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"Do what you love and love what you do,
practice until you never get it wrong."
(自らが愛する仕事に携わり、仕事にプライドを持つ
こと。 徹底的に自分のものにするために練習を積み重ねるのです)
コンラッド東京 総料理長 フレディ・シュミッド

「この世は、玄通だな。ひとつわかれば、そこに未知という回廊がいくつかあらわれる。知ろうとする者は、その回廊をすすむ。だが、回廊のえらびかたで吉凶がわかれる。ただし凶に遭えば、つぎも凶とはかぎらぬ。吉へつづく回廊もあらわれるはずだ。」
武器を手にする者には、足もとに死があるといっても過言ではない。おもわずそこに落ちれば、この世から消える。したがって常識の目で現象をみなくなる。自分を活かすのは自分しかないからである。
自分がどういう気持ちで何をしたのかは、自分がもっともよく知っている。自分を裏切ることだけはしたくない。
「風は、また変わるでしょう。心の旗をおろさぬことです。」
ゆくてに障害物があれば、力をもってそれを押し倒さなければならないのに、武力でなく財力を用いれば、障害物は消滅してしまう。この世には形も質もちがう力のあることを知った。視点を変えねば、ちがう力をみつけられないことも知った。
「隠れるということは、現れることよりも、まさることがある。」
人の才徳は、かならず天にとどく。
これからは、上を怨まず、下をあなどらず、という生きかたをするしかない。
もっとも得やすい勝ちは、相手に打たせて、それより速く、その出鼻をくじくというものです。相手に打たせるためには、引くか、誘うか、するのです。
「なぁに、智謀などというものは、一種、心の冷たさからうまれてくるのだ。万人には通じぬよ。万人に通じるのは温かい心さ」
徳とは、見えにくくわかりにくいものだが、あえていえば、「許す」と同義語になる。
「天災は、どこかの国で、かわるがわるあるものです。災害にあった国を救い、その国民をあわれみ助けるのは、人のおこなうべき道です。この道をおこなえば、福にめぐまれるのです。」
声音のなかに性質と人格とはあらわれる。
徳あればすなわち降る。しばらく務めて徳を修めて、もって時を待たんか。「春秋左氏伝」
他人をむごく扱えば、やがてその報いをおのれがうけることになります。
兵馬を動かし人を殺戮して得るものと、剣一つを敵国の君主につきつけて得るものと、どれほどの違いがあろう。
小利に満足すれば、信頼という大きなものを失いましょう。
人の上に立つものは、人より早く起き、人の先にたって動き、人の倍働かねばならぬものだ。それを人より遅く起き、人のうしろにたったまま、なににも手をよごさず、人の倍食べているだけでは、なさけないとはおもわないか。
一夫一妻というのは身分の低い者のありかたで、身分の高い者の婦人は複数である。さらにいうなら、身分の低い者のつれあいは「妻」であり、身分の高い者のそれは「婦」とよばれる。
家族というものは、ぬきさしならぬひとつの宇宙を、形成しているといってよい。
一意をもって寸陰のごとき一生をつらぬくべきである。斃れてのち已むのも、よいではないか。
礼というものは、行儀作法をもふくんではいるが、もとをただせば、宇宙の原理なのである。人ばかりでなく万物を成り立たせているのが礼である。その礼を会得するために、自分と他人とを同時のおもいやる仁義という理念が不可欠になる。
「高山に登らざれば、天の高きことを知らざるなり。」
と、荀子は述べたが、まさにそうで、学者とて実際に登山をしなければ、天のことはわからない。現今の学者が述べているのは、観念のなかの高山であり天である。いわば死学である。高い山に登らなければ天の高さはわからず、深い谷におりなければ地の厚さはわからない。
ちなみに荀子は環境を重視した人で、たとえば君子は生まれたときはほかの人となんらかわりがないが、君子になったのは、
「善く物に仮(か)ればなり。」
と、いった。物に仮るとは、環境の力を借りたということである。
君子が天下で生きてゆくには、こうでなくてはならぬというわけでも、こうあってはならぬというわけでもなく、義に比(した)しんでゆけばよいと孔子はおっしゃった。義とは、人へのおもいやりである。
人も組織も、勝者になった瞬間に、敗亡がきざすのであろうか。勝者の側に立っても驕ることをしない、
「富みて礼を好む者」
が、いかにむずかしい存在であるかがこれでもわかる。
法が人の心のなかにあるうちは争いもすくないが、はっきり目にみえるかたちで定着すれば、人は人をみずに法をみて、法にかからぬように心がけ、あるいは法の争いのまとにする。そこには人を立てるべき仁義礼信のような理念がなくなり、人が立たねば国家も立ちゆかなくなる。
文とは飾りのことである。宇宙は礼によって成り立っている。そのことがわかっている者はこの世でわずかしかいない。わかっている者だけがわかっていればよいというのであれば、教育者は不要である。教育者はそのことをなるべく多くの人にわかってもらえるように工夫をしなければならない。それゆえ、その真意を理解してもらえそうな者に語る。理解してもらえそうもない者には、べつのかたちをとる。もっともよいのは、礼を政治と融合させることである。最短の道は、支配者が礼を重んずれば、人民もそれにならう。人民は真の礼を理解することができなくても、かたちが先行するだけでも、礼に近づいたことになる。すなわち、礼を存在にとどめておかず、伝播させなければ、世に調和は生じない。それが文ということである。
「書物とは奇妙な物で、あることを教えてくれはするが、逆に忘れさせる物でもある」
書物にたよっているかぎり、知識はふえません。応用し活用することができて、はじめて知識といえます。
人とは何であるのかを知るには、礼を通すのがもっともよいのである。礼のむこうにあるものとこちらにあるものとがわかると、人の良否ばかりでなく、人がかかわる物に関する認識が育ち、おのれに豊かさが生じ、寒々しい心で神の加護を求めつづけなくてすむ。
この世で大事をなそうとする者は、切所で、、、つまり、いのちの瀬戸際で、天神地祇の祐けが要る。それがわからぬ者は、いかに栄耀栄華をきわめようと、小成をとげたにすぎぬ。神をうやまえ。その信仰の篤さが、おのれを助けることになる。
この世で威張る種をもたない人は、過去から怪しげな種をひろってくる。そんなことをしてまで、自分の卑しさをかくし、身を飾らなければならないだろうか。
なさけない。
身分の卑しさを自慢してもしかたがないが、ありのままの自分をうけいれて生きてゆけばよいではないか。
陽と陰がそろって、この世ができている。天が陽で、地が陰であり、男が陽で、女が陰であるから、そのどちらが欠けてもこの世は成り立たない。たしかに男は陽であるけれど、男と男をくらべると、またしても陽と陰にわかれる。ただし陽が強く、陰が弱いということはない。男と女についていえば、武力や腕力などおもての力は男がまさっているけれど、生きつづける力はむしろ女のほうがまさっている。それを内の力とよべば、真の力をそなえた者は、おもての力と内の力をあわせもっていなければならない。
もともと法律は、人がこの世に住みやすくなるように考えて、もうけられたものではないか。その法律がいまや人をおびやかしている。法律が悪であるとき、人はどうすればよいのか。
国家の法をこばんだ者は無法者となる。しかしながら法に非があり、法からのがれたことに正当があると感じている者はすくなくない。おのれの正当を実証したければ、逃げ匿れをつづけるのではなく、法に立ち向かわねばならず、国家に挑戦せざるをえない。
ひとりの女を愛しぬけない男が、どうして他人の信望に堪えられようか。
人は感情と行為を切りはなして生きることはできない。
もしもそれができる者がいれば、それは道術の達人か、あるいは狂人であろう。尋常の人であれば、感情を行為によって表現しようとし、行為を感情によって飾ろうとする。それが生きているということだ。
「考えてごらん。死者はなにもしない。死者をみる者は哀しいが、死者そのものは哀しくない。」
「天下に道なきときは、身をもって道に殉わしむ。」
(孟子)
他人はどうあれ、自分が正しいと信じた倫理に殉ずるほかない。それには勇気がいる。つらくてむくいられない勇気であろう。だが、孔子も孟子も、その道をつらぬいたのだ。そのふたりの聖人にくらべて、自分はなにをしたというのか。
「泣き言をいうまえに、努力せよ。」
自分を叱った。ほんとうに嘆くことは、孔子や孟子とおなじほどの努力をした者にゆるされることだ。
心にもないことをいえば、かならずおのれが破滅する。
利をとり、道をすてた者は、ほろぶ。
ものごとがうごくときは、気がうごく。むこうに害意があれば、そのものは悪臭を放つ。
「大魚を網でからめるためには、引くことだ。」
大魚は深海にいる。その大魚に気づかれぬように網をひろげるためには、自身が大魚の近くにいてはならぬのである。遠くへ引き、大きな網をつくる。
「韜晦(とうかい)とは、自他をあざむくことではありません」自分の器量や才能をかくすことは、大事にそなえるためのもっとも賢いやりかたである。徳よ力はたくわえねばならぬ。自己をはやくからあらわす者は、時のながれに磨耗させられるのがつねである。
「大業をめざす者が、もっとも恐れなければならぬのは、人ではなく、時です」世にあらわれた者は、独自の時をうしなう。いわゆる時勢に乗り、ながされる。それは自分をそこなうながれである。大業をなす者は、時を創るのである。
「徳声がきこえすぎるのも用心しなければなりません」威徳が高くなりすぎれば、他人は目障ざわりになる。
裏切るということは、ひっきょうおのれを信じきれぬということで、そんな者が大業をなせるはずがない。おのれの知恵のかぎりをつくして、害とおもわれるものをたくみに避け、利をひろい、くるくると歩きまわって、目的に近づこうとしても、たいして前進できず、かえって大道を失うであろう。むしろ知恵を捨て、これと信じた道をまっすぐにすすみ、大きく立ちはだかる害をうちやぶるためにかなりの時間や年月をつかっても、おそらくこのほうが歩みははやく、大道も失わぬであろう。
正直でありつづけることは人を鬱紆(うつう)にさまよわせる。自他を裏切るまいとすればするほど楽しまなくなる。妄をつきつづけなければ、とても心身がもたぬ、そんな気もする。
人は自分なりに考えた人の理想像というものがあり、その理想像に自分が近づこうとするかぎり、そこでみえてきた人物こそ、自分のいのちをたくしてもよいはずである。
端的にいうと、生きるということが利で、死ぬということが害である。
どのような戦いにも生死がある。戦場にある生死に手心をくわえることはできない。戦場では、ほどよく生きることも、ほどよく死ぬこともできぬ。死が厳粛であれば、生も厳粛である。戦場とは、そういうところだ。
怨みをあたえた者は相手に怨みを晴らさせるのが、礼であろう。
美名と汚名とはわずかな差しかない。
欲望にまみれた賢知は悪を生ずるのである。鋭すぎる賢知には礼をかぶせて、鈍くするのがよい。
和は礼をもって成るのであって、武によって成るものではありません。
人は大きな器量の人に会って、自分の器量を拡げてゆくのです。
「礼は、ひとつだ。ちがう礼とは、非礼または無礼のことである。」
礼とは人が集団で生きてゆくときの調和の表現である、というのは、じつはのちに生まれる孔子の思想である。が、孔子の誕生より四十年以上も前である礼の概念は、人に限定されず、あえていえば宇宙の原理である。それを明確にいったのは鄭の子産である。
苦しむことは、生きているということです。苦しみが終わるということは、死ぬということです。
君が正しい命令をだすことを義といい、臣下が君命を奉じておこなうことを信といいます。信に義を載せておこなうことが利です。謀において利をうしなわず、社稷を護ろうとするのが、民の主というものです。義に二信なく、信に二命はありません。
信は、まこと、であり、義は、すじみち、である。
人がけわしさを露骨にみせて語りあう図は醜悪なものである。
たとえ悪心をもっていても、うわべの善行をつづけ、生涯をおえれば善人なのである。
乱につけいって利をとれば、その利が刃となっておのれを刺す。
仇敵を殺せば障害が消えるというのは嘘である。そのときつかった力が、かならずおのれにはねかえってくる。
殺せば、殺されるのである。だから、人には徳をほどこすのがよい。
夢のなかで死んでも、目をさませば人は生きている。が、生きていても、その生涯が夢のごとき虚しい者もいる。
およそ有能とは、両刃の剣にたとえてよく、人を傷つけ、おのれを傷つけもするのです。それゆえ、人に仕えるには、能ではなく徳ですべきである。徳は、生まれつき、そなわっているものではない。積むものです。足もとに落ちている塵をだまってひろう。それがひとつ徳を積んだことになる。
人には強さと弱さとが同居し、両者が争うと、おのれを失う。強さが弱さをいたわり、弱さが強さをつつしませるようになれば、豁然とするときがくる。
怨恨はたしかに行動の源にはなるが、正義によらない一挙は同情者を吸収することができない。
急襲で効果が大きいのは、敵のうしろを襲うやりかたで、つぎが側面を衝くものである。
「家族だけのことを考えて生きてゆけば、おだやかでよいかもしれぬ。しかし、それだけの人生だ。他人をおもいやり、他人の心を容れて、他人のために尽くせば、自分だけではけっして遭うことのできぬ自分に遭える。どちらがほんとうの自分か、ということではなく、どちらも自分であり、あえていえば、自分と自分との間にあるすべてが自分である。」
身はひとつである。その身を一身と表現するか渾身と表現するか。ちがいは大いにある。
貴顕の位に登って恐れを知り、降格を願っているとすれば、じつはその人はふさわしい地位にいるわけで、位をさげるまでもなく、人にへりくだればよい。なんじが恐れを忘れないかぎり、わざわいには罹るまい。
けっきょく欲を絶つことが、自分を守ることになる。
「昔の君子は交際が絶えても悪口をいわず、忠臣は国を去ってもおのれの潔白さをとなえないものです。」
名将とは、敵の将兵に畏悪されると同時に尊敬される者をいう。ひとつの戦いが、今後の戦略に有利に働くようでなければならず、目にみえぬ連続性を創ることが肝要である。
戦いに有利をみたのにつぎの行動をおこせない。好機が至ったのに狐疑してしまう。悪弊や短所を除いたのにふらついている、それを止道という。孫子は止道をおこなう者は天地も興すこと能わざるなり、と述べておられる。
大言壮語はときに人の不快をあたえる。つつしむべきである。
なにかに拘泥すると、感情と理をつみかさねてゆくことになるが、それは発想の飛躍を産まず、迷走そのもののなかで自足することが多い。
考えただけではなく実行するというのが真の勇気であろう。
自分で考えて、おこなえ。
長とよばれる者は、将軍のみじかい命令に従えばよいというのではなく、その命令をおのれの言語にかえて活かす工夫をしなければならない。将軍は長くてくどう命令は属将の発想をしばり、将器の拡大をさまたげると肝に銘じたほうがよい。
状況や事態には本因というものがあり、そこまで観照眼をおろさないと、一局の現象にふりまわされて、正確な対処や予備をあやまる。
「毀そうとするのであれば、積み重ねさせればよく、倒そうとするのであれば、高々と挙げさせればよい。」
おのずとこわれ、おのずとたおれるようにしむけるのが上策である。
人は記号ではない。はやい話が、一を二分すれば、二分の一と二分の一ができる。しかしひとりの人を両断すれば、それは殺すということであり、二分の一の大きさの死骸がふたつあっても、無にひとしい。
百の道があるとする。九十九の道がとざされていて、ただひとつの道が通じているとき、それを天祐とはいわぬ。稀有な幸運にすぎぬ。天祐とは、百の道のすべてが杜絶しても、天空からおりてきた鵬につかまって、道のうえを飛行することだ。
内を修めないで外に力を発揮することはできない。
雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏みださねば、山頂は近づいてこない。
一喜一憂するような望みのありかたは、大望とはいわない。超人的なことをおこなおうとする者が、常人の感情にとどまっていては、天下をあっといわせる光跡は残せまい。
失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。
人の一生のなかには、間髪をいれず決断しなければならぬときがあり、ものごとが煮えてきた場合がそれにあたる。人はなま煮えの料理も煮えすぎた料理もまずいと感ずるものであり、人事のおける機微もそれとおなじである。
衆目にはうつらなくとも、天は視ている。人を相手にするより、天を相手にして事業をなす者が、この戦乱の世に、ひとりくらいはでてよいでしょう。
洞察するとは、その人でさえ知らぬその人自身をみぬくことである。
静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
人の価値は難局に直面したときにわかります。
人というのはふしぎな精神の働きをもっており、他人を侮蔑すると、感情の濃度が高くなりすぎて、精神の働きを鈍化させ、人としての成長をとめてしまう。
偉業をなそうとする者のもとにはかならず英才が集まる
相手の分析と見解をまず全面的にうけいれ、それらを、自分の思考と行動を立たせやすいように整理しなおし、ひとつの角度と傾斜をつくる、というのが聞き手のつとめである。
多くのことばはかえって相手を打たぬ。賢明な聞き手は、そのことばが飾りであるか、真実の重みをもっているか、すぐにききわける。
信念をつらぬこうとして、しかもその信念を虚無に墜とす宿命といってよい時の深淵をのぞきみた者でしか、声をあげて泣くことはできない。
「泣く者は、笑い、笑う者は、泣く。おなじことのようだが、どちらが先かで、人生はまったくちがうものになる。恐ろしいことだ。」
心気に強さと広さをもっていないかぎり、知識も経験も、最大限に活かせない。自立し、自在である個性とは、おのずから発揮されるものであり、他人の個性を借りて表現されるべきものではない。
この世で大業をなすには才器の巨きさのほかに幸運というものが要る。が、人は不運ゆえに、胆知を練り、知恵を育てる。幸運のつづく者が、そんなことをするか。
学問をする者は、年齢にかかわりなく、童子のような純真さをもって師に仕えなければ、教義の深奥をのぞきこむことはできない。
判断のあいまいさというのは、時がたてば腐臭を放つものであるとおもったほうがよい。心事は、よどみをもたず、ながれを必要とする。
「なぜ」
という問いが、実生活のなかから生じなければ、知恵は身につかない。苦しまない精神に知恵は無用であろう。
道は近きに在り。しかるにこれを遠きに求む。(孟子)
道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしない。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
「なんじの度を変じてはならぬ。なんじの慮を異にしてはならぬ。一心を堅守して、なんじの世を終えよ。」
(いままでのやりかたを変えず、よけいなことを考えず、まっすぐに生きぬいてもらいたい。)
不遇な男をなぐさめ、闇にかたむこうとする生活に光をともしつづけるのは、女しかいない。
こだわることが、負けることだ。
「死は、おのれの生命も、名も、人にまかせることです。」死を美化することを好まない。自分ではみごとに死んだつもりでも、他人はそうおもうとはかぎらず、むしろうぬぼれのなかで滅んだとみるかもしれない。死はとりかえしがつかない。生きるということは、とりかえしがつくことである。戦いは、進退がすべてであるといってよい。それゆえ、生きることも進退なのである。美しさがあるとすれば、進退にこそある。その進退を生死にすりかえてしまえば、人はおわりであり、あえていえば、死ぬまえに死んでいる。
無形は有形にまさる。かたちあるものはこわれる。有形に固執すれば、敗れる。
徳も知恵も積みあげてゆくものであり、少々溜まったからといって、手軽につかってはなるまい。小成は大成へのつまずきであるといわれるが、小成をつかんでうぬぼれかねない者の目は人より先を見通すが、真の知者は、先の先を見通す。が、それより先を見通す者は、先走りすぎてかえって失敗する。先の先が、絶妙なほどというものだ。古今、先の先に目をおいて、大成をつかんだ者は何人いるであろうか。現実の世で何が先の先であるのか、みきわめるのはむずかしい。が、成功とはそこにある。
目的がなければ努力をしつづけにくい。が、人が目的をうしなったときに、目的をつくるというのが、才能というものではないか。平穏無事を多数とともに満喫しているようでは、急変の際に対応できず、人の生命と財産を守りぬけず、輿望をあつめることはできない。そのためにはつねに戦時をおもい、襲ってくる困難をあらゆる角度で想定し、つぎつぎに対処してゆかねばならぬはずである。いわば人の大小、賢愚、吉凶は、平穏な日々、不遇の時のすごしかたによってさだまるといっても過言ではない。
十全のなかにいる者はどうしても努力の目標をみつけにくい。
将は自分の進退、行蔵などをいちいち理由をつけて配下に語るものではない。死活の場である戦場には予想を超えた何かがあり、わずかのあいだに出没する生死の影を観念の風景しかみえぬ者はみのがしてしまう。ことばのは魔力がある。自分の口から吐いたことばは他人を縛るばかりか、自分をも縛るようになる。いわば自分を自分で空想するようになる。真理や真相を究明しなければならぬ者は、多言をきらう。人生を戦場と考えても、それはあてはまるであろう。
親交が深まると、たがいの言が軽くなる。たがいに尊敬するとは、ほどのよい距離をとりあうことである。
人は自分が存在していることをさまざまな手段をもちいて表現する。さらに、その表現の受け手である相手の反応をみて、自分の存在を計算する。はやい話が、自分にたいして頭をさげる者が多ければ多いほど尊貴もますのである。だが、自分の存在を無に近づける者のほうが偉いということもある。すなわち人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる。
世論のも歴史にも、勢いとながれがある。それをみきわめただけでは故事を学んだことを活かしきってとはいえない。勢いとながれを自分でつくりだしてこそ、学んだことを活かしたといえるのである。ただし、それができるのは、万人にひとりか。
ほんとうに大望をもつ者は、野人にさえ頭をさげ、辞を低くする謙虚さがなくてはならぬ。
頭の高い者は、足もとがみえない。
人を教育するには、書物をあたえ暗悉させるのもひとつの方法ではあるが、旅もよい。
旅とはふしぎなことに、何故、という声を旅行者のなかに育てあげる。それによって学問の問が先行し、学がついてくるようになる。よい素質を開花に近づけてやるのも、上に立つ者のつとめである。
過ちて改めざる、これを過ちという。(孔子)
国も人もあやまちをおかすことがある。それを知りながら改正をおこなわないことこそ、あやまちである。
歴史を知ることによって、自分のむこうにある自分がみえてくる。
過去を顧眺することによって、ふしぎに未来はなんらかの像をむすぼうとする。そのことが現在に客観を産む。
戦いというものは、何敗しても、最後の一戦に勝てば、
それが勝利なのである。
人知れず耐えるのはつらい。が、耐えるということは、もとより人にみせびらかすものではなく、孤立無援のかたちにほかならない。ひとつわかることは、こころざしが高い者は、それだけ困難が多く苦悩が深いということだ。人が戦うということは、おのれと戦うということであり、勝つということは、おのれに剋つということにほかならない。
つねに自分の心身を鍛えていない者は、環境の激変にぶつかると、かえって思考が停止するか、暴走するものである。恐怖して沈黙しつづけているか、発狂したようにわめきつづけているか、どちらかであろう。
なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。わたしは聖人でも非凡人でもない。人並みの困難を選ぶだけだ。
家のなかにいては、闇は闇のままであるが、わずかに身を移すだけで、光に恵まれ、夜色の美しさにふれることができる。
人が生きてゆくということもそういうことであろう。
天は高いので、みずからおごりたかぶれば、それだけ天に近づくような錯覚があろうが、実際はそうではない。辞を低く腰を低くした者こそ、あるいは天からもっともはなれたところにいる者こそ、天の高さがわかり、天の恐ろしさも恵みもわかるだけに、天祐を受けられるのであろう。
自分の権能を悪用せず、利己を求めず、貴賎を問わず人を愛し、約束したことは一命を賭して守りぬく。
孤独をつらぬくには勇気が要る。まったく援助を得られない立場に身を置いてみて、はじめて自己と他者というものがわかる。自分で考え、自分で行動し、自分で実行する。これはど勇気を必要とすることはない。
天下の才は、天下のために使うべきであり、それが天意というものであろう。ひとりの人物が天業のために不可欠であるのなら、かならずその人物に天啓というものがある。その天啓をさまたげようとする者は、天の怒りを買い、天譴をくだされる。
勇気を持たれることです。勇気とは、人より半歩すすみでることです。人生でも戦場でも、その差が大きいのです。
男のつやというのは、つまるところ精神の肌膚であろう。
おのれを恃みすぎても、他人を頼りすぎても、失敗をする。人も国も無難に生きつづけることは、むずかしいことだ。
復讐は相手を滅ぼすと同時に自分をも滅ぼすという因果の力をもっている。怨みにこだわりつづけると、怨みそのものが魂を宿し、生き物となって、みさかいなく人を喰いはじめる。
武将というものは感情を殺すべきときに殺し、ふるまうべきときにふるまうことのできる者をいう。
勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわすからです。
「疑事は功なく、疑行は名なし」
疑いながら事をはじめれば成功せず、疑いながら事をおこなえば名誉を得られない。
世の非難を浴びる覚悟をすえていれば、かえって世の非難を顧慮する必要はない。
「大功を成す者は、衆に謀らず」さらに、
「愚者は成事に闇く、智者は未形に視る」
愚かな者はすでに完成された事でも理解をおよぼすことができないのにくらべ、智のある者は、その事が形をもたないうちに洞察してしまう。
国家の中枢にいる者は、国民とおなじ感情に染まっていては、展望ということができない。
戦場の露をおのれの涙にかえる王にこそ、人は喜んでいのちをささげるものである。
よくよく考えてみれば、この世で、自分で自分がわかっている人はほとんどおらず、自分がいったい何であるのか、わからせてくれる人にめぐりあい、その人とともに生きたいと希っているのかもしれない。
認識の的確さがややもすると物事にむかってゆく意欲を冷やしたり殺いだりする。
目くばりをするということは、実際にそこに目を止めなければならぬ。目には呪力がある。防御の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
国家も人も、滅ぶときは内から滅ぶ。
目くばりは自分にもおこなわなければならない。それが内省とというものである。人は神ではない。万能でなく、人格も完璧ではない。むしろ欠点のほうが多い。その認識から発して、徳望の高みに一歩ずつのぼってゆく努力をしなければならない。あらゆる時と場とが、自己の研鑽のためにあるようなものである。もしも自分が非命に斃れるようなことになれば、おのれへの目くばりをおこたったためであり、おのれののなかで道がおこなわれなくなったせいである。
軽蔑のなかには発見はない。
策戦を立てた者は、戦局を知ってつぎつぎに手をうってゆく立場にあるかぎり、右往左往して自分の所在をいそがしくうごかすものではない。
知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
物とことばの氾濫のなかに立たされつづけているうちに、信念の尊さを知るようになった。そうでなければ自己をうしなってしまう。その信念とはなにか、と問われれば、
「仁義」
と、こたえるしかない。自分の近いところにおよぼす愛が仁であれば、遠いところにおよぼす愛が義である。そのふたつのどちらがなくても人として成り立たない。
自分がなした仕事が卓らくとしていれば、どうしても自分を誇る気持ちが生じる。驕る者は人が小さくみえるようになる。同時に、足もとがみえなくなったことに気づかない。
真の名君は、臣下に聴き、臣下を信じ、臣下をうやまう人である。
人のうえに立つ者がおのれに熱中すれば、したにいる者は冷えるものなのである。
成功する者は、平穏なときに、危機を予想してそなえをはじめるものである。
人とはふしぎなものだ。身分とはちがうところで、人の格差がある。人がつくった身分ならこわすことも、のり越えることもできようが、天がつくったような差はいかんともしがたい。国の興亡を決めるのは、人ではなく、天だ、ということを忘れてはならぬ。
人への好悪は商人が冷静におこなわなければならぬ計算を狂わせる。その自覚が商売という戦場を生きぬくための商人にとっての甲である。
ものごとを浅く読んでも深く読んでも、肯綮にあたらぬ。ほどのよさが要る。
明快な理屈を、こどもはわかってもおとなはわからない。ほかの理屈をおとなは知っており、それにしばられているからである。
いのちにかかわるときは、おのれのままに動いたほうがよい。
独りで生きることはさびしい。自分のさびしさを視、自分のさびしさを聴いたにすぎない。そう想うそのさびしさのむこうに、人の真影がある、ということがわかる。
取ろうとする者は、まず与える。いつの世も人のやることにかわりはない。
生まれて死ぬまで、おなじでありつづける人などどこにもいない。赤子の身長のまま死の床につく老人がいないこと、そのひとつをとっても、人は変化するのである。
女は、自分の人生を賭けようとして、男をみれば、男の将来を予見することができます。女は婚家の運に染めかえられる。
ものごとというのは、
はじめにたやすいとおもわれたことほど、
あとでむずかしくなる。
徳を人に分け与えることを聖といい、
財を人に分け与えることを賢といいます。
賢をもって人の上に立って人心を得た者はおりません。
賢をもって人にへりくだって人心を得なかった者は
おりません。
弱者がいたわりあうというのは、実際は嘘であり、
強者に媚付しているにすぎない。
人のために生きるということを
わからなければならない。
おなじように生きていても、
死ぬために生きている人と、
生きるために生きている人がいる。
死んでも生きつづけるような人から、
はじめて国家と国民の大計が生まれる。
人は窮したときと栄えたときに本性をあらわす
と申しますが、まことです。
策が立つ者は、人がわかる者である。
人を無視して計算を先行させる者の策は
かならず愚劣である。
身の不善を患えるべきであるが、
人がおのれを知らないことを患えてはならぬ。
丹青はいかなる深山にあっても民が取りにゆきますし、
美珠はいかなる深淵にあっても民はそれをみつけます。
民は天とおなじ目をもっています。
丹青や美珠をみのがしましょうか。
人が正しい生きかたを本心から望むかぎり、
あるとき天意が閃く。
その一瞬をみのがさず、信じ、努力することが
天意にかなった生きかたであり、
疑った者は単なる運命論者として
敗残の辛さに堕ちてゆくしかない。
人は他人の人生をまねることはできず、
他人も自分の人生をまねられない。
この時代、この時、この所に生きている独りとは、
どういうものであるかを考え、そういう独りが、
独りでは生きられないことを想い、
この世には、上には上があることを識れば、
下には下があることがわかるようになる。
そこで志が定まる。
志のない人生は不幸を招くだけだ。
富も名誉も幻だとおもったほうがよい。
幻に付き合ってはいけない。
ことばははかないものである。
そのはかなさの上にはかなさを積みあげても、
はかなさの本質はかわらない。
ゆえに、
こわれやすいことばを守ろうとするには、
そうとうな力が要る。
人の努力の大半はそこにある。
人の強さも、そこから生ずる。
人が家族でまとまり、
一族でまとまり、
国でまとまり、
というふうに、
小さな存在が集合して大きな組織をつくり、
人それぞれが協調して
組織を動かしてゆくには原則があり、
その原則の基にあるものが礼なのである。
礼はべつなことばでいえば、
他者を尊ぶということである。
自分が生きていることは、
他者があってはじめて成り立つ。
他者といっても、人とはかぎらない。
水があり、火があり、光があり、
というように宇宙を形成しているものも、
人を生かしている。
したがって礼を知るということは、
宇宙の原則を知る、ということである。
ついでながら、
「礼に3本あり。(大戴礼記だたいらいき)」
と、いわれる。
3本とは、3つの本(もと)のことで、
1に天地、2に先祖、3に君師
(君主と先生)をいう。
1人の人間を産み、育て、教え、
人として立たせるためには、
その3者が不可欠である。

宮城谷昌光さん大好きです。


明治天皇が「日本人の常識的な心がけ」としてまとめて示され、 昭和天皇も学ばれた「教育勅語」に学ぶ十二の「たいせつ なこと」(明治神宮崇敬会)より…

一、親に感謝する
二、兄弟仲良くする
三、夫婦で協力する
四、友達を信じあう
五、みずから反省する
六、博愛の輪を広げよう
七、知徳を磨く
八、公のために働く
九、ルールに従う
十、祖国に尽くす
十一、伝統を守る
十二、手本を示す


日本人の誇りうる情緒として、
「懐かしさ」があります。
日本人の郷愁は、緊縛感とでもよべるものを
伴った濃厚な情緒です。
その懐かしさという情愛は
「四つの愛」の基本になります。
「四つの愛」とは何かと言うと、
まず「家族愛」です。
それから「郷土愛」、
それから「祖国愛」です。
この三つがしっかり固まった後で、
最後に「人類愛」です。
順番を間違えてはいけません。
家族愛の延長が郷土愛、
それら二つの延長が祖国愛だからです。
日本ではよく、
最初に人類愛を教えようとしますが、
そんなことがうまく行くはずがありません。
「地球市民」なんて世界中に誰一人いない。
そんなフィクションを教えるのは
百害あって一利なしです。
まずは家族愛をきちんと整える。
それから郷土愛。それから祖国愛です。
このうちのどれかが欠けていたら、
世界に出て行っても誰も信用してくれません。
これは日本国内に当てはめても同じことです。
青森出身の人は青森を、
沖縄出身の人は沖縄を、
愛していればいるほど、
人間として魅力的で信用も出来る。
鹿児島でも北海道でも同じです。


自分のお店のコミュです。

「Berry」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1484240

知っている方。
来て下さっている方。
是非!入っちゃあもらえませんかねぇ〜(笑)



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来てくれてありがとうございます!!!(^−^)

コメント(1)

いやぁ〜。
10000文字までですってよ!
もっともっと自分を紹介したかったのに、、、。(泣)
これからまた自分のトップの文章を入れ替えて
いくことになりそうなので、現時点の文章を
削除はもったいないので、こちらに引越しします。

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