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南京大虐殺・議論の広場コミュの東中野先生、復活か?

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久しぶりに、東中野氏のメディアへの登場を目にしました。

皆さんご承知の通り、夏淑琴さん裁判の第一審では「学問的研究の成果というに値しない」とまで酷評され、最高裁まで争ったが完全敗訴。右派内部からも敬遠されたのか、その後は全くお名前を見かけなくなっていました。


「産経ニュース」からです。ネットの記事はいずれ消えてしまうと思いますので、記念に全文をコピペしておきます。

**********
日中歴史共同研究 南京攻略によせて 東中野修道氏 史実 どう考えるのか

日中両国の有識者による歴史共同研究委員会が初の報告書を出した。昭和12(1937)年の南京占領の犠牲者数について、日本側は2万人、4万人、20万人以上、中国側は30万人以上という数字を挙げている。本稿では忘れられた基本的な史実を示す。これらはどう考えればよいのであろうか。
 南京の市民は陥落前に命令により、ほぼすべての市民が安全地帯に避難していた。その人数について、陥落前、南京の警察庁長官は20万人と公表し、南京に残留した欧米人も、陥落直前の12月12日、20万人と記していた。
 20万人、30万人の市民虐殺ならば陥落後の人口はゼロとなるはずだが、欧米人は陥落10日後も20万人、1カ月後は25万人と記録していた。30万人の虐殺はありえない。30万人説成立のために時間的空間的拡大がなされている。
 遺体の数も、それを示している。陥落から2カ月後、治安を回復させた日本軍は埋葬に入った。南京大学のベイツ教授は、南京城内外で約4万体が埋葬されて、埋葬は「すべて終わった」と『南京救済国際委員会報告書』に記している。埋葬を指揮した人もそう証言する。30万体を埋葬したという南京の軍事裁判の記録には裏付けがない。
 では、4万人、2万人の数字は妥当だったであろうか。
ベイツ教授は長文の「メモランダム」を、ティンパーリ編『戦争とは何か』に寄稿した。そこに初めて、先に示した全埋葬体の4万を“虐殺”、すなわち、日本軍の戦闘行為(掃討作戦)をも“虐殺”と主張する一文が出た。
 ところが、その4万人虐殺を主張する「メモランダム」が、国民政府軍事委員会直属の特殊情報機関が刊行する『日本人の戦争行為』など5冊の英語本に転載されたときには、肝心の4万人虐殺を主張する一文が削除された。ベイツ教授や国民政府軍事委員会は、削除せざるを得なかったのだろう。なぜなのか。埋葬された4万体を虐殺体と断定できなかったからではないか。それは次の記録から裏付けられる。
 南京の避難地帯を管理した国際委員会がさまざまな「市民重大被害報告」をまとめた『南京安全地帯の記録』は、陥落2カ月間の殺人は計26件であった。そのほとんどが目撃者のない出所不明の「風評」だった。南京に戻ってきた米国領事は陥落1カ月後に、また英国領事は2カ月後に、日本軍の不法行為を「掠奪強姦」だとみていた。
 南京の国際委員会も外交官も武官も、漢口の国民政府も、上海の特派員も、市民大量殺害、不法処刑に言及したことはなかった。
 中国の2人の首脳、共産党の毛沢東も、国民党の蒋介石も、シナ事変1周年のとき、半年前の南京の“虐殺”に言及したことはなかった。
 第2次国共合作下の共産党の毛沢東は、日本軍が南京を包囲しながら皆殺し作戦に出なかったことを下手な戦術だと講演していた。蒋介石の国民党宣伝部も陥落から3年半後の極秘文書に「敵軍が南京に侵入したあとの姦淫、放火、掠奪」と総括した。もちろん拡大宣伝であったが、それでも「南京虐殺」の4文字はなかった。それゆえ陥落後300回も漢口で記者会見が開かれながら、虐殺非難の政府声明は出なかった。外国人記者からの質問もなかった。
 このように、南京虐殺と言うには未回答の記録が多く残ったままなのである。当時、埋葬体4万は戦闘による兵士や市民の遺体、合法的に処刑された不法戦闘員の死体と認識されていた。だから削除がなされたとしか思えない。
今回の報告は公式見解のような錯覚を生み、やがては学問と言論の自由が縛られると思えてならない。(亜細亜大学教授)
【プロフィル】東中野修道
 ひがしなかの・しゅうどう 昭和22(1947)年、鹿児島県生まれ。大阪大学大学院博士課程修了。日本「南京」学会会長。近著に『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100209/acd1002090749004-n1.htm

************



ほとんどが否定され済のお笑いネタです。

しかし「どうしても否定したい人」は、この程度のネタにも飛びついてしまうようです。mixiでも、まるごと引用してしまう間の抜けた方を見かけました。

とりあえず、大雑把に「解説文」をアップしておきます。

コメント(25)

なお、今東中野氏の本がほとんど手元にない場所におりますので、「元ネタ」を確認できない部分がいくつかあります。そのため、細かい部分では間違ったことを書いているかもしれません。お気づきの方、ご指摘いただければ幸いです。



>南京の市民は陥落前に命令により、ほぼすべての市民が安全地帯に避難していた。その人数について、陥落前、南京の警察庁長官は20万人と公表し、南京に残留した欧米人も、陥落直前の12月12日、20万人と記していた。

「ほぼすべての市民」というのは、明らかな誇張です。

南京陥落当時、まだ自宅に留まっていた市民は大勢いたと思われます。中国側証言集などを見ると、陥落後の安全地帯への大挙としての「人口移動」を見てとることができます。例えば夏淑琴さんの一家が被害にあったのは、明らかに「安全地帯」外でした。

陥落後も、下関の宝塔橋キャンプ(数千人〜2万人規模と伝えられます)など、いくつかの避難所が安全地帯外に存在しました。


東中野氏の足元の<東中野修道編著「南京「虐殺」研究の最前線 平成十四年版」>にすら、秦郁彦氏のこんな批判が見られます。

>問題は、難民区以外の市内にどのくらいの市民がいたかです。「全員が難民区に逃げ込んでいたから、空っぽのはずだ」という議論がありますが、私はそうは思わない。例えば神戸の大地震の時に思ったのですが、避難住宅を用意しても、壊れた自分の家がいいからと動かない人は少なからずいた。南京は日本軍の砲爆撃をほとんど受けていませんから、家はあまり壊れていない。したがって、自分の家に留まっていた人はかなりいただろうと思います。
http://www.geocities.jp/yu77799/anzentitaigai.html


で、全くの余談になりますが、東中野氏は、「両角部隊に捕まってしまった6、7千人規模の避難民の存在」を堂々と主張しちゃっているのですのね。こらこら、安全地帯の外は無人じゃなかったのかい。こんな矛盾を全然気にしないあたり、東中野氏のおおらかなところです(笑)
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/saigen5.html


さらに言えば、「警察庁長官は20万人と公表し」は、例の王固盤発言。「公表」というと何やら「公式発表」でもしたかのように錯覚させられますが、「警察庁長官王固盤は、繰り返して、市内にはまだ20万人の中国人がいると言明していた」という程度の、「雑談」の中での発言でしかありませんでした。

「12月12日」の「欧米人」による「20万」発言をすぐに確認できなかったのですが、いずれにしてもこれは、何らかの「人口調査」から得られた数字ではなく、単なる「見当」であるに過ぎません。


今さらではありますが、「人口」についての初歩的議論については、拙コンテンツをどうぞ。

二十万都市で三十万虐殺?
http://www.geocities.jp/yu77799/jinkou.html

南京の人口は増えたのか
http://www.geocities.jp/yu77799/jinkou2.html


>20万人、30万人の市民虐殺ならば陥落後の人口はゼロとなるはずだが、欧米人は陥落10日後も20万人、1カ月後は25万人と記録していた。30万人の虐殺はありえない。30万人説成立のために時間的空間的拡大がなされている。

「20万人、30万人の市民虐殺」など、誰も主張していません。中国が主張する「30万人」は、「軍人プラス民間人」の合計。先生、こんなところでトリックを使ってはいけません。

「20万人」「25万人」とも怪しい数字ではあるのですが、東中野先生、この「増えた5万人」は、いったいどこから来たとお考えなのでしょうか? まさかいったん南京を逃げ出した人が戻ってきたとも思えませんので、普通は、「安全地帯の外」、あるいは「周辺農村部」から避難して来たのだなあ、と考えるところなのですが。ヴォートリン日記などを読むと、そんな多数の事例を確認することができます。

「30万人説成立のために時間的空間的拡大がなされている」というのは、一体何のことやら。中国側主張では、被害地域は概ね「南京市」エリア、期間については12月中旬をコアに確か2、3か月の期間だったはずなのですが・・・。
>遺体の数も、それを示している。陥落から2カ月後、治安を回復させた日本軍は埋葬に入った。南京大学のベイツ教授は、南京城内外で約4万体が埋葬されて、埋葬は「すべて終わった」と『南京救済国際委員会報告書』に記している。埋葬を指揮した人もそう証言する。30万体を埋葬したという南京の軍事裁判の記録には裏付けがない。

「治安を回復させた」って、そもそも南京城内の「治安を悪化させた」のは一体誰だったんでしょうか? 東中野氏、こんな細かいところでも微妙なごまかしをしています。

「埋葬問題」には詳しくありませんのでコメントは省略しますが、別に「死体処理」を行ったのは紅卍字会ばかりではなかったはずです。

「幕府山事件」の死体処理を行ったのは日本軍でしたし(ほとんど揚子江に流したはすです)、他にもいくつか埋葬団体は存在しました。また民間人の死体などは、地域コミュニティが生き残っている限り、自分たちの手で埋葬したことも考えられます。

さすがに「30万」はどうかと思いますが、「紅卍字会の埋葬記録」のみを手がかりにして、「4万人」を上限と考える必要もないでしょう。



>ベイツ教授は長文の「メモランダム」を、ティンパーリ編『戦争とは何か』に寄稿した。そこに初めて、先に示した全埋葬体の4万を“虐殺”、すなわち、日本軍の戦闘行為(掃討作戦)をも“虐殺”と主張する一文が出た。
>ところが、その4万人虐殺を主張する「メモランダム」が、国民政府軍事委員会直属の特殊情報機関が刊行する『日本人の戦争行為』など5冊の英語本に転載されたときには、肝心の4万人虐殺を主張する一文が削除された。ベイツ教授や国民政府軍事委員会は、削除せざるを得なかったのだろう。なぜなのか。埋葬された4万体を虐殺体と断定できなかったからではないか。

先生、文書が書かれた時間的順序が逆です。それ、「削除」ではなくて「加筆」です。詳しくは、渡辺さんの論稿をどうぞ。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/3924/article/warmeans.html

中国側刊行本に収録されたのは、ほとんどリアルタイムで書かれた「南京安全区トウ案」。一方「戦争とは何か」は、3〜4月に編纂されたもの。リアルタイムで書かれた文になかった「4万人虐殺」が、後の文では付け加えられた、というだけの話です。

「前提」が間違っていますので、、なぜ「削除」されたのか、などとお悩みになる必要は全くありません(笑)
>南京の避難地帯を管理した国際委員会がさまざまな「市民重大被害報告」をまとめた『南京安全地帯の記録』は、陥落2カ月間の殺人は計26件であった。そのほとんどが目撃者のない出所不明の「風評」だった。南京に戻ってきた米国領事は陥落1カ月後に、また英国領事は2カ月後に、日本軍の不法行為を「掠奪強姦」だとみていた。

「殺人」の記録をすべて収録してありますので、「目撃者のない出所不明の「風評」」なのか、こちらでご確認ください。正確には「29件」ですね。
http://www.geocities.jp/yu77799/49nin.html


第一件
 十二月十五日、安全区衛生委員会第二区の道路掃除人六名は彼等が住んでいた鼓楼の家で日本兵に殺され、一名は銃剣により重症を負った。何らはっきりした理由のないことである。これらの人々はわれわれの使用人だった。日本兵はその家に侵入した。


第一五件
 十二月十五日、漢口路の中国人住宅に押入った日本兵は若妻一名を強姦、さらに三名の婦女を拉致した。そのうち二人の夫が日本兵を追いかけたが、二人とも射殺された。


第一六件
 十二月十五日、銃剣で傷を負った男一名が鼓楼医院に来院して語るところによれば、下関へ弾薬を輸送するため六名の者が安全区から連行されたが、下関に着くと日本兵は彼の仲間全部を銃剣で刺殺した。だが、彼は生き残って鼓楼病院に来たのである。(ウィルソン)


第一九件 
 十二月十五日、一人の男が鼓楼病院に来院した。六十歳になる叔父を安全区にかついでこようとしていたところ、叔父は日本兵によって射殺され、彼も傷を負った。



先生が痛い目にあった「夏淑琴さん事件」もしっかりと収録されています。

第二一九件 
  ジョン・マギー氏のきくところでは、十二月十三日から十四日にかけて、城南に住む一家の家族一三人のうち一一人が日本兵に殺され、婦人たちは強姦され、手足を切断されたとのことである。生き残った二人の小さな子供が話してくれたのである。(マギー)


「風評」というと、「街のうわさ」をそのまま垂れ流したかのように錯覚させられますが、上のように、結構具体的です。第一件の被害者は安全区衛生委員会の関係者、第一六件は6人の中の「生き残り」の話、第一九件は「目撃者」の直接証言です。

先生、読んでいない人を騙してはいけません。


また、報告にあたっては、ある程度のフィルターがかかっていたとも伝えられます。

>私は事件の顛末を書き上げ大使館に届けられる前にそれが果して正確か否かを検討するのに出来るだけの努力を払ひました。出来る限り如何なる時でも私はその事件を検分した委員会の代表者に会ふ事にして居ました。私は自分で考へて適確に報告されて居ると思う事件丈けを日本大使館に報告して居りました。
(極東軍事裁判 スマイス証言)
http://www.geocities.jp/yu77799/hukuda2.html


さらに、

>南京に戻ってきた米国領事は陥落1カ月後に、また英国領事は2カ月後に、日本軍の不法行為を「掠奪強姦」だとみていた。

との文ですが、「南京に戻ってきた」米国副領事、エスピーは、こんな報告を本国にあげています。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/espi.html


>兵士と実際そうでなかった者の識別は、これといってなされなかった。ほんの些細なことから、兵士であったとの嫌疑をかけられた者は、例外なく連行され、銃殺された模様だ。

>大勢の兵士が市内に群がり、筆舌に尽くし難い凶行を犯したことは事実である。外国人目撃者の話によると、南京を 冒瀆する野蛮な盗賊同様に、日本兵は欲しいがままに振舞っていた。市内では数えきれないほど大勢の男性、女性、子供が殺害された。理由もなく市民が銃殺、刺殺されたと聞かされている。



ついでに、「イギリス領事」の、1月28日付の報告です。

>南京の情況は、予期したよりはるかに困難なものであり、かつ異常である。日本軍が南京を占領してから最初の二週間にわたって行った虐殺は、その質と規模においてほとんど信じられないものである。(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』P312)


先生は、こんな報告は、「なかったこと」にしたいのでしょう。
>中国の2人の首脳、共産党の毛沢東も、国民党の蒋介石も、シナ事変1周年のとき、半年前の南京の“虐殺”に言及したことはなかった。

「中国は知らなかったか」参照。蒋介石は、「日本国民に告ぐ」の中で、明らかに「南京」に言及しています。
http://www.geocities.jp/yu77799/chuugoku.html

ところで毛沢東は、「シナ事変1周年」(何でカタカナなんだ?)に、何か演説しているのでしょうか? 中国共産党関連の文献はあまり持っておりませんので、ご存知の方がいらっしゃいましたら、教えていただけると助かります。



>第2次国共合作下の共産党の毛沢東は、日本軍が南京を包囲しながら皆殺し作戦に出なかったことを下手な戦術だと講演していた。

毛沢東の元の文は、こうでした。
http://www.geocities.jp/yu77799/chuugoku.html

>第五は、包囲は多いが殲滅が少ないこと。台児荘戦役以前には、敵は上海、南京、滄州、保定、南口、忻口、臨汾の諸戦役で、撃破は多かったが、捕虜と戦利品は少なく、ここに指揮のまずさがあらわれている。

>この五つの点 ― 兵力を小出しにふやしたこと、主攻方向がないこと、戦略的協同がないこと、時機を過したこと、包囲は多いが殲滅が少ないこと、これが台児荘戦役頃日本の指揮のまずかった点である。


「南京を包囲しながら」と書くと、毛沢東が「南京」限定で話をしているかのように錯覚させられますが、実際には「南京」は「諸戦役」のひとつとして挙げられているに過ぎません。

まあ、国民党側の戦闘でしたので、毛沢東はあまり詳しく知らなかったのだろう、と解釈しておけばいいところでしょう。
>蒋介石の国民党宣伝部も陥落から3年半後の極秘文書に「敵軍が南京に侵入したあとの姦淫、放火、掠奪」と総括した。もちろん拡大宣伝であったが、それでも「南京虐殺」の4文字はなかった。それゆえ陥落後300回も漢口で記者会見が開かれながら、虐殺非難の政府声明は出なかった。外国人記者からの質問もなかった。

「極秘文書」の元ネタを確認できておりませんので、コメントは控えます。しかし、「極秘文書」に書かれた内容が何で拡大「宣伝」なんだかさっぱりわかりませんね。「宣伝」に使ったのでしたら、「極秘」ではありえません(笑)。


余談ですが、東中野氏は「拡大宣伝」を「誇大宣伝」という意味で使っているようですが、郭沫若「抗日戦回想録」などを見ると、実際には「拡大宣伝」の語はこんなふうに使われています。

>三庁開幕の日の夕方、私は陳誠に来て「訓話」をしてもらったが、そのあとで彼は私にこういった。「どうだろう、早いところ拡大宣伝をやって政治部復活の意義を宣伝しては?」(P67)

>そこで私たちは四月五日」(この日付はよく覚えていないが、あるいは一日、二日早かったかもしれない)から向う一週間、拡大宣伝をやることにして、準備をはじめた。
>一週間の宣伝は、歌詠デー、演劇デー、映画デー、漫画デーといったように、毎日一つテーマになる番組をつくった。そして中ほどの一晩、提灯行列をやり、昼間一同大行進をやることにした。また、ほかにもいろいろ宣伝物を準備したり、新聞に毎日特集号を出させたり、講演会を開いたり、中、英、日各国語によるラジオ放送をするといったぐあいに、かなり大がかりなもので、一同かなりはりきって働いた。(P68)


単純に、「活動の拡大のための宣伝」という意味に捉えておけばいいのではないか、と思います。


「300回の記者会見」云々については、こちらで採りあげました。
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/jissou2.html#3

わかっているのは、「300回の記者会見(原文は「新聞会議」ですので、正確には「記者懇談会」といったところでしょうか)が開かれた」ということのみ。その具体的内容については記録が乏しく、そこで何が語られたか(あるいは語られなかったのか)ということは、ほとんどわかりません。



おそらくそのうち、「正論」あたりに同趣旨の文が発表されるではないか、と思います。今回はあまり調べないでとり急ぎ書いてしまいましたので、こちらは以上の通り「メモ」程度にして、私のサイトでの本格批判はその時にしましょう。

(当投稿は、「思考錯誤」板が残っていればそちらへの投稿ネタだったのですが・・・。後継掲示板の立ち上げを、心からお待ちしています)
ゆうさん
こんにちは
大変詳しく解説していただいて、クローズトのMixiではもったいない限りです。

>私のサイトでの本格批判

ぜひ、早めにお願いいたします。


わたしの資料集でも
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2470.html
東中野記事を紹介し、大雑把に引用者注を書きましたが、あまりにも大雑把過ぎて恥ずかしいかぎりです。ゆうさんの解説を参考にさせていただき、書き直さなくてはなりませんね。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2587.html

日中両論文の『南京大虐殺』に関する箇所は、izaブログの方に全文抜粋しました。
南京虐殺(日中歴史共同研究・日本側記述)
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/1454145/
南京虐殺(日中歴史共同研究・中国側記述)
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/1454455/

中国側の論文の中では中島今朝吾日記が2回も引用されていました。最初は有名な「捕虜はとらぬ」の一節の後半からですが、2番目が面白いです。中島が略奪した南京の文化財を別の部隊の兵士に盗まれたとき、いわば「盗っ人道の風上にも置けぬ!」と怒っている箇所です。これを中国側論文は「興味深い風刺的事実」として紹介しています。

日本側は「日本軍の中に(たまたま)不埒な行為もあった」という立場で、中国側は「日本軍は(もともと)不埒な作戦を行なった」という立場の違いはありますが、『南京大虐殺』はあったという点では一致しています。犯罪被告人の弁護人と検事との違いはあっても、犯罪事実は双方が認めて、情状で争っているの構図です。

ここでは「東中野学説」は完全に無視されています。「東中野学説」の神髄は、被害者加害者の構図を180度逆さまにしてしまう事にあったのですが、全く省みられませんでした。

なお関連して、
日本側一部委員が、非公開として合意した戦後史部分を毎日新聞に全面的にリークしたようです。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2470.html#id_3cf6f11c

報道された戦後史部分の日本側記述(要約)はまるで、上に述べたように日中戦争史のなかでは「南京虐殺」も「三光作戦」も「毒ガス使用」も事実上すべて認めてしまった自分達(日本側委員)への意趣返しともいえるもので、まるでチャンネル桜の主張の引き写しではないかとすら、私には思えました。

戦後史のなかで日本側委員は、被告人(日本軍・日本帝国)弁護の立場から一転して被告人(中国共産党政府)告発者に豹変したのです。

戦後史部分非公開については、新聞報道では、中国側の「情報閉鎖性」ばかりが喧伝されていましたが、そのこともさりながら、日本側一部委員の「攻撃性」や「政治的行動」も、これからは問題にされるかも知れません。

「東京(帝国)大学法学部政治学科」
+「京都(帝国)大学政治学高坂門下」
+「防衛省防衛研究所戦史部」

これが「日本を代表する近現代史学」だとの態様は、やはり安倍晋三内閣による人選が成せるワザだったのでしょうか?
>6

>報道された戦後史部分の日本側記述(要約)はまるで、上に述べたように日中戦争史のなかでは「南京虐殺」も「三光作戦」も「毒ガス使用」も事実上すべて認めてしまった自分達(日本側委員)への意趣返しともいえるもので、まるでチャンネル桜の主張の引き写しではないかとすら、私には思えました。


日中歴史共同研究:戦後史部分第3部第3章「歴史認識問題」を執筆された庄司潤一郎・防衛省防衛研究所戦史部第1戦史研究室長は、東中野教授等の歴史観を「歴史修正主義」と表現されておりました。(軍事史学会研究会での発言)
チャンネル桜等の「歴史修正主義」と同列に論じるべきではないでしょう。

戦後中国現代史に対する日本側委員からの批判内容は実証的かつ抑制的であります。「意趣返し」と批判するのであれば、具体的かつ論理的に批判を加えるべきでしょう。


また、
>日中戦争史のなかでは「南京虐殺」も「三光作戦」も「毒ガス使用」も事実上すべて認めてしまった自分達(日本側委員)

との認識は誤りです。学会主流派である今回の委員の中に、そもそも「南京虐殺」等の歴史的事実に疑問を挟んでいる学者は皆無です。
北岡座長のコメントを改めて紹介したします。

日中戦争 計画的な侵略でない
日中歴史共同研究日本側座長 北岡伸一氏(東大教授)
※読売新聞2010年2月1日朝刊事より引用

日中両国で歴史を政治的に利用する動きがあったので、政治は現在と未来の課題に取り組み、歴史は学者で議論しようということになった。共通の歴史認識を持つことはとても無理だから、論文は「パラレルヒストリー」という形で、日本と中国から見た日中関係のあり方を双方の立場から書いていった。

議論しても残った意見の違いは「討議要旨」として発表することで合意したが、中国側が「国民に無用の誤解が広がり、日中関係に悪影響がある」と言い出したので論文だけを公表することになった。

その後、中国側は論文もすべて発表しないでほしいとも言ってきたが、日本側が拒絶し、長い交渉の結果、戦後の部分以外は公表することで一致した。いろいろあったが、結果を発表できたことは大きな意義だ。

中国側は今回の研究で、日本が中国を侵略したことや南京虐殺を認めたことが成果だと言っているが、議論した結果そうなったのではなく、そもそも日本では多くの歴史家や政府も侵略と南京虐殺を認めている。

日中戦争については、中国側は侵略と断定して、だんだんと細部に入っていったが、我々は個々の事実を見ていって、侵略性を判断するというアプローチの違いがあった。中国側は日中戦争は全体として計画的な侵略だったと主張したが、戦争の拡大を止めようと努力した人もいるから、我々はその意見をとらない。

戦後の部分は、「日本側の表現で問題があれば言ってほしい。学問的な信条に反しない程度で考える」と中国側に配慮した。しかし、例えば、1990年代の日中関係の悪化を取り上げると、愛国心教育など現政権と関係することを書かざるを得ない。彼らはそういうテーマに触れたくなかったのだろう(談)

<終>

かず色さん

>戦後中国現代史に対する日本側委員からの批判内容は実証的かつ抑制的であります。

かず色さんが『実証的』と断言なさるのは、「原文」をお読みになったからですか? 

私どもは毎日の「要旨」記事しか読めません。それを読む限りでは、誰もかず色さんのような断定はできません。字数はおそらく本文の数十分の一、実証部分の記述までは書かれてなく、結論的なことしか要約してないからです。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2592.html


>具体的かつ論理的に批判を加えるべきでしょう。

かず色さんのご尽力で原文を読む機会を与えてくだされば、具体的に批判を加えることも可能となるでしょう。
かず色さん
この件は、このトピの主旨とは関連してますが、派生的なので別トピにいたします。6の後半部分と、7、8、を移行します。

ゆうさん
ちょっと脱線気味で申しわけありませんでした。
話題を東中野教授に戻してくださるようお願いいたします。
移行先です。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=50437802&comm_id=1502576
今回産経新聞に掲載された東中野教授の見解は、日中歴史共同研究日本側委員への批判でもありますが、東中野教授の怒りとは対照的に、日中歴史共同研究における「事実認定の相違」としての「田中上奏文」「南京事件」に関する議論が、比較的冷静に行われたことは案外知られておりません。

日本側委員は北岡座長が言うように、「両国である程度評価の定まった歴史家」、つまり我が国学会主流派であり、外部執筆者も服部龍二、川島真、戸部良一といった一流の学者が参加しておりました。

「南京事件」に於ける学会主流派の共通した認識の一つに、当時の戦時国際法への厳格な解釈があったことは間違いありません。つまり、捕獲・武装解除した捕虜等の不法処断は「虐殺」との共通認識が存在します(東中野説との本質的対立論点)。
従って、東中野教授説と真っ向から対立する見解を日本側が公表したことは当然の事であり、この問題での中国側との議論が、「古代史」や「明治期」に関する歴史認識のような「激論」にならなかったのは当然ともいえます。

日中歴史共同研究に対しては、当初から保守系メディアの反対、左派からのメンバー批判がありましたので、今回の東中野教授による批判は当然とも言えるでしょう。ただ、先に庄司潤一郎・防衛省防衛研究所戦史部第1戦史研究室長の「歴史修正主義」発言をご紹介しましたが、日本側委員はまともに東中野教授の今回の発言には取り合っていないのではないでしょうか。
かず色さん
いくつか質問します

>先に庄司潤一郎・防衛省防衛研究所戦史部第1戦史研究室長の「歴史修正主義」発言をご紹介しましたが

いえ、紹介はありません。紹介いただいたのは、あなたの言葉だけです。

>日本側委員は北岡座長が言うように、「両国である程度評価の定まった歴史家」、つまり我が国学会主流派であり、

北岡座長がいってるのは「ある程度評価」であって、「わが国学会主流派」ではありません。「わが国学会主流派」は、かず色さんが北岡さんの名を借りて牽強付会なさっているだけです。

今回の日本側委員の人選は、歴史学学会の全体を反映しておらず、<政治史><軍事史>に偏った人選であることが、当初から懸念されておりました。

北岡さんは自民党タカ派のブレーンを勤めたこともある東京大学法学部政治学科の人です。また庄司潤一さんは防衛省<戦史>をになう方で、どちらも政府の政策に深く関与する方で、民間人というよりも官の方であり、れっきとした<右派>といって過言はないでしょう。

このような保守の学者たちまでが「南京虐殺」等、あるいは「日本の侵略」を認めたことは大きな足跡です。たしかに、<右派><保守>の学者さんたちもきちんと実証的に振舞わざるをえなかったのだなあ、と感慨をもちます。

なお上にご紹介の北岡さんの産経インタビューですが、中立性を強調したいのなら逆効果だと思いますよ。

記事に編集した産経新聞が悪いのか、それとも北岡さん自身の政治的発言なのか、<日本側座長>としての発言だとすれば、非常に公平性を欠くニュアンスに私は驚きます。<第一期報告書発表>という場を、政治宣伝の場に変えたいのか、この人は、と思いました。

南京事件についての中国側論文も読みましたが、従来の政治的歴史啓蒙文書とは違って、物凄く実証的なものであったので、驚いたくらいです。

北岡さんたちが、東中野さんに反対しているからといって<中立>なのではありません。東中野さんは<学者のなかの『右派』>なのではなく、<学者ではない>のですから。

産経新聞の脚色によると

>日中戦争については、中国側は侵略と断定して、だんだんと細部に入っていったが、我々は個々の事実を見ていって、侵略性を判断するというアプローチの違いがあった。中国側は日中戦争は全体として計画的な侵略だったと主張したが、戦争の拡大を止めようと努力した人もいるから、我々はその意見をとらない。

と北岡さんは述べていますが、<戦争の拡大を止めようと努力した人>が、なぜ政策決定の本流とならなかったのか、残念ながら日本側論文はそれを述べることに成功はしていません。政策決定の本流とはなりえなかった、枝葉の部分を散文的に紹介しているだけです。陰に隠れた和平交渉の担当者を顕彰には役立つかもしれませんが、<侵略戦争をなぜやってしまったか?>という国民の疑問には答えられていません。

どうやら<右派>政治軍事学者のみなさんは、<結果事実>としての<侵略>や<虐殺>は認めても、その<原因><動機><政治軍事のメカニズム>には触れたくなかった、というのが本音だったのでしょう。

以上が当トピに関連する日中戦争の部です。

そして戦後史になりますと、<右派>政治軍事学者のみなさんは一転して、中国側の<原因><動機><政治軍事のメカニズム>にたいして、一方的に手を突っ込んで憚りません。とても行儀の悪い「リーク」まで行なって、政治的行動をしています。

かず色さんがお読みになった『とても実証的』な戦後史部分は是非私にも読ませてください。・・・・この件につきましては移行先トピにレスをお願いします。http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=50437802&comm_id=1502576


今回の東中野教授のコメントの中に
「今回の報告は公式見解のような錯覚を生み、やがては学問と言論の自由が縛られると思えてならない。」という懸念表明がありますが、日中歴史共同研究における日本側ドラフトが所謂「公式見解」となるかは、最終的には我が国国内「世論」が最終的に決することであると考えます。

共同研究出席日本側委員(学会主流派)の議論に於ける方法論は、概ね「政策決定過程」を重視し、「プロセス分析」から「多様な選択肢」を導き出す正統的なものであったと考えます。そして、多くの国民はこうした歴史的アプローチに然程違和感は感じないものと思われます。

勿論、こうした方法論に対しては、
「ある事項と事柄の非連続性・偶発性・外因性を強調する『非構造的歴史観』は、根本問題の判断を忘却させる(歩平座長)」
といった極めて論理的な批判もあります。こうした中国側の批判に対して、日本側委員は真摯に耳を傾けたようです。
但し、一方で歩兵座長は
「中国の研究者も、日本の研究者も、国家の利益(国益)を護ることは研究者としての職責である」
とも発言し、上記「根本問題の判断」を国益とリンクさせている点は、日本側との大きな歴史認識に於ける「対立」の根本原因となりました。

翻って東中野教授等所謂「歴史修正主義者」の方法論も、歩平座長の云う『非構造的歴史観』との批判を逃れることは出来ないでしょう。問題は、彼らにはそうした批判に真摯に耳を傾けることが出来ない点であります。
日中戦争の「侵略性」を否定するあまり、華北分離工作等の都合の悪い「歴史」事実の実証分析を回避する限り、彼らの主張は到底、国民の支持を得ることは出来ないように思います。
勿論、日本は中国と違い言論の自由が保証されておりますので、「学問と言論の自由が縛られる」といった東中野教授の懸念は「杞憂」に終わるでしょう。
かず色さん

> 共同研究出席日本側委員(学会主流派)の議論に於ける方法論は、概ね「政策決定過程」を重視し、「プロセス分析」から「多様な選択肢」を導き出す正統的なものであったと考えます。

なんども申上げますが、共同研究日本側委員の先生方は、歴史研究者ではなく政治外交・軍事の分野の方です。決して学会の主流派ではありません。安倍晋三内閣に選出された方々です。時の政府に選ばれた人たちを「正統」というのは、社会主義政権では良くあることでしたが、わが国がそのような国になっていたとは、かず色さんが仰るまで私は気がつきませんでした。

まして、「根本問題の判断を国益とリンクさせることが歴史学の使命だ」というにいたては、そうした学風がわが国歴史学の「主流」でも「正統」でもないことは言うまでもありません。

「根本問題の判断」を国益とリンクさせる使命を負っているのは、東京大学や京都大学の法学部政治学科教授たちです。彼等は帝国大学時代から国家・政府・与党の政治顧問でした。それは歴史学ではなく政治御用学です。本来の歴史学とは、国家・政府・与党からの自律性をもった学問で、時と場合によっては、誤った「国益論」を嗜めるものでなくてはなりません。

今回の共同研究の成り立ちからの限界性は、双方ともが「政府御用」の部署に立つ学者達のだということでした。
(一部報道に寄れば、中国側学者の方が政府から睨まれているそうです(毎日)。味方によっては、日本の方が「政府御用」学の色彩が高かったかもしれませんね。)

私が全て目を通した<近現代史・戦前編>では、官立委員会のそうした限界性があっても、比較的冷静な事実検証ができたといえましょう。しかし「田中上奏文」が否定されたから「侵略戦争に計画性はなかった」などと言うようでは、かなりお粗末です。(産経記事がそのように矮小化している可能性もあります)

反面<近現代史・戦後編>では、まさに、かず色さんが仰る「国益とのリンク」まずありきで、日本の保守政権の政治イデオロギー剥き出しと感じざるを得ません。私には、毎日新聞による<要約>しか読めませんが。

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未だになんのお返事もありませんので繰り返します。

かず色さんがお読みになった『とても実証的』な戦後史部分は是非私にも読ませてください。・・・・この件につきましては移行先トピにレスをお願いします。http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=50437802&comm_id=1502576
ご参考
日本側近現代史委員のプロフィール

北岡伸一
東京大学大学院法学政治学研究科・法学部教授 【座長】
東京大学大学院法学政治学研究科教授、元日本政府国連代表部大使。専門は、日本政治外交史。
陸軍研究からスタートしたが、1980年代終わりから盛んに現代政治に関する論評を行う。
政府との関わり合いは強く、小泉純一郎首相の私的諮問機関「対外関係タスクフォース」委員(2001年9月-02年11月)、過去の外交政策の政策評価を行なうため設置された「外交政策評価パネル」座長(2002年8月-03年8月)、日本版NSC設置検討のために設置された「国家安全保障に関する官邸機能強化会議」委員(2006年11月-07年2月)、日本の集団的自衛権保持の可能性について考える安倍晋三首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」有識者委員(2007年4月-08年8月)、福田康夫首相の私的勉強会「外交政策勉強会」委員(2007年12月-08年9月)などを歴任した。


小島朋之
慶應義塾大学総合政策学部教授  政治学者。専門は、中国政治
慶應義塾大学法学部政治学科卒業後、同大学大学院法学研究科およびカリフォルニア大学バークレー校で学ぶ。
在香港日本総領事館および在北京日本大使館専門調査員、京都外国語大学助教授、京都産業大学教授を歴任。1991年から慶應義塾大学総合政策学部教授を務め、2001年から2007年まで同学部長を務めた。
『21世紀に向かうアジアと日本』(芦書房, 1993年)
『アジア時代の日中関係――過去と未来』(サイマル出版会, 1995年)
『中国の環境問題――研究と実践の日中関係』(慶應義塾大学出版会, 2000年)
『21世紀の中国と東亜』(一藝社, 2003年)
1943年9月9日 - 2008年3月4日 任期半ばで死去


波多野澄雄
筑波大学大学院人文社会科学研究科教授
国際政治学者。筑波大学大学院教授・筑波大学学長特別補佐。外務省参与。専門は、日本政治外交史。
慶應義塾大学法学部卒業、同大学大学院法学研究科単位取得退学。法学博士。
外務省外交史料館非常勤職員、防衛庁防衛研修所戦史部助手・同所員、筑波大学社会科学系助教授を経て筑波大学教授。この間コロンビア大学東アジア研究所、ハーバード大学ライシャワー日本研究所に留学。外務省参与として、「核密約問題」調査委員に任命される。2007年に日本史教科書検定で沖縄戦での「集団自決強制」記述削除が行なわれた際、文部科学省教科書検定審議会臨時委員を務めていた。1984年提訴の家永教科書裁判第3次訴訟では被告(国)側の証人を務めた。

坂元一哉
大阪大学大学院法学研究科教授 国際政治学者、専門は日米関係史
京都大学大学院法学研究科修士課程修了、オハイオ大学、京都大学法学部助手、三重大学人文学部助教授、大阪大学法学部助教授を経て現職。
1999年、『戦後日本外交史』で吉田茂賞を受賞。2000年に『日米同盟の絆』で第22回サントリー学芸賞政治経済部門受賞。2008年第9回正論新風賞受賞。
川口順子外務大臣の諮問で設置された「外交政策評価パネル」(北岡伸一座長)に参画、副座長を務めた。安倍晋三官房長官の諮問機関「海外経済協力に関する検討会」(原田明夫座長)の委員として、ODAの再検討に関わった。日本の集団的自衛権保持の可能性について考える安倍晋三首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」有識者委員を務めた。
京都大学では、高坂正堯の指導を受けた。近年は自らの研究に基づいて、「物(基地提供)と人(在日米軍による抑止力)との協力」という基本構造を持つ日米同盟をより実質的なものにするべきとして、論壇で積極的な発言を行なっている。


庄司潤一郎
防衛省防衛研究所戦史部第1 戦史研究室長
1982年 筑波大学卒業
1984年 筑波大学大学院修士課程修了(社会科学修士)
1986年 筑波大学大学院博士課程単位取得退学
防衛研究所の前職はなしか?
専門分野
近代日本軍事・政治外交史、歴史認識問題
業績その他
『大正期日本のアメリカ認識』(共著)
『日米戦略思想史―日米関係の新しい視点』(共著)
『変動期の日本外交と軍事』(共著)
「『植民地再分割論』と日本」『国際政治』139号(2004年11月)

※(参考)庄司潤一郎氏の東京裁判認識
http://list.jca.apc.org/public/aml/2005-July/002330.html

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自民党政府参与<政治&軍事学者>の主流であることは確かなようです。
若干トピックの趣旨とは外れますが、今後の日中歴史共同研究に関して、ドイツ・ポーランド歴史教科書対話から学ぶべき点について書き込みしたいと思います。

第2次世界大戦でポーランドは独ソ両国にに徹底的に破壊され、多くのポーランド国民が犠牲となりました。戦後もソ連の影響下で社会主義の道を余儀なくされましたが、1970年代からの激しい連帯運動を通じて、最終的には自らの手で「自由」を勝ち取り現在に至っております。

誇り高きポーランド国民にとって、戦時中の独ソの犯罪的行為は許し難いものであったことは容易に推察できますが、戦後はソ連の影響下にあったが故に、カティンの森事件等の真相究明はタブー視され、ソ連批判は実質的に封印されておりました。
一方、戦後西ドイツとの歴史共同研究は1970年代初頭から始まり、激しい対立と激論を通じて、両国は次第に相互理解を深めていったようです。

今回の日中歴史共同研究開始にあたり、庄野委員はドイツ出張等を通じて両国の歴史教科書対話について詳細に研究され、今後の日中両国の相互理解のヒントを見出した旨を以前語っておられました。

庄野委員はドイツ・ポーランド対話から学ぶべき点として、次の事項を挙げておられます。
●一次史料による「事実」の相互検証
●歴史家としてのプロフェッショナリズム ⇒ 自己の歴史にも批判的視点
●「対等な」関係
●政治環境の安定、政治家の強い信念と理性的なメディアの対応
●長期的展望に立った対話の継続
 ・独・ポ:37年、独仏:半世紀以上

日中歴史研究に対する産経新聞の報道姿勢は個人的に大変残念です。長期的視点に立脚した理性的な対応を今後期待したい。
日中歴史研究に対して、我々は短期的な成果を求めるべきではなく、長期的視点から冷静に、今後の推移を見守る必要があると考えます。
かず色さんは、もしや、防衛省防衛研究所の「貴官」をお呼びすべきお方ですか?
庄野もとい庄司さんのお話を事細かにお聴きになっているご様子から察するに。

「ドイツ・ポーランド対話関係」に関する庄司潤一郎さんの論文も、かず色さんにもリークされた<歴史共同研究・近現代史の部・戦後史編>と併せて、是非、読ませていただきとうございます。
×「貴官」をお呼びすべきお方ですか?
○「貴官」とお呼びすべきお方ですか?
東中野教授の日中歴史共同研究批判を拝見し、今回の日本側委員との討論記録を過去に遡って調べておりますが、未だ見つかりません。
日本側委員の南京事件に対する見解は、基本的に秦郁彦氏等に代表される「中間派」と概ね同じであると考えます。やはり東中野教授との見解対立の「重要論点」は、「捕虜処断」の問題に帰結するものと思われます。


『問題は「捕虜処断」をどう見るか』
※月刊誌『諸君』2001年2月号特集記事より一部引用
  対談者:秦 郁彦  (日本大学教授・当時)
      東中野 修道(亜細亜大学教授)
      松本 健一 (評論家・麗澤大学教授)
<注意事項>
●本対談は同誌128〜144Pに亘って掲載されております。
----------------
<捕虜の条件を満たしていたのか>

【東中野】いや、その点(注:歩7の難民区掃蕩作戦)は複眼的に考察する必要があります。第一に中国軍は降伏勧告を拒否し、戦闘及び抵抗を継続していた。第二に「ハーグ陸戦法規」は「交戦者の資格」四条件(?指揮官が存在すること?軍服に階級を表す標識を身に付けていること?公然と兵器を携帯していること?戦争の法規慣例を遵守すること)を規定しています。

ところが、中国兵の場合、?に関して守備司令官の唐生智将軍が逃走しており指揮官不在であった。?は軍服を脱ぎ捨てて市民に成りすましていた。?に関しては、武器をあちこちに隠匿していたことからも違反しているのは明白です。

すると?についても、???といづれも違反している訳ですから、遵守していないことになる。東京帝国大学の国際法の教授であった立作太郎も『戦時国際法論』の中で「正規の兵力に属する者が、これらの条件を欠く時は、交戦者たるの特権を失ふに至る」と明記しています。殺し合う交戦者が捕虜となれば、助命されますが、しかしこういう交戦者の資格四条件をことごとく踏みにじった正規兵は国際法上、捕虜とは認められず、助命されなくても仕方がなかったということになります。

【秦】いや、捕虜としての権利がないから、裁判抜きで殺していいということにはならない。自然法に照らしても不法でしょう。古代の暴君なら兎も角、こいつは悪い奴だから、その場で処刑していいというのは、文明国がやることではない。捕虜の扱いはお互い様ですから、それなりに尊重し、労働をさせれば一定の給与を与え、自国の兵士と同程度の食料を与えるのは交戦国の義務でした。
【東中野】もし中国兵が?の軍服を着用していたなら、捕虜と看做されたかもしれません。しかし軍服を脱いで私人に変装して敵対行動に出た交戦者は、田岡良一博士の『国際法学大綱』も言うように、「捕虜の待遇を受ける事を得ない」のです。平時に於いては裁判ののち処刑されたでしょうが、中国兵の場合は戦時でした。
【松本】交戦者としての特権を失うのは事実でしょうが、捕虜でなければ、必ず殺されるという訳でもないはずです。
「捕虜の資格」について、正式の裁判にかけられて取調べの上で決定され、その判決によって死刑となるのならば合法でしょうが、捕虜ではないからという理由で捕まえた敵国兵士を戦場で裁判にもかけずに勝手に処刑することは国際法上からも容認されていないはずです。
【東中野】私も国際法の専門家ではありませんから、ある学者の説をもってして、これが全てだという気持ちはありませんが、この南京陥落に於いては、正規兵が軍服を脱いで抵抗するという、戦時国際法の全く予想していないことが起きた。それが重大問題と思います。
南京陥落は12月13日ということになっていますが、その日から16日にかけては城内に単純なる「敵地侵入」を行い、敵兵力の事実上の完全排除を達成し、実質的な占領が完成する。従って、入城式を行った12月17日からが本当の意味での南京占領の開始であり、それまでの間の戦闘は残敵の摘発であって、中国側が降伏勧告を拒否していた以上、戦闘及び抵抗の継続状態にあり、その結果、中国兵に死傷者が出たのは仕方の無いことであったと思います。
【秦】しかし、大本営が12月13日に南京を完全占領と発表し、日本国内では旗行列をしていたのですから、13日以降17日までの行動を戦闘行為というのは無理があります。松井大将が入城式を急ぎ部隊側から無理だと上申したのに、予定どおり17日に強行します。その際、朝香宮軍司令官に万が一のことがあってはならぬという理由で、選別しないままに中国人の青壮年男子を全て便衣兵と決め付けて勝手に処刑してしまったのはやはり問題です。 <続く>
<捕虜の条件を満たしていたのか?>

【東中野】でも、戦場の軍隊にとって、戦闘を停止すか否かは、両軍の「師団の指揮官」(マイヤー大百科事典)が降伏規約を締結するか否かにかかっている訳で、あの時点で、中国側は降伏勧告を拒否していた。だからたとえ、一時的に戦闘が膠着状態になっていたといっても、やらなければやられる状態にあった訳です。
【秦】日本軍の論理はそうでしょうが・・・・・。
【東中野】いや、国際法の論理からです。降伏規約を締結する権限は「師団の指揮官」以上の者にのみあるからです。
【秦】第三者機関である国際司法裁判所などが、例えば、日中双方の意見を聞いて判断すると通らないでしょうね。もちろん、日本軍としては、作戦行動の一部として便衣兵を狩り出し、処刑しても不法行為をしたという意識が無いから、「戦闘詳報」にも堂々と七千人やっつけたと書いてある訳です。むしろ、それは誇るべき戦果とされている。だが、第三者はそう判断しないのが問題なんです。
【松本】戦闘現場の中国兵がぞろぞろと両手を挙げて降伏してきているのに、国民党政府からの正式な降伏文書がないからまだ戦闘継続中だとして、日本軍がそうした両手を挙げている中国兵を片っ端から殺したりしたら、やっぱり国際法違反ですよ。
【東中野】便衣兵ではなく軍服を脱いで隠れている正規兵を摘発したのであって、安全地帯から両手を挙げて降伏してきた訳ではない。そのうえ、南京の場合は武器を隠匿したりしていた訳で、やはり捕虜となり助命される資格はありません。
【秦】隠匿しているといっても、その兵士たちが個々に隠していた訳ではない場合もあったろうし、安全区の中で見つかったからといっても、ただ置き去りにしていただけかもしれない。全てが反抗のために準備された兵器で、いざという時にその兵士たちが使える状態にあったと看做すのは無理がある。
【東中野】本当に抵抗しないという意思表示は、中国軍が師団長の降伏の申し出の後、軍服を着用したまま、自ら兵備を差し出して行わねばなりません。それに反した彼らは「助命される捕虜」の資格に反すると言っているのです。
【秦】気持ちは分かりますが、だからといって、その事実をきちんと確認しないで一方的に処刑しては抗弁できません。

<以上、引用終>
----------------------------------------

秦氏、東中野教授、松本教授三者の討論は、所謂「中間派」と「否定派」間の議論としては中々面白い内容であります。日中歴史共同研究日本側委員と東中野教授が議論した場合も、結局は上記の構図となるものと考えます。
>19

日中歴史共同研究を理解する上で、以下の論文等をお薦めさせて頂きます。

○北岡伸一「日中歴史共同研究の出発」『外交フォーラム』2007年5月号
○北岡伸一「語る(インタビュー)」『毎日新聞』2008年7月21日
○歩平「歴史認識の共有のために何が求められているか」『世界』2007年8月号
○歩平「東アジアにおける未来志向の歴史認識形成の意義」弁納才一・鶴園裕編著『東アジア共生の歴史的基礎』お茶の水書房、2008年
○波多野澄雄「日中間の『歴史和解』を求めて」『栃木史学』第23号(2009年3月)
○川島真「『歴史』という資源とガバナンス―日中間の難題を解くために」『ラチオ』第5号(2008年6月)
○庄司潤一郎「『日中歴史共同研究』の展望」『防衛研究所ニュース』第127号(2008年12月)
○ファルク・ピンゲル・近藤孝弘『ファルク・ピンゲル 和解のための歴史教科書』日本放送出版協会、2008年
○近藤孝弘編著『東アジアの歴史政策―日中韓 対話と歴史認識』明石書房、2008年
○朝日新聞取材班編『歴史は生きている』朝日新聞出版、2008年
かず色さん
おはようございます

秦氏、東中野教授、松本教授三者の『諸君』討論は、所謂「 右 派 」と「 反 学 問 派 」間の議論として中々面白く拝読させていただきました。

秦さんが「自然法」なるものを持ち出して不徹底なやりとりをしてますね。こうした、「反学問派」への遠慮と気遣いは興味深いものでした」。

庄司さんと東中野の『討論」、それって、かず色さんが真っ先にご推奨のものですか?
>>#7 #11 で

>庄司潤一郎・防衛省防衛研究所戦史部第1戦史研究室長は、東中野教授等の歴史観を「歴史修正主義」と表現されておりました。(軍事史学会研究会での発言)

それとも、話が別のアイテムにズラされてしまったのですか?

>>#22

『討論』は討論で興味深いので、それもまた別に、ご紹介くだされば幸いです。はたして、かず色が仰るように庄司さんは東中野さんに、面と向って『歴史修正主義者』と呼んだのでしょうか?


>>#23は、
たくさんお書きですが、それは私の#19の前半

>>かず色さんは、もしや、防衛省防衛研究所の「貴官」をお呼びすべきお方ですか?
庄野もとい庄司さんのお話を事細かにお聴きになっているご様子から察するに。

へのお答えと理解してよろしいですね。

また私からの

>>「ドイツ・ポーランド対話関係」に関する庄司潤一郎さんの論文も、かず色さんにもリークされた<歴史共同研究・近現代史の部・戦後史編>と併せて、是非、読ませていただきとうございます。

このお願いには答えていただけない。かず色さんの#17も資料に戻って確認できない、ということですか? 学問が学問でありうる最低の条件は、「再検証性」にあると思いますがいかがでしょうか?


あえて懼れをしらず申上げれば、
「実証性」を褒め称えるかず色さんにしては、はぐらかしの疑いを持たれても致し方ないお答えかと存じます。

×はたして、かず色が仰るように
○はたして、かず色さんが仰るように

失礼しました。

なお、資料に関するお答えは、防衛研究所図書館の書誌番号でも宜しいですよ。

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