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こどもの教育コミュのプログラミング教育についての素朴なギモンを聞く

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読んでみてください
https://kids.gakken.co.jp/parents/digital/mima01/

導入部を引用

2016年09月23日
専門家・プロ:渡邉純子(コドモット)

2020年度からプログラミング教育は小学校で必修となることが決まりました。プログラミング教育とはいったい何なのか? なぜ小学生がプログラミングをやらなければならないのか? プログラミング教育によって子どもたちはどんなふうに育っていくのか? そして家庭でできることは?

学習科学(教育学、認知心理学、情報工学など幅広い視点で学習活動を科学的に分析する学問)の第一人者である公立はこだて未来大学の美馬のゆり教授にお話をうかがいました。

コメント(32)

>>[1]
コメントありがとうございます。

ここで書かれている
「コンピュータができたことで生まれたものの考え方に「計算論的思考」というものがあります。ひとことでいうと、あえて自分がコンピュータになったかのようにものごとを考えていくと、いろいろな問題がうまく解ける、という考え方です。」
ということについては、どうでしょう ?

美馬のゆり教授が考えておられることは、「プログラミング能力が向上する」という視点とは少し違うように、僕は思うのですが。
補足で、もう少し引用しておきます。

「ものごとを論理的に考えるとか、分析的に考えるとか、批判的に考えるというような考え方の方法に、もうひとつ、計算論的思考を加えることができます。
多様なものの考え方、見方を持つことはとても大切なことです。」
後編は、ここにあります。
https://kids.gakken.co.jp/parents/digital/mima02/
後半には、こんなことが書かれています。

「コンピュータを使ってできてきたもののなかから、おもしろいと感じたものをピックアップするのは人間です。コンピュータはそこは不得意なんです。これからもデータにもとづいた分析や考察といった部分には人間がかかわっていくことになるでしょう。
ですから、創造性をどう伸ばしていくか、というところにこそプログラミング教育は注力してほしいと思います。」

「――家庭において、プログラミングという考え方、つまり計算論的思考をきたえる方法はあるのでしょうか。
料理をおすすめします。」
引用の続きです。

「料理って、アルゴリズム(問題を解く手順)そのものなんです。

同時にコンロが2つしか使えず、30分しか時間がないとき、どうやったら冷蔵庫にあるもので3品同時においしいものが作れるか、どうやったらまな板やボウルを洗う回数を減らせるかとか、いろいろ考えて料理をしているでしょう? そしてそれを別の日の別の料理にも適用している。

デキる主婦は、毎日計算論的思考をやっているんですよ。」
ちょっと「計算論的思考」というものについて確認してみたいです。

何かをやろうとしたときに、
(1)手順を分析して、小さな作業ごとに分割する。
(2)分割した作業を並べて、やりたいことを実現する。
というだけなら単なる「論理的思考」「分析的思考」。

ここで、いくつかの作業について(1)により分割した小作業を持ち寄れば、同じ小作業を共有できる箇所については効率化がはかれるし、持ち寄った小作業を組み合わせることで別の作業もできるようになることがある。

そういうものを「計算論的思考」と呼んでるってことでしょうか?
「計算論的思考」について確認しようと思ったのは、「あえて自分がコンピュータになったかのようにものごとを考えていく」とだけ聞くと、個人的には「微積分」「数列」「数学的帰納法」といったものをまずイメージしたもので。

「手順を分割し、繰り返し計算に落とし込む」という意味で。
>>[7]さん

美馬さん独自の定義が入っていると思いますね。
さきほどは短い部分の引用でしたが、もうすこし長く引用すると、こんな風に書かれていますね。

"コンピュータができたことで生まれたものの考え方に「計算論的思考」というものがあります。ひとことでいうと、あえて自分がコンピュータになったかのようにものごとを考えていくと、いろいろな問題がうまく解ける、という考え方です。

「計算論的思考」は、コンピュータプログラミングで大事な考え方のひとつである「アルゴリズム」を探すことからはじまります。アルゴリズムというのは、問題を解く手順、あるいは、なにかものごとを行なうときの「やり方」を一般化して定義づけしたもののことです。

たとえば機械や生き物がどうやって動いているのかを考えたりするときに、ある一定の動きからパターンを見つけ出して、それを実現している法則や原理を考えます。そのような一般性や法則性、原理といったものがアルゴリズムです。

計算論的思考では、アルゴリズムを見つけ出すだけでなく、さらにそれを別の問題に当てはめてみるんです。

プログラミング教育というのは、プログラミングを学びながらこのような計算論的思考を身につけるためにあるのだとわたしは考えています。"
「「計算論的思考」は、コンピュータプログラミングで大事な考え方のひとつである「アルゴリズム」を探すことからはじまります。」と書き、続けて「アルゴリズムというのは、問題を解く手順」と書かれていますから、割と狭い範囲のことで考えられているように思います。
>>[7]さん

美馬さんが書かれている
"ある一定の動きからパターンを見つけ出して、それを実現している法則や原理を考えます。そのような一般性や法則性、原理といったものがアルゴリズムです。 "
というところと、にゃーさんさんが書かれている
"何かをやろうとしたときに、
(1)手順を分析して、小さな作業ごとに分割する。
(2)分割した作業を並べて、やりたいことを実現する。
というだけなら単なる「論理的思考」「分析的思考」。"
というところは、同じことを違う表現で表したものになっていると考えることができるんでしようか ?
>>[18]

丁寧な説明ありがとうございました。
論理的思考が出来る人は、センスあるプログラムが書ける

プログラムが書けるようになっても、論理的思考力が鍛えられるか分からないです

まあ、国語や算数でキッチリ論理的思考力は、鍛えるべきと思います

私も、プログラムは自由に書けますが、子供に教える気持ちは、まったくないです。
この方が言っていることに関しては、ぴーちゃんさんのご意見に賛同します。
「計算論的思考」に関して、冒頭では「コンピューターが出現して出てきた考え方」と言い、後では「デキる主婦はみんなやってる」と言う。(^-^;
この程度の自己矛盾に気づかない総理が税金の使い道を決めてるのか、やっぱりそうか、程度の感想しか持てませんね。(^-^;
これはあくまでも私の考え方ですが、こういう記事を目にしたときは、まず最初に「全部真に受けない」ということを心がけるべきだと思っています。

この手の記事で「お話を伺っている専門家」というのは、「政府の決定によって利益を得ている人物」であることが多く、そういう方が言っていることは多かれ少なかれ「我田引水」だと思います。

例えばこの記事に見られる「自己矛盾」も、そう考えれば理屈が通ります。

「美馬のゆり教授」は、「電気通信大学電気通信学部計算機科学科卒業」であり、「ハーバード大学大学院教育学研究科インタラクティブ・テクノロジー専攻」であり、「東京大学大学院教育学研究科学校教育学専攻」であるわけです。

この肩書きをフルに生かし、さらに「自分自身が女性であるという武器」を最大限に生かすためには、「計算論的思考」は「コンピューター由来」のものであってくれなくては困るし、「女性ならば誰でも日常的にやっていること」でなければ困るわけです。
実は2020年から小学校でプログラミング学習が必修化されることが決定して以降、教育業界は「スクラッチ(授業で使われるプログラミング言語)特需」のような状況になっています。

もちろん大手企業も続々と参入していますが、塾を辞めて「スクラッチの塾」を始める人なんかもたくさん出てきています。
先日もそういう「ベンチャー企業経営者」に会いましたが、私の目から見ると、どうにも胡散臭いというか、サギ師っぽく見えて仕方ありません。(^_^;)

一方でその胡散臭い「プログラミング塾」に引っかかっているご家庭もたくさんいるんじゃないかと思うのですね。

こういう記事が、その傾向への「呼び水」にならないといいなーと思っております。(^_^;)
ここ(http://techacademy.jp/magazine/8525)を見て頂ければすぐに分かる通り、小学生からのプログラミング教育の流れは海外では既に始まっており、その目的はもちろん「計算論的思考」の育成ではありません。

ずばり「将来不足する予定であるプログラマーの早期育成」です。

海外先進国の場合、これを自国内で進めないと、その結果は即「海外から移民してくる労働力(主に東南アジアでしょうか)の増加」を意味しますから、「失業率」とか「貧困率」とか「経済格差」とか、今既に問題視されているような「良くないこと」がどんどん加速する危険性が高いわけです。

インド等の、将来人口爆発が必至の国では、「IT労働者を育てて海外に移住してもらう計画」が着々と進行していますからね。そういう国の人達に「国を乗っ取られてしまう」わけです。

もちろんこれは日本も同じことなんですが、日本の場合は「まともな労働力」ならば、むしろ海外からもっと受け入れた方がいいのかも知れません。

政府にどういう思惑があるのか知りませんが、現状では「留学生」と称する中国人を大量に受け入れた結果、様々な問題を生じているように感じます。
以前お話したかも知れませんが、中国以外の東南アジア各国に関しては、日本は非常に厳しい障壁を設けて受け入れを拒否しているわけですから、これはどう見ても「何かの思惑がある」としか見えないわけです。
その話は置いておいて、将来インドとか中国から大量のIT労働者を「輸入」することになったとすると、そのときに彼らを雇用する側の日本人に必要なのは、「彼らがちゃんとマジメに仕事しているかどうか見分ける目」になるわけです。
その「目」を育てるために、小学校からプログラミングに馴染ませておく方がいいのだというのであれば、私もそりゃそうだと思います。

「日本の英語教育」は、世間ではなんだかんだと言われていますが、電車に乗っているときに、中高生達が何気なく発する英単語を聞いていても、私達の時代から比べたら格段に進歩していると思うのです。
「発音が本物っぽい」です。

今日TVに小池百合子氏が出演していて、彼女は「海外留学経験あり」というのが「ウリ」ですから、会話の端端に「英単語」を混ぜるわけですが、これが完全な「カタカナ英語」の発音なんです。(^_^;)

「この人、ホントに海外留学してたの?(^_^;)」と感じるくらいですね。
「いや、彼女が留学していたのはカイロ大学だから、英語はダメだろ」と仰る方もいるかも知れませんが、カイロのような観光地に住んでいれば、英語を耳にする機会は非常に多いはずで、そういう経験がある人は「カタカナ英語」は話さないでしょう。普通は。(^_^;)

「カタカナ英語」は、「カタカナで英語を学ぶ」という経験を通じて「身に付く」もので、「英語で英語を学ぶ」という経験をすれば、すぐに抜けてしまいます。

今の中高生の英単語の発音が「本物っぽい」のは、「日常的に英語を耳にする環境」になったからで、「日本の英語教育が進歩したから」でもないと思いますし、増してや「中学・高校の先生達の英語力が進歩したから」なんてことはあり得ないと思います。
「英語教育」に関しては、文科省の目論みとは全く別のところで、「とりあえず英語に慣れる機会が増えた結果、日本人の英会話能力が今後多少なりとも上がって行く可能性」くらいは見えてきたのではないかと思いますが、これから始まる「プログラミング教育」に関しても、とりあえずその程度の期待感を持って見ていればいいのではないでしょうか?

「慣れるための環境作り」程度の効果はありそうな気がします。
>>[23]
丁寧なコメントありがとうございました。
おっしゃるとおり、政治家に任せっぱなしにしないで、どんな教育内容にするのがいいのか、そもそも不要なのかなどという議論をもっとたくさんの人がしないといけないと思います。
多様な観点をと思って勉強中なのですが、こんなページもみつけました。

http://www.nikkeibp.co.jp/atclcsm/16/030800006/092800029/?ST=sp-miraigaku
小学生にプログラミングを必須科目にしてはいけない
2016.09.29
そこからちょっと引用させていただきます。

必須科目を最低限にしておかないと、自分の好きなこと、本来やりたいことを勉強するための時間が捻出できない。従って「小学生にプログラミングを必須科目に」という論の是非を問う以前に、必須科目なる“思想”が「できることなら避けるべき考え方」であることを強調しておきたい。つまり、本当に重要な論点は必須科目の在り方であり、プログラミング必須、英語必須といった議論は枝葉末節なのである。

さて、それでもプログラミングを必須科目にと叫ぶ人たちが異口同音に主張するのは「論理的思考能力の向上」が理由らしい。しかし、もしもそうだとしたら、この話は少なくとも3つの点で論理的ではない。

その1)
「論理的であること」と「思考すること」は、いったん分離して検討すべき別の“行動”である。例えば「物想いに耽る」という時の頭の中は全く論理的ではないが、思考していることは確かだ。一般に(これが理解できない人が案外多いのだが)論理的に思考することから新しい成果は“出てこない”。逆に物想いに耽っていた時に突拍子もないアイデアを思いついたりするのだが、この時、脳内は決して論理的には起動しているわけではない。「論理的思考」なる言葉の存在を認めたとしても、これが様々な思考の種類の中で最もプライオリティが高いと言い切れる論拠はどこにも存在しない。

その2)
論理的とは「ある根拠や論拠に基づいた推論が成立している」という状態を示しているにすぎない(これが“新しい成果が出ない”理由である)ので、論理的であることそれ自体は価値中立的である。論理的であることは、正しい/間違っているという考え方とは無関係だということだ。なお、論理的な考え方(推論の方法)は、下記の3種類しか存在しないことがよく知られている。

a)帰納的推論
多くの経験から一般解を導き出す、ベーコンなどのイギリス経験論の哲学者たちがまとめた推論の方法。

b)演繹的推論
前提となる一般的な原理が正しければ、すべての個々の事象の結論も真になるという、デカルトを嚆矢とする大陸合理論の哲学者による考え方。

c)アブダクション(abduction)
すでに起きてしまった事象をうまく説明するための仮説を作るための推論。帰納も演繹も巻き取ってしまうような大胆さを特徴とする。米国の哲学者パースが提唱。

余談だが、筆者が以前勤務していた会社を辞めた理由の一つに、この「論理的推論能力の高い秀才」の存在がある。一般に新規事業は、それが存在しない理由をきわめてクリアに論理的推論で説明できる(何しろ“存在しない”のだから当たり前である)。しかし、新規事業というのは存在しないからからこそ試してみたいわけで、会社がそれを阻む論理的思考に満ち溢れた集団だったことに嫌気がさしたのだ。

ただし、妄想と大差ない新規事業の実行が承認されれば、そのあとは論理が大活躍するフェーズにシフトする。その時には、秀才の多さがきわめて貴重な戦力に転換するのも事実だ(幸か不幸か、現在筆者が経営する会社もなぜかスタッフが秀才だらけなのが不思議ではある)。

その3)
仮に、百歩譲って“論理的思考能力”なるものが重要だとしても、それを実現するための最良の方法がプログラミングであるという保証はどこにもない。そもそもある事象を創造する時に、論理的であることが仮に必須だとしても、それだけではかなり不十分であることに疑いの余地はない。

共感できるとか美しいと思える時には、論理のレイヤーではなく“表現のレイヤー”が重要になるからだ。むしろ世の中は、全く論理的ではないのに共感できる事象に満ち溢れている。そう考えると純粋に論理的思考能力を鍛えることができるだけでなく、同時に何か別の価値(e.g. 美しさ)を同時にもたらす可能性があるような学習の方が、むしろ論理的思考能力の発揮を助けるとさえ言えるだろう。
そして、この方の結論は、以下のとおりです。

そう考えると「小学生にプログラミングを必須にする」はその思惑とは裏腹の、実にアタマの悪いソリューションであることがわかる。必須科目が少ない方が、むしろプログラミングが大好きな子供が増える可能性があり、当該分野で活躍する人材が育つことになるだろう。

>>[31]

ぴーちゃんさんが仰っていることの中で、

「Hiroさんが、ただ『引用する』だけだと、それを読んだ人の中には『お勧め』だと勘違いして、引用記事を肯定的に読んでしまい、その結果、ミスリードになる危険性がある」

という点に関しては、私もその通りだと思います。

私が書いたものも、その「ミスリード」を避けるための意見です。


ただ、それ以外の部分に関しては、ちょっと同意できません。
…というよりも、「最近同意できなくなってきた」と書くべきかも知れません。

パソコンの出現によって、この20年くらいの間に、私達の生活も変化しましたが、それ以上に「日本人の職業」も大きく変化しましたし、「子供達に将来要求あるいは期待される能力」も全く変わってしまった部分も多いのではないかと感じています。

ですから、昭和30〜40年生まれまでの世代にとって「常識」あるいは「良識」であったものも、今は全く違うということも多いのではないかと思うのです。

ぴーちゃんさんが言う「何か自分の意見を言うべき」というのも、私は既に「古い考え」になってきているように思うのです。

もちろん「自分の考えを常にはっきりと述べる人」というのも社会には必要ですが、一方で「常に観察し続ける人」というのも今は社会から要求されているように思います。

以前私もどこかのスレッドで書いたように記憶していますが、現代では「専門家」だけではなく「中間の位置にいる人」「専門家同士をつなぐ人」という職業ポジションの需要が、急速に高まってきていますよね?

これと同じように、「昔の議論」には「司会者」が必ず必要で、きちんと司会をする人がいないと、ちょうどTVの「朝まで生TV」みたいな感じに「ぐちゃぐちゃ」になってしまったわけです。

しかしこれは、「顔を突き合わせて話す」以外の議論の方法がなかったからです。

私はnifty serve時代からネットで議論をしてきていますが、当時は「ネットに適した議論の仕方」というのがイメージできていなかったように感じ始めています。

「ネットでの議論」というのは、「朝まで生TV」のように「相手の言葉をさえぎって邪魔する」という技が使えません。
その代わりに、相手の意見をさえぎる」ためにネット上で使われてきたのは、「怒涛のように書き込みをして、相手の発言を押し流してしまう」というものでした。(^_^;)

私も意図しないで結果的にこれをやってしまったことがあるなと、最近になって気づき、反省し始めたところですが、実はぴーちゃんさんもよくやってました。(笑)
もちろん悪気はないかとは思うのですが…。(^_^;)

私の目には、Hiroさんが意図しているのは、「ネット時代に望まれる司会者像」なんじゃないかと思うのです。
だとしたら、「ただ引用する」「ただ反復する」というのは、「ねらい」なんじゃないでしょうか?

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