ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

瞑想コミュの悟り

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
悟りというのは様々な形で定義ができますが、

私のいう悟りの一般的な定義は感覚(五感)の開放です。


皆さんが何かを見ているときに、マインドの介入無くして見ている事はありません。


何かを見るときにマインドの介入無くして見られる状態、

それがムクティ(悟り)です。


何かを聞いているときにマインドの介入無くして聞いている状態、

それを悟りといいます。


同じように、匂いを嗅ぐことも触ることも、さらには考えることでさえも、同じことが言えます。


実際、考えに対しても、そこに巻き込まれずに考えを観察している状態があります。


通常は、皆さんが考えているとき、自分がその考えを考えているというふうに捉えています。


しかし、その考えがまるで流れているかのように、自分とは独立した別個のものと捉えることは実際には可能なことです。


これは物理的な現実です。


皆さんは「考え」を見ることが出来るのです。


どんな「考え」も、やって来ては去っていき、そしてそれを見ることが出来ます。


それが悟りの状態です。


完全な感覚の開放、マインドのコントロールからの開放です。


皆さんは、絶えず五感を通して現実を知覚していますが、現状ではそれをまったく体験できていません。


どんなデータが入って来ても、常に解釈を加えながらコメントしているだけです。


木を見ながら「これは大きい木だ」、「小さい木だ」、「緑の木だ」、「マンゴーの木だ」、と言いながら絶えず木に対してコメントしています。


座ってご飯を食べているときも、会社のことを考え始めます。


そして、家族のことを考えたり、食べ物自体に対してコメントを繰り返しているばかりで、食べ物を体験していません。


そういった意味で、「物事に対してあるがままを体験したときに、それこそが至福の体験になる」と私はマハワキヤ(バカヴァンの格言集)で言っているのです。


「考えの」の介入をなくして、感覚を開放することは実際に可能です。


本来「考え」とは、必要性のあるときだけ必要とされるものです。


どうして考えが絶えず介入する必要があるのでしょうか。


必要なとき以外は、考えが私達の人生の現実体験に介入する必要はありません。


Bhagavan

コメント(37)

あはははは。

Aさん
こんにちは。

さてどうなんでしょうかねえ。

考えがあっても、それが体験を邪魔しないというか、考えも体験していることもあって、ケースバイケースですよね。

>何かを見るときにマインドの介入無くして見られる状態、

>それがムクティ(悟り)です。

なかなか面白い定義ですね。言い得て妙かもしれない。

>大きい木を見て「でっけぇ・・・」と思う事は考えは介入しているのでしょうか?

言語化しないことが一つのポイントかもしれませんね。
五感の開放はわかるんですが、
マインドの介入なく見ることもできます、
五感を開放すると五感が敏感になります。
この時、瞑想時、私は何度も強烈で鮮明な映像を見ました。

さらにクンダリーニに至ると映像は見えません(私の場合)
でも感覚的に見えている状態です。感覚的に光の輪が見えました。
大きい 小さい
正義 悪

その他 たくさん

比較マインド系に
属するのかな!?

文字も マインドかなあ?
マインドの束縛から五感を開放することはわかります。

五感とは通常
見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る
を指すのですが
最近思い当たることをひとつだけ付け足したいです。

正確に言うと、たったひとつだけの感覚があり
それは一般的に「触覚」と言いますが
その「触る感覚」というのも正確ではなく、
厳密に言えば 「身体感覚」 です。

この身体感覚が基本的な感覚なのです。

この基本感覚の上に延長として
(あるいは対象別に特化され、機能拡張された感覚として)
他の四感があるわけです。

なぜ身体感覚が基本なのかというと
身体感覚の中には (皮膚で感じ取られる触覚という機能を含め)
物質の基本的な性質を感じ取るために備えられた感覚があるから

硬いか柔らかいか
熱いか冷たいか
滑らかかザラザラしているか
丸みが帯びているか尖っているか
などなど

さらに、身体感覚は皮膚感覚にとどまらず
皮膚内の感覚、筋肉内の感覚、肉と肉の摩擦の感覚
などに及び、それらの感覚の様々な様相を呈している

ピリピリ感、刺されるような感覚
液体的に流れるような感覚、波打つ感覚などなど

身体感覚が基本的であり、最大の感応能力を備えた感覚である根拠は
無意識の部分に直結していることにあります。

血液の循環を司る心臓の鼓動、
休むことのない吸う息、吐く息、
食物を消化し、排泄する胃腸の働き、
などなど、、、

無意識とは身体の自律神経を司る人の知恵を凌駕する「智慧」の領域であり
まさに、ありとあらゆるものを知り尽くした 「神の感覚」 なのです。

だから、まずこの感覚を開放すべし!

・・・です ^^
> minomarさん
なんか 良い感じですね

早速 意識 して観ます!

これは 何感覚 なんやろ?
archetさん

感じられますか?(^^)クス…

頭のてっぺんから始め、足のつま先までくまなく意識のスキャンを通す感じです。差し当たり、皮膚で感じられる当たり前な感覚から始めるのが手っ取り早いでしょう。それを根気よくやると、そこにあったにもかかわらず気付かなかった様々な感覚が意識に上がるはずです。
この瞑想法を独自の切り口で応用されたものが
うちのマイミクさんのコミュで紹介されています。

ランニングデトックス動的瞑想、、、というのでしょうか?
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=143615&page=2&id=44325358
わかりませんあせあせ(飛び散る汗)

以降、また〜りとした語り合いはわたしの日記の方でやりましょや^^
コミュ内でははばかられるので、、よろしくお願いしますm(_ _)m 
悟りとは?を初期仏教経典から紹介します。
まず、「悟り」は、お釈迦様の専売特許ではありません。
生命の輪廻と、それからの解脱である悟りは、事実、真理の法則としていつもありました。それを再発見されただけです。
過去、幾度となく現れた仏陀が、それぞれその世界で発見して人々に伝え、又、人々の堕落と共に失われていった不変の真理が悟りです。
釈尊は、[十二因縁のからくり、苦集滅道の四諦、八正道]を発見し修行を完成させ悟りを開かれました。

その釈尊がこう説いています。
「過去の正覚者たちが辿ってこられた古い道、八正道を再発見した。その道に老死の苦、集、滅、滅に導く道を知った。それを知り、比丘、比丘尼、在家信者に示す。」南伝13P154  

悟りの四つの階梯を
「比丘たちよ、仏教にだけ第一の悟りである預流果に達した沙門、第二の悟りである一来果に達した沙門、第三の悟りである不還果に達した沙門、第四の悟りである阿羅漢に達した沙門がいる。他の沙門達の教説は空虚である。比丘たちよ、このように、正しく、この獅子咆をせよ」南伝18P417

明治時代になって、初期経典を見直す動きが西洋の仏教研究から始まりました。日本にもその流れが入り、第二次世界大戦が始まる前にパーリ語の初期仏教経典全巻(南伝大蔵経70巻)の和訳が完成し、現在も研究が続いています。

マインドの 介入を 取り除くと 覚った 状態と
言う事ですかね!

これ かなり 難しいですね!

3秒位なら 出来てる 感じ しますが やはり 瞑想とかで 長い時間 その
状態を 保つ 練習とか
するんでしょうね!
OSHOが、一分何も考えずにいれたら悟る、と言った(ような記憶が)
いいんじゃないでしょうか(笑)

思考・感情と自己同化してるより
悟った人は楽そうですよ。だから悟りはまず自分の役に立つんじゃないでしょうか。で楽そうな人は他人の役にも立つんじゃないでしょうか。だから社会的にも大いに役立つと言えるんじゃないでしょうか。

(その逆の人を思い浮かべてみれば歴然だと思います。鬱々としていたり、怒りで一杯だったり、ウソっぽかったり、etc)
生老病死からは誰も逃れられませんね

精神的四苦八苦からは逃れられるようですけどね
法が 理解できても
法は 変わらないし
変えれない

それが
法かな。

注‥人間が作った法律とは 違います。
> 意の開放

気付きによる、エゴ(煩悩)からの開放

ログインすると、残り19件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

瞑想 更新情報

瞑想のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング