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SGIコミュの随筆 人間世紀の光 〜海外在住の方のために〜

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青春の思い出  −山本伸一−

大仏法を奉じた青年は世界一の富める者なり


 これは、妻と懇談をしながら、友人たちに語った記憶である。
 −終戦より二年、十九歳の年のことであった。
 「日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども仏法を以って論ずれば一閻浮提第一の富める者なり」(御書九八八?)の御文を拝して、貧しき私は、大聖人門下として、この大仏法を奉じたゆえに「世界一の富める者なり」と確信し、あまりにも嬉しき感動を覚えたものだ。
 これまでも、幾たびとなく語ってきたが、戦争中、四人の兄は、全員、中国などの戦線に送られた。長男は喜一。次男は増雄。三男は開造。四男は清信である。
 軍国主義の真っ盛りの時代であった。
 私は肺病であり、やせ細って、栄養を十分にとることもできない、暗い青春であった。
 老いたる母は、「早く戦争が終わるといいね。戦争なんて本当に嫌だね」と、小さい体を震わせながら、よく言い放っていた。今でも、その時の母の悔しそうな叫びが、私の全身から離れない。
 父親も、働き盛りの四人の我が子を、国家の命令で戦線へ送り出され、無言のまま悔しさを堪えていた。
 父はリウマチという病気と闘って、人生の最終章をば、苦しみと悲しみと無念の思いで送っていた。その可哀想な姿も、今もって私の胸から離れない。
 終戦の年の昭和二十年には、まあまあ立派であった蒲田の糀谷二丁目(現在の大田区内)の我が家も、空襲による類焼を防ぐために、取り壊され、強制疎開させられることになった。
 その通知を受けて、両親とも、無言ではあるが、最大の抵抗の気持ちであったことが、私にも痛いほど伝わってきた。
 壊されていく我が家を、父と母は、じっと涙をこらえながら、見つめていた。この姿も、私の脳裏から一生涯、絶対に離れない。
 ともあれ、両親の弱り切った姿を胸に秘めながら、この仇は、いつの日か、断じて討ってみせると、青春時代に私は固く決意した。
 我が家は、馬込の叔母を頼って移り住んだ。当時の馬込は、のどかな、非常に静かな地域であった。
 特別に、母屋につなげて一軒家を造らせてもらった。
 しかし、やっと叔母の家に、たどり着くように引っ越して、明日からは皆で暮らせるという五月二十四日の夜のことである。
 突然の大空襲で、運悪く焼夷弾が直撃し、完成したばかりの家は全焼してしまった。
 私たち家族は、裏山にある防空壕に逃げていた。
 その際、病弱な私は、弟と力を合わせ、火の中から無我夢中で、我が家の大切な書類の入っている鞄と、大きな長持ちを運び出した。
 父が「ありがとう。ありがとう」と言っていたのが、今でも耳朶から消えない。
 朝になって、その長持ちを開けると、入っていたのは、妹の雛人形であった。それだけが、財産として残った。
 我が家も、一家そろって、ともどもに幸福に暮らしていくべき人生を、暗黒の国家権力のために無惨に蹂躙され、一家離散と同じような状態にされてしまった。
 四人の兄は撰智慧駆り出され、長男は戦死した。今は、ほかの兄も、皆、亡くなっている。
 国家の命令で強制疎開させられ、愛する我が家を壊された時の父母の悲しそうな涙。
 やっと移転先に造った我が家も、焼夷弾で全焼・・・・。
 これが私の青春時代であった。
           
                   ◇

 私はこの時より、権力者を軽蔑するようになってしまった。政治家は信用できないと思い込んでしまった。
 庶民ほど尊い、黄金の魂をもった人間はいないと思い始めた。権力者たちは暗く濁った魂であると、感じてしまったのである。
 そして、いつも権力者や政治家に利用されている貧しき庶民、多くの正直にして賢明なる庶民の味方になっていくことを心に決めた。
 十九歳の夏 − 昭和二十二年、大田区の糀谷で開かれた座談会で、私の一生の師である戸田城聖先生とお会いして、私の青春の決意は、いやまして固まっていった。
 私の考えは、すべて正しかったことが、確認されたからである。
 貧しき無名の一青年は、憤然として、決意も固く立ち上がったのだ。

                   ◇

 私が入信した時、真言宗の深い信心家であった、厳格にして寡黙な父は、猛烈に反対した。
 「どうして、うちの宗教を継いでくれないのか」と怒鳴っていた。
 母は、この親子喧嘩が、どのように展開していくのか、悲しそうに状況を案じていたようだ。いな、可哀想なぐらい真剣に見つめていた。
 母は、父を大切にしていた。そして、子どもも大切にしていた。
 それだけに、夫に賛成していいのか、子どもに賛成していいのか、悩んでいた。
 今でも、その白いかっぼう着の、いじらしい働き者の母の姿が、目から離れない。
 その時の悩み苦しんでいた母の日々を思うと、私の胸は痛む。
 母は、私に、ただ一言、父に加勢するような格好で、「家にある代々の宗教を大切にすることが大事じゃないの」と、声を静かに言った。
 そして反対に、母は、父に向かっては、困り抜いた姿で言っていた。
 「立派な戸田先生のもとで、勉強している大作の方が、正しい宗教かもしれないね」と。

                   ◇

 「開目抄」には、「仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ」(同二二三?)と説かれている。
 今世だけの親孝行では、断じてない。
 生死を超え、三世永遠にわたって、父母を「常楽我浄」の香風に包むことができる。これが妙法である。
 日蓮大聖人は、熱原の法難のなか、勇敢に信仰を貫いていた若き南条時光に仰せである。
 「貴辺は日本国・第一の孝養の人なり・梵天・帝釈をり下りて左右の羽となり・四方の地神は足をいただいて父母とあをぎ給うらん」(同一五六四?)
 どうか、わが青年部の皆さんもまた、両親が信心をしている、していないにかかわらず、諸天善神からも喝采されゆく最極の「親孝行の道」を、誇り高く歩んでいただきたい。

                   ◇

 今年は、戦後六十年 − 。
 昭和二十年の七月三日、軍部政府の権力の弾圧を勝ち超えて、師・戸田先生は出獄された。
 敗戦の焼け野原に踏み出された「広宣流布」の一歩は、今や、壮大な平和と文化と教育の大道となって広がった。
 世界平和をリードする科学者の集い「パクウォッシュ会議」のスワミナサン会長も、語ってくださっている。
 「戸田城聖氏は核兵器の使用と戦いました。池田博士は、核の危機なき世界を目指す人類の先頭に立ってこられました。百九十カ国・地域の一千二百万を超える創価学会のメンバーは、平和が広がり、飢餓が消え、精神の寿命を価値あるものにする、人類史上の新たな時代の指導者です」と。
 私は、この立派な科学者の言葉に感動した。
 私の人生には、何も後悔することはない。
 すべての日々が、すべての戦いが、すべての激戦が、みな、悔いなき前進であったからである。

                   ◇

 「よき広宣流布の闘士として、末代まで、自己の名を歴史に残していただきたい」
 これは、五十年前(昭和三十年)、降りしきる雨のなか、「一万人の大結集」の壮挙を成し遂げた私たち青年部に、戸田先生が語ってくださった指導である。
 そして、五十年後の今、悪戦苦闘を突き抜けて、堂々たる、晴れ晴れしき干渉の歴史を刻んだ若き弟子たちよ!
 私もまた、未来を託す青年諸君に贈りたい。
 「君よ、一生涯、広宣流布の闘士たれ!」と。  

コメント(15)

青年よ言論の闘士たれ   ――山本 伸一――

――正義の師子吼で創価は勝ちたり    デマは社会の猛毒!断じて許すな――


 文豪・魯迅は、誹謗中傷の嵐のなか、毅然として、正義の言論戦を宣言した。
 「私はやはり真実を語りたい。そのためには他人の『デマ』を抹殺する外はないのだ」
 デマを打ち砕け!そこにこそ、真実の太陽が輝くことを、彼は知悉していた。
 デマは、人びとを愚弄し、扇動する“凶器”だ。それが政治の権力と結びついて喧伝された時、どれほど人びとを傷つけ、暗黒の災厄を社会にもたらすことか。
 半世紀前のアメリカでも、そんな悲劇が起こった。
 “赤狩り”――マッカーシズムの凶暴な嵐である。
 第二次世界大戦後、米ソ両陣営の分断と対立は深刻化していた。一九四九年、ソ連の原爆保有が明らかになると、米国内には、共産主義者への排他的な風潮が強まり、不安と敵意が渦巻いていた。
 そこへ、デマの猛毒を投げ込んだのが、上院議員ジョゼフ・マッカーシーであった。

                   ◇

 発端は一九五〇年の二月、彼が行った演説だった。
 ――自分は今、国務省内部にいる二百五人の共産党員の名簿を持っている、云々。
 ところが、それは、とんでもないデマだったのだ。
 取り立てて実績もないマッカーシーは、次の選挙までに自分の名前を世間に売り込む手段として、この問題で騒ぎ始めたのである。
 思惑通り、彼の発言が上院で審議されることになると、さも多数の秘密資料を持っているかのように、鞄一杯の書類を抱えて議場に現れた。
 マッカーシーは、国務省にいる共産主義者の事例なるものを長々と説明したが、どれもこれも確証のないデタラメであった。何しろ一度も国務省で働いたことがない人物まで含まれていたのだ。
 彼が言う数字そのものが、くるくる変わった。最初二百五人とされた人数は、翌日は五十七人になり、上院で審議した時は八十一人となっていた。矛盾を指摘されると、「愚劣な数字論議はやめようではないか」と開き直った。
 一つ一つ検証されれば、全部、嘘だとばれる。だからマッカーシーは、わざと情報を曖昧にしながら、厚顔無恥な強弁を続け、“政府内に危険分子がはびこっている”というイメージだけは、強く印象づけていったのである。
 マスコミは、そのデマを厳しく検証することなく、垂れ流してしまった。人びとも、“まさか、上院議員が全くの虚偽は言わないだろう”と、呑気に構えていた。
 それが、結果的に、いかがわしいデマを粉砕することなく、かえって“市民権”を与えてしまったのである。
 マッカーシーはその後も、議会に設けた委員会を根城にして、無実の人に危険分子の疑惑を投げつけて、次々に新たな攻撃対象をでっち上げ、影響力を強めていった。
 著名なジャーナリストのロービアは、マッカーシーの嘘をこう喝破した。
 「多重虚偽」――。

                   ◇

 その災禍は甚大だった。
 やがて政府、教育、学術機関、さらには、ハリウッドまでも、デマに煽られて迫害の嵐が吹き荒れた。
 事実無根のデマによって、人権を踏みにじられ、職を終われ、人生を狂わされた犠牲者が続出したのである。
 この“赤狩り”が猛威をふるった時期には、全政府機関で、職員が“危険人物”かどうか素性調査が行われ、七、八千人もの人が公職を追われたのである。この時流を巧みに利用し、卑劣なデマで社会を大混乱させ続けたのが、マッカーシーであった。
 当時の大統領の一人だったアイゼンハワーは後年、その悲劇を回想して言った。
 「マッカーシズムは多くの個人と米国に損害を与えた。議会特権のカベにかくれてあたりかまわず振りかかってくる攻撃の前に一人として安全ではなかった」
 世界平和のために、ソ連の学者とも協力を訴えていたポーリング博士も、攻撃の標的になった。しかし、博士は、屈しなかった。
 「私は、おそらく頑固だったのでしょうが、マッカーシーやアメリカの反共主義者にやりこめられて沈黙することを拒絶しました」
 私に語ってくださった言葉である。博士は、不撓不屈の人間主義者であった。
 「決して危難と苦悩とが、すぐれた魂の人々を立往生させたことはない。逆に、危難と苦悩とが、すぐれた魂たちをつくり出す」――まさに文豪ロマン・ロランが洞察した通りである。
 ともあれ、苦難と戦う勇気をもつことだ。フランスの女性作家スタール夫人が語ったごとく、「苦悩は幸福になる能力の、一つの必要な要素である」からだ。

                   ◇

 嘘を何百万と言い並べようとも、嘘は嘘である。
 「糞を集めて栴檀(=香料)となせども焼く時は但糞の香なり」(御書三一一?)と仰せの通りだ。
 議会、国家を牛耳っているかのように傍若無人に振る舞う、マッカーシーの所業に対し、上院は、遂に大多数で非難決議案を可決する。
 一九五四年の十二月のことである。つまりマッカーシーのデマは、実に五年近くにわたって多くの人びとを翻弄し、苦しめたのである。
 ゆえに、絶対にデマを放置してはならないのだ! 
 その後も、マッカーシーは議員を辞職しなかったが、もう誰も相手にしなくなった。
 彼が演説しようとすると、皆、議場から去っていった。
 デマを操り、人びとを混乱と恐怖に陥れた男の末路は、ボロボロの体で、酒に溺れる哀れな姿であった。
 虚偽の謀略がどれほど威勢を誇ろうとも、必ず無惨に滅びゆくのだ。

                   ◇

 中傷記事で、私と学会を陥れようとした「月刊ペン事件」も、真っ赤な嘘で塗り固められたものであった。
 学会の隆盛に嫉妬の炎を燃やし、邪な意図をもって画策されたデマであった。
 厳正な裁判の結果、当時の名誉毀損罪では最高額の罰金刑が下っている。
 悪党どもは、まともな言論戦では勝ち目がない。だから、ありもしない社会的事件を捏造し、それを足掛かりに正義を攻撃する。事実無根であっても、デマが騒ぎになったこと自体を「事件」と称して、また騒ぐのだ。
 御書には、迫害の原因について「讒言」「讒訴」「讒奏」等と、幾度となく名言されている。「讒」とは「悪し様に中傷して人を陥れる」という意味である。
 大聖人の御生涯も、また、いわれなき中傷・デマとの戦いであられた。
 大聖人を「犯僧」(破戒僧)呼ばわりしたデマなどが巷に流され、悪用されていったのである。
 大聖人は、自身への誹謗に対し、「事を権門に寄せて日蓮ををどさんより但正しき文を出だせ」(同一二五九?)と反撃された。
 権威を借りて脅すよりも、肝心の証拠を出せ!見よ、何一つ出せないだろう!
 火を吐くような師子王の叫びであられる。
 「熱原の法難」の折にも、悪質なデマが使われた。
 日興上人による弘教に恐れをいだいた邪僧・行智らは、幕府要人と結託し、「苅田狼藉(稲の略奪)」の罪を捏造した。これが、無実の農民信徒を連行する大迫害につながったのだ。
 大聖人は、「苅田狼藉」は「跡形も無き虚誕(=嘘)」と見破られていた。“行智が自らの悪行を隠そうとして種々の計略をめぐらし、何の根拠もない嘘で陥れようと謀ったものである”と、謀略の本質を喝破され、行智の悪行の数々を暴き出された(滝泉寺申状)。
 ともあれ、「人間も意気地なしと思われると、悪党どもから勝手なまねをされる」とは、フランスの劇作家ポーマルシェの言葉である。
 ゆえに、邪悪には、容赦なく責め抜くことが正しいのだ。
 魯迅は、「デマをとばしたやつの化けの皮をひんむいてやる」と憤怒した。
 嘘を「嘘だ」と言い切れ。人間の軽賤するデマは、鋭き言論で叩き切れ!
 正義と真実で戦うのだ。
 勇敢なる師子吼のなかに、大聖人の仏法の血脈がある。そしてここに、悪を見て見ぬふりをする精神風土を根底から変革する、最も着実にして正しき道があるのだ!
 詩人シラーは叫んだ。
 「勝利はわれわれのものであります。わたしは諸君の眼前にすでに勝利への道を拓きました」
 私も勝った。一切のデマを打ち破り、荘厳なる師弟勝利の旗を打ち立てた。
 青年よ、後継の君たちよ!
 君の言論の勝利なくして、真の師子吼はない。青年らしく、勇敢に叫びぬけ! 
 「立正安国」の理想に燃えた君たちの敢闘で、精神革命の世紀を開くのだ! 
 大歴史家トインビー博士は、こう断言された。
 「現代社会の病根を治すには、人間の心の内面からの精神革命による以外にない」
勇敢なる信仰   ――山本 伸一――

――異体同心の信行に人間革命の道――
――広宣流布の正義の大城を守り抜け!  我らは永遠に「鉄の団結」で勝利――


 古代ローマの詩人のホラティウスは歌った。
 「非常の時には勇猛で果敢な所を見せるがいい。しかし、同時に賢明に順風によって膨らんだ帆は引き締めるべきだろう」
 その通りだ。
 「勝って兜の緒を締めよ」である。

 わが創価学会が、大波に荒波を重ねるような、ありとあらゆる大難の怒涛を、悠然と乗り越え、断固と勝ち越えてきたのは、なぜか。
 さまざまな次元で論じられると思うけれども、今一度、確認しておきたいことは、いかなる法戦にも、いかなる広宣流布の闘争にも、わが学会は、いつもいつも「異体同心」で、厳然と戦い抜いてきたからだ。
 御聖訓通りに「異体同心」であったから、すべてに勝ち誇ってきたのだ。
 いかに陰険で卑劣な大迫害にも、わが広宣城は微動だにもせず、壊されなかった。
 人生の戦いの真髄である「異体同心」であったからこそ、わが偉大なる学会は、一年ごとに、世界に隆々たる輝きを増しながら、正義の大城とそびえ立ったのだ。
 日蓮大聖人は、日興上人を中心として熱原方面で弘教が拡大し、次第に迫害の嵐が近づくなかで、重要な御指南をされた。後世永遠に弟子一同が拝すべき、勝利の方程式であった。
 「異体同心なれば万事成し同体異心なれば諸事叶う事なし」(御書一四六三?)と。
 私たちは知っている。
 それは、「異体同心」で妙法を唱え、心を合わせて広宣流布に進んでいくところに、一切の法戦を勝ち抜くことができるのだと。
 私の師である戸田先生の講義では、この御文に入ると、厳しく鋭く、「異体同心の心」とは「信行の心」であると、私たちの胸を射る如く、繰り返し指導してくださった。
 ちっぽけな、そして卑しい、我慢偏執の心を打ち破れ!
 そして広宣流布への大願に立った「信行の心」を一致させていくことが、成仏の根本であり、勝利の根本であると結論なされた。
 そこにこそ、人間にとって最も強く、人生にとって最も清浄な「常勝の団結」が生まれるのだ。
 そして「自他ともの成仏」の血脈が滔々と流れ通うのであると、御聖訓に明確に説かれている。
 ともあれ、異体同心の信心とは、結論して言うならば、自己の境涯の拡大につながり、「人間革命」の根幹なのである。
 「異体同心」、すなわち「信心の団結」を破り、自分勝手な行動をする者は、御聖訓に照らして、仏法の方程式から外れた人間であり、絶対に幸福もなければ、勝利もない。
 いな、堕地獄が待っているに違いない。

                   ◇

 大聖人は、異体同心の麗しき正義の連帯を広げてゆく戦いのなかに、必ずや広布の実現があることを断言なされておられる。
 「若し然らば広宣流布の大願叶うべき者か」(同一三三七?)
 この世に創価学会が出現して七十五周年――妙法を唱える地涌の菩薩の連帯は、今や世界百九十カ国・地域へと、壮大に広がった。
 この実証は、偶然などでは絶対にない。
 創価の師弟が、蓮祖の仰せ通りに「異体同心の信心」で戦い抜いたから、未曾有の広宣流布ができたのである。
 仏法史上、どれほど学会が意義深き存在か!
 学会は、仏意仏勅の「人類救済の組織」である。恩師が「戸田の命よりも大事な学会の組織」と言われた意義が、よくわかるであろう。
 ゆえに、この偉大な人間の結合をば、断じて守り抜いていかなければならない。
 御聖訓には、「日蓮が弟子の中に異体同心の者之有れば例ぜば城者として城を破るが如し」(御書一三三七?)と仰せである。
 それは、師子身中の虫である。敵なのだ!敵を見抜いて戦い、追放することだ!
 戸田先生は言われた。
 「敵は内部だ!」
 信心の世界で自己の栄達のみをもくろみ、卑劣な行為をしていく者をば、断じて許すな!和合僧から追放せよ!
 これは、私の遺言だ――言われた。
 さらに重ねて、戸田先生は鋭く厳しく叫ばれた。
 「広宣流布を忘れた『異心』の奴らを絶対に許すな!」
 それは、広布の深い使命をもった純真な同志たちの「信行の心」を惑わせ、苦しめること自体、「仏に成る血脈」(同?)をかき乱す、破和合僧の大悪行であるからだ。
 「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食」(同九五七?)と喝破された通りである。
 学会は師子王である。
 あまりにも学会が偉大であるがゆえに、これまでも、要領よく泳いで寄生した輩や、学会の大恩を忘れて反逆していった愚劣な元大幹部、元政治家等々が出たことは、皆様方がご存じの通りだ。
 学会を利用し、役職や立場を利用し、下劣な私利私欲を貪るような魂胆の連中に、清浄な和合僧を汚させては絶対にならない。
 「忘恩の師子身中の虫は、叩き出せ!」とは、戸田先生の厳命であった。
 学会は永遠に、正義の和合僧として勝つのだ。

                   ◇

法華経には、「如我等無異(我が如く等しくして異なること無からしめん)」云々とある。仏(師匠)が衆生(弟子)を自分と等しき大境涯に高めることが仏の願いである。この心に応えて、弟子たちが立ち上がるドラマが展開されていくのである。
 師と弟子が不二になる――「師弟不二」こそ、法華経の精神を具現した尊き姿だ。
 そして、異体同心の究極もまた、「師弟不二」であるのだ。
 これまでも、何度も語ってきたが、戸田先生の事業が窮地に陥った時、私は、人間の暗い業ともいうべき忘恩の姿を、嫌というほど眼前に見た。
 昨日まで、殊勝げに「戸田先生、戸田先生」と言っていた人間が、罵声を浴びせて去っていった。
 そこにあるのは、我が身のかわいさの保身であり、師弟の世界は微塵もなかった。
 卑怯な心、卑劣な生命が、毒を撒き散らしながら、残っているだけであった。
 だが、私は、退転者が出れば出るほど、学会の非難中傷する者が多ければ多いほど、深い使命と深い決意と崇高なる信心の炎を光り輝かせ、強く燃やし始めた。
 周囲がどうであれ、御本尊の前で決意していた。
 ――私は一人、人生の師をお守りするのだ!
 いかなる苦難があろうとも、いかなる法難があろうとも、いかなる障魔があろうとも、私が戦い抜いて、師をお守りするのだ!
 これが、美しくも強い不二の師弟であった。
 私たち師弟は勝った。あの悪戦苦闘の怒涛を突き抜け、戸田先生と私は、新しき太陽が燦々と輝く、勝利の朝を迎えることができたのだ。
 戸田先生が、私たち青年に読むようにと言われた、ビクトル・ユゴーの『九十三年』の一節に、こうある。
 「わたしの考えは、いつも前進するということです」
 「つねに、夜明けのほうを、開花のほうを、誕生のほうを見ようではありませんか。落ちるものはのぼるものを勇気づけます。老木のたおれる音は、新しい木に呼びかける音なのです」
 この言葉は、今もって私の脳裏から離れない。

                   ◇

 昭和三十二年、私が、全くの無実の選挙違反容疑で逮捕・勾留された大阪事件は、生涯忘れることはできない。
 出獄の七月十七日・
 この日、正義の怒りに燃えた全関西の同志は、続々と中之島の中央公会堂に駆けつけてくださった。
 「大阪大会」である。
 権力の横暴を許すな!
 正義の学会を迫害する、傲慢な魔性の壁を打ち砕け!
 この偉大な常勝関西の心意気が、全国に共戦の炎を燃え広がらせたのだ。
 そして、この大阪大会には、東京をはじめ、埼玉や神奈川など首都圏からも、蒲田や文京支部、男子部の第一部隊の関係など、多くの同志が飛んできてくれた。
 中部から来た友もいた。
 そして、大阪支部、堺支部ゆかりの組織が、西日本を中心に、それはそれは、大波の如く動き、勝利の大海の道をつくってくださった。
 中国からも、四国からも、大勢の友が駆けつけた。
 長崎、宮崎など、遠き九州からも、尊き多くの同志は来てくださった。
 爆発的な大阪大会が終わった。立錐の余地なく超満員、外も多数の方々で埋まった。私が会場を出ると、一本の旗を掲げた十数人の同志がいた。長崎の友であった。
 公会堂に入ることができず、突然の豪雨に遭っても、外でじっとスピーカーに耳を傾けておられたのである。
 私は直ちに駆け寄り、一人ひとりの手を握った。
 ああ、なんと偉大な創価の同志たちよ!
 異体同心の勇敢なる信仰者たちよ!
 そこに広宣流布の大激戦があると聞けば、わがことのように勝利を祈り、勇んで駆けつけてくれる無名の闘士たちよ!
 涙が出た。熱い胸は、更に熱湯の如き胸中に変わった。
 また、たとえ大阪に来られなくとも、全国津々浦々で、私の無事を祈り、堂々と正義を叫んで立ち上がってくださった同志たちよ! 
 私はその真心を、真剣な行動を、一生涯、忘れない。いな、三世永遠に忘れることができない。
 北海道の健気な乙女は、私が勾留されている間、ひたぶるに唱題を重ね、“正義の勝利のために断じて戦い抜きます!”と、わが家に決意の手紙を送ってくださった。
 今でも妻は、その手紙を大切にしている。
 私は、皆の真心に涙した。私の命は、私一人のものではない。
 ゆえに、私は、全学会員が幸福になるために、皆様の勝利のために、一生涯を捧げ抜く決心である。
 これからも、わが身を削りながら、断固として一日一日を戦い進んでいく決意だ。

                   ◇

 あの日、私は、中之島の公会堂の壇上に上がる時、戸田先生より、小さな声で注意を受けた。 
 それは、「調子に乗って、大言壮語はするな。
 すべてに気をつかって、淡々とした御礼の気持ちで、真心の挨拶をしなさい」と。
 胸の中で、私は驚いた。ああ、いい調子になって、大勢の方々への配慮も忘れて、長い話をすることは、確かに愚かなことだと、直感した。
 私は登壇すると、簡潔な挨拶をさせていただいた。
 「正しい仏法が必ず勝つという信念で、やろうではありませんか!」
 ともあれ、嬉しきことに、我らは、今日まで、この正義の勝利の歴史を綴り残してきた。
 「日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚え候、悪は多けれども一善にかつ事なし」(同一四六三?)
 この御聖訓の通りに、異体同心の無敵の信心で!

                   ◇

大教育者ペスタロッチが、ある新年の出発にあたり、“今日は新しい団結の日”だと訴えたことは、大変に有名である。
 「子どものみなさん、青年のみなさん、大人のみなさん、どうか今日は、いっさいの悪に抵抗し、いっさいの善に味方する、心の勇敢な、精神の強い人間になってください。そうして一つ心、一つ精神になってください」
 私の願いも同じである。
 さあ!我らの異体同心の使命の大城に、いついつまでも、勇敢なる大勝利の旗を掲げゆこうではないか!
いざ創立75周年の大山へ!   ――山本 伸一――

――すべての勝利が広宣流布のため 戸田先生 「我々は戦おうじゃないか!」――


 私が青年時代から好きだったアレキサンダー大王の讃えた叙事詩に、こうあった。
 「勇敢な人びとに克服できないものは何もない」
 深く胸に響く言葉だ。
 創立七十五周年の栄光へ、わが創価学会が、また一つ、広宣流布の大きい、大きい山を登る時が来た。
 「勝利は、わが迅速果敢な行動にあり」
 これは、かのナポレオンが結論した戦闘哲学である。
 人生は勝負だ。
 仏法も、また勝負だ。
 ゆえに、この一生、断じて勝たねばならない。
 勝てば幸福であり、負ければ不幸である。
 大切な人生である。何があろうが、最後に苦痛と悔恨を残してはならない。
 そのために、君よ、君たちよ、勝負の時を逃さず、断固として立ち上がれ!
 「一瞬たりとも失ってはならない」とは、ナポレオンのモットーであった。

                   ◇

 日蓮大聖人は、「命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりとも・これを延るならば千万両の金にもすぎたり」(御書九八六?)と仰せである。
 「一日」が宝である。
 いな、「一瞬一瞬」が、かけがえのない宝なのだ。
 今、一時間あれば、どんなに多くの友を励ませるだろうか。遺言の思いでスピーチも残せる。今、三十分があれば、どれだけ有意義な語らいができるだろうか。
 この五分があれば、必死のあの同志、この同志に揮毫を残してあげられる。
 この一分があれば、苦闘のあの友に伝言を託すことができる。この一秒があれば、目であいさつができる。
 だから、私は決めたのだ!
 意義ある一日一日を生きるのだ!「今」を生き抜き、断じて勝つのだ!
 この八月六日で、私が小説『新・人間革命』の原稿の執筆を開始してから十二周年。いつしか、新聞への連載も三千百五十回となった。
 この連載を始める前に、私は「限りある命の時間との、壮絶な闘争」と書いたのが、実際、今の私には、眼前の一分一秒が惜しい。
 今、小説をはじめ、多くの原稿に向かう胸から離れないのは、わが尊き同志の幸福であり、勝利である。
 すべての勝利は、広宣流布のためにある。
 友よ、断じて勝て!
 友よ、断じて負けるな!
 私は、懸命に祈り、必死に呼びかけながら、次の五十年の完勝への指揮を執っている。

                   ◇

 わが疾風怒濤の青春は、いな、わが波瀾万丈の生涯は、偉大なる師・戸田城聖先生と共にあった。
 その先生が、生命を削るようにして、私に峻厳に打ち込んでくださったご指導の一つは、「戦いは迅速であれ!」という鉄則であった。
 広宣流布とは、仏と魔との熾烈な闘争だ。邪悪との戦いに逡巡があってはならない。
 かのアレキサンダー大王を詠った詩には、「傲慢な人びとを粉砕せよ」と、烈々たる叫びがあった。
 戸田先生は、重大な革命児の使命を担いながら、一旦緩急の時に、惰性の心で出遅れた者がいたら、「『遅参其の意を得ず』だ!」と、それはそれは厳しかった。
 「まことの時」に、決然と立ち上がり、迅速に戦えるかどうかが、一切の勝敗を決するからだ。
 古代ギリシャの弁論家デモステネスは訴えている。
 「事をなすべき好機というものは、われわれののろまさと言いのがれとを待っていてくれるものではない」
 リーダーは、絶対に臆病であってはならない。いかなる困難な激動下でも、厳然と指揮をとり、勇敢に先陣を切って戦い抜くのだ!
 「賢者には悲劇など存在しない。彼らがいると周囲でも悲劇は起きなくなる」とは、ベルギーの詩人メーテルリンクの名言である。

                   ◇

 広布史上に輝く五十年前の「小樽問答」も、まさに電光石火の戦いであった。
 雪の小樽で、わが学会婦人部の友が日蓮宗(身延派)の坊主と対面し、三月十一日に「法論」を行う話が浮上したのが二月下旬。
 その情報が学会本部にもたらされたのは、法論の一週間前の三月四日であった。
 戸田先生は、事態を把握されるや、直ちに決断された。 
 「この法論は、戸田が引き受けた!」
 本来ならば、宗門が受けるべき問題である。だが、臆病な宗門は、矢面に立つことを恐れて逃げたのである。
 先生は、そんな醜態など歯牙にもかけず、学会が広布の全責任を担って戦うことを、悠然と宣言されたのだ。
 先生のご決意は、そのまま弟子の決心であった。
 よし!この勝負、断じて勝ってみせる!偉大な日蓮仏法の正義を、わが創価学会の真実の力を、満天下に示しきってみせる!
 戦う勇気が、五体に満々とみなぎるのを感じた。
 広宣流布とは、いかなる戦いであれ、自分が勝利の全責任を担うのだと、決然と一人立つことから始まるのだ。
 当日まで、わずか一週間の短期決戦である。
 しかし、「必ず勝つ!」と決めた弟子の当今は、激戦にこそ燃え上がった。
 迅速にして緻密たれ!
 細心にして大胆たれ!
 先手先手で攻め抜け!
 限られた一日一日は、青年の勇気と智慧の行動の大舞台となった。勝利の突破口を開く、雄々しき執念と攻撃精神がみなぎっていた。
 そして、あの三月十一日、私の司会で始まった法論は、歴史的な大勝利を勝ち取ったのである。

                   ◇

 私は思う。――戸田先生のもとで戦った一つ一つの激戦が、三類の強敵を打ち砕き、広宣流布の法戦を勝ち抜くための、師弟不二の相伝であった、と。
 その先生と、私は、今も、胸中で「師弟の対話」を交わしながら戦い続けている。
 先生が最後の生命を燃やして、青年に「広布の印綬」を託された、あの「3・16」の式典が終わったあと、突然、私に言われた。
 「我々は戦おうじゃないか!」
 広宣流布の闘争に終わりはない。休息もない。一瞬一瞬が常在戦場であり、戦闘開始なのだ。
 あの日の先生の声は、今も私の耳朶から離れない。

                   ◇

 「恐れとは、他のどんな病気よりもたちが悪い。病は肉体を殺すが、恐れは魂を殺す」
 これは、魂の英雄ガンジーの教訓である。
 我ら正義の同志は、何ものをも恐れない。
 大聖人は、「大事は小瑞なし、大悪をこ(起)れば大善きたる」(同一三〇〇?)と言われ、こう仰せである。
 「各各なにをかなげ(歎)かせ給うべき、迦葉尊者にあらずとも・まい(舞)をも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立ってをど(踊)りぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそい(出)で給いしか」(同)
 時を得て、三類の強敵に立ち向かい、広宣流布の戦いを遂行できる嬉しさ。 
 これ以上の喜びはない。
 これ以上の誉れある人生の戦いはない。
 我らは今、創立七十五周年の完勝と栄光の峰へ、猛然と立ち上がった。
 この輝く山頂に向かって、同志よ、どこまでも異体同心の信心で、勇者と勇者の鉄の団結で戦い進もう!
 劇作家シェークスピアは、ある戯曲にこう綴った。
 「多くの矢が異なる位置から放たれて一つの的に集まるように、
 多くの道が四方八方から近づいて一つの町で出会うように、(中略)
 数百数千の行動も、それぞれ同時に開始されながら、
 なんの支障もなく、万事うまくはこんで、ついには
 一つの目的に到達しうるのです」
 我らの「目的」は、もちろん「勝利」の二字である。
 さあ、戦闘開始だ!
 我々は、断固として戦おうではないか!
 痛快に、圧倒的に勝とうでなないか!
 平和のために!民衆の栄光と幸福のために!
「伸一会」結成30周年   ――山本 伸一――

――「師弟」こそ最極の人生 わが弟子よ「常勝」の名指揮を頼む――

◆◆◆「不惜身命」の信心の勇者たれ


 「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である。
 ……………
 奮起せよ! 青年諸氏よ。
 闘おうではないか! 青年諸氏よ」――
 恩師・戸田先生の「青年訓」の有名な一節である。
 先生は、青年が大好きであった。心は、常に青年と一緒であられた。そして、わが子以上と思えるほど、青年を愛してくださった。
 「現在の戦いも、青年で決まる。未来の戦いも、青年で決まる」――それが、先生の結論であられた。
 先生は、青年のために戦い、青年と共に戦った。
 青年と共に生き、青年のみを信頼して一生を送られたといっても、過言ではない。
 その新しき世紀を創りゆく若き中核となったのが、「水滸会」であった。
 この水滸会が、戸田先生が掲げられた七十五万世帯の誓願成就の原動力となったことは間違いない。現在も、厳しき訓練の数々を受けた多くの水滸会出身者が、広宣流布の第一線で大活躍をしている。
 私もまた、恩師の示された方程式のままに、二十一世紀の世界広宣流布の展望を明確に描きながら、青年の育成に全力をあげてきた。その中核が「伸一会」である。
 「水滸会」は戸田先生が作られた。
 「伸一会」は、第三代会長として、私が命名し、作った会である。

                   ◇

 その「伸一会」の誕生は、昭和五十年であった。
 学会創立四十五周年の五月三日、全国の男子部の代表、そして学生部の代表メンバーで結成した。
 依頼、幾たびとなく、この優秀な若き弟子たちと、私は真剣な語らいをしてきた。
 鹿児島の霧島にある九州総合研修所(現・二十一世紀自然研修道場)での研修会も、大変に思い出深い。
 東京・八王子の創価大学のキャンパスを借りての集いも、まことに意義の深いものであった。
 そして、恩師との思い出多き長野県の天地での研修も、忘れることができない。
 ある時は、食事を共にしながら、あらゆる次元のことを語りあった。
 ある時は、スポーツに汗を流し、体当たりで若き友と生命の力をつくりあった。
 私は、ともかく、この若き指導者たちが成長しなければ、学会の未来はないことを熟知していた。
 本物の弟子を育てなければ、広宣流布はできないことも知悉していた。
 「不惜身命」の青年を鍛えていかなければ、層化の栄光と勝利はないと、青年の鍛錬を決意していた。
 人材の育成こそが、一切の勝利を決する。
 青年の薫陶こそが、根本中の根本の課題である。
 これを戸田先生は、私の胸に叩き込んでくださった。
 戸田先生の指導は、楽しく深かった。私は、それを全生命で受け止めた。
 そして、その指導をまた、青年たちに語り、未来に教え残しておきたかった。
 私は、青年に対して、最高最大に真剣であった。
 いかなる宗教団体にも負けぬ学会を築くために、いかなる時代にも揺るがぬ基礎をつくるために、真剣であった。
 その決意が、今や一千万の不滅の光を放ちゆく創価の団体となったことは、皆さん、ご存じの通りだ。
 世界的な創価学会は、いかなる迫害があろうが、弾圧があろうが、隆々と発展し、勝利の道を前進している。

                   ◇

 仏法の
   創価の原理の
    師弟不二
  生命の血脈
    君等にあるなり

 私が十九歳で、戸田先生と初めて出会って師弟の契りを結んだ日は、昭和二十二年の八月十四日であった。
 その八月十四日の意義を受けて、皆が「伸一会の日」と決めたのである。
 かつて、山本伸一は、東京の蒲田、文京で、さらに北海道の札幌、夕張で、そしてまた、大関西で、さらに中国の山口県で、広宣流布の大城を厳然と築いていった。
 その山本伸一の名を冠した「伸一会」の使命とは、何か。
 第一に、「伸一会」は、創価学会を後継する「不惜身命」の指導者を意味するのである。
 「後継」とは、単なる「継承」ではない。「後続」とも異なる。
 身命を惜しまずに、自分が戦い、自分で新たな原野を切り開き、広宣流布の一切の責任を担って立っていくことだ。
 さらにまた「伸一会」は、「常勝」のリーダーの異名でもあった。
 いかなる三類の強敵との大闘争にあっても、広宣流布をなしゆく、わが学会を守りに守り抜くことだ。
 そして、勇敢なる将の将として、師子奮迅の戦いをもって、「創価完勝の旗」を断固として打ち立てていくことが、その目的である。
 その目的通りに、「伸一会」の一人ひとりは、山本伸一の如く、将の将となって、広布圧勝の金字塔を打ち立ててゆくことを誓い合ってきた。この「伸一会」の結成から、今年で三十周年である。
 五期まで発足し、三百人を超える錚々たる「将の将」としての陣列となった。
 メンバーは今、副理事長や副会長、また方面長や総県長等々、名実ともに、各地の広布の中核のリーダーとして見事な指揮を執っている。
 さらに、学術界や教育界など、社会の各分野でも幾多の人材が枢要な立場で活躍している。
 その弟子たちの勝利の姿こそ、恩師である戸田先生の最大の喜びであると、私は確信している。

                   ◇

 私は、イギリスの女性作家シャーロット・ブロンテの、価値ある青春の生き方を教えた言葉が好きであった。
 「感傷的な悲しみに耽り、心ひそかに悲歎や空しい思い出に浸り、行動もしないで苦しい倦怠のうちに青春を空費し、何もしないで、ただ老いてゆくのは軽蔑すべきことだ」
 ともあれ、信仰は、師弟は、年齢ではない。立場や役職でもない。
 いつ、どのような境遇にあろうとも、今いる場所で、厳然たる師弟の完勝のために戦う正義の勇者たれ!
 これこそ、「伸一会」、そして婦人部の人材グループである「伸峯会」の自負とするところだ。

                   ◇

 戸田先生の指導は、懐かしい。私の胸に、幾重にもその師の声が残っている。
 先生は、こう宣言された。
 「わが青年部が、妙法蓮華経の力をもって起つ以上、このたびの広宣流布の革命が、できないわけがないと信ずる」
 私もまた同じ心境である。
 先生の指導は、まことに明快であった。
 「病気に悩む者は病気に縛られており、経済苦に悩む者は経済苦に縛られている。
 この苦悩に縛られた生活を断ち切る利剣は、妙法である。
 全国民を縛られぬようにしていくのが、学会の使命であり、精神である」
 そして先生は、こう断言なされた。
 「今は、逆縁広布である。御聖訓通りに大難がなければ、広宣流布はできない。
 ゆえに大聖人が、『難来るを以て安楽と意得可きなり』(御書七五〇?)と仰せになっている意味を、知らねばならない」と。
 師が「折伏の闘将」ならば、その弟子は「折伏の闘士」であるべきだ。
 戸田先生は、常に御書を拝し、厳しく指導された。
 ある日、ある時、峻厳に拝された一節には――
 「をなじくは・かり(仮)にも法華経のゆへに命をすてよ、つゆ(露)を大海にあつらへ・ちり(塵)を大地にうづ(埋)むとをもへ」(同一五六一?)
 限りある人生である。法を守り、法を弘めるためには、命すら惜しむな!
 大願に生き抜けば、「露」「塵」のように、はかなくも見える生命が、「大海」や「大地」の如き、仏の大生命と一体の大境涯となるからである。

                   ◇

 師と同じ誓願に生き抜く師弟の正道ほど、尊く美しきものはない。
 これこそ、仏法の真髄であり、人生の骨髄である。
 そこに、最極の人生の晴れ晴れとした、朝日に輝く、悔いなき人生の大勝利者の笑顔が待っているのだ。
 仏法は、そして学会は、どこまでも「師弟不二」の心で戦い、勝ってきた。
 この方程式の哲理を失う者を、増上慢というのだ。
 カントは、「高慢は阿呆」と呵責した。
 戸田先生は、増上慢の反逆者に対しては、最も厳しかった。その人生は哀れな最終章の姿は、ご存じの通りだ。

                   ◇

 新世紀
   全てを頼まむ
      広布かな

 いつの日か、「伸一会」に贈った一詩である。
 この期待に応えて、「伸一会」は堂々と勝ってきた。
 誓いは果たしてこそ、誓いである。
 私たちは、若き日の誓いのままに走り抜いてきた。
 我らの師弟不二の生命は、透き通った青空のように、雲一つなく、広々と晴れ渡っている。
 十九世紀イギリスの名宰相ディズレーリは叫んだ。
 「逆境ほど人を育てるものはない」と。有名な言葉である。
 幸福を求め抜いて、生きゆく民衆! その民衆のために、広宣流布の勝利が必要なのだ――これが、戸田先生の叫びであった。
 この師の願望の魂を、弟子の我々は、いずれの時代になっても、断じて忘れてはならない。そして、大切な後輩たちを見つめ、育て、守り切ることだ。
 私が心から信頼する「伸一会」の使命深き、勇敢なる哲学者の君たちよ!
 絢爛たる創立七十五周年の歴史的な大闘争に、美事なる「常勝の闘将」と謳われる名指揮を頼みたいのだ。
 完勝また完勝の劇を、悠然と綴りゆこうではないか!

 偉大なる
   広布の誇りの
     将の将
  久遠元初の
    誓い果たせや

 ――十六日昼、宮城県沖を震源として発生した強い地震により、最も被害を受けられた東北地方をはじめ、被災地域の皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
「札幌・夏の陣」から50年   ――山本 伸一――

――短期決戦はスピードで勝て! 偉大な「民衆の力」を天下に示しゆけ――


 将軍ナポレオンは叫んだ。
 「私は、二時間でできることに、二日もかけるようなことはしない!」
 「どんなに大きな仕事でも、それが成功するかどうかは、間一髪の差である」
 私の胸に去来する五十年前の夏、十日間で歴史は動いた。
 それは、「札幌・夏の陣」と語り継がれる、昭和三十年の歴史的な闘争であった。
 八がつっ十六日から、十日間の勝負だった。
 短期決戦である。
 私は、夏季指導の北海道派遣隊の責任者として、三百八十八世帯という「日本一の折伏」を成し遂げた。
 戸田先生は笑みを湛えながら、「大作、またやったな。日本一の大法戦の歴史を飾り残したな」と言われた。
 私は嬉しかった。

                   ◇

 短期決戦の第一の要諦は、「団結」である。
 戦いが短ければ、短いほど、気を引き締め、結束しゆくことだ。
 私と北海道の同志は、断じて戸田先生の悲願である「七十五万世帯」を達成してみせるとの「弟子の強き一念」で、尊く固く結ばれたいた。
 広宣流布の戦いで「勝負」を決するのは、人数の大小ではない。誓願を共にした「異体同心の団結」である。
 「日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候」(御書一四六三?)
 暴虐の限りを尽くした「殷の紂王」の軍勢七十万騎は、八百人の諸侯が結束した「周の武王」の軍に敗れた。
 悪辣な紂王に無理やり駆り出された殷の兵士は戦意がなく、武器を逆さまに持ち、周の軍勢に道を開けたという。
 ともあれ、周の武王の大勝利は、団結と勢いの勝利であった。

                   ◇

 第二の要諦は「スタートダッシュ」である。
 陸上のトラック競技は、短距離になるほど、スタートが重要になる。
 百メートル競走も、号砲が鳴る、びんと張りつめた瞬間に、勝敗の分かれ目がある。
 五十年前、札幌駅に降り立った瞬間から、私の闘魂は燃えたぎっていた。
 「戦いは、勝ったよ!」
 出迎えてくださった方々への、私の第一声だった。
 初日からフル回転である。
 戦いの拠点となる宿舎に到着した時には、成果を書きこむ「棒グラフ」まで用意できていた。準備万端である。
 「先んずれば人を制す」だ。
 後手に回った場合、負担も手間も二倍になる。先制攻撃の場合、手間は半分、効果は二倍である。
 戸田先生も、よくおっしゃっていた。
 「いくら大艦隊であっても、戦場への到着が遅ければ、スピードが勝る精鋭には、絶対に勝てない」
 短期決戦であるほど、戦いは「先手必勝」である。
 敵だって苦しい。時間がない条件は同じだ。
 先に手を打った方が、必ず勝つ。相手も準備は不十分であり、ここに大きなチャンスがあるからだ。
 機先を制した方が、一切の主導権を握り、庶民の心をつかみ、嵐のような喝采に包まれるものだ。
 
                   ◇

 第三に、短期決戦は、中心者の「鋭き一念」で決まる。
 私は「札幌・夏の陣」を前に、ひたすら祈り、智慧を絞り抜いた。
 具体的な作戦に基づき、矢継ぎ早に手を打った。
 当時は通信手段も限られ、連絡の大半が手紙である。
 私は、東京での闘争と同時並行で、寸暇を惜しんで筆を執った。
 時間との競争にしのぎを削り、全精魂を傾けて、北海道の友に手紙を書き続けた。
 同志の必死の奮闘の一切を勝利に直結させるとの一念で、万全の準備を進めて、札幌に向かった。
 戦いの勝利の方程式は、「忍耐」と「執念」である。
 「つねに気落ちを知らず、断固たる、戦いをやめぬ人間の魂」―― 大詩人ホイットマンが歌い上げた、この不屈の闘魂こそ、我らの闘争精神である。
 絶対に勝つという一念を燃え上がらせることである。
 戸田先生も、「ケンカだって、一つでも多くの医師を投げた方が勝つよ」と、常に強気だった。
 そして、最後は、智慧の戦いである。敵を倒すまで戦い抜く、猛烈なる執念である。
 「勝つべくして勝つ」ことが、学会の戦いであった。
 リーダーは、どこまでも同志を励ましながら、「勝利を決する厳然たる祈り」で、どこまでもどこまでも、断固として進みゆくことだ。
 いずれにせよ、短期決戦は、ゴールまで全速力で走り抜く以外にない。百メートル競走なら、世界レベルの争いで約十秒。
 脇目もふらず、力を出し切るしかない。周りの様子などに振り回されては、絶対に勝てるはずがない。
 恐れることはない。戦いはやってみなければわからない。五分と五分だ。勢いがある方が勝つ。強気で攻めた方が勝つ。
 中国革命の父・孫文は語った。
 「およそ、何事であれ、天の理に順い、人の情に応じ、世界の潮流に適い、社会の必要に合し、しかも、先知先覚者が志を決めて行えば、断じて成就せぬものはない」

                   ◇

 弘安二年、日興上人は、捕らえられた熱原の農民信徒の状況について、鎌倉から身延の日蓮大聖人へ、急報を伝えられた。
 十月十五日の夕刻に使者に託された知らせは、十七日の酉の時(午後六時頃)に届いた。
 大聖人は、即座に筆を執られた。 
 「彼ら(熱原の門下)が御勘気を受けた時、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱えたとのこと、これは、全くただごとではない」(同一四五五?、通解)
 「必ず、わずかの間に、賞罰がはっきりするであろう」(同)
 今こそ変毒為薬の時と、弟子を最大に励まされている。
 この御手紙が認められたのは「十月十七日戌時」。
 日興上人の報告が届いてから二時間後の、午後八時頃である。
 御手紙の最後では、重ねて、仰せである。
 「恐れてはならない。心を強くもっていけば、必ず現証があらわれる」(同)
 大聖人の電光石火の御振る舞いが、正義の反動攻勢へとつながったのである。
 戦いは、厳しい局面になるほど、スピードが求められる。
 素早く手を打つことで、魔を打ち破っていける。会員を守っていける。
 スピードのない幹部は、無責任である。臆病である。無慈悲である。
 いざという時の電光石火のスピードこそ、勝利の鉄則であるからだ。

                   ◇

 かつて戸田先生は、朝鮮戦争(韓国戦争)の渦中、戦火に包まれた韓・朝鮮半島の人びとの苦悩を思いやられ、慈しみの念を抱かれながら、こう話しておられた。
 「『どっちの味方だ』と聞かれ、驚いた顔をして、『ごはんの味方で、家のあるほうへつきます』と、平気で答える人もいるのではなかろうか」
 どこまでも、我ら人間の幸福を第一に考え、その実現のために戦い抜かれた先生であられた。
 いつの時代も、ともすればイデオロギー等が優先され、最も大事な人間の幸福は、ないがしろにされてきた。
 「国民大衆の幸福」こそ、政治の根本であるはずだ。これこそ、永遠に正しき普遍の政治の原理であらねばならない。今の時代は、その政治の根本を忘れている。
 蓮祖は「当世は世みだれて民の力よわ(弱)し」(同一五九五?)と仰せである。
 ゆえに、わが学会は、「民の力」を強め、「民の力」を天下に示すために戦ってきたのだ。
 その闘争は、時には困難を極めることもあった。しかし困難に遭った時こそ、人間の真価がわかる。
 「いざ鎌倉」の時に、本物の人物か否かが明確にわかるものなのである。
 私は「疾風知勁草」(疾風に勁草を知る)という言葉が、青春時代から好きであった。
 激しい風に吹かれて初めて、強い草であるか否かを知ることができるというのだ。
 この言葉は、後漢の光武帝が激闘した時に、他の兵士が皆、逃げ去るなk、ただ一人、王覇という一兵士が、最後まで残ったことに由来する格言である。
 学会に臆病者はいらない!
 いかなる疾風にも、御本尊を抱きしめ、いかなる事態にあっても、恐れなく厳然と立ち向かっていくことだ。
 強くまた強く、正しくまた正しく、そして朗らかな人生を進みゆくことだ。
 君よ、痛快に、また愉快に、連戦連勝の指揮をとってくれ給え!
 創立七十五周年の偉大にして意義ある歴史を、栄光と完勝で飾っていってくれ給え!
 世界的な広がりをもつ、我ら創価の「黄金時代」を謳歌しゆく大音楽を響かせていってくれ給え!
「鳳雛会」の使命の舞   ――山本 伸一――

◆◆◆「行動」が君を勝利者に

――青春の「誓い」を共々に果たせ! 広布開く闘将こそ 新世紀の鳳凰――


 私が青春時代に愛読した、ドイツの詩人ヘルダーリンは謳った。
 「活発な活動を始めてからは、わたしの精神はいっそうしっかりし、機敏になった」
 行動する人生は、常に精神が生き生きと躍動する。
 その究極こそ、広宣流布を遂行しゆく学会活動である。
 キューバ独立の父ホセ・マルティは叫んだ。
 「歩かない者は到達しない」
 その通りである。
 法のため、人びとのため、社会のため、労苦を惜しまず、一歩また一歩と、歩み続けるわが同志は、なんと尊く、なんと健気なことか。
 この方々こそ、人間として、最極の栄光の高みへ、必ずや晴れ晴れと到達しゆく勝利者なのである。

                   ◇

 昭和三十五年の五月三日、私は、第三代会長になった時から、“わが人生の勝負は二十一世紀だ”と、心中深く決意していた。
 ゆえに広宣流布の先の先を見つめて、高等部、中等部、少年部という未来部を、いち早く結成していった。
 共に学会を見つめていた、ある著名な作家が言われた。
 「ああ、また学会は大きい手を打った。素晴らしき手を打った。学会は一段と伸びるだろう。ますます大発展するであろう」
 私の胸は躍っていた。素晴らしき弟子たちと、共に生きることを、戦えることを、歴史を創ることを、深く知っていたからだ。
 かつて「憲政の父」と讃えられた尾崎咢堂は慨嘆した。
 「正義のために一人も立って真実を語るものがないということは、わが国民の大きな弱点」であると。
 私は、一人立つ正義の師子を薫陶することを決意していたのである。
 ともあれ、昭和四十一年の年頭から、私は毎月、高等部の代表に御書講義を始めた。
 研鑽する御書は、「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」「佐渡御書」を選んだ。
 少々難解であるが、偉大な使命を帯びた、新世紀の指導者と育ちゆく英才なればこそ、仏法の人間主義の真髄を学んでほしかった。
 四月からは、中学生になった長男の博正も、御書講義に参加した。その時の教材である「佐渡御書」が、今でも一番好きな御書だという。
 皆、懸命に予習し、何回、何十回と拝読して講義に臨んでくれた。司会が御文の拝読を求めると、先を争うように全員の手が挙がった。
 瞳を輝かせた、その真剣な心が、本当に嬉しかった。
 しかし、私も、君たち以上に真剣であったのだ。
 寸暇を惜しんで重ねた一回一回の講義は、「今しかない、今しかない」と必死だった。「皆が大指導者に! 全員か広布の大闘将に!」と祈り、叫ぶ思いであった。
 だから私は、“まだ子どもだから”と、甘やかすことはしなかった。
 真の弟子を育てようと本気になれば、自ずと指導にも力が入った。後継の弟子たちも、本気になってぶつかってきてくれた。
 ソクラテスは、青年への彼の感化力を、触れる者を皆しびれさせてしまう海の「シビレエイ」に譬えた意見に対し、「自分自身がしびれているからこそ、他人もしびれさせる」と応じた。
 自分が燃えずして、どうして人を燃えさせられよう!
 自分が戦わずして、どうして人がついてこよう!
 皆の魂に、広宣流布に行き抜く「誓い」の炎を点火するのは、わが命を賭した闘魂の炎しかないのだ。

                   ◇

 スタートから約半年が過ぎた六月、私は、一期生に修了証書を授与するとともに、二期生への講義を開始した。
 この折、男子を「鳳雛会」、女子を「鳳雛グループ」と命名したのである。
 「名は体を表す」―― 。
 鳳雛は、やがて鳳凰となって、大空に羽ばたき、希望の時代の到来を告げることを、私は確信してやまなかった。
 師子の子は、やがて師子王となって、その師子吼で野干どもを震え上がらせる。野干とは狐の類である。
 わが弟子よ!
 広宣流布の前途の宝のすべてである、わが青年たちよ!
 君たちは、必ず新世紀の鳳凰となり、師子王となって、この不安と混迷の時代を、平和と幸福の時代へと、力強く回天せしめゆく英雄なのだ!
 
                   ◇

 それから間もなく、私は、箱根の仙石原にあった研修所(現・神奈川研修道場)で、鳳雛会、鳳雛グループの初の研修会を開催した。(なお、以下の表記では、鳳雛グループも一体として「鳳雛会」とさせていただく)
 それは七月十六日、日蓮大聖人が「立正安国論」を幕府に提出された日であった。
 皆でポプラの木を植樹したこと、メンバーが一生懸命作ってくれた“鳳雛汁”が美味しくて、お代わりしたこと、どれもこれも懐かしい。
 参加者には、将来に不安を覚えていた子もいた。母親をなくしたばかりの子もいた。
 だが、わが使命を自覚し始めた友の顔(かんばせ)は、悲歎や感傷の雲を振り払い、深い決意に輝いていったのである。
 全体の指導会の折、私は、率直な心情を語った。
 「もし、諸君に広宣流布の総仕上げをしていこうという心がなく、団結もできないようならば、それは、もはや諸君が悪いのではなく、私の方に福運がないんだ。
 私は、これからも、諸君のことを、十年、二十年、三十年と、見守り続けていきます」

                   ◇

 それから十星霜―― 。
 昭和五十一年の夏八月二十日、私の胸は弾んだ。
 鹿児島・霧島の九州総合研修所(現・二十一世紀自然研修道場)で開催された「鳳雛会」結成十周年の大会に、使命の「一剣」を磨いた若人たちが勇んで集ってきたのだ。
 今や、少年少女ではない。凛々しき青年であった。
 私は、既に“若鳥”と成長した鳳雛たちに、広布のバトンを託そうと決めていた。
 「将来、もし、学会が、一歩でも二歩でも後退するようなことがあったならば、全責任は諸君にある。諸君がだらしないからだ」
 私が語ると、皆の顔に緊張が走った。
 十年前は“私の責任”と言った。しかし、諸君は、もう子どもではない。広宣流布の全責任を決然と担ってこそ、わが鳳雛会である。
 「責任」を担うとは、自分自身が広布の主体者として、「一人立つ」ことだ。その熾烈な戦場から、断じて逃げないことだ。
 私も十九歳で、戸田先生の弟子になってより、広宣流布の前進のために、若き命をなげうって戦ってきた。
 役職がどうであれ、立場がどうであれ、周りがどうであれ、自分は戦う! たった一人になっても、広布の大将軍であられる戸田先生を守る! 尊き創価の城を守る!
 そして行く先々で、勝利の凱歌を轟かせてきた。
 わが鳳雛会は、この「一人立つ」闘争を受け継ぐべき、まことの弟子なのだ。

                   ◇

 「鳳雛会」が誕生してより、明年で意義深い四十周年になる。
 尊き求道の連帯は、三期、四期……と広がり、全国各方面や定時制高校に通う友の鳳雛会も誕生していった。
 高等部が結成された当時、一部の最高幹部は、“高等部にそこまで力を入れる必要があるのか”と、無理解の言を吐いた。全く浅はかな、愚劣な姿であった。
 刮目して見るがいい!
 二十一世紀の今、鳳雛会出身者は、東京で、神奈川で、関西で、沖縄で、東北で、全国各地で、縦横無尽に戦っているではないか!
 そして全世界に、雄々しく飛翔しているではないか!
 社会のあらゆる分野で信頼を勝ち得、勝利の実証を示しているではないか!
 「君たちのためには、障害や闘争があった方がいいと思う。闘うことで君たちは強くなるだろう」とは、フランスの作家モロワが、青年たちに寄せた言葉だ。
 彼は、この一節に続けて、こう言っている。
 「(君たちは)五十歳または六十歳になったときには、嵐にたたかれたあの古い岩山のように、ごつごつしたたくましい姿になるだろう。敵と闘うことで、君たちの人物が彫刻されるのだ」
 諸君もまた、そういう大事な年代に入ってきた。
 まさに、今こそ、人生で一番脂がのった時代であり、自信に満ちあふれて戦える時である。
 思えば、この八月二十四日は「壮年部の日」だ。
 最も「壮(さかん)」なる生命力で、そして、社会に根を張り、戦って鍛え上げた人間の底力で、勝利の決定打を打つのは、今この時である。

                   ◇

 戸田先生のもとで学んだ中国の古典『十八史略』に、忘れられない場面がある。
 それは、項羽と劉邦の大闘争の渦中であった。戦力で劣る劉邦の劣勢は明らかであった。
 その時、劉邦の側近の張良のもとへ、親しい友人が訪ねてきて、今のうちに見切りをつけて、逃げるように勧めた。
 しかし、張良は毅然と拒絶した。
 「危難になって、同志を見捨てて逃げるのは、義にもとる」というのである。
 こうした心固き人材の力で、やがて劉邦は張良と共に天下統一を成し遂げたのである。
 いざという時に、本当の心がわかる。
 いついかなる時も、誇り高く、決然と「異体同心」の信心を貫いて勝ってきたのが、わが鳳雛会である。
 臆病にも同志を裏切り、学会に弓を引いた卑怯者を見るがよい。その末路は、例外なく、哀れな敗残の姿を示しているではないか。
 『十八史略』において、宋の時代の名宰相・司馬光はこう語った。
 「私には特に人に優れた点などない。ただ、私は、今まで一度も、人に語れないようなことだけは、何一つしたことはない」
 名聞の奴らが何だ!
 出世主義の奴らが何だ!
 恩知らずの人間が何だ! 
 「私は同志と共に戦い切った!」と、胸を張って言える人生こそが、勝利なのである。

                   ◇
 
 私は、鳳雛会の一人ひとりの姿を目に焼き付けている。年齢を重ねてもなお、瞳の奥に輝く、あの真剣な決意!鳳雛会と聞けば、五体にたぎり立つ、あの青春の活力!
 そうだ! 君たちが誓いを果たし、鳳凰の姿を現ずる時は今だ。
 君たちの“本門”の戦いで、大切な同志を栄光燦たる勝利の大空に運びゆく時は、今なのだ!
 君たちと共に拝した「諸法実相抄」には、「いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし」(御書一三六〇?)と仰せである。
 生涯を通して果たし抜いてこそ、まことの誓いなのだ。
 さらに「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(同?)と言われている。
 われ、地涌の菩薩なり―― これこそが戸田先生の獄中の悟達の結論であった。
 われらは、広宣流布のため、今、この時に出現した久遠の縁で結ばれた師弟であり、地涌の菩薩なのだ。
 いわゆる、一般社会の名士や有名人などとは次元の違う、深き、深き使命をもった汝自身であることを、断じて忘れまい。
 私が対談した、ローマクラブの名誉会長であるホフライトネル博士も、述懐されていた。
 「理想と行動のない人生など、生きる意味がなくなってしまいます!」
 その通りだ。理想と行動の毎日を送っている我らは、最極の勝利の人生を歩んでいるのだ。

 霧雨けむる仙石に
 未来を築く若武者の
 師匠の誓いしこの意気は
 天にこだまし地に響く
 天にこだまし地に響く

 あの懐かしき箱根の仙石原での決意を込めて、君たちが作った歌である。
 わが胸には今も、鳳雛会の諸君の凛々しい歌声が、強く、また強く、響き渡っている。
 大聖人は仰せである。
 「諸天善神たちが、日蓮に力を合わせたがゆえに、(命に及ぶ)竜の口の法難をも勝ち越えることができたのだ」(同八四三?、通解)
 ここに、広宣流布の勝利の重大な方程式がある。
 仏は負けない。仏の軍勢は絶対に負けない。いな、断じて負けてはならないのだ。
 わが鳳雛会、鳳雛グループよ! 二十一世紀の平和と勝利の鳳凰たちよ!
 さあ、いよいよ、君たちの舞台が到来した。
 断固として創価の師弟の勝利の旗を、堂々と打ち立ててくれ給え!
随筆 人間世紀の光 97 「希望の柱」は創価にあり

我らは永遠に生気溌剌と前進!
破折精神で戦えば戦うほど力が出る

 「真の賢人はいつも快活である」と、ロシアの文豪トルストイは言った。
 私は、この言葉を聞くと、不屈の魂をもつ、わが偉大な同志たちの顔(かんばせ)
が思い浮かぷ。
 この人生、我らは永遠不滅の妙法を抱(いだ)いて、朗らかに、意気揚々と進むの
だ。
 日蓮大聖人は、「三障四魔と申す障(さわり)いできたれば賢者はよろこび愚者は
退く」(御書1091ページ)と仰せである。
 我らは、何があろうが、正しい賢者の道を進んでいる。何ものにも屈しない、最強
の楽観主義の哲学をもっている。そして永遠の正義が味方している。
 常楽我浄という我が生命の勝利を傷つけることは、誰にもできないのである。
     ◇
 “人生の達人”ゲーテは、常々語っていた。
 「生き生きと、生きよ!」
 弟子のエッカーマンが、日ごとへ,師のゲーテに会った印象を書きとめているが、
そこには、「上機嫌だった」「快活だった」という言葉が繰り返し記されている。
 こういう感想もある。
 「何事にもてきぱきと、また断固としていて、まるで青年のようだった」
 「彼の精神は溌剌として活力にあふれ、その目は灯(ひ)に映えてきらきら輝き、
表情の一切が快活さとエネルギーと若さそのものであった」
 当時、ゲーテは、70歳を超えていた。しかし、なんと若々しき姿であろうか!
 エッカーマンは、ゲーテに長年仕えていた人ノも、「昔から快活だったのか?」と
率直に尋ねている。
 答えは一言。
 「もちろんですよ!」
 ゲーテとの交友を大切にしている名士の一人は、来訪の思いを次のように語った。
 「この偉大な精神(=ゲーテ)にふれて、また元気づけてもらいたいと思って、やっ
てきたのです」
 会うと、楽しい。会うと、元気になる。会うと、新鮮な触発を受ける。会うと、戦
う勇気がわいてくる。
 個人であれ、団体であれ、快活なところ、勢いのあるところ、豊かな精神性がある
ところは、強力な「磁石」をもっている。
 その周りに、必ず勝利と前進の足音を広げていくものだ。
     ◇
 「我々は生気溌剌たる団体が必要である」
 これは、チェコの哲人政治家マサリクの言葉だ。「民主主義」を支える社会的基盤
を論じるなかで、彼はこう訴えたのである。
 全く、その通りだ。
 翻(ひるがえ)って、今の日本社会のどこに、こうした「生気溌剌たる団体」があ
るか。新しき社会建設を担う、生気溌剌たる人物がいるか――。
 かつて戸田先生は、日本の社会全般を見て、「なんとなく物足りない。これでよい
のか」という所感を述べられたことがあった。
 何もかもが一応整っているように見えるが、なんとなく頼りなく、底が浅い。
 その原因は「人」にあるとは、先生の達観であった。
 「個々の職責にいる人が生き生きとして、はちきれるような生命カがない」
 「命令だからまずまずやるんだと、命令がなければ与えられた職責だけを他人に指
摘されないていどにやっていればよいというのが、だいたいのすがたである」と、ま
ことに痛烈であった。
 この現状を変革するには、「信念の人」をつくるしかないが、それは「正しい宗教
によって生命力を強める以外にはない」と、戸田先生は断言されたのである。
 今また、変革の時代だ。
 満々たる生命力をもって、民衆の幸福のため、社会の繁栄のために自発能動で戦
う、新しき「信念の人」が躍り出なければならない。
 「生気溌剌たる団体」が、疲れた社会と大衆を蘇生させなければならない。
 今、私たちは胸を張って、堂々と宣言したい。
 わが創価学会を見よ!
 元気溌剌たる創価の青年の大連帯を見よ!
 太陽の笑顔に輝く、創価の女性たちを見よ!
 ここに、社会を生き生きと支える「正義の柱」「希望の柱」「民衆の柱」が、厳然
と実在しているのだ。
     ◇
 なぜ、学会は強いか。
 それは、仏意仏勅の広宣流布の大願に生き抜き、邪悪と戦う破折精神が、同志の胸
に脈打っているからだ。
 ことに青年は、この闘魂を絶対に失ってはならない。
 激戦に明け暮れたあのナポレオンも、常に、内外の反対勢力との攻防があった。
 ――彼が皇帝時代、ある勢力によって、内乱を扇動する動きが密かに進行してい
た。
 やがて一人の議員が、その証拠文書を知ることとなった。全議員中、最も若い議員
であった。
 ところが、彼は、国家に責任ある立場に居ながら、見て見ぬ振りをし、扇動を阻止
しようとも、告発しようともしなかったというのだ。
 事件が発覚したあと、ナポレオンは、この若い議員を召喚し、「君の過失は大きい
のだ」と叱責した。
 「今にも方々の町全体が君の過失のために混乱に陥れられたかもしれないところ
だ」
 悪の増長を黙って見過ごす“師子身中の虫”は、絶対に許せなかったのである。
 ナポレオンは遂に、この男はもはや議員の資格を失ったと宣告し、叱りつけた。
 「出て行け、二度と再びここに現れるな!」
 そして、男が去ったあと、書記に言った。
 「裏切りと書くのだよ、わかったか?」
     ◇
 仏法においても、悪を見て見ぬ振りをするのは、重大な「裏切り」に等しい。
 大聖人が繰り返し引かれた経文には、こうある。
 「若し善比丘法を壊(やぶ)る者を見て置いて呵責(かしゃく)し駈遣(くけん)
し挙処(こしょ)せずんぱ当に知るべし是の人は仏法の中の怨(あだ)なり」(御書
236ページなど)
 仏法破壊の悪人と戦わず、悪を放置する者は、「仏法の中の怨」であると、峻厳に
断ぜられている。
 悪と戦い、断固と打ち勝つ大生命力が「仏」である。
 ゆえに、戦えば戦うほど、力が出る。強くなる。
 わが恩師は、「悪と戦う根性のない意気地なしは戸田の弟子ではない!」と、それ
はそれは厳しかった。
 先生は、どこかで理不尽な悪口罵詈、デマがあれば、健気(けなげ)な学会員を守
るために真っ先に反撃の声をあげられるのが常であった。
 もしも青年部が知らなかったら、大変だった。
 「情報が遅い! それでも学会青年部か!」
 百雷が落ちるような叱責を受けたものである。
 ともあれ学会は、迅速果敢な破折の言論闘争で、魔軍を破り、勝利、また勝利の大
道を切り開いてきたのだ。
     ◇
 私が対談させていただいた平和の闘士・ロートブラット博士(パグウォッシュ会議
名誉会長)は生前、違言の如く語っておられた。
 「私は、楽観的でなくてはならないと思います。その反対は何でしょう。互いに悲
観主義に陥って、破壊し合うことしかありません。楽観主義しか道はないのです」
 そして「楽観主義には努カが必要だ」と、行動の大切さを訴えられた。
 「『私は楽観主義である』と言う時、それは単純に『世界は良くなる』と信じてい
るわけではありません。私たちがより良くするために何かをしない限り、世界は良く
なりません。自分にできる何かを、自分にできる貢献をしなくてはなりません」と。
 全く同感である。
 さらに、博士は、私にこう語ってくださった。
 「楽観主義は、私の倫理です。それは宗教ではありませんが、あなたの宗教に似て
いるかもしれません。
 私と池田会長は、異なる立場から出発して、同じ結論に達しました」
 人類の幸福と平和への戦いは、暗く悲壮なものでは絶対にない。ここには、正義を
行っているという不動の信念と輝く希望があるからだ。
 今、異体同心で勝ち飾りゆく創立75周年の山は、なんと晴れやかなことか!
 険難の峰に挑んで流した、苦闘の汗も涙も、すべて充実の喜びと変わる。
 見よ! 広宣流布の栄光の未来は、燦たる光に包まれ、洋々と広がっている。
 さあ、新たな快進撃だ!
 朗らかに進もう! どこまでも、またいつまでも!
 (随時、掲載いたします)

 トルストイの言葉は『文読む月日』北御門二郎訳(筑摩書房)。ゲーテの話はエッ
カーマン著『ゲーテとの対話』山下肇訳(岩波書店)」マサリクの言葉は『チェックス
ロワキヤ国 建国と理想』竹山安太郎訳(日東出版社)=現代表記に改めた。ナホレオ
ンの話はラス・カーズ著『ナポレオン大戦回想録』難波浩訳(改造社)=同前。
尊き「多宝会」の同志、万歳!   ――山本 伸一――

――「仏」とは戦い勝つ忍耐の生命 ――

◆◆◆広宣流布の人生こそ最大の健康法

◆◆「わが勝利の物語」を綴り抜け


中秋の夜空に、満面の笑みで、高貴なる宝光を放つ名月が輝いていた。
 わが広宣流布の勇者の大栄冠を讃えるように、珠玉の月天子が、尊貴な光を降り注いでいた。
 18世紀ドイツの詩人ノバーリスの言葉は、有名である。
 「人生は私達に与えられた小説(ローマン)であってはならぬ、私達によって作ら れた小説でなくてはならぬ」と。
 わが人生は、他の誰でもなく、自分自身が織り上げる、かけがえのない小説であり、物語であれ! というのだ。
 その物語の「2005年の我らの闘争の一章」に、勝利と栄光の歴史を、私たちは不滅の金文字で刻みつけていったのだ。
 そして今、創立75周年の大佳節を威風堂々と飾ってきた。
 全世界で、わが同志が、大拍手を贈りながら、勝利の乱舞をしていった。
 勇敢なる青年部も戦った。
 美しき婦人部も戦った。
 勇気ある壮年部も戦い抜いた。
 自己の限界を打ち破りながら、仏のために、仏の如く、皆が戦い、そして勝った!
 皆様の「勝利の物語」を、仏天も「万歳、万歳!」と、最大に御賞讃くださることは絶対に間違いない。
 ことに、広布の大功労者であられる全国の「多宝会」、「宝寿会」(東京)、「錦宝会」(関西)の皆様方は、真夏の炎天下、本当に、本当によく戦ってくださった。
 19世紀ドイツの法学者であるイェーリングは叫んだ。
 「人格そのものに挑戦する無礼な不法、権利を無視し人格を侮蔑するようなしかたでの権利侵害に対して抵抗することは、義務である」
 多忙のなか、批判中傷を受けながら、大仏法のために戦い抜いた庶民の英雄に、私は涙あふるる思いで、深く強く感謝申し上げたい。

                   ◇

 文豪ゲーテは言った。
 「経験を積んでいるのなら、他人の役に立たねばならぬ」
 その通りだ。
 多宝会の皆様方は、豊富な人生経験、信仰体験を、友のために語り抜いてこられた。誠実に行動するその姿で、大勢の仲間たち、後輩たちを励まし抜いてこられた。
 こんなに尊き人生が、どこにあるか! いつあったか!
 20年、30年、さらには50年――私と皆様が歩んだこの幾歳月は、経文に「猶多怨嫉」と説かれる嫉妬等や、御聖訓に仰せの「三障四魔」という障魔、そして、「三類
の強敵」という魔性の連中との攻防戦の連続であった。
 学会と私を狙い撃つ、悪口罵詈は限りなかった。
 たとえば“学会は香典を持っていく”――いわゆる“香典泥棒"などの中傷は、草創期から、あちらこちらで学会員に浴びせられた。
 同志は激怒した。
 ならば、「いつ」「どこで」「誰が」したというのか?
 「証拠」は何か?
 「証人」はいるのか?
 所詮、“通り魔”の如き卑劣なデマではないか!
 日蓮大聖人は、デマ情報に踊った誹謗があれば、即座に「跡形も無き虚言(そらごと)」」と、痛烈に破折された。
 草創の友もまた、蓮祖直系の破折精神を燃やし、卑劣なデマを粉砕した。無責任な噂に便乗する悪意と誤解を、勇敢に痛烈に、打ち破っていったのである。
 あの広布の母を見よ!
 あの正義の父を見よ!
 偉大な庶民の王者の姿に、後輩の同志たちは、誇りも高く胸を張った。その誠実一路の生き方に、周囲も“噂は間違っていた”と認識を変え、一段と信頼を寄せていった。
 真実は必ず勝つのだ。
 正義は絶対に勝つのだ。
 これが仏法である。

                   ◇

 日蓮大聖人の大正法は、「末法万年尽未来際」まで民衆を救いゆく大法である。
 その大法を弘めゆく我らもまた、生死、生死を繰り返しながら、永遠に広宣流布のために戦う、尊き、あまりにも尊き、誉れも高き使命があるのだ。
 「月月・日日につよ(強)り給へ」(御書1190?)と仰せの如く、前へ前へと進むことだ。
 “進まざるは退転”であるとは、仏の遺言であるのだ。
 本来、「退屈」という言葉も、仏道を求める心が退き、屈する憲味であった。“もう疲れた、嫌になった”と求道心が挫けることであった。
 一般的にも、前向きな向上心を失って、価値のない、張り合いのない一日一日の生活を送ることは、苦しく悲しいことである。
 「明らかに確実であるものを認めることのできない人は、ぱか者である。明らかに義務であるものによって動かされない人は、悪人である」
 こう喝破したのは、ドイツの大哲学者カントであった。
 退屈に流されず、自らを、人のために!
 自らを、正義のために!
 自らを、平和のために!
 そして、自ら幸福への道を切り開いていく人が、人間として王者なのである。勝利者なのである。真実の指導者なのである。
 来る日も来る日も広宣流布に邁進しゆく、私たち深き使命をもつ勇者に、そんな無駄な退屈な日々は、全くない。
 スイスの哲人であるヒルテイという学者の『幸福論』は、よく知られている。
 その本の一つの結論として、「人間の本性は働くようにできている」「本当の休息はただ活動のさなかにのみある」と論じられている。
 戸田先生も、「正しい結論であるな」と頷いていたことが、懐かしく思い出される。

                   ◇

 世界的に有名であるナイチンゲールは、晩年、体が自由に動かなくなり、一日の大半を自室やベッドで過ごす日々であったという。
 しかし、それでも、彼女は、「看護」や「社会」の問題について、次々に手紙を認め、さまざまな指示を与え続けた。
 彼女にとっては、ベッドさえも、自分自身の戦いゆく使命を果たし抜く“本陣”となっていったのである。
 ある日、若い従妹(いとこ)と懇談するうち、すでに亡くなった親類のことに話題 が及んだ。
 従妹がしみじみと語った。
 「少なくともいまはあの方も、安息と平和のうちに過ごしていらっしゃると思いますわ」
 するとナイチンゲールは、にわかにベッドから体を起こして、強く言い放った。
 「いいえ、そうは思わないわ。天国は、驚くほど活動的な世界ですもの」
 言葉は「天国」とあるが、要するに、死後の生命のことであろう。
 人びとのために働き抜いた彼女には、死後さえ、生命が活動し続ける舞台であり、「生」と同様、「死」も明るく活動的なものであった。
 それは、「生も歓喜、死も歓喜」という、私たちの生死観とも、深く響き合うのであった。

                   ◇

 私は、世界の数多くの指導者と出会いを重ねてきたが、ご高齢にあってなお、実に生き生きとした方が多かった。
 最初にお会いした当時、トインビー博士は83歳、ポーリング博士は85歳、マハトマ・ガンジーの直弟子パンディ氏は85歳、ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁は
94歳であられた。
 「ブラジルの良心」と言われた、このアタイデ総裁は、青年の如く語っておられた。
 「私たちは、この崇高なる『言葉』を最大の武器として、戦いましょう」
 先日、96年の尊い生涯を終えられたパグウォッシュ会議名誉会長のロートブラット博士は、生前、私との対談のなかで言われた。
 「世界の平和の潮流を確かめるまで、私にはまだまだやるべきことがあります!」
 この博士の叫びは、平和を希求する民衆の心から、決して消え去ることはないだろう。
 ともあれ、偉大なる“平和と人道の闘士”たちは、自分の生きている間のことだけでなく、人類の未来まで視野に入れ、本気で行動していた。
 ゆえに、生き生きと希望に燃えていた。
 決して負けなかった。断じて何ものにも負けない人生であった。
 わが大切な多宝会の皆様方も、最高無比の広宣流布の道に向かって、来る日も来る日も、走り抜いておられる。
 なんと尊いことか!
 なんと偉大な人生か!
 なんと不思議な哲学者か!
 その目には輝きがあり、語る言葉には説得力がある。
 広布に走れば、戦い続ける生命へ人間革命していける。
 その生命は、常に、新鮮で、快活で、健康的である。
 世界保健機関(WHO)では、「健康」とは、「完全な肉体的、精神的及び社会福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」と定義している。
 まさに、この通りの「健康人生」を謳歌しているのが、多宝会の方々である。

                   ◇

 90歳を超えてなお現役で活躍した、チェロの巨匠カザルスは語っている。
 「仕事をし、倦(う)むことのない人は決して年をとらない。仕事と価値のある事に興味をもつことが不老長寿の最高の妙薬である」
 我々の仕事――それは広宣流布を遂行するという「仏の仕事」である。
 広宣流布こそ、三世に生きる我々の、最大の生きがいであり、健康法である。
 ゆえに、広宣流布に生き抜く人生の人こそ、無上の幸福者(こうふくもの)なの
だ。
 法華経に、「(仏が)作(な)す所の仏事は、未だ曽(かつ)て暫くも癈(はい)せず」(創価学会版法華経482?)とある。
 民衆を幸福にしゆく仏の作業には、永遠に生き抜くカが具(そな)わっているのだ。力が湧現されているのだ。
 御聖訓には、広宣流布に生き抜いた我々の死後の生命について、こう記されている。
 「余念もなく日夜朝タ・南無妙法蓮華経と唱え候て最後臨終の時を見させ給へ、妙覚の山に走り登り四方を御覧ぜよ、法界は寂光土にして瑠璃(るり)を以て地とし・金縄(こがねなわ)を以て八(やつ)の道をさかひ、天より四種の花ふり虚空に音楽聞え、諸仏・菩薩は皆常楽我浄の風にそよめき給へば・我れ等も必ず其の数に列ならん」(御書1388?)
 これは、御本仏の絶対のお約束である。

                   ◇

 誉れ高き「多宝会」の方々と一緒に戦うことは、私には最大の喜びだ。
 「仏」とは、絶対に負けない生命である。
 「仏」とは、永遠に消えぬ大福運を積んだ幸福者のことである。
 「仏」とは、あらゆる邪義謗法と戦い抜き、生涯、戦い勝っていく忍耐の生命である。
 人はどうあれ、私たちは、最高の正義の誇り高き道を知っている。
 人が何と言おうが、勝手に言えばいいだろう。
 勝利者になること!
 幸福になること!
 人類に尽くすこと!
 人びとに心から励ましを贈れる人生ほど、尊き人間道はないのだ。
 自分らしく生きることだ。
 自分らしく生き抜けば、それが最高の幸福だ。
 これが仏法なのである。
 (随時、掲載いたします)



 ノバーリスの言葉は『断章(上)』小牧健夫・渡辺格司訳(岩波書店)=現代表記に改めた。イェーリングは『権利のための闘争』村上淳一訳(岩波書店)。ゲーテは「箴言と省察」(『ゲーテ全集13』所収)岩崎英二郎訳(潮出版社)。カントは「遺稿集」(『カント全集16』所収)尾渡達雄訳(理想社)。ヒルティは『幸福論』草間平作訳(岩波書店)。ナイチンゲールの話はクック著『ナイティンゲール【その生涯と思想】?』中村妙子・友枝久美子訳(時空出版)。カザルスはカーン編『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』曽田秀和・郷司敬吾訳(朝日新聞社)。
◆世界広布と青年
 

―― 一人立て君のいる場所で勝て! ――


―― 平和の世紀へ「人間革命」の光を ―― 



 激しい変革期を生き抜いた文豪ユゴーは、変化を恐れなかった。むしろ、勇んでその渦に飛び込んでいった。
 「革命という名の、すばらしい大股歩きの時代に私たちはいるのです」
 これは、ユゴーが、イタリアの革命家マッツィーニからの要請にこたえ、イタリア統一運動に戦う民衆に送った檄文の一節である。
 国家や民族の壁も超えて、彼は“同志”に訴えた。
 「まっすぐに歩きましょう。もはや『まあ、このあたりで』などと言っている場合ではないのです」

                   ◇

 今、私たちも、この地球を大舞台として人間主義の連帯を広げ、人類の平和と幸福のために、「大いなる革命」に突き進んでいる。
 過去に繰り返された流血の革命では決してない。
 それは、自分は幸福になれないとあきらめる、その心の闇を破る希望の革命だ。
 世界平和など不可能だと冷笑する、暗い諦観を打ち破る、精神の革命である。
 私たちは、それを「人間革命」と呼ぶ。
 二十一世紀を「人間革命の世紀」へ! その行進の先頭に躍り出たのが、世界広布の大使命に生きる、尊きSGIの皆様である。
 私は、この大切な、大切な世界の友を、今月の本部幹部会でも心から歓迎した。
 また、過ぎし九月は、伝統の「SGI青年研修会」に、若き「地涌の菩薩」である二百五十人もの男女青年が、五十五カ国・地域から生き生きと集って来られた。
 お会いするその時を、私は心待ちに待っていた。
 来日直後の本部幹部会(九月十四日)で、入場した私の目に、満面の笑顔で手を振り、全身で喜びを表す諸君の姿が飛び込んできた。
 ああ、不思議な地涌の使命の青年たちよ!
 私は、妻と二人して、諸君を見つめながら、高々と腕を掲げた。
 共に戦おう!
 共に生き抜こう!
 共に必ず勝利しよう!
 ――あの日の、響き合う生命の劇は一生涯忘れない。

                   ◇

 本年はSGI発足三十周年であり、一九六〇年(昭和三十五年)十月二日、私が初めて世界平和の旅に出発してより四十五周年であった。
 今回の研修会には、“学会二世”のメンバーも多く来日していた。親から子へ、正義の闘魂の継承は、いよいよ世界中に広がってきた。
 世界のあの地、この地で、青年たちは、いかなる労苦をも先駆者の誉れとして、懸命に奮闘している。
 会合一つ開くにも、何時間も車や列車に乗り、やっと皆が参集できる国もある。一人の友を激励するために、百キロ、二百キロの遠路を地道に通うメンバーもいる。
 青年たちには、日本に来ること自体も戦いだ。
 不安定な国情のなか、祖国の平和を何年間も祈り続け、研修に参加した友もいた。
 給料の何カ月分にもあたる旅費を捻出しようと、必死に働き、生活費を切りつめて、初めての来日を勝ち取った青年も数多くいる。
 日蓮大聖人は、幼子を連れて佐渡まで訪ねて来た女性信徒を、“あなたが仏になれずして、いったい誰が仏になれるでしょうか”といわんばかりに讃えられた。
 同じように、世界の青年の求道心を、必ず御本仏が絶讃されているにちがいない。
 大聖人は、この婦人に「道のとを(遠)きに心ざしのあらわるるにや」(御書一二二三ページ)と書き送られている。
 「道の遠き」とは、「困難な状況」ともいえよう。苦難に負けず、法を求め、法を弘め抜いてこそ、不動の幸福の軌道を開いていける。
 「心ざし」とは、「奥底の一念」である。誰が見ていようがいまいが、自分自身の心はごまかせない。
 自身の勝利へ、不動の決意があるか。広宣流布の大願が脈打っているか。師弟共戦の誓いがあるか――。
 その一歩深き心が、人生を決めていくのである。

                   ◇

 アメリカの詩人エミリ・ディキンスンは詠った。
 「大声あげて戦うのはとても勇しい/だが胸の中で/苦悩の騎兵隊と戦う者こそ/さらに雄々しいと私は思う」
 苦悩に負けないからこそ、自己の成長がある。正義のために苦難と戦い抜くなかに、偉大な人間革命がある。
 自分が動かなければ、広布の前進が止まる。祖国の立正安国もない。だから、自分が勇敢に戦うのだ――と、わが身を叱咤し、雄々しく活動に飛び出す君たちよ!
 私も、若き日より、そうして戦ってきた。一番大変なところで、一人、先駆の大道を切り開いてきた。
 君が存在するその場所で、一人立て! 断じて勝て!
 君たちの頭には、私と師弟不二の、「一人立つ」という尊き学会精神の宝冠が輝いているのだ!
 今日、百九十カ国・地域に広がったSGIの連帯も、出発点はこの闘魂である。
 日本の青年も、この真剣な心を学ばねばならない。
 恵まれすぎて、甘ったれた愚者になってはならない。
 本来、非難・中傷の嵐など悪条件のなかで、血のにじむような苦闘を重ねて、一から開拓してこそ、真の革命児であるからだ。
 苦労知らずは、悪への破折精神の衰弱に通じる。
 「悪事においても進歩がある。そのままに放置しておくと、漸次に途方もないことが生じる。野獣性においても、残忍性においても、偽信その他においても」とは、十八世紀ドイツの詩人ノバーリスの鋭き言葉である。
 あまりにも尊き広宣流布の正義の道を、畜生の如き偽信心の悪党どもに崩されては、絶対にならない。
 戦うことだ。断じて、悪とは戦うことだ。

                   ◇

 大聖人は仰せである。
 「日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一?・一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし」(同二八八ページ)
 広宣流布とは、仏縁の拡大である。対話の拡大であり、友情の拡大である。
 わがSGIの皆様は、着実に、信頼と共感の輪を広げに広げ抜いている。
 なかでも、「百万人アミーゴ(友人)運動」を掲げたブラジル青年部は、その目標をはるかに超え、現在までに、百二十万人との対話を堂々と達成した。
 「一人が百人に話すより、百人がそれぞれ一人に語り抜こう!」
 これを合言葉として、青年が青年に、語りに語った。
 仏法とは何か。創価学会とは、いかなる団体か。幸福な人生とは何か。青年としていかに生きるべきか――。
 「一対一」の粘り強い対話で勝ち得た信頼は、何ものにも揺るがない。たとえ低俗な悪口等にさらされようとも、決して崩れない。
 何より対話のなかで、自分自身が鍛えられ、強くなる。
 ここに、最も着実な平和と正義の拡大があることを知らねばならない。

                   ◇

 「青年・躍進の年」へ!
 今、我らは若々しき青年の大生命力で、新たな広宣流布の大前進を開始した。
 希望の風よ、吹け!
 勇気の波よ、起これ!
 偉大なる「躍進」を誓った我らは、威風堂々と帆を上げて、出発したのだ。
 “あなたは勝たねばなりません”――これは、文豪ロマン・ロランが二十代のころ、五十歳も年長のドイツの作家マルビーダ・フォン・マイゼンブークから贈られた激励の言葉である。
 「この厳しい戦いであなたを援助するために、私の力の及ぶ限りのことをするのは、それは私にとって一つの神聖な義務です」と。
 今の私の心境も、まったくこの通りである。
 青年の君よ、今、君がどこにいようとも、いかなる戦いの渦中にあろうとも、忍耐し抜いて断じて負けるな!
 君の懸命な人間革命の戦いとともに、世界広布の太陽は赫々と昇りゆくのだ!
 若き地涌の開拓者の君よ!
 決然と進む君の顔は、今、希望の太陽に照らされ、紅に輝いている!
 古代ローマの英雄シーザーは叫んだ。
 「確固不動の決意が、それだけでもどんなに大きな成果をあげるかがわかろう」
◆懐かしき山口闘争
 

―― 師弟の呼吸から始まった ――


―― 築け! 広宣流布の大人材城 ―― 

◆◆常に対話の旋風を! 幸福と平和の折伏を



 この九月、山口市にお住まいの齊藤清子さんから、丁重なお便りを頂戴した。
 文面からは、かくしゃくとした、お元気な様子がうかがえて、嬉しかった。
 明治の創業以来、百数十年の伝統をもつ、歴史的遺産である、料亭「菜香亭」の五代目主人であられた。
 三十年近く前に一度、地元の同志と共にお目にかかったが、お名前の如く、本当に心のきれいな方であった。
 私が、「またお会いしましょう」と申し上げると、大正生まれの齊藤さんは笑顔で言われた。
 「その時は、私がどれだけ元気であるか、会長さんに見てもらいましょう」と。
 ――残念ながら、多忙のために、なかなかお会いできぬまま今に至ってしまったが、齊藤さんとは、変わらぬ心の交流を続けてきた。
 そして今日も、妻と二人してご長寿を祈っている。

                   ◇

 この「菜香亭」は、現在、公共の施設となり、「山口市菜香亭」として広く市民に親しまれているそうだ。
 もともと「菜香亭」は、名付け親の井上馨をはじめ、木戸孝允、伊藤博文、山県有朋といった明治の元勲や、岸信介、佐藤栄作という昭和の宰相とのゆかりも深い。
 皆、山口出身である。まさに、近代の山口は、人材山脈の偉観を呈していた。
 だが、民衆の大勝利の夜明けを開きゆく、地涌の菩薩の澎湃たる出現は、意外や、ここ山口では大変遅れていたのだ。
 昭和三十一年の九月五日。
 厳しい残暑の午後、私は、学会本部で、戸田先生と広宣流布の協議を行っていた。
 師も、弟子も、考えることは、ただ「広宣流布」の遂行の一点であった。
 この年の五月には、私は、関西で指揮をとり、一ヶ月で折伏一万一千百十一世帯という金字塔を打ち立てた。  日本中の学会員は、再び自身の力を信じながら、師子となって立ち上がり、走った。
 したがって、日本全国の広宣流布の波は、飛躍的に拡大していった。学会が生まれ変わった。
 ところが、山口県は、会員わずか四百数十世帯という弱小地域に甘んじていた。
 あの明治維新の火ぶたを切った山口県。
 歴代の日本の総理が多く出た山口県。
 ゆえに今後も、日本の重要な地位を占めていくであろう山口県――。
 その山口から、地涌の菩薩たる広宣流布の闘士が踊り出ないはずは絶対にない!
 つぶさに現状を把握されると、戸田先生は断を下された。
 「中国が一番遅れている。大作、お前が行って、指導・折伏の旋風を起せ!」
 「はい。やらせていただきます!」
 一瞬の呼吸であった。

                   ◇

準備に約一ヶ月かけ、私が“山口闘争”の第一歩を印したのは十月九日、本州西端の歴史の町・下関であった。
 高杉晋作の「奇兵隊」の根拠地である。
 広宣流布という新・民衆革命の発信地として、これほどふさわしい場所はないと、私は思っていた。
 「おれは 前進する光の波のなか おれの腕が 武者ぶるいする」とは、トルコの大詩人ヒクメットの叫びであった。
 この山口闘争には――
 仙台、蒲田、築地、向島、本郷、小岩、文京、足立、中野、杉並、城東、志木、大宮、鶴見、浜松、名古屋、大阪、船場、梅田、松島、堺、京都、岡山、高知、福岡、八女と、多くの支部から派遣員が参加してくださった。
 それぞれ縁故を頼りに、山口県下へ走ったのである。
 派遣員は、わが旧知のメンバーもいれば、今回、初めて一緒に戦う友もいた。
 安楽な生活の人などいなかった。皆、大変な生活のなか、必死に旅費を工面し、勇んで馳せ参じてくれた尊き義勇兵だった。
 この大事な法戦に参加した全同志を、一人も残らず勝利させてみせる!
 私は、第一回の訪問では、十月十八日まで、下関市、防府市、山口市、岩国市、柳井市、徳山市(現在は合併して周南市)、宇部市を走り、勇み立って、戦いの指揮をした。
 折伏の最前線で悪戦苦闘する派遣員たち。
 そして、まだ信心の日浅き地元の方々の狼狽。
 さらに、多くの悩みを抱えた新米の友の姿――。
 私は決断していた。
 断じて山口県を蘇生させてみせる!
 歴史に残る、広宣流布の人脈を作ってみせる! と。
 会って、語る。
 会って、悩みを聞く。
 会って、励ます。
 会って、指導する。
 会って、共に祈り、御書を拝する。
 直接会えなくとも、手紙等で、会ったと同じだけの誠実を尽くし切っていく。
 私は、喜び勇んで、体当たりで毎日毎日を走りながら、飛びながら、勝利のために、建設のために、乱舞していった。
 そして、「縁した方々を、皆、偉大な広宣流布の大闘士に育成していくのだ!」と、歓喜踊躍して、苦しみを楽しみに変えながらの人生を、自分の身で創っていった。
 御書には「日蓮は此の法門を申し候へば他人にはに(似)ず多くの人に見て・・・・・・」(一四一八?)と仰せである。
 この意味は、“他の人と比較にならないくらい、大勢の人に会ってきた”との御聖訓である。
 わが学会員も、大聖人の御心と同じでなくてはならぬ。
 まさに「会う」ことが折伏なのである。
 生命と生命のぶつかり合う勝負なのだ。

                   ◇

 日蓮仏法は「下種仏法」であり、学会は「折伏」の尊き団体である。
 勇敢にして、誠実に語り抜いた分だけ、自他の生命に満足と幸福の花が咲き薫っていくのだ。
 いかに悪口を浴びようが、中傷されようが、折伏を実践する人が最も偉いのだ。これは、大聖人が断言されている。
 「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり」(御書五五二?)
 強いて、仏法の正義を訴えていくのである。相手の反応がどうであれ、妙法に縁させることが大事なのだ。
 そして、「強いて」語るためには、何よりもまず、自分の臆病な心、弱い心を打ち破らねばならない。そうであってこそ、勇気をもって、悠然と楽しく対話ができる。
 その結実は、真心と執念で決まる。
 折伏が実らず旅館に戻った同志を励まし、私は言った。
 「もう一度、その人の所へ、明るい顔をして、師子の心をもって、行ってきなさい!」
 またも肩を落として戻った同志に、再び私は言った。
 「では、もう一度、行ってき給え! これが、本当の仏道修行だ」
 決定の一念で、再び対話に臨んだ同志の顔は、あまりにも尊く、喜び勇んでいた。三度目に、頑強に反対していた相手が、「信心します」と叫んだのである。
 試されているのは、常に自分の心だ。相手を絶対に救うのだという、広い慈愛、忍耐強き勇気という、本気の決意があれば、いかなる人でも心を動かしていけるのだ。
 私も、先輩たちも、皆その決意で、世界一の妙法流布への創価の大勝利の陣列を飾ったではないか!

                   ◇

 第二回の私の訪問は、十一月十五日から二十一日まで七日間であった。
 この時、初めて日本海側の萩市にも転戦した。
 さらに総仕上げとなる第三回の闘争は、翌三十二年一月二十一日から二十五日まで五日間であった。
 つまり、三回合わせて正味二十二日間が、私の歴史的な大闘争となったのである。
 皆に勇気を!
 皆に正義を! 
 皆に偉大な人生を!
 皆に後悔なき勝利の旗を持たせよう! と、勇みに勇んで、苦難の日々の布教の山を登った。
 あまりにも美しき朝日であった。
 あまりにも神々しき太陽であった。
 そして、あまりにも清々しき夕暮れの瞬間であった。
 妙法の舞台は、人生最極の舞台なのだ。
 萩では、松下村塾など吉田松陰有縁の史跡も訪ねた。
 維新回天の大事を成しゆく方途として、松陰は「草莽崛起」を構想していた。つまり、民衆革命の決起の譜を作っていた。
 実は、この着想は、大聖人に由来している。
 「私の策の発端は、日蓮が鎌倉幕府の勢いが盛んな時に、よくその自らの教えを天下に広めた。しかも北条時頼でさえ、彼を抑えられなかったことだ。実行と刻苦、これを尊信すべきである。肝心なのはここだ、ここだ」
 非常に有名な史実である。
 ともあれ、民衆の決起とは、誰でもない。自分自身が勇敢に、一人の人間として、一人の生き抜く権利として、一人立つことである。
 地位も、肩書も、ましてや役職も、まったく関係ない。
 一個の「人間」として、最高無上の法則である、折伏という最前線に打って出ることだ!
 実践のなかでこそ、人材は作られる。鍛えられる。そして、師子と育っていくのだ。
 私は、共に戦った同志の胸に、師弟の心を、学会精神の真髄を打ち込みたかった。
 正義の闘士よ、いざ地涌の大使命に奮い立て!
 その願い通り、私が魂を注いだ山口闘争が終わった時、山口は四百数十世帯から四千世帯以上へと、実に十倍近い拡大を成し遂げていた。
 さらに、山口闘争は、中国方面を強化し、全学会を強くした。そして、この年の十二月、悲願の七十五万世帯達成への原動力となったのだ。
 あまりに目覚しい躍進に、多くの先輩たちの焼き餅はひどかった。
 しかし、これから戦い抜こうとする、若き青年たちの勇気は、いやまして倍増していった。
 
                   ◇

 「大作が行けば大丈夫だ」
 戸田先生は、私の戦いを、悠然と見守られていた。
 先生の山口入りは、弟子の山口闘争が終わって三ヵ月後のことであった。
 その時、私は、次の決戦場の大阪にいた。
 先生は、下関で、こう言われて落涙されたという。
 「今、大作は、関西で命懸けで戦っているんだ。弱い体だから心配だ」
 激戦、また激戦の日々であった。中傷批判の嵐の真っ只中を、私は一段と決意深く、前進の指揮を執った。
 先生に喜んでもらいたい。
 勝利を報告したい。
 これのみが、弟子の道であるからだ。
 ああ、懐かしき山口闘争!
 私は勝った。
 この舞台にあっても、師弟は不二として勝った。
 わが弟子よ! 君も、断じて何ものにも負けるな!
 「正義の拡大」のために、勝って、勝って、勝ちまくってくれ給え!
 山口は戦った。
 中国方面は実によく戦った。悔いなく歴史を作った。
 今や、ありとあらゆる闘争にあって、全国模範の勝利、勝利の大人材山脈が、堂々と出来上がってきた。
 さあ、汝自身の永遠の福徳を積みゆくために!
 創立七十五周年を総仕上げし、明年を迎える「山口闘争五十周年」をば、圧倒的な完勝の歓喜で飾ってくれ給え!
◆「青年・躍進の年」への出発

――君よ壮大な勝利の歴史を創れ!――

――人権闘争の母は青年たちに期待「あなたのエネルギーこそ変革の力」――

 青春のころから、プーシキンは大好きな詩人であった。折々に読んだ彼の詩は、今もって忘れることができない。
 「この世には/ゆるぎない幸福なんてないんだよ。高貴の家柄も、/美貌も、力も、富も、/不幸を免れ得るものはなにひとつないんだよ」
 その通りである。だからこそ、「永遠不滅の妙法」と共に生き、「永遠不滅の幸福」を勝ち取っていくのだ。
 プーシキンは、こうも謳っている。
 「栄光と善の希望に満ちて我は、前を見つめる。恐れなく!」
 どんな嵐が来ようが、吹雪が襲いかかろうが、泥沼であろうが、前へ、前へ進み、絶えまない努力の足跡を刻みつけていくことだ。
 その人こそが、「勝利の太陽」と輝いていくことができる。

 それは、一九五五年(昭和三十年)の十二月のことである。
 アメリカ南部のアラバマ州モンゴメリーで、バスの乗客である黒人(アフリカ系アメリカ人)の一婦人が、白人の運転手から、あとから来た白人に席を譲れと命じられた。
 「ノー!」
 女性は穏やかに、だが、毅然として拒絶した。そして、警察に逮捕されたのだ。
 「私は正しいことをしなければいけないと心に決めたのです」――この歴史的な瞬間の扉を開いた女性こそ“公民権運動の母”ローザ・パークスさんであった。
 先月の二十四日、そのパークスさんが逝去された。享年は九十二歳であられた。
 現在のアメリカ創価大学ロサンゼルス・キャンパスでお会いし、さらに東京でお迎えしたことを、私は一生涯、忘れることはできない。

 このパークスさんの逮捕をきっかけに、モンゴメリーの黒人民衆は、人種差別のバスヘの乗車を拒否し、差別撤廃を訴えた。これが、世界的に有名な「バス・ボイコット運動」である。
 この運動の中核となったのは、実に、わが青年部諸君と同じ若人たちであった。
 指導者のマーチン・ルーサー・キング博士は二十六歳。博士の盟友、ラルフ・アバナシーも二十九歳であった。
 青年たちが先頭に立ち、来る日も来る日も、「非暴力」を掲げて、大きく時代を転換させゆく、この運動の戦略を練り、決定していった。
 彼らの戦いは、人間それ自体の尊厳を勝ち取る闘争であったのだ!
 「どんな運動でも、うまくやりぬくために一番大事な仕事は、この運動に参加する人たちを団結させておくこと」
 これが、青年キング博士の結論であった。
 彼は、運動の勝利のためには、「団結」、また確固たる「哲学」、そして指導者と民衆との「心の交流」が必要だと考えていたのである。
 毎週の集会では、医師や教師、弁護士も、労働者も主婦も、共に席を並べ、熱っぽく語り合った。集会の雰囲気が暗くなった時は、青年が演説して、皆を励ました。
 そして、いついつも、彼らは朗らかに、勇気と決意をもって、自らの勝利の歌を歌いながら、前進していった。
 そこには、常に民衆の心を鼓舞する歌があった。
 その戦いの根本は、白人も黒人も差別のない、また老いも若きも、さらに男性も女性も差別のない社会を目指していた。
 彼らは“自分たちは絶対に正しいのだ! だから正義が常に味方しているのだ!”と、誇り高く胸を張って戦い始めたのだ。
 「平等と正義を獲得するための運動は、大衆的であると同時に戦闘的な性格をもつ場合にこそ成功することができるのだ」とは、キング博士の鋭き有名な洞察である。
 一方、陰険な反対者たちは、あらゆる手段を講じて、キング青年たちと大衆とを引き裂こうと画策した。
 “キングたちの運動は金儲けが目的だ”“皆が歩いているのに、キングは高級な車を買った”などと、事実無根のデマを垂れ流した。
 嘘八百を流す連中の本質。いつでも、それは保身である。正義の拡大への嫉妬であり、攻撃である。
 さらに彼らは、狡猾に“黒人の有力者”を仕立て上げ、“白人と黒人の代表が会合を開き、ボイコット運動の終了が決まった”というデマ記事まで、でっち上げた。
 しかし、それがインチキだと見抜いたキング青年らは、電光石火の反撃で、皆が記事を読む前に、街中に真実を訴え抜いて、走ったのである。
 青年が動くのだ! 青年がデマを粉砕するのだ!
 キング博士が後に指摘したように、「不正義は強力で、執拗な、決断的行動によって根絶しなければならない」。
 運動開始から一年後へ遂にモンゴメリーのバスの人種隔離は廃止され、公民権運動が全米に波及していった。
 「一人の勇気」の叫びが、「皆の勇気」に盛り上がった。
 そして「一つの地域の勝利」が、「全軍の勝利」へと、変化していった。
 これが、歴史を創り、動かしゆく、新しい民衆運動の勝利と勝圏の方程式となっていったのである。

 以後、キング青年たちは、勇んで全米各地へ転戦する。
 その最高潮は、当時、最も人種差別がひどかったアラバマ州バーミングハムの街での人権闘争であった。
 彼らは“最難関の戦場で勝ってこそ、自由と正義の全闘争を逆転勝利させる力にな
る”と確信していたのだ。
 キング青年は、この地で、苦悩の渦巻く街角に、「小さなグループ」を一つまた一つと訪ね、対話を重ねた。
 冷淡な反応も、無理解の悪口も多々あった。
 だが、わが闘魂の炎を、一人また一人の胸へと、ともしていった。勝利は「忍耐」と「持続」の中にあるのだ。
 指導者は、常に相手の心をつかみ、相手の心を理解し、そして相手の心を動かしていかねばならない。
 そのためには、大きい会合だけではなく、一人ひとりと直接、会って対話していくことが重要であると、キング青年は知っていた。
 ともあれ、激戦地であればこそ、勇敢に「一人立て一」、大胆に「一人立て!」。
 それが、必ず反転攻勢の大波となっていくからだ。

 キング青年が、アメリカで人権闘争の指揮を執っているその時、私は関西で戦って
いた。
 それは、私の青春の金字塔と光っている。
 一つの支部という小さな組織で、一カ月間に、一万一千百十一世帯の布教を成し遂げ、日本中を驚嘆させる大勝利で飾った。
 今もって、私の胸には、この時の誇り高い波動が、強く、晴れやかに残っている。
 私は、東京と並んで重要な心臓部である関西の底力が、いよいよ発揮されゆくことを知っていた。
 東の首都圏、西の大関西。この二つの大都会が、互いに肉薄しながら歩んでいけば、日本中が大きく揺れ動いて、広宣流布の前進が必ずできると、私は見抜いていたのだ。
 「常勝関西」の民衆城をば、私は断固として築き始めた。いな、この五十年、誉れ高き「常勝創価」の師弟不二の大城を創り上げてきたのだ!
 御聖訓には、「其の国の仏法は貴辺にまか(任)せたてまつり候ぞ」(御書一四六七ページ)とある。
 今、自分がいる場所が、深い深い使命の舞台である。それが仏法なのだ。
 さあ、生気溌剌と、「青年・躍進の年」へ出発だ!
 明年は、強く朗らかな男子部も、そして美しき瞳と笑顔の女子部も、「結成五十五周年」を迎える。
 さらに、男子部の英知の創価班は結成三十周年、信念の牙城会も結成三十五周年になる。
 花の女子部の白蓮グループは、早くも結成四十周年を迎える。
 ローザ・パークスさんは、“青年たちの母”の如く、深い期待を込めて、常に呼びかけられていた。
 青年!「あなたは私たちの未来です。私は、あなたのエネルギーこそが、変革をもたらす力だと思っています」
 これは、全く正しい哲理だ。
 崇高なる勝利を見つめる、いな、勝利を築き上げる、凛々しき若武者、青年諸君の栄冠を、私もパークスさんと同じ思いで待っている。
 新しき時代を!
 新しき波を!
 新しき舞台を!
 新しき広布の大潮流を!
 そして、新しき人類の平和と和合を!
 それを創り上げるのは、君たち青年しかないのだ。
 プーシキンは叫んだ。
 「われらのもとを去れ、傲れる人よ」
 そして、
 「偽りの知恵は、
 不滅の知性という太陽の前に揺らぎ、くすぶる。
 太陽よ、万歳!
 闇よ、消えよ!」と。
 若き知性の太陽たる君よ、絶対に負けるな!
 悔いのない、楽しき力強き闘争によって、輝く歴史を創り給え!
 さらに、史上最高にして、永遠不滅の新たな創価城を、若き君たちの手で築き上げてくれ給え!
◆伝統の「座談会」の思い出〔上〕

―― さあ広宣流布の大波を起こそう! ――

―― ここに励ましと共感の“心のオアシス”が ――

―― 会場提供者を大切に!参加者を真心で! ――


■理想の「人間共和」を「世界の知性」も賞讃

◎地域友好の広場
◎言論の自由の会座
◎民主主義の対話のモデル 


 希望に燃えて、日本列島の隅々で、「青年・躍進の年」の第一回の座談会が行われている。
 座談会は、初代会長・牧口先生以来の学会の偉大な伝統である。
 それは、「地域友好の広場」であり、「言論の自由の会座」であり、「民主主義の対話のモデル」である。
 人間と人間が触れ合い、支え合う「理想の共和」の姿といってよい。
 今、世界の知性も、創価の「座談会運動」に深く刮目する時代に入った。
 このほど、アメリカの「平和研究の母」エリース・ボールディング博士と私の対談集『「平和の文化」の輝く世紀へ!』が完成した。
 かつて博士は、日本で座談会に出席した思い出を、しみじみと語っておられた。
 「私は、車座になって、座談会を行っていた婦人部の方々とお会いしました。そこで私は、本当の人間の精神を感じたように思いました。
 家族と過ごしているような温かさを感じたのです」
 そして博士は、座談会に、「互いの顔が平等に見える」「互いの話をよく聞き、互いに知り合うことができる」「心を一つにして目的へと進むことができる」など、「平和の文化」の先端の在り方を見出されているのである。
 また、私と対談集『社会と宗教』を発刊した、オックスフォード大学のブライアン・ウィルソン名誉教授も、座談会運動を絶讃されていた。
 創価学会こそ、「非人間的な傾向が強まる現代社会において、新たな人間共同体を生み出している」と、高く評価してくださったのである。
 さらに、私が親しく語りあったアメリカ実践哲学協会のルー・マリノフ会長も、こう語っておられる。
 「信仰者同士の対話は、実に重要です。それによって、信徒は“羊”で、僧侶はそれを追う“羊飼いの犬”であるという、古い宗教の形式から離脱することができるからです。
 実は、哲学者もまったく同じ視点からの実践を行います。すなわち、体験を共有することによって、より豊かな人間観を築く。そして、他人の話に耳を傾けることによって自分自身をより深く知る、という実践です」
 牧口先生が提唱された「座談会」が、どれほど偉大な先見であったか。その意義は、時代とともに、いやまして深まっている。

     ◇

 座談会には、皆、多忙のところ、また疲れたなか、来てくださる。
 であるがゆえに、そこには、真心からの「励まし」が必要である。「ねぎらい」があり、「癒し」がなければならない。
 誰もが「来てよかった」と納得し、満足できる“心のオアシス”としていくことだ。
 法華経の普賢品には、「当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」(創価学会版法華経六七七ページ)と説かれている。
 「(法華経を受持する人を見たならば)必ず、立ち上がって遠くまで出迎えるべきことは、まさに仏を敬うようにすべきである」ということである。
 法華経における釈尊の壮大な説法は、この言葉で結ばれている。
 この一文を、御義口伝には、「法華一部の要路」、「最上第一の相伝」(御書七八一ページ)とされた。
 要するに、法華経の世界においては、「増上慢」は決して許されない。「独裁」は断じて認められない。
 本当の親切、本当の尊敬の心で、同志を迎え、友と語りあっていくことである。
 牧口先生は、座談会に行かれると、常に、まず会場のご家族に丁重に挨拶し、最敬礼して感謝なされた。そして、まさに「仏を敬うが如く」に、参加者を真心込めて迎えていかれたのである。

     ◇

 「座談会の会場」を大事に! 「会場を提供してくださるご家族」を大切に!
 ――この原点を、もう一度、深く確認しておきたい。
 思えば、日蓮大聖人御自身、お住まいを広宣流布の拠点とされていた。
 牧口先生も、戸田先生も、ご自宅を拠点として開放されていた。
 私の妻の実家も、牧口先生時代からの拠点であり、わが家も会場に使っていただいた。
 ともかく、会場を提供してくださるご家族がどれほど大変か。幹部は、そのご苦労を、深く知らねばならない。ゆめゆめ、当たり前と思ってはならない。
 「礼儀」正しく、そして「誠意」をもって、心から「御礼」を言っていくことである。
 会合が終了した後は、拠点のご家族とも相談しながら、幹部が率先して掃除を行うなど、細かく配慮していきたい。
 お手洗いなども、汚さないように心がけていくことは当然である。
 いうまでもないが、煙草のマナーも大事である。個人会場も、学会の会館に準じて、禁煙が原則である。
 また、終了後、打ち合わせ等で長引くことなく、解散時間を厳守することを徹底していきたい。
 さらに、駐車や自転車の駐輪、私語などで近隣に迷惑をかけることがないよう、注意し合いたい。
 ともあれ、会場を提供してくださるご家族が、「皆が来てくれてよかった」と喜んでいただけるように、心を砕いていくことだ。
 これが学会の伝統である。
 「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(同一一七四ページ)との御聖訓を、よくよく拝していかねばならない。
 役職や立場を超えて、学会のかけがえのない大功労者であられる会場提供のご家族を、最大に大事にしていくことだ。
 受験生を抱えているご家庭もある。細心の配慮と温かな励ましをお願いしたい。法 華経の随喜功徳品には、「もしも法を講義する場所で、他の人に、勧めて座らせ、経を聴かせるならば、この福徳をもって、帝釈天・梵天・転輪聖王の座を得るであろう」(法華経五二六ページ、通解)と謳われている。
 ほかでもない、座談会場に喜び集われた、尊き皆様方の大福徳を説かれたものと拝したい。
 そして、一家眷属も、「大指導者の座」についていくという、大境涯が厳然と開かれていくのである。
 また、広宣流布のための道場を提供され、仏に等しい同志のために尽くされるお宅には、無量無辺の福運が、「万里の外より」集まる。
 これは、仏法の因果の理法に照らして、絶対に間違いない。

     ◇

 私が、人生の師である戸田先生に巡り会い、仏法を知ったのも、座談会であった。
 昭和二十二年の八月十四日の夜、蒲田の糀谷で行われた座談会――ここで、四十七歳の師と、十九歳の弟子は出会ったのである。
 翌日は、二度目の敗戦記念日であった。
 戦後の荒廃のなか、正しい人生を求めて、青春の魂の遍歴を続けていた私は、「立正安国論」を講義される先生の気迫に打たれた。いな、先生の人格に圧倒された。
 そしてまた、この貧しい庶民の集いが、かくも明るく、かくも深遠な哲学性をもっていることに感動した。
 多くの方々がそうであるように、座談会は、私が学会を知った原点なのである。

 楽しき充実の集いを

 戸田先生は、座談会を最大に大事になされた。
 事前の打ち合わせも、まことに綿密であった。
 「司会」を誰にするか。
 「内容」をどうするか。
 一つひとつを、決しておろそかにされなかった。
 そして「私がこう話すから、あなたはこのように話してあげなさい」等と、呼吸会わせも万全であった。
 そのうえで先生は、「形式などに、とらわれる必要はない。初めて来た人も『本当に楽しい!』『よく、わかった!』と言える雰囲気をつくってもらいたい。そうでないと、かわいそうだ」と教えられた。
 戦時中、牧口先生が起訴された理由の一つに、二年間で二百四十回以上にわたり、座談会を開催したことが挙げられている。
 私の妻の実家で牧口先生が出席された座談会にも、三人の特高刑事が来て、厳しく監視をしていた。
 まさに、座談会は、「言論戦」「思想戦」の場であり、「不惜身命」「死身弘法」の大闘争の法戦場であった。

     ◇

 その先師の心を偲んで、私は、座談会に真剣勝負で臨んできた。
 昭和二十七年、あの広宣流布の拡大の突破口を開いた「二月闘争」のころ、多摩川を渡って、川崎での座談会に出席した時のことである。
 新来者の一人の青年が、ガムを噛み、柱に寄りかかりながら、尊大な態度で、何ともいえない嫌な雰囲気を漂わせていた。
 私は、丁寧に、しかし毅然と語った。
 「だらしない格好で、大聖人の偉大な仏法を聞き、正邪を判断することはできません。学んでいくこともできません。道を求めてこられた、ほかの方の邪魔になります。どうぞお帰りください」
 驚いた青年は、居住まいを正して、私の御書講義に耳を傾けるようになった。
 その青年が入会したと報告を受けたのは、座談会から二日後のことであった。
 蒲田で、文京で、荒川で、葛飾で、また、札幌で、大阪で、山口で――恩師の願業たる広宣流布の道を開かんと、私が戦い行くところ、座談会は満員だった。同志も勇んで応えてくださった。
 真剣な語らいのさなか、目の前から、人の姿が消えたこともあった。なんと、重量オーバーで、床が落ちてしまったのだ。
 一度は、横浜の保土ケ谷での座談会のことである。
 また、荒川に入っていた時のこと。質問会になり、一人の少年が手をあげたが、顔がよく見えない。司会が“立って質問してください”と言うと、元気いっぱいの返事がはね返ってきた。
 「立ってます!」
 これまた、床の一部が沈んでいたのであった。
 当時は皆、貧しく、家も古かった。だが、皆、朗らかであった。皆、誇り高かった。
 会場のお宅には、ご迷惑をおかけしてしまったが、その後、堂々と、大福運の境涯を開かれていった。

     ◇

 昭和二十八年、低迷していた文京支部をA級支部に飛躍させるために奔走するなか、私は、相模原での地区座談会に出席した。
 参加者のなかに、「法論」をするために来ていた新宗教のリーダーがいた。
 私は三つの質問をした。
 「宗教とは何か」
 「生命とは何か」
 「幸福とは何か」
 そのリーダーは、何も答えられなかった。真っ青な顔をして震えていた。
 私は言い放った。
 「人の不幸を取り除き、幸福にできない宗教は最低です。今後、布教はしないという証文を書いてください」
 彼は震える手で、ようやく証文を書くと、逃げるように去っていったのである。
 さらに昭和三十一年の大阪の戦いでも、私は座談会で拡大の波を起こしていった。
 今の東大阪方面で行った座談会では、十八人おられた新来の友人のうち、十七人が入会されたこともあった。
 御聖訓には、「須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき」(御書四六七ページ)と仰せである。
 座談会を舞台にした思い出は幾重にも尽きない。

     ◇

 仏教発祥の大地インドからも、嬉しい報告が届いている。
 アショーカ大王の時代の首都で、私が四十五年前に第一歩を印したパトナでも、現在、五十人のメンバーが活躍され、はつらつと地区座談会が開催されている。
 五年前、私に名門プルバンチャル大学の名誉文学博士号を授与してくださったパタンジャリ副総長も、“SGIの社会的活動だけでなく、その精神性をもっと理解し、行動をともにしていきたい”と強く希望され、デリーの座談会に出席されていると伺った。
 かつて、カニシカ王が第四回仏典結集を行ったとされ、仏教文化が栄えたインド北西部のカシミール地方は、残念ながら、長年、紛争が絶えない。
 しかし、この地でも、友人を交えて、「平和の仏法」を語る座談会が真剣に、また堅実に開催されている。
 
 「地道」こそ偉大な力

 戸田先生は、よく言われた。
 「地道でなければ、偉大な事業を成し遂げることはできない。地道でなければ、難攻不落の城を築くことはできない」と。
 地道といえば、座談会ほど地道な戦いはない。
 しかし、だからこそ崇高なのである。だからこそ不滅なのである。
 小さな、小さな、この庶民の集いから、善と正義と連帯をば、地域へ、社会へ、世界へと広げていくのだ。
 最前線の座談会の勢いが、そのまま、学会の広宣流布の勢いである。
 戸田先生が、かつて聖教新の「寸鉄」に残された言葉を、今再び、心に刻みたい。
 「小さな座談会が大切な時がきた。幹部は足マメに歩いてみよ」
◆伝統の「座談会」の思い出〔下〕

―― 希望の対話の花を! ――
―― 正義の勝利の連帯を! ――

―― 世界に広がる「ザダンカイ」の歓喜の波動 ――
―― 新時代を開く拡大の原動力 ――

 「私には、創価学会の発展の秘訣がわかるような気がします。学会には、自由と平等があるからです」
 高名な文化の指導者であるウンカルト=サイフェルトさん(元オーストリア文部次官)が、日本の各地で学会員と膝詰めの座談、対話を重ねた結論である。
 まったく、その通りである。「学会の座談会には「対話」がある。「自由」がある。「平等」がある。「哲学」がある。そして「希望」がある。
 毎月、座談会の週になると、私の胸は躍る。
 日本中の、あの町この町。会場の窓からは、温かな光がこぼれている。明るい歌声が聞こえてくる。朗らかな笑いが響いてくる。
 どんな語らいが生まれているのだろう。
 どんな決意がみなぎっているのだろう。
 私は、そっと会場の後ろに座って、皆様方の一言一言に、心から拍手と声援を贈りたい思いである。
 私は座談会が大好きだ。

     ◇

 今、「伸びている」会社に共通しているのは、座談会形式の自由な討議を重視している点である。
 創価大学出身の企業の社長が語ってくれた。
 「会議室も椅子もテーブルもいりません。空いたスペースに数人で集まる。自分の考えや直面している課題を率直に語り合う。十分も語り合うと、知恵がわき、団結が生まれます」
 若き社長は、「学会の座談会に、ようやく企業も追いついてきた感じがします」とも述懐していた。
 座談会は、時代の最先端である。

     ◇

 青年部時代、私が住んでいた、大田区大森の質素なアパートでも、座談会を開いた。お隣さんたちを招き、何人もの方が入信された。
 これまで、日本全国、いな全世界で、数え切れないほど、多くの座談会に足を運んできた。
 特に草創期には、平坦な、整った環境の集いなどなかった。行く先、行く先、まるで荒れ地を開き、耕すがごとき闘争であったといってよい。
 時に道場破りのごとき、荒んだ闖入者を迎え討つ。一回一回が、学会精神をたぎらせての「法華折伏・破権門理」の実践であった。
 座談会という仏道修行なくして、今の私はない。

     ◇

 それは、昭和五十四年の三月十五日の夜のことである。第一次の宗門事件の嵐の渦中、私が第三代会長を辞任する一カ月ほど前であった。
 私は、東京の府中の大ブロック(大B)座談会に駆けつけた。現在の地区座談会だ。
 この三日前、中野区で大B協議会に出席した私は、「今の戦いの焦点は座談会だ」と決意していたのである。
 陰険なる反逆者と宗門が、私と会員との間を裂き、学会を破壊せんと、様々な画策をしている最中であった。
 だからこそ私は、最前線の同志と直接会い、堅固な心と心の絆を結ぼうと、座談会に走ったのだ。
 「こんばんは。おじゃまします」――目指すお宅に着いて、二階の会場に入ると、驚きの声に続いて、大拍手と大歓声が弾けた。
 三十人ほどもいらっしゃっただろうか。私は、一人一人を生命に刻印するように、声をかけ、全力で励ました。
 この拠点の夫人が“大B担(地区婦人部長)さん”で、地域の友人も連れて来られていた。
 「よく、いらっしゃいましたね」と、心から歓迎し、和やかに言葉を交わした。
 拠点のご夫妻とは、終了後に、感謝を込めて記念の写真にも納まった。
 ともかく、この座談会を、最高に楽しい、最高に充実した、最高に有意義な時間にしてさしあげたい。
 皆が帰られる時には、元気になり、希望に燃えて、体がぽかぽかするくらいにさせてあげたい。
 私は、真剣だった。
 この時、私は申し上げた。
 「座談会とは、人間と正しい信仰とを結びゆく、最も民主的な語らいの場です。
 そして、希望と確信ある人生を勝ちゆくための強き発条なのです」と。

     ◇

 あの忘れ得ぬ「雪の秋田指導」(昭和五十七年一月)も、「座談会」に始まり、「座談会」に終わった。
 一面が銀世界の秋田空港に降り立った私は、友の待つ秋田文化会館に車で向かった。
 十分ほど走ったろうか。雄和町(現・秋田市内)の「妙法」という名の街角で、四十人ほどの友が歓声を上げた。皆、息が白い。どれほどの時間を待っていてくださったことか。
 「よし! ここで座談会を開こう」
 即席の“雪中座談会”が始まった。時間はない。だが、誠意は時間の長短ではない。
 次の街角でも、その次の街角でも、長靴を履いたアノラック姿の同志が、三十人、七十人と待ってくれていた。
 なんとありがたい同志か!
 そのつど座談の輪が広がった。悪侶のいじめに耐え抜いた同志を、私は励まさずにはおられなかった。
 「一番苦労した人が、一番幸せになれるのが、この妙法です」
 空港から会館に到着するまで、「街頭座談会」は九カ所に及んだ。語り会った友は、この一日だけで千人にも及んだ。

     ◇

 昨年末から、各地で大雪の被害が深刻である。
 豪雪のため、今月の座談会は中止せざるをえない地域もある。
 私は、尊き同志に、真剣に題目を送り続けている。
 「何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へ」(御書一一三二ページ)とは、弟子一同を思われる蓮祖の仰せであられた。
 ともあれ、乱世であるがゆえに、座談会の運営に当たっても、「絶対無事故」という根本の原則を、改めて確認しておきたい。

     ◇

 世界の各地でも、「座談会」が繰り広げられている。
 「地中海の真珠」と謳われるスペインのマジョルカ島の座談会は、実に二十カ国に及ぶ国籍のメンバーが集い合って行われる。
 スペイン語、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語など、幾つもの言語が明るく飛び交っていると伺った。
 北アイルランドの中心都市ベルファストでは、わがSGIの座談会には、長年、紛争に苦しんできた人びとの幸福を願う、良き市民の平和と友情の語らいが光っている。
 今や、「ザダンカイ」は、世界の共通語となった。
 アメリカ・オレゴン州の田園都市アッシュランドにも、劇的な座談会の歴史がある。
 一九八○年代の後半、この街に、南カリフォルニアから二人の女子部員が越してきた。当時、まだSGIの組織はなかった。
 そこで、二人きりで座談会を始めたのである。
 シェークスピア劇が盛んなこの街らしく、一人が「中心者役」で、もう一人が「新来者役」。そして、並べた機関紙を参加者に見立てて、座談会を開き続けた。必ず、友の笑顔であふれる座談会をしてみせると誓いながら。
 この“二人だけの座談会”に、やがて、同志である全米ナンバーワンのテレビ俳優も加わり、医師などをはじめ、地域の名士も次々に参加するようになった。
 そして、今や、百人以上の支部に大発展し、その名も「イーグルピーク(霊鷲山)支部」として躍進しているというのである。
 アルプスの名所、スイスのインターラーケンでも、一粒種の婦人部の方が座談会を積み重ねて、人材の山脈を築いてこられた。
 世界中で、女性が「広宣流布の門」を開いてくれている。

     ◇

 御聖訓には、「心ざしあらん諸人は一処にあつまりて御聴聞あるべし」(同九五一ページ)と仰せである。
 つまり、皆が集まり、御書を学び合い、互いに励まし合い、信心を深め会う座談会こそ、日蓮仏法の正しき実践の在り方なのである。
 ある時、牧口先生に、一人の青年が意見を述べた。
 「座談会ではなく、もっと大規模な講演会形式にした方がいいと考えますが……」
 先生は、言下に答えられた。
 「いや、それは違う。人生に対する問題は対話でなくては相手に通じない。講演だけでは、聞く方は他人事にしか感じないものだ。
 日蓮大聖人の『立正安国論』にしても問答の形式ではないか」
 牧口先生は、たった一人のためにも、遠路をいとわず訪ねられた。相手が一人いれば、そこが座談会になった。
 先生の信念は獄中にあっても微動だにしない。
 「さあ、問答をしよう!」
 相手は取調官である。
 「よいことをしないのと、悪いことをするのと、その結果は同じか、違うか」
 理路整然と、宗教の正邪を論じ、折伏されたのだ。
 戸田先生も、ご自身の会長就任式で、「広宣流布は一対一の膝詰めの対話からだ」と叫ばれた。
 学会をこよなく讃嘆されていた大学匠の堀日亨上人も、常々、「創価学会の強さは、今までにない布教法にある。それが座談会だ」と言われていたという。
 「一は万の母」である。
 「たった一人でもいい。目の前の一人に、この大仏法を語らずにはおくものか!」
 広宣流布の拡大は、この歴代会長の一念から始まったのである。

     ◇

 先日、ある関西の同志から、お手紙を頂戴した。自分のことであり恐縮であるが、ありのままに紹介させていただきたい。
 「あの『大阪の戦い』の時でした。池田先生に来ていただいた座談会が、今でも忘れられません。
 一人、若武者のごとく会場に来られました。一冊の御書を手にされていました」
 「体験談を聞けば、立ち上がらんばかりに、全身で讃える。質問があれば、御書をひもときながら、一つ一つ丁寧に、明確に答えてくださる。時にはジョークで皆を笑わせてくださる。楽しくて、嬉しくて、私たちは涙をぬぐいながら、笑っていました。
 十人以上の新来の友も、座談会が終わる頃には、全員が入会を決意しました。このにぎやかで、朗らかな座談会が、私の人生の原点です」
 私にとっても、座談会でお世話になった家々、また座談会でお会いした方々は、みな、生命の奥底に深く刻まれて、永遠に離れることはない。

     ◇

 インド独立の父・ガンジーは、どんな地域へも勇んで足を運び、少人数の集いを最大に重視した。
 アメリカの公民権運動の父・キング博士も、小単位の集会を基軸に勝利の波動を広げた。
 かつて、ある名棋士が語った一言が忘れられない。
 「大勝負は中央からは始まらない。むしろ目立たない、盤上の際のほうから始まる」
 「最前線」である。
 「小単位」である。
 「膝詰めの対話」である。
 なかんずく、「座談会」である。
 ゆえに今日も、希望の語らいのドラマを!
 にぎやかな、触発の対話の花を!
 そして、断固たる正義と勝利の連帯を!
◆「真実」と「虚偽」を語る?


―― 提婆の大嘘を打ち破れ! ――

―― 「悪口罵詈」の受難こそ正義の誉れ ―― 

 嵐にも
   勝利悠然
     富士の山

 「『真実』は、正義と幸福と勝利への光の道である。『虚偽』は、邪悪と不幸と地獄への闇の道である」と叫んだ哲学者がいた。
 古今東西、どれほど多くの善良な人びとが、残忍な嘘によって苦しめられ、陥れられてきたことか。
 人の世に、虚偽がもたらす暗黒は底知れない。
 先般、逝去された文豪・巴金先生も慨嘆しておられた。
 「デマは人を傷つけ、その鋭さは刀剣にもまさる」と。
 虚偽は、人間の尊厳を踏みにじり、信頼の世界を撹乱し、破壊する魔物の凶器だ。
 「災いな虚偽! あらゆる悪事の因!」とは、ドイツの詩人シラーの警鐘であった。
 卑劣な虚偽を放置しておくことは、後世に取り返しのつかぬ害毒を流すことだ。
 あの大哲人プラトンは、虚偽によって獄死させられた師匠の真実を厳正に留めるために、『ソクラテスの弁明』をはじめ厖大な書を著した。
 「真実」は「人間の幸福」の大地である。
 「真実」は「社会の正義」の太陽である。
 私と対談集『太平洋の旭日』を発刊した、チリのエイルウィン元大統領も、毅然と宣言しておられた。
 「『真実が君臨する』ことが民主社会の基本なのです」
 釈尊に反逆した提婆達多。さらにまた、日蓮大聖人に敵対した極楽寺良観。
 この悪逆の二人に共通する魔性は、何であったか。
 それは、「嫉妬に狂った大嘘つき」であったことだ。
 提婆も、良観も、狡猾な嘘の毒を撒き散らして、人びとの心を狂いに狂わせた。
 そして、あらゆる陰謀を凝らして、尊極の正義の仏に汚名を着せ、亡き者にしようと企んだのだ。
 「開目抄」には、「仏と提婆とは身と影とのごとし」、「法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし」(御書二三〇ページ)と仰せである。
 つまり、仏の行くところ、また法華経の行者が広宣流布を進めるところには、身に影の添うが如く、必ず提婆達多のような大嘘つき、また、三類の怨敵が現れる。
 その怨敵から悪口罵詈され、讒言され、迫害されている人こそを、求めて師匠と仰ぐべきである。
 その師とは、大聖人より他に誰もいないではないかと、「開目抄」には結論されているのだ。
 さらに、ご存じの通り、法華経と御書には「猶多怨嫉・況滅度後」と示されている。
 すなわち、末法が進んだ濁世にあって、正しく妙法を弘めゆく人は、仏が受けた以上の怨嫉の難を受ける。いな、受けなければ、真に広宣流布を実践しているとはいえないという意義である。
 大聖人の滅後において、大法弘通のゆえに、提婆の如き、良観の如き極悪の輩から、大妄語を浴びせられてきたのは、いったい誰か。
 わが創価学会である。なかんずく、初代、二代、そして三代の師弟しかいない。
 これこそ、創価の三代が、釈尊、そして大聖人に直結している証であり、仏意仏勅の正統の誉れなのだ。  
 御書には、貪欲な坊主どもがデマを流す魂胆が手厳しく破折されている。
 例えば、「末代の坊主は、自分が出入りしている檀那の所に他の者を寄せ付けまいとして、無量の讒言を並べ立てる。まるで犬が、ありついた餌を独り占めしようと、いがみ吠えるようなものである」(同一三八一ページ、趣意)と。
 学会が流されてきた「香典泥棒」の中傷もまた、この御文にまったく符合する。
 このデマが各地で盛んに吹聴されていったのは、昭和三十年代であった。
 それは、戸田先生の願業であった「七十五万世帯」の本尊流布を成し遂げ、私の会長就任とともに「三百万世帯」の達成へ、破竹の勢いで前進した時期に当たっている。
 デマは出所を隠すものであるが、“学会に傷をつければ得をする”連中の仕業であることは間違いあるまい。
 学会の発展に嫉妬し、恐れをなした勢力が、正面からでは学会に太刀打ちできないので、デマを流して嫌がらせを謀ってきたのであろう。
 当時、全国的に「墓地問題」も惹起していた。既成宗派の寺院が、学会員の遺骨の埋葬を拒否した事件だ。
 その裏側で陰湿に流されていったのが、この「香典泥棒」の噂なのである。
 「信教の自由」に対する悪辣この上ない抑圧に、学会は毅然と戦った。この正義の人権闘争の一切の指揮を執ったのも、若き私である。
 「墓地問題」は、裁判でも明確に勝利を収め、さらに、昭和三十五年の三月には、当時の厚生省が“宗派が違っても、それだけでは埋葬を断る理由にはならない”との明快な結論を出した。
 「香典泥棒」の中傷も、当初から風聞だけで、まったく何の根拠もなかったことが明白になっている。昭和三十七年四月、このデマを掲載したある新聞は、学会の抗議を受けて、直ちに訂正記事を載せ、公式に謝罪した。
 そもそも、「いつ」「どこで」「誰が」「いくら」香典を持ち去ったというのか。
 それを示す事例など、これまで、ただの一件たりともなかったのである。
 こうしたデマは、断じて見過ごすことのできない重大な名誉毀損である。今後も、学会本部として、断固として対処していく方針であることは申し上げるまでもない。
 近年、学会の清々しい「友人葬」は、時代の最先端として、深い共感を広げている。
 この友人葬に参列された四国の高名な学者は、感銘を込めて書き綴っておられた。
 ――「香典泥棒」などという悪意の噂が、いかに嘘であるか、一目瞭然である。自分は学会員ではないが、亡くなった時は、ぜひ友人葬で送ってもらいたい。今から予約しておきたい――と。
 ともあれ、長年にわたって「墓地問題」、また「香典泥棒」等のデマで、多くの会員の方々が、どれほど嫌な思いをさせられてきたことか。
 だが、その辛労も、今や、すべて福運と変わっている。
 誤解と偏見の氷をとかした分だけ、深い共感と信頼の水かさが増してきた。
 学会員の勇気と誠実は、いかなる邪知も、虚偽も、木っ端微塵に粉砕する力を持っているのだ。
 各地に完成している墓園は、まさしく皆様方の清々しい信心の勝利の城である。

     文永八年(一二七一年)の夏、大聖人は、欺瞞の良観を「祈雨の勝負」で完膚なきまでに打ち破られた。
 どうしても雨を降らせることができず、ただ汗と悔し涙のみを流している良観に、大聖人は三度まで使いを遣わされて責められた。
 「一丈のほり(堀)を・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか」(同九一二ページ)
 この有名な一節は、目先の問題さえ解決できぬ良観に、どうして成仏という根本の願いを叶えられようかと、痛烈に呵責された仰せである。
 しかし、良観は、自らの敗北を潔く認めないどころか、嫉妬と怨念に狂って、卑劣な讒言を各所へ広げていった。
 さらに姑息にも、自分は陰に隠れ、手下の念仏者・行敏を表にして、嘘だらけの訴状を幕府に提出したのである。
 大聖人は即座に、裁判の答弁書である「陳状」を記して、迎え撃たれた。裁判によって「邪見を打ち破り、正義を興隆させる」好機が来たことを、「幸甚、幸甚」と高らかに喜ばれているのだ(同一八〇ページ)。
 末法という時代の本質は、「闘諍言訟」である。仏法内の争いが激化するのだ。また、それは、正と邪、善と悪、真と偽が入り乱れた、争乱の渦巻く社会相といってよい。
 だからこそ大聖人は、法廷という「公の場」を、正義と真実を打ち立ててゆく絶好の機会とされたのである。
 大妄語の良観の訴えには、「各寺の本尊である阿弥陀や観音等の仏像を火に入れて焼却したり、水に流したりした」(同一八一ページ、通解)などとあった。もちろん、根も葉もない嘘八百であった。
 大聖人は、鮮やかに反撃をされている。 「この件は、確かな証人を出すべきである。もし証拠がなければ、これらの悪事は、良観上人らが自ら行って、その科を日蓮に負わせようとしているのであろう。詳細は、糾明すれば明瞭になるに違いない」(同ページ、通解)
 確かな「証人」を出せ!
 明らかな「証拠」を示せ!
 あらゆる虚偽への反論は、いな、反撃は、この「切り返し」から出発し、この「打ち返し」に帰着する。
 御書には、繰り返し「その証拠はいったい何か」「もし証拠がなければ、誰人が信ずることができようか」等と問い糺されている。
 大聖人は、証拠なき強弁など、「舌に任せたる言」――“口からでまかせ”に過ぎないと一蹴なされた(同一三五ページ)。
 ある裁判に際しては、相手の出した「証文」が偽造の「謀書」だと見破るよう指南されている(同一四五六ページ)。
 仏法は厳しい。
 仏法は正しい。
 そして仏法は、あまりにも大きい。
 仏法には「社会」も入っている。「世界」も入っている。そして「宇宙」も入っている。それであって、「人間」が厳然と入っている。
 人類全体の宿命の打開を遠大に展望しつつ、小さな一つの嘘も見逃さない。
 これが、正義の仏法の真髄なのである。
 
 富士の山
   創価の姿も
      同じかな
◆「勤行」は勝利の源泉

―― 元初の太陽よわが胸中に昇れ! ――

―― 広宣流布へ戦う「誓願の祈り」を ――


―― 信仰の強さは勇気で決まる ――


 「人の信仰の強さ弱さは、人の知識よりはむしろ勇気に左右される」
 この箴言は、ある多宝会の婦人の方から送られてきた手紙の中にあったものだ。
 全く、その通りである。
 年齢のことを言うと、少々失礼かも知れないが、年老いた婦人の方のすばらしい行動を、皆が賞讃し、手本としているようだ。
 私は、スイスの思想家ヒルティの言葉を思い出した。
 “常に前を見て”生き抜いていくならば――「老年はふたたび、それの本来の姿、すなわち行動と成熟と収穫の時、実を結ぶ時となり、くりかえして言えば、この人生全体の最善の部分(なぜなら最も完成された部分であるから)となるであろう」と。

     ◇

 昭和三十五年七月、私は、男子部の精鋭グループ「水滸会」とともに、太平洋を望む千葉県・銚子の犬吠埼を訪れていた。いまだに忘れ得ぬ、懐かしい天地である。
 あの水平線の彼方に、赫々として昇りゆく太陽を思い描く時、私の胸は常に躍る。
 その日、恩師・戸田先生は、私たちの前に姿を見せることはなかった。
 先生は、生涯の願業を成就され、二年前に、五十八歳で逝去されたのだ。
 しかし、弟子である私の胸中には、生き生きと、恩師の指揮とる姿、弟子を励ます力強い声が、いつも、またいつも、「師弟不二」の実像として輝いていた。
 先生がいらっしゃらない「水滸会」は、本当に寂しかった。
 けれども私は、広宣流布の「真の後継者の道」、創価の「真の師弟の道」をば、決然と、また正々堂々と歩みゆく「水滸会」の成長を祈り念じ、その訓練を、絶対に忘れたことはなかった。
 この中から、ありとあらゆる分野で広宣流布のために指揮をとり、厳然と活躍しゆく「人材」が立ち上がり、誇り高く、また力強く生き抜いていくと確信していたからだ。
 ここに、学会の「希望」があった。
 ここに、同志の「希望」があった。
 ここに、未来の勝利の「希望」があった。

     ◇

 わが“旭日の千葉”の有志が、太平洋に昇る「初日の出」の写真を送ってくださった。私たち夫妻は、いつも嬉しく拝見している。
 銚子に生まれた明治の作家・国木田独歩に、「日の出」という短編がある。私は、この名文に心をひかれて、何冊も独歩の本を読んだものだ。
 その「日の出」には――
 オックスフォード大学やハーバード大学などの名門校を出た七、八人が集った折のこと、初顔の一青年の出身校に話題が及んだ。
 どこの名門出かと聞けば、「大島小学校」という無名の私立小学校である。皆が嘲りの色を浮かべると、青年は、毅然として、また厳然として反撃したのである。
 彼の母校の小学校長は大島伸一といい、創立者は池上権蔵といった。
 この権蔵は若き日、人生に絶望し、死ぬ覚悟で海岸に出たことがあった。そこへ老人が一人近づいて言った。
 「日が今昇るのを見なさい」――それは、神々しき初日の出であった。
 この日の出を忘れるな!
 毎朝、昇る太陽を仰げるように強く生きよ!
 大島仁蔵というその老人との出会いが、池上権蔵の人生を変えた。
 彼は、「日の出を見よ」を励みに猛然と働き、農業で財を成す。大島老人が亡くなると、恩返しとして、私財をなげうち、村に「大島小学校」を創立。その校長となったのが、大島老人の子息の伸一だったのである。
 そして、「日の出を見よ」という言葉は、母校の目標、モットーとなって厳然と生きている――と、かの青年は、堂々と語ったのである。
 今回は、短編の一部だけを紹介させていただいた。

     ◇

 「日の出を見よ」
 それは同時に、“汝自身の胸に旭日を昇らせよ”という呼びかけの如く、私は感じとっていた。
 日蓮大聖人は、妙法を唱える偉大さを“日の出”に譬えられ、「太陽が東の空に現れれば、世界の空はみな明るい。大光を具えておられるからである」(御書八八三ページ、通解)と仰せだ。
 仏道修行の根幹として、私たちが実践している勤行は、いわば、「仏の生命」という元初の太陽を、日々、わが心の大空に赫々と昇らせゆく儀式なのである。
 御義口伝には、「朝朝・仏と共に起き夕夕仏と共に臥し時時に成道し時時に顕本す」(同七三七ページ)という、深遠なる金言が引かれている。
 朝な夕な御本尊に向かい、朗々と勤行していく我らは、常に「仏と共に」生きていると、仏法は説くのだ。
 そして、瞬間また瞬間、久遠の仏の大生命力が目覚め、厳然と顕れていくのである。

     ◇
 
 朝夕に
   方便品と
     寿量品
  宇宙の曲に
    合わせ楽しめ

 かつて、私が詠んだ和歌である。
 二〇〇四年の秋から、創価学会は、二十一世紀の世界広宣流布の壮大な流れを開きゆくために、「南無妙法蓮華経の題目」と、「方便品・自我偶の読経」による勤行をスタートした。
 また、海外では、多くの同志の要望を受けて、この形式の勤行を、先行的に開始していた。
 勤行について、日?上人は、題目が「正行」、つまり根本の修行であり、方便品・寿量品の読誦が「助行」であると教えられた。
 大聖人は、あの竜の口の法難のなか、「自我偈少少」を読誦されたとお認めである。また、方便品の「十如是」、寿量品の「自我偈」を読誦し、「唱題」を実践している在家の門下もいた。
 今の私たちと、ほぼ同様の勤行といえようか。
 ともあれ、現在、百九十カ国・地域という、地球上のいずこの地でも、自他共の幸福の道を開くために、朗々たる勤行の声が響いている。
 二十四時間、この地球上から、わが同志の唱題の声が途切れることは、一瞬たりともないのである。
 言語も違う。人種や民族も違う。生活習慣も宗教的伝統も違う。そのなかで、妙法を唱える連帯が、かくも世界中に広がったのだ。
 「終には一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし」(同八一六ページ)と言われた大聖人が、どれほど喜んでおられるか。
 わがSGIの尊き同志を、最大に御賞讃くださることは絶対に間違いない。

    ◇
 
 なお、勤行をはじめ、信心の実践においては、どうか近隣への配慮を心掛けていただきたい。
 勤行の声が大きすぎて、迷惑になる場合もある。皆が集まっての、長時間の“唱題会”等も控えるべきだろう。
 私も、若き日、夜中に帰宅して勤行した時、アパートの隣の部屋の夫妻から、幾たびとなく、勤行の声が大きいと叱られた。「うちの主人はタクシーの運転手ですから、ゆっくりと休ませたいの」と言われながら……。
 その通りだと思った。
 悪意の非難中傷には毅然と戦うが、本来、信頼と友情を広げることが広宣流布だ。
 誠実に、対話を重ね、一軒一軒、理解者を増やしていったことは懐かしい。
 また仕事によっては、通常の“朝晩”の時間に勤行できない人もいる。これも柔軟に考えていただきたい。
 ともかく、大事なことは、「勤行しよう」「題目をあげよう」「祈っていこう」という「心」であり、「挑戦」であり、「持続」である。

    ◇

 妙法は絶対である。
 その無量無辺の仏力・法力を引き出すには、師子奮迅、祈って戦う以外にない。
 ――戸田先生の事業が窮地にあった時期、私は、難局を打開するため、身を粉にして戦った。無理に無理を重ね、体調も最悪であった。
 ある日、先生は、そんな私を仏間に呼ばれた。
 「大作! てんで生命力がないじゃないか。そんなことでは、戦いに勝てんぞ!
 さあ、これから一緒に勤行しよう!」
 私の弱い生命を叩き出すかの如く、病魔を断ち切るが如く、厳しく叱咤してくださったのである。師の慈愛に涙があふれた。
 仏前で、師に声を合わせ、心を合わせて祈るうち、戦う勇気と力が五体に満々とみなぎっていった。
 あの苦難の嵐の時代に、幾たびとなく、偉大な先生と共に勤行させていただいたことは、今もって大きい歴史であり、思い出であり、感謝の心が胸いっぱいに響いていくのだ。
 戦う勤行こそ、人生においても、広宣流布の闘争においても、「絶対勝利」の涸れることなき源泉である。

     ◇

 日蓮仏法の「一念三千」の法理は、一念の偉大な転換が三千諸法の転換を可能にすることを教えている。
 一念が変われば、自分が変わる。自分が変われば、環境が変わり、世界が変わる。
 この大変革の根源をたずねれば、御本尊に向かう自分自身の「祈り」の革命的深化にほかならない。
 祈りは、いわゆる「おすがり信仰」とは全く違うのだ。弱々しく、漠然と、誰かにお願いするものではないのだ。
 祈りとは本来、「誓願」である。「必ずこうする」という誓いであり、明確な目標に挑み立つ宣言である。
 であるならば、自身の「人間革命」と、世界平和をめざしゆく「広宣流布」の誓願に勝るものがあろうか!
 自身の苦悩と戦いながら、友の幸福を祈り、創価の勝利を祈る。組織の活動の目標があれば、その達成を祈る。
 「三類の強敵」との攻防戦では、正義なればこそ断じて勝つと、猛然と祈る。そして、勇んで打って出るのだ。
 この「誓願の祈り」「戦う勤行」を貫いてきたからこそ、学会は邪悪をすべて打ち破り、ありとあらゆる法戦に、一切勝ってきたのである。
 だから学会員には、無量の智慧と力がわき、勝利、また勝利の功徳が満ちあふれるのだ!

    ◇

 「祈る人間には退却というものはない」とは、マハトマ・ガンジーが叫んだ有名な言葉である。
 伝統の二月を、わが同志は意気高く走り始めた。
 思えば、あの広宣流布の突破口を開いた「二月闘争」を勝利した根源の力も、「絶対に勝つ!」と決めた真剣なる祈りであった。
 「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」(同一一九二ページ)
 今再び、我々は、この御聖訓を深く拝して、勝利と栄光と所願満足のために、立ち上がるのだ!
 前進だ! 前進だ! 白馬が駆けるが如く、堂々と、生気はつらつたる勤行を原動力としながら、異体同心で戦おうではないか!
 今日も、明日も、そして、この一年も、 戦い勝っていくのだ。
 戦いゆく人は幸福だ。
 勝利する人もまた幸福だ。
 これが人生である。
 かつて私は、戸田先生に、自身の誓いを込めて、一句を贈った。

 猛然と
   祈り動いて
      弟子の道

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