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本能寺の変の真相&世界史の謎コミュの秀吉による暗殺説

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もう勝手な憶測なのですが
秀吉もしくはその支配下の誰かが信長そして信忠を暗殺

織田家の指揮系統は壊滅

誰にも状況がつかめないが、とりあえず近くにいた重臣光秀が指揮を執る

そこで羽柴軍急襲
混乱に混乱を重ねた明智軍は全く機能せず

で、罪を光秀になすりつけ 後継者に三法師を推す
結構つじつま合う感じもするのですが どうですか??

この場合家康は協力者? 巻き込まれただけ?
それとも家康すらも暗殺するつもりだった?

検証お願いします

どんな説にしろ 信長だけでなく信忠も滅したと言うのが個人的にはポイントだと思うんですよね

コメント(23)

柴田勝家ですか!
どんな行動にどんな意図が見えるのか教えて下さい
勝家は考えもしなかったので興味あります
ちなみに清洲会議で計画失敗ですか?
この展開は秀吉の配下が備中高松ではなく京の近くにもいて本能寺を襲ったという解釈ですか?
>4 まるしぇさん

ちょっと説明不足でしたね 申し訳ありません
私の勝手な考えでは秀吉の本隊は備中高松 一部が本能寺ですね
どこでどうやって潜伏していたかまでは考えてませんけど
それで本能寺襲撃 それに気付いた明智軍が追っ払う

光秀誰の配下の者達か解らず 状況を整理出来ないでいるが自分が指揮を執るしかない そんな感じです

>1,3 メルビンさん

勝家説の場合では 勝家は何を狙い どんなアクションを起こしたと思われるのでしょうか??

誰が京に潜伏していたかは置いといて信長を自刃に追いやる程に力がある人間が京にいたとは考えにくいですし。。。


それなら『時はいま天が下しる五月哉』はもちろん『信長公記』の記述すらも全て秀吉政権のでっちあげ作り話になってきませんかね??


俺の考えではやはり朝廷が黒幕かと・・
知らない間に結構盛り上がっていたんですね!

少し参加させてください。
自分は基本的に朝廷黒幕説で秀吉も疑っています。
あと、本能寺の変の目撃記録に光秀自身が目撃された情報も聞かないので光秀主導も疑っていますね。

しかし、これだけの事態を秀吉主導で、というのは考えにくいです。
確たる論拠があるわけではないのですが、秀吉主導の事変なら、もっとほころびが生じると思うんです。

隠しきれないとでもいうのでしょうか?
まぁ秀吉は農家の息子ではなく実は忍者らしいですから、京都に何らかの動きがあることは知っていたでしょうね

ただ、自ら信長に刃を向けるとは考えにくいので「明智がいつか謀反を起こすであろうこと。それは間違いなく京都で起きる。くらいまで知っていて、常に京都に情報アンテナを張っていた」というのが一番しっくりは来ますね電球
>まるしぇさん

まるしぇさんの推論はどういうものです?

ちなみに自分の推論の少しは、単純な質問ですのトピに紹介していますのでご参照ください!

秀吉が京にアンテナを張っていた可能性は高いと思いますけど、・・・逆探知もされますよね。

そこら辺の総合も朝廷なら可能だと思いますけど。

高松に秀吉がいた可能性も疑わしいです。客観性に乏しいですから。

柴田勝家はどうでしょうか?
信行の時に一度裏切った人間に信長がプレッシャー掛けてないとも思いにくいです。

まだまだ話したいですね!


ちなみに高校時代青山とは対戦しましたよ、練習試合ですけど。

野球ではありません!
秀吉は、朝廷と光秀が信長打倒を画策している情報を「なんらかの手段・ネットで」早くからキャッチしていて、事が起きるのをずっと待っていた。

秀吉は「謀反が起きるのは信長の供回りが少ない京への滞在中だ」と断定し、京に支配下の「忍者」を置いて備中高松へ。


秀吉はやはり備中高松にいたが、心ここにあらず、で京の情報ばかりを収集していた。

そこで、忍者は本能寺の変が起きるやいなや西へ走り抜ける

そして「ヨシきた!」とばかりに中国大返しという流れ

丹羽・池田に信長が殺された事にいかにも驚き怒ったふりをし「打倒光秀」の下、味方に付ける


戦馬鹿の柴田勝家はそんな危うい情勢に気付くわけもなく、信長への忠義に厚い前田利家は京で謀反など起きるはずもないと思っている。

北陸の2人は蚊帳の外だったと見ています。
>まるしぇさん

備中高松にいたのは秀長だけという可能性もあります。
近臣には秀吉不在が知られててもいいわけですから、秀吉が備中高松に居残る必要はないです。

ただ、朝廷と秀吉の関係に疑問が残ります。

どちらが本能寺の秘密に関するアドバンテージを握っていたのか?
その後の豊臣政権の在り方を踏まえると自分にはそこまで秀吉に力量があったとは思えないところもあります。


秀吉は忍者だったと言う説もあるんですね
初めて聞きました 最近は商人説が有力だとは聞いてましたが・・・
ちなみに他のコミュで朝廷にそこまで影響力はないと言う意見もありましたよ
そう言われればそうかもって納得してしまいました
朝廷立てたところであまりメリットない気も・・・
秀吉の出生についてはいろいろありそうですが、だからこそ、武士社会で異能を発揮できたのかもしれませんね。

たとえ農民であれ商人、忍者であれ、トラディショナルな武士とは違う着眼、発想が彼を出世たらしめたのでしょう。

朝廷の影響力については否定的な意見が多いことはわかってはいる、というより自分もかつてはそうでした。

しかし、朝廷という存在が単なる政治的な意味合いだけで存続していたわけでもなく、また、朝廷ゆかりの勢力も無視できないとあるときから気付かされました。


朝廷がそんなに無力なら信長はさっさと始末していたのではないでしょうか?

秀吉主導で本能寺を考えるよりも、秀吉が隙を突いた、と考えることはできるのですが。

サルごときが天下をとれた背景にはこの時の駆引きが影響している、とも思えます。

どう考えても、秀吉神話の誇張にはついていけない、説明のつかない所も疑わしいです。
勝手な思い込みですが、秀吉の自作自演だと思ってます。
北陸戦線からの離脱後シュミレーションしていたと思われます。
佐久間が追放されたのに 何故 秀吉は時間のかかる 城攻めをしていたのでしょう?人たらしの名人の癖に、余り寝返りさせて無いし。
山崎の戦の後 何故あんなに 無駄の無い戦略を続け 丹羽柴田滝川を退けられたのでしょう?
もし 光秀が本能寺の変を起こしたとしたら それを知ってからでも 秀吉の無駄の無い戦略は可能だったのでしょうか?不思議です。
シュミレーションを重ねていたのではないかと思います。光秀は秀吉に罪を着せられて、滅ぼされたのでしょう。
知識の漏れがあるかもしれませんが、自分は本能寺の変は明智光秀が濡れ衣を着せられた説に賛成です。

光秀は信長の息子達を同時に殺そうとせず、ただ本能寺に突っ走ったと聞いています。
光秀は確実性を求めますから、仮に信長を殺して織田家乗っ取りを目論むなら息子を信長と同時に殺そうとする筈です。

さらに、明智軍15000が走ったら大騒音で信長位なら気付いていると思います。

自分が思うに光秀は信長が討たれたという情報を仕入れ、信長を助けに行ったんじゃないでしょうか。

さらに、その様な情報を確かに操れる機関といえばやはり朝廷くらいしかないと思います。

さらに、信長の死の情報を素直に聞入れ、その後に朝廷とつるんだ人間と言えばやはり秀吉でしょう。

秀吉と堺衆の金と政治力で朝廷を動かし、秀吉が忍びを使って信長を殺しておいて、その後光秀に信長暗殺の情報を流し、明智軍を本能寺に向かわせ、早めに明智を破って秀吉が天下をとったという、言わば『秀吉・朝廷の黒幕説』を考えてみました。


どうなのでしょう?

やはり無理があるのでしょうか?
>くわちょさん

その可能性も捨てがたいです。
朝廷黒幕をとると光秀は完全な捨てゴマになりますから。

さらに、堺衆も巻き込んで荷なると当然本阿弥光悦ラインで家康も陰謀に加担している可能性も高くなります。

以前から疑問だったのですが、光秀は本当に本能寺にいたのでしょうか?

光秀軍がいたのは間違いないみたいですけど、光秀がはめられたのならば、重臣斎藤利三あたりが陰謀に加担して、光秀は先走った軍を押さえに行ったとも考えられるので。

こう考えると堺衆⇒斎藤利三⇒家康⇒春日の局も納得できるのですけれど。

秀吉が絡んでいた説は結構有力だと思う。

おかしいのが中国大返し。

敵はあの謀神と言われた毛利元就の息子毛利輝元。まあ、輝元は暗愚だったとは言いますが、その家臣達に元就の戦術を心得ていて、偽の情報を流すのではないかと、想像出来ます。

さらに、織田(秀吉)を闘わずに退け、九州の島津家と呼応し、信長と同等の戦略で当たる。これをされると相当に厄介。

その島津家との同盟の和議を結ぶため、信長の死と言う情報を流しての時間稼ぎ。

なのに、あの秀吉が素直に情報を信じて、停戦までして戻る素早さ。

もし、本能寺がデマだとしたら、勝手に停戦し、兵力のほとんどを引き連れ戻って来た挙句、毛利の謀略にまんまとハマり時間稼ぎをされてしまっては、切腹はほぼ確実。

もし真実であれば天下人になれる絶好の好機でありますが……そんな危険な賭け、みなさんならのりますか?
まず、

本能寺の変の二週間前に光秀は家康の接待の任務を解かれます。理由は料理が腐っていたとかおかしなもの。しかも、フロイトの記録によると家康が都城する前に信長と光秀が何度も言い争い光秀が席をたったっという記録があります。

これは、

信長が光秀に家康を排除(暗殺)するように頼んだが正当な理由が無いので光秀が断った。それでも、強引に暗殺するように命令された光秀が強固に拒否したため信長が激怒!解任されたと推測するのが妥当でしょう。

さて、

そのままだと立場的にマズイので光秀がある計画を立てる。それが、句会を開き家康の前で光秀の発句「時は今 雨が下しる 五月哉」と詠む。これは「ある血筋のものが天下を取る」とも取れる内容で家康はそれに返句している。内容は忘れたが光秀に同調する内容だった。

家康は光秀の接待役解任や信長から折檻されたことで自身がマズイ立場だと気が付いていたはずです。当然、助けてくれた光秀にシンパシー持つはずです。光秀に同情するか同調する返句をするはずです。

そう、

この返句の内容を理由に信長が家康にイチャモンをつけるためです。信長のお膝元で開かれた句会で大物大名がいるのです。信長の耳に入らないはずがないのに光秀が物騒な句を詠んだのはこのためです。これなら光秀が家康を闇討ちしても「家康は信長様に謀反を図ろうとしていた!」っと言えるのです。ここまでは信長&光秀の策略です。

とにかく、

理由はともかくこの句会のお陰で家康は前もって配下の忍びを手配して山道を逃げる退路を準備出来たのである。実際に服部忍軍の助けで本能寺の変から無事に逃げ出しています。

そして、

本能寺の変当日。本能寺に攻め込んだ軍勢の多くの兵隊は「家康を討ち取る」っと思い込んでいた記録(日記等)がかなり残っています。

つまり、光秀は信長の命令で秀吉への援軍(家康を討ち取る)のために馬ぞろえの準備をした。そのため、あれだけの軍勢が京都を動いても信長は驚かなかったと推察します。

朝廷は

三職推任問題の返事を待っていたので裏で何かやっていたかもしれないが具体的には始動していなかったでしょう。秀吉は高松、柴田は北陸ですから信長の官位をどうするかの心中は分からなかった。しかし、側に居たので光秀は知っていたはずです。朝廷をそそのかすなら光秀が一番です。しかし、本能寺の変の後に「朝廷の後ろ盾がある!」っと光秀が言っていないので朝廷は情報不足で傍観していたのでしょう。

そして、

秀吉としては天下統一が本当に実現と考えて、京や安土に独自の情報網を作り収集していたと思います。これは、信長暗殺のためではなく、自身の出世や織田幕府での立場を築くための情報収集のためです。すると、光秀の接待役解任など一連の流れで、信長が家康を暗殺、または信長VS徳川の戦があると推理していたと思います。っが、現代と違って情報が曖昧でスピードも遅い。

そのため、

光秀が応援に来るため街道に準備していた物資や野営の準備をさせながら何か合ったら(信長VS家康)すぐに駆けつける状態に切り替えられるくらいのことはしていたでしょう。当時の行軍は数週間はかかります。歩きですし食事や野営(テント等)の準備や行軍の疲れをとるための休憩などがあるからです。だから、中国大返しは秀吉が違う目的で準備をしていたため可能だったと推察します。

高松城の水攻めは順調です。何も無ければ普通の手柄。信長が家康暗殺に失敗、家康が帰還して戦になったらすぐに戻ればいきなりパワーアップの信長軍は圧勝!秀吉は超大手柄になるのです。

ところが、

光秀の謀反で思わぬことになる。中国大返しの途中で秀吉の情報網から光秀の下に信長の首がないことを知り一気に戻ったと推測します。首が無ければ情報は錯綜して光秀は体制を整えられないからです。

毛利も確実な情報が無かったので傍観したのでしょう。信長が謀反で死んだならこれで信長の軍勢が内輪もめになれば秀吉と事を構えるよりも全然良いのです。信長が生きていたとしても高松から秀吉が退くのですから態勢を立て直せます。
なかなか興味深い論文です。

自分も秀吉の関与は無かったと思います。家康の動向と立場が光秀を迷わせた?っと思っていますが・・・
僕も秀吉が黒幕だと思います。
本能寺の変の動機の一つと言われる四国政策の変更も、三好康長と結んだ秀吉の説得があったはずです。
それまでの信長は自分から同盟を破棄するような政策はとっていませんでした。
いくら天下統一が目前で、長宗我部に利用価値がなくなったと言っても、同様に利用価値のなくなった徳川家康や、長宗我部と友好的だった明智光秀の不審は買ってしまったことでしょう。

また、本能寺の直後に講和を結んだだけの、それまで敵だったはずの毛利は、四国や九州攻めで秀吉軍の主力級とも言える働きをしています。
さらに、山崎の合戦直後には、丹羽長秀と蜂須賀小六にほぼ同じ内容の先勝祝いを送っています。
普通、秀吉の部下である蜂須賀と、織田家二番家老の丹羽を同格扱いするでしょうか?
つまり、毛利はすでに秀吉から「丹羽長秀は自分の部下で、自分が織田家に代わって天下を取る、その時毛利を重職に付ける」事まで約束していたと考えるべきだと思います。
当然講和は本能寺の前に内々に決まっていて、中国大返しも、本能寺の変が起こる前から一部は撤退を開始していたのだと思います。

逆に、朝廷の関与はなかったと思います。
あったのなら、変の直後に朝廷の命令だったと宣伝したはずです。
同様に、信長を殺すつもりがなかったというのも無いと思います。
はめられただけならそう言うでしょう。
実行犯が別にいたとしても、少なくとも光秀も信長を殺すつもりで進軍して、信忠は光秀が殺害したのだと思います。
光秀と家康に連携があったようにも思えません。家康は本能寺の変で何の役にも立っていないように見えます。

ただし、「時は今…」の連歌は完全に秀吉の言いがかりだと思います。
いくら戦勝祈願とはいえ、無関係の第三者がごろごろいる連歌の会で謀反の決意表明をするわけないでしょう。参加者から謀反がバレたらお終いです。
逆に言うと、そんな言いがかりをしなければいけないほど、客観的な動機が光秀には無かったということでもあります。
実際の動機は「秀吉に騙された」こと、そして光秀は死ぬまで秀吉に騙されたことそのものに気付いていなかったとしか思えません。
つまり、本能寺の変の動機が分からないのは当たり前で、客観的にはそんな動機は存在せず、騙した秀吉と、騙された光秀の中にしか存在しないのではないでしょうか。

こういう、相手を騙して逆にそいつを謀反人として討つという手法は、清州会議の後、柴田勝家と織田信孝を討った時にも使ったと思っています。

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