ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

北斗英傑録コミュの九戸氏家臣に在って・・・小軽米氏

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
虎猫大権現さんからの情報により、我が領主の小軽米(現・土佐姓)氏の事が色々と判って来ました。

小軽米と言う性、管理人さんの御話ですと遠野(旧領八戸・根城)南部家家臣に居たと言う事です。

実は九戸の乱の時に、ただ一人だけ南部側に付いたと言う事で、もしかすると八戸南部氏と関係在るのかなと、常々疑問に思ってました。
(地理的なものと九戸氏の正室が八戸南部氏から来てると言う事で・・・)

実は「小軽米」と言う地名の件。
信憑性は薄いのですが、生前の父(明治30年代生まれ)や、父と同じ位の年代の人に聴いた事が在るのですね。

それによりますと地区名としては、今の「小軽米」では無く「古軽米」だったそうなんです。
しかし、色々な関連する書物には載ってないんですよね。
(何か公儀への隠し村の説も在るんです)

ただ主要な行政機関?の馬ケン場や軽米と統合される前には独立した役場も在ったようです。

ちなみに軽米の人達に言わせると、何かで募る時も小軽米の人達は進んで足並みを揃え様としないと言われたりします。

あと軽米町と近隣の上舘地区の間には「中(仲?)軽米(なかがるまい)」と言う地区が在ります。
過去、うちの母の生前に生活保護の担当ケースワーカーさんに、この姓の人が居たそうです。
ただし出身地は、遠かったと聴きました。

あっ、そうそう九戸政実の家臣団の九戸党は各将とも「舘」を持って居たのですが、小軽米氏のみ小軽米城と言うんですよね。

以上から推察するに、九戸側に付きたかったのだけれど、旧主家の八戸・根城南部氏から、九戸氏から離反して、こちらに付く様にと密命を受けて居たと思うのです。

でなければ、絶対君主に服従の時代にしては武士の真意に反するでしょう。
おそらく小軽米氏は、どちらに付くか苦悩したと思います。

それから明治になり、廃藩置県の際に遠野南部氏に付き従って居た小軽米氏系の人達は元の領地へ帰ろうとしたのだが世間体も在り。
似たような浄法寺町に移り住んだのかも知れません。

あくまでも私的な推測・憶測であり。
真相は定かでは在りませんが・・・・。

写真は、小軽米の中心地と小軽米城址、それと、それ以前に在ったとされる舘址の「くず舘」。

全体写真から・・・。
右上の方位マーク辺りに、城址が在ります。
平山城形式で見晴らしは良いです。
ただし公園整備の為に、原型はなくなってます。
少し高い位置には、八幡様と呼ばれる小さな社が在ります。

コメント(14)

小軽米氏
お二人のやりとりで初めて知りました。
ありがとうおございます。

気になって調べてみましたが、小軽米はあまり資料がないんですね。。
収蔵されているものも殆ど自分は見つけられませんでした。

天正20年の南部氏の城破却リストに
「小軽米、 山城、 破却、 小軽米左衛門佐持分」
とあるため、少なくとも九戸政実の乱一年後ほどは小軽米氏が
城を所持していたことがわかります。
こらが、おっしゃっている信直方の小軽米氏でしょうか。

小軽米左衛門佐は誰のことかは「寛政重修諸家譜」には見当たりません。。
(やや当たり前かも。。)

南部48城破却の書状がフルで収蔵されている活字本探してます〜。
しかし、九戸は沢山城があるのですね。戸田村とかにも『南部諸城の研究(草稿)』を
見るといくつも館跡があるようで。色々教えてください^^
>>[1]

遠野南部氏に名の在る小軽米氏に付いての資料ありがとうございます。

お話からすると、九戸氏家臣に居た小軽米氏の一族ではないでしょうかね?

地元に伝わっている話として、小軽米城主の小軽米左衛門佐氏は、九戸の乱の後に蝦夷地(北海道)へ渡って、その後に子孫が元の領地へ帰って来たと言う事です。

ちなみに、あの辺は国境・県境なので、明治維新後も所割管理が岩手・八戸(青森県)と変動してます。

それから小軽米氏の事を調べていたら、色々と出てきました。

とくに興味深いのは、南部家の項目や家臣団に付いてですね。

三戸南部氏が出てくる年号と根城南部氏が根城に任に付いた年号、100年近くの差が在ります。

ホントに南部光行公には六人もの息子が居たのかな?

また謎が出来ました。

資料

武将系?辞典
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/

南部家家臣団
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/morioka.html

城郭放浪記
http://www.hb.pei.jp/shiro/

小助官兵衛の部屋
http://koskan.nobody.jp/sengokusi_mutsu.html
>>[2]

どうも、初めまして。

さて、九戸の乱時の小軽米城主は「小軽米左衛門佐・久俊」で合ってます。

ただ、南部側に付いたとは言われてますが、それも定かではないみたいですね。

色々な説が在りまして、九戸の乱の時に蝦夷へ派遣されていたとか、
篭城戦に遅れてしまい孤立してしまったとか、
九戸の乱後に城を破棄されて渡蝦夷したとか・・・そんな感じですね。

あと10数年ほど早ければ、小軽米氏の子孫と言う方にお話を聞けたと思いますが・・・。

故人となられた今、その御氏族に問い合わせるしか無いのかなと思います。

それから城や舘が多いのは、蝦夷の頃からの物も在るかも知れませんね。
明けましておめでとうございます。
ずいぶんと御無沙汰しております。

さて、かのGoogle Earthが、我が出身地区に入ってくれたので、詳しい位置関係を御伝え出来そうです.。

まずは、近年になって城跡とされる場所と、古来から伝えられていた場所。
そして、旧・小軽米中学校の裏地からの正規の侵入口(中央部分の電柱)の画像です。

先の写真の補足です。

向かって左の写真が旧来から言われていた城跡(右の小さな屋根の在る一帯)とされる場所。

真ん中が、新しく城跡とされる場所。
(元は、農地で畑が広がっていました。個人の土地なので、城跡だったとは思えません)

一番右が、元々城跡へ続いていた道の入り口です。
(真ん中に1本だけ配置の違う電柱が在りますが、そこから登って行きます。結構、急な上に道幅も狭いです)
母方の父(私から見て爺さん)は 九戸一(はじめ)ですが
 津軽に幼く養子に来ていますので 今は 九戸を名乗っていません 自分の歴史を知りたくて 九戸政実の歴史を ネットで閲覧しています 未だ 解からない事が 沢山あります 特に 九戸政実から 爺さんの 九戸一 までの どんな経緯で 繋がって来たのかが 空欄です 何方かご存知でしたら ご教示下さい
  px4r1202a3@gray.plala.or.jp  asari です
スミマセン、かなり昔の掲示板ですが、家の先祖の名前が戸田なのですが、本籍高知県の仁井田になります。家紋が分家の丸に剣花菱 明治初期に亡くなられた先祖の名前に源兵衛がおります。先祖代々のお墓は江戸時代辺りにあったのか一人一基のお墓で、行基建立万福寺、江戸時代初期には移動になったのでかなり古くから有りました。隣には、海津見神社、河野氏の玉澄が関係してます。この辺りを支配してましたのは佐竹氏、そして藩士には南部氏も有りました。戸田氏はいくつも有りますが、ある時戸田氏の家臣であったような和田氏の子孫が居まして、同じ花菱を家中で使われていたようです。先祖を辿ると、たまたま、越後の小笠原家の系図に、戸田忠秀子源七郎源兵衛となる方を見かけまして、戸田は地名から来ていることが多くこの九戸村の戸田村を見つけました、この高知には、越智氏と関係があり、昔から関係があったのです。そして、この高知の菱家紋は源義光流との事で、義光は新羅で、百済との戦いで勝ち、勝った新羅の唐は新潟県から北陸に行き来していたらしいのです。代々、河野氏や戸田氏は水田や農作に関係して来ました、軍では戸田氏は水軍を、仁井田は新田に関わりが深くあり、又行基は天智天皇になった時、百人一首で、秋の田のから始まる句を。又秋田県の仁井田はやはり佐竹氏が支配してまして、関係する場所の神社には、同じ祭神の天照、イザナミ 、イザナギ、海の神、山の神、馬頭観音等、万福寺や海津見神社と同じです。例としては八幡平神社が同じ祭神になります。話は長くなりましたが、義光流や九戸氏は小笠原氏との説等から、戸田忠秀なる人物は家の先祖と関係がある気がしまして。もっと言えば。先祖であってほしいのですが、そこには穴沢氏が乗せられてました。何かご存知であればコメント頂けたらと
>>[9]
初めまして。
実は九戸氏、一族や家臣は生き延びた人達も居るようです。
ちなみに、九戸と言うのは本来、通り名らしいんですよ。
ですから何らかの理由で、本姓を隠していたんじゃないでしょうか?

それと津軽氏ですが、最近知ったのですけど。
父親の石川氏と南部 晴政(なんぶ はるまさ)との間に領地や領民の事で、対立みたいな関係になり。
そのまま、石川氏が亡くなってしまったので、久慈氏の元に行っていた大浦為信公が後を継いだ時、すでに領民自体は南部氏から離反する意向を決めていたと言う事です。
また、久慈氏の元に居た頃は、九戸氏が色々と面倒や優遇措置をしたようです。
それも在ってか、九戸の乱後は九戸氏の元に居た者達を向い入れたとの話も在ります。
御爺さんの、九戸一さん、何かその辺とも関わりが在るのかも知れませんね。 
>>[6] 僕も後三戸南部氏には疑問が在ります。 例の赤沼備中の三戸城放火の件も、仕組まれたんじゃないかと思います。 と言うのも、今住んでいる大阪市の区に、北畠顕家公と南部師行公を祭っている神社が在りまして。 それで調べるうちに、三戸も師行公が管理していたみたいなんですよね。 で、師行公が没後に、何処からか台頭してきた後三戸南部氏にしてみれば、三戸城を本拠地とするには師行公関連の書物は邪魔な訳で。 それで策を巡らせて放火に見せかけて焼失させたのでは? あと南部晴政・信直公時代に、色々と書き換えられたと思いますね。
それから、小軽米氏ですが・・・。 野辺地城代を勤めた後、江刺家姓を名乗ってますね。 そう言えば、故・土佐氏は婿入りか何かで名前が変ったとか聞きました。
武将系譜辞典・南部家家臣団概略より。

・奥州南部家官途
遠江守 波木井師行−八戸政長−南部政行−八戸長安−三戸行政
左近将監 八戸政長?−波木井信政−八戸長経−八戸長安
薩摩守 八戸信光−八戸政光−八戸光経−八戸治義

・南部利直時代(1624年頃)
100000石 南部利直
13000石 八戸直政(左近)
3000石 小軽米直久(江刺家直成)


武将系譜辞典・南部家人名録より。

・波木井長継====1352実継子実長孫南部光行曾孫加賀美遠光玄孫逸見清光耳孫梅平次四郎南部右馬入道法達?元徳延元頃貞継長継子彦四郎
師行====1338貞継嗣南部時長弟東政行子南部時実子?又次郎東次郎四郎南部八郎宗継?遠江三戸城主仕北畠顕家
信政====1357師行嗣八戸政長子三郎行直?南部左近蔵人大膳?三戸城主仕北畠顕信

・三戸守行====1437南部政行子行長孫時長曾孫東政行玄孫南部時実耳孫八戸長安嗣?六郎太郎左馬大膳陸奥祖山禅高入道
  行政====1440守行子南部庄司大膳遠江義政旭山東公
  政盛====1445守行子南部彦次郎大膳
  時政====1473政盛子九戸光政嗣南部彦次郎希山布山夷公
  通継====1483時政子南部彦次郎道継一峰天公大公
  信実時政子

  助政====1448守行子南部与次郎陽山景公
  信時14421501助政子時政子?通継嗣南部左衛門信実?修理勝山慶公景公
  信義14621503信時子南部修理梅仙梅山芳公
  政康14611507信時子南部彦四郎右馬傑山昌公
  安信14931508政康子南部右馬悦山晩山怡公
  晴政15171563安信子南部彦三郎安政大膳耀山熈公
  晴継====1565晴政子南部鶴千代彦三郎芳梢花公

・九戸元実連元子武連孫連実曾孫行連玄孫南部光行耳孫二階堂流?彦左衛門玉山心公
  政康元実子小笠原氏?仕結城親朝
  光康政康子元実嗣小笠原寛光?兵部江珊良公
  光政14401462光康嗣三戸政盛子助政嗣南部彦三郎修理之政?梁山棟公
  之政光政子信実子?
  連康光政子小笠原寛光?筑後康連葉山紅公
  信実連康子小笠原安実?修理入道円心道一宮野城主
  信仲15141568信実子之政子?小笠原安実子?五郎康仲右京紅雲忠公
  政実15361591信仲子信実子?小笠原左近修理
  政信政実子亀千代市左衛門?堀野三右衛門
  実親15421591信仲子彦九郎実紀
  政常信仲子伊保内正常正住?

・小軽米之俊九戸流左衛門
久俊古左衛門武田一寄斎
直連久俊子左衛門野辺地城代
直久直連子久俊子?江刺家瀬兵衛直成仕南部利直
高久直久子庄作江刺家茂兵衛
久正久俊子藤蔵
久幸久俊子江刺家彦四郎
嘉兵衛直連子
源太左衛門嘉兵衛子

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

北斗英傑録 更新情報

北斗英傑録のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。