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こどもの教育コミュの伝説のスピーチ

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もうすでに知っている方達もいらっしゃると思いますが、友人が紹介してくれた、当時12歳であった少女のスピーチを読み、強く心を揺さぶられました。
一人でも多くの人達に、読んで感じて動いてほしいと願い、掲載させて頂きます。

私たち大人には自分達の子供達に、どんな地球をどんな世の中を受け渡して行くかという大きな責任があります。

私は自分も含めてほとんどの人が、どこか麻痺していると思うのです。
戦争や貧困や虐待や不平等や環境破壊や独占や支配などがまかり通っている事を私たちは黙認しすぎています。

この12歳であった少女のスピーチを読んでまたあらたに、私に何が出来るのだろうか?何をやりたいのだろうか?と考えさせられます。

考えるだけでは足りない、、
「行動に移します。」
私たち一人一人が出来る事って必ずあります。
それは小さなステップかもしれない。
でも微力などと言う事は決してない。
学びと気付く姿勢を持ち、気付いた事と学んだ事を、自分らしいやり方で自分のできる範囲で一人一人が一つずつ積み重ねて行けば、
大きな変化と動きと手本となると思います。



【セヴァン=スズキ、伝説のスピーチ全文】

1992年セヴァン=スズキという、まだたった12歳の少女がリオデジャネイロで行われている国連会議(地球環境サミット)に乗り込んでいき、後に伝説と呼ばれることとなるスピーチを行いました。
カナダ・バンクーバー市で生まれた彼女は9歳のときにECO(Environmental Children Organization)という環境学習グループを立ち上げ、そして12歳の時に自分たちで費用を貯めて国連会議(地球環境サミット)へ赴くだけでなく、NGOブースで交渉の末にスピーチを行う機会まで勝ち得たそうです。
その素直で純粋な想いに溢れたスピーチは多くの”大人達”の心を揺さぶり、やがて世界中で伝説として語り継がれています。


セヴァン=スズキのスピーチ

こんにちは、セヴァン・スズキです。エコを代表してお話しします。エコというのは、子供環境運動(エンヴァイロンメンタル・チルドレンズ・オーガニゼェーション)の略です。カナダの12歳から13歳の子どもたちの集まりで、今の世界を変えるためにがんばっています。あなたがた大人たちにも、ぜひ生き方をかえていただくようお願いするために、自分たちで費用をためて、カナダからブラジルまで1万キロの旅をして来ました。

 今日の私の話には、ウラもオモテもありません。なぜって、私が環境運動をしているのは、私自身の未来のため。自分の未来を失うことは、選挙で負けたり、株で損したりするのとはわけがちがうんですから。

 私がここに立って話をしているのは、未来に生きる子どもたちのためです。世界中の飢えに苦しむ子どもたちのためです。そして、もう行くところもなく、死に絶えようとしている無数の動物たちのためです。

 太陽のもとにでるのが、私はこわい。オゾン層に穴があいたから。呼吸をすることさえこわい。空気にどんな毒が入っているかもしれないから。父とよくバンクーバーで釣りをしたものです。数年前に、体中ガンでおかされた魚に出会うまで。そして今、動物や植物たちが毎日のように絶滅していくのを、私たちは耳にします。それらは、もう永遠にもどってはこないんです。

 私の世代には、夢があります。いつか野生の動物たちの群れや、たくさんの鳥や蝶が舞うジャングルを見ることです。でも、私の子どもたちの世代は、もうそんな夢をもつこともできなくなるのではないか?あなたがたは、私ぐらいのとしの時に、そんなことを心配したことがありますか。

 こんな大変なことが、ものすごいいきおいで起こっているのに、私たち人間ときたら、まるでまだまだ余裕があるようなのんきな顔をしています。まだ子どもの私には、この危機を救うのに何をしたらいいのかはっきりわかりません。でも、あなたがた大人にも知ってほしいんです。あなたがたもよい解決法なんてもっていないっていうことを。オゾン層にあいた穴をどうやってふさぐのか、あなたは知らないでしょう

 死んだ川にどうやってサケを呼びもどすのか、あなたは知らないでしょう。絶滅した動物をどうやって生きかえらせるのか、あなたは知らないでしょう。そして、今や砂漠となってしまった場所にどうやって森をよみがえらせるのかあなたは知らないでしょう。

 どうやって直すのかわからないものを、こわしつづけるのはもうやめてください。

 ここでは、あなたがたは政府とか企業とか団体とかの代表でしょう。あるいは、報道関係者か政治家かもしれない。でもほんとうは、あなたがたもだれかの母親であり、父親であり、姉妹であり、兄弟であり、おばであり、おじなんです。そしてあなたがたのだれもが、だれかの子どもなんです。

 私はまだ子どもですが、ここにいる私たちみんなが同じ大きな家族の一員であることを知っています。そうです50億以上の人間からなる大家族。いいえ、実は 3千万種類の生物からなる大家族です。国境や各国の政府がどんなに私たちを分けへだてようとしても、このことは変えようがありません。私は子どもですが、みんながこの大家族の一員であり、ひとつの目標に向けて心をひとつにして行動しなければならないことを知っています。私は怒っています。でも、自分を見失ってはいません。私は恐い。でも、自分の気持ちを世界中に伝えることを、私は恐れません。

 私の国でのむだ使いはたいへんなものです。買っては捨て、また買っては捨てています。それでも物を浪費しつづける北の国々は、南の国々と富を分かちあおうとはしません。物がありあまっているのに、私たちは自分の富を、そのほんの少しでも手ばなすのがこわいんです。

 カナダの私たちは十分な食物と水と住まいを持つめぐまれた生活をしています。時計、自転車、コンピューター、テレビ、私たちの持っているものを数えあげたら何日もかかることでしょう。

 2日前ここブラジルで、家のないストリートチルドレンと出会い、私たちはショックを受けました。ひとりの子どもが私たちにこう言いました。

 「ぼくが金持ちだったらなぁ。もしそうなら、家のない子すべてに、食べ物と、着る物と、薬と、住む場所と、やさしさと愛情をあげるのに。」

 家もなにもないひとりの子どもが、分かちあうことを考えているというのに、すべてを持っている私たちがこんなに欲が深いのは、いったいどうしてなんでしょう。

 これらのめぐまれない子どもたちが、私と同じぐらいの年だということが、私の頭をはなれません。どこに生れついたかによって、こんなにも人生がちがってしまう。私がリオの貧民窟に住む子どものひとりだったかもしれないんです。ソマリアの飢えた子どもだったかも、中東の戦争で犠牲になるか、インドでこじきをしてたかもしれないんです。

 もし戦争のために使われているお金をぜんぶ、貧しさと環境問題を解決するために使えばこの地球はすばらしい星になるでしょう。私はまだ子どもだけどこのことを知っています。

 学校で、いや、幼稚園でさえ、あなたがた大人は私たちに、世のなかでどうふるまうかを教えてくれます。たとえば、

* 争いをしないこと
* 話しあいで解決すること
* 他人を尊重すること
* ちらかしたら自分でかたずけること
* ほかの生き物をむやみに傷つけないこと
* 分かちあうこと
* そして欲ばらないこと

 ならばなぜ、あなたがたは、私たちにするなということをしているんですか。

 なぜあなたがたがこうした会議に出席しているのか、どうか忘れないでください。そしていったい誰のためにやっているのか。それはあなたがたの子ども、つまり私たちのためです。あなたがたはこうした会議で、私たちがどんな世界に育ち生きていくのかを決めているんです。

 親たちはよく「だいじょうぶ。すべてうまくいくよ」といって子供たちをなぐさめるものです。あるいは、「できるだけのことはしてるから」とか、「この世の終わりじゃあるまいし」とか。しかし大人たちはもうこんななぐさめの言葉さえ使うことができなくなっているようです。おききしますが、私たち子どもの未来を真剣に考えたことがありますか。

 父はいつも私に不言実行、つまり、なにをいうかではなく、なにをするかでその人の値うちが決まる、といいます。しかしあなたがた大人がやっていることのせいで、私たちは泣いています。あなたがたはいつも私たちを愛しているといいます。しかし、私はいわせてもらいたい。もしそのことばが本当なら、どうか、本当だということを行動でしめしてください。

 最後まで私の話をきいてくださってありがとうございました。

コメント(42)

最近どこかの大学入試にこの原文が出ましたね。
お父さんが有名な環境教育のオピニオンリーダーだったかと。彼女の写真、Googleで見つかります。
話題になった時から聞きたかったので、嬉しかったです。
視点の捕らえ方が大人と違っていて、またそれが今までのどの言葉よりも説得力があって、感動しました。

でも感動してるだけではいけないですね。

「子供の教育コミュ」にも広い意味で関わりがある内容だと思います。地球のみんなの問題ですから、できればミクシィ全員に見てもらいたいくらいだと思います。「戦争反対コミュ」に入っていない、関心のない方々にこそ気付いてもらいたいのではないでしょうか。

「自分さえ、自分と家族さえ良ければ」「今が良ければ」
そういう気持ちが既に『無意識のうちに』染み付いている。その結果が現在の環境を作っているのではなかろうか。と思いました。

スピーチに大拍手。
彼女は今、何をしてるでしょうか。
陸戦型ぴーちゃん さん>

このコミュに載せさせて良いものか迷いましたが、子供の教育にはまず子供の声に耳を傾ける事がとても大切だと思います。
子供の考えている事や感じている事を理解する姿勢は、教育に欠かせないものだと思います。

彼女が言っている事は戦争反対とか環境汚染反対とかそういう事だけではなく、 booh(旧SQ)さんも指摘して下さっているように、全てが繋がっていること、一人一人に責任がある事、大人の言う事とやる事の矛盾さを指摘しているのです。
「私は子どもですが、みんながこの大家族の一員であり、ひとつの目標に向けて心をひとつにして行動しなければならないことを知っています。」
 
「学校で、いや、幼稚園でさえ、あなたがた大人は私たちに、世のなかでどうふるまうかを教えてくれます。たとえば、

* 争いをしないこと
* 話しあいで解決すること
* 他人を尊重すること
* ちらかしたら自分でかたずけること
* ほかの生き物をむやみに傷つけないこと
* 分かちあうこと
* そして欲ばらないこと

 ならばなぜ、あなたがたは、私たちにするなということをしているんですか。」

これらは教育の大切な一巻だと思います。

PS:戦争反対のコミュの事教えて下さってありがとうございます。

チーズポテトさん>

彼女は今でもやはり活動されているようです。
ミクシーにもコミュがあるのを発見しました。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=401597
虹を紡ぐ者さん、
 > 子供の教育にはまず子供の声に耳を傾ける事がとても
 > 大切だと思います。
 > 子供の考えている事や感じている事を理解する姿勢は、
 > 教育に欠かせないものだと思います。

そのとおりですね。
大切な話題の御紹介ありがとうございました。

それと、このスピーチの文章を読んでいて思ったのですが、
このようなスピーチができること、それにつながる最初の
9歳のときに環境学習グループを立ち上げるという行動を
起こしたことに関心し、どういう家庭や地域環境があれば、
そういう子どもに育つのだろうということに、とても興味
を覚えました。
そのあたりのことを、御存知の方がおられましたら、是非
紹介して下さい。
今、愕然としています。
この年でこれほどの考えを持っているなんて。
それを大人たちの前でスピーチできるなんて。

少し話がそれますが、今日本で小学生からの英語教育が問題になっていますね。
しかし英語よりも日本語の強化が先という意見もあり、
英語を流暢に話すことよりも何を話すかが大事という人もいます。

「中身のないことを流暢な英語で話すよりも、
たどたどしくてもしっかりした自分の意見を言うことが大切。」と誰かが言っていました。

私が言いたいのはここまで物事を深く追求するためには
大人がそれなりの材料を与えてやらなければいけないのではないかということです。

この子はたまたまお父さんがそういう方だったということは、
そうでなくともそんな環境を与えてあげれば少なくとも何かのきっかけになるのではないでしょうか。

環境・平和・福祉・・・自分の身近なことで題材はたくさんあります。子供たちが自分の意見をまとめ、発表する場を持ってあげたいです。
まず私は、この文章を読んで涙が出てきました。その清冽な思いに打たれてのことです。
こういうメッセージは、親に尻をたたかれても出てくるものとは思えません。イデオロギーともちょっと違うようです。その主張を見ると、子供が大人の矛盾をつく、というスタンスを貫いていますね。これは意外と、なかなかできることではありません。

ただ、同時に懸念がないでもありません。このスズキさんという少女に感動して同じ子供に育てようとすると、外面だけ真似ようとすることになりかねず、結果としてイデオロギーを植え付けることになりかねないからです。
いわゆる、「ひそみにならう」ことになりかねません。

私の知っている例で、平和運動、環境運動にのめり込んでいる親御さんの子供が荒れてしまうケースがあります。
小学生頃までは親の主張を素直に受け入れ、平和希求、環境保護の発言をしていました。
しかし、思春期に入ると同時に荒れてしまい、親の言うことを聞かなくなってしまいます。鬱になってしまった人もいます。
なぜか。おそらく、あまりに人間くささのない純粋すぎるイデオロギーは、思春期に強く感じる自分自身の中のおぞましさ、いやらしさと適合しなくなるからではないか、と考えています。
自分の中の醜さ、卑しさを感じる気持ちは、少年少女期にはあまり強くありません。
ところが思春期に入ると、第二次性徴の身体の変化に戸惑い、心身を制御できないことに苦しみます。
かつて少年期に信じることのできた純粋な思いは、醜いと感じる自分の心にあまりにもそぐわない、と感じるようになり、強く悩みます。「自分は醜い人間だ、ダメな人間だ」と自分をけなすようにさえなってしまい、絶望するようです。
人間の実態を映していない(美しすぎる)イデオロギーは、思春期に矛盾が浮き出てしまい、混乱してしまいます。

自分の思想を形成するには、自らに存在する醜さ、いやらしさを認め、許した上で、自然がどのように運行し、世界がどのように動き、社会がどのような仕組みを持ち、その中で自分がどう位置づけられているのかを見極め、己のなすべきことを考えていくことが必要だと思います。
子供の思想教育は、だからこそ注意が必要だと思います。子供自身が自らの真の姿(醜さも、美しさもみんな認めた上で)を見つめた上で、身の丈に応じた思想を形成すべきだと考えます。

その点では、ぴーちゃんさんの懸念と共通するところがあります。ですが、この話題はこのコミュニティにふさわしいと思います。
このスズキさんの主張は、やはり立派なものですし、見習うべきことがたくさんあります。私はずいぶんハッとさせられました。
おそらくこのスズキさんの主張は、単なる親の受け売りではありません。早12歳にして、自ら思想を形成しており、しかもその内容がおそらく思春期の混乱をも乗り越えることができる、身の丈に応じたものになっています。むしろ、思春期の苦しみを乗り越えることで、大人になるとどうして身勝手になり、裏表のある発言をするようになるのか、理解を深めることができ、より人間味のある思想を築くことができる、そんな内容の主張のように思いました(私はその後のスズキさんを知りませんが)。
しかし下手に真似すれば顰みにならうことになってしまい、むしろ子育てに失敗する原因にもなりかねない、という問題も絡んでいます。
スズキさん自身のすばらしさと、そのすばらしさにヘンに惹かれてしまうことへの危険とは、分けて考えなければなりません。
そして、まさにこのことは常に「こどもの教育」について回る問題です。
そのあたりを、議論してみてはいかがでしょうか。
セヴァン・スズキさんの現在ということに、僕も興味を
感じたので、虹を紡ぐ者さんが見つけて下さった
http://mixi.jp/view_community.pl?id=401597
から、少しリンクを辿ってみました。

この辿った先のページそのものは、トヨタがやっている
「SOTOKOTO環境移動教室」という活動の報告のよう
ですが、その最後のところに、セヴァン・スズキさんの
現在の活動について、こんな説明がありました。


http://www.sotokoto.net/net/school21/4.html

現在、セヴァン・スズキはナマケモノ倶楽部とともに、日本を中心に「RORキャンペーン2003」を展開している。「ROR」とは、「Recog-nition Of Responsibility=責任の認識」、つまり「自分のライフスタイルに責任を持とう」という環境誓約書だ。日本では1800人、世界では約3000人が署名しているという。「私たちは一人ひとりが経済システムを支える消費者であり、未来の子どもたちの父親、母親です。私たちこそが、未来を変えていくことのできるオンリーワンの存在なのです」と語るセヴァンは、自分こそが、「変化になる」ことを通して、世界を変えることができるのだ、と語りかけている。RORキャンペーンはウェブサイトでも署名を受け付けている。
http://www.sloth.gr.jp/ROR2003.htm
検索して見つけたURLを紹介しておきます。
興味のある方は、御覧下さい。


セヴァンこれまでの活動履歴
http://www.windfarm.co.jp/severn/severn_katudou.html

2002年セヴァン・スピーカーズツアーに向けて
http://www.windfarm.co.jp/severn/severn_index.html
力強いスピーチですよね☆
ぜひ原文で読んでみたいですし、子供の底力を感じました。
心に響きますよね。
検索の続きです。
セヴァン・スズキさんは、ナマケモノ倶楽部の会員に
なっていて、この会員紹介に、結構長いプロフィール
がありました。

日本語版
http://www.sloth.gr.jp/relation/kaiin/severn_top.html
英語版
http://www.sloth.gr.jp/relation/kaiin/severn_prof_en.html


ここにあるリンクから、原文にもアクセスできますね。
http://www.sloth.gr.jp/relation/kaiin/severn_riospeach.html
英語と日本語の両方が掲載されていました。
彼女の現在の活動と書かれていた、ROR(Recognition of
Responsibility)についても知りたかったんですが、それも
やはり、上のページにリンクがあり、
  http://www.sloth.gr.jp/relation/kaiin/severn_ror.html
  アメリカの大学生が果たすべき環境への責任
というのが、英語と日本語の両方で掲載されていました。
2001年に、アメリカのイェール大学4年生になっていた
セヴァン・スズキさんが行った3つのスピーチの内容も、
英語と日本語の両方で掲載されていました。


講演1(高校生向け)
http://www.sloth.gr.jp/relation/kaiin/severn_speach1.html
2001年11月29日・米国フランクリン高校

講演2(教師向け)
http://www.sloth.gr.jp/relation/kaiin/severn_speach2.html
2001年11月29日・ウルスラ・フランクリン高校

講演3(ビジネスマン向け)
http://www.sloth.gr.jp/relation/kaiin/severn_speach3.html
2001年3月5日。ブラジル、サン・パウロ市
「国際APG:アマナ・キー ビジネス会議」
ちなみに、
講演3(ビジネスマン向け)
http://www.sloth.gr.jp/relation/kaiin/severn_speach3.html
は、以下のような文章で始まります。

 こんにちは。ゼヴァン・カリス・スズキです。92年のリオ会議でスピーチをした、あの12歳の子どもです。リオでの私の活動がきっかけで、こういうタイトルの話をみなさんにする事になった訳ですから、どうして私が12歳の時に地球サミットでスピーチをすることになったのか、ということをお話したいと思います。この話を聞けば、あなた達の国がどれほど私の人生に大きな影響を与えてきたかがおわかりになるでしょう。

 私は、変革を起こしていくような家庭に生まれました。私の父もそのような環境に生まれました。なぜなら父は日系カナダ人だったので、第二次世界大戦中、まだ子どもだったころ、カナダで収容所に入れられていたからです。

 私の母は私が物心ついたときから活動家でした。母はよりよい学校システムや自分がよいと信じたもののために闘ってきました。女性ですから、平等を勝ち取ることがいかに重要であるか、母はよく知っていますし、また、子をもつ母として、よりよい未来のために闘うことの重要さもよくわかっています。
いくつかの検索結果を紹介させて頂きました。
これらの中には、成人した彼女が、どんなことを誰に向けて
話して来たか、どのような進路を辿ってきたのかということ
を読み取れる資料もあります。
僕もまだじっくりとは読んでいないのですが、これらをきち
んと読んでいけば、ぴーちゃんさんや、Shinさんが示してお
られた懸念(実は、僕も少しは感じてはいます)(ただし、その
逆の、とても素晴らしい特別の人だったのではないかという
気持ちも同時にもっています)が、実際のところはどうなのか
ということも、憶測だけではなく、ちゃんとした分析による
ロジカルな話としてできるのではないでしょうか?

そして、それは「こどもの教育」という、このコミュにとっ
て、とても大事な知見となると思うのです。
さっきの続きです。
講演3(ビジネスマン向け)
http://www.sloth.gr.jp/relation/kaiin/severn_speach3.html
には、以下のような文章もあります。

 私は両親に「ECOこそ子どもたちの代表としてブラジルに行くべきだ!」といいました−そして両親は「おまえは頭がおかしい。会議には3万人もの人たちが参加するのだ。動物園みたいなもので、人の間でもみくちゃにされるのが落ちだ。」といいました。でも私はとても頑固だったので、友達と私は周りの人々にこの考えを訴え続けました。すると、突然みんなは私たちにカンパをしてくれだしたのです!母は、私が実はどうやってお金を工面したらいいのかわからないのを知って、また、案外これはいいアイディアかもしれないと思ったらしく、私たちを助けてくれるようになりました。
(人間は記憶を美化するというような意味あいでの)少々の脚色は
あるにしろ、ここ
http://www.sloth.gr.jp/relation/kaiin/severn_speach3.html
に書かれていることは、事実だと思えます。

両親の言ったとおり、リオは動物園みたいでした。覚えている方もおられるでしょう。町はきちがいじみていました−リオの中心街は軍隊が一杯、市内ではいろんなイベントが繰り広げられていました。私たちはNGOグローバルフォーラムのブースを一つ借り、興味を持ってくれる人になら誰にでも声をかけました。機会があればどこででもちょっとしたスピーチをしました。いつでもインタビューに応じ、質問に答えました。

 そしてとうとう、リオ滞在の最後の日、最後の瞬間に私たちはあの最高のときを迎えたのです。ユニセフ議長だったグラント氏が、「あの子たちも全体会に参加させるべきだ」とサミット議長のモーリス・ストロングを説得してくれて、私たちはそこでスピーチをするよう言われました。地球サミットの会場に向かうがたがた揺れるタクシーの中で、半狂乱になって原稿をなぐり書きしたことをいまでも覚えています。

  私と他の4人のメンバーは、なんとか私たちが世界のリーダーたちに言いたいことすべてを一つのスピーチにまとめようとがんばりました。私たちは警備の人たちの間をすり抜けてセッション会場に駆け込みました。大きい会場一杯の重々しい代表の人たちを前にしてあがってしまう時間さえありませんでした。私は自分のスピーチを始めました・・・。

 私のスピーチは聞かれましたよね。私は自分が12歳であること、何が私にとって大事であるかを話しました。私は自分の将来について恐怖を抱いていることを話しました。「あなた達は経済界の指導者としての義務や官僚的な政治家としての義務より、まず親として、祖父母としての義務を果たしてください」といいました。「あなた達の下す決定が誰に影響を及ぼすのか思い出してください」といいました。かれらに、わたしにとって本当に価値があるものはなになのか、という話をしました。

 スピーチが終わり、人々は立ち上がって歓声を上げました。驚くほどの反響がありました。政治家、各界の代表、ドアマンまでが目に涙をいっぱいためて、本当に大事な事を思い出させてくれてありがとう、と私たちにいいました。私のスピーチはサミット会場がある建物全体に再放送されました。

 私たちがやり遂げたいと言い続けていたことを本当に実現できるなんて、だれも思ってもみませんでした。
もう一言。

ここ
http://www.sloth.gr.jp/relation/kaiin/severn_speach3.html
に書かれていることは、これからの社会に 対する(12歳から
21歳に成長した)セヴァン・スズキさんの、とても素晴らし
い提案であると思いました。

引用ばかり長くなるので、ここには引用はしませんので、皆
さん、上記のURLをクリックして、読んでみて下さい。
はじめまして。
先ほど参加させていただいたばかりの「ぎんが」と言います。
どうぞ、よろしくお願いします。

私がこのトピをみて初めに感じた事。
それはセヴァンさんの「行動力」「交渉能力」「話す能力」が素晴らしい事。
環境問題について、胸を痛めている子供は世界中にきっと沢山います。
ただ、それをここまで行動に移し、多くの大人にショックを与えることが出来る子供は中々いないのではないでしょうか。

私はセヴォンさんはホンモノかなぁという印象です。
そして、スビーチも、『思想』ではなく『事実』から考えて気付いた内容かなと。

きっとご両親が「〜〜しちゃだめだよ」「〜〜は悪い事だよ」
という方法を使わなかったのでしょう。
「〜〜したことによって〜〜な事が起こったんだよ」
そして、その『事実』がどういう事なのかを自分で考えさせたのでしょう。

人間達のしている事で、カワイイ動物たちが死んでしまったり、
地球が汚れたりする事は、彼女にとって辛く苦しい『事実』であり、
その強い感情から、この様な行動を起こせたのかなーと感じました。

私自身、子供の時、環境問題にちっちゃなお胸を痛めていました。
思考のレベルは低いですがね…。
友人のポイ捨てがショックだったんです。
でも、上手く伝えられませんでしたね。

子育て全般において、
物事の良し悪し(『思想』)を伝える方法よりも、
具体的『事実』を伝え自分で考えさせる方法の方が、
良い結果を生むと、私は考えています。

ぴーちゃんさんの危惧するところは前者ですね。
そして、何となくですが、日本人は前者の方に陥りやすい様な気が…。
世間体が気になり、右にならえな国民性??とか。
まだまだ前者がはびこっている気がします〜〜〜( ̄△ ̄;) 
前者がはびこると、論理思考も育たないような気がしています。
論には論でなく、論に感情になってしまうトラブルも、
そういった所に由来するような気がしている私です。

勝手な事書いて、失礼しましたm(。_。)m ペコッ
Hiroさん、たくさんの情報、ありがとうございます。若くして(幼くして?)注目を浴びた人は、その注目の大きさ故につぶれてしまうことがあるのですが、彼女は立派に成長しているのですね。

ぎんがさん、
>子育て全般において、
物事の良し悪し(『思想』)を伝える方法よりも、
具体的『事実』を伝え自分で考えさせる方法の方が、
良い結果を生むと、私は考えています。

私の申し上げたいこともまさしくそれです!
私はイデオロギーという言葉を、事実から乖離しているのに金科玉条のように考えてしまう「他人からの借り物」のことだと考えています。
自分の見た事実、聞いた事実をよく知ろうという謙虚な気持ちに薄く、自分の信じ込んでしまったイデオロギーに事実を従わせようとする暴君的な考え方に陥ってしまいます。
 #他方、自分の実体験に基づき、自分の言葉で語れるものを私は「思想」と呼び分けています。思想は、自分にしか形作れないものだと考えています。誰かの思想は参考にできても、それは自分の思想ではない。思想は、自分で形成するより仕方がないものだと考えています。ですから、事実を以て考えさせるべきというご意見、その通りだと思います。
子供自身に自分の考え(私の言葉で言う思想)を形成する力を付けるには、「思想」(私の言葉で言うイデオロギー)を語る必要はなく、事実を以て考えさせるべきでしょうね。
その結果、親とは異なる考え方をするとしても、それはそれでよいと思います。

昔、とある討論番組で、学生が勢い込んで意見を述べていたとき、識者から「それは他人の意見だろ、君の意見を言いたまえ」と言われ、学生はキョトンとしていました。再び学生が語り始めると、「他人の受け売りはもういい。君自身はどう考えているのか、君自身の言葉で語りたまえ」と識者が追い打ちをかけると、学生はさらに混乱していました。
かつて、日本の学生はこの手が多かったですね。自分の言葉で語ることができないし、その自覚も持てない。
自分の見たもの、感じたもので自分の世界観を紡ぎ、自分の言葉で自分の思いを語る、ということは、とても大事なことですね。
それができるような子に育てる、ということはとても大切なことだと思います。
>Shinさん

こんにちは、共感していただけて嬉しいです。
私もShinさんのご意見、大変共感できます。

>自分の見た事実、聞いた事実をよく知ろうという謙虚な気持ちに薄く、自分の信じ込んでしまったイデオロギーに事実を従わせようとする暴君的な考え方
こういった考え方のご両親に育てられたら、子供はどうなってしまうのでしょう。
また、子供がこの様な人格になってしまったらご両親はどう感じるのでしょう。
ぞっとしますね。
子供は、順応性の高い生き物ですから、影響も受けやすいですね。

>その結果、親とは異なる考え方をするとしても、それはそれでよいと思います。
私も同感です。
自分自身の思想が常に正しいとは思いませんし、時代に合った変化も必要ですものね。
ヘタクソでも、自分の言葉で自分の考えを人に伝えられる様になって欲しいですね♪

セヴォンさんのご両親はこういった事、バランス良く実行されていたのでしょうね!

>ぴーちゃんさん

私も、きっとセヴォンさんは普通の女の子だったと思います。
彼女がスゴイのではなく、彼女の起こした行動が多くの大人の心を動かしたという『事実』がスゴイのです。
ここの所取り違えると、イデオロギーになっちゃいそうですね。

>私の思う論点は「正しい」事を大人が決めて、その正しさを子供がそのまま受け入れることが是か非か?

迷わず「非」に挙手!!
ですね♪
あっっ!!!
ワタクシずーっとセヴァンさんがセヴォンさんになってました( ̄△ ̄;) 
お恥ずかしい…。
気付いた方、軽く笑って流してくださいまし…。
皆さんも書かれているように、このトピックの意義は、
  セヴァン=スズキという人が素晴らしい
というようなことを話し合うことにあるのではないことは明確です。

僕が思う論点(論と論を戦わすということではないので、論点という
よりは、着目点というのがふさわしいかも知れません)は
  ある一人の少女が大人になるまでに、どのような環境で
  どのような行動をして、どのように成長してきたのか、
  そのデータが、本人のスピーチや活動の記録として大量
  に残されているので、そこから「こどもの教育」につい
  ての示唆が沢山得られるであろう。視点の異なる立場か
  ら、この記録から何が読み取れるのかということを話し
  合えたら、とても多くの貴重な知見を分かち合うことが
  できるのではないか。
ということでした。

そのために、彼女について検索したデータを、できるだけたくさん
紹介させて頂きました。
これらから、何が読み取れるのか、そういう御意見を、もっと聞け
るといいなと思っています。
陸戦型ぴーちゃんさん、
一つのスッキリした論点の提示有り難うございます。

 ・「正しい」事を大人が決めて、その正しさを子供がそのまま
  受け入れることが是か非か?
 ・是ならば子供の発育過程上どの段階が望ましいか?
 
「教育」という観点からは、これが「是」であるというケースがかなり
あるのではないかと思います。これまでのこのコミュでの議論の中でも
躾けに類するものは何が正しいのかということを親が示すことも必要で
あるということ、学ばせるためには、まず形から入った方がいいことも
あるという意見を、僕も何度か主張してきました。

ただ、何についてもそうかというと、むしろ逆ではないかと思います。
これが正しいと決めて押し付けるやり方では、子どもから自分で考える
チャンスを奪ってしまいますし、極端にやると、それは考えることを禁
止することにまで発展しかねません。

このコミュを立ち上げた時に、最初に僕が皆さんと話し合いたかったこ
との一つには、受験のための詰め込み教育ではなく、「考える楽しさ」
を、できるだけたくさん子どもたちに経験させてあげられるような教育
の場を取り戻したいですねということでした。

この陸戦型ぴーちゃんさんの論点をもとにして、僕は次のように書きた
いですね。
 ・「正しい」事を大人が決めて、その正しさを子供にそのまま
  受け入れさせることが必要なケースはあるか?
 ・そのようなケースは定義可能か?
 ・定義可能ならば、それは何をもって整理できるか?
 ・整理できたならば、それぞれは子供の発育過程上どの段階で
  適用するのが望ましいか?

いかがでしょうか?
 
それから、陸戦型ぴーちゃんさんの論点から派生するもう一つ
の、このトピックでの論点として、

  セヴァン=スズキさんの9歳の時の行動、12歳の
  時の行動、そして21歳のときの行動の記録から、
  彼女のその行動は、両親なり、まわりの誰かから
  これが正しいと大人が決めたことを、そのまま受
  け入れた結果だと見るのが妥当か、それとも、そ
  うではなかったと判断できるか。

ということもあると思います。

僕は、昨日いろいろな資料を読んで、「正しいと大人が決めた
ことを、そのまま受け入れた結果」ではないと判断しました。
その判断の根拠としては、彼女の21歳のときのビジネスマン向
けの講演
http://www.sloth.gr.jp/relation/kaiin/severn_speach3.html
の中で、彼女が自分のそれまでの成長について、適切に分析し
ていると感じられたことが大きいです。

甘すぎますかね?
>そのデータが、本人のスピーチや活動の記録として大量に残されているので、そこから「こどもの教育」についての示唆が沢山得られるであろう。

Hiroさんのお考えがそこにあるだろうと思っておりました。
データがあるのは具体的にイメージがしやすいので、今後の議論が楽しみです。

「押しつけ」と言うことに関して、少しステップを踏んでおきたいと思います。
・イデオロギーは押しつけてはいけないが、「社会的事実」は押しつけなければならない。
ということを確認しておきたいです。

例えば、殺人です。
一時、「どうして人を殺してはいけないのか?と子供に尋ねられたら」ということが文藝春秋で議論になったことがあります(酒鬼薔薇聖斗の衝撃が走ったとき)。
人を殺してはいけない理由、人を殺しても構わない理由、実はどちらにも、いくつもの理由を挙げることができます。
論理的に考えると、殺人という明確な犯罪でさえ、十分に論拠を見出すことができません。

いけないことはいけない。ダメなものはダメ。親は(特に父親は)この厳然たる社会的事実を押しつける役回りを果たさなければなりません。
人を傷つけてはいけない。嘘をつくようになってはいけない。挨拶するのは当然。弱いものいじめはしてはいけない。人のものを盗んではいけない。人を悲しませてはいけない。
こういうものを押しつけないと子供はどうなるか?棒のない朝顔のように地面にとぐろを巻き、雨に打たれて腐ってしまいます。
棒を立てれば朝顔はのびのびと、そして生き生きと茎葉を延ばし、見事な花を咲かせます。
棒を立てること自体をイデオロギーの押しつけと考えるべきではないと思います。

「社会的事実」と申し上げましたが、私はこれを普段、共有概念、共通概念と呼んでいます。
違う考え方のもの同士が話し合い、合意に達したことです。
人を傷つけてはならない、殺してはならないと言うことは、人類が長い時間をかけて「合意」に達し、社会的な仕組みとして仕上げてきたものです。
これを「根拠薄弱だからイデオロギーである、押しつけるのはやめよう」などといえば、血で血を洗う闘争が始まってしまいます。そして、それに嫌気がさし、「やっぱり人を傷つけてはいけないよ」と再確認し、共通概念ができるまでには、相当の時間がかかってしまいます。
 #イタリア・ルネッサンスはまさにそうした時代でした。キリスト教の厳格な呪縛から解き放たれ、「思うがままに生きよ」と考えた結果、血で血を洗う混乱が続き、イタリアとして統一されるまでに数世紀かかることになってしまいました。

人類が長い時間をかけて作り上げてきた共通概念、共有概念は親がそれを体現して、押しつけなければなりません。
子供がやがて成長して反発するようになり、別の考えを持とうとするのもそれはそれ。
朝顔に棒を立ててやったら別の棒に移ろうとするのも、それはそれ。
棒を立てないことには、反面教師さえ得られず、成長の機会を失い、社会に適応する機会を失います。

イデオロギーと共有概念の仕分けをはっきりさせること。そして、共有概念は押しつけざるを得ないこと。
まず、その2点を指摘したいと思います。
陸戦型ぴーちゃんさん、
おっしゃることは、よくわかります。
早期の教育として平和、正義や愛を外からインプットする
ことの危険ということについては、僕も100%同意します。
陸戦型ぴーちゃんさんが、ズバッと書かれている文章には
小気味良さを感じています。

ただ、このコミュには沢山の方が参加しておられます。
僕も工学の世界で生きてきましたから、論理的に考える方
です。しかし、このコミュの参加者の中には、ロジカルな
思考よりも情緒的な感覚が優れている方々もたくさんおら
れると思うのです。
色々な人が集まって意見の交換をできることが、とても大
事なことだと思うのです。その時には、それぞれの人が歩
んでこられたバックグラウンドによって、話の仕方が違っ
て当然だと思うのです。使う語彙も違うし、語彙に持たせ
る意味も違うと思うのです。そのあたり、少し余裕を持た
せた書き方なり、読み方をしていかないと、2チャンネル
のように、殺伐とした場になってしまうのではないでしょ
うか?

いきなり「論には論を持って」と突きつけられると、竦ん
でしまう人もいるでしょうし、話を続けられない、このコ
ミュには居たくない、と思ってしまう人も出てくるのでは
ないかということが心配になります。

   取り越し苦労であればいいのですが・・・。

今の教育の問題に取り組んで行く為には、多くの人が情報
を共有し、様々な考えを認め合い、知恵を絞って行くこと
が重要なのではないかと、僕は思います。

  特定の一人のことではなく、このコミュの参加者
  で、普段は読んでいるだけだけという人のことを
  考えて、これを書かせて頂きました。

陸戦型ぴーちゃんさん、 そしてこのコミュの参加者の皆様、
これからもよろしくお願いします。
陸戦型ぴーちゃんさんの、この御指摘ですが、

 >なので共有概念ではないイデオロギーは取り扱い注意です。
 >ただし、共有概念は大きくズレない(社会通念と近いですよね)
 >ので大丈夫でしょうね、多少のズレは発生するでしょうが。
 >
 >私はそういう部分を含めてコミュで議論すればよいと思いますよ。

ある考えが「社会通念」なのか「イデオロギー」なのかの線引
きが上手にできないと、どうしても皆が逃げてしまう。その結
果、今の日本では自信のない先生ばっかりになってしまってい
るという見方は、穿ち過ぎでしょうか?

このあたりのことを、スキッとさせるためには、どこから手を
付けて行けば、いいのでしょうね?
Hiroさん
>ある考えが「社会通念」なのか「イデオロギー」なのかの線引きが上手にできないと、どうしても皆が逃げてしまう。その結果、今の日本では自信のない先生ばっかりになってしまっているという見方は、穿ち過ぎでしょうか?

その通りだと思います。
ただ、現在の日本では「社会通念」が事実上崩壊していると考えていますので、これから再構築していく必要があるという考え方から、「共有概念」と私は呼んでいます。

これまでの社会通念は、もうボロボロです。そして何より、社会構造が変わってしまったので作り直さなければならない状態になっています。
昔であれば、好き嫌い言わずに食べるというのは十分社会通念であり得ましたが、食物アレルギーの子が大変増えて、そうも言えなくなりました。
社会通念となってきたもののいくつかは、考え直さなくてはならないものが出ています。

けれども、共有概念を積み上げて行くにしても、それがイデオロギーにならないようにするためには、その積み上げ方に注意が必要だと思います。
イデオロギーと共有概念の共通点は、共に論理的に進めることができることですが、前者は論理至上主義でしばしば情緒を否定するため、人の気持ちや事実をないがしろにする傲慢さがしばしばみられること、後者は情緒にも十分な配慮を施し、もし論理が情緒をうまく包含できないようであれば、論理の方を組み立て直す謙虚さと柔軟性がある、という違いがあると思います。
このような違いが出るのは、イデオロギーが自分の論理で相手を打ち負かそうというものであるのに対し、共有概念は自分の論理と相手の論理の接合点を見出そうというものであるという、姿勢の違いから来るものだと思います。
 #佐伯啓思氏は、前者のイデオロギー的発想を「批判的合理主義」、後者の共有概念的な発想を「科学的合理主義」と呼び分けています。

今しばらく、抽象的な話を続けます(すみません)。
科学には一つ、優れた特徴があります。
どれだけ立派な論理も、どれだけ優れた学問も、それでは説明できない新事実が見つかれば、その事実を包含できる論理、学理に切り替える柔軟性を持っていることです。
もちろん研究者も人間ですから、自分が見つけた学理を否定されるのは気持ちの良いことではありません。
ですが、いつかはもっと優れた学理に乗り越えられて当然のもの、という共通認識があります。
# アインシュタインも、もし新しい事実が自分の理論を否定することになるなら、それで構わないと言っています。

私は、こうした「よりすぐれたものへ、より柔軟性のあるものへ」という謙虚な合理主義、科学的合理主義へと転換していかなければならないと考えています。
ところが、近代を生み出したと言われるデカルトは、不幸にも批判的合理主義の創始者です。
デカルトの提示した合理主義には、二つの方法原理があります。
第一原理「すべての既成概念を疑うか、ないしは否定せよ」(全否定)
第二原理「正しいと思われる概念から、世界観(思想)を再構築せよ」(再構築)
当時のヨーロッパはルネッサンスや宗教改革で荒れに荒れ、何が正しいのやら分からない社会状況になっていました。
デカルトはそんな中で、「昔のものはいったん全部ゴミ箱に捨てろ。ブルドーザーでなぎ払え。そして正しい思想を始めから再構築し直せ」と主張しました。
この考え方は熱狂的な支持を得、やがて世界中に広まり、宗教を「迷信」と切り捨て、伝統・慣習を「因習」として捨て去る理論的根拠を与えることになりました。
デカルトの創始した近代合理主義が、「社会通念」を根底から破壊することになったのです。
社会通念を破壊する衝動は現代にも続き、とうとう「価値観の多様化」という妙ちきりんな表現で社会通念の全面破棄に至っています。

デカルトの提示したこの合理主義の方法原理は、きわめて危険なものです。皮肉なことに、より正しい思想を生み出そうとして提案されたはずの方法論が、無数の傲慢なイデオロギーを生む方法論になってしまったからです。

たとえば、フランス革命ではルソーの共和主義を絶対視し、共和制を布くにはやむを得ないという論理で、恐怖政治を布きました(ロベスピエール)。
ソビエトでは、共産主義の確立のためには犠牲はやむを得ない、という論理で、百万人単位の虐殺を行いました。
カンボジアのポル・ポトは、万民が農民になればこの世の楽園になる、と考えて知識人や技術者を虐殺しました。
フランス革命も、ソビエト革命も、ポル・ポトも、実は非常に論理的です。
しかし、自分の論理に適合しない論理、情緒を否定する傲慢さがありました。(それゆえにイデオロギーなのでしょう)
それは、彼らが思想を構築する際に無意識のうちに利用している方法が、デカルトの批判的合理主義にあるためです。

これからの合理主義は、自分も誤ることがあることを認め、他者との論理の接合点を探る謙虚なものであるべきだと考えます。
イデオロギーに陥らずに、共有概念を積み上げていくためには、まずデカルトの方法論を意識して避けるようにする必要があると思います。
すなわち、批判的合理主義ではなく、科学的合理主義に切り替えるのです。

論理は相手をなぎ倒すためにあるのではなく、接合点を見出すためにあるものだということを確認しておかないと、イデオロギー同士の不毛な戦いになってしまうと思います。

追伸・日本ではどうしたわけかデカルトの現代に及ぼした影響の大きさが認知されていません。デカルトといえばコギトエルゴスム、心身二元論がよく取り上げられますが、それらは私にはどうでも良いことのように思えます。
Shinさん、
いい話を有り難うございます。

要点は、この2つですね。
1) 共有概念を積み上げて行くにしても、それがイデオロギーになら
 ないようにするためには、その積み上げ方に注意が必要
2) (共有概念という考えには、イデオロギーと違って)情緒にも十分
 な配慮を施し、もし論理が情緒をうまく包含できないようであれ
 ば、論理の方を組み立て直す謙虚さと柔軟性がある

なるほど、そういうことに皆が気が付いていれば、大昔の道徳教育
の論争なども、もっと有意義なものになったでしょうね。
そして、今の教育行政におけるヘンテコな議論も、もっと減って、
より建設的な方向に進むんでしょうね。
Hiroさん、

>要点は、この2つですね。

要領よくまとめてくださって、助かりました(笑)。

>なるほど、そういうことに皆が気が付いていれば、大昔の道徳教育の論争なども、もっと有意義なものになったでしょうね。

私もそう思います。でも、合理主義の問題を意識化することはとても難しいことだったようです。
合理主義の欠陥を意識するよりも、宗教や因習を破壊する快感の方が強かったということでしょう。
しかし宗教や因習ばかりか、人に挨拶をするなどの慣習や、人を傷つけたり悲しませてはいけないという社会的通念まで破壊してしまい、そろそろ欠陥が目立ち始めてきた、ということなのだと思います。
私は、日本で今起きている凶悪犯罪も、現在の社会情勢も、批判的合理主義(自分の論理が絶対だと考え、相手の気持ちを無視する論理至上主義)の惨禍だと思っています。

スズキさんのスピーチに立ち戻れば、環境問題は「人間に都合の良い、経済に都合の良いことは何でもやって構わない」ということを前提としたイデオロギーの傲慢さが招いたものだと思います。
人間は確かに身勝手な存在です。ご飯を食べるということは、他のいのちを食べることであり、罪深いことです。「環境を守れ」と言うことは綺麗事、という皮肉な見方にも一理あります。
ですが、環境を破壊しては自分たちの子供達にしわ寄せが行くのですから、そのことに思いを致して、「今を享楽したい」という現代人の願望と、「次世代により良い環境を残したい」という希望の接点を見出さなければなりません。
スズキさんのスピーチで感心したのは、よりよい接点を見出そうとする必死の声だと感じたからです。環境至上主義で人を見下そうというものだったら、これほど多くの人々を感動させることはなかったと思います。
科学の良い点は、むやみに否定しないということだと思います。
 #むやみやたらに否定する方が科学的だと勘違いしている人も少なくないですが、それはデカルト式の合理主義(批判的合理主義)であって、科学とは区別すべきだと思います。

たとえば、アインシュタインの相対性理論や量子力学は、ニュートン力学を否定していません。
万有引力も認めたうえで、ニュートン力学では十分説明しきれなかった現象も包含して説明できる法則を見つけようとしただけのことです。
いまだに、衛星の打ち上げはニュートン力学で事足りることがほとんどだと聞きます。
新しいものが古いものを否定する、ということは科学ではあまりありません。
新しいものが古いものを補う、というのが科学の発展の仕方だと思います。

我々の社会も、こうしたやり方を取るべきだと思います。
古いからといってむやみに否定するのではなく、古いなりに機能するならそのまま遵守し、問題となる事実が明らかになればためらわずに改める、というやり方です。

戦後の日本は、あまりに否定を続け過ぎました。
まずは受けとめてみる、という肯定的な姿勢から始める方が、よりよい共通概念を作れると思います。

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mixiユーザー
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