食塩水中に浸せる時の皮膚温の消長を追跡せる実験なり 皮膚温の測定、銅「コンスタンタン」熱電堆を用ひ「ポテンシオメーター」にて測定す

(中略)

 但し人によりては斯かる血管反応著明ならずして凍傷を起す者あるは勿論なり

* * *

こちらは「零下十度」です。そして「人によりては」、凍傷を起す者があったことを明記しています。




ここで、先ほどの吉村氏の「反論」をもう一度読み返してみましょう。

>当時氷点下四度にならないと凍傷にならないことが関東軍の調査でわかっていたので、零度で実験した。しかも、マルタを使ったのではなく、現地人の協力を得て調査した。生体実験などというものではない。


確かに、そのようなソフトな実験もやっていたのでしょう。しかし同時に、この講演を読む限り、「零下20度」や「零下10度」で、被験者に凍傷を起させるような実験も行っていたことも、紛れもない事実です。
さらに問題になるのは、その「被験者」です。

後半では、どちらかといえばソフトな実験が語られます。被験者も、「苦力」「兵士」「医大学生」などと、明確です。


しかしこの実験1、2では、「被験者」について何も触れられていません。常石氏の次のコメントが、適確でしょう。

「科学論文に一定の評価が与えられる基準はいくつかある。そしてもしそれが実験を伴った研究についての論文であれば、次のことが最低限の条件である。すなわちどんな実験材料をどういう状態で処理したかを明確にすることである。」

「・・・この観点からいうと、吉村の「凍傷ニ就テ」は実験対象の性別や年齢等を明らかにしておらず、失格である。」

「吉村の場合、実験の対象を明確にすることをしていないのではなく、当然のことながらできなかったのだ」(前掲書、P171-P172)"


以上、「零下〇度」でのソフトな実験しか行っていなかった、という吉村氏の言は、はっきりと「ウソ」でした。(まず確実に)「マルタ」を使い、零下20度、零下10度の実験をやっていたわけですから。


なお念のためですが、氏は、1972年10月23日朝日新聞の記事で、こう語っています。

>手足を凍らせて湯をかける実験は、動物実験であり、人体実験はしていない。

仮にも「学術講演」なのですから、もしそうであれば、少なくとも「実験1は人間を使わず、これこれの動物を使った」という記述が必ずあるはずです。また「実験2」については、「人」と明記されています。

問題外の「弁明」である、と言えるでしょう。



最後に、「岡村寧二大将資料」より紹介します。岡村大将は当時「北支方面軍司令官」の要職にありました。

* * *

特に凍傷の治療には、C三十七度の湯に浸すのが最良の方法であるという結論を得た。これは本物の人体を使用して生かしたり、殺したり、再生させたりした貴重な実験に基づくものであった。

しかし、何の事実によるか知らないが、これを中央がなかなか採用しないので、私は北支軍限りにおいて、この方法を採用した。

例えば討伐に行った歩兵小隊に凍傷患者が出た場合、取敢えず小隊全部の者の小便を集め、患者をこれに浴せしめて初療を完うすることができた。第二期に入り患部が相当崩れ変形した患者でも、この方法を気ながに採用すれば全治することができた。

(『岡村寧二大将資料』(上)P388-P389)
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/731/okamura.html


* * *

「本物の人体」を使用した実験の結果、凍傷の治療には37度の湯に浸すのが最も効果的であることがわかった。自分は、この方法を麾下部隊に採用したところ、効果抜群だった。

吉村氏の「反論」を封じ込める決定打、と言っていいでしょう。
晩年、朝枝繁春が書いた『追憶』(『追想』だったか?薄っぺらい本でした)の中で、確か終戦前後の関東軍防疫給水部の始末の件が書かれていたように記憶しておりますが・・・

貴方、今手許にありますか?
『追憶:52年以前』(朝枝繁春著:1997年6月)でしたね。今日、久しぶりに再読しました。内容は終戦前後の出来事とシベリア抑留時代に限定されており、731部隊に関する記述も記憶通りありました。
朝枝繁春の「七三一」関係の証言としてすぐ読めるものには、『沈黙のファイル』『参謀本部の暴れ者』、あと近藤昭二氏の『細菌戦部隊の資料と一将校の顛末』があることまでは把握しています。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/731/asaeda.html

この本、国会図書館のデータベースでもなぜかヒットしませんでした。そんなに古い本でもないようなのですが、かなりのレア本かもしれません。


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