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ちりめん山椒(連歌 俳諧 連句)コミュの作法式目など

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俳論・連歌論、先人の句や歌の評釈、関連書籍の感想等なんでも書き込んで下さい。
すべてに先立って、ここで守るべき基本的な作法について箇条書きします。


          正風芭蕉流準拠十カ条

1、二句で短歌になるように詠む。
  俳諧は上下取り合わせて歌一首と心得べし。 (芭蕉翁二十五箇条、支考)

2、一句単独で意味が通じること。短歌の詠み掛けのような句は詠まないこと。

3、二句で意味が通じること。これが付くということである。

4、三句の間で転じ変化していること。打越と同趣・同想にしないこと。

5、前句に付け過ぎないこと、ただし脇は除く。
  付け過ぎにならないよう、見立て替え、余情付け、疎句付けによる二句
  の転じも活用する。

   去來曰。附句は附ざれば附句にあらず、附過るは病なり。
   蕉門の附句は前句の情を引來るを嫌ふ。ただ前句は是いかなる場、いか
   なる人と、其事・其位を能く見定め、前句をつきはなして附べし。
                         (去来抄、去来)

   前句にいひのこしてあるものから趣向を遠く句作を近く附くべし。
                         (俳諧寂栞、白雄)

6、春秋3〜5句 5句去り、夏冬1〜3句 2句去り、花は折に一つ、月は面に
  一つ、だだし名残裏は除く。          (貞享式海印録、曲斎)

7、同趣・同想のものはなるべく避け、詠む時は十分に離して詠む。この類いは
  芭蕉流準拠で臨機応変の沙汰。(貞享式海印録、去来抄、三冊子などから芭
  蕉翁の生の声、作品から総合的に判断)

   差合の事は時宜にもよるべし。先ずは大方にて宜し。格は句よりは
   なるる也。はなるるにならひなし。       (三冊子、土芳)

8、短歌として、語呂・リズムを損ないやすい、短句下七の四三は避ける。
  http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=13126368&comm_id=1303056&page=all
  No.70 No.87

9、付句で特に避けるべき作法
 (1)前句の一部の言葉や言葉尻をとらえ、前句とはそれ以外関係のないこと
  を詠む。結果、二句一連で支離滅裂、意味が通らない。しかもこれが芭蕉門
  の余情付け、匂い付けだと大いなる勘違いをしている。
 (2)付け過ぎは初心者だと言われるので、はじめからまったく前句と関係の
  ないことを詠みベテランのふりをする。無心所着歌、はいかい鉄砲は駄目。
                           (去来抄、去来)
 (3)前句に引きずられ単なる前句の説明、言い換え。前句の続き、これを昔
  から前句の噂(うわさ)、前句の断(ことはり)と呼び嫌う。
                        (俳諧十論發蒙、支考)
10、心構え ー 連衆心
  連句は、その一句としての価値を完全に発揮するためには、
  ・必ず前句を生かさなければならないこと、
  ・前句を生かすには、前句の中に潜在的にひそむところの余情的な世界に
   着目して、それを別趣の映像として発展させることによって、前句に新
   生命を与える手段が取られていること、
  ・その生かし得たものによって付句の作者は自己の作を創造し、これを発
   展させるものであること等が、おおよそに理解せられたかと思う。
  他を生かすことによってのみ自己が生き、自己が生きることは同時に他
  を生かすことであるという消息は、ここに明らかにみられるのである。
                     (連句芸術の性格、能勢朝次)

  人の付け方が自分の気に入らぬ時でも、それをそのままに受納してそうし
  てそれに付け方によって、その気に入らぬ句を気に入るように活かすこと
  を考えるのが非常に張り合いのあることのように思われます。
  これはもちろん油臭い我の強いやり方ではありますが、そういう努力と闘
  争を続けることによって芭蕉の到達した処に近づくことができるのではな
  いかという気もします。甚だ非凡なことではあるが適切にそういうことを
  感じましたから申し上げます。     (寺田寅彦と連句、榊原忠彦)

                             以 上

コメント(113)

芭蕉翁二十五箇条

一、指合之事

 俳諧の指合の事は、はなひ草の類にしたがふべし。

 すこしづつの新古の事あり。されど一座の了簡を
 以て、初心には随分ゆるすべし。

 一句の好悪を論じて、指合は後の詮議なるべし。

 指合は変化の道理なりと先づ、其の故をしるべし。

 変化の不自在なるより、世に指合の掟あり。

 万物の法式は、此のさかひにて知るべし。


注:はなひ草の類 
  立圃『嚔草』1635年、貞徳『誹諧御傘』1651年
  などの俳諧作法書。立圃は貞徳に師事。芭蕉は貞門の作
  法書は信用しがたしと三冊子で述べている。二十五箇条
  の言は、著者、支考のフィルターがかかっているようで
  ある。
私にとって
>もの識りになるよりも心の俳諧が肝要であると教えている。

>形式的方則の利害は、ここに至って明らかに説明せられたものである。

は、分りやすい。手(チョキ)

>一句の好悪を論じて、指合は後の詮議なるべし。
は、分りにくい。あせあせあせあせ(飛び散る汗)
>一句の好悪を論じて、指合は後の詮議なるべし。 は、分りにくい。

よくぞ疑問を持ってくれました。わーい(嬉しい顔)

これこそが芭蕉流の核心中の核心と思われます。
貞享式海印録の貞享式とは、芭蕉翁二十五箇条のことでこの解説も載っています。
私のあやしい咀嚼で紹介しますね。

【一句の好悪を論じて、指合は後の詮議なるべし。】
一句の好悪とは作がいいかわるいかということではなく、前句から付句
がどれだけ転じ変化しているかということである。前句から転じた好い
付句をしていれば、たとえば打越に猫が居るとき付句で鼠を詠んでも生
類の打越を咎めない。反対に前句の情に引きずられた悪い付句は、趣向
がいくら打越とかけ離れていて式目的に問題なくても付句を咎める。

※一般はいきなり式目からみて打越をとがめ面白い付句を没としてしまう。
 前句から転じた好い付句であれば、式目は吹っ飛ぶということと同じで
 しょう。

 前句を転じる妙法により、機械的に変化をつけようとする式目は吹っ飛
 ぶということですね。要するに式目に寄る他力から、自分の付け方に寄
 る変化自在という自力への昇華でしょう。

 『格は句よりはなるる也。はなるるにならひなし。』(三冊子)

 
 良くわかりました。ありがとうございます。

>『格は句よりはなるる也。はなるるにならひなし。』(三冊子)

    ・句がら良ければすべて良し。
    ・守、破、離
    ・理より入りて理を離れる。
    ・融通無碍、自由自在      exclamation & question
本連句辞典 抄

●二句の転じ、三句の転じ
 二句の転じとは、前句に対して付句がどの程度離れて句の世界を発展的
に変化させているかをいう。したがって、発想が飛躍せずに前句に付き過
ぎているのは転じていないことになり、逆に飛躍し過ぎて前句から離れて
しまったものは転じの対象にもならない付けであるといえる。

 三句の転じとは、、打越・前句・付句の三句の見渡しにおいて、差合も
なく三句目が打越の世界から転換して付いているかをいうが、特に付句が
前句のみならず、打越からも十分離れて流れが逆流せずに付いているかを
重視したものである。このため前二句の転じからさらに転じてゆくという
意味で、三句目の転じとか打越の転じという。

 打越 ー転じー> 前句 ー転じー> 付句  二句の転じ
【打越 ー転じー> 前句】ー転じー> 付句  三句(目)の転じ     

※こういうことか。これが本来だとすると相当誤解してきた。

 転じの対象とする内容は差合のみでなく、趣向や意味・余情をも含み、
これらが近い関係になく、二句間の余情が匂い立つように鮮やかに浮か
び出て、三句間の余情の流れが自然と変化してゆくようなものをよい転
じといい、見事に転じることを転じ切るという。

※転じとは三句間において付句が打越と異なることにより実現される変
化だと、ネット連句の先輩方や連句入門書によりそう納得してきた。し
ばらくしてよくわからないながら二句の転じもあるのではないですかと
聞いたら言下にそんなもんはない、転じは三句間でしかありえないと言
われた。

※前句を見立て替えしたり、前句の情に引きずられないで前句と必然的
・論理的に関係のないことを詠んで二句一連(短歌)で意味をなすよう
にすること、これ自体が二句の転じであった。二句の転じが連句の地で
あったのだ!
>なんでも書き込んで下さい。
と言うことなので、
自由連句 百韻「別れ霜」の続きを此処で

1.講談師見てきたような嘘を言い手元不如意でみやげ少なく
     講談師が土産少ないので自分の得意なところを生かして土産話をしたがどうしても少々の誇張が入ってしまう。と言う句意ととってもらえればありがたい。(?と言うことはべた付けでは無いということですね。)

 「他の2句は前句に引っ張られている。」と言うことは「べた付け」ということでしょう。

2.3番目(今度来るとき焼いた小鉢を持って来る 波)を選びたいのですが、 仮に、てすさびににしておきますね。
     .>今度来るとき焼いた小鉢を持って来る   波 
     >てすさびに焼いた小鉢を持って来る    波 

     私の所属する川柳会では上五は若干長くてもかまわないということになっていますが、芭蕉            
    翁は上五の長い句は詠まなかったのでしょうか?
     川柳会でも5,7,5以外は川柳として認めないという会派があるということは聞いています。
       
3.37 2009年10月03日 21:32
春蘭
花は折に一つ月は面に一つ(名残裏のぞく)は守ります。
ただ面の13句目で詠みなさい(これがいわゆる定座
ですが)という作法はもともと連歌にはないということです。
ですから花が月より先もあるし月花一緒もあります。

について
 
・花は折に一つ月は面に一つ(名残裏のぞく)は守ります。   了解です。
・ただ面の13句目で詠みなさい(これがいわゆる定座ですが)という作法はもともと連歌にはないということです。
      そうですか、分かりました。

・ですから花が月より先もあるし月花一緒もあります。

  例があったら紹介お願いします。
>1.講談師見てきたような嘘を言い手元不如意でみやげ少なく
>講談師が土産少ないので自分の得意なところを生かして土産話をしたが
>どうしても少々の誇張が入ってしまう。と言う句意ととってもらえればありがたい。
>  (?と言うことはべた付けでは無いということですね。)

そういう意味でしたか。これはベタ付けではないですね。

>「他の2句は前句に引っ張られている。」と言うことは「べた付け」ということでしょう。

ですね。

>私の所属する川柳会では上五は若干長くてもかまわないということになっています
>が、芭蕉翁は上五の長い句は詠まなかったのでしょうか?
>川柳会でも5,7,5以外は川柳として認めないという会派があるということは聞
>いています。

俳句でもそうなのかな。上五の若干長いのはいいが中八は絶対駄目とか。まぁ初学に
は駄目と言っておきながらベテランはその掟をばんばん破るというのは川柳、俳句、
短歌などどこでもあるみたいですね。芭蕉さんはベテラン中のベテランですから上五
の長いのや中八もみかけたと思います。が、ほとんどは575ですね。
       
>ただ面の13句目で詠みなさい(これがいわゆる定座ですが)という作法はもともと
>連歌にはないということです。

花や月の句は栄誉と思われていて連衆は遠慮して詠まず、結局面や折の後ろの方で詠
むことが多くなったのでだれか(貞門か)が定座を定めそれが金科玉条のようになっ
てしまったようです。

>ですから花が月より先もあるし月花一緒もあります。
>例があったら紹介お願いします。

『十七季』の初心者用季題表に続いて蕉風季題表が載っていますよね。これをみれば
一目瞭然、定座をはずした月や花、月花一緒がたくさんあります。自由連句はこの
路線でやりたいですよね。

芭蕉七部集の全文テキストはこちらとかに。


http://www.j-texts.com/kinsei/h7buah.html
>これをみれば 一目瞭然、定座をはずした月や花、月花一緒がたくさんあります。

そうですか、私の勉強不足も一目瞭然となりました。冷や汗あせあせ(飛び散る汗)

>芭蕉七部集の全文テキスト
   ありがとうございます。
芭蕉の「軽み」の付け方

   
   いまだ軽みに移り兼ねしぶ/\の俳諧散々の句  
             (元禄七年八月九日の去来宛芭蕉書簡)

序:
富山奏氏(1)は従来の芭蕉の軽み論は、軽みについて具体的に語っている幾人かの門人の言説に頼ってきたが、芭蕉は門人のレベルに応じて方便を使い教えを垂れるので門人の言説をいくら集め総合したところで芭蕉の真意には迫れないとする。

またほとんどの論客は軽みを発句中心に論じて来たが、よくよく芭蕉の言説を調べると、軽みについてはほとんどが連句の付けに対して述べており驚きさえ覚えるとし重大な片手落ちだったとする。この二つを氏は反省点として芭蕉の言説に依拠し連句による論を展開する。

本論:
元禄七年八月九日の去来宛芭蕉書簡には「いまだかるみに移り兼ねしぶ/\の俳諧散々の句」とある。富山奏氏はこの芭蕉の言を、元禄七年七月二十八日、猿雖亭夜席で巻かれた歌仙『あれあれて』を主に念頭においていると推論する。

この歌仙を巻いたときの芭蕉の真筆草稿が存在し、そこには芭蕉が伊賀連衆の句を添削した跡が載っている。添削部分のみ示し詳細な説明は省略。なぜそう添削されたかは、下の芭蕉の「軽み」の付け方に要約されている。

    歌仙『あれ/\て』
    
       元禄七七月廿八日夜猿雖亭

  あれ/\て末は海行野分哉  猿雖
   鶴の頭を上る粟の穂    芭蕉
   。。。
ウ                     (芭蕉の添削後)
   崩れかゝりて軒の蜂の巣  卓袋
  花盛真柴をはこぶ花筵    土芳  焼さして柴取に行庭の花
   柳につなぐ馬の片口    木白   こへかきまわす春の風筋

二ウ
   行儀のわるき内の六尺   望翠   行儀のわるき雇ひ六尺
  花盛湯の呑度をこらへかね  配刀  大ぶりな蛸引あぐる花の陰
   戸を押明けてはいる朧夜  木白   米の調子のたるむ二月


■芭蕉の「軽み」の付け方:
【要約すると次の如くなる。先ず桜に柳と言ったような固定した型にはまった言葉付けや、或は意味付けにしても、「行儀のわるき雇ひ六尺」に「花盛湯の呑度をこらへかね」と言った全く同じ内容を繰り返した停滞した付け方や、「大ぶりな蛸引あぐる花の陰」に「戸を押明けてはいる朧夜」と言った同一人の動作を続けて説明したような飛躍の無い付け方を否定するものである。

しかも、「崩れかゝりて軒の蜂の巣」に「花盛真柴をはこぶ花筵」と言ったような前句の中の一部分の意味のみに応じて、他を捨て去るような付け方は、如何に句境を転じ飛躍させる為であっても容認しないのである。

即ち、前句の意味や気分を逃すことなく、あくまでも尊重しつつ、然も軽やかに句境を進転させて行くのが「軽み」の付け方なのである。そして、その為には、当然一句そのものの調子も、あくまで軽やかで、前句から受けついだ調子の流れを塞き止めるような句を作ってはならない。

自分の句のみに力みすぎて下手に趣向を凝らす時、丁度糸の途中に結び目が出来た様に、そんな句が出来るものである。さりとて、平板安易で何の曲も無い句では話にならないのである。此処が「軽み」に言うべくして行い難き点であろう。】

■芭蕉の「軽み」の発句:
【ところで、発句に於ける「軽み」も、本質に於てはこれと同じ精神である。下手に趣向を凝らすと句がもたつくし、平板安易一方では何の曲も無い駄作となってしまうのである。

従来「軽み」が平易通俗な句体であるとか、濃艶・繊巧の美を排するものであるとか、或はまた、景気とあらびを尊重して情辞のねばりを排し、通俗卑近性や現実性を重んじて古典性を拒否するなどと言われるのも、皆此の精神の発現する種々相に触れたものである。

芭蕉自身が「手帳にあぐみ」(杉風宛書簡)と言って、わざとらしい趣向に依る拵え物の句を排しているのも、同じ精神の現れた一つの場合である。ー以下略ー 】

感想:
本論で富山奏氏が指摘する<軽みの付け方>は、我々現代の連句人も守るべき基本的なものであろう。これを読んで耳が痛いとか何も感じないなら、<いまだ軽みに移り兼ねしぶ/\の俳諧散々の句>ということであろう。

大学の卒論が『芭蕉の軽み』で、それ以来研究し続けているという富山奏氏は、新版近世文学研究事典では「芭蕉が発句の詠出法として強調した「かるみ」とは本意として内に深遠な伝統的風雅心を宿しながらも、その表現は素朴に、さりげなく眼前の実景描写のように行う手法であった」としている。これは一般向けでそれはそれで発句中心の穏当な定義であろう。

芭蕉は他の作法についてと同様にきちんと理論的で実例的な軽み論を文書として残さなかった。軽みにおいては門人の誤解と脱落離反という憂き目に会った。後世の芭蕉学者も当時の門人同様、ああでもないこうでもないと終わることのない論争に巻き込まれている。芭蕉が秘すればこそ論が百花撩乱と花開くというところであろうか。

参考文献:
(1)富山奏『異端の俳諧師 芭蕉の藝境』、和泉書院、1991年
(第一章 芭蕉晩年の「軽み」の藝境 第一節 元禄七年の芭蕉の藝境 ー特に従来の「かるみ」の解釈への反省としてー)
 趣向を凝らさず軽がると付ける、しかし安易平板はだめ。
前句に付きすぎているのも、付いていないのもだめ。
前句の一部にこだわってはだめ、前句の全体に付け前句とは飛躍が必要。

 でしょうかexclamation & question

なんと難しい。

 技巧を感じさせない技巧。
努力を感じさせない天才。

 千利休の茶の湯の精神にも通じるか。
たしかに、芭蕉の軽みを名人の到達した境地と解釈した芭蕉学者もいるようですが、私はそれはどうかなと思います。多くの門人が名人になったら芭蕉の影が薄くなってしまうしわーい(嬉しい顔)

>前句に付きすぎているのも、付いていないのもだめ。

ちりめん山椒では、前句と付句の二句一連で短歌となるように詠むとし、これらは最近ではほぼ守られていますよね。

>前句の一部にこだわってはだめ、前句の全体に付け前句とは飛躍が必要。

前句の一部にこだわってはだめ、前句の全体に付け までは、ちりめん山椒では現在ではほぼ守られていると思います。 前句とは飛躍が必要 というのは、蕉風門の二句の転じ(多分、見立て替え、余情付け、疎句付けなど)のことで、これはぼちぼちというところでしょうか。

>趣向を凝らさず軽がると付ける、しかし安易平板はだめ。

これは、【力みすぎて下手に趣向を凝らさず軽やかに付ける、しかし安易平板で曲がないのはだめ】くらいの表現が妥当なところでしょうね。前段は誰でもやりがちですね。

問題は曲、辞書で引くと、以下ですがこれは俳句や川柳でも言われることではないですか。別の言葉かも知れませんけど。
曲   :音楽や歌謡の調子やふし。いろいろと変化する面白みやうまみ。
曲がない:型どおりで面白みがない。きまりきっていてつまらない。

ということで、私はやたら難しいことを言っているのではないという解釈です。これらを完璧に守るところまでは到達していませんが努力すればなんだかいけそうな気がする〜♪ ウインク
>前句と付句の二句一連で短歌となるように詠む。
>蕉風門の二句の転じ(多分、見立て替え、余情付け、疎句付けなど)。
>力みすぎて下手に趣向を凝らさず軽やかに付ける、しかし安易平板で曲がないのはだめ。

>曲がない:型どおりで面白みがない。きまりきっていてつまらない。

 えんぴつ覚えておきます。
新刊『連歌辞典』

正風連歌にフォーカスし、連歌の用語、作法、式目、歴代の連歌師、連歌作品、連歌論、紀行文などを網羅している。俳諧の連歌は対象外。目が止まり書き留めて置きたいと思った箇所は以下の三つ。

QT @連歌辞典: はじめに
とは言うものの実は、現在、連歌は意外に盛んなのです。どこの話かと疑われるかも知れませんが、主としてインターネット上での話です。 ・・・ ネット上に多くの連歌会が開かれ、不特定多数の人々が連歌(らしきもの)を作っているのです。
(同じくらしきものを詠んでいるうちらの存在も確認してくれたかしら(^^))

QT @連歌辞典: 取りなし
付け方の一体。前句の言葉や意味を、もとの意味と違ったものに取りなして転じる手法をいう。二条良基『撃蒙抄』にも見える同音異義(「恨み」を「浦見」など)に転換する詞の取りなしと、前句の場面や動作主体を転化する心の取りなしとがある。宗牧『当世連歌秘事』によれば、宗砌はこれも大事であるとしたが、宗祇は『長六文』で好ましくない例を挙げて批判した。宗長『連歌比況集』では前句のもとの内容を無視することのないように注意すべきと説く。
(俳諧の連歌では、基本原理の一つに昇格している。見立て替え。平易に言えば曲解。)

QT @連歌辞典: 二五三四の句
短句の下七音が、二音と五音に分かれずに、三音と四音になるのがよいということをいう。」『肖柏伝書』には「二五」の句として「山の遠きやまづ暮れぬらん」を挙げ、「まづ」と「暮れぬらん」と切れるので、「ことのほか句がら切れ切れにて聞きにくきや」とし、「山の遠きや夕べなるらん」とすれば、「夕べ」と「なるらん」となり、「これはのびのびとしてしかるべく候ふ」と述べる。宗牧『四道九品』では「下句の習ひ」として、「二五三四はよきなり」、「五二四三は悪きなり」としている。
                 *
    肖柏  宗牧  通泰  茂吉  猿蓑  春蘭
二五  ●    ○   ー   ー   ●   ○
五二  ー   ●   ー   ー   ○   ○
三四  ○   ○   ○   ○   ○   ○
四三  ー   ●   ●   ○   ●   ●(但し調べのいい四三もある)

*短歌に於ける四三調の結句 http://is.gd/b2ANn
平句(ひらく)
丈石『俳諧名目抄』には、「発句・脇・第三・挙句・四本の花の句、これ以外はみな平句といふ」とある。(『連歌辞典』)

なるほど。平句と言えば前田雀郎の川柳論、これだ。

前田雀郎『川柳と俳諧』  
「川柳を俳諧につないで考えたのは、私が早いかと思っております。したがって私のいま川柳に於てこころざすところもそこにあります。つまり俳諧の平句の心持に立って川柳する。これが私の、主張というよりも実践であります。」

なるほど。
yaaさん
>三句はいわゆる留めにこだわることが多いように思いますが(ご存知のに・て・にて・らん・もなし)

たしかに入門書は口を揃えてそうなっていますよね。熟達者でもそれをとことん守られている方もおられることでしょう。でもmustとなっていないでbetterとか”普通は”となっているのが微妙ではありますね。こういうものは守っていればいちゃもんが付かず安心ではありますが、自在という観点からはどうでしょうか。

『貞享式海印録』では、第三の事とし「第三の留めに、文字の定めたる事は、一句の様は発句のようなれども、下の留らぬ所にて、発句にあらず。次へ及ぼすべきためなり。この理を知る時は、にの字(に留め等)にも限らずと知るべし。。。第三の様を知らぬ時は、やはり定めたる留めしかるべし。」
となっています。

第三の様(さま)を知っているなら、これらの留めに限らず使え。様を知らないなら
これらの留めを使えと。で今回の第三の居りは下が留っておらず次を誘い第三の役割を果たしていると言えますよね。連歌と俳諧の例が載っていて発句から三連続の体言止めです。「我が家の俳諧(芭蕉流)には辞留め(てにはどめ)、体言留めともに何句続いてもその誡めはなく、ただ其の座の趣きに任せて何留めもせよとのことなり」と一般論を展開しています。

>手元の2008年の連句年鑑をちょっと見てみましたところ、発句に月並みの「月」が
>あっても、最初の月の定座をそのまま月で詠んでいる歌仙が複数あり、このあたり
>の塩梅に興味を持ちました。

月の字面ではなく意味で判断したということですね。リーズナブルな一つの判断だと思います。

>「終バスに小愛男ひょいと乗り」(2008年 連句年鑑 連句協会発行p74より)
>が出ています。「小愛男」はひょいと乗りを呼んでくるワードなのかもしれません。

連句協会は一つの流派(たとえば伊勢派)だけではないですよね、いくつかの流派が混ざっていると思いますが、異なる式目作法の最大公約数的な合意とか落としどころとかは定義されているんですか。もし、あってネット上に掲載されていれば見てみたいです。
ここは、一口に言えば(猫蓑さんの式目 ー 自他場論)を緩めにという感じですね。
で、このトピックのトップにカキコしてありますが、【標準的式目とは言え、メンバーの出自で緩いきついと幅がありどれが正しいとは言いがたい。式目作法で疑義が生じた場合は芭蕉さんにお伺いを立て捌いていただく(芭蕉さん在世当時の蕉門ではどうだったか、三冊子、去来抄、貞享式海印録(蕉門の俳諧の分析)などを調べて決める)。名付けて臨機応変の沙汰。】
ですから、『貞享式海印録』はあんちょことして重宝しています。それをベースに古文に当たればいいので(^^)新幹線
第三  永き日を漆文箱を出してきて  春  百 が正解ですねw

>*連句を芸術として研究し、古文書を読み解く  ということと、
>*一般の連衆を捌いて歌仙を巻いていく技術 というものは、また別な点がある
>と思います。
たしかに、でも結社的でない人間には両輪だと思いますね。ここは結社じゃない
緩い同好会みたいなもので、結社的な振舞はなじみませんしね。

>満尾のあと、旧かなと新かながまざっていないかなどの見直しも大切ですし、
>なんといっても打越とついてしまってはどうしようもありません。
前者は個人が新旧を使うのはだめよとし、全体では混在ありです。外部的に本
とかに載せるケース(まだ一回しかないですがw)では、旧かなに統一、下七の四三
を全部直しました。

>春蘭さんは一直はなさらないの?
あきらかに大きな式目違反がないかぎり、結社でも主宰でもないのでやりません。
ネットの連句会を色々わたってきて、この件ではものすごく学習していますので、鈍感力ともともとの鈍感を発揮しています(^^) 
twitterで4月26日につぶやいたものをベースに。文章べたな自分ながら意外にいい話の展開なのでこっちにもカキコ(^^) 

        世の宗匠と芭蕉の違いの一端

捌き不自在の宗匠は、不安ゆえ式目をかき集めそれを金科玉条とし、その僕べとなる。捌き自在の宗匠は、式目を目安と考えそれを僕べとする。前者は貞門や芭蕉没後の田舎蕉門系。現代連句会の大半は前者か。後者は芭蕉のみ。真似すべきは芭蕉流だ。

不夜庵「式目は変化を生成させる手段であり連歌の目的とするところではない。」全く同感。芭蕉翁二十五箇条には【一句の好悪を論じて、指合は後の詮議なるべし。】とある。一句の好悪とは作がいいかわるいかということではなく、前句から付句がどれだけ転じ変化しているかということである。

前句から転じた好い付句をしていれば、たとえば打越に猫が居るとき付句で鼠を詠んでも生類の打越を咎めない。反対に前句の情に引きずられた悪い付句は、趣向がいくら打越とかけ離れていて式目的に問題なくても付句を咎める。

世間一般の宗匠はいきなり式目からみて打越をとがめ面白い付句を没としてしまう。 前句から転じた好い付句であれば、式目は吹っ飛ぶということである。

真の芭蕉門においては、前句を転じる妙法(余情付け、疎句付、見立て替えなどを指すか)により、機械的に変化をつけようとする式目は吹っ飛ぶ。要するに式目による他力から、自分の付け方による変化自在という自力への昇華である。

三冊子【格は句よりはなるる也。はなるるにならひなし。】
切れ字のある発句の型紙

  上5     中7    下5
1 ◯◯◯◯や 〇〇〇〇〇〇◯〇〇〇〇◯ 名月や男がつくる手打ちそば
  季語(名詞)       名詞止め / 応用:名詞以外の止め 

2 ◯◯◯◯◯〇〇〇〇〇〇や 〇〇〇〇◯ 寄せ書きの灯を吹く風や雨蛙
               季語(名詞)/ 応用:名詞以外の止め

3 ◯◯◯◯◯〇〇〇〇〇〇◯ 〇〇〇かな 金色の佛ぞおはす蕨かな
               季語(名詞)/応用:中7句末の切れなし

4 ◯◯◯◯◯ 〇〇〇〇〇〇◯〇〇〇けり 初嵐佐渡より味噌のとどきけり
  季語(名詞)             応用:をり、なり、たり

「基本型ー>応用型ー>その応用型というふうに、基本型から遠くなるにしたがって型の恩寵は少なくなる。このことを忘れてはいけない。それを忘れると、ひとりよがりの自己陶酔の、読者にとっては意味不明、鼻もちならぬという作になってしまう。」(藤田湘子『新20週俳句入門』)
正花論:散りぎわが美しという花のごと

歌仙『青野きて』の巻 ウ17の、花のごと は春の正花なのかという件ですが、以下の記述を根拠に春の正花といたします。

「旧式の一論に、絵の花も喩えの花も春季にして、植物にあらずとや、一旦の道理はもっともなれど、今いふ我家の式目は一理萬通の埒を分くれば、それらの小をもて大を害せず、皆々春にして植物と決すべし。」(『俳諧古今抄』支考)

蕉門から見て旧式とは貞門のことで、絵の花や喩えの花は、植物ではなく春の正花ではないとしていた。旧式にも一理あるが、我家、蕉門、自分の美濃派獅子門では、細かいことは言わず、植物とみなし、春の正花とする、というようなことを支考は言っているのでしょう。

『十七季』には、喩えの花の仲間、花心、心の花、人の花があり、春の正花となっています。しかし絵の花や作り花は雑の正花になっています。十七季の出版を主導したのは伊勢派で、多分芭蕉没後の全国展開にあたり式目を整えるときに貞門の式目も取り込まれて、それが現代の末流まで伝わっているのでしょう。
口上 露川責 支考著
こうじょう ろせんぜめ

「心の花を雑とせしは貴房(沢露川:尾張蕉門)の差図とうけ給り候。なまじいにそれらの旧式を伝えて、蕉門の新式の害をなせる、此度せむる事の第一也。」

支考(美濃派)は、自分が開拓した北陸地方の地盤を露川にあらされたと色々と難詰した。その中に蕉門では春の正花としていた心の花を、露川が雑の正花にかえたことも含まれる。

俳書大系 蕉門俳話俳文集 下巻、春秋社、昭和四年
ネタ

●序破急
序破急の言い出しっぺはわかりませんが、論として最初に書いたのは、連歌の二条良基(『筑波問答』1372年)で、観阿弥と世阿弥(『風姿花伝』1400年〜)はそれを参考に能に適用したようです。連歌では序破急の区分にゆれがみられます。

 1(序)、2(破)、3−4(急)
 1(序)、2−3(破)、4(急)

能でも区分が時代で変容があるようです。雅楽とか音楽関係では、急とはスピードと解釈している向きもみられますね。能のある区分けでは、以下のようになっていて急ではシテが狂女と鬼で、内容ともかかわっているようです。破の中にまた序破急が入れ子になっているとは恐れ入りました(^^;)

 脇能  序   神   
 二番目 破ノ序  武人  
 三番目 破ノ破  女   
 四番目 破ノ急  狂女  
 五番目 急   鬼

だれもが疑わない序破急と思っていたら、支考は『俳諧十論発蒙』の中で、「昔しの俳諧は、始中終(序破急)の法の三つをもて、鼎の如く(三鼎の喩え)尻をすえたると也。始終の二は不會底の人もあらん。」と述べ、いつもいつも始め静かに中ぱっぱ終わりは急か静か?にかのやり方は鼎のようで面白くないと疑問を呈しているようです。

芭蕉出座の作品を見てもいきなり始めからすったもんだや最後まですったもんだしているのも見受けられ、流石すべてから自由自在の芭蕉さんだと思います。


●序破急 2 連歌 筑波問答
筑波問答、二条良基

「たゞの連歌にも、一の懐紙の面(おもて:表)の程は、しとやかの連歌をすべし。てにはも浮きたる様なる事をばせぬ也。

二の懐紙よりさめき句(浮き浮きとした賑やかな句)をして、三・四の懐紙をことに逸興ある様にし侍る事なり。

楽(雅楽など)にも序・破・急のあるにや。連歌も一の懐紙は序、二の懐紙は破、三・四の懐紙は急にてあるべし。鞠にもかやうに侍るとぞ其の道の先達は申されし。

連歌の面に、名所・めづらしき言葉、また常になき異物・浮かれたるやうなてには、ゆめゆめし給うふべからず。これ先達の口伝なり。」 


●序破急 3 能 花伝書
『花伝書(風姿花伝)』観阿弥口述、世阿弥編著

第三 問答条々(二)

問ふ。能に序・破・急をば、なにとか定むべきや。

答ふ。これやすき定めなり。一切のことに、序・破・急あれば、申楽もこれに同じ。能の風情をもて定むべし。

まづ、わきの申楽には ... 音曲・はたらきも、おほかたの風情にて、するするとやすくすべし。第一祝言なるべし。 ... たとひ、能はすこし次なりとも、祝言ならば苦しかるまじ。これ序なるがゆゑなり。

二番・三番になりては、得たる風体のよき能をすべし。

ことさら、挙句急なれば。もみよせて、手数をいれて、すべし。 ...

 脇能  序   神
 二番目 破ノ序 武人
 三番目 破ノ破 女
 四番目 破ノ急 狂女
 五番目 急   鬼


●序破急 4 能
岩波写真文庫『能』

能の序破急と演奏順位

 初番目脇能(神能) 神  序
 二番目修羅能    男  破の前段
 三番目鬘能(女能) 女  破の中段
 四番目雑能(物狂能)狂  破の後段
 五番目尾能(切能) 鬼  急

「要約すると一日の能は正しく厳かな神能から始め、次第に優雅典麗な演技をもって幽玄の情趣を現す鬘能に移り、見物を堪能させてから変化の激しい賑やかな尾能(きりのう)を演じ、見物の眼を驚かしてサッと手際よく切上げるというのである。」

やはり、急はスピードだけを言っているのではなく、ワーッと激しく盛り上げてストンと終わる側面を持っているのだ。ただスピードを上げて無難に終わるということではない。切能を観たい。YouTubeにないか。


●序破急 5 能 花鏡
class: 能, 連歌論俳論
『花鏡』世阿弥、能楽論集、小学館

序破急之事

ー 略 ー

「急と申すは、挙句の義なり。その日の名残なれば、限りの風(最終の風体)なり。

破と申すは、序を破りて、細やけて(細やかに)、色々を尽くす姿なり。

急と申すは、またその破を尽くす所の、名残の一体なり。

さるほどに、急は揉み寄せて(体を激しく動かし集中する)、乱舞(格をはずれた自由な舞、速度の早い手の多い舞)・はたらき、目を驚かす気色(けしき)なり。揉むと申すは、この時分(急)の体なり。

およそ、昔は能数、四・五番には過ぎず。さるほどに、五番目はかならず急なりしかども、当時は、けしからず(むやみに)能数多ければ、早く急になりては、急が久しくて急ならず。

能は破にて久しかるべし。破にて色々を尽くして、急は、いかにも(なにがどうあろうとも)ただ一切り(一曲)なるべし。」
曲節を尽くせ!

曲節地 ― 趣向と句作

「趣向に地と節との差別有て、句作には曲と申事はあれど、節と申事は之なく候。」(口上露川責、支考)

  曲: いろいろと変化する面白みやうまみ

  節: 旋律の一まとまり 注目すべき箇所 目立つ部分

  地: 基となって支えている部分 伴奏

「趣向を遠く句作を近く附くべし。」(俳諧寂栞、白雄)

「発句も付合も我家のさばきには、趣向と句作の差別ありて、趣向を先にし句作を後にすることは、たとえば花の題をとりて、雪かと見るは趣向にて、袖うち払ふと姿をつけ、志賀の山越と詞をさはす、そこを句作の上手とはいふなり。

まして俳諧は一句一句に前句の姿情を見さだめて、たとへば草々の露といふ様を発心と見るは趣向にて、西念の名に姿をつけ散る花の無常に一句をしづめたらん、ここを句作のてづまとしるべし。

ここをもて我家には趣向を定むる法ありて、それを<a href="http://metrius.blogspot.com/2010/04/blog-post_20.html">【執中の法】</a> とはいへり。」(俳諧古今抄、支考)
俳句と連句の新しみの違い 

能勢朝次『連句藝術の性格』交蘭社、昭和十八年

「連句における新鮮な感興を惹起するにはいかにすればよいであろうか。その点を考えると、発句においての新しさは、作者と作者の対する対象との関係において存在する。つまり作者が、自然なり人事なりを凝視して、その自然または人事の中から、他人の言い古していないところの新詩趣を探りとってくることが、俳句における新しさである。

俳句に写生などが勧められ、写生によって新生命が得られたのも、こうした立脚地に立つものであったがゆえである。新しき対象を発見し、その把握の仕方と表現の仕方に、個性的な味わいを出すことができれば、俳句としてはそれで十分なる新味を獲得したものと認められるのである。

しかるに、連句の感興は、前句というものに対して、巧妙に応ずるところが眼目である。従って、新しさというものは、前句への応じ方に存しなくてはならない。自己の独創なり個性味なりを主張する点にはなくて、自己を虚にして前句を受け入れ、自己に宿った前句の余情を噛み分けて、その余情に対して応じて行く行き方に新味が求められる。従って、付けた付句自身には、別に素材着眼に新しいところがなくとも、前句との関係において新しさがあればよいのである。」

感想:
連句芸術の核心中の核心をわかりやすく述べていると思う。連句は俳句あるいは川柳を単に連ねるものではない。ともすれば張り合って一句自体で目立ちたがろうとし、結果、前句との二句一連でみると、ぎくしゃくごりごりとおさまりのよくないものとなってしまう傾向も一部に見られる。そうならないように、いつも肝に命じておきたい。
『祖翁口訣』(そおうくけつ)* 
                
一、格に入りて格を出でざる時は狭く、格に入らざる時は邪路に走る。格に入り格を出でて初めて自在を得べし。

一、詩歌文章を味て、心を向上の一路に遊び、作を四海にめぐらすべし。

一、千歳不易。一時流行。

一、他門の句は彩色のごとし。我門の句は墨絵のごとくにすべし。折にふれては彩色なきにしもあらず。心他門にかわりて、さびしをりを第一とす。

一、名人は地をよく調えしうへに、折にふれては危うき処に妙有り。上手はつよき所におもしろみあり。

一、等類作例第一に吟味すべし。

一、古書撰集に眼をさらすべし。

一、我門の風流を学ぶ輩は、先づ鶴の歩行の百韻、冬の日、春の日、瓢集、炭俵、猿蓑、あら野を熟覧すべし。発句は時代時代をわかつべし。

一、初心のうちは句数を好むべし。それより姿情をわかち、大山を越えて向かいの麓へ下りたる所を案ずべし。六尺を越えんと欲するものは、まさに七尺を望むべし。されど心高き時は邪路に入りやすく、心低き時は古人の胸中を知る事あたはず。

一、俳諧は中より以下のものとあやまれるは、俗談平話とのみ覚へたるゆへなり。俗談平話をたださんがためなり。つたなき事ばかりいふが俳諧と覚得るは浅ましき也。俳諧は萬葉の意なり。されば上天子より下土民までも味はふ道なり。唐明すべて中華の豪傑にも恥じる事なし。唯心のいやしきをはじとす。

一、手爾於葉専要たり。我が国は手爾於葉の第一の国なれば、先哲の作を味はひ、一字も麁末(そまつ)なる事なかれ。

一、句の姿は青柳の小雨にたれたるごとくにして、折々微風にあやなすもあしからず。情は心裏の花をもたづね、真如の月を観ずべし。付心は薄月夜に梅の馨へるがごとくありたし。


*注:此の「祖翁口訣」多少の疑問あれど、乙由の子麦浪の蔵せる筆記を其門人ねる信濃の眠郎が写し置きたりしを『雪の薄』に収めしものなれば、其伝来に対して敬意を表して採録したり。『一葉集』所載のものとは文字異同あり。   
in 俳文集補遺 of 日本名著全集 江戸文芸之部 第二巻『芭蕉全集』
蕉門の見立・趣向・句作の定法十三条
 所収:原田曲齋『七部婆心録』

序

俳諧の連歌において付句は、以下の三つのプロセスによって行われる。

(1)見立:前句の意を転ずる案じ方で前句をどういう場面と見立てるか、
   決める。

(2)趣向:初念の見立に対し付句をいかなる場、人、体、用、情、趣意
   の趣向(付けの物柄)とするか、前句に対しいかなる姿勢、重ー起
   情、中ー会釈、軽ー遁句で付けるか、起情、会釈は曲節ありなしの
   どちらでいくか決める。

(3)句作:見立と趣向を掛け合わせ、古語、俤取り、余情などを加味し 
   て一句を仕立てる。

この三つを備えない句は大方、前句の註(説明)か一向に付かない句で
ある。

見立の五条

 一、前句の上中下に言葉を添えて魂を替える法。

 一、に留て留の句を見替えるには、に、ての後ろに言葉を添えること
   定法なり。

 一、何に対してかく言うと前句を咎める案じ方あり。

 一、前句を虚(嘘)に言う言葉と見て、付句にその続きの戯言を付ける。
    付句例 鼓手向くる弁慶の宮、麻刈といふ歌の集む

 一、即体 其用や其情の句が並んだとき体ある物に見立てる。

趣向の五条

 一、准(なぞらえ)付 人情をものに譬えた前句には其のものに対
   して付ける。

 一、逆付(後付) 前句より先に起こるべき事象を後から付ける。

      巾に木槿を挟む琵琶打
    牛の跡弔ふ草の夕暮に

 一、裏付 前句の言葉の裏の意味を読み付ける。

    道のべに立ち暮らしたる禰宜が麻
      楽する頃と思ふ年延

 一、それにつけてもの用 前句の内容であるが、それにつけてもと
   案じる。

 一、空撓め 前句とは何の付け筋もなくふと思い浮かんだ姿をもっ
   て直感的に句を付ける。それでいながら無心所着(短歌として意
   味不明)ではない。蕉門の秘法・妙法とも言われるが芭蕉自身も
   直弟子にも具体的に説明し得ない絶妙の術と言う。支考は証句と
   して以下を挙げたが、七部集を繙き付け筋はわからないが意味は
   通じる付句を探して、自分で判断し学ぶしかないのかも知れない。

      障子に影の夕日ちらつく
    婿殿はどれぞと老の目を拭ひ

句作の三条
 一、相係り(前句の見立に半ば係りの言葉があれば付句も前句に
   半ば懸けて作る。)、係付(前句を平生ならず見立てるとき
   は、見立ての中の言葉で前句にもたれるように作る。) 結
   付(前句に情か用の言葉がありその意を転ずるときは、付句
   は其場、其体をもって作る。)

 一、不用の用 後句を付けやすくするために付句には不用な言葉を
   付加する。

 一、執中の法 前句の余情から中心となる一二三字の単語を連想し意
   味的には直接関係のない句を付ける。

    糊強き袴に秋を打うらみ
      鬢の白髪を今朝見付けたり    老を連想

      手紙を持ちて人の名を問ふ
    本膳が出ればおのおのかしこまり   振舞を連想    

    此の秋も門の板橋崩れけり
      赦免にもれて独り見る月      左遷を連想

感想:
曲齋の『貞享式海印録』は、芭蕉俳諧の作法がどういうものだったか窺うには最適な書である。芭蕉門には前句の意を転ずる妙法なるものがあるから古式のような式目は不用なのだという記述が含まれている。その妙法とは匂付け(余情付け)、執中の法、空撓め、見立て替えかと私は見当を付けたが自信はない。評釈が嫌いできちんと読んだことがなかった芭蕉七部集の評釈本『七部婆心録』の註釈の仕方を解説した中に上述のコンパクトな記述を発見(^^)した。曲齋はこれを基に『附句見立鏡』という書を構想していたらしい。実際に発刊したのかは今の所不明である。曲齋が考える妙法には、私が見当を付けた四項目は含まれていたがそればかりではなかった。また、すべての付けは、前句の見立てなのだという考えに立っており、連句は見立て替え(曲解)の文芸なのだという説の論拠になり得そうである。難解で正しく咀嚼できたかは自信がない。今まで見立、趣向、句作を一緒くたにしてきた自身の付け転じに光明となることを祈る。

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