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真のキリスト・ニューエルサレムコミュの説教集8 『み助けへの希望』 『神はわらべの声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで言った「ハガルよ、どうしたのか、恐れてはいけない。神はあそこにいる、わらべの声を聞かれた」』(創世記21・17)

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『天界にいらっしゃる  わたしたちのおとうさま、
  あなたのお名前が     敬われますように、
  あなたの  み国が   やってきますように
  あなたの  み心が  天界で行われているように、
              この地上でも行われますように。
  わたしたちの毎日の食べ物を きょうもわたしたちに 
                お与え下さい。
わたしたちに悪いことをする人を許しますから、わたしたちの悪いことを
許してください。
わたしたちを試練にあわせないで下さい

わたしたちを悪から救ってください。
あなたの み国と み力と み栄えが、いつまでも限りなく続きますように。』    アーメン。

もちろん、祈りの姿や時間それ自身は、外面的なのであり、内面的な意味はありません。祈りそれ自身に愛がなかったら、内的な意味は何もないのです。
ニューエルサレム教会では、祈りについても「役立ち」を教えています。
愛の心を持ってお互いに集まって祈ることを勧めます。  愛なくしては、集まって祈っても意味がありません。

神を愛し、人を愛して祈るのです。
愛があってこそ、全ての中に意味が生まれてきます。 愛こそ全てのはじめであり終わりです。             アーメン。


『み助けへの希望』 K・アスブラント牧師
テーマ聖句『神はわらべの声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで言った「ハガルよ、どうしたのか、恐れてはいけない。神はあそこにいる、わらべの声を聞かれた」』(創世記21・17)

ひとりの女が、小さな男の子を連れて、水を求めて荒野を歩き回ってます。
何と哀れな光景でしょう。
子供は脱水状態で、木の下に横たわります。女は子供の死をまじかに見る事を恐れて、木から少し離れて子供の方に向かって座り、そこで泣きました。それは自分のためではなく、その子のためでした。自分の子は死につつあったのです。母親の方はハガル、その子はイシマエルでした。かれらはアブラハムの妻サラの妬みをかって、テントから追い出されたのでした。

ハガルはエジプトの女で、アブラハムにとっての最初の子を産み、正妻であるサラがうまずめであったことで、軽蔑したのでした。サラはまもなくイサクを生んだのち強気になり、ハガルをテントから追い出すようにアブラハムに要求したのです。
イシマエルとその母を追い出すことは、アブラハムにとって忍びないことでしたが、それは主のご命令でした。サラの子イサクこそ、アブラハムの後継ぎであり、族長になることは、はっきりしていましたし、イサクはイシマエルといっしょに生活は出来ません。イサクこそ、人類の救いになる人の先祖でした。しかしそれと同時に、主はイシマエルを大いなる国民にすると言われました。
アブラハムはあくる朝はやく起きて、パンと水の皮袋をとってハガルに与え、肩に負わせ、その子を連れ去らせたのでした。ハガルはイシマエルを連れて、ベエルシバの荒野を彷徨う身になりました。

それから直に水もなくなり、子供は泣き、母は疲れ切って座り込みました。しかしその時、神の天使はハガルを元気づけ、なぐさめました、『ハガルよ、恐れてはいけない。神は子供の声を聞かれました。立って子供を手に取り上げ、抱きなさい。かれは大いなる国民となるでしょう』と。

ハガルの目があいて、よく見えるようになりました。彼女は水の井戸があるのを見、直に行って皮袋に水をいっぱいにして、子供に飲ませました。神は子供を守って下さったのです。

イシマエルは、わたしたち人間の霊にある遺伝的なものを意味しています。わたしたち人間は、イシマエルと同じ様に、アブラハムである神の家から放逐されました。つまりイシマエルは人間の自然的・理性です。自己中心で、すぐ傲慢になる心を持っています。 それにたいし、イサクは生まれ変わった理性です。 理性が再生したあと、古い理性は放逐されます。

それと同時に、イシマエルは、アブラハムのもとにあっては、成長時における主の理性を示しますが、それは主に結合された霊的教会のことでした。

この霊的教会は、天的教会に比べると、堕落した教会です。 最古代教会はその本来の姿を失って堕落しました。 最古代教会がその天的教会の姿をもっていたら、主は人間になる必要はありません。 ところがこの天的教会が堕落してから、主は完全性においてずっと劣る霊的教会を計画なさいました。
この教会は、わたしたちのニューエルサレム教会も含めて、主が人間になられなくては絶対に救われない教会です。  天的な教会は救われる必要はなく、堕落した霊的教会を救うために、主はこの世に来られました。
主は言われます。
『健康な人には医者はいらない。医者は病人のためです。わたしも義人を救うためにこの世に来たのではなく、罪人が悔い改めて、救われるために来たのです』と。
イシマエルは、霊的教会として霊的に病んでいます。イシマエルにとっては、主イエス・キリストこそ救い主でした。 主は羊の声をご存知です。 羊の群に属さない別の羊でしたが、主にとっては大切な羊だったのです。

ハガルにとってもイシマエルにとっても、救いの望みは失われていません。霊の救いを求めて、得られなかった人は人はいません。 主は神人となり、人々を救おうと、大いなる志を持っておられるのです。救いを求める人が、救われないはずはないのです。 そのことは詩篇や預言者によって何回も予言されています。
『わたしは声を上げて主に求める。  主は聖なる山から、私の声を聞かれる。  私の義の神よ、わたしの声を聞き、私の祈りを聞いてください。  悪をなす者よ、私から離れ去れ。   主は私の泣き叫ぶ声を聞かれる。 主は私の祈りを聞き入れてくださる。  主は祝せられよ。 私の願いを聞かれた。 主こそ、私の力であり、盾である。  わたしの心は主に寄り頼み、私は助けられた。  だからわたしの心は、喜びおどった。  わたしは歌をもって、主をたたえる。』

これは歌であるだけでなく、本当のことなのです。
主からのおん約束であり、助けてくださる保証の〔みことば〕です。

ところが、霊的教会の人間は自分自身に満足しています。何の助けも要らないと思っています。 これは自然的人間の生活の中で見られます。 わたしたちも、人からの助けなど必要ないと、どれほど思うことでしょう。 自分で何でも出来ると思うのです。

ところが実際には、人から助けられて生きているのです。 たびたび自分の欠乏と必要を感じながら、人に助けを求めるのを嫌がりますが、それは人が自分の弱さを見るのを嫌がるからです。 自分が低く見られるのに我慢出来ません。 ですから、万事好調のような印象を与えようとします。 ほんとうは助けが要るのに、強がっているのです。
霊的な生活における決定的な落度とは何かと言うと、主からの助けを拒む心です。 自分のことは何でも自分で出来ると思う心です。 ところが、主により頼まなかったとしたら、失敗はごくあたり前です。 だから、主は、私たちに霊的な挫折と絶望を味あわせます。  それはハガルとイシマエルの旅と同じです。 水を求めて彷徨います。 主はこのようにして、私たちをご自身に近づけようとされます。

主は人が苦しむのを望んでおられるのではありません。絶望にしても挫折にしても、私たちが自ら望んで選んだ事です。そして絶望のはてに、主を見出します。 主からの助けは前から提供されていたのに、わたしたちは自己満足と傲慢からよ、それを受けようとはしませんでした。 イシマエルが追放されたのもそのためです。
ハガルもイシマエルも、わたしたちの堕落した心なのです。イシマエルも同じくハガルと一緒になって、サラの赤ん坊イサクを軽視しました。これは人が神聖なものにたいしてとる態度です。 理性は真理に根差しているように見えますが、主から来る神的な真理に歯向かい、神の真理を疑い、それを茶化します。
人は自分で生きているのではありません。生かされているのです。ただ自分で生きているように見えても、それは見かけに過ぎません。自分のものは何もありません。自分のものだと思うもと錯覚です。 また人間の感覚による証明を、神のお示し以上に要求するのは本末転倒です。 それでありながら、頑固に自分が正しいと言い張ります。 私たちがもし霊的に進歩しないなら、この状態から脱却しなくてはなりません。

アブラハムはハガルに少量のパンと水を与えました。そしてイシマエルと一緒に出て行くように言いました。 アブラハムは、どうしてこんなに少ししか、食べ物を与えなかったのでしょうか。
パンと水は、主が人に与えられる「善と真理」のことです。少量である理由は、それだけしか現在の状態では受け付けないからです。 霊的進歩の最初の状態では、何かいい事をしても、自分でやっていると思うのです。理屈ではすべての真理と善は主のものであると知ってはいても、実生活でそれを承認せず、心から信じていないのです。 だからこそ、主は自分でやってごらんといって、しばらくは放任されます。 とは言え、主は本人の知らないまま、その人を陰で導いておられます。
アブラハムはハガルを追い出したとありますが、霊的教会は自分で主から離れているのです。そして自分で霊の砂漠をさまよいます。そこで永遠の命について、信仰の真理について考えますが、それを自分のもののように思っていますから、あちこちにさまようのです。 教義の理解においても、生活の上でも、あちこちと放浪します。 自分では意識しないながらも、いろいろな種類の情愛に奔弄されます。 一体如何してあちこちに奔弄されるのでしょう。 幼いときの頃から続いている習慣でしょうか。
友人の影響でしょうか。心の奥にある無意識のドロドロが、生活を導いているのです。ここでは生活は、主によって導かれてるのではなく、不安定な気紛れで目的を失っているのです。 現世の人間には、このようなことはどうでもいいと思い、目的がなくても、この世は結構楽しいと思っているようですが、私たちとて自分に満足して生きています。
しかし、ほんとうに生活を改めていきたい人は、信仰の真理が教えていることを真剣に考えます。 すると、かならずパンと水がなくなる時が来るのです。 ここで挫折がやってきます。 危機が訪れます。何をしていいか分からなくなります。主が私に何を要求しておられるのか分からなくなりのです。
ここで理性的なものが、いかに頼りないものか分かってきます。真理も善も何もかも分からなくなります。 絶望したときは、何の感知力もなく横たわるばかりです。 これは、ハガルがイシマエルを木の下に寝かせて絶望し、そこから遠くに離れてしまうのと同じです。 もう息子の死を見たくはありません。 無知の中に放って置かれます。何の真理も分かりません。絶望です。
これは主のお望みではないにしても、そのような状態をお許しになります。役に立つからです。ここで人の自己満足やうぬぼれの心は崩れます。
自分を今まで導いたやり方では救われないことが分かります。 今までは思い込みの光に頼ってきましたが、それが真理の光を覆っていました。思い込みの光にあるとき、本当の真理が分かりません。 思い込みの信仰は、人の記憶にあるもので、人の生活の中で命に同化していません。 この光が消える時、絶望に陥ります。 この光は真理と虚偽を混同し、自分に頼らせます。
霊界では、この光は冬の光です。天界の光が来ると暗闇になる光です。そこに無知が幅をきかせます。 これを「すさみ」といいます。ハガルの姿がそれです。 この絶望とすさみが最高に達した時、主は助けに来られます。
『恐れてはならない。神は子供の声を聞かれた』と。
この世では、ほんの少数の人が絶望と挫折と混乱を経験します。 殆んどの人は霊的な真理や善が取り去られる事には関心がありません。 真理に対する愛がないから、どうでもいいのです。
しかし真理への愛にたいし絶望を感じる人には、助けが与えられます。 ここで思い込みは挫折し、初めて自分では何も出来ず、すべての真理と知恵はと命と力は、主から来ることを知ります。 この状態で、人は自分の中に地獄を経験します。 思い込みは挫折し、うぬぼれは姿を消し、人を軽蔑していた心や、自己満足だった思いは崩れていきます。 それにまた、救われるのは自分独りだといった考えも崩れます。
ここで初めて、すべての善は神よりのもの、しかも主のあわれみによることが分かってきます。 初めて自分の至らなさを心から悟り、主にみ許しを願うようになります。 人は新しい光に照らされます。 主から教えられるのです。
天使はハガルに立ちなさいと言いました。 ハガルが見ると水の井戸がありました。 井戸は主の【みことば】です。 ハガルはその水を汲んでイシマエルに与えました。 人は初めて自発的に主から教わるのです。 これがハカルとイシマエルの希望の物語です。 これはまた、ほんとうに真剣に主のみ助けを求める人の話でする
イシマエルがアブラハムの目には大切であったように、すべての人は、主の目には大切です。私たちがどのような状態にあっても、絶望にあっても挫折にあっても、主は私たちの叫びを聞いてくださるのです。 主は神人としてそれがお出来です。 それがまた詩篇の祈りでもあります。
『わたしは天に昇っても、あなたはそこに居られます。  私が読みに床を設けても、あなたはそこにおられます。  私が曙の翼をかって、海の果てに住んでも、あなたのみ手はその所で私を導き、あなたの右のみ手は私を支えられます。』 (詩篇139・8〜10)

私たちが何処に居ても、主のみ手の届かない所はありません。
主は助けを求めれば、癒しの手を伸ばして下さるのです。
主は判決ではなく、許しをもってこられます。   怒りではなく慈悲です。 罪ではなく、平和です。 なぜなら、主がこの世に来られたのは、世が裁かれるためではなく、世が救われるためです。   アーメン。

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