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第二次世界大戦を検証する会コミュの満州事変とは何だったのか?

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満州事変は何故起きたのか?そして、それは
何をもたらしたのか?を論じましょう。
イデオロギー抜きで。

コメント(8)

まず満州事変は当時の日本の経済事情、明治維新以来富国強兵独立を保つ為に西洋の文明を吸収しつつ、不相応の軍事費を支出してきて、関東大震災の打撃にあえいでいた日本人の経済進出と当時の帝国主義時代(白人至上主義)に対する反抗、有色人種の中で唯一世界の大国の仲間入りをできた日本人が中心となって馬賊が跳梁する満州に人種差別のない国を築こうという理想のもとに、関東軍の石原莞爾らによって引き起こされました。しかしその理想を実現できずに、結果的に軍内部の下克上の風潮を激化し、建国の理想から離れ欧米諸国の植民地支配の模倣の様な事になってしまい、それがその後の日中事変につながり、太平洋戦争、中国大陸の国共内戦、朝鮮戦争などにつながっていったのでは、ないでしょうか?
不勉強ですみません。
満州事変って、石原莞爾、絡んでるんですね。
もっと詳しく教えていただけるとうれしいです。

石原莞爾の東京裁判での「ペリー呼んで来い」って
名言が大好きです。かなり気に入っています。
あの当時の人って、幕末からの無理矢理な近代化に対する
抵抗というか、反感みたいなものが心のどこかに
渦巻いている感じがして興味深いです。

石原莞爾についてはほとんど知識はありません。
教えていただきたいのですが、
石原莞爾は帝国主義に対する明白は反感を持っていたのでしょうか?また、満州に人種差別のない国を築こうという理想を
持っていたのも本当なのでしょうか?
満州事変は結果であった、と思ひます。
満州事変が何故起きたかを考えると、
言ふまでも無く、義和団事件(1900年)に
遡らなければなりませんが、忘れてはいけない
事は、日本は、好き好んで義和団事件に関与
した訳ではなかったと言ふ事です。
日本は、イギリスに強引に出兵させられ、
義和団事件に関わりました。これが原点で
ある事を忘れてはいけませんね。
西洋の帝国主義に対して反感を持っていたのは、石原莞爾らだけでなく、日本歴史自体にあると思います。例えば幕末の攘夷運動。この考えの基本は外国人を単に嫌ったものでは無く、侵略行為をする彼らの心を夷として嫌ったものです。もちろんその様に深く考えていた人間ばかりではありませんが・・・。
孝明天皇が頑なに開国をこばんだのを、また水戸の烈公斉昭の攘夷運動などを、単に外国人を嫌ったものとして歴史にかかれているのは、間違いであると思います。
話が横道にそれましたが、満州国建国の理想は確かにあったと思います。それは、蛮地だった満州の変化というか、成長が何より証明してると事です。石原は日蓮宗の強烈の信者だったと言います。その彼の宗教概念からしても、五族協和の理想は彼の基本的な思想だったと考えます。石原は東條英樹と不仲であり、陸軍を京都の第16師団長(階級は陸軍中将)最後に予備役に編入されています。師団長時代の石原の事を調べてみると彼の理想や思想、行動理念が判るのではないでしょうか?
ちなみに、大変失礼でございますが、満州事変の基点が義和団事件にあるという、西岡さんのご意見とは違う見解を私は持っております。というのは、地政学・軍事学の観点からみて朝鮮半島(渡り廊下)満州(奥座敷)この両方を確保しなければ、当時の軍事技術からして日本の国防の安泰をきすことはできません。この考えは幕末からあったものですし、西郷隆盛の征韓論にもこの思想が含まれています。何らかの事件が原因ではなく、人間が生活している土地によって個性に違いが出る様に、日本のこの様な地理に置かれている以上、どうしてもでてくる考えだと思います。(西岡さん、すいません・・。)
>>kuroさん


  別に、kuroさんの御意見と私の言って居る事が
矛盾して居る訳ではありませんよ。しかし、義和団
事件が無ければ、日本は北京に駐屯する事には成り
ませんでした。第二次世界大戦が無かったら、アメ
リカが日本に駐留する事は無かったのと全く同じで
す。そして、ロシアが満州を占領した切っ掛けは、
義和団事件なのですから、義和団事件が無ければ、
満州にロシアが鉄道を建設する事も無かったと言ふ
意味で言って居るのです。逆にお尋ねしますが、
kuroさんは、義和団事件について、どの様な御見解
をお持ちですか?
はい、私もそう思います。西岡さんのご意見を否定するものではありません。ただ北京駐屯軍が問題を起こしたのは、盧溝橋事件であり満州事変の後ですよね。北京の駐兵権と満州事変はまた別の問題であったと思います。もちろん関係がなかったというのではありませんが。
義和団事件につては、基本的に日本でもあった様な単なる攘夷運動の大規模なもの、しかしそれを清国政府の対応の拙さからロシアを始めとする列強諸国に侵略の口実、また隙をみせてしまったというものであると思っています。あくまでもこれは単にきっかけであり、もしこの事件が無ければ違うかたちで何らかの事件が起こっていたでしょう。問題は当時清国が列強の侵略の標的になっていたにも関わらず、国家として団結し得なかった事にあると思います。
やけに、従軍慰安婦のトピック、熱いですね。
このトピックも盛り上げたくなってきたので、
少し参加させていただきます。

今朝、通勤途中の車中で、ちょっと考えてみました。
義和団事件が1900年に起こってますよね。
この当時、日本は英国からの要請に従って、
嫌々ながら、中国に出兵している。
(確か歴史の教科書とかに、日本人だけやけに小さい兵隊の記念写真が載ってますよね)
義和団事件は、平和な江戸時代の終焉から32年後。
そう、明治維新から、まだ32年しか経っていない時に起こっている。
この当時の日本は、まだ、欧米諸国にとっては、
言う事をちゃんと聞く「いい子ちゃん」だったわけですよね。

そして、満州事変が、1931年に起こっている。
この満州占領は、外圧によるものではない。
日本が、軍事的な、戦略的な意図を持って
自らの意志によって起こしている事件ですよね。

義和団事件から満州事変までが31年。
この31年の間に日本の内部で何が起こっていたのでしょか?
いったいこの31年の間に日本人はどう変わってしまったのか?
何が「いい子ちゃん」だった日本人を、
「きかん坊」の日本人に変えてしまったのか?
日本人は、この31年のどこかで対外的な感情を激的に変化させている。
「いい子ちゃん」の反抗期は何が切っ掛けだったのでしょう?
近代国家の鋳型へと自分たちを塑形し、
「己」というものを押し殺し続けた明治以降、
自らの自我を如何にして目覚めさせていったのか?

この点に、日本人が第2次世界大戦へと
ひた走って行った本質的な問題が含まれているような気が
して仕方ないのですが、どうでしょうか?

博識の皆様方、ご意見、ご教示、よろしくお願いします。
博識の皆様方とあるので、自分の意見を申し述べるのに、大変気が引けたのですが、凡庸な者ですが、どうしても日頃考えていた事を申し上げたくて、あえて個人的見解を述べさせて戴きたく存じます。日本人は明治になるまで、大陸と言うか、朝鮮を含めて支那の歴史や文化に、大変な憧れや敬意を持っていたと思うのです。それが日清・日露の戦争で、大陸に渡った日本兵達は、支那や朝鮮の現実を見て、がっかりしたと思うのです。余りの貧しさと民度の低さにです。それ故、貧しかった日本兵達の故郷が、豊かに思える程であったので、彼らに対し哀れみや同情と共に軽蔑感も持ったのだと思います。辛亥革命が起こった時などは板垣征四郎や石原莞爾も、支那の将来を思って万歳をしたと聞いております。それ程に、支那の近代化に期待をしていたのだと思います。しかし、中華民国としてスタートしたのに、群雄割拠と言えば聞こえは良いのですが、一向に当事者能力も無く、誰が中華民国を代表するのか解らない状況が、余りにも長く続くので、日本軍将兵共に支那人や朝鮮人に愛想が尽きて、これでは駄目だと思ってしまったのだと思うのです。それ故、日本人が中心になって彼らを率いて行かなければならないと言うことになったのでは無いでしょうか?漢文や支那の古典や歴史書で尊敬していたのに、実態は余りにも違うことに仰天し、心からがっかりした事が、原因なのではないでしょうか?現在でも、中国を訪れた日本人は、そう思うほどなのですから。

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