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福岡正信コミュの無の哲学

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福岡正信先生につきまして、最近知った若輩者で僭越ですが、自然農法に関するトピックはありますが、哲学に関するトピックは未だ無いようでしたので、書かせていただきたいと思います。

先生の著書、『無の哲学』におけるひとつの結論、すなわち、「人間は知れば知るほどわからなくなるのである。人間の知は不知と同意義を持つ。」(P.105)に、私自身が独自で辿り着いた結論とほぼ同じものと読み込み、深く感激いたしました。

ここで先生は、「人間の認識はどうして組み立てられるか?」と問われていますが、この問いに私なりに応えてみますと、こうなります。

「認識というものは如何にして作られるのか。
認識されたものに観念による操作を加えていくのである。
観念とは概念及び論理である。
では、概念及び論理は何処にあるか?どこから来たか?
概念、論理は例え先験的なもの、人間以前のものであるとしても、それは個々の概念、論理が先験的なのであって、論理に論理を推し進めていく推論の過程においては、それは人間の作為である。
したがってそれはもはや純粋な認識では有り得ない。
推論の過程において、常に人間は認識そのものから観念の体系へと逸れて行く。」

ここで概念及び論理が先験的なものであるというのは私の立場であって、時間及び空間のような概念はカントが言うように先験的なものでは無いという先生のご意見とは異なるのですが、ここでは例え、先験的であると認めても、という意味です。

実に簡略にして大雑把な投げかけではありますが、また、投げかけなのでこれはこれで良いかなとも思い、書かせていただきました。

コメント(52)

>Violet Skyさん

お父様の言葉というのは、上からの発言だったのでしょうか。あなたは自分が否定されたように感じられたのでしょうか?そして、あなたもまた同じことを繰り返しているのではないでしょうか?

せっかくお見つけになった「一」の原理も、否定を通しては人々は受け取りません。人が耳を傾けるのは、正しさだけを通してなのではありません。
 無の哲学としての会話であるなら、

 相手を拒否したり、納得させようとする行為は?

 そもそも哲学とは「人が受け取るため」とかのためにあるとは思えません。

 宗教を含むすべての人間の思想とは子供が書いた絵であり、

 つまり個人的な体験に基づく記録でしかなく、神や宇宙をことばで説明しようと思う方が浅はかに思えます。

 しかし「はじめにことばありき」と新約聖書に書かれているとおり、

 そしてその「無」を理解するのに一番邪魔な「言葉」に、我々はしがみついているのが現実ですよね。

 ハンドルを回すと、水も火も即時に手に入ってしまう現代、

 我々は過去に生きた人間以上に星を眺めたり、そして「誰かさん」のように植物を育てることから、生きる喜びである悟りを得るべきではないでしょうか?

 そう、「言葉はうんこ」です。

 いくら期待しても、自分が喰ったものしか出てこないんです♪

 失礼しました。
 
じみーさん

せっかく良いトピックを立てていただいたのですから、もう少し話しましょうわーい(嬉しい顔)

> ここで概念及び論理が先験的なものであるというのは私の立場であって、
> 時間及び空間のような概念はカントが言うように先験的なものでは無いという
> 先生のご意見とは異なるのですが


時間や空間というものは、本来あったものではない、というのが聖書から導き出される解だと思います。
もともとは「永遠」というものしかなかった、つまり神しか存在しなかった。
それが神の何らかの事情で、時間や空間をともなった天地が創られたようです。
これは、あくまでも聖書を信じる立場からの見解です。

時間や空間が出来るということは、「制限」や「限界」が出来ることであって、
そうした時間や空間の縛りの中では、永遠や存在ということは不完全にしか現れないものと考えます。

福岡さんが、どういう意味で「時間」や「空間」が先験的ではない、と言われたのかは、もはや確かめようがないですが、神の天地創造以前においては、「時間」も「空間」も存在しなかったのは確かだと思います。

福岡さんは、仏教や聖書にも造詣が深かったようですから、聖書に触発されてそのように言われたのかもしれないと思います。

>shunさん

もう少しと言わず、いくらでもお付き合いしますよ。

時間および空間が先験的であることと、時間および空間が神によって創られたこととは矛盾しません。
先験的であるというのは、人間の認識に先立つという意味で、「神以前」の意味ではありません。

福岡先生が、時間と空間を先験的ではないという論拠は、「無の哲学」の中の「カント批判」の中のP.42〜45で、赤子が母親の乳房へ口を持っていく例を挙げて論証しています。

>神の天地創造以前においては、「時間」も「空間」も存在しなかったのは確かだと思います。

そういう言い方も出来ますし、天地創造と同時に、あるいは天地創造の一瞬前に、という言い方が出来ると思います。
が、時間の創造以前に「一瞬」が存在するのはもちろん矛盾です。
論理的な「前」と言っておきましょう。
>>17
>時間および空間が先験的であることと、時間および空間が神によって創られたこととは矛盾しません。
>先験的であるというのは、人間の認識に先立つという意味で、
>「神以前」の意味ではありません。

もちろん、そう思います。
「神以前」というものがあるとは思えないです。

また、「時間」や「空間」を創ることと、それを認識できる人間を創ることとは、そもそも設計者においてはワンセットで決められていたはずだと思います。
ですから、人間が創られる前から「時間」と「空間」が創られていたとしても何の矛盾も問題もないものと思われます。


> 天地創造と同時に、あるいは天地創造の一瞬前に、
> という言い方が出来ると思います。

そうですね。
いずれにしても、「天地創造」ということと、「時間、空間」が創られたということとは不可分でしょうね。

横から失礼。

流れを読まずに書き込む事をお許し下さい。

私見による所感を述べたいと思います。

先ず観念そのものに純粋性を求める事は出来ない。

観念を取り払った先に純粋たる身魂を感じるのであって、それ即ち、想念の塊であるということ、

そして、

無は無いからこその無であって、固定された観念等そもそもなく、より流動的な思想体系によってもたらされる主観的な価値判断による抽象的概念に具体性を持たせることによって、各々が世界を認識している。

よって、その観念を取り去れば、現実世界そのものが存在していない事になり、そこに残るのは、想念、つまり心の有り様しか残らない。

ということ、

空(ゼロ)の概念。

全て有るとは何も無いに等しい。

0=∞


この様に紐解きましたが、いかがでしょうか?


〉20

時空間は虚構である。

という事でしょうか?

『永遠の今』という考え方も過去や未来があってこそ思い至るもの、

連続体力学から考察するならフィルムとフィルムとを繋ぐ間(真空)に於いて(−)とも取れますけど、

そもそもゼロの概念は人間の知覚を主体としておいているので、マイナスの概念が浮かんで来るというだけの話。

無いものから引くことは出来ない。

あったものがなくなった状態(現象)を指してゼロが生まれた。


マイナスの概念は、記憶ですね、

云ってみれば残像です。

真円は現実的に考えて存在し得ないので、解なしと捉えて限界を設けているという話。



ゼロに近づいていく過程にマイナスが横たわっているということ、
>Violet Skyさん

>過去から未来へと流れていくようなものではありません(実際新しさや古さ、若さや老いというようなものは人間の記憶の生む観念であり、新車も中古車も、若者も老人も、それはそういう“形”として共に現在に在るわけです)。
そうすると、宇宙には始まりも終わりもなく、現在という平面で、物が組み変わったり入れ代わったり、集合したり拡散したりしているだけで、いくら過去を探ろうとも、そこにこの世界の原因はなく、

その通りだと思います。しかしもしそうであるなら、

>そこにはただひたすらに結果があるだけです。

というところですが、時間が直線的に存在するものでないことにより、原因が存在しないなら、結果という概念もまた存在し得ないのではないでしょうか。

ただ、このように言うことは出来ると思います。
人間の分別知が、元々ひとつであるものを原因と結果とに分ける、と。
なので、もし人間の分別知から「一」の立場に立つのなら、「結果」もまた存在しないと言うのが正しいと思います。
>>24
> 何が言いたいのかというと、宇宙とは必ず視点と共に在るということであって、
> 宇宙が誕生し、その後私が誕生したのではなく、宇宙と私は同じことだということです。


宇宙と視点が共に在る、ということをもっと身近なことで簡単に言うならば、
砂糖が甘いということと、砂糖が甘く感じられる人が存在するということは
一体だということでよいでしょうかね。

砂糖が甘いためには、どちらも不可欠です。
甘いということを表現するために、神は一体で表現する必要がありました。
このように、すべてのものが関連付けられていると考えられますし、
こうしたすべてをひっくるめて、「一」とか「神は唯一である」と言えると思います。

僕は、「原因」と「結果」は、この世界においてはあると思います。

聖書においては、この世界、つまり「時間」と「空間」に縛られたジェネレーションは、いつか終了して永遠に入ると教えています。

ですから、この世界というのは、偉大な実験場のようなものだと僕は考えています。

「永遠」、つまり時間の無い世界においては実験は不可能だからです。
>Violet Skyさん

>私は「そこにこの世界の原因はなく」とは書きましたが、原因が無いとは書いてませんよ。
>
>私は「一」こそが、この宇宙の一切の原因であり、実体であると考えています。

なるほど、そういうことなら分かります。失礼しました。
また、「一」こそが一切の原因であるとともに、その「一」もまた結果であるとも言えると思いますが。

>shunさん

>僕は、「原因」と「結果」は、この世界においてはあると思います。

その通りです。
この相対の世界を相対の世界であると認めた上で、あると言えば、全てがありますし、また、絶対においては無いとも言えます。
どの視点に立つか、立つ視点によって表現が変わって来ると思います。
>Violet Skyさん

「構造(相対性)」とは何ですか?
「構造」及び「相対性」は、それぞれの概念は分かりますが、このように表現されると分かりません。
独自な表現を使用する場合、ある程度の説明が必要であると思います。

存在そのものではなく、あれやこれやの存在物のことを指すのであれば、存在物に先立って存在があることには私も異論がありませんが。

それって心の事ですよね、
真空(精神)世界。

心=宇宙

ワンネス理論。

『全一・一全』の理

生命があったのではない
永遠なる魂があった。

>Violet Skyさん

31の書き込みに関して、概ね異論ありません。私と矛盾する部分もありません。

>私はこれと逆さまに、先ず生命が在り、それがこの宇宙を生んだ、というようになります。

これが、27で私が書いた「また、『一』こそが一切の原因であるとともに、その『一』もまた結果であるとも言えると思います。」ということです。
おそらく、「一」の定義がお互いに違うのかも知れません。
私にとって、「一」=存在=非実体です。では実体は何かと言うと、無が実体です。無=神と表現しても構いません。

なので、あなたが28で書いてらっしゃる、

>例えば、世界が結果なら、原因は神というように。

は、同じ意味です。

あの世はこの世
この世はあの世

魂の存在を肯定できれば、
二元論は三元論となり、一元化されていく、

物質世界は精神世界へと転換をはかり、現実世界に投影される。

つまり、

私達は未来永劫、無になることはない。

私達は死なない。

何故なら、

死後の世界は現実の世界そのものだから、



0と1からなるバイナリーツリーは、仮想現実への囚われによる思考の呪縛。

カオスを生み出す善悪の偶像。
頭で理解することと、体験することは全くの別物です。
体験することは、ある意味、とてつもなく恐ろしいことです。
ひょっとしたら、人はその恐怖から逃げるために、
頭で理解しようとするのかもしれません。
>Violet Skyさん

>じみーさんにとっての「一」は、一、二、三、と数えられる存在を指すのですね。

いや、「一」はあくまで「一」ですが、人間の分別知だけが、「過去/現在/未来」、「原因/結果」、「主体/客体」、「大/小」、「精神/肉体」、「心/物質」、「生物/非生物」、「神/人間」等々…、と分けるのです。
そういう意味では、一、二、三、と数えられるとも言えますが、あれやこれやの存在物なのではありません。全体ということです。「一にして全」という場合のの「一」です。
violet sky様

そうですね、

私にとって死とは夢から醒める事だと思ってます。

現実よりリアルな世界がそこにある。

覚醒。

人格から仏格へ、
そして神格へと、

三位一体となり、完全な世界を創造し得る。

そう思います。

>Violet Skyさん

>「一にして全」、そしてこの「一」は存在であり非実体であり、実体は「無」である、というのがじみーさんの認識ということでよろしいでしょうか。

そうですね。認識というよりは定義でしょうか。
何を「一」とし、何を「存在」とし、何を「実体」とするかという、定義ということで、人によって定義が違うことで、実は同じことを言っているのに違っているように見えるということがありますね。

「無」が実体であると私は言いましたが、この「実体」という概念もまたくせものですね。
「仮象」または「幻」の対概念として「実体」と言うと分かったような気がしますが、この「実体」という概念をじっと見つめていますと、実は何を言っているのか分からなくなって来ます。

最初にこの概念を明確に定義したのはおそらくアリストテレスの「形而上学」において、いわゆる、何かそれ自身以外のものによって存在するのではなく、それ自身に存在根拠を持つもの、という定義であると思うのですが、この定義自身、間違ってはいないとは言え、何か完全な定義ではないという感じを私はいつも持つのです。
正しく言っていながら、しかし何も言っていないという感覚を持つのです。

般若心経の「色即是空 空即是色」すなわち、一切は空であるとともに存在でもある、あるいは物質でもある、というのは、実体は存在しないということですね。

物質や存在を非実体とし、無を実体と言うのも、これまた福岡先生の言うところの人間の分別知であり、前言を翻すようですが、ある側面の一方を実体とし、他方を非実体とするのも間違いなのかも知れません。
>Violet Sky さん

> 私も世界を“一故の仮象”と見なしているので、ここに異論はないです。

そうですか。残念です。
僕は、この世界というのは、存在が現れていると思っています。
存在が不完全ながら、瞬間瞬間に現れているのが、現象世界と考えます。
ですから、「一は存在で、世界は一故の仮称」というViolet Sky さんのお考えには同意しかねるものです。

この世界もまた、存在が現れているわけです。
しかし、同時に「無」あるいは「死」というものも干渉しています。

存在が1だとすれば、0に相当するものも、この世界には確かにあり、
そのため、この世界は完全ではなく混沌なのです。

0を「無」と呼ぶべきか、「死」と呼ぶべきなのかは分かりませんが、
この世界というのは存在と非存在とが、交互に干渉して出来上がっています。

だから、物質は「在る」とも言えるし、「無い」とも言えるわけです。
瞬間瞬間に交互に、存在と死とが現れているからです。
この世界というものは、このようにして出来上がっています。
そのため、完全な実体はなく、「諸行無常」であるわけです。
蛍光灯の光は、人の目にはずっと点灯しているように見えますが、
実際には早いスピードで、点いたり消えたりを繰り返しています。
この現象世界、あるいは、物質というものも、これと同様です。
「在る」とも言い切れないし、「無い」とも言い切れません。

よく、この世は「映し絵」のようなものだ、などと分かったようなことを言う人もよくいますが、
「映し絵」の世界で『人は体に怪我をするとなぜ痛むのか』という単純なことが説明できません。

もちろん「痛み」に限らず、「感覚」というものは、
自分が生まれる前から存在しているものです。

しかし、この世においては「永遠」ということがありませんから、痛みも本物の傷みではありません。
常に時間とともに変化しているのが、この世の理ですから、痛みも和らいだり、強くなったりするわけです。

しかし、本当に「存在」と「死」とが切り離されたなら、痛みも苦しみも心地よさも、「永遠」になってしまうでしょう。
つまり、それが「存在」と一致すること、または「非存在」と一致することであって、そうなったなら、この時間と空間に縛られた世界は消えているでしょう。
道元さんは、
「死んでから極楽浄土に行くのではなく、この世界にいるうちに、
すでに極楽浄土に生きる」ということを言っていたそうです。

この道元さんの言っていることが、
現象世界に、瞬間ごとに現れている「存在」を認識して生きる、
という意味だとするなら、僕は、まったく道元さんに同意します。
>頭がぶっ飛びました。

これが正解でしょう。
>あなた方は、私が「仮象」と言っているものを「実体」と言っているように聞こえますし、

そうですか?ふうむ。

>どうも私が言っている「実体」は、お二人の認識には未だ存在していないように思います。

あはは。また出ましたね。「私は真実は知ってます、あなたはまだ到っていませんね。」的な、高みからの物言いが。
素晴らしいです。どうぞ孤高の道を先へ先へとお進みなさい。
「自分は知ってます。あなたは分かってない。」的な発言は何も生みはしません。あなたが自尊心をくすぐられる以外には。
それを言うことであなたは私に何を伝えたいのです?
ご自分の心に手を当てて考えてごらんなさい。
あなたは何が欲しいのです?

あなたが態度を改めたように思えたので、再び会話を再開したのですが、やはり変わってなかったようですね。これ以上は無理です。
頑張ってください。それぞれの道を行きましょう。

曖昧な真理というものは存在しない。

真逆の真理というものも存在しない。

真理とはすべてを包括する理である。

よってすべてが真理だといえる。

 俺が思うに

 無ってのはさ、

 「ない」「できない」の無であって、

 ゼロの無じゃないんですけど、、、


 勿論俺はそのゼロの無の存在に期待しています。

 でもね、

 あなた方本当に「無の哲学」で論議してます?
> 無ってのはさ、
>
>「ない」「できない」の無であって、
>
>ゼロの無じゃないんですけど、、、

無は「ない」じゃないです。

「ない」は、「ある」/「ない」の「ない」であって、「ある」を前提にして発生する「ない」、「ある」の否定としての「ない」であって、むしろ、それが存在の欠如=0(ゼロ)=「ない」です。

あなた本当に「無の哲学」で論議してます?
私は無こそがすべてだと思います。

そこに「1」を足したものこそが現実の世界、この世ではないでしょうか?

ここで言う「1」及び「現実の世界」「この世」とはもちろん俗に言う「この世」を中心にした言葉での意味で、です。

だから1のなかに0も含まれている。
0+1=1


そして概念とか観念とかは
魂の記憶に刻まれていることからくるものだと思います。
またはいのちのリレーの中で蓄えられていった記憶とでも言いましょうか。
単純に言うと集合意識。

「渋谷は都会的で刺激的で楽しくてなんでもあるもの」
という観念が今の渋谷を創り上げましたよね。
誰かが創ったんじゃないんです。
集合意識がそうさせたんです。
その「楽しい」の方向性はともかくとして・・・あせあせ

概念や観念はどこから来たのかで悩むよりも
とにかく愛を実践して頭・心・体・魂をバランス良く動かしましょう!!

そうすればどんどん大切なものが見えてくる。

削ぎ落とされてどんどんシンプルになる。

そこで「腑」で感じることが「無の哲学」であると思います。

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