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韓国:Mueoshideun Mureoboseyo!コミュの張明夫(福士敬章)を覚えてますか?

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 2005年4月14日、日本出張’からソウルに戻る機内で、ドン・ブレイザー元阪神及び南海監督の訃報が大きく報じられたスポーツ新聞を読んでいた。

 ブレイザーは、南海ホークスで選手ならびに、ヘッドコーチとして、後にID野球を標榜する野村克也監督を支える頭脳が評価されていた。
 しかし彼の名を一躍有名にしたのは、阪神タイガースの監督を引き受けたことが大きい。
 当時の状況を思い出してみよう。

 70年代には江夏豊、田淵幸一、遠井吾郎など、相撲部屋と揶揄されるスターたちがのさばっていたかつてのタイガース。
 78年11月、旧態依然とした体質がはびこった阪神タイガースを改革すべく、当時ブルドーザーの異名をとった電鉄本社専務兼任の実力者小津正次郎球団社長が呼び寄せたのが、「Thinking Baseball」を標榜するブレイザー監督だった。
 現在でこそ日本のプロ野球は外国人監督全盛であるが、実はこのときのブレイザー就任が、日本で初めての外国人監督の誕生なのである。

 同年タイガース一番の看板選手田淵幸一を準エースの古澤憲司とともに西武ライオンズに放出し、代わりに真弓明信、竹之内雅史、若菜嘉晴、竹田和史の4人を招き入れたときは、「世紀の大トレード」として新聞紙上を騒がせた。
 また同年のドラフトでは、「空白の一日」で有名な、1年間野球浪人をしていた江川卓を強行指名し、同時に読売ジャイアンツのエース小林繁とのトレードをコミッショナーの「強い要望」と言う形で実現させた。

 さらに翌年のドラフトで、早稲田大学から1位で岡田彰布現阪神タイガース監督を引き当てた小津社長は、続いてヤクルトの1番バッターだったヒルトンを獲得するなど、積極的な改革、補強を続け、守旧派の反発も強かったものの、球団改革は軌道に乗ったものと思われていた。

「トラキチ」にとってこの一連の動きは、2002年就任の星野仙一監督による改革以上の衝撃であった。

 さて、80年ルーキーイヤーの岡田であるが、早稲田大学時代の三塁には、前年ホームラン王の3番掛布が、ショートストップには不動の1番真弓が陣取り、1塁には4番ブリーデンがいたため、セカンドをヒルトンと競わざるを得なかった。

 全国のトラキチは、六大学から続く江川とのライバル対決も楽しみであった為、久々に入団した大物ルーキー岡田の活躍を期待したものの、一方のブレイザー監督はヤクルトで3割打った実績のあるヒルトンの先発起用に固執した。

 甲子園球場の3塁側大応援団は、ヒルトンが打席に立つと一斉に「オカダ、オカダ」と大コールを送り、岡田の起用を促した為、ヒルトンを先発起用するブレイザーは完全に悪役となってしまった。

 やがて打率1割台に低迷していたヒルトン自身の故障もあって、球団側はヒルトンを解雇することになり、代わって出場した岡田がその年の新人王をとるほど活躍、さらに監督に無断で新外国人ボウクレアを獲得した為に、ブレイザーと球団との間で軋轢が爆発、この年5月15日を持ってブレイザー監督は阪神を退団することになった。

 その翌年から2年間、ドン・ブレイザーは古巣の南海ホークスの監督を2年間引き受けることにより、日本球界復帰を果たすことにる。

 85年の吉田義男監督による阪神タイガース日本一優勝のメンバーは、実はこの時に集められたのであり、ブレイザーの「Thinking Baseball」が後に見事に開花したとも言われている。

 これらの故ブレイザー氏をしのぶ記事が満載された片隅で、もう一人の野球選手の訃報を報じる数行の記事があった。

「広島の元エース、福士敬章氏が死去」
 プロ野球巨人、広島などで活躍した元投手の福士敬章氏(54)が13日夕、和歌山県みなべ町のマージャン店で死亡しているのを友人が見つけた。田辺署によると、福士氏は店のソファで寝ていたが、起きてこないので見にいくと死亡していたという。病死とみられる。

 奇しくも彼は、南海−広島において、ブレイザーのもとでプレーもしていた。
 54歳で他界した福士敬章は、日本における球歴だけでも十分に、ドン・ブレイザーを凌駕するものがある。
 まして、巨人に在籍経験があるというだけで、引退後の保障が違う世界である。
 本来なら「裏面トップ」でもおかしくないはずであった。

 なのにいったいこの扱いの差は何なのだ。
 彼の死に原因があるのか?
 あるいは彼のその後の歩みに原因があるのか?

 さらに韓国での活躍後、彼は何をしていたのか?
 そもそも韓国でのあの驚異的な活躍はどうして可能だったのか?
 これまで心の中でずっと引っかかっていたさまざまな疑問が、この2人の訃報の扱われかたの違いをきっかけに一気に噴出した。

 機内で私の横に居合わせた、その年30歳になる韓国人社員に、「83年に、三美スーパースターズに居た、너구리(ノグリ=狸)って仇名の投手知ってるか?」と尋ねた。

 当時5〜6歳くらいだったはずの彼は、「張明夫(장명부)」を覚えていた。
 覚えていると思った。

 彼に手元の福士敬章の死亡記事を見せた。
 あんな有名な選手なのに、なぜこんなに扱いが低いのか、彼も訝しがった。

 年間30勝というプロ野球記録をはじめ、今日まで破られていない彼が達成した数々の韓国プロ野球新記録は、すべて移籍初年度に立てられたものだ。
 それほど、その前年に発足した黎明期の韓国プロ野球において、張明夫の活躍は特筆すべきものだったからだ。

 ただし福士敬章が韓国に渡ったときは、最後に在籍した広島カープで3勝しか出来なかったように、すでに野球選手としての全盛期は過ぎていた。

 今回、日韓で活躍した、福士敬章選手の軌跡を追ってみた。

 福士敬章は、69年のドラフト外で、読売ジャイアンツにドラフト外で入団した。
 当時の名前は松原明夫で、この通名を78年まで通した。
 71年から1軍で登板するも、手薄のショートを補強する為に73年に富田勝と交換で、山内新一とともに南海ホークスに移籍。
 同年野村克也監督の指導の下ローテーション投手に成長し7勝を上げて優勝に貢献し、日本シリーズにも先発するなど、主戦級に成長した。

 73年の暮れ、彼は弘前駅に降り立ち、結婚の承諾を得るため巨人時代に知り合った女性の実家を訪ねてた。
 三日滞在し、願いはかなう。
 一年後に二人は弘前で結婚式を挙げた。
 義父との男の約束を守ろうと、帰化に際しては福士姓を選んだと報じられている。

 当時中学生だった私は、この投手が「松原」姓から「福士」姓に替えた事を、「養子になった為」とマスコミ報道されていたように記憶している。
 現役のプロ野球選手が、名前(given name)を代えるのはよく聞くが、姓(family name)を代えるというのは珍しいと言うことと、「福士」と言う姓が珍しかったのでよく覚えていた。

 77年古葉竹織監督の広島カープに移籍、15勝を2度マークし79年、80年の連覇にエース級として貢献。
 78年までの松原明夫は、79年から福士明夫の名前でプレーした。
 79年の日本一当時には、有名な「江夏の21球」の直前に投げていた投手でもあった。

 82年に3勝で終わったことによりこの年限りで広島カープを退団し、翌83年韓国に渡り、張明夫の登録名で創設2年目の三美スーパースターズに入団した。

 韓国では、張明夫を呼ぶにあたり、4000万円、当時のレートで1億2千万ウォンもの大金を払い、なおかつ住宅を用意したと言われている。
 アメリカ3A経験のある、当時の韓国球界最高年棒と言われた朴哲淳(=박철순・パクチョルスン)選手の年棒が、わずか2千4百万ウォン(約800万円)であったところから、どれだけの高額であったかが推察される。
 それぐらい、張明夫に対する期待は大きかった。

 入団記者会見で張明夫は 「20勝は基本、30勝が目標だ。20勝もできなければユニホームを脱ぐ」と宣言し、関係者たちを驚かせた。
 このとき三美球団の社長と KBO (韓国野球協会)事務次長は張明夫の勝ち星について30勝は無理で、せいぜい朴哲淳の 24勝あたりだろうと予想した.

 これを聞いた張明夫は三美球団社長に対し、「もし 30勝をしたらどうするつもりか?」と尋ねた。
 三美社長は、どうせ30勝は不可能と考え、冗談まじりに 「もし30勝をしたら、 1億ウォンをボーナスで渡す」と伝えた。
 この一言が、後々まで彼の野球人生を狂わせることになっていく。

 球団社長からの約束を取り付けたことを受け、張明夫はチーム監督に対して、自分が志願するオープン戦にはすべて先発させるように訴えた。

 同時に彼は、対戦相手の打者のデータを球団に要求したところ、当時の韓国プロ野球にはそのような資料が無かった。
 そこで張明夫は、オープン戦ではすべて直球のみ投じ、相手各打者の特徴をまとめて自分だけのデータベースを作成した。
 直球だけの投球であった為、相手チーム内には、「張明夫恐るに足らず」というムードが出来上がったまま、開幕を迎えることになった。

 在籍期間は、映画「スーパースター甘四用(カムサヨン)」で脚光を浴びた、甘四用選手が在籍した82年から84年までの間とほぼ重なっていたが、張明夫こそがスーパースター不在のスーパースターズの中において、突如出現したスーパースター中のスーパースターであった。

 当時の韓国プロ野球の水準は、日本の2軍と社会人の中間程度の実力と言われていたが、日本から相次いでやってくる在日コリアン選手に対しては、年棒が高額であると言うこともありチームメート達は打ち解けようとはしなかった。

 日本から渡ってきた投手では、翌84年にやはり「1億ウォンの左腕」として騒がれた新浦 壽夫がいる。

 この頃の韓国社会は、「1億ウォン」が一つのキーワードで、「○○企業米国から1億ウォンの××を受注」とか、通産省に当たる部署が、「輸出実績1億ウォン」を記念して、中小企業に記念碑などを送ることも有った。
「김완선(キムワンソン=当時のアイドル女性歌手)、1億ウォンの契約で日本進出」などと言う見出しがやたら新聞をにぎわしていたことも覚えている。

 その新浦は読売ジャイアンツでリリーフエースとして活躍していたが、79年に江川とのトレードで小林が抜けた為、無理に先発に転向したものの、ひじを痛めて80年より離脱後中継ぎに、やがて84年に韓国名金日融(김일융)として三星ライオンズに移籍してきた。

 三星で3年間エースとして大活躍したが、最後まで日本から来た同胞を認めようとはしないチームメート達から「형(ヒョン=兄貴)」と呼ばれること無かったと、新浦は後に告白している。
 その新浦も87年に日本球界に復帰し、太洋ホエールズでローテーションピッチャーとして復活する。

 話は前後するが、日本で大活躍した経験があり、82年に発足した韓国プロ野球に、開始当初から参加して活躍した選手に白仁天(백인천)がいる。
 彼の場合には、張明夫や、金日融が経験した差別が無い。

 彼は62年に東映フライヤーズに入団し、75年太平洋クラブライオンズに移籍した年に、首位打者を獲得し、その後77年にロッテオリオンズ、81年に近鉄バファローズに移籍し、同年日本球界を引退するまで在籍した各球団で活躍を続けた。

 白仁天は、日本球界が長かったため、在日コリアンと思われているが、実は韓国出身の韓国人である。

 韓国プロ野球発足当時は、すでに全盛期を過ぎていたが、新設のMBC青龍の監督兼指名打者として、現在まで破られていない、打率.412の韓国プロ野球記録を82年に樹立して首位打者を獲得した。

 その後83年から、84年まで三美スーパースターズの監督兼選手を務め、84年に現役を引退した。
 83年に、姦通罪で逮捕されたことで、日本でも数年ぶりの話題となったことで知られてもいる。

 余談ついでに、韓国には姦通罪があることを説明しよう。
 かつて日本にあった同名の罪状は、結婚している女性と、その相手の男性だけが罪となったが、男女平等の憲法の精神に反することから、廃止された。
 韓国の姦通罪は、日本の規定に加え、結婚している男性とその相手の女性までが罪となる。

 これは、「生涯に二夫とまみえず」という儒教的規範から、やはり結果的には女性を拘束する法律として現在も残っている。

 さて83年の球史に残る張明夫の活躍である。
 今日まで、いまだかつて一人の投手がこれほど1シーズンを支配したことはなかったと言われている。

 シーズンが始まると人々は、開いた口がふさがらなかった。
「びりチーム三美の突風!」その真ん中は張明夫がいた。

 宣銅烈、崔東源の全盛期には、相手チームは彼らが出るゲームだけあきらめて次のゲームを狙えば良かったが、張明夫の場合そうは行かなかった。
 完封勝ちをした翌日もまた彼は投げた。
 順位競争の激しい8月には四日連続登板して完投勝利、2イニング押さえ、2.1イニング押さえ、完投勝利、という猟奇的な記録を立てたりもした.

 ついに100ゲーム中 60ゲームに登板し、 30勝16敗6セーブを記録したのだが、いったい何イニングを投げたのだろうか?
 最近ではは投手が 200 イニングを投げれば、大した投手と認められるのだが、彼の投球イニングはなんと 427.1/3イニングだった。まさに鉄腕だった。

 このようにむちゃくちゃな登板をした理由は、即ちお金のため、シーズン前に三美球団社長と約束した 30勝=1億という目標があったからだった。

 100ゲームに普通に出場しては 30勝などできないと考え、監督を説得して先発・リリーフ区別無く登板し、目標である 30勝を達成してしまった。

 一方で、当時三美の投手からは、当時の張明夫はチームが勝っているゲームに救援登板してわざと失点を許し、同点にしておいた後、その後全力投球をして先発投手の勝利を横取りしたりしたと言う噂も立てられた。すべては30勝いや 1億ウォンのためだと...。

 この年60試合に登板し44試合に先発、30勝16敗 6セーブ36完投と驚異的な成績で最多勝を獲得した。

 前後期制100試合の韓国リーグにおいて、実に6割の試合数に登板したことになる。
 しかも、この年の三美の成績は52勝47敗1引き分けで3位、52勝のうち、30勝6セーブに貢献したのである。
 ちなみに張明夫加入前の前年度の三美の成績は、前後期制の80試合の通算15勝65敗でダントツの最下位であった。

 ところで...。
 江川卓とトレードされ阪神にやってきた小林繁の79年の活躍を記憶されているだろうか?
 特に巨人戦での投球には鬼気迫るものがあり、そのシーズン22勝を上げそのうち8勝(0敗)を巨人戦から奪った。
 この年、巨人は江川の登板を、阪神ファンを刺激しない為にも小林の登板日から避ける形でローテーションを組まざるを得なかった。

 私は日本のプロ野球で、いまだかつて、シーズンを通してこの年の小林ほど鬼気迫る投球を行った投手を見たことが無い。
 打線が不振のときは、何とかチャンスを作ろうと左打席に立ってセーフティーバントまで試みた行為は、阪神ファンの私にとってその後新庄選手が敬遠の球をホームランしたことの次に印象に残っている。
 
 野球のレベルや状況が違うので、単純には比較できないが、張明夫はこの年のシーズンにおいて、79年の小林繁の投球をも凌駕するような投球を、韓国において行っていたのではないかと想像する。

 彼の猟奇的なシーズン記録を整理して見よう.

*シーズン最多勝-30勝 *シーズン最多選抜-44ゲーム *最多完投-36

*最多完投勝利26(5完封勝ち) *最多先発勝-28

*最多投球イニング-427 1/3 *最多バッター-1,712 *最多打数-1,559

*最多連続ゲーム完投勝利-8 *月刊最多勝-9勝(5月)

*最短期間 20勝-115日(34ゲーム) *最多イニング完封勝ち-12イニング

 すべてにおいて、今日まで破られない韓国プロ野球史に永遠に残る記録を達成した
 だからこそそれにふさわしいの報酬を要求したのだ。

 ところで、同じ1億ウォンと騒がれた鉄腕、金日融が3年間エースとして活躍したのと違い、張明夫の活躍は初年度だけだ。
 張明夫が本当にお金のためだったのなら、その後移籍した球団と、再度1億ウォンのインセンティブ契約を結んで、それに挑戦すればよかったのだが、彼はそれをしなかった。
 おそらくもう、このときの無理のせいで出来なかったのだと思う。

 とにかくこのような張明夫の大活躍で三美は好成績を収めたが、武運つたなく韓国シリーズ進出には失敗してしまう。

 さて翌シーズンの 84年もやはり、彼の肩に三美の運命がかかっていた。
 しかしこの年の彼は去年の姿ではなかった。
 理由はお金のためだったと韓国人は信じているが、果たしてどうだろうか?
 
 前年にこのようなむちゃくちゃな肉体酷使を行った選手が、果たして翌年も同じように動けるのか?
 比較できるサンプルさえ存在しない状況で、単純に金銭問題と片付けるには無理があるように思われる。

 話を戻そう。
 83年 「30勝をあげた場合には、 1億ウォンのボーナスを支給する」という三美球団社長との口約束が守られなかったことがその後の不振の最大の原因だったと韓国では報じられている。

 最初のうちは冗談で口にした言葉がいざ現実となったので、球団社長はあわてるしかなかった。
 1億ウォンのボーナスという約束は、正式文書によって作成されたオプションではなかったため、球団運営費の中から解決することができなかったとも言われている。
 しかし張明夫は執拗に報酬を要求したらしい。

 仕方なく球団社長はその金額の一部だけを支給して張明夫を懐柔しようとした。
 その金の出所は、球団社長のポケットマネーだったと言う。

 ところがこれに猜疑心を抱いた張明夫は、「韓国野球がいくら脆弱だからと言って、社長までたわごとをぬかすか!どいつもこいつもうそつきだらけだ。」と言ってあからさまに責め立てた。

 張明夫は球団と韓国野球界を責めて怠けたことと、また前年度の無理がたたったので、成績の下落を免れることができなかったとマスコミは報じた。
 しかし翌年の成績は、13勝 20敗 7セーブ防御率3.30で成績はさほど悪くなった.

 また投手コーチを兼ねた張明夫は、チーム内ライバルである임호균(イムホギュン)をロッテへトレードに出して、代わりに3人の投手を招き入れて育成を図ったが、3人あわせた勝ち星は 14勝27敗に過ぎなかった。
 結局チームは、最下位に墜落してしまった.

 その後、チームとは契約のもつれから、次第に彼の心が離れ、その翌年もひたすら張明夫の復活だけ信じていた三美は、彼の不振によりチームがむちゃくちゃになって 「1人依存」の弊害を切実にうけてしまう。
 相手チームもこのな三美の事情を知って、三美に負けることは恥と思い、全力で三美を叩き潰しにかかった。

 85年はシーズンの途中でチームは青宝に身売りされた。
 シーズンが終わると青宝はすでに廃品となってしまった張明夫の処理問題で悩むことになった。

 シーズン前合意の成績に到らなかった為、ペナルティを払うことを迫ったことや、球団から提示された大幅減額された86年度分の年棒を拒否し、その年の11月自由契約とされてしまった。
 こうして86年には仁川を去り大田のビングレーピントスのユニホームを着ることになった。

 しかしもうすでに使い物にならなくなった彼は 86年をビングレーで 1勝 18敗という最悪の成績を残した。

 これにたいしてビングレー側からは年俸全額(7千5百万ウォン)を返還するように要求したのだが、もう彼には半額も返還する能力も残されていなかった。
 4年間の間に 5億 9千万ウォンを超える大金を韓国で儲けたのだが、金遣いが荒かった為、スッカラカンになってしまっていたのである。

 その上詐欺にあい、他人の保証人までしていたため、結局家賃 20万ウォンの下宿屋を転転とする身の上にまで落ちぶれてしまっていた。

 こうなると彼の悪いイメージが広がってしまい、引退を余儀なくされたばかりか、コーチとしても彼を使おうとする球団は無くなった。
 やがてしばらく、ソウルの高等学校を訪ね回り、投手を指導しているうちに、彼の評判もやや改まり、88年インストラクターの資格で三星の投手たちを指導したのち、年俸問題を精算してロッテ投手コーチとして迎えられた。

 しかし結局 91年 5月麻薬常習服用で逮捕され、寂しく日本に帰ることになった。


 今でも人々は、三美スーパースターズと言えば 「ノグリ(너구리=狸)の張明夫」を思い浮かべる。
 バッターの内角ぎりぎりをつき、時にはビーンボールまがいの投球を行っておきながら、独特の余裕ある表情で相手を煙に巻くところから名づけられたニックネームだ。

 それほど当時彼の活躍はプロ野球にセンセーションを巻き起こしたのだ。
 彼の活躍は韓国のプロ野球をワンランクグレードアップさせてくれた。
 83年彼がおさめたシーズン 30勝はいまだに元年の朴哲淳(パクチョルスン)の 22連勝、白仁天の 4割打率とともに韓国プロ野球不滅の 3大記録として残っている。

 2004年仁川・文鶴球場において、ホームゲームで開幕戦を戦う SKワイバンスから、彼を招待してオールドファンたちの郷愁を誘おうと、彼の近況を捜索したのだったが、連絡が着かなかった。
 SKは1年余り至る所で尋ね回ったあげく、やっとのことで電話で通話することに成功した。
 91年に麻薬事件で永久除名され韓国を去った張明夫は、「私を憶えていてくれたのはありがたいが、個人的な事情で韓国に戻れる状況ではない」とだけ返事した。
 当時「張明夫さんがタクシーの運転手をしている」という未確認のうわさも流れ、人生の浮き沈みが世間の話題となった。

 張明夫と同時期に活躍した宇田東植(朱東植=チュ・ドンシク、ヘテ)と連絡がとれた。
 東京で食堂を経営する朱東植は、「韓国プロ野球草創期に選手生活を共にした者同士で今も親交は続いているが、張明夫さんとはずいぶん前に連絡が途切れた」とSK関係者に告げた。

 「日本のメディアも張明夫に関心を示しませんでした。日本で賭博したことがあったから…。かつての日本での同僚選手たちとも交友はないと聞いています。韓国でも日本でも野球友達がいなかった。一時は日本でも大スターだったけれど、私生活の問題で正当な評価を受けられなかったんです」

 彼の私生活がどうであったにしろ、ファンの記憶に残る張明夫は三美のスーパースターだった。
 映画の中でのスーパースターは甘四用(カム・サヨン)だったとしてもだ。
 張明夫の記憶はその不滅の30勝記録と共に永遠に残るだろう。

 在日韓国人として生まれ、後に日本に帰化した彼は、五つの名前を持った。
 通名の松原明夫、戸籍名の福士明夫、選手登録に使った福士敬章、そして韓国名のチャン・ミョンブ、それを日本語読みした張明夫と。
 日韓のはざまで格闘し、二つの文化を生きた人生の縮図を見るようだ。

 福士敬章は約2年前から同町内にある母親宅に同居し、1年前から近くの2卓しかないマージャン店の店長をしていた。
 数日前から徹夜でマージャンをし、13日は体調不良を訴えて店内のソファで休んでいたという。
 母親(当時73)は14日、韓国紙の取材に対し「最近よくセキをしており、心配していたが“何でもないよ”と言っていた。まさか亡くなるとは」と言葉を詰まらせた。
 福士氏には80年代末に離婚した夫人との間に3人の息子がおり、訃報を聞いて14日、母親宅に駆けつけた。

 日本に戻ってからは、野球界とは縁を切って、墓石製作などの事業を行っていたときもあったようだ。
 91年韓国球界撤退後、和歌山の雀荘で54歳の生涯を閉じるまでの13年間、福士敬章にとってどのようなときが流れたのか、私には知る術が無い。

 最後の勤務地であった、雀荘の壁には「落ち葉は秋風を恨まない」、「魂」、「無二一投」。 と書かれた紙が残されていたそうだ。

コメント(4)

 なつかしいですね。張選手はたしかヒロポンやって韓国でつかまったりもしました。人生いろいろ野球もいろいろですよ。
f岡さま<
金完宣は確かにエロかったです。
きょうびの整形エロリスト歌手と違って、醸し出す雰囲気とか呼吸一つが天然にエロいのです。
で、今の彼女を見ても、やっぱりエロいです。

百済大王さま<
あまたの僑胞選手が韓国に渡りましたが、これほど波乱万丈の選手は珍しいです。
いえ、新浦選手も相当な試練を乗り越えてますが、ひとまず成功者として問題のない老後(?)をすごせそうです。

くざえもんさま<
ほんまです。
その雀荘行って見たい気がします。

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