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かはくSC養成実践講座一期生コミュの「科学」と「理科」

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以前から気になっていたことなのですが、
「科学」と「理科」あるいは「科学教育」と「理科教育」は
どうちがうのでしょうか?
「科学」も「理科」も英語ではscienceなのに、
日本ではなぜ「理科」という言葉を作ったのでしょうか?
なのにSCも「科学コミュニケーション」であって、
「理科コミュニケーション」ではない、ですよね?

だれか「科学」と「理科」のちがいを教えていただけませんか?

コメント(22)

私のイメージだと

理科=hard science(=Natural Science)
文科=soft science(=Socieal Science, Humanity, Art)
科学=science

科学の中に理科がある(理科⊂科学)だと思ってます。
ただ理科を自然科学っていわないのは
文科、理科にわけたときの都合なのかなーとか。
そもそも↑この科って科学の科?なのかな?そこらへんはよくわかりませんが。
これが科目の科なら、もしかしたら科学的じゃないことも含んでるのかもしれません(科学≠理科、科学∩理科≠Φ)ぱらっとしかみてませんが総合理科の教科書とかそんな感じだったし。
なので理科って言葉ができた背景は私もしりたいです


こう考えると今回のSC講座は理科コミュニケーションといってもいい気がしますが、その辺はどうなんですかね、カメイさん。すくなくとも自然科学コミュニケーションではあったと思うのですが。
自然科学以外もいれた科学コミュニケーションに非常に興味があります。でも収集がつかなくなりそうな気もしますので今回のSCは自然科学をターゲットにして正解だったとおもいますが。
ががが、カシムラさんとかウエダさんとか自然科学っぽくない人がいたのはよかった!

あと、わたくしはscience=academicなのかってゆうのも気になります。
大抵学問的な研究っていったら科学的手法なイメージだけど
=なのか⊂なのか科学以外の手法ってどんな!?とか思っています。
>横浜SKさん
コメントありがとうございました。他人に頼ってばかりいないで、自分でも少し調べてみました。

「理科」と「文科」を対比的に扱ったときの「科」は分類上の単位というか、いわば「分科」という意味合いではないかと思います。そもそも「科学」の「科」も世界を認識する方法の一つという意味での「科」(分科)だったと、村上陽一郎さんが書いていたような気がします。僕の記憶に誤りがなければ、ですが・・・。ただし、僕なりに調べたところでは、『日本語大辞典』では「理科」を「自然界の事物、事象を研究する学科」となっていて、「文科」に対する言葉(名称)として解説されているそうです。

参考にした文献は『日本人はなぜ「科学」ではなく「理科」を選んだのか』(藤島弘純 、築地書館)です。

なんでも「理科」という言葉は江戸時代末期には存在していて、「西洋の、新しい、理学的な学問分野」という意味で使われていたそうです。学校教育のなかでは1886年の「小学校令」が最初で、この「理科」には自然科学的自然観と日本人的自然観が混在していることが見て取れるそうです。結局のところ、「科学」(この場合は自然科学)は日本がいわゆる近代化とともに西洋から輸入したサイエンスを訳したものなわけですが、「理科」は単なるサイエンス(キリスト教的自然観(※)をもとにした)だけではなく「自然に親しむ」とか「自然を愛する」といった感性的な意味合いも含まれているもののようです。だから、科学を自然科学と解するならば、科学⊂理科ということになるでしょうかね・・・。そういう意味では(個人的には)SCも「科学(サイエンス)」を超えて「理科」をめざしてほいいと思います。

他の方々やカメさんのご意見も伺いたいものです。

※むかしむかし(あるところに・・・ではなくて(笑))村上陽一郎さんの『神の意志の忖度に発す』という本を読み、(西洋における)科学(自然科学)の意味を知りました。科学というものは、神(キリスト教的な)が創造したこの世界を読み解く(つまり、この世を造った神の意志を忖度する)ことから始まったというわけです。これを読んでから村上先生の科学史観にはまりましたね。

そういえば、横浜SKさんって誰なのかちょっとわかりませんでしたが、日記を読ませていただいて、ようやくわかりました。村上先生とも物理的に近い方ですよね。
>てつさん
江戸時代からあったんですね!びっくりです。
自然に親しむ、自然を愛するという感性的なものもふくんでいるんですね。
ちなみに近代化を輸入したってのはいつらへんのことなんでしょうか?歴史に疎いもので・・・。

SCが自然科学を超えて理科へというのはおもしろいですね。
私たちのような研究をしている人からは自然科学の方向から、
そうでない人は日常の生活からの理科的方向からせめる。
SCは「研究者→一般」と一方向になってしまいがたいだから
両方からせめるってのは双方向のSCにつながりそう。
でも理科vs自然科学、妥協点や折合いつけるのむずかしそうw
議論好きでないときついだろうなー。自然科学は割と白黒つけるの簡単だけど感性的なものには白黒つきませんからねー

村上先生の授業でわたしも四科をはじめてしりました。
基本的に西洋の背景はそういった神の世界を読み解く感覚があるんですよね。
聖書を読み解くと自然を読み解くが両方とも「神の書物を読み解く」という感覚なのが現代人のわたくしにはなかなかピンときませんが。
しかしそういった宗教心から科学は進歩することが多々あるのですからおもろいもんです。
なんだか話題がとびまくりますが最近はイスラム文化圏の科学にも興味があります。根っこは一緒だけどやっぱり独特のものがあるんでないかと。

横浜SKは住んでるところとイニシャルなんですよん。
まぁわかると思いますがコウモトです、
ここのコミュでは横浜SKさんとかでなくて本名でかいていただいて平気ですので〜
一般的なイメージ : 科学>工学>技術
英国でのイメージ : Science > Technology > Engineering
米国でのイメージ : Science ≧ Technology
私のもつイメージ : 技術>科学

日本型理科教育:
科学教育(問題解決の能力)+わが国の自然観(自然を愛する心情)→人間と自然に境目のない世界観に基づく「科学」教育
        ↑
西洋の二元論へのアンチテーゼ!
自然を拷問にかけて「真実」を導き出す「科学」の本質との対立する概念を統合!!

ホワイトボードが使いたい・・・!
>かめさん(ってやっぱあのカメさんなんですか・・・)
工学って科学じゃないの!?
まぁscienceがacdemic onlyなものだけなのかによりますが。
科学(自然科学も社会科学も)+技術=工学ってイメージもあります。

大学での評価は科学>工学>技術な感じはしますが
日常では比べられるものではないと思います。

とかいって技術や工学ってのは専門学校でやってもいいかなって思うことはあります。放火大学院とかあれは大学という意味があるのかよくわかりません。
大学の定義によるんだけどやっぱり最初教養次に専門(応用)ってゆうやりかた=
大学(university)では教養、その後専門学校(college)で応用ってやりかた、に憧れます。
やっぱり一般的に理系の人は文科系の教養がないし、
文科系の人は自然科学の教養が足りなすぎだと思うので。
(だからICUはいったんですけど。)

西洋の理科教育に全面的に賛成ではないけれど、
日本型の理科教育もちょっとなぁというのが正直なところです。(自然って愛さなきゃいけないの!?→なんか自然って驚異に思うので。なかなか愛せない。雷とか山とかきれいなものは好きだけどどっかで怖い。)
どちらにしろ現在主流の西洋の考え方を学ばないと西洋型の批判もできないのでそこらへんも学んでいければと。
そしてアウフヘーベンを!

いやー日本型と西洋、そこらへんディスカッションしてみたいですねー
>SKさん
コメント、ありがとうございます。近代化はやはり基本的には明治維新が転換点でしょうね。もちろん、それ以前にも近代化の輸入はあったと思います。たとえば『蘭学事始』などはそうかもしれません。ただ、日本にとって科学はあくまで輸入物であったため、その科学の根本にある思想が抜け落ちてしまったのでしょう。だから、僕の感覚からすると、失礼を承知でいえば、日本の科学は何となく薄っぺらな感じがするのです。SKさんは、一般的に理科系の人は文科系の知識がない、とおっしゃっていますが、日本では最先端の研究をしていても、文科系の知識どころか(科学者には必須だと思われる)「科学哲学」や「科学史」の素養さえない人が多いのではないでしょうか。(僕自身も偉そうなことはいえませんが(汗)) ダーウィンの進化論は、日本では意外とすんなりと受け入れられたといわれています。しかし、当のダーウィンは進化論を発表するにあたって、ひじょうに慎重だったようです。それは進化論の発表によって、彼が「神を殺す」ことになるかもしれなかったからです。ダーウィンは進化論を構想してからというもの病気がちだったそうですが、それは進化論の発表という大きなストレスが原因ではなかったかという説があるくらいです。いまでもアメリカなどでは反進化論の創造説が云々されていますが、そういった科学の思想的な基盤があるからこその反応といえるのではないでしょうか。逆に、日本人からすれば、いまどき創造説だなんて非科学的!とバッサリと切ってしまいがちです。しかし、それは科学の存立基盤にある思想に対して無頓着であることの表れともいえるでしょう。日本人は、その木の根っこがどのようなものかを知らずに、その甘い果実だけを食べているようなものかもしれません。ときには毒リンゴができるかもしれず、そのときにあわてて木を切ってしまってもいけないわけで(いってみれば、かつてオウムの信者に理科系の人が多かったから、非科学どころか、反科学になって、科学全体を否定するようなものかな?)やはり根っこから考えてみる必要があると思うのです。その意味では、非日本的な科学教育を受けていらっしゃると思われるICUの方々(少なくとも「科学史」や「科学哲学」は必修なっでしょう?)には大いに期待したいと思います。「どちらにしろ現在主流の西洋の考え方を学ばないと西洋型の批判もできないのでそこらへんも学んでいければと。 そしてアウフヘーベンを!」という認識は、その表れと僕は理解したいと思います。

それから「自然って愛さなきゃいけないの!?」ってことですが、べつに愛さなくてもいいのではないですか。というか、「愛する」という言葉に問題があると思うのですよ。僕自身はよく使う言葉ですが、自然を「愛する」というよりは、自然に対して「畏敬の念」を抱かせることが大切なんだと思います。もちろん「畏敬の念」⊃「愛する」です。このへんは「自然保護」を考えるときにも、ひじょうに重要なテーマを含んでいると思っています。

>かめさん
お忙しいのにコメントをありがとうございます。
ただ、「私のもつイメージ : 技術>科学」の不等号はどういう意味なんでしょうか? 価値の軽重でしょうか? だとすると、なんとなく功利主義的(あるいはプラグマティズム的)すぎるように感じるのですが・・・どうなんでしょうか?
>てつさま

「>」は,わかりにくい表現でした。価値の大小ではなく集合の大きさとお考えください。「>」は「⊃」,「≧」は「⊇」を使えばよかったのですが,変換を横着してしまいました。

言葉や概念については,国内でも諸説ありますが,流派ごとではわりときちんと整理されています。

>横浜SKさま
繰り返しになりますが,日本語の概念の集合の大きさの関係では,科学⊇工学⊇技術,が一般的です。
欧州では,Science⊃Technology⊃Engineering。
米国では,Science⊇Technology⊇Engineering。

ここでのポイントは,日本語での「工学」は「技術」を集大成し学問化したものという意味で使われることが多い,ということとと,それの訳語とされている,EngineeringやTechnologyと言う単語は国際会議等での欧米人の言葉の使い方をもう一度意訳すると,Scienceは科学技術,Technologyは科学,Engineeringは技,といった風にしないとつじつまが合わないということです。(ややこしい)
たぶんいずれも,単純に1対1で対応させることは,難しく,そのため,ねじれているように見えるのだと思います。

なお,かめの主張は:技術⊇科学,です。

■追伸
「理科」=「科学」+自然を愛する心
「+」以降が,ユニークな点になります。
興味深い議論をしてますねぇ。ちょっと参加が遅れて読むのに苦労しましたw
もう話終わってますかね。

自分も科学史にはとても興味があります。まだいくつか本を読んだり自分で考えたりしている程度なので、一度きちんとした講義を受けてみたいです。どうも「思って学ばざる」の傾向が強くていけません。「すなわち殆し」です。最近は「科学思想史」(著:坂本賢三)を読んでます。熱いですよー。

理科と科学の関係に関しては「理科の再発見」(著:小川正賢)という本を前に読みました。やはり理科の特色は「自然を愛する」ということを重視している点であると書かれていました。個人的にはそういう理科の考え方は好きです。大人ももっと自然を見たほうがいいと思います。僕は人と話をするときに、意識的に「昨日の月はきれいだったよ〜」とか天気の話するように話に月や雲の話を混ぜて、周囲の友人に自然に目を向けてもらうようにしています。「一粒の砂にも世界を見る」とかウイリアム・ブレイクは言ってますが、やはり砂より月の方が綺麗ですよねw
>おむさん
この話題はなかなか尽きないと思いますよ。
いま自分の「こころ」に余裕がないので、書きませんが、いずれまた議論をふっかけるつもりでいます(笑)
ぎゃば。この議論は熱いよね〜終わりが見えることはあるのでしょうか。

本質についてはお酒の席とかでぜひ。

ところで、理科は「自然を愛する」という考えをとりいれてるってのは具体的にはどうゆう感じな教育なんでしょうか。欧米とはどのようにちがうのでしょうか。教科書とか。

わたくしは私学育ち+高2になるまで理科嫌いで(数学は好きだったけど)あんま授業きいてなかったとういのもあって、その実感がないのです。なのでそのへん聞かせていただければと思っております。

「科学=神のつくった世界を読み解く」という考え方は欧米では今も根強いのでしょうか?
また、そこに「自然を愛する」という姿勢はないのでしょうか?
私は結構あると思うんですよね。私の受けてきた理科教育よりは少なくとも。

この自分の実感と「科学と理科」の定義があまり合致しなくて。
あーいってることわかりますでしょうか?文章まじへたですいません。
(サイエンス)ライティングの修行が・・・。
自分も理科ってあんまり好きじゃなかったから(数学は好きだったけど)実感もてないですね。

あと
「科学、神のつくった世界を読み解く…」
とか
「理科、自然を愛する心を…」
とかって、なんか本でも人でも、みんな同じことばっか言い過ぎてて、逆に「本当か!?」って思う。
すごいっすねぇ・・・
このページの文字数は相変わらず・・(((;-д- )=3ハァハァ

理科ね
私、理科好きです!!!

「自然を愛する」っていうより
「自然に親しむ」って感じ

あんまりキレイに言い過ぎると(クサイと)
日本人って照れちゃうからね(笑)

一番身近に感じられる学問だと思いますよ。
>皆様
書きたいことがいっぱいあります。
が、しばらくご猶予をくださいませ。
22日の学会発表というハエを(笑)
アタマの上から追い払ってから、
また書かせてもらいます。
あ〜やっぱりちょっとだけでも書かずにはいられない。

上記で参照した『日本人はなぜ「科学」ではなく「理科」を選んだのか』の巻末資料によると、「小学校学習指導要領」(理科)の「目標」には「自然に親しみ、見通しをもって観察・実験などを行い、問題解決の能力と自然を愛する心情を育てるとともに自然の事物・現象についての理解を図り、科学的な見方や考え方を養う」と書いてあります。中学校や高校の指導要領もほぼ同じことが書かれています。僕としては、ここで問題になると思われるのは、「自然を愛する心情を育てる」ことと「科学的な見方や考え方を養う」ことがはたして本当に両立できるのかということです。現実を見ると、これってけっこう乖離しているように思えるからです。たとえば環境問題などは前者をないがしろにして、後者だけが行き過ぎた結果ともいえます。だからといって、前者だけを強調して、後者を悪者扱いすればすむという話でもありません。いま後者すなわち「科学的な見方や考え方」を悪者扱いみたいに書きましたが、「科学的な見方や考え方」ってそもそも価値中立的なものだろうという反論が可能でしょうね。しかし、「科学的」とは、やはり何らかのかたちで人間が自然を操作することですから、はたして本当に価値中立的といえるかどうかは疑問符が付きそうに思います。一つの例えとしていえば、人間が人間のために「自然」を操作するのは善だとしても、「自然」にとってはいい迷惑かもしれませんからね。それから、ちょっと視点を変えていうと、(教育の視点からいうと)「自然を愛する心情」に共感して理科を好きになる子どもがいる反面、「科学的な見方や考え方」に興味をもって理科が好きになる子どももいるでしょうね。逆にというか、いろいろな組み合わせが考えられるわけですが、前者は好きだけど後者にはついていけなくて、結果的に理科が嫌いになる子どもいるでしょう。もちろん後者は好きなんだけど、前者には関心がない子どももいるはずです。あえて誤解を恐れずに書きますが(もし失礼にあたれば許してほしいのですが)SKさん、おむさん、NEMOさんの各々の理科の好き嫌いもそのへんに起因しているような感じをうけました。実際はどうなのでしょうか?さらにいえば、理科と一概にいっても、生物分野だと前者と後者の相互交流がありそうなのですが、物理分野だとそれがかなり難しいような気がします。そうはいっても、現在の生物学の分子生物学に代表されるように、物理学や化学に還元されていっているので、分子生物学から「自然を愛する心情」を導き出すのはなかなか難しいような感じがします。要するに、「科学」から「ワンダー」を導き出すのは可能でも、そこから「愛」を導き出して「理科」に脱皮させることは可能だろうかとうことです。一応、簡単に問題提起をしてみました。
「自分がなぜ理科を好きでなかったか」という問題はずいぶん考えて来たんですが、いまだによくわかりません。

てつさんの質問に対する答えですが、正直なところ、大学に入るまでは、前者も後者も特に関係なかったと思います。

話せば長くなるのですが、おそらくぼくが科学に惹かれた理由は、宇宙や素粒子などのように、それについて考えることによって日常的な世界観が真正面から破壊される「あの感覚」だけです。「自然」にも「科学的考え」にも特に興味はありませんでした。基本的に人の話を聞かなかったので。あの世界観を揺さぶられ混乱する感覚、あれを追い求めていたのでしょう。そして当時のぼくは、物理と哲学にしかそれを見出せなかっただけだと思います。
追伸、
さいきんサイエンスエッセイの構想を練っていて、「科学的に世界を見ることのデメリット」が具体的に一つわかりました。
つまり「科学的に見ないこと」による非常に大きなベネフィットが見つかったのです。

これは自分の中では結構大きな発見だったので、エッセイにうまく盛り込みたいと思います。
おむおむさんが科学に惹かれた理由って、要するに「センス・オブ・ワンダー」なんでしょうね。同様に哲学にも「センス・オブ・ワンダー」から入門することは可能でしょう。ただ、基本的に「センス・オブ・ワンダー」って「感性」の領域の話のわけです。しかし、少なくとも科学は「理性」の領域に根ざしていると思います。だから、専門的に科学を究めようとすると、どうしても「理性」を働かせる必要が出てきます。そこで、科学から「脱落」していく人が出てくるように思います。ところで、「科学的に見ないこと」のベネフィットには興味があります。それは、やはり「メリット」ではなくて「ベネフィット」なんでしょうか? そうすると、その違いにも興味が湧いてきますね〜。
メリットとベネフィットって違うんですか?
適当に言ってました、すいません。

今日、実験してて一つ科学の定義を思いつきました。
「科学とは、やればわかることをちゃんとやる、ということ」
つまり、あー…ま、いっか、って思わないってことです。
ちょっと気になるもやもやを退治していくってことです。

いや、ずっと気になっていたけどめんどくさくてやってなかったことを、一つやっつけたので…。
話の流れがはやくてあまりついていけなげなコウモトです。

『日本人はなぜ「科学」ではなく「理科」を選んだのか』
についてですが、この日本の方針は私にはあわなかったと思います。
生き物(人間含む)が苦手な私には身近な自然を愛したりということはあまりなかったですね。
大学はいるまでは学校では一人(友達は一桁しかいませんでしたね。)でぼーっと空をみたり、本を読んだり山にいったりするのがすきだったので景観とか自然とか文学的・芸術的な意味では日本の自然を愛してますが。

理科が嫌いだったといいましたが、
小学校のとき科学クラブに属していたりもしました。
理科の内容は興味なかったけど天文・数学・ブツリ・化学には昔から興味があったと思います。
科学館とか通ってたし。

またニュースで物理系、電気系の人気が落ちているというニュースがありました。逆に医学・生物は人気があがっているそうです。
これは日本の理科教育のおかげなのかなと思いました。

科学好き=理科好きではない、
加えて強い相互依存はないと思います。
特に物理学科では理科がきっかけになって専攻するに至った人きいたことないし、理科好き・嫌いどっちもいるので。
あと理科って身近なことにこだわりすぎて、
物理のおもしろさをまったく伝えられていないと思う。
自分の専攻のことなのでついむきになって主張してしまいますが、理科の中の物理学分野の扱いひどすぎる!
抽象的な概念や学問の扱いをもうちょっときちっとしてくれればいいのに。
学問としてのおもしろさと遠すぎではないでしょうか。

オムラさんとかぶりますが、
高校のときは哲学・物理・数学しか勉強してみたいとおもっっわず物理を選びましたが、これには理由があるのですが説明するのは難しいです。
最近は情報学にも学問的興味が向いてきましたがそれも理由を話すとコ一時間くらいかかってしまいそうです。

うーん。
まとまりません。でもこれ書くことで自分の中で少しづつ整理ができればとおもって書いてます。(セルフィッシュだな)

あ、メリットはただの利点だけどベネフィットってあるとなんか利益的な要素が絡みそうに感じます。
で、「科学ってやればわかることをちゃんとやる」ってまじですか?
私はやってみてわからないことをやるってのも科学に入らないとは思わないんですが
思い出した話。

前に研究室のゼミ合宿で高校物理の話になって、その場の全員が高校物理は全っ然駄目だと言っていました。高校で物理が好きだったから物理に来たって人は皆無でした。

助手の先生が一言、
「高校の物理が好きだっていう人の方が気持ち悪いよね。」
一同なっとく。
眠いので長くなってしまいました…

>「科学ってやればわかることをちゃんとやる」ってまじですか?

ノリで書いたのであまり深く考えていませんm(_ _)m
ただ、実際にやればわかると思うけど、試すのがめんどうだな、という問題(例えば有名な落下速度の問題)をとにかく実際にやってみる、ということは、科学において実際重要だな、とあの日に実感したのでなんとなく書いてみたしだいです。

SKさんの最後の行、やってみてわからないこと、というのはどういう意味でしょうか?
「やってみることができないこと」
「やってみたけど結局わからなかったこと」
「やってみないと分かるかどうか自体分からないないこと」

ほんと言うと「科学の定義なんてどうでもいいのでは?」と最近は思っています。言葉というのは概念を入れる箱みたいなものだと個人的にはイメージしていますが、科学に限らず、あらゆる物事は、そんなきちっとした箱に入らないのではと思います。もっと漠然とぼんやり漂ってるものなのではないでしょうか?確かに言葉はとても便利な道具ですが、そこにはめ込んでしまうことで、必ずはみだす部分も生じると思います。そうした部分部分を全部合わせてそのものの本質だとすれば、やはり定義は本質を損ねる危険があるのだと思います。

禅の話で、池に映った月を見るという話があります。これは、上を見れば本物の月があるのに、池ばかり見ているという話です。つまり、本物の月が「科学」であり、池に映った月が言葉で定義された科学です。

PS.
もちろん何らかの便宜のために、定義が必要または有用となる場合はあると思います。

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