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真のキリスト・ニューエルサレムコミュのモーセとは

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天界の秘儀第17巻 6675番 「彼は言った、あなたがへブルの女たちに助産婦の務めを為し、そのものたちが床几(ショウキ)の上にいるのを見る時」。これは教会の記憶知の中へ内なるものから流れ入る真理と善とを識別することを意味していることは以下から明白である。すなわち、「助産婦の務めを為すこと」の意義は自然的なものの中へ内なるものから流れ入ってくる善と真理とを受けることであり、──何故なら自然的なものは流入を受ける限り、それは「助産婦」であるからである。──「へブルの女たち」の意義は教会のものであり、「見ること」の意義は識別することがであり、「床几」の意義は、自然的なものの中に在って、内なるものから流れ入ってくる諸善と諸真理とを受けるものであり、かくて真の記憶知である。なぜなら真の記憶知が(それを)受け入れるからである。ここから、「あなたがへブルの女たちに助産婦の務めを為し、そのものたちが床几(ショウキ)の上にいるのを見る時」により、自然的なものの中に在る教会の記憶知の中へ内なるものから流れ入ってくる真理と善とを識別することが意味されていることが明白である。
古代教会矢印(右)仁慈の教義
第3の状態 6750番「彼女(へブルの女)は彼(モーセ赤子)をパロの娘のもとへ連れてきた。」十節 これは記憶知に対する情愛を意味していることはパロの娘の表象から明白であり、それは宗教であるが、しかしここでは記憶知に対する情愛である。何故なら本節で記されていることは第三の状態であり、この場合「娘」により情愛が意味され、パロにより全般的なせ記憶知が意味され、かくて「パロの娘」により記憶知に対する情愛が意味されるからである。このことはまたその連続した事柄の内意からも明白である、何故ならモーセは律法の神的なものの方面の主を表象しているため、もしパロの娘により前の様に宗教がいみされているなら、彼(モーセ)はパロの娘のもとへ連れてこられて、彼女の息子になるはずはなく、更に記憶知は再生しつつある者たちが先ず学ばねばならいなものであるからである、それは記憶知は理解の事柄に対する面であり、理解は信仰の真理を受容する器官であり、信仰の真理は仁慈の善を受容する器官であるためである。ここから記憶知は人間が再生しつつあるときの最初の面であることを認めることが出来よう。 ⑵記憶知はまた、主がその人間的なものを神的な真理に、または神的な律法になされたとき、主における最初の面であったことは、ホゼヤ書の以下の予言から、すなわち「エジプトから私は私の息子を呼び出した」(十一・一マタイ二・十五)から推論されるように、主が幼子の頃、エジプトへ連れてこられたもうたことにより意味されているのてある。(マタイ二・十三-十四)。「エジプト」により記憶知が意味されていることは再三示したが、しかし記憶知により哲学の記憶知ではなく、教会の記憶知が意味されているのてある。

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